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一 遭遇一

 

俺は残業が終わった後、仕事のうさを晴らすべく、いつものように会社の後輩たちと駅近くのガード下の居酒屋で軽く一杯をひっかけた。

 

「俺、今日も、一日中、ボーっとしてんじゃねえぞ、と部長に怒鳴られたんだ」

 

「僕なんか、机の前にちゃんと座っているのに、朝から赤ちゃんのように寝そべってんじゃねえぞ、ですよ」

 

「私なんか、資料の整理をしているのに、お前は夕方に杖を突いて散歩をしている老人か。もっと昼間からバリバリと働け、と嫌味たらたらですよ」

 

 三人で互いの傷を酒の肴にして、いつものように軽く一杯のつもりが、胃袋と膀胱が重くなるほど生ビールの空きグラスを重ね、ふと時計を見ると、最終便の地下鉄の発車時間の五分前。慌てて後輩たちと別れて、地下鉄の構内を先ほど入手したアルコールの力を借り、筋肉のエンジンを最大限に回転させて、車両に飛び乗った。俺の背中のすぐ後ろで、扉と扉が、がっちゃんこする音がした。ふう。セーフだ。

 

最終便に乗れた安心感とビールの飲み過ぎと急なダッシュのせいで、顔やわきの下などから、汗が噴き出る。ズボンからハンカチを取り出し、汗を拭きながら、どこかに座る席は空いていないかと車両の中を見回す。ガラ空きだ。いつもなら、俺のような一杯ならぬたくさん飲み過ぎたサラリーマンたちの赤い顔と奇妙な千鳥ダンスで最終便は満杯なはずなのに、今日はどうしたことか、車両には誰も乗っていない。

 

おかしいなあ、と思いながらも、アルコールの海に浸された脳は、それ以上の思考を停止させるとともに、たまにはこうしたこともあるんだろうと、自己納得の解を出した。

 

貸し切り車両か。それなら誰にも文句は言われないぞ。俺は、いつも座席には座れたことがないことから、これまでの分を取り戻そうと、もちろん、取り戻せるはずはないものの、両手を大きく伸ばし、また、両足も大きく広げて、大浴場に一人で浸かっているように座席に寝転んだ。

 

やはり、酒を飲み過ぎたのか、眠たくなってきた。窓に頭をもたれて目をつぶる。車両が動き出す。ガラス越しの振動が心地よい。しばらくすると、半覚半睡の脳に、次はB駅、次はB駅、との案内放送の声が聞こえてきた。まだ、大丈夫。俺が降りるのはまだかなり先の駅だ。

 

車両の振動が止まった。扉が開く音がする。俺は半眼のまま扉を見つめる。そこには人の姿がある。かなり小さい。それも四つん這いだ。なんだ、赤ちゃんか。赤ちゃんが這い這いしながら地下鉄に乗り込んで来た。

 

待てよ。最終便のこんな遅い時間に、何で赤ちゃんが、しかも這い這いしながら地下鉄に乗り込んで来るんだ。

 

俺は、アルコールの海の中に沈みきった大脳を浮かべるため、頭を何回も揺さぶる。おかげで、意識の底に沈んでいた大脳は、ゆったりとだが浮上し始め、海から頭をもたげた。

 

よし、いや、まだ、ぼやっとする。アルコールの濃度は薄まっていない。

 

今日は、ビールばかり飲んで、日本酒やウイスキー、焼酎など、度数が高い酒は飲んでいないはずだが、飲んだ量が多かったのか、それとも、このところの残業が続いており、体が疲れているせいか、アルコールの分解が遅々として進まないのだ。だが、ようやく意識がはっきりしてきた。まぶたも何とか持ち上げて、満眼状態で状況を観察する。

 

あああああっ、だ。やはり、俺はまだ酔っている。

 

俺の網膜には、上半身裸で、紙のおしめをつけた(パンパースだとか、ムーニーだとか、メリーズとか、グーンだとか、ドレミだとか、ウルトラプラスだとか、マミーポコだとか、商品名はあえて言わない。地下鉄の中は、公の場だ。特定の商品名を使えば、そこの会社から利益を供与されていると勘違いされてもいけないし、他の会社からお叱りの電話やメールが届いてもいけないからだ。難しい世の中になったものだ。)赤ちゃんが、一人で、地下鉄の中で、這い這いをしている姿が写し出された。

 

その後に、母親や父親の姿はない。地下鉄の駅の構内にどうやって入れたのだろうか。改札があるだろう。そうか。ほふく前進しながら、自動改札の扉の下をかいくぐってきたにだ。それなら、この赤ん坊は無賃乗車か。不貞な奴だ。警察に突き出してやる。それよりも、地下鉄の職員に言いつけてやる。いや、それよりも、こんな這い這いしかできない赤ん坊を一人にしている親の顔が見てみたい。いつも上司から怒られてばかりだから、その鬱憤をぶつけてやる。

 

地下鉄とプラットホームの間にたまたま段差や隙間がなかったからよかったものの、へたをすれば、線路に落ちて、脳内座礁や骨折などの大けがをするところだったろう。そして。もし、車両が動き出せば、車輪の下で、この世に別れを告げ、来世での生まれ変わりを願うことになっていたかもしれないはずだ。 

 

 俺が一人で心配をしている間にも、赤ちゃんは這い這いをしながら俺の方に近づいてくる。目が見えているのか、それとも見えていないのか。ひょっとしたら、この赤ちゃんは、姿は赤ちゃんだが、実は、ある薬を飲んで、体は赤ちゃんだが、頭脳は明晰な高校生、いや社会人、探偵または諜報員なのかもしれないぞ。その諜報員が、国家機密で、非常事態に備えて軍事訓練を行っているのだ。こんなことを勝手に想像する俺の頭もまさに非常事態だ。

 

 赤ちゃんは俺の想像を通り越し、目の前を這い這いしながら通り過ぎた。俺はうつろな目で赤ちゃんの姿を追う。やがて、地下鉄の車両の扉が閉まった。出発のベルが鳴る。車両はゆっくりと動き出した。今、この車両の中には俺と赤ちゃんしか乗車していない。

 

 赤ちゃんの動きが止まった。俺の目の前の一メートル先だ。赤ちゃんが振り返った。見返り赤ちゃんだ。赤ちゃんが笑っている。よく考えれば、赤ちゃんは笑っているか、泣いているか、眠っているかの三つだ。今、その一つの表現方法を実行している。

 

俺と目があった。片目をつぶった。ウインクか。それなら、俺に合図をしているのか。何の合図だ。それとも、ただ単に眼にごみが入って、偶然、眼をつぶったのか。その謎が解けないまま。赤ちゃんは俺に背中を見せながら離れていく。

 

敵か味方かわからない相手に背中を見せるのは、あまりにも不用心すぎる。やはり、赤ちゃんは諜報機関員ではない。それとも、俺に背中を見せることで、敵意がないことを示しているのか。俺が何らかの行動に出るのを待っているのか。俺は身動きせずに、緩慢な赤ちゃんの動きをずっと目で追った。

 

 

 

「次はBS駅。次はBS駅」

 

 車掌が次に停まる駅を放送している。その前に、赤ちゃんの保護者の探せよと突っ込みたくなる。

 

ガタン。急にブレーキがかかった。慣性の法則だ。前に進んでいたエネルギーはいきなりストップをかけられ、行き場のないエネルギーは後方に爆発する。吊革が揺れる。俺は長椅子に倒れた。這い這いの赤ちゃんは腕と膝がぶにゅっとつぶれて、床に大の字になった。ひょっとしたら、赤ちゃんの名前は大ちゃんかもしれない。ばうばうか、ぶわぶわしかしゃべれないので、ささやかな自己主張として、体で自分の名を表現しているのだ。

 

 俺は、試しに「大ちゃん」と呼んでみる。だが、返事はない。しかし、赤ちゃんは頬を床にゆけたまま、俺の方を見てにやっと笑った。名前が正しかったのか、間違えたのか、わからない。

 

それにしても、運転が荒い運転手だな。大人の俺が転ぶのは仕方がないとしても、年葉もいかない赤ちゃんを転ばすなんて、許さないぞ。駅に到着したら、あなたの声をお聞かせくださいというアンケートボックスに向って大声で叫んでやる。

 

俺は長椅子から立ち上がると、大の字に伏せた赤ちゃんを抱き起こそうとしたが、赤ちゃんは持ち上がらない。アロンかメロンか知らないけれど、強力な接着剤で引っ着いたかのように大の字ままだ。確かに、口からは涎が垂れている。この涎が瞬間接着剤として作用しているのかもしれない。恐るべき赤ちゃん。恐るべき唾液。だが、本当の恐るべきはこの赤ちゃんだけではなかった。

 

いいいいいっ、だ。

 

車両の扉から乗り込んできたのは、またしても赤ちゃんだった。白い産着を着て、這い這いしながら俺とは反対の方向に進んで行く。赤ちゃんのお尻がいやに揺れる。ひょっとしたら女の子か。そのお尻を目で追う。いかん。いかん。俺は一体、何を考えているんだ。俺は幼児愛好者ではない。純粋に、小さきものが可愛いだけだ。とにかく、俺の妄想が、この非現実的な現実を起こさせているのだ。

 

俺は妄想を止めるべく、車両のガラス窓に頭を打ち続ける。しっかりしろ。目を覚ませ。いくら飲み過ぎたとは言え、俺の深層心理が幼児愛好だなんて認めるわけにはいかない。

 

それにも拘わらず、引き続き、赤ちゃんが入ってくる。赤ちゃんは複数形となる。赤ちゃんたちは、ほふく姿のまま頭をもたげ、地下鉄の中を一瞥すると、俺の方に近づいてきたり、長椅子の上に這いあがったり、それぞれ思い思いの場所に進む。その数、一、十、百、千、馬鹿な。いくら地下鉄の車両が広くても、いくら赤ちゃんが小さくても、千人もの数が一つの車両に入れるわけはない。

 

つまり、俺が言いたいのは、それぐらいたくさんの人数の赤ちゃんが車両に入って来たのだ。それも赤ちゃんだけだ。親や祖父母や親せきなど、赤ちゃんの世話をするはずの保護者が誰一人として入って来ない。何故、何故なんだ。

 

 俺は赤ちゃんたちに取り囲まれた。俺の座っている長椅子の両側にも、足元にも、中には、どういう訳か、吊革にぶらさがって、吊り輪のまねごとをしている赤ちゃんもいる。お前ら、ほんまに、赤ちゃんか。

 

 赤ちゃん専用列車になったこの車両。それを知ってか知らずか

 

「後方の車両は、赤ちゃん専用車両となっております。赤ちゃん以外のお客様は速やかに前方の車両への移動をお願いします。赤ちゃん以外の方が赤ちゃん車両に乗ったままですと、あらぬ罪を被せさせていただきます。乗客の皆様の御理解と御協力をお願いします」と車内アナウンスが流れた。

 

 そんなこと知らないぞ。俺が乗った時には、赤ちゃん専用列車だなんて放送はされていなかったはずだ。それが、急に、赤ちゃんたちがたくさん入って来て、座席が一杯になったことから、後付けで、赤ちゃん専用車両にしただけじゃないのか。それなのに、なんで、俺があらぬ罪を被らないといけないんだ。それに、あらぬ罪とは何だ。

 

 とにかく、俺の周りは赤ちゃんばかりだ。それも、這い這いしかできない赤ちゃんだ。こんな夜中の最終地下鉄の車両に、なんで、赤ちゃんが、しかも満員でラッシュ状態なんだ。この赤ちゃんたちは、ちゃんと乗車券を持っているのか。それとも、年齢制限で料金が無料なのか。

 

俺はちゃんと定期券を持っているぞ。もちろん、会社の通勤費で購入した定期券だが。無料の人間と有料の人間が同じ待遇だなんて、どうしても、差別としか言いようがない。それも、この車両から移動しろとの放送だ。文句を言ってやるのと、あらぬ罪を被せられないために、俺は立ち上がろうとした。だが、両脇から赤ちゃんが倒れ掛かってくるし、床には赤ちゃんたちが寝そべったり、這い這いしたりしているので、足の踏み場も、進み場もない。移動なんて無理だ。

 

俺はあきらめて元の場所に座り直した。それを待っていたかのように、赤ちゃんたちが俺の両足から這い上ってきたり、膝の上や肩の上、頭の上に乗ったりするなど、体にまとわりついてくる。これは、ゾンビの襲来よりも恐ろしい現象だ。なぜなら相手は赤ちゃん。いくら俺でも、赤ちゃんたちを振り払ったり、突き落としたりなど、乱暴ができないからだ。

 

俺は赤ちゃんたちに山のように埋め尽くされて、呼吸困難の状況に陥ろうとしていた。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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