閉じる


紫色のブルレスケ #6

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紫色のブルレスケ

散文

Burlesque màu tím

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

Oδίπoυς τύραννoς

オイディプス王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降った。

まどろみのなかに、眼を閉じたまま、それでも雨が降っていることをすでに知っていたのはその音がずっと聴こえつづけていたからだった。

知っている。聴こえていた。耳を澄ますまでもなく、手を伸ばせばふれられる空間のただ中に物理的な事実をは裏切って、耳元の至近距離に響いた雑然とするばかりのそれら、無数の音のざわめきをただ、聴いた。

息を吐く。寝醒めの皮膚が汗ばんでいることには気付いていた。壁の向こうで、降る雨がすべてのものにふれていた。広い部屋の窓際に置かれたベッドのうえに身を横たえたまま、耳はその窓の向こう、庭のあらゆる物に打ち付けるざわめき立った、かすかでやさしい物音を聴いているしかない。

明け方の、微細な冷気を含んだ大気の温度、背の下のシーツの、あるいはじかにふれるショートパンツの、それらさまざまな温度に皮膚が倦んだ。傍らのベッドに自分そっくりの大柄な体躯のダットはいない。

父親。彼がどこかに明け方早く出て行くのはいつものことだった。フエはまだ起こしにこない。ハンは炊事場でお湯を沸かしているに違いない。雨に濡れなければならない。外に出て行かなければならないから。仕事はない。

膨大な時間だけが残されているので、いずれにしてもどこかで何かをしてやり過ごさなければならない。雨の中で。

旧正月、テト、tết、それに至るまでの数ヶ月間、いつでもダナン市の大気は雨を知る。濡れる。あらゆるものが。時間は、雨が降っている時間と、雨がすこしも堕ちはしなかった時間とを経験するにすぎない。

眼を開くと、部屋の、ただたかい天井の薄い緑色のペンキが剥げかかった、その淡い色彩が朝の白んだ光線に経年を曝した。

ひとりで息遣い、重く、冷気の中にさえかすかに汗ばんでいた皮膚に、執拗な鈍重さが感じられた。いつもの朝の通過儀礼にすぎないにぶい吐き気が、喉の奥に巣食った。

18歳のアンは立ち上がってシャワーを浴びた。

部屋の外に出ると、ふたつめの居間に、スーツを着込んだフエがソファに埋ずもれるように座っていて、妹の Hồng ホンはその膝に抱かれていた。ホンは14歳だったから、その華奢とはいえ十分に大人びた身体におしつぶされながら、彼女を無理やり抱きかかえたフエに、眼をそらさないではいられない、心の隙間に入り込むような、かすかな倒錯がアンには感じられた。フエは美しかった。

いつでもそうだった。物心付いたときからいつでも、目の前のそれを美しいと断言しなければならなくなる、そんな留保ない強制を、アンにフエは押し付けていた。その何気ない仕草のひとつふたつさえもが。

人一人だけ出入りできる程度にしか開けられていないシャッターを、ざらついた音を立ててアンはいっぱいに開ききって、彼は聴く。その皮膚を掻き毟るような騒音を。

雨よ。

フエが言った。

Em...

振り返った眼差しの先に、

Mưa rơi

そしてホンは身を折り曲げてフエの身体にしがみつき、頬をフエの首筋にうずめた。アンを見つめながら。

あなたのものじゃない。

Không phải là của Anh

甘えっ子のホンはいつでもアンを捉えた眼差しの中に、そうつぶやく。フエにまとわり付いているときには。

タオやフンにまとわりつくときにも、ダットに、ハンに、そして自分にまとわり付くときにも、ホンの唐突に振り向き見た眼差しは、それが捉えただれかにかならずつぶやく。

Không phải là

あなたのものじゃないわ。

của anh

不意に敵意さえ感じさせて、無言のままに。

フエの眼差しに、

知ってる?

悲しいほどに追い詰められた気配があった。

この人は

雨の中に

あなたのものじゃない

ホンを学校に連れて行って、彼女は町の中心部の

Không phải là của chị

彼女の勤める貿易会社に、

ご存知だった?

濡れながら出勤しなければならないという、その当たり前の事実に?

知ってた?

いつでも、と、アンは想った。フエは追い詰められた眼差しで、なにもかにもをその眼に見い出す。

家族とのなにかのパーティに、彼女の眼の前に並べられた料理を、例えば屠殺され、蒸された鶏肉を口にしたときにも。不意にだれかに声を掛けられたクイたちの氷屋の前で、その、声のしたほうを振り返ったときにも。ホンを抱き締めて、あるいは同じ年のマイにしなだれかかられて、鼻に短い嬌声を立てたときにも。自分の腕の中に、その体を完全に脱力させて仕舞って、その肌の温度をじかに曝しながら力なく、倦んだ眼差しを差し向けたときにも。いつもの夜の、十二時を回った昏い光線の中にアンの眼差しに曝された、それ。追い詰められた

知ってる?

フエの

あなたは

孤立した眼差し。

なにもかもが

とりたててなにも

いつも

話しかけないままに、裏庭に

わたしを

バイクを出すと、

容赦なく

大気の湿気が一気に

絶望させていた

アンの

そのことを

肌にふれた。フエが廻してくれた金で、すでに大型免許は取った。旅行会社のバスのドライバーにでも納まるつもりだった。都市は急激に開発がされて、ほとんど原形をとどめないままに、商業施設をいたることころに濫立し始めていた。

外国人が増えた。中国人と韓国人が。橋も増えた。ハン川にはほんの数年前までただ一本の細い橋しか掛けられていなかったのに、いまやいくつもの豪奢な橋が建設され始めていた。必要以上の広さを持った主幹道路が町を分断し、川沿いの土地を持っている人間たちは、それを売りさばくかそこにホテルを建設するかした。

フエやダットたちと、フンやハーやタオや、その結婚相手の男たちとの関係は完全に破綻していた。土地の売却問題と、その所有権の分配についての係争のために。

問題が血なまぐさくならないままに済まされているのは、ただ、所有権者のハンがなにも言い出さないからにすぎない。売るとも、売らないとも何も。分配するとも、分配しないとも何も。急騰していくばかりの土地の値段が、いずれにしてもいつか日常を破壊させて仕舞うことはもはやだれの目にも明白だった。あるいは、すでに破壊されてさえいた。フエは、もはやハーやフンと口を聴くことさえ出来なかった。フエも、会話など望んでさえいなかった。フンが、フエをあばずれの詐欺師だと吹聴して歩いていることは知っていた。

あるいは、それは事実だった。自分を愛してもいないのに、そして、その正統な権限さえなにもありはしないのに、フエは自分に彼女のすべてを与えたのだから。フエは、ただ彼のものだった。アンを、まるで支配者のように拘束して仕舞ったのは、ひとえにフエの責任だった。フエが、自分のすべてを奪って、自分のものにして、喰い散らして仕舞った実感が、アンにはあった。それは彼にとって、否定しようのない事実だった。

雨は、ほんの穏かなものにすぎなかった。

Mưa...

雨よ、と

Em

もういちどフエがつぶやく、その声に、歎いて縋るような色彩がある。

...không

いや

Không sao

アンはつぶやき、合羽も着ないで全身を雨に曝し、そのままバイクを走らせていくアンをフエは見送った。腕の中に、首筋にホンの息遣いがふれていた。チャンは還ってこない。ずっと、病院に入院しているから。自分で、自分の両目を抉り取って仕舞ったチャンは。Mai マイ、その四歳下の、ヴァンが生んだ妹がその日の朝、自分の寝室に入り込んで自分をゆすり起こしたのに、17歳のチャンは不機嫌なままに目醒めた。息をながく吐いて、どうしたの?

そう、問いかけもしないまま見つめた眼差しの先に、同じように、なにも言葉など発しはしないマイの眼差しが、何の表情もなく自分を見つめ続けているのにチャンは戸惑う。こんなはずではない、という無意味な実感があった。なにかが間違っている気がした。

いずれにしてもいつでも無口で、何に関しても嫌悪を焚きつけてやまないヴァンのせいで、チャンをいつか、ふれてはならない禁忌のようなものとして恐れ、決して近づこうとはしなくなったマイは、チャンの前ではいよいよ無口になるしかなかった。見つめ合った。

チャンはなにも言わず、マイはなにも言わない。明確にはなにも考えられもしないままにチャンはその、華奢で、褐色の肌を曝した、眼の前に居場所をなくした小穢い少女を見つめていた。だれもが、マイを観音仏の生まれ変わりに違いないフエに似ていると言った。僧侶の Lợi ロイにこの上なくも愛されて、ヴァンにも、クイにも、チャンの家族のものたちからも愛されて惜しまれないでいるフエは、いつでも自分勝手にうちに乗り込んできてマイの姉であるかのように振舞ったし、そして、だれもがあの美しく清楚で理知的なフエとの類似を、好んでマイに探して喜んだ。頬のほくろの位置が同じであることさえ、何かの兆しだった。探せば探すほどに、マイはフエに似ていた。何もかもが、たとえばその声の、透き通ったグラスとグラスをかすかに打ち合わせて鳴らしてみたような、そんな高く浮いた音声さえもが。

不意に、泣き崩れるようにマイは表情を崩した。チャンは、自分が残酷な虐待を今の今までマイにくだしつづけていた錯覚に苛まれた。

その罪もない身体に、理不尽に下されつづけた凄惨な苦痛に、終に耐えられなくなってその顔をだけ崩して仕舞ったとしか想えないけなげなマイは、チャンの傍らにひざまづいて、背を、まるでいつもフエがそうするように、すっとのばしてかすかに顔をかたむけたままに、そして、チャンの唇はいちどだけかすかに開いて、閉じた。

マイはあきらかに救いを求めていた。チャンは、彼女が何を言いたいのか、すでにわかっていた気がした。チャンはマイを立たせると、有無を言わせずそのショート・パンツを脱がした。マイは抗わなかった。指先にふれた。

ふれたかったわけではなかった。ふれて仕舞っただけだった。ふれて仕舞った瞬間に、その自分のしでかした行為そのものを後悔した。その瞬間、チャンは邪気もなく声を立てて笑った。学校に行って、フエに逢ったとき、妹が生理になった、と、声をひそめて耳打ちした。それで?、と、問い返したフエに、それ以上は答えようがなく、事実、言いたいことはそれだけにすぎず、そもそも、かならずしもそれを言いたかったわけでさえなかった。ただ、フエにくらいは伝えて仕舞わないでおけない、昏い悲しみのような、痛みに近い感情が、チャンにちいさな、無数のひだをその心に作っていた。

チャンは首を振った。あるいは、彼女は微笑んだ。ややあって、不意に、チャンは鼻でだけ笑い声を立てた。遅くない?

フエが言った。あの子、何歳?チャンは、フエが、無作法なまでにまとわり付いて離れようとしないマイを、かならずしも良くは想っていないことなど知っていた。見れば誰の目にも明らかだった。事実、フエはマイが疎ましかった。マイの押し付けがましい、自分が愛されるべき存在であることを確信しきっているくせに、それを改めてなんども確認しないではいられない、無様な自己憐憫を感じさせる愛情表現に、フエは見苦しい穢らしさをしか感じなかった。フエの指先が、チャンのアオヤイの襟をなぜた。

そっと、不意にふれて仕舞ったのとかわらない気配のうちに。それは明らかな愛撫だった。チャンは、横に座ったフエの体の匂いを嗅いだ。学校の木立。

樹木が淡い翳りを投げて、その下の白いベンチ。とりたてて風はない。目の前を何人もの学生たちが通り過ぎ、立ち止まって話し込み、はしゃぎ、サッカーボールを蹴り、声が沸く。喚声のような、嬌声のような。渦をなして、連なりあわずに混濁し、響き、もうすぐ、あと6分くらいで休憩時間は終る。

午前中だけの学校の、午前の深い時間、木立の下に入ると、夏であってもすこしだけ、明らかに大気は温度を堕す。男の学生も、女の学生も、ときにすれ違いざまにふたりに眼差しを投げた。清楚で、成績も優秀な、だれからも特別扱いされてしかるべき事を周囲も本人も自覚しているその褐色の華奢な少女が、彼女にそっくりなその親友と、ある美しく色づいた関係であることは、だれもがすでに知っていた。彼女たちの仕草の一つ一つが、明らかに人々にそれを悟らせて、それでも、それが禁忌や穢らしい倒錯で在り獲ることはなかった。

なぜなら、それは、美しいフエと、美しくあってしかるべきその分身との行為なのだから。だから、それは

だれよりも美しく在りなさい、と、いつかわたしは言った

棘を孕んだ、

あなたは

為すすべもなく赦されなければならない

この世界に

美しい心の

生まれたのだから

高貴な

花弁に戯れる

ふれあいなのだ。眼の前を、

蜂の針にさえも

けばけばしい紅色の色彩に、極彩色の模様を撒き散らしたアオヤイを着た女教師が、足早に通りすぎて行った。チャンは、なぜフエの肌に、無数の引っ掻き傷が絶えないのか、その理由を知っている。アンが毎晩フエを穢して仕舞うからだ。その、大柄で無骨な体躯がしがみついて掻き毟り、蹂躙して穢しはてる毎晩の暴力を、それでも受け止めてやるフエの献身を、チャンは哀れんだが、眼差しにマイがふれた瞬間に憎しみが発生するから、チャンはマイをその視界に入れようとはしない。同じように憎みながらも、一応は彼女をその、何を見ても愛おしげな目で追ってみさえするフエと同じような素振りは、なぜか物理的にできない。

逃げ出すように、学校から帰るとチャンは、フエの家に歩いて行く。アオヤイを着替えもせずに、カバンだけ部屋において出て行くチャンに、十三歳のマイは背後から視線を投げた。手に水をいっぱいに注いだコップを持ったままに、その、豊満な母親に似た胸元に押し付けるように。

フエの家の庭にトゥイがいた。チャンはトゥイから眼をそらした。フエが言った。いつか、トゥイとチャンは同じだと。その言葉。無造作な、何の意図もなく、ただ、素直な、そしてトゥイも、チャンも、わたしがしてあげたときに、同じような眼差しをする、と、いとしいフエの声。その記憶。その絶望的な、目に映るなにもかにもに絶望しているような眼差しは、まったく同じものだ。アンさえも。ね?と、フエは、耳元にささやきたてて早口に、または、声を立てて笑った。チャンは、トゥイに対して悪意があるわけでも、嫌悪感が在るわけでもなかった。チャンは、トゥイを留保なく憎んだ。

背後からしがみついたその隙に、至近距離の頬に鼻をつけたチャンはフエの匂いを嗅いだ。フエの体臭が、かならずしも心地の良いものではないことは十分知っている。むしろ、かすかな醗酵のある古い肉のような匂いがした。その、かすかに穢れを含んだ臭気を、ためらいながらチャンはいつも吸い込んだ。なにか、あやうい臭気だった。庭に、ブーゲンビリアが咲き乱れ、地面いっぱいに散っていた。肥満したタオがひとりでいた。庭の掃除をしながら直射日光に差されて、見事にまるまるとした体を、悪い膝を引きずるようにのたうたせながらタオは庭を横切った。彼女が振り向いて、チャンに笑顔をくれた。ふたつめの居間にアンがいた。アンはただ、世慣れないおびえた表情を曝して、挨拶もせずにチャンに小さくうなづいただけだった。

ソファにすわったアンは、上半身裸のままにショートパンツだけを穿いて、一瞬、恥じて体を隠そうとした。その、筋肉と贅肉で厚みをもった胸を。獣じみた、その筋骨の隆起した大柄な体躯で、毎晩フエを苛んで仕舞うのに。そう想って、チャンは、

あなたは

その健康的でたくましい存在を

人間存在の

無残で

恥辱そのものだ

見苦しいものに感じ、不意に、自分が彼を眼差しに捉えたままに、何の表情も曝してはいなかったことに気付いた。あきらかに、チャンのぶしつけな眼差しにアンは戸惑っていた。シャワー・ルームから、濡れた髪をそのまま曝しながら、フエがその体を顕した。ホンが、戯れるようにバスタオルを巻いて、フエの背後に抱きついたまま、嬌声を上げた。チャンに気づいた瞬間に、ホンは恥じらいと戸惑いに一瞬だけそのおうとつもない肢体を硬直させて、やがては声を立てて笑った。確かに、

あら

フンは毎日、

あなた

日中市場に働きに

そこにいらしいたの?

出ていたし、この、

あら

あまりにも広い家屋に

あなた

そとから人の目が

そこに

入り込むことは

いらっしゃいましたの?

なかった。ここは、

おっしゃってくださればよろしかったのに

前庭もなくすぐに主幹道路にふれるチャンのうちではなかった。チャンは、ためらいながらフエに流し目をくれて、誘われるままにフエの寝室に入った。ホンはチャンにどこも似てはいなかった。チャンの眼差しの中に、フエはあきらかに父親似で、アンは母親似だった。父親と母親の面影をあわせて一緒くたにしたホンは、結局はフエにもアンにも似てはいなかった。締め切られないドアの隙間からかすかな風が入って、ドアはときに揺れた。

フエは、まともに拭き取ってはいない体を曝しながらひざまづいて、12歳のホンの体の水滴を、バスタオルでわざともみくちゃにしてやって戯れ、ふたり分の喚声を耳にしながら拭き取ってやった。ホンは白い。フエの弟に、そして父親のダットに似て、日の光にいままで一度もふれたことなどないかのように。その色彩の前で、どこか奴隷じみて見える褐色のフエが、その前にひざまづいたままそれを責めさいなんで、好き放題にもてあそぶように、ほしいがままにホンの幼い身体に戯れていた。ホンは、すべてを姉にゆだねていて、あざやかにすねた表情を曝して、拭き取られたばかりの皮膚を、濡れたままのフエの皮膚に抱きついてふたたび濡らした。

ひさしぶりに髪を洗ってやったのだ、と。そうフエは言った。自分では洗おうとしないから。ベッドに横たわったチャンはアオヤイを乱して、枕に顔を半分うずめながら片目に、濡れたままの、横向きに立ったフエを見つめた。ひざまづいて、じゃれつくホンの腹部に、不意に身を曲げて口付け、その曲線を見る。フエはホンに戯れた。フエに似た、華奢な身体。マイが生理を迎えたことは、家族には言わなかった。自分と同じようになっていくのが、チャンには許せなかった。内気でひとりが好きなくせに、周囲に媚びへつらわないではいられないマイのたたずまいのすべてが、チャンには、できそこなった自分を見ているような気がした。

マイが感じていたに違いない、自分が感じるのと同じかも知れない腹部の鈍重な重さと苦痛が、自分の腹部にも蘇る気がした。狭い室内に無理やりいれられた扇風機のスイッチを回すと、旧式のかたつくノイズとともに、巻き上げられた蚊帳が白く、ふるえながら空間にゆれた。白く幼い身体をかるく抱き締めたフエの指先が、ホンのその、濡れて重くなった髪の毛を掻き上げて、光沢はにぶく鮮明に乱れる。フエは知っていた。もうすぐ、この子は死んで仕舞う。ハンもろとも。遁れようもない認識、そして、未来が見えるハン自身ならもっとあざやかに知っているに違いないので、フエはハンにも、ホンにも、アンにも、チャンにも、だれにも秘密にしていた。

なにもない、色彩さえもない空間に、うすらべったい翳りがただ、ぐちゃぐちゃになって存在していた。言葉もなければ気配もないままに、それらは存在していて、それ、ホン。

ハンが立ちつくして、その翳りを指さしていた。その拡がった翳を踏みつけて仕舞いながら。

見たこともない、顔も体もよじれた、溶かされたチーズのような男の翳。色彩のないハン。これ、と、色彩のない形態はただそれをだけ指さして、フエは声を立てそうになった。悲鳴か、笑い声か、いずれにしても、短い声。いつか、その視界には決して姿をは顕そうとはしない自分自身が、ホンを踏んづけて仕舞っていることには気付いていたから。

みだらなまでに、ホンの翳は空間に拡がっていたのだった。ふしだらに、ただ、無防備に拡がりつづけていて、フエは眼をそらすことさえ出来なかった。どこを向いたとしても、眼差しがその、無際限に拡がったハンとホンとを捉えて仕舞うに違いないことをは、フエはすでに気付いていた。

あまりにも残酷な自分の、いま現在の宿命を呪った。あなたは私を殺して仕舞う、とハンは言った。それに、留保なく赦しを与えたような、絶望的な色彩を眼差しに曝して。やさしいハン。佛様の生まれ変わりに違いないハン。

想い出すまでもなく知っている。いつかのハンを殺して仕舞ったときの、その転生のときのなかのいつかにその首を締め付けた手の触感さえ、フエは忘れることは出来ないのだった。ゆがんだ顔と身体が、でたらめに空いた穴からでたらめに、空間の低いとこに弧を描いて旋回した後、左の方に流れていく。

水平に。

流れるその速度など、もはや停止しているのと変わりはしない、どうしようもない遅さで、ゆっくりと。そっちの方にだけ、重力が、あるいは引力が存在していたかのように。そんなものなど、なにも存在してなどいないのに。

ただ、そのあふれ出した鮮血の群れが勝手に信じて仕舞ったにすぎないのに。

ホンが、彼女を学校に送っていくために市場から帰ってきたハンに、庭先からあのか細い、弱々しい声で罵られたとき、ホンはあわてて飛び出して自分の部屋に駆け込んだ。

ホンは服を着る。フエは、自分を抱きしめたチャンの体温を感じた。アオヤイ越しのそれは、執拗に、それにふれた自分の体の内側から発熱しているように感じられて、フエは彼女がが生きていることに気付く。たしかに、彼女は発熱しながら生きている。自分の体温と、汗と、生き物の体臭を撒き散らしながら、生きてある物のふしだらさを窮めて空間にその存在を穿つ。

ベッドにあお向けたフエの乱れた髪の毛の、乾かないままの髪の毛の匂いを嗅ぐ。

しがみついて、皮膚に残った夥しい水滴の群れを、チャンは自分のアオヤイに移した。赦した。フエは、チャンを赦し、何度目かに、なんども、そして、十六歳のホンに英語を教えてやって、十二時を回ったことに気付けば、もう終りにしようと、フエは言った。ホンはそれを許さなかった。これ見よがしにわがままを言い、なじり、甘え、もたれかかって自分の髪の毛の匂いをいっぱいに嗅がせる。

フエは為すすべもなく頬に口付けた。あきらかな幼さがその頬に、まだかろうじて残っていた。二十歳をこえた自分のそれが、すでに失って仕舞ったもの。ただただすべすべとしているばかりで、その

何様のつもりなの?

臭気立ったでたらめな

わたしにこんなにも愛されて仕舞うなんて、あなた

やわらかさ、自分が

何様のつもりなの?

決定的に失って仕舞っているもの。一時を回って、フエは寝室に入った。照明をつけた瞬間に、ベッドの上にうつぶせていたアンに声を立てそうになった。アンは眠ってはいなかった。アンはかたくなにフエに気付かなかった振りをし通した。消された照明の中に、服も脱がないで、フエはアンの傍らに身を寄せた。いつのまにか、眠って仕舞ったあとで、まどろみながら目醒める。皮膚の表面に痛みがある。小さな家禽に引っかかれたような、無数の、しがみついて縋ったアンがいつかたてた爪の痕。癒えない、それらの傷痕。直りかけては、その上からすぐに引っかかれて新たに傷付き、傷は開き、アンが、その痛みを与えている長い時間のいつかに、フエは自分が眠り堕ちて仕舞ったことに気付いた。

寝ていたことも、どれだけ寝ていたのかも、その記憶も実感もなにもないままに。傍らのアンが、自分でしていることには、気付いていた。その物音と気配で。

そうでなければ、たしかに、おかしいはずだった。自分以外に女など知らなかった。そして、一度も想いなど遂げられはしなかった。そうなら、そうするしかないことなど、考えて見れば当り前だった。フエが身をそっと起こしても、アンはそれをやめなかった。両のまぶたをやわらかく閉じて、顔を壁に背けたままに、アンは自分の行為を曝していた。フエは、

見て欲しい?

曝されたその姿を、

あなたは

腕を突いて身をまげて、アンの

わたしに

胸元に

あなたが心から微笑むところを

髪の毛をしなだれかからせて仕舞いながら、見守った。ただ、残酷な気がした。アンが単に残酷な目にあっているだけでもなく、アンが残酷なことをしているだけでもなくて。目に映るものすべてが

わたしはいつか星になる。そして、たぶんあなたを

残酷で、

照らすだろう、と、そんな

自分自身がすでに

言葉など必要ですか?

残酷だった。すぐにアンは想いを達して、その身をベッドに投げ出したままフエの眼差しに、それを曝した。アンは息遣っていて、そして、それ以外に彼の身体は動かなかった。アンの腹部を穢したそれに、フエは

見て欲しい?

音もなく伸ばした指先を

あなたは

ふれた。どうして、

わたしに

何もかもが

あなたが心から流した涙のそのきらめきが

悲しく、

きらめいて

いたたまれずに、

散っていくのを

どうしようもないほどにこれほどまでに切実なのか、フエには理解できなかった。指先の、ユイのそれと変わり映えのない匂いを確認した後で、フエはアンに寄り添って眼を閉じた。それ以外にしてやれることなどない気がした。すでに、

愛し合うふたりに言葉など必要ないというのが事実なら

自分自身が

言葉のその存在根拠は

アンに壊されて仕舞った

破壊行為における利便性にすぎない

残骸にすぎなかったことを、閉じられた眼差しのうちにフエは確認した。そして、どこをどうさがしても、アンに対する愛情などどこにもなかった。自分が滅ぼして、駄目にして仕舞った、かつてアンと呼ばれた存在の廃墟の匂いをだけ、フエは嗅いだ。

耳を澄ましなさい

フエが覚えている最初の記憶は、ふれれば壊れて仕舞う壊れそうなものに指先を触れることを、必死に拒絶しながらそれにふれようとした指先を伸ばし、その指先がかすかにふるえている、その、いつでも痛みをしか想起させない記憶だった。その

風が、花を揺らしたのです

記憶の存在に気付いたのは、十歳とか、十一歳とか、そのくらいだった記憶が在った。それは、大切な記憶のように想われた。伸ばされた指先の先に何があったのかは知っていた。それはホンだった。ホンが、

気付かれないように、耳を澄ましなさい

ハンに抱かれていたのか、ダットが抱いていたのか、タオか、その娘姉妹たちか。いったい誰がそれを抱いていたのか。そんな記憶はなにもない。指先のさきには、いずれにしてもホンがいて、それはしずかに、微笑みながら

春の花々がざわめき立つのです

息遣っていて、そしてフエは、やがてホンが跡形もなく壊れて仕舞うことは知っていた。いつかの日、ホンが

行かないで

まだ

いつか

いとしい人

完全には大人になりきらないうちに、

大人になったら

行かないで

それが無慈悲なまでの

わたしは

そばにいて

肉体の

あなたの翼に

わたしの

残骸になって仕舞うことをは。

なるでしょう

そばに

生まれたばかりの

純白の

いつでも

ホンは、

翼に

幼さの特権に

なるでしょう

違いない、鮮明に、ある生理に訴えかける甘やいだ臭気を放って、否定し難くそこに存在していた。その臭気は、その臭気の出所の、その存在を留保なくただ愛せとだけ命じていた。その命令はもはやは宿命の重さを持っていた。だれもがそれを愛するのだった。だから、それはむしろ誰からも愛されたことなどなかった気がした。一切のそれ自身に固有の特異性にふれることなく、命じられるがままに愛されるしかないのならば、だれからも、それらに固有の必然に基づいて愛されたことなど、いちどたりともないのだった。だれかが戯れに、フエに、お前も抱いてみろと言ったに違いなかった。

やがてそれが壊れて仕舞う事実などともかく、いずれにしても愛するしかないあまやかな臭気の発生源を。指先が触れて仕舞えば、それはすぐさま破滅して仕舞うに違いなかった。

それは予感ではなかった。歯軋りさえするような、灼けつくように明瞭な認識に過ぎなかった。かつて、お前にそっくりだとだれもが言った。自分も、同じ匂いを放って、同じように一瞬で破滅するやわらかく、愛されて止まない危機そのものとしてかつて存在していたことをなど、自分でもすでに知っていた。十歳か、十一歳か、アンの眼差しに、明らかな自分への愛が巣食って、彼を内側に病みこませているに違いないことに気付いたときに、フエははじめて誰かに愛された気がした。

だれが、いかなる必然性を持ってそれを禁忌であると認定して仕舞ったのかはしらない。何の権限による認定なのか、何の根拠に基づく認定なのか、そんな事など一切。フエが自分で認定しなかった限りにおいて、それは他人の禁忌だったにすぎない。

いずれにしても、アンも、フエもそれが禁忌であることをだけ知っていた。かならずしもだれかにそう調教されたわけでもなく。だれもそんなことを、耳元に教え諭しはしなかった。ただ、フエたちはすでに知っていた。フエは、アンの戸惑うしかない葛藤に、共感してやるしかなかった。アンは、フエの姿がその眼差しにふれるたびに自分の中に木魂する、かたちにはならずに、聴き取れ獲もしない無際限なささやき声の群れた騒音、その、かさなりあったもはや単なる無意味な叫喚に、ひとりでむしろ耐えているしかない。

いつか、自分はその轟音に殺されて仕舞うかもしれないと、その、いまだ体験したこともない死の存在にアンはおびえた。そんなものはなにもかもくださらない妄想に過ぎないと、見あげれば空は単に青く、樹木は単に茂ってその色彩を自分勝手に曝しているままなのには違いないにもかかわらず、その妄想はどうしても鮮明なままだった。

近親相姦、と、それには理不尽な謎があった。仮に、海の向こうの白人たちが夢見たように、はじめに一組の夫婦が存在したのが事実であるのなら、人類の現在の繁殖はすべて容赦もなく近親姦の産物にほかならなかった。最初に、ある細胞たちの群れた集合体が、不意に彼らが人類であることに覚醒して仕舞ったのだとしても、いずれにせよそれもおなじ事だった。最初の彼がばら撒いた種の産物が繰り返した種族の近親姦による繁殖にすぎない。それとも、さまざま固体をかたちづくった細胞体が、その固有性を無視して一気に人類であることに目醒めたのだろうか。いつかの奇跡的な日に。あるいは鳥たちに、魚の群れに、猫に、犬に、狼に、豹に。細胞たちは、それがかたちづくった彼の知りようもない言語を、ささやきあい続けるのだろうか。いずれにしても、在り獲ないことが起って仕舞ったには違いなく、在り獲ないことが起って仕舞った以上、起って仕舞った在り獲ない世界の中に当然に、世界そのものは躍動していた。

伸ばされた指先がふるえた。その眼の前、さらされた息づく皮膚に、フエは、差し伸べられた自分の指先がふれて仕舞うことを、恐怖した。

それは唐突に、泣き叫びたいほどの恐怖だった。自分が、留保なき破壊者になって仕舞うことへの。反芻され続ける記憶の中で、そしてフエはおののいていた。ふれあった瞬間に、終にはすべてを破壊して仕舞っていた自分自身を責めて、やがては為すすべもなく絶望して仕舞うしかない事実への接近に。

あるいは、破壊者に他ならない自分が、世界中を敵にまわして、世界そのものが曝す憎しみにただ、叩き潰されて滅ぼされて仕舞うことへの接近に。

指先は、ひたすらその匂い立つものに接近し続けて、それへの至近距離の中にふるえつづけていた。昼下がりのチャンの部屋のベッドの上に肌を曝し、仰向けに向こうの壁の、塗りたくられた白一色に映ったレース地のカーテンの翳りの模様を見遣った。開け放たれた窓が、主幹道路沿いの、排気ガスに穢れた風に揺らめいた。大人近くになればなるほどに、変わり果てた町にバイクはあふれかえり、あきらかに大気はくすんで行った。もはや、その穢れが皮膚にさえ感じ取られて仕舞うほどに。大人になる頃には、この町は廃墟になって仕舞うのではないかと、16歳のフエは疑った。チャンのなすがままに、フエはまかせた。

体の上に寄り添うように馬乗りになって、足に自分の腹部を、胸を、その皮膚をなすりつけたように密着させたチャンの、真っ白い肌の触感と温度とが目醒めつづけていて、フエは倦む。それら感覚も、感情も、やがては倦み果て終には腐り堕ちるに違いなかった。あるいは、もう、腐りかけている気がした。舌をふれないままに、ただうすく開いた唇をだけ、チャンはフエの下腹部にあてた。

 

 

 

 

 


紫色のブルレスケ #7

 

 

 

 

 

いつでもそうだった。焦がれながら、恥じらうチャンは、結局は自分からフエに舌をふれたことなど一度もなかった。チャンが抱き締めていた下半身にチャンの体温があって、汗ばませ、そして、外気にじかにふれた上半身だけが、テトの前の雨の日の冷気にふれていた。フエは自分の肌が鳥肌立っていたことに気付いた。わたしの部屋から、と。マイを追い出したのだ、と、そうチャンは早口に言った。どうして?

Tai sao ?

なぜ?

em

なんで?

nói gì ?

穢いからだ、とチャンは言った。そして、穢いものは嫌いなのだ、と、17歳のチャンはそう想いあぐねたように言い、そのくせ自分が口にしたその穢く軽蔑的な言葉の群れを後悔していた。チャンの眼差しに、ただ、逡巡だけがあった。

フエは、頭をなぜながら、口付けて遣った。その唇に。そのとき、チャンは鼻から息をながく、ゆっくりと吐いた。わずかの音さえも立てずに、ふれあった唇を半開きにしたままに。吐かれた息に、かすかな、微量の、感じ取れないほどの生き物の匂いが感じられた気がした。

かつてこの部屋で寝ていたマイは、彼女のいとこたちの部屋でいつも過ごしていた。四世帯が住んでいる家屋だった。かならずしも、それに不満を言うわけではなかった。チャンは、マイが自分と同じようになってからではなくて、その前からずっとマイを憎んでいたことを、マイが自分と同じようになってから、気付いた。

眼の前の下方を、無数の小さなバイクの群れが抜き去っていく。それらを轢き潰して、破壊して仕舞うことは容易に想われた。事実そうだったに違いない。

アクセルさえ踏んで仕舞えば。18歳のアンは大型バスのドライバーに納まっていた。旅行会社の仕事だった。いつの間にか街にあふれかえった韓国人たちがバスの中、アンの背後に、唇の中に癖の在る拗音を淫しながら、彼ら固有の言語を撒き散らし続けていた。運転席に乗って仕舞えば、あきらかに地上とは別の空間と時間が開けた。目に映るバイクの路面を這う群れに、自分が彼らとおなじ生き物であることが、どうしてもアンには信じられなかった。フエがいつでも曝す、絶望に絶望を重ねて、なにもかも空っぽになって仕舞ったような絶望的な眼差しの意味が、アンには不可解だった。彼に縋るように抱きついてくるときの、その。何人かの、数えるばかりの女たち。アンを愛した、フエ以外の彼女たちも、その殆どがアンがかさねてやった唇を離したときには同じ色彩を曝した眼差しを、あざやかにアンにくれた。そうではない瞬間には女たちは、そもそもアンに愛されていると自分勝手に錯覚された、自分自身にだけ酔いしれているに過ぎなかった。その眼差しの群れを一様に潤いに濁らせて。どうしようもない、傲慢な発情を、それらの眼差しは無残に曝していた。

アンは眼をそらした。自分が姦された気がした。何の気もなく不意に微笑みかけた女たちの眼差しにも、結局はアンは眼をそらして仕舞うのだから、彼を見つめた眼差しはいつでも眼をそらされているほかなかった。

それぞれの眼差しが捉えた、みずからに倦んださまざまな生き物たち。アンは、フエに焦がれた。そうなるしかなかった気がした。焦がれなければならない理由さえ分からなかった。頭のおかしなフエ。未来が見える、その、いつも昏い顔をした無口な母親とおなじように。

アンが十七歳のとき、そのテト休暇が終ったばかりの日曜日に、なかなか起きてこないフエを訝ってその寝室に入ったのは午前の十時過ぎ、日差しは昼に近い強烈さを持ち始めていた。いつものように、鍵はかかっておらず、そして、ドアは半開きのままだった。神経質な音を立てて、ドアが軋んだ。

降ろされたままの蚊帳の、白く霞むこまかな網の目の向こうに、フエが仰向けに横たわっていた。眼を開けたまま。朝早くに、アンが彼女の部屋からでてきたときの、そのままの褐色の肌が、やわからい日翳の淡い昏さの中に目醒めていた。何かを、どこかに見つめたまま、フエの眼差しが、自分をさえ捉えようとはしていないことには気付いていた。フエの体にだけ、時間など一切経過していなかったかのような錯覚が生じて、アンはいつか戸惑っていた。蚊帳をはぐって、頬をすれすれに近づけて、彼女が息遣っている証拠を確認した。

Duy chết

ややあって、フエが言った。アンは、そっと

ユイが死んだわ

フエの頬に口付けた。

Chị giết Duy

汗ばんだ肌が匂って、

わたしが殺したの

それがかならずしも本当ではないことにはすぐに気付いた。信心深くて、おとなしく、特別なパーティの前の鶏の屠殺にさえ立ちあうことが出来ないフエに、それよりも大きい人間をなど殺すことができるはずもなかった。腰の近くに転がった携帯電話をどけて、みずからあまえるようにフエのそばに添い寝してやった。フエの顔に、表情は不在だった。それは失われていた。彼女を、慰めてやらなければならなかった。泣いているに違いなかった。涙も、泣き声も、乱れた息遣いさえもなにもなく。聴き取れないほどの、静かでおちついた息遣いをだけ、半ば開かれた唇にゆっくりと繰り返して。

いずれにしても、フエは号泣していた。フエの胸に横顔を預けて、アンは脈打つ鼓動と、彼女の体内に響く音響を聴いた。

自殺したのだ、とフエは言った。その有様は、なにもアンには言わなかった。

Tự tử...

と、その、ふるえもしない、ただ、静かな声が、それを望んだわけでもなく、アンの頭のなかになんどか反芻された。フエは、まるで死んで仕舞ったようだった。なにかの欲望に駆られたわけでもなくて、アンはいずれにしても、持て余した時間の停滞を埋めなければならなかった。

唇に、唇をかさねた。何の反応も示そうとしないフエの身体に、その体温だけは発熱したような温度を持って、それはアンの皮膚に、Tシャツ越しに感じられていた。フエの頬をなぜた。死体を抱いているようだと、アンは想った。こんなにも生き生きとしているのに。やがて、初めて、その体内に自分が愛した痕跡を残したときに、自分にそれが出来て仕舞ったことを戸惑うしかなかった。フエは、相変わらず身を投げ出したままに、ただ、その体温だけを発散させて、感じられる汗ばんだ皮膚の触感は、フエのそれなのか、自分の皮膚がなすりつけたそれなのか、アンにはもはや区別が付かなかった。

穢らしい匂いを、フエの体中が立てている気がした。フエは、育むに違いない、と想った。ずっと、頭の中は醒めきって、冴えて、自分の疲れ果てた体はもはや他人のそれにしか感じられなかった。フエは、壊れて仕舞ったに違いない、と、アンは確信していた。なにもかも手遅れだった。その朝、小さなフエの携帯電話を鳴らしたのはチャンの妹だった。チャンが取り乱している、と、彼女は言った。どうして?

Chuyện gì vậy ?

ユイが死んだからだ、と、マイは言った。マイは聡明だった。いつでも、大人のように。

チャンの携帯電話に、ユイの母親から電話がかかってきたのだと、ためらいがちなささやき声に言った。周囲を慮るように、さまざまなもの気を遣いすぎて、結局は何に気を遣っているのかさえわからなくなった混乱を、ひそかに曝し出して仕舞いながら。いきなり、何が起きたの?

Chuyện gì vậy ?

ユイの母親は

Con làm gì ?

そう言った。取り乱しているふうではなかった。声に、チャンへの薄い軽蔑が込められている気がした。秘密ごとめかして、ささやかれるその女の声に耳を澄まして、携帯電話の電波の雑音のむこうに、私では何が起きているのか分からない、とユイの母親は言ったらしかった。

チャンは

Không biết gì cả

何を言っているのか分からなかった。午前8時。一階の、叔母夫婦がやっているカフェと氷屋の店さきを、弟のタンとマイは手伝っていた。チャンが

わたしは

行ってくる、と

あなたに

言ったとき、マイも

逢いに

ついていく、と

行く

言った。それは、出かける姉の姿が見えた瞬間に、彼女に

空に兆しもなく雨の粒が不意に目醒めて仕舞ったとしても

予感がしていたからだった。なんのというわけでもなく、

その豪雨の中を

自分も行かなければならないことにだけ、

わたしは

マイは

あなたに

気付いていた。チャンは

逢いに

いつものように

行く

そっけなく拒絶し、マイは勝手に

花々が不意の雪の花にその身のふるえさえ凍りつかせたとしても

後ろを

その凍えの中を

ついて行った。臆病なチャンは自分ではバイクに乗れなかった。

なぜなら

だから、6車線の主幹道路を

あなたがわたしを

歩いてわたり、その先の細い道に入って、飲食店が

呼んでいたから

軒を並べた学校の前の通りを歩く。ひなびたコンクリート造の壁が、

まだだれも

それぞれに

見たこともないこの

黒ずんだ経年の汚穢を

世界の果てた

壁に染みつかせて、ただ

時間の果てから

自分の無様さだけを曝していた。まだ、男たちのだれからも好きだと、それさえ言われたことのない地味なチャンの、その豊満すぎる下半身が、ひよこのように左右に振られながら歩く後姿に、マイはかすかな同情を感じながらついて行った。込み入って濫立する家屋の、小さな庭先の、花のない樹木の群れさせた葉々が日差しに差され、きらめき、大気には温度があった。

熱い、肌にじかにふれる温度が、すでにマイの皮膚を汗ばませていたことには気付いていた。狭い、コンクリート敷きの路面にバイクとなんども危うく、ふれあいそうなすれすれにすれ違い、ときに、男の眼差しがまだ十三歳の自分にふれることに、マイは倦んだ。

自分が、すでに十分美しいことをは知っていた。たぶん、男たちとは自分をなんらかのかたちで愛するか、愛でるかする以外に、その存在理由などないに違いなかった。ねじくれた通りを曲がり、さらに細い土の道に入る。

突然、樹木が匂う。その、茂った葉々の群れが。小さな家が密集し、何回来ても、どれがユイの家なのかとっさには想い出せない。チャンは、その日だけ、すぐにわかった。暗い感覚が鮮明に、その家にだけ在ったから。なにもない普通の、なんでもない家の、なにごともないたたずまいには違いなくも、そこがユイの家でないことなど在り獲なかった。

すべてが昏らかった。庭に、ココナッツの木が一本だけ、その巨体を曝して狭い庭を見下ろし、庭の全体はそれに淡く翳っていた。風に、翳は揺れて、淡い心地よい涼気を地面にたゆたわせた。白い壁が日差しに照り、反射光の中に純白というほかない色彩を曝した。

チャンは扉も窓も開け放たれたままの居間から入った。そこの豪奢な木製のテーブルセットの、大きな椅子の上にユイの祖父がいた。背筋をかたくななまでに伸ばして座り、祖父はふたりに視線を投げたまま、見つめる眼差しの中で、彼女たちになにも言おうとはしなかった。悲しげな表情さえ何も曝さずに、ただ、そっと指先で上を指した。知っているね?

もう、と、そんな。

彼の気配が耳元でつぶやく。突き当たりの階段で、ふたりは二階に上がった。ユイの部屋が二階にあることは知っていた。なんども来たこと事がある。その日当たりのよさを、ユイは呪っていた。こんなに明るくちゃ、と。

太陽の光に染まって仕舞う。真っ黒に。通路に、ユイの母親が背筋に湾曲を曝して、左に傾きながら突っ立っていた。Duêyn ユェンというのが、その名前だった。通路は、吹きさらしの外廊下だったから、フランス風の、装飾のきつい手すりの傍らに突っ立った彼女が、むしろなぜそこから飛び降りないのかマイは一瞬、訝った。そうならなければおかしい気が、なぜかした。

ユェンのひっ詰められた髪の毛の先が、マイの眼差しの中で、かすかに外気にもてあそばれていた。鈍い光沢を散らして。

ユェンが取り乱していることはひと目で分かった。人間らしい表情も何もなく、両眼を真っ赤に充血させて潤ませながら、あまりの混乱が、いかなる表情をも、いかなる行動をも、仕草をも、もはや彼女にとらせることを喪失させて仕舞ったのだった。そんなにも興奮していて、と。想う。彼女は、よく自分に電話などかけられたものだと、チャンは不意に訝った。

ユェンは、彼女の眼差しの中に、愛想笑いを気弱げに浮かべたチャンを見留めたまま、そして結局はなにも言わなかった。唇に、なにかの言葉のかけらのようなものが暗示されて、かたちをなさないままに崩れ、ユェンは相変わらずの停滞した混乱に堕し、チャンには終に何の仕草のひとつさえも、曝されはしなかった。

通り沿いの明るすぎるユイの部屋に入ると、ベッドの上に血まみれのユイがいた。マイは、いちど眼を閉じた。そして、もういちど開いた。もういちど眼差しの中に、彼女がいま見ているに違いないものを確認した。なんども意識を研ぎ澄まして、必死にそれを見い出そうとしながら、さまざまな形態と色彩のひとつの塊りになったままのそれは、その実態を眼差しに顕さずに、その詳細をどうしても明かそうとはしない。ようやく、もういちどマイは、はっきりとユイが死んでいることを自覚した。

わぉ

後れて、傍らにチャンがつぶやいたのを、

Trơi ơi...

マイは聴いた。微笑ましい気配さえある、邪気もないその声。あきらかにそれは、その場にはふさわしくない音声にすぎなかった。それ以外には、チャンには、なんとも言い獲なかったのも事実だった。言葉など、あるいは感情それ自体、いつでも絶対的に不足していることにマイは気付いた。死ぬのよ、と、マイは想った。あなたも、と、彼女は自分自身に、こんなにも穢く、辱をさらしながら、と、マイはつぶやく。執拗に、あなたは、いつか、と、そう頭の中にだけなんどもつぶやき、言いなおし、彼女は、こんなふうに?

まさか、と。

マイは確信した。わたしの死の瞬間は、純白の花々にかこまれた華やかでやさしい気配にあふれたものであるに違いない。ベッドの脇に、ユイたちが飼っていた長毛の大柄な犬がいじけたように寝転がっていて、ややあって、不意に、想い出したようにチャンたちに吠え掛かった。

一匹の犬が、立ち上がって、足元に駆け寄って、くるくる回り、しっぽを立てて、そして威嚇の咆哮をあげる。ユイの兄が壁際に凭れて胡坐をかき、顔を覆って泣いていた。

最初に、首をつろうとしたのに違いなかった。Tシャツをいくつか引き裂いて、捩って輪にしたそれが、ぶら下がったカーテンレールを破壊して、それをゆがませ、ひん曲げて、窓ガラスは罅が入っていた。

綺麗に、一本だけ、斜めに。鮮明に。隠しようもなく。にじんだ汗か人肌の脂に掻き毟られた、白濁した線にみだらなほどに自由に穢させて。ベッドの上に、仰向けのユイの眼は、いまだに見開かれたままだった。あ。と。

それは、突然眼の前に予告もない何かを見い出したような。

眼を開けたまま失心して、その失心のうちのどこかで、ユイは死んで仕舞ったに違いなかった。ベッドは血だらけで、とはいえ、白に近い薄い花柄のシーツに乱れたそぶりはすこしもない。清楚で惚れっぽいユイ。手首が何回も切ってあった。皮膚がぼろぼろに裂けていた。手首では死に切れずに、終には、首にナイフを入れたに違いなかった。首にも、数箇所の裂傷があった。なんど、と、マイは想った。いったい、なんどユイは自殺したのだろう。たかが一回だけ死んで仕舞うために。

ベッドに投げ棄てられた右手が、いまもなお優しく、いつくしむような手つきで大振りな中華包丁をつかんでいた。まるで、大切な楽器にでもふれるかのようなその手つきに、なぜ、と、なぜそれを振り下ろして手首を叩き切って仕舞わなかったのだろう?

例えば市場の肉屋が豚にそうするように。マイは想った。どうせ、そこまでして死ななければならないのならば。

そんなにも、噴き出す血が必要だったのならば。

叩き壊し、すべてを台無しにして仕舞えばよかったのに、と、そして、あるいはベッドの、腰のあたりにノートがあった。遺言のようなものが書いてあるそのページを、その上に棄てられた鉛筆が音も立てずに開いていた。半分近く血に染まったその紙に、

Xin lỗi con làm bẩn

穢してごめんなさい

Máu con mạnh và khỏe

僕の血は強いです

Cắt nhưng khỏi ngay

切ってもすぐにふさがります

Em đã biết

そう、書いてあるのが読めた。犬は吠えるのをやめなかった。

吠え立てられ続けるその騒音と、床を引っ掻く爪の騒音を、なんども、マイはその耳にあざやかに聴き取って、あるいは、想い出したようになんども意識した。ゆっくりと、自分の体に体温が戻っていくのをマイは感じた。その瞬間、マイは吐きそうになった。背後に、やっと、チャンが悲鳴を上げたことにマイは気付いた。ずっと上げ続けていたのかも知れなかった。場違いに聴こえた。その声。まるで、かよわい少女が小さなムカデの不意の発見に立てたようなそれ。

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

いつだったか、クイはヴィーを抱こうとしたことがある。

それは、ヴィーを離れに連れ込んでから、二年近く経った雨の日、そのやさしい霧のような雨に、全身を濡らして仕舞いながら彼女の体を洗ってやったときのことだった。

夜九時近く、クイはショート・パンツだけになって裏庭に肌を曝し、雨の水滴のふれるがままにまかせた。

大気の揺らぎに翻弄されて、こまやかな雨の水滴は好き放題に上から、横から、斜めから、ときには捲き上げられた下方からさえも、クイを濡らした。裏庭にヴィーに素肌を曝させた。

自分に着せられた衣類を剥ぎ取っていくクイに、ヴィーは抗いなどしなかった。氷屋の前に毎晩集う、近親者たちの当たり障りのない飲み会もすでに終りかけていた。十人に足りない彼らが立てる喧騒が、壁の向こうに遠く感じられた。

物置と炊事場を兼ねた木造のあばら家の、オレンジ色の裸電球がヴィーの素肌にその色彩を移していた。いかにも日に灼けた農夫のような、そんな褐色に近いオレンジ色。それは偽りの色彩だった。

彼女の肌の色彩が、もっと、それに眼をふれるもののすべてを愚弄するような、そんな不遜な真っ白にほかならないことを、クイはすでに知っていた。ただ、白いと表現されるためだけに白い、白い色彩。太陽の日差しになど容赦もない軽蔑をしか曝さない、そんな。

ヴィーの体は匂った。前の入浴から、もう一週間以上経っていた。その身体に、一年近く前にチャンを産み落としたその痕跡など、なにもなかった。クイは、眼の前にいる女が、いまだにひとりの男さえ知らない気がした。不意に、もはや否定など出来ない認識となって、その在り獲ない虚妄が確信されていたのを、クイは自覚しながら愉しんだ。

ホースの先から、ヴィーの体に水をぶちまけた。ヴィーの眼差しは、いま、それが実現された今になって初めて、自分がこれから何をされようとしていたのかを認識していた。

ヴィーの開ききって、大口を開けた口が、開ききったままに痙攣した。眼差しに訴えがあった。言葉もなく、明確な感情もない、余りにも鮮明すぎる意味と感情を突き刺してやまない、その訴え。

ヴィーはいつでも、その肉体の洗浄を忌み嫌っていた。彼女の口が溺れるものの表情を曝して、水も飛び散ってはいない空間に、その伸ばされ必死にのけぞった首の上で、乾いた清浄な空気を求めていたのをクイの眼差しは身留めるが、無駄だよ、と。

短く、クイは想う、そして、そこは、と。君は君が想っているようには呼吸など出来ない。彼は想った。クイは、そこは、いまだに水滴は飛び散ってはいないものの、あるいはすでにそこはもはや、こまやかな雨の無際限な乱舞する水滴たちの領域にすぎない。君は、と、彼は、もう。

想う。すでに、君は遁れられてはいない、と、そこに嗜虐などなかった。クイには。彼は、ただ、ヴィーをいつくしんだ。ただ、わたしを愛せ、と、言葉も声もそぶりさえなく彼に命じて仕舞う眼の前のヴィーの、曝されたそのすべてに。

家屋の中のシャワールームの使用は、クイの父親、ヴーが彼に禁じていた。彼はそのときに、かならずしもヴィーを排除しようとしたのではない。ただ、シャワールームではヴィーが派手に暴れるからだった。その空間自体に激しい嫌悪と拒絶を示して、わめき散らし、ときには失心、あるいは失禁さえもして、だから、クイにはそれは非常に妥当な判断に想われた。

いずれにしても、ヴーには従うしかなかった。彼はクイの父親であり、子は親を尊ばなければならず、そして、ヴーは独立戦争と、統一戦争の英雄だった。たとえばテト攻撃で、彼が一体何人の敵性ベトナム人たちを粛清したかわからない。子どもの頃、多忙のヴーはいつでも不在だった。彼の不在はむしろクイの誇りだった。英雄に、自分の家になど憩う暇などあるはずもなかった。ヴィーのひん剥かれた眼差しが何かを鮮明に捉えていた。

なにを見ているのか、クイにはわからなかった。水浸しなって、全身を水流の中にもがき、ばたつき、のたうち廻って転がり、悲鳴も、叫び声もなかった。過呼吸に近い急激な呼吸を、その肺は、喉は、口蓋は、舌は、唇、あるいは彼女の全身は、赤裸々に

あなたがわたしに

曝していた。

水をやるのなら

両足がばたつき、

わたしは花です

頭から倒れこんだコンクリートの上にあお向けたその

きっと

身体が、

あなたの心に咲いた花

手の支えもなくのけぞって綺麗なブリッジを描いた。

不意にクイは想わず声を立てて笑いそうになり、同時にそんな自分の心の在りようそのものを彼は嫌悪していたが、眼差しが捉えたものが余りに残酷で、余りにも滑稽だったのは事実だった。ばたつくヴィーの両足がなんどもわななき、そして、彼女の幼児の両手は、まともな機能もないままにかすかにやわらかい動きを、ゆっくりと曝していたのだった。

裏庭のヴィーのための小屋で彼女の体を拭ってやったあと、専用のベッドの上で、ヴィーは、未だに自分の肉体のすべてが水浸しになって仕舞った事実からの興奮から醒めることが出来ていなかった。体を拭ってやる間中にも、ヴィーは一切、暴れたりはしなかった。好きにしなさいよ、と、そんな、あなたの好きに。やさしくささやく言葉の匂いの片鱗でもほのめかされればよかった。そんなものなどなにもないままに、ヴィーはただ、恐怖していた。ヴィーはいつものようになにも抵抗しなかった。

ヴィーが曝すあまりにも容赦のない絶対服従にクイが感じたのは、むしろ隠しようもなく鮮明な、不穏な気配、それだけだった。血なまぐさいほどに、なにもかもが危機に瀕して想えた。そして、ヴィーは絶望的なまでに脆弱だった。彼女の眼差しは見開いたままに、あるいは、ベッドの上でも何をも見い出さないままに、いつものように、その眼球に映像は捉えられ続けていた。

ヴィーは見つめていた。あお向けた眼差しが映る何かを。すべてはあまりにもあざやかな兆しそのものだった。なにもかもが、それ自身を強烈な訴えとして兆した。それらの叫び声に飲まれて仕舞う以外に、彼女に為すすべもなかった。覗き込んだクイは、その眼差しがいま鮮明に、否定しようもなく自分の形態を捉えたに違いないことを確信した。その痕跡など、その黒眼には一切見留められなかった。視界を塞いで仕舞えば、彼女の視界は自分を見る以外のなにも出来はしないはずだった。彼は、ヴィーに見られていた。左手には違和感がありつづけている。

もはや、クイにはその左手の違和感は生まれたときから感じ続けてきたものとしか想われない。

戦争の後遺症、とはいえ、彼には戦争に対する怨嗟などなにもない。彼の、半分がふっ飛ばされて、破壊されて仕舞った顔のかたちをさえも含めて。クイに消え去りはしないのは、彼を吹き飛ばしたどこかの、彼がその顔さえしらない卑怯者への怨嗟だけだった。自分がそこには不在だったにもかかわらず、ただその自分だけのせいでクイを壊し、カンの四肢を吹き飛ばし、小隊を混乱させ、草地を無残にえぐり散らしたその誰かの、その欺瞞にすぎない行為への。女か男か、妊婦か老婆かもわからないその誰か。ヴィーの傍らに、クイはいつか添い寝していた。

そんなつもりはなかった。ただ、久しぶりにヴィーの汗と垢に塗れた肌にほどこしてやった夜遅くの労働が、単純に彼の身体に疲労を与えていたことだけが事実だった。彼は疲れていた。

それに、彼は気付かないわけにはいかなかった。足も、腰も、腹部も、肩も、首筋も、いずれにしても体中のさまざまな細部が帯をなしてさまざまにその固有のそれぞれの疲労状態を、もはやひとつの大きな塊りにして訴えかけていて、クイの肉体は疲れ果てている。

亜熱帯の、あたたかな、夜の暑すぎはしない大気の中で、クイは、そのとなりに、承諾もなく自分に添って、息づいた生き物の存在に自分が気付いていたことを想いだす。

彼が愛しているに違いないその、生き生きとした生き物。ヴィー、彼女。美しく、いとしい人。彼の、その人は今眼をひん剝いていて、硬直させた筋肉の故に両足を折り曲げて腹にこすりつけ、不安定なままに、ベッドの上、こまやかな痙攣をその身体が曝すたびにかすかに揺らぐ。

身じろぎもしないままに。そして、横に流されたクイの眼差しが捉えた彼女の両腕は、ちいさく、幼く、やさしく弛緩したままだった。その手は、と。想った。クイは、何の罪も知らない。

無垢だ、と、そうクイは想った。クイはその手に、唇をふれてみた。

テレビで見た白人の紳士が、どこかのけばけばしい、あばずれめいた露出の、純白に花模様の馬鹿げたドレスで体を縛り付けた白人の、桃色の黴を生やした白塗りのひょうたんじみた女に戯れめかしてしでかしていたように、優男じみて微笑み、その流儀を丁寧に模倣してやって、クイは、そっと、そのちいさな力のない手のひらを手に取って。ささやかな接吻。ばかばかしい流儀。声を立てて笑いそうになる。クイの眼には、テレビの中の、古い映画の白人男たちの、淑女に捧げる男らしい敬意の表明は、単に女たちを侮蔑しているようにしか見えない。意図的にやさしさを装った虐待者たちの、脆弱で滅びるしかない絶滅危惧種を前にした自分勝手で気まぐれな尊重、そんなそぶりを曝してやることなど、あの図太い女たちに必要だったのだろうか。

殴っても、容易には死にはしないもの。戦火に飲まれた山間の町で、少数民族の女は何回にも渡って、数十人の韓国人たちに強姦されながら、それでもしぶとく生き延びた。泣き叫びながら。わめ散らしながら。この世界の存立それ自体をののしりながら。そして、その後で町の男と結ばれたのだった。それから、何人子どもを生んだだろう。外国人が撒いた種の混血児をも含めて。あるいは、爆弾でふっ飛ばしても、一体何人の女たちが泥と血に塗れて生き延びてきただろう。片手か片足を、あるいは両手、両足、または片手と片足、いずれにしても、さまざまな組み合わせでさまざまな破壊と喪失をその肉体に刻み込まれながら、無数の彼女たちは生き延びて、そして、人間たちは繁殖していた。もっと、と。この地上の上に、もっと、と。

そうクイは想う。何でもいいから繁殖して仕舞えばいい。どうせ、と、クイは、次の戦争など、そのうちすぐに始まるのだから。

彼はそう想った。

唇が、すでに口付けていた。ヴィーの、やわらかく豊満な唇に。ただひたすら豊かで、沈み込むような質感を湛えた、その、それ。あざやかにその固有の美しさを色づかせるそれに、自分の硬化しかかった変形した唇の半分が感じさせたかもしれない違和感を、クイははっきりと自分の唇に感じ取った。

クイの顔の半分には、いまだに神経はまともに還っては来なかった。冷たい感覚の不在が半分に、まだらに飛び地で棲息しているのなら、クイには感じられていた。ショート・パンツだけを纏った自分の体の、曝された皮膚を押し付けて、その、いたるところに傷痕を刻み、あばら骨までひん曲げて仕舞った変形を曝した自分の身体を、ヴィーの身体のやわらかさのうちに埋没させて、クイは知っている。

彼女を、自分が抱くことなど在り獲ない、と、彼は。知っていた。すでに、彼の睾丸はあの吹き飛んだ爆弾で飛び散っていたから。

ショートパンツに隠されたそこの、不在が突然、感じ取れた気がした。それはあまりにも鮮明な触感だった。それがない、というあざやかな触感。不在のものが、その不在をふれた。とはいえ、断片的に目覚めた触覚神経が足りない部分を補い合って、かならずしも触感の不在をなど感じさせてはいなかったのを、そしてクイは不意に羞じた。自分自身すら、と、クイは想い、嘘をつかれる。そうつぶやいた。彼の頭の中でだけ、すべての人間が、と、想う。彼は、嘘をついていた。

と、このおれ自身さえ。そう想った瞬間に、ヴィーが息をつまらせた。

一瞬だけ。ヴィーの身体は、いまだに彼女の皮膚にかつてふれた水流の触感を反芻させ続けているに違いなかった。とっくに消えうせて、すでに存在しなく、存在しようもなく、綺麗に拭き取られた肌はもはや完全に乾いているというのに、と、そして、想い出す。

クイは、あの、頭のおかしな女。彼はハンを想い出して、ハン。未来が見えると口走り、好き放題に自分勝手な妄想を語る。ハンがおかしくなったのは戦争のときだった。60年代の終わりの空爆が、ハンを破壊して仕舞った。

清楚な女だった。フエのように。米軍だか韓国軍だか中国軍だかは知らない。クイには見えなかった。空を飛ぶその4機ばかりの機影はたんなる逆光に過ぎず、いずれにせよ、16歳だったクイは、その爆撃機を至近距離で見たとしても、どうせその国籍などわかりはしない。空間を切り裂く長い音響が響いた気がしたと想った瞬間には村落の、向こうの集落が吹き飛んでいた。

鮮烈を極めた光が発熱状態にあったことに気付いた。黒煙と炎の形態と色彩を確認する間もなく、ただ、無造作にばら撒かれるその破壊が急激にこっちに迫ってきているのを見た。無数の爆発が連鎖して、逃げ惑う暇もなく家屋を、土地を吹き飛ばし、えぐり、穿ち、破壊し、あ、と。

爆音が耳を聾し続けていたことに気付いた。

言葉を失った無数の音声の連鎖がなにをも認識しきることなく頭の中を無限に響きあい、連なっていた。飲み込まれる、と、一気に接近するそれら爆発の群れにそう想った瞬間に、クイをまるで自分の幼い子どもかなにかのように、抱き締めながら縋り付いていたハンの眼の前で、何かを叫んだ女の振り向きざまの肉体は吹き飛ばされた。

肉体が破壊されるところなど見えもしなかった。砕き散らされた大地の撒き散らした土砂がむしろ、そんな脆弱なものの破壊を視界に刻印する事など赦さなかった。それ。

眼の前に破壊されたのが、虐殺された罪もない一般市民であり、そして、それが、ハンの母親だったことには、空爆が止んだあとに気付いた。

自分に覆い被さって、地に伏せたままのハンの、自分と他人の血と泥にまみれた体を、投げ飛ばすように払ってクイは身を起こした。空爆は止んでいた。耳に静寂が耳鳴りを伴いながら襲いかかっていた。周囲のいたるとこに爆薬の匂いと、焼け焦げた、あるいはいままさに自分がふれたものを焼き尽くしている炎の群れの臭気があった。

平らな平地に開かれた、疎らな集落だった。右手、やや遠いところに森林の樹木の繁茂が見えた。クアン・ビンの、ハンの母親の田舎に、その家族の誰かの命日のパーティのために来たのだった。戦場を駆け回るヴーが残して行ったバイクに、ハンを乗せて連れて来てやるのはクイの仕事だった。炎はいまだに燃え上っていた。周囲に、いたるところに燃え上る炎は、彼らを焼くには遠かった。平地のいたるところに、疎らに、それらは燃え上って、崩壊、と。

この町は崩壊して仕舞った、と、そのときにクイは想ったのだった。立ちつくして、周囲を見回し、壊された村、壊された田園、壊された肉体の、泥にまみれた目立たない散乱。もう、立ち直る事などできないに違いない。ここはこのまま永遠に、こうして崩壊し続けているしかないに違いない。

炎は消えないに違いない。炎はずっとここにいて、ずっと、焼き尽くし続けているに違いない。すべては、と。

想う。クイは。ここでは、すべては終って仕舞った。

耳に、人々の声が聴こえつづけていたことを、クイは唐突に認識した。たしかに、人々は罵り、泣き叫ぶ、喚き散らしていた。

まばらに点在した生き残りの人々が、そしてそれら声の群れは、あくまでもそれぞれに自分勝手に鳴り響き、空間さえも満たそうとはしない。

空間は、あくまでも空虚なままだった。とても、ここが悲劇のまさにその時の、否定しようもないその現場だとは想えなかった。空間を満たすには、あまりにも生き残った人々のほうが少なすぎ、そして、彼らは疲れきり、肉体も、その中身さえも壊れかけていた。違和感があった。

いま、もっとも泣き叫んでいるべき人の声が、そこにはなかった。それは、在り獲ないことだった。足元に転がっているハンの、泥に塗れた生き残った身体を見た。見つめるうちに、黒ずんだ穢れの色彩に、確実に血の色彩も混じっていたことに気付いた。いずれにしても、たいした外傷などありはしない。

誰か、他人の死がなにかの拍子に穢しただけだ。彼女が守ったクイに跳ね除けられて、いまや仰向けに転がっていたハンは、昆虫のように両手足をへし折って丸まり、そして、硬直してふるえることなく、失心していた。白眼を剝いたままで。

いくらひっぱたいても正気づかなかったハンが、とりあえずの意識を取り戻したのはその日の夜だった。ハンがすでに壊れて仕舞っていることに気付くには、時間がかかった。あるいは、ゆっくりと壊れて言ったのかもしれなかった。

集落の焼け残った家屋の中で、生き残った人々の介抱の中に、ようやく失心から目覚めたその夜、ハンは何事もなかったようにやさしく、すべてを赦すかのような、あるいは、迷うことなくすべてを与えて仕舞って、もはや何も持たずに、むしろ与えたこと自体あえて忘れて仕舞ったかのような、ただ、胸が苦しくなるほどに優しい微笑と、繊細な気遣いのささやきで、擦り傷だらけのクイをいたわっていた。自分の打撲症など構いもせずに。

いくつもの顔。いくつもの首、纏われた衣類、そのひだ、壁、貼り付けられた何年か前のカレンダーと家具。伸ばされた腕、あるいはその肘の一瞬の屈曲。木製のテーブル。そこに反射した光の白濁。壁際にたたずむ猫の毛は白い。なぜか横転したまま放置された椅子。掻き揚げられた髪の毛。それは女。詰まれたダンボールの箱。家屋の中の裸電球の、直視を拒む明かりがそこに存在する形態に翳をえぐった。かろうじて被害を遁れ獲たいくつかの家屋の中は、焼け出された人々が群れをなしていて、目覚めたそのとき、ハンはその風景に一瞬戸惑ったあとで、しずかにすべてを哀れむ眼差しを投げたのだった。歎く人々の泣き叫ぶ肉体と声に、ハンは添った。眼差しに潤いを感じさせるだけで、気丈にも涙さえこぼさずに、生き残った泥まみれのままの老婆の肩を抱き、とはいえ、やがては、いつか、その清楚な眼差しに涙は、はっきりとにじみ始めて仕舞ったのだった。人々をいたわり、声をかけるハンの、同情の涙だと想った。ものしずかな涙が、やがて、頬を流れて、突然、ハンの限界まで開かれた口が怒号を発した。割れた、太い、男の声のような怒号。ハンは、叫び声を上げながら喚き散らしていた。

ハンは泣いわめいていた。のた打ち回りもせずに、のけぞって硬直して、人々の眼差しは一瞬、おびえのうちに言葉をなくした。慰めて遣った人の話など聴きいてもいずに、ハンがずっと自分のためだけに泣き叫んでいたことに、クイは気付いた。

兄の妻だった。そのまま棄ておくわけにはいかなかった。空爆にバイクさえ吹き飛ばされたクイは、親戚たちの手をわずらわせて何とかダナン市に辿り着き、ソン・チャーのヴーのあばら家に帰ってきたが、近所のハンとは顔をあわさないわけにはいかなかった。ハンはすでに正気に戻っていた。あの、夜を徹した叫び声は一瞬の発作に違いなかった。次の朝にはもう、もとどおりの彼女に戻っていたのだから。ハンの兄は戦争で死んでいたし、そして、その両親さえ死んで仕舞っていれば、あとに残されたのはハンとその妹のタオだけにすぎなかった。ハンとタオは、おとなしくてつつましい、あるべき女の見本のような少女たちだった。すくなくとも、自分の事は棚に上げて、クイの母親チャン Trang はそう言っていた。ヴーの家に、昼食に、あるいは夕食に、そのたびにありつきに来る姉妹は、人々の眼にけなげに映るしかなかった。彼女たちはだれの眼にも犠牲者だった。それぞれの仕方で、自分たちの固有の民族国家が、あるべきかたちに復活される日の到来を望んだ。ホー・チ・ミン主席が主導する社会主義国家など、過去の歴史のどこにも存在などしていないには違いなくとも、いずれにしてもそれはあるべき国家の復活だった。

多くの場合、タオは一日の殆どをヴーの家で過ごした。ハンは近場の市場で仏具を売った。貧しく、親さも不在の敬虔なハンを、市場の女たちは観音佛の生まれ変わりのように噂した。死んだ後には蓮の上に目醒めるに違いない。あるいは、転生して鳥になって、空の雲の上に憩うのだろうか。いつかの昼食のときに、ハンが言った。あなたは、と。不意に、想い出したように、そしてクイはそれを記憶していた。

クイは、そのときの温度。大気の、夏の、家屋の中の日陰のせいで暑苦しくはないものの、とはいえ熱気をしずかに湛えて、肌にはりつくその触感。匂いさえする気がする。

人々の汗が匂いたって、大気に擦り付けて仕舞ったのか、庭に放し飼われた鶏たちがいつか移した臭気だったのか、それとも、どこかの排水溝の、ないしは日差しの直射に腐りかけた鶏たちの餌の放っていた匂いなのか。

いずれにしても、甘く、不快な臭気が鼻に突いた。殺して仕舞うんですね、と。

不意に、箸を持ったまま顔を上げたハンが言った。あなたは、わたしを殺して仕舞うんですね。

Tai sao anh

と、どうしてですか?

giết em

そうハンが言い終わらないうちに、クイの隣にいたチャンは声を立てて笑った。ハンは自分の正面の、その笑い顔を驚きとともに見つめて仕舞った。彼女には、その笑い声の必然が、なにもわからなかった。ハンの傍らのタオは、姉が何を言い出したのか、まったく理解していなかった。簡単な語彙と、簡単な文法、とは言え、それは一切の理解を寄せ付けない未知の、他人の言語としてしかタオの耳にはふれ獲なかった。なに?

Em

と、クイは一瞬、

nói gì ?

自分を見つめた眼差しを見つめたが、その、澄んだ、邪気もない眼差し。晴れた空に向って、空が青いですね、と、ただひとことそうつぶやいたかのような、その、あるいは、その手前で、ハンの箸は、いまだにつかんだ揚げた豆腐をつかんだままだった。ハンの眼差しには、あきらかに自分が留保もなき賢者であって、この世界の、あるいはあの世のすべてをまで知り尽くして仕舞ったということを自覚していた、そんな孤独な気配だけが漂っていた。もう、と。

Em

わたしはあなたがたのそばにはおりません。

buồn

何も知らないおろかなあながたが、と。わたしは悲しい。そんな、ハンの眼差しの気配をクイは嫌悪した。

以来、年上のハンに、クイは口もきかなかった。虐待に似た意図的な無視が、ハンを一方的に襲った。ハンはあきらかにやさしかった兄貴分の変貌に戸惑っていた。話しかける彼女を無視することには、どこか嗜虐的な、陰鬱で自虐的な快感があった。いつか、自分はこのままハンをまた、壊して仕舞うに違いないと、暗い未来をクイは予感していた。未来を暗くするのもしないのも、自分の手の内にあった。そして、選択権が丸ごと与えられている自分には、選択権自体が不在だった。

彼には、ハンをいまさら受け入れてやることは不可能だった。友人のティが、あしたいよいよい戦場に行くという日のささやかなパーティに、ハンもタオも同席した。もはや彼女たちは血のつながった家族も同然だった。ヴーの家で、招待したティのために、チャンが手づから屠殺した鶏の、その内臓と血を和えた、本来ならば婚礼用の料理を食べていたティに、振り向きざまにハンは言った。殺して仕舞うのね。

あなたは、わたしを、と。その瞬間、チャンはティの肩をなぜて、気にするな、と。そんな言葉を繊細なそぶりにだけ伝えた。大丈夫。気にしないで。

何も問題ないのよ。わかっているでしょう?うつむきもしない、当たり前に眼の前で交わされた気遣いに、クイは眼を疑った。ティは、すでに了解していたようだった。彼の、どこかで冴えた悲しみを兆させた眼差しが、ただ優しく一度だけ、自分を呆然として見つめるハンを捉えた。

ティは、すでに知っていた。チャンに言われるまでもなく、とっくに。たしかに、ティはなんども家に来ていた。そして、なんども、ハンと話しくらいした事があるはずだった。年頃のハン、けなげで清楚な姉妹の姉、そうだったのか、と。不意にクイはそれまでの不快な違和のすべてが了解された。ハンはすでに壊れていた。振り向いた背後に、執拗になにかを讒訴するような眼差しでクイを見つめていたハンは。鶏が空を飛ばない翼を庭先でわななかせた瞬間に卒倒しそうになったハンは。昼食のときに、いきなり自分の舌を噛み切ろうとして仕舞ったハンは。

たしかに、と、そう、むしろいまさらに、初めてハンがすでに壊れて仕舞っていたことに気付いたクイは、自分がまるで、この世界に初めて眼を開いたような気がした。自分だけがその認識の蚊帳の外にあって、取り残され、排斥さえされていたことに、クイは目舞いの感覚と、羞恥と恥辱の感情に、かすかに襲われていた。

たしかに、すべては理路整然としてた。そして、それはあきらかに自分が初めて見い出す、見ず知らずの世界だった。

ユイの葬儀には、クイも参列した。ユイの葬儀には、ダ・ラットからも親戚が来ていた。ビン・ジュンからも、ハー・ノイからも。ユイの親族たちが、ばらばらに、職を求めてあらゆるところに生きていることを、フエはいつか、想い出したように認識していた。ハンは家屋の日陰、突き当たりの壁際の隅に、転がるように身を横たえて、低く声をあげて、ながく、ひたすらながく途切れることなく泣き叫ぶユェンの肩を抱き、一切声をかけることなく寄り添ってやっていた。伏せたままの眼差しは、ただ、床の上に投げ棄てられて、彼女が抱え込んだ悲しみを咬んでいた。すくなくともフエにはそう見えた。事実、ハンはただ、悲しんでいた。

あまりにも悲しいユェンのために。涙のかれない、自殺者の母のために。敬虔なハン。尊敬すべき、そして、限りもなくいとしいただひとりの母。フエはまばたく。狭い界隈の、雑然として、ただごみごみするしかないユイの家の、その小さな庭に無理やり葬儀用のテントが張られ、装飾が施され、そして、音楽隊の三人ばかりが好き勝手に追悼のものらしい音楽をエレキギターに奏でて、太鼓をたたき、銅鑼が鳴らされ、慰問客が来るたびに大太鼓が決まった三音の音頭を打ち、そして、花々は棺を埋め尽くしていた。

白い花々。

薔薇にさえ白い種類があることを、フエは初めて知った。最期の日の前日、Cảnh カンのことはもう諦めたと言った。夕方、別れ際に。それは間違いなく、ユイにほかに好きな男が出来たことを意味した。いつでも、誰かに焦がれていなければ気がすまないほどに、ユイは惚れっぽかった。そして、自分自身をは決して愛そうとしなかった。フエは、ユイの顔に、死斑を隠して描いたように濃い死化粧が施されて、それはまるで彼を女の子のように見せた。ユイが、結局は初めて自分自身として死んでいけるのだと、フエは想った。十二歳のとき、フエがユイとチャンに化粧をしてやったとき、チャンはその気になって、ユイは恥らうばかりにうつむいていた。ユイが上目遣いにフエを見た。背後で、ハンは声を立てて笑っていた。もっと、綺麗にしてあげなさいよ。それじゃ、まるで死んだ人みたいだわ。ハンは、三人に化粧の仕方を教えた。ハンがほどこすと、ありふれた人体の顔面のおうとつに、あざやかに美しい女の人の顔が存在していた子を暴露して仕舞うのだった。フエは、想わず母を誇った。白いユイの皮膚は、死んだユイの死者の皮膚として眼の前で、不思議に褐色がかって見えていた。むしろ、自分の肌に近いその色彩に、フエはかすかに、そして鮮明に、容赦のない裏切りを感じた。ユイに嘘をつかれた気がした。

いままで見せ付けていたあの色彩が嘘だったのか、それとも、いまさら曝しているこの色彩が嘘だったのか、いずれにしてもどちらかは嘘でなければならないはずだった。ユイは、自分が死んだ理由をは、だれにも明かさなかった。

自分が殺して仕舞ったに違いないとフエは想った。留保もない認識だった。自分以外には、ユイの死の理由など存在しないに違いなかった。確信はなかった。とはいえ、それは否定し難い認識だった。ユイは、自分を求めはしなかったが、決して拒絶しはしなかった。それだけは知っていた。なぜ、死んで仕舞ったのだろう、と、誰かがつぶやき、ささやかれあう声に、そのたびにフエは、かすかに目舞う。

それら、うわさしあう女たちの音声が耳にふれるたびに、フエは自分のその、彼女たちの口走ったのとまったく同じ、頭から離れない疑問が、どんどん見る影もなく風化されていくのを感じていた。いまだに鮮明にその同じ疑問符が、新たに生き生きと、好き放題にあてどもなく撒き散らされつづけ、反芻されつづる息吹に惑わされながら。

棺の中の死体の、どうみても美しいとは言獲ない死化粧に、そしてやがて力尽きるようにそらされたフエの眼差しはただ、自分たちの悲劇を茫然としてそれぞれにむさぼり続ける、床に座り込んだその遺族たちの白装束をなにかの残像のように眺めた。ユェンが床に座り込んだまま憔悴し、終には涙も流さずにユイを罵っている声が聴こえた。白装束の中に、ただひとり私服のハンがうつむいたままユェンの声を耳元に聴いていた。喚き散らすユェンを親族の女たちはささやき声のうちにいさめ、確かに、と、フエは想った。ユイ自身を罵ってやる以外に、ユイを擁護してやる方法などなかった。

ユイは、ユイに殺されて仕舞ったのだから。ユイが死んで仕舞うことはすでに知っていた。ずっと前から、フエは。片手に首を抱えた、見たこともない、その色彩のない老婆がなんどもフエに、ときには青空の下で微笑みかけて、ユイ、と。その名を口にはつぶやきもせずにフエは彼女に微笑みかけた。眠りの中に見た夢の中でか、醒めたままに見た夢の中にか。

フエに、悔恨と、葛藤だけがあった。そう言って済ます以外にすべのない、かたちのない鈍く、ぶよついて、なまあたたかい塊りの不快さが喉の奥に存在していて、それらがでたらめにフエを蝕んでいき、自分がだれよりも愛した、そして、どうしようもなく愛して、愛しすぎて、もはや耐えられもしなかった愛すべき男の死体が目の前にあることは知っている。それとの距離はあまりにも遠かった。

見事に断ち切られていた。もはや同じ種族ではなく、共有された同じ世界にさえ存在してはいない。その死体と自分の肉体との断絶に、容赦など一切なかった。眼の前の花々に囲まれた存在はいかなる感情を滑り込ませ獲る余地など残さず、あわただしく色めき立っただけの親族たちの、なにもまとも運営できない葬儀の手順を手伝って仕切るフエを、人々がただけなげなものに見ている事をフエは知っている。人々は、確かに、僧侶のカンがかつて吹聴してまわっていたように、観音菩薩の生まれ変わりなのかも知れない、と。

そして、その、眼差しに捉えた華奢な少女の心の強さに彼らがそれぞれに、それぞれの流儀と思惑のうちに自分勝手に感じ入って仕舞っていることも。フエは、どうして、だれも、どうしても、自分が泣き叫んでいるのに気付いてくれないのを、しかし、その理由などすでにフエにはよくわかっていた。一滴の涙をすら流していなかったのは、自分自身にほかならなかった。

このまま生きていたら、死んで仕舞うに違いないとフエは想った。

ユイの父親は、自分の寝室に閉じこもったきり、出てもこなかった。あるいは祖父のあまりにも日常に変わらないたたずまいは、むしろ頭の中の大部分を消しゴムで消して仕舞ったとしか想えなかった。ユェンは、喚き散らす以外に何もできなかった。棺の傍らに座りこんで、息子の死を不意に想い出してはふたたび、彼女は泣いた。相変わらず涙を流さないままに。ハンはフエを振り向きもしない。朝起きたそのときの、炊事場ですれ違ったハンは、不意に言った。あ、と。あんた、

Con...

悲しいんだね?

Buồn nhỉ ?

かすかな驚きが彼女を戸惑わせていた事は、その見開いた眼差しが素直に曝していた。それは一瞬だった。

すぐに、ハンはいつものやさしく悲しい微笑みに、その表情を崩していた。そして、ふたたびイェンの罵り声が耳を撃ち、フエを迎えに来たアンの傍らでフエは眼をそらす。おなか、すいたろ?

Đói bụng ?

ダ・ラットで野菜を作っている60歳のThanh  タンは言った。フエが望むなら、私の30歳の息子と結婚させてもいいんだ。彼の息子はホー・チ・ミン市で働いていた。タンは周囲に、諭すように言った。息子は金もあるし、ハンサムだし、そもそもが、フエの尻を見るがいい。あれは五人も六人も子供を生んで飽きない尻だ。交配させてやればいったい、どんな子供が出来るだろう?と、タンは自分の想いをあざやかにもてあそんだ。彼女を正面から偸み見る眼差しのうちに。茶色い喪服の質素なフエは色づいたほどに美しかった。不意に、俺だってあれならまだ二三人作ってやれるよ、と、タンはそう言って、人々は彼に無造作な笑い声をくれた。

いたるところに人々は微笑み、笑い声が立って、久しぶりに集ったお互いの近況を報告しあった。フエは彼ら、彼女らにお茶を用意して回った。結婚式と同じ、公道にまではみ出したテントの下にアルミの丸テーブルがしつらえられて、訪れた僧侶に気付くとフエは無言で手を合わせた。かすかに傾けた顔の傾斜の、上目遣いの眼差しの中に。テーブルの上に、喰い散らされたスイカの種の菓子の殻が散乱していた。

朝から晩まで慰問の客は途絶えずに、学校を休んでフエは付き添った。一週間たって、その日の早朝に埋葬されるユイを、その日は泊り込んで、ひとりで早く起きて仕舞ったフエは見つめていた。ガラス張りの棺の下に、その、ユイはもはやふれることさえできなかった。

埋め尽くした花々に、かすかな朽ちが確認できた。眼の前の死体が、やがては、人々の眼差しがもうふれることなどないコンクリートの碑の中に、ゆっくりと腐敗していくに違いないことにフエは戸惑った。もはやユイは存在してはいない。肉体をそこに、人々の眼差しの先に曝していながら。それがやがて、ハンとホンが死んで仕舞った、その遺体を前にしても想いはしなかった印象であることをは、フエは知っている。やがて、自分をも腐敗が蝕んでいくことを、フエは為すすべもなく実感した。そのとき、ブーゲンビリアの樹木の下に掘られた穴に投げ込まれて。無残な、彼女の惨殺死体。

曝されたユイの遺体に、なんの救いようも感じられなかった。フエは、自分がユイをもはや永遠に愛していることを自覚していた。愛する以外に、彼女ができることなどなにもなかった。そして、その対象はすでに眼の前に、消滅だけを曝していた。ユイはフエに、自分が彼に愛されることの不可能性だけを突きつけて、結局は、フエに愛され続けている一方的な愛の永遠にふれる前に、その肉体もろともみずから破滅させて仕舞ったのだった。自分には理解できない、ユイ自身しかしか知らない、いわば赤の他人の理由のせいで。

どうしようもない裏切りだけが、フエの眼差しのうちに生々しかった。慰問に来たアンが、やせた、と言った。その日、出棺のときに。まるで、軍人が死んだかのように軍楽隊が吹奏し、

Chị ốm

夫婦のように姉に寄り添おうとするアンを、人々はやさしい弟に想った。軍楽が鳴り響き、フエは声を立てて笑いそうになった。自分自身以外にひとりの人間をも殺せなかったユイが、軍人じみて埋葬される。

ラッパの群れが、国家解放を記念した軍楽を下手糞に吹奏し、ユェンが低く、あ、と、ゆ、をまぜた長い声を立てた。昏い、なにものをも見てはいない見開かれた眼差しを曝して。その音声が、彼女のいかなる心情を表現したものか、アンには分からなかった。アンは、その、ユェンの口に鳴った声の質感をだけ、彼の背後に聴いていた。クイはユイの父親、リエム Liêm の肩を抱くしかなかった。シャワーさえまともに浴びていないリエムの皮膚は、脂ぎっててかてかしていた。鼻に体臭が匂った。それが、ヴィーの葬儀を想い出させた。ヴィーが家の離れで死んだとき、だれも葬儀を出そうとはしなかった。クイはひとりで、参列者のいない葬儀を手配した。泥にまみれた、無慈悲な、見る影もない死体だった。悲しみは感じられなかった。出会ったときには、すでに彼女は死んでいたのだという気がした。他人の死の体験が、そのだれかを容赦なく奪われるということであるならば、クイはすでにヴィーを、ヴィー自身に奪われていた気がした。ヴィーに与えられたものなど何もなかった。ヴィーは、彼女を見つめる自分の存在にさえ気付いてはいなかったに違いない。ヴィーにふれたことさえもなく、ヴィーは、自分の眼にはふれさえもしなかった。留保もない喪失感にだけクイは苛まれた。良心かなにか、よくわからないが消えうせもしない何かが呵責を感じていた。十歳のチャンは、ただ、呆然としてそのひとりだけの葬儀に立ちあった。チャンは何が起こったのかわからないままだった。

言葉もなかった。

その日、十歳のチャンはフエの家に行かなければならなかった。学校で、別れ際にフエと約束したから。いつものところで。

ね?

いつものところで。そこ、フエの家で、と。フエは声を立てて笑った。邪気もなく。夕方、夕焼けた空が、その、空そのものが崩壊していくような、みだらなまでのあざやかさに染まっている光を、チャンはその背後に受けていた。

 

 

 

 

 


紫色のブルレスケ #8

 

 

 

 

 

歩いていける距離だった。そして、歩いていくしかなかった。いつもは離れの日陰から出て来ようとはしないヴィーが、めずらしく庭先に突っ立っていたその眼差しと、あわててそらしたチャンの眼差しが不意に絡まりあった瞬間に、不意にヴィーは付いてきた。家を出るとき、クイの戸籍上の唯一の妻であるヴァンは、氷屋の仕事に追われるままに、それになにも言わなかった。ヴァンは、その眼差しの隅にでも、ヴィーをなど収めようとはしなかったから。そのとき、チャンの、ヴァンに縋るような眼差しさえヴァンには無視された。ヴァンがいきなり振り向いて、ヴィーを折檻する様を、チャンは自分の眼差しの中にだけ見ていた。そのすきに、ヴィーを振り払って、チャンは走り出すに違いなかった。かならずしも、そうなればいいと願っていたわけでもなかった。

いつか、チャンはそれが遊びにすぎない錯覚にとらわれていた。ついてくる、ゆっくりと引きずるようにしか歩けない不具のヴィーを、その、バランスを欠く大きな大人の身体を、完全に撒いて仕舞わないように不意に走っては翳に隠れる。

樹木の。

壁の。

飛び散った土砂を乾かせたトラックの。それらの翳に。眼を見開いたままのヴィーがゆっくりと接近すれば、歩調を落として先導し、やがてはふたたび唐突に走り出したチャンの姿は、ヴィーの視界から消えた。

誰かの家の壁から顔を出す。

チャンは、声を立てて笑う。ジグザグに走ってみせ、ヴィーが見失っていないことをなんども振り返って確認した。ここよ。

と、

わたしは

そしてヴィーが

ここに

自分を見ているとは想えなかった。ヴァンのお下がりのピンク色の部屋儀を着乱れるにまかせて、ヴィーが、なにを見ているのかわからない眼差しを曝していた。いつものように。突然、フエの家のありかを教えたくない気がした。チャンはでたらめに迂回した。

約束の時間など、一時間近くも過ぎていた。フエがまだ

わたしは

待っているか、忘れたか、それとも、

ここに

そもそもそんな約束など覚えてさえいなかったか、チャンにはわからなかった。広大な更地を、斜めに抜けた。ハン川に出る。

ハン川に沿って、フエの家の反対側に歩く。ハン川が、夕暮れた暗く、そして鮮やかな日差しに複雑に赤らんだ色彩を散らして染まる。さざ浪立つ。チャンは

わたしは

道を見失う。迷ったわけではない。そもそもが、

ここに

フエの家を

あなたのそばに

目指していたはずだった。

いま、まさに

フエの家に行くわけにはいかなかった。彷徨うしかなく、フエの家に行かなければならない以上、彷徨うわけにはいかなかった。想いあぐねて立ち止まり、降り返ったさきに、ヴィーが驚くほどの至近距離にたたずんでいた。眼差しのすぐそこに、そのピンク色の布地があった。チャンはまばたいた。立ち止まった自分を無視して、自分など踏み潰して仕舞おうとするかのように、ヴィーは歩くのをやめなかった。

後ずさりし、不意にチャンは自分が歯軋りしたのに気付いていた。

ヴィーの腹を押した。やわらかく繊細な、その布地の下に息付いた、どうしようもなく瑞々しい触感が、手のひらに一瞬だけふれていた。あたたかかった。

ヴィーはよろめいた。ヴィーが、一瞬、表情を変えたのを見た気がした。降って沸いたような理不尽な嘲笑と、驚愕と、鮮明な恐怖をまぜあわせたような、微細な一瞬の表情の変化を見取ったときに、ふらついてよろめいたヴィーは、川に堕ちた。横向きに、崩れ落ちるように。自分で飛び込んだようにしか見獲なかった。

荒れたコンクリートの道を走る貨物トラックの音響が聴こえた。どうして後ろに押したのに、横に倒れて仕舞わねばならないのか、チャンは理解できなかった。

川の浅瀬の泥地の浅い水の中に、ヴィーは顔を突っ込んでいた。うつぶせに、幼児の両手が泥をつかもうとすれば、むしろその息づいた肉体は瑞々しいまま泥の中に沈んで行った。チャンは悲鳴を上げそうになった。

我慢した。なぜ、我慢しなければいけないのか、分からなかった。誰にも見つかりたくはなかったわけではなかった。女の子があられもなく声をあげるなど、在り獲ない無作法だった。周囲に通り過ぎるバイクは、自分のことなど視界に入れようともしなかった。斜めに、主幹道路を渡った。フエの家の前に近づき、様子を伺い、一瞬の逡巡のあとに通り過ぎた。

フエの裏庭には人の気配はなかった。どこかに出かけて仕舞ったのか。家屋の中で、やさしいハンの用意した夕食にでもありついているのか。道をでたらめに曲がり、走り、息が乱れ、自分の向っている先がどこなのか探した。それは、自分の家以外にはない気がしていた。ややあって、迂回に迂回をかさねるのに飽きたチャンは、諦めて自分の家に辿り着くしかなかった。ヴァンが、氷屋を手伝っていた。

氷を貯蔵する巨大な発泡スチロールのボックスは、くすんで黒ずんでいた。隣の家の、漏れた蛍光照明に一部だけ差されて、それは光っていた。空はすでに昏らんでいた。見あげれば、いつものあまりにも透明な、いまだ青みを帯びつづけた黒さ一色として、夜を始めた空はただ、そこに拡がっているはずだった。

そのままチャンは、そしてヴァンには口が裂けても救いなど求められなかった。クイにも、だれにも。クイは誰かの土地の売買の相談に行って、いまだに帰って来てはいなかった。自分の部屋に引きずり込んだ、幼いマイの相手をしてやった。それを矜持するかのように、未だに乳臭い臭気をいっぱいに周囲に撒き散らしたマイは、声を立てながらチャンにじゃれついた。夜の、食事さえ食べ終わった。

ヴィーの不在に気付いたのはヴァンだった。クイが、彼女単独のの棲み家だった離れの小さな小屋を見に行った。いなかった。ヴァンが言った。どこにいるの?その振り向き見た眼差しはチャンを迷いもなく捉えていて、チャンはそれに答えることが出来なかった。チャンは息を止めた。

ややあって、不意に振り向いたヴァンがチャンをひっぱたいた。チャンは鼻水を噴いて仕舞い、それまで自分が息を止めていたことに気付いた。クイが立ち上がった。どこ?

そう言ったヴァンの眼差しには何の表情もなく、ただ、化粧をされたその眉だけがしかめられていた。川だ、とチャンは言った。クイは音も立てずに座り込んだ。チャンはただ、ヴァンを見つめた。目の前に在る、難解すぎるその表情に、ヴァンの感情の在り処を探ろうとした。クイは、何かを考えようとして、何も考え切れなかった。額を、手のひらに覆った。まるで、と。

自分はいま失意した人間のようだと、そうクイは想った。ヴァンは、人殺し。と、誰にともなく独り語散て、それが疑問形としてつぶやかれたに違いないことに、チャンは遅れて気付いた。

ヴィーの死体は、クイが要請した近所の友人が見つけ出した。自分で探し出す気になれなかった。捜索には一時間くらいかかった。かつぎ込まれた泥に塗れたヴィーの死体に、クイは歎く。歎くしかない。それ以外の感情など、いかにしても不可能だった。もっと、と。ふさわしい感情がもっと、ほかに、自分が忘れ仕舞って気付かないままに、自分の頭の中にもっと、鮮明に息づいている気がした。何重もの意味で、チャンは母親を殺した気にはなれなかった。勝手に、その日めずらしくついてきたのはヴィーのほうだった。危険を感じるほどに接近したのはヴィーのほうだった。押しはしたが、川になど突き落としはしなかった。勝手に堕ちたのはヴィーのほうだった。自分の感情のうちをいくら探しても、事実見たままの風景を頭の中に反芻しても、チャンはあまりにも無罪だった。チャンを育てたのは、あくまでクイとヴァンだった。生まれたのはヴィーの腹からだったかも知れなかったが、いかなる母なる実感も、もはや人間でさえないヴィーには感じることなど出来なかった。彼女にチャンを育てる事は不可能だった。殺して仕舞うことさえも。

チャンは、母親殺しの犯罪者以外の何ものでもなかった。事実、チャンはその手で母を泥の中に突き落とした。だれもが、それをチャンのせいだとはあえて言わなかった。言葉をは隠さないままに、口は閉ざされなければならなかった。チャンはあまりにも幼すぎた。クイのせいにもしたくなかった。クイは町の名士だった。ヴァンのせいにする気もなかった。ヴァンは、気立てがよく美しかった。だれもが、彼女がいい妻だということを知っていた。ヴィーのような慈善家の、言って仕舞えばはた迷惑な慈善にさえも、けなげに寄り添って夫の慈善の後始末をつけてやっているのはまさにヴァンにほかならなかった。殺されたヴィーのせいにすることなどもってのほかで、だれもが、ヴィーを殺したのがチャンであることは知っていた。

クイがひとりでその葬儀の準備をしていた翌日の夕方に、部屋から降りてきたチャンが、ヴァンに縋って、いまさらのように私が殺したの、

Con giết

と、そのしがみついた腹部にささやいた。涙さえ浮かべるわけでもなく、何の悔恨も、曝される何の葛藤の痕跡もない、言われたことを言われたがままに追認しているにすぎないチャンの口ぶりが、ヴァンを一瞬いらだたせ、次の瞬間、ヴァンは声を立てて笑った。笑うしかない気がしたし、事実、笑いを抑えることなど出来なかった。戸惑いもせずに、チャンはヴァンにしがみつき続けた。朝の日差しに体の半分だけふれさせたヴァンの、あまりにも清楚なたたずまいが不意に、鮮明に、チャンを悔恨させたのだった。

自分は、彼女のために、いわば殉教しようと想った。人々が、そしてヴァンさえもが自分が人殺しだと想うのならば、あえて私は人殺しになろうと、そして。触感。

たしかに、彼女の手のひらには、否定しがたくふれたヴィーの腹部のやわらかな触感がかつてあったのだった。もはや、すこしも想い出せないにもかかわらず、いずれにしても、わたしは自分の母親を殺した。

チャンはそう想った。容赦なく、認識が彼女を目舞わせた。朝の光はあたたかく、やさしく、穢れさえもない。クイは何も言わなかった。チャンのような子どもと、一緒に同居させたのが間違いだった気がした。あの、まともには生きてはいけない儚い、美しい存在を、むざむざと、いまだ人間未満のいたいけない娘の無邪気に殺させようとしたのと同じことだ、と。クイはいつか悔恨を抱えていた。とはいえ、家の動物小屋じみた離れ以外に、哀れな彼女をその陵辱者たちから守り、囲って遣るべき場所などなかった。

家族のものたちはヴィーの死に、それぞれの仕方で安堵した。クイがヴィーを連れて帰ってきた日のその朝に、これが私の妻だと、自分の部屋に連れ込んでベッドに寝かせた腕のないヴィーのうす穢れた身体を見せられたときに、家族のものたちはだれもがクイの正気を疑った。そして、その女は、明らかに正気を欠いていた。いつでも見開かれた眼差しは、眼に映るものをすべてを愚弄してさえいた。

父親のVữ ヴーは想いとどまらせようとして罵り、母親はなんども、押し黙ったままのクイの、その頭の中の狂乱の理由を尋ね、慮り、クイを知る人の片っ端に心当たりを尋ね聴いて回った。それは、クイが壊れた出来損ないの女を連れ込んだ事実を、人々に吹聴して回ったことをしか意味しなかった。人々は一瞬だけ戸惑い、すぐに、クイの無私の善意がなせる慈善なのだということに気付いた。それが、英雄クイの名声をより高めた。母親はただ、苛立った。クイが望んだ法的な、正式の入籍を家族のだれもが拒否した。父方、母方両方の祖父にまで拒否されては、クイも、さすがに勝手に法手続きして仕舞うわけには行かなかった。そもそも、ヴィーに戸籍はなかった。実家からは、クイに奪われたのをいい機会に、かつて彼女が家族のなかに存在していた、その存在の事実をさえいまや否定された戸籍のない女と結婚するためには、さすがのクイでさえ法律書の見慣れないページを調べなおさなければならない。

父親に苦笑を添えながらそれを言ったとき、一瞬哄笑がかった笑い声をたてたあとで、ヴーはやがて深い同情に眉を顰めた。ものの見事に一瞬でもはや、なにもかもが歎かわしく、ヴーは彼に感じられた人間精神の日常と人間倫理との深刻な隔たりに、むしろ憤りに似た嘆息を曝すしかない。

ヴァンがクイに想いを寄せていることは家族のだれもが知っていた。ヴァンはけなげに暇さえあればクイのうちに来て、そこが自分の当然の居場所のように、クイの異母の弟Sáng サンの夫婦が仕切っていた氷屋の仕事を手伝った。

いつか、ヴァンはもはや既成事実として、クイが彼女の婚約者であることを家族のものたちに承諾させていた。クイは、ヴァンを婚約者として見い出すしかなかった。ヴーの家族のだれかの死者の命日のパーティの日に、クイの母方の祖母が、ふいにいたずら見じた眼差しの許に声をひそめて、お前たちはいつ結婚するんだい?

そう言った。ヴァンが大袈裟に恥らいながら、クイに全部任せてある、と言った言葉を、その祖母は意図もなく嘲るような微笑みのうちに聴き取る。クイは聡明だから、タイミングを見誤ることなど在り獲ない。ヴァンは教え諭すように言う。クイの慈善家ぶりは、街中のだれもが知っている。すべて、クイに任せておけばいいので、わたしたちは実際にはもう夫婦同然の生活なのだから、わたしには何も心配も問題もありはしない。

祖母は声を立てて笑った。言った。さっさと子どもでも作って仕舞うがいい。先に生まれようが後で生まれようが、つがいの男と女は、子どもがいてこそ本当のつがいになるというものだ。それに、人間はいつでもばたばたと死んでいくものなのだから、次々に作っておいたほうがいい。ヴァンはそれらの、途切れ途切れに、老婆に想い付くかれるたびに発された言葉を、まるで賢者の言葉を聴くような眼差しの許に聴いてやり、そして、傍らに寄り添われていたクイの耳にも、ヴァンの息遣いまでふくめてすべては聴き取られていた。

クイは、もはや彼女を放っておくことなどできないことを自覚した。数日後、朝の起き抜けに実母のヒエン Hiển に言った。来月か再来月か、術師に日を見てもらって縁起のいい日に結婚する。ヴァンにそう伝えておいてくれ、そして、ヴァンを術師のところに連れて行って、ふたりの縁の日を見てもらってやってくれ。

だれが結婚するの?耳が聴き取る聴きなれない言葉に不意に、そんなおろかな言葉を返して仕舞った母親に、わたしたちです。クイは答え、そして、数秒後に声を立てて笑った。母親はクイに、何か言葉をかけてやることさえ忘れて、振り向きざまに店先のヴァンに声をかけると、ヴァンに伝えた。ヴァンにも、クイの言葉などもう聴こえていた。

恥ずかしがり屋で、奥手なクイがやっと決心したみたいだよ。と、ヒエンは、そして一瞬で、滂沱の涙を決壊させてヴァンはその場に泣き崩れた。背中を日差しがななめに直射した。周囲のだれもが彼らの婚姻を噂しあった。あるいは祝福した。クイは両親とヴァンに折れたわけでは決してなかった。事実として、すでに彼はヴァンを愛していた。女として、妻として、伴侶として、恋人として、妹として、想い付く限りの、すべてとして。あるいは、自分がヴィーへの想いの純粋さを、ただ、自分で勝手に泥を塗り、自分がした行為のすべての意味を剥ぎ取り、地に落とし、踏み潰し、破壊し、穢して仕舞ったことを、クイは自覚した。

そっけない術師の言うとおり、二ヵ月後の4月24日にクイとヴァンは入籍した。ヴィーが連れてこられた時には腹にいた、だれの種とも知れないチャンは1歳になっていた。だから、慈善家のふたりは、ふたりがむすばれる前にはすでに、一人の娘を育てていたのだった。

結婚式の写真を撮るのに、写真屋は難儀した。新郎が顔を半分隠して横ばかり向いているのはあまりにも変だった。ふたりが正面を向いて笑っている表情が、最低でも一枚くらいは必要だった。だが、新郎に正面を向かせることは、これから築かれるべきふたりの未来に、容赦もなく暗い破壊的な翳をなげつけて、泥を塗り唾を吐きかける行為にほかならなかった。カメラマンの、言い出しかねた逡巡にはクイも気付いていた。彼に気を使うあまりに、クイはあえてなにも言わなかった。はやく撮影が終ってくれることを、写真屋のために祈った。ヴァンは、横を向けばつねに真正面から自分を見つめているクイの、取らされるポーズのすべてがどれも、あまりにも色男じみていたので正気をなくしそうになるばかりで、ふたりのささやかな逡巡と葛藤には気付かないままだった。

祖父が、不意に言った。気にしなくていい。息子の顔なら気にするな。それは英雄の証拠なのだから。その、立派に崩れた顔を克明に撮ってやってくれ。

写真屋とクイは自分の不明を恥じるしかなかった。たしかに祖父の言うとおりだった。クイは護国の英雄だった。写真屋は、まともな人間のものとは想えない英雄的な顔を撮った。やがて人々は4月26日の午前に、ヴーの家の前に拡げられた酒宴の、結婚式の花々の傍らに微笑む貞淑なヴァンの顔を見い出し、彼女の腹の中に子どもさえいることを知らされた。クイは、弟のダットの祝福を受け入れ、ダットは心のどかで兄を感謝した。チャンには違和感があった。クイがひとりで取り仕切ったヴィーの葬儀に、だれも参列しないことに。だれもが、ヴィーを毛嫌いしながらも尊重していた。クイの選んだ女だったから。だれもが日常の生活の中で、日常そのもとしてヴィーに食物を与え、ときには喰わせさえしてやって、とはいえ、死んで仕舞えばもはやヴィーの周辺に、その死そのものを忌避するかのように、近づくものなど誰もいなかった。そればかりではなくて、あるいは、ヴィーの住まわされていた粗末な小屋が、クイが呼んだ葬儀屋に花々に装飾されて、いびつに偽装された美しさに彩られていくことにも。

花々には、それがたとえ弔いの花々であったとしても、容赦のない華やぎがあった。それが、花々それ自体の限界のように感じられて、チャンは戸惑った。

穢く、いかにも貧しい家屋は装われて、それは、例えば美しい羽根だけを無理やり貼り付けられた、穢らしい毒蛾を見せ付けられたようにさえ想われた。さらに、美しいには違いなかろうが、明らかに狂ったものの穢らしさをいつも曝していたヴィーが、あるいはそして、穢い泥の中に顔から埋もれていたヴィーが、洗浄されてただただ綺麗に花々に飾られて沈黙していることに。死んで仕舞えば、たしかにヴィーは造型として美しかった。チャンにさえ、それを否定する事はできなかった。いつも、ヴィーはチャンを見かけると、ヴ、と、ヴァ、と、や、のない交ぜになった音声を、ながくその喉に立てて、威嚇するのか微笑みかけるのか理解できない表情のようなものを、その眼差しにだけ曝したものだった。顔の筋肉など一切緊張させないままに。幽閉された、薄暗い、いつでも半開きのドアの向こうで。眼の前のものが、自分の生みの母親である事など知っている。そのとき、周りで犬が吠えた。庭先で放し飼われていた、クイの祖父がどこからかつれて来た犬が。茶色地に、黒い毛をまだらに散らした大型の犬。単なる機械仕掛けの有機体のような、表情のない犬。母は花々に囲まれていまやこれ見よがしなまでに美しい。犬は、疲れ果て、舌を出して、ゼラチンじみた唾液をたらす。花々が匂う。

葬儀を手伝うチャンを、クイははあえて責めなかった。チャンは知っていた。クイさえもが、チャンがただの人殺しどころか、あろうことか母親殺しの犯罪者であるにほかならないと固く認識してさえいることに。クイは作業が終わった後で、たったひとりで大量の白い花々を抱えてきた葬儀屋と話しこんでいた。

樹木の日陰の切れ目に、日差しは翳りを鋭利にまっすぐ切り取ったかのように葬儀屋の背中をだけきらめかせた。葬儀屋も土地問題を抱えていた。町の中心部からは離れたところにあったが、外国資本のゴルフ場の建設地の圏内にあった。土地は、唐突に高騰した。放し飼いの牛が草を食んでいるにすぎない、勾配のなだらかにうねる土地の、その一角だった。家族のお互いが、その所有権の独占を主張しあった。どこにでも彼処にでも、もはや日常的にあふれている話だった。

チャンは、背を向けて話し込むクイの眼差しを遁れるように息をひそめて、庭を抜け出した。めずらしく犬は吠えなかった。その存在にさえ気付かない。老いさらばえた犬は、もう死にかけているに違いない。フエの家に行った。フエの家族は、チャンを見留めると、チャンを気遣った。だいじょうぶ?そう言い、忘れればいい。気にする事はないのよ。あれは事故だったんだから。でしょう?

と、そう言って抱きしめてくれたハンの言葉に、チャンは彼女の胸元の体臭をいっぱいに嗅いでみながら、ここでさえ自分が人殺しであるとして認識されていた事実を、抗い獲もしないままに実感するしかなかった。フエが言った。あなた、と、

Em…

声をひそめて、ブランコにゆられながら。不意に言い淀んで、そしていきなり振り返り見、その、白い、もとはと言えばフエのためだけにハンが買ってやった、そのブランコは軋みながら音を立ててふたりを乗せたまま揺れていた。綺麗だった?

Đẹp không ?

言う。

Má em

お母さんは

Đẹp

綺麗だったの?うなづく。チャンは、あるいは、あなたの綺麗なお母さんの葬儀は。と、そう言った、フエに、チャンはうなづいて、町の人間はまともにヴィーを見もせずに、天女か何かのように美しいらしいヴィーの美しさと、頭と体の欠陥を噂しあっていたものだった。クイに関する噂話の、その話のねたが尽きたときには唐突に。いちども姿を見もしないままに、彼らはその存在をはよく知っていた。フエさえ、いちど戯れじみて木戸の隙間から、息をひそめながら隠されたその生みの母親を垣間見ただけだった。声をひそめ、秘め事めかし、そのとき、綺麗。

Đẹp

と、聡明で知られたフエはそれしか言葉を知らないように、ただ、その短い言葉を、そして見つめた。チャンは、振り向いたフエがいちどだけ口にしたその言葉を、背を丸めて覗き込んだ彼女の背後に、綺麗ね。

Đẹp

聴いた。フエがそう言ってくれるならば、それは誇らしいことに違いないと、チャンは意味もなく自分に傲慢さが目醒めていたのを恥じた。自分を見つめるものめずらしそうなフエの眼差しから、かすかに高揚した倦んだ色彩が消えなかった。フエは見たのだった。チャンが平皿にもって遣ったブンという麵料理を、手の支えもなく苦しげにひざまづいて、猫のように首を振りながら喰っている人間の女を。生みの母の死体の有様を聴くフエに、結局は、綺麗だった、とても。と、そう繰り返して、それ以外に言葉など言う手立てさえもなく、ただのなし崩しにふたたび、綺麗だったわ。

Đẹp quá...

チャンはつぶやきながら、あるいは、不意に嬌声を上げたフエに、自分が彼女に留保ない嘘をついて仕舞ったことを自覚した。その瞬間、人殺しで、その上母親殺しで、しかも嘘つきだと、これから人々のだれもが自分をそう呼ぶに違いない鮮明な実感が、容赦なくチャンをおののかせていた。目に映るものすべてが、チャンに敵対していた。牙を剥こうとは決してしないままに、にもかかわらず、すべて、例えば眼差しの先に自分を覗き込んだフエの、その髪の毛の先に絡んだ、咲き乱れて堕ちたブーゲンビリアの花、一年中飽きることなく咲き乱れ散りつづける色彩さえもが、チャンを無言のままに拒絶しているのは明らかだった。

その無言には留保もなく、ただいかめしい厳しさだけがあって、不意に、チャンはフエに口付けた。フエは、意味もわからずに声を立てて笑い、幼いキスを返した。

遠くに、ハンが笑った。彼女はいつもやさしかった。

トゥイが庭に立ちつくして、庭に突き出した水道を指差して何か叫んでいた。この、自分を拒絶しかしない世界の中で、生き残っていくためにはただ、計算され尽くした倫理が必要だった。チャンは、倫理だけを、その眼差しの中に探した。唇に、誘惑するように笑い声を立て続けるフエの息がかかった。笑っちゃうの、と。

そう言った、チャンの眼差しをフエは、覚えていた。耳元に、人々が発した怒号を響かせながら。

それら、戯れじみた、怒り狂った無数の嬌声。乱れて響く。体の上に乗っかった男の至近距離の息遣い。群がって、破壊する男たち。知ってる?

つぶやく。チャンは。それは16歳の誕生日のパーティ、そのあとの海辺で、浪に全身をふたりでずぶ濡れにして仕舞いながら、お父さん、生まれたときから、あんな顔だったの。

声をひそめて言った、チャンのその早口を耳に聴き、何を?と、そうフエは、何を言ってるの?

その言葉をさえ、ささやきかける隙さえ与えられない。

すぐに、チャンのはしゃいだ腕が、声を立てながら彼女を抱き締めて仕舞うから。想い出していた。チャンは。

その、歴史の授業のときに。カンボジア戦役が、1979年に終ったのなら、カンボジア戦役の英雄たるクイは、決して、87年生まれのチャンに、そのいまだに癒えない戦傷の手当てなどさせたはずがなかった。だれもの意志を超えて、単に不可能であるにすぎない。チャンは知っていた。

その、鮮明に記憶していた臭気。皮膚が立てるのか、にじんだ血が立てるのか、膿が、あるいは、それ以外の何かが立てるのか、いずれにしても、咬みついて骨に牙を残されたような、そんな、痛みさえ伴うあざやかすぎる臭気。

穢い、と、言葉もなく眼差しの中で確認し続けなければならない穢さ。

その存在。

眼差しに見い出されていた皮膚の色彩。すぐそこに曝されている朽ちた色彩。息づき、いまだに生き生きと生きている人間の、生き生きとしたままの。それ。

それら。赤と、白の斑点の点在。あるいは、赤から黄色に白味をまぜて彷徨う色味のざわめき。触感。

剥ぎ取られたガーゼの。手のひらの上。振り向いたヴァンがチャンになにか命じた。

それは聴き取れなかった。てざわり。包帯の。黄ばみ、黒ずみ、白い汚濁をこびりつかせた、それ。ヴァンがチャンの眼の前に差し出した使い古しのそれら。指先につかまれてぶら下がる。傷付いた、不機嫌に息遣うクイの、自分を決して見ようとはしない俯き顔からはがされたばかりの穢れものの、それ。

それが差し出された手のひらの上に落とされて、その瞬間に、それは触感として存在し始めたのだった。子どもの手のひらの上。身動きさえせずに。

瞬きさえしないで。

チャンは。それを見つめていた。そんなはずなど、と。

ない、と、そうチャンは想った。高校の授業、とっくに知っていた。カンボジア戦役のことなど、飽きるほどなんども聴いたから。在り獲ない。

教科書に教わるまでもなくなんども、知っていた。その頃のことなど。人の口に、言葉で。文字で。あるいはクイ曲がった唇から。

ヴァンの口紅の塗られた、あるいはいまだ塗られない唇から。

ヴーの血色の悪い乾いた唇から。

言葉で。テレビで。

映像。

目で。見る。読み取る。聴く。声。そして退屈な授業の中でさえも。フエは興味深げに聴いていた。知っていた。

そんな事実など在り獲ない。チャンは、わたしは、ない。と。クイのその生々しい傷痕など。傷付いたままの彼の息遣いなど。振り向き見たヴァンの、自分を責める一瞬の眼差しなど。血と膿みに穢れたガーゼも包帯もなにもかも、その近くに近寄ったことさえもない。フエはなぜた。

チャンが声を立てて笑い続け、風がときに濡れた肌にじかにふれた。寒さを一瞬でも感じて仕舞えば、もう一度海水を体中にぶちまける。

感じられていた。肌に。

海水の温度。

フエは、自分の頬を打った、振り向きざまのチャンの髪の毛の不意のいたずらに眼を閉じて、そして、やがて開く。捉える。男たち。

怒り狂った、笑い声の群れ。

見開いた眼差しに、フエは捉えていたのだった。やがて、無数の、自分に襲い掛かった男たちの自分を覗き込む顔と、その体臭。

触感。皮膚と、乱れた衣服と、そして耳にふれていたのは彼らの声。

空間に飛び散ったそれら、乱雑で、だれにも気を遣わない、投げやりな、そして、不意の哄笑。

あるいは嘲笑のように聴こえた、耳元に鳴った邪気もない笑い声。

容赦もないざわめきが群がる。

息遣い。

想った。フエは。連れ去られたアンは、とっくに殺されて仕舞ったに違いない、と。そのときに。

 

会社の友人の誕生日パーティは長引いた。二次会のカラオケに、その誕生日の Quan クアンがフエを誘って離さなかったからだった。彼は、いつでもフエに寄り添って離れなかった。まるで、同性の友人のように。

フエがうちに帰ってきたとき、家には照明などなにもついてはいなかった。会社は来月で辞めるつもりだった。上司にはすでに伝えてあったし、クアンにも誰にもすでに言ってあった。サイゴンに行くつもりだった。サイゴンの、砂糖をぶちまけたように甘いらしい料理が自分に食べられるかどうかが不安だった。そして、自分のひどい中部なまりが南部の彼らに聴き取られるのかどうかも。

いずれにしても、サイゴンに行けばキャリアを積むことはできた。父親や、弟のようにダナンのような中部の田舎町に埋もれて仕舞う気にはなれなかった。十二時をあと二十分足らずで廻る。ブランコに、トゥイが座っていた。トゥイとタオが住んでいる、北側のもうひとつの離れのドアは照明もつけられないまま開け放たれていた。眠れなかったのか、あるいは、はやく寝すぎて、はやく起きすぎて仕舞ったのか。トゥイは夜中に目醒めて、ひとりで出て来たに違いなかった。あるいは、夕方からずっとここに棄て置かれていたのだろうか。

仏壇の電飾だけがまたたいて、トゥイろブランコに複雑な色彩を与えていた。フエはバイクを降りて、トゥイの隣に座った。眼差しの向こうにブーゲンビリアの花々が、いつものように咲いていた。昏く、それでも否定しようもなくその色彩はほのめかされていた。

明るい夜だった。かさなりあう花々と葉々の上、その果ての向こうの空は暗い雲母の様の雲をまばらに、引き裂いたように散らして乱し、いやまして暗く、為すすべもなく鮮明にもはや、澄んでいた。花々が庭に無数に堕ちて、樹木のうねって地をめくり上げた根の前に、見たこともない首が突き出しているのをフエは見つめていた。彼女。その、堕ちる女。愛された女。彼に、わたしに、と、見あげられた青空の下に逆光の中、堕ちて行ったあの女、開かれた口から、そしてたんなる昏い穴ぼこにすぎない両眼から、彼女が血を流しているのは知っている。

フエは瞬く。やがて、かつて愛するその女。自分に近い褐色の肌。きれいね。

彼女は言った。注射を打つ前のその一瞬、わたしを見つめて。

上目遣いに、と。想い出す。フエは、白い肌。

きれい、んー

ね?と、彼女は言って、頬のゆがみだけで彼女が微笑んでいることを伝えた。見つめた。そこで、その女。色彩もないままに、血の色彩の鮮やか過ぎる鮮度を曝すしかない女。もはや、その昏いだけの翳りに、男なのか女なのかの区別さえもつかない。その翳りさえもがすでに風化して仕舞ったかのように、そこに、そしてそれは否定しようもない存在をだけ克明に穿っていた。違和感があった。なにに対しての違和感なのか、とっさには分からなかった。眼差しが捉えたそれら、いわば世界が違和感を生起させるのか、自分そのものが違和そのものにすぎないのか、不意に、生まれてはじめて見る風景にふれている気がした。自分さえまるごとそのうちに孕みこまれて、覚醒している。わたしだけが。あるいは、すべてのものが、と、そしてこのわたしさえもが。フエはそう想った。ややあって、それはトゥイが、いちどもなにも叫ばなかったことへの違和感であったことにようやく気付き、フエはあわててトゥイを見た。トゥイの沈黙。覗き込み、トゥイは寝ていた。

自分の衣類が立てた衣擦れの音を聴いた。ベンチに座り、肌寒い外気にじかにふれながら、いかにもやすらいだ寝息を静かに立てて、トゥイが寝ていた。トゥイが不意に、前触れもなく死んで仕舞ったかもしれないその可能性を疑った一瞬の自分を、フエは心の中でだけ笑った。立ち上がったとき、ブランコがゆれた。軋んだ。トゥイは目醒めなかった。締められた木戸をなんどか叩いた。

ややあって、アンが鍵を開けたとき、数秒その暗い、絶望的な眼差しを見つめた後で、フエは微笑む。アンがフエのバイクをふたつめの居間に収納してやっている間に、フエは、父と母とアンの寝室のシャワールームで汗を流した。いつものことだった。父親は寝ていた。母親は、いつものように、炊事場近くのホンの部屋で添い寝してやるうちに寝って仕舞ったに違いなかった。甘えっこのホン。だれかのそばでないと生きていけない。

バスタオルで体をふきながらシャワールームを出て、暗い空間に褐色の肌を曝し、涼気は皮膚が乾いていくほどに、肌に鳥肌をいっぱいに立てて仕舞う。洗い流したというのに、自分の皮膚に、いまだにかいた汗の匂いがこびりついている気がしていた。染み付いた、だれかが飲んだビールの匂いと、だれかが吸った煙草の匂いも。ふたつ目の居間、その天井の真ん中に、チャンがさかさまにぶらさがって血を流していた。しずかに、西の方に、海のほうに。

あざやかな、想わずまばたきして仕舞うほどに鮮明なその血の色彩は、フエに見つめられていた。色彩のない、昏く、穢すぎてもはや穢いとさえ言獲ないただの翳りのゆがんだ残骸が、かわいいチャン。それが彼女であることは知っている。明日、自分のすべてを破壊して仕舞うチャン。チャンの吐き出す血が、ひたすらな鮮度を矜持しながらしずかに、ゆっくりと、フエの頭を越えて流れ去っていく。ほら、と、フエはチャンに、バスタオルを完全にはだけさせて、自分の体を曝してやった。見たいんでしょう?あなたは。

Em...

ほら。

có biết

あなたが焦がれるものが

tồn tại em mơ ước

ここにある。微笑み、

có ở đây

頭の中でだけフエは独り語散る。あなたは

nhìn chằm chằm...

見る。壊れて仕舞った。

瞬いた。あなたは、と、そして、チャンが焦がれて、求めた、フエの褐色の身体をチャンはもはや見えるはずもない。色彩をなくしてそこにたたずむ彼女は。その眼差しに、フエの身体を見つめ続けながら。

寝室に入ると、アンが背を向けてベッドに寝ていた。蚊帳をはぐってベッドに滑り込めば、崩れるように垂れ堕ちるその繊細な布地が皮膚にふれた。声を立てて、その感触に笑いそうになり、フエは、アンが身につけているショート・パンツを脱がしてやった。アンはいじけたように、いまだに眠ったふりをした。いつものように、そして、アンの尻に、戯れて唇を押し付けてやる。いつも、それは予想以上にやわらかい。男のくせに、と、フエが仰向けになると閉じられた眼差しの向こうに、ややあってフエはアンが身を起こしたのに気付いた。自分の体の上に馬乗りになったアンを、フエは、まぶたさえ開かないままに手のひらに制して、アンは戸惑う。戸惑いは、フエに、その気配のうちに、鮮明に曝されて仕舞っていた。

フエは、傍らに棄てられていたバスタオルを、顔中に巻いた。鼻に、濡れた布地と、濡れた自分の体臭の移り香が匂った。ほら、と。フエは想った。出来るでしょう?

いまなら。こうすれば。最後まで。あなたは、と。

想いを遂げられるでしょう?顔を隠したその下に、フエは自分が声を立てて笑いそうになっているのを知っていた。頭の中に、彼女はつぶやいた。自分のささやき声に、フエは微笑んだ。死んで仕舞ったように。まるで、ね?

わたしがすでに死んで仕舞ったように、と。そしてただ体だけを曝して、あなたに捧げられて仕舞えば、あまりにも絶望しすぎたあなたでさえも。

バスタオルが完全に包みこんだ暗やみの中に、フエは身を完全に投げ出して、アンの暴力的な愛撫に任せた。息遣い、目を閉じた暗やみにさえ、暗やみの固有の色彩の鮮やかさが存在していることに、もはやフエは哀れむしかなかった。

 

次の日、フエを起こしたのはチャンの携帯電話からの着信だった。傍らにアンはもういなかった。いつものことだった。下腹部に、鈍く、重い痛みがあった。射精されたものが、結ばれはしなったことに気付いた。枕もとに寝乱れたバスタオルに、感じられる痛みを拒絶するかのように横顔を押し付けて、フエはヴァンのしずかな声を聴いた。ヴァンは言った。チャンがいないのよ。どこにも。

どこにも?

どこにも。ヴァンは、チャンを探してくれ、と言ったのだった。チャンのうちに行くと、クイが、もはや目に映るものすべてに絶望している、と、単純にそう言って仕舞うしかない表情を喪失させた複雑な顔を曝して、氷屋の前、赤いプラスティックの椅子に座っていた。傍らに突っ立って、誰かを待っているらしいヴァンが、いまさら、不意にフエを見つけると、その、フエを見つめながらも決してフエをは見てはいない不穏な眼差しを曝して、チャンが朝からどこにもいない、と、同じ事を繰り返し、あるいはクイは何も言わない。

クイのいとこの妻が一人だけ残って、氷屋を切り盛りしていた。30すぎの彼女は、久しぶりに顔を合わせたフエに邪気もなく笑いかけた。元気だった?

クイの友人たちをも含めて、何人もの人間たちが、チャンを探し回っているらしかった。フエは、バイクで町を彷徨った。

午前の早い時間の光が、着の身着のままに出てきたフエの肌に、じかにふれた。海辺を遠くまで、走ってみた。なんども暇つぶしに、ときにはチャンとこの主幹道路をバイクで走ったものだった。何軒か、海沿いのカフェを覗いた。いつもチャンはミルクコーヒーを飲み、フエはサトウキビのフレッシュジュースを飲んだ。甘くするために、塩を振って。大通りに出て、チェの店を回り、空港の近くの飲食店を回った。極端に小食なフエの食べ残したものは、いつでもチャンが食べてやったものだった。一緒に通った学校の片っ端を廻り、チャンの翳をさがした。高校を出た後も無職のチャン。ひがな一日、暇つぶしに追われるチャン。そのくせ、男をはべらすわけでもない。

想いだされるいくつかの取りとめもない想い出以外には、チャンの姿などどこにもなかった。あらゆる友人たちに、電話した。だれもチャンの姿など、見たものはいなかった。もう一度海に行き、バイクを止めて、雑然とした砂浜のまばらな海水浴客の中にチャンの姿を探した。海はさざ浪だち、その止め処もない音響が空間をひくく満たした。潮が匂った。フエは不意に気付いた。チャンは、まだあの部屋にいるに違いない。彼女の寝室に。

部屋。日当たりのいい、三階の仏間。フエはチャンの家に急いだ。珍しく、交通法規もなにもかも無視して突っ走る女のバイクを、無数のバイクが派手にクラクションを鳴らして避けた。ときに罵声を投げつけながら。クイに言った。チャンはどこ?

クイは首を振り、まだ還ってきていないと、その言いかけた言葉が終らないうちに、部屋の中は?

フエが言った。

見たの?

ヴァンが、もう見たわよ、と、なじるように言っていた。その声を、フエは背後に聴いた。クイにはいまだに表情もなく、ヴァンの眼差しは、それが見つめるものすべてを見い出してはいない。ただ事ではなかった。もう一度、と、フエは、もう一度、見てみましょう。

そう言った。ヴァンが、やさしく声を立てて笑った。いないわよ。

邪気もなく、むしろこぼれるように、想わず微笑んで仕舞いながら。

チャンの部屋は、まともにドアさえ締め切られてはいなかった。ヴァンとクイを連れて階段を上がり、その半開きのドアを押し開けると、壊れたチャンと、死んだマイがいた。マイはベッドの下の床に、首を在り獲ない角度にひん曲げてうつぶせ、自分の血と、自分の体の穴と言う穴から吐き出して仕舞ったみずからの汚物に穢れていた。体中に刺し傷があった。あるいは、なんども刺された挙句に、死に切れないその体の首さえ絞められたのかもしれなかった。いずれにしても、首の骨格は完全に破壊されていた。ベッドの上にチャンが胡坐をかいて、こっちに向いていた。淡く、やさしい逆光のなかで、彼女はうつむいていた。髪が垂れ、その体中、なにもかもが、チャンは血まみれだった。チャン、と

...Trang

その名前をフエは呼んでやるしかなかった。

フエは、その名前を呼んだ。背後に、クイも、ヴァンも、もはや何の反応も示さなかった。フエは、チャンに近づき、ひざまづくようにその前に座って、チャンの頬に触れた。フエの眼差しは、チャンのすべてを捉えていた。チャンの両の眼窩に眼球はなかった。チャンが自分の指で、穿り出して仕舞ったに違いなかった。眼窩が流した血は、あっけないほどにむしろわずかだった。チャンが染まっていたのは、マイが流した大量の血にだった。チャンは鼻血を両方の鼻から流していた。鼻水が混じって、息遣うたびに、水を指先にちいさく混ぜたような音が立った。いつか、自分で咬んだに違いない唇が裂けて、血をにじませ、そして、真っ赤な両手は、その千切り取った眼球をつかんでいた。フエの心に、もはやなんの、感情のざさ浪さえもが打ちはしなかった。フエは、チャンを見つめた。チャンはまだ生きていた。致命傷ではない、のかもしれない。いずれにしてもチャンはまだ眼の前で生きている。そして、フエはすでに知ってる。チャンが、そして両眼をなくし、心さえなくしたままに、ずっと、その後、自分が死んだ後の何十年もまで生き続けていくことくらいは。

チャンの頬をなぜた。

チャンが声を立てた。う、と、ヴ、と、は、と、あ、と、その他、何かの拗音を混じらせたような、そんな音声を立てて、そして、フエは、振り向きもしないままに、ヴァンか、クイか、あるいはその両方かに言った。知ってたんですね?

Chú đã biết không ?

知らない。まだ。

Không biết...chưa

答えたのはクイだった。

Điện thoại Trang ở đâu ?

チャンの携帯はどこにあったの?

Sàn phòng... gần Mai

床。マイの近くの。

答えたのは背後のクイだった。

どうして、見なかったことにしたの?

見なかったから。

背後に立って、正気づいたようにフエの後姿を見つめたクイが言った。

なにも、見なかった。

つぶやいた、クイのその声を、チャンは聴いていた。

 

 

 

 

 

紫彩のブルレスケ

 

 

昼下がりに、19歳になったアンはバスで、ハン川沿いの主幹道路を走った。もうすぐ家の前を通るはずだった。背後に、十人ばかりの韓国人たちが、アンには一切理解できない彼らの言語をわめき散らして、なにかに喚声を上げて騒いでいた。晴れた日、日差しがガラスの向こうのすべてに散乱し、邪魔っけな一台のバイクに一度アンはクラクションを鳴らした。家の前を通り過ぎようとする、その何秒かの前に、妹を乗せた母親のバイクが道路に侵入して来て、その中央に止まった。バイクを止めたハンが、アンを見ていた。あれ?

と。そんな、むしろ、歳のわりにあどけなすぎる表情を一瞬、曝した。ホンは、母親相手になにか、さかんにはしゃぎたてていた。不意に振り返ったホンの眼差しがアンを捉えた。アンは妹に微笑んだ。ブレーキを踏めばいいだけだった。いくつかのバイクが彼女たちを迂回して走った。アンはアクセルを踏みしめていた。それが間違いだということに、バイクごとその巨体が二人を轢きつぶして仕舞った後に気付いた。自分が踏んだ急ブレーキが、むしろタイヤの下の身体を、完全に破壊しているのには気付いていた。背後に、韓国人たちがいっせいに罵り、彼らが立てた、絶望的な悲鳴の連鎖を聴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.21.-09.25.

 

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

scherzo; largo

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125047/read 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125077/read

 

 

 

 

 

紫色のブルレスケ

散文

 

http://p.booklog.jp/book/125299/read

 

 

紫色のブルレスケ

散文

 

 

http://p.booklog.jp/book/125358/read

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付

 

紫色のブルレスケ ③


http://p.booklog.jp/book/125407


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
ホームページ
https://senolema.amebaownd.com/


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/125407



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト

 


この本の内容は以上です。


読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について