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紫色のブルレスケ #4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブルレスケ

散文

Trio; Burlesque

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

Oδίπoυς τύραννoς

オイディプス王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Thúy トゥイ

 

 

 

空が

にもかかわらず

嘘ばかりつくので

知っていた

雨が

光は

堕ちた。それで

堕ちるべきところに

雨が

堕ちる

干上がって仕舞った。雨が、

つねに

と、トゥイは為すすべもなく、

感じる?

花が

わたしの命

匂った。言った。

...Mưa

見る。

感じていましたか?

耳の中には

わたしの

庭先の

この

ブーゲンビリアが

命を

咲き乱れて、

sẽ

匂うのはただ

rơi

あるいは

rồi

雨が

お願いです

傘は必要ですか?

降らなかったせいだ。

もう

どこかで

聴く。

恥ずかしがらないでください

やがて雨が

鼻を嗅げば、匂うのは

なにも

地上に降ったら

ブーゲンビア。その、口から

恥ずべき事などもはや何もなかった

花が

吐かれて鼻に衝く

だって、もう

あなたは今も傘が必要なんでしょうか?

匂いに、花の

世界はすでに目醒めて仕舞って

咲くわ

匂いなどもはやどこにもしてはいなかったことを

ぼくたちは

花々が

ひそかに

ただ

いっせいに

笑う。

取り残されて

やがて

それは

やがてぼくたちはふたたび

どこで?

雨の水滴のざわめきだった匂いにほかならず、

気付いたのだった。それは

ここで

トゥイは

誰のせいでもなかった。ただ

あなたの眼差しの中で

笑うしかなかった。不意のまばたきのなかに花々のあまりの無力さを。フエと呼ばれる

僕たちが、いつか

いずれにせよ

その、それ。

世界を

多くの場合沈黙はわたしを傷付けたものだった。たとえ

百合。

追い越して仕舞ったからだった。遠く

配慮されたやさしさがもたらしたに他ならなかったにしても

それは、

背後に

容赦もなく

Huệ、百合の花。

フエ、Trần Thị Huệチャン・ティ・フエ、Hoa huệ …百合。仏壇に飾られた羽虫をたからせる百合とは似ても似つかないながらも、蓮の花なら

早朝の仏らは

ハノイに

いま

売っている。それは

喰らいつく

褐色の色彩を曝して、

花々に

それが、

群れを成して

食べられる。

食べなさいよ

それが

彼女であることは、蓮の、

遠慮しないで

知っている。その

あなたが望むとおりに

根は食べられた。花が、

Ăn đi

言った。

ほら

咲くよ。

Hoa

嘘はつかないでください。

花が

どうして

知っている。フエが

だれもがそして泣き叫ぶ

sẽ

昨日、

知っている

空は

食べさせたおかゆは

お化粧しないの?

nở

硬くはなかった。

わたしは

青いのだろう?

光。

すでに見い出していた

hôm

雨上がりの空。百合が声を立てて

すべて

見あげれば

笑って、拡がったのは

笑いなさい。どんなときにも

qua

空の

わたしの

視界を埋め尽くす

色彩。

口の中はくさい

昨日花が咲くよ。

無造作に声を

知っていることの

青の洪水

立てて笑うトゥイを

認識がわたしをかつて焼き尽くした

Xuan

フエと

すべてを

傘が食べられない事は誰でも知らなければならなかった

呼ばれたその、

死んで仕舞え

Không phải

花ではないものが、

Không phải là

違います

あるいは

雨が降る前に

青く

ふれた

Hoa

花が

手のひら。額に、フエの

それは青い花

咲くよ。昨日

手のひらがふれる。いつでもそうだった。

白濁した雨のない空の下に

あんたの

やさしさは

明日、青い花が咲いていたよ

眼の前で

フエだった。百合は咲かない。なぜなら

明日

Huệ không phải là hoa

彼女は花ではないから。にもかかわらずそれを

白い花も

違います。それは

フエと呼ぶことは単なる彼らの

赤い花さえも

花ではありません

錯誤にほかならず、口にして

もはや

そしてわたしは泣き叫ぶ以外になかった

喰えもしないすべての彼らが倒錯した固有の愉しみとして、それを花と、錯乱の中にそう呼んでいただけだったにほかならない。トゥイは悲しい。空が、

ねぇ

Trơi ở đâu ?

花を咲かせもしないから。その

なにが?

空はどこ?

事実がトゥイを

あなたは

青い空は?

傷付ける。フエ。花でさえない褐色の、

なにが

白濁した空の曝す色彩の下で

嘘をつかれた

悲しいの?

そして私は泣き叫ぶ以外になかった

百合の花が

言ってごらんよ

昨日

立ちあがって奥に入って行ったのは、それはアンのせいだった。呼ばれもしないのにフエはいつでもアンのところに行き、呼ばれもしないのに、アンはフエのところに行く。太っちょのHương フンが目の前の向こうに、自分自身の翳を踏みつけてたたずめば、それが何か言っていることは知っている。聴く必要は無い。聴きたくはないから。なのに、いつでも呼んでもいないのに呼ぶフンを

振り向き見た

笑う。

光の中に翳した手をわたしはひとり

声を潜めて。

握り締めたのだった

フエが自分の寝室に入ると、アンが

その淡い逆光の中に

先に来て

微笑みとともに

ベッドの上に寝ていた。夜の薄暗い空間に、照明さえともさずに、顔を上げたアンの眼差しにはどうしようもない絶望的な表情だけが浮かんだ。何が彼を絶望させたのか、フエには分からなかった。16歳のフエは、横向きに寝そべったアンの背後に回って横たわり、

知っている

ひじを突いて、その

あなたは知らなければならなかった

あなたは

頭を

食べてください

すでにわたしを

なぜてやった。

好きなだけ

...Nóng

と、ただ一言だけ

頭の中がかゆいのに

暑いよ

独り語散るようにつぶやかれたそのアンの

暑いんだ

言葉に、フエが感じていたのは自分への容赦もない拒絶だった。

もう

8月の昼下がりに、

やめてください

もともとは物置だった、狭いフエの部屋は熱をかすかにだけこもらせて、停滞した空気は重量感をさえ持って、しずかに穏かな熱気にふたりの肌を

もう

汗ばませた。壁際に

赦してください

詰まれて褪せた古い仏教の本と、アンの体が匂った。十四歳の少年を受け入れないで済ますことはフエには出来なかった。実際に、彼が自分の弟である以上、彼はこれからも自分に常に寄り添わなければならないのだから、その絶望する眼差しから、アンが終に遁れ獲はしないことなど明白だった。フエにとっては。いずれにしても、彼が自殺して仕舞う前にフエは、彼を救ってやらなければならなかった。その日、雨の日、午後、いつものようにわざわざフエのベッドで昼寝するアンの、半開きの唇にそっと口付けてやった時、想えばそれはただの想い付きのいたずらにすぎなかった。不意に眼を開いたアンが曝した犠牲者の、縋るような眼差しに通風孔ごしのやわからい日差しは堕ちた。

眼差しにふれた、日差しがあたえる淡い翳りの繊細な表情に、想わずフエは声を立てて笑った。アンは自分が侮辱されたと想ったに違いなかった。アンの眼差しは、それでも彼女の意図を感じ取ったに違いなかった。

フエを押し倒して自分のものにして仕舞う、アンの一回り以上大きな身体に揺さぶられながらも、汗だくの彼の追い詰められた、下された徒刑のその寸前ででもあるかのような眼差し、何もかも自分勝手に想いつめて、もはや何の未来も見えてはいないその色彩に、フエはただ彼を哀れむしかなかった。まるで一方的に強姦するようにアンは自分勝手に腰を使って、すぐに彼女の体内にやわらかく萎えて仕舞ったそれの、その理由は、アン自身にもわからなかった。アンは自分自身に侮辱された気がした。肉体そのものに。あるいは自分がまさに目醒めているその魂それ自体に。アンは戸惑う隙さえもなく、そして彼はフエを求めいたはずだったが、自分が求めているものとの差異ばかりが彼の皮膚に巣食っていることには気付いていた。彼女にふれ、あるいは

あなたの

ふれられるたびに。

やわらかく、愛おしい肌に

そうではないと、これと

わたしは

それは同じものなのだと、ただ

ふれた

そればかりを頭の中に反芻するうちに、

そっと

無意味に、

わたしは

何の感覚も

あなたに

もはや

息を殺して

お互いに与えてはいない腰の暴力的な動きだけを、惰性のままに

いつくしみながら

アンは

ふれた

曝した。聴いていた。フエは、自分の体の上で乱れる弟の息遣いを。部屋のドアは閉められきってはいなかった。隙間から光は漏れ込んで、誰かの目にふれる可能性はあった。そんな事はどうでも良かった。フエは。どうせこの部屋にだれかの眼差しなど入っては来はしない。アンは不意に立ち上がって、ドアを閉めて、改めてフエを裸に剥いた。それから、アンはなにも出来なかった。すでに萎え切って仕舞ったものをぶらさげて、ふたたび体内の温度を感じることもできないままに、じゃれて、縋り、人形をもてあそぶようにその褐色の肌に戯れて、アンはただフエの体に甘えていただけにすぎない。

自分は美しい、と。その事実をはフエは知っていた。

何が、どう、どのように美しいのかはわからない。愛されるのだから美しいのだ。だから、アンも何も、そうなる以外にはなかった。美しいものは愛されなければならない。フエは、自分が求めているのがユイであることをはすでに知っていた。手に入らないからこそ求めているのだとは言獲なかった。家畜のような、女の子のユイは、すでに手にふれられて、手の中にもてあそばれていた。気弱なユイはフエの為すがままだった。奴隷のような、そして、ユイが自分を愛することなど在り獲ないことなど知っていた。一度たりとも、自分の体で最後にまではいたらない少年たち。彼女の体内に、想いを遂げることなく疲れ果てて仕舞う彼ら。

フエに焦がれるアンは自分勝手に求めてばかりで、そのくせかならず途中で無力になって仕舞うし、フエが愛されないユイはただ、肉体の感覚神経が感じ取って仕舞った感覚にだけ、意志もないままにかろうじて強制されていたにすぎない。さわればそれは硬くなる。結果として何が起ろうとも、それがユイの求めたものなどではないことなど、お互いに知っていた。だから、最後に彼のそれの先端に飛び散らされるものは、それはかならずしもユイの遂げられた想いとは言獲なかった。誰かの、何かの、決定的に他人のものに過ぎないそれを、眼差しは見留める。あなたはわたしで想いを遂げはしなかった、と、一度だって。

フエは、いつか、つめられた息のあと無様に撒き散らされて、みずからの腹部に停滞し、フエに息遣われるたびにかすかにだけふるえるそれに、そっと、指先を触れた。わざわざ確認するまでもなく、犠牲者のような、ただ絶望的な色彩を曝して、絶望そのものの中に虚脱するユイの眼差しは傍らで、天井にうち棄てられていることは知っていた。彼は、しずかに調った息を吐きながら。眼を開いたままで。悲しむしかない。フエは、そして悲しむことしか出来ないのならば。フエはユイのために、指先がふれたその見たこともない他人、あるいは、どこにも存在しさえしない赤の他人のそれが立てた、いかにも生き物じみた生き生きとした匂いを嗅いだ。だれかが

馬鹿

窃盗したから、空に雲が

見える

ないよ

浮かんだに違いない。庭先の

わたしは

そこには

ブランコにゆられながら、その、

見えていた

あなたの

窃盗者の

わたしの

求めているものは

姿を

見ていた

喰えないよ

探すまでもなく、眼差しに

わたしを

花は

捉えられたフンの、不自由な

わたしは

あざやかなほどに

片足に声を

終に

毒を持って

立てて

見えていた

咲いていたから

笑った。トゥイは、眼差しのいっぱいを空の投げた色彩の束に埋めさせて仕舞って、

Chết

死んで仕舞った。

ほら

百合は。

rồi...

いくつかの

匂うよ

腕や、胴体や、足や

em

顔。

いまも

それら、

sẽ

壊して仕舞うから。

匂うよ

ずっと

chết

いつも、踏み

いつでも

散らすように

rồi

フエは

匂うよ

死んだ。

仕舞った!

殺された?つぶやく。

明日も

歎きの、

妹は死んだよ

ただ、歎きの

昨日も

色彩、青い。

いつか、もう

その色彩を乱した白濁の

匂うよ

それらが

花は

空の

何の?

ただなかに

Hoa bị sẽ giết rồi

悲しい。

匂い?

なぜだろう?

Tai sao ?

なぜ、と、いくつかの、フエに

それは

ふれた指先と、その

やがて

皮膚の

何の

群れ

死んで仕舞った

どうして、と、

匂いなの?

想う。空が悲しむのか。

Buồn...

花。眼差しの向こうに、

この

そしてトゥイは

花の

ブランコにゆられながら、

匂いは

隣に座っているのは

何の

フエ。

匂いなの?

知っている。百合。向こうにいるのはフン。ブーゲンビリアの木の下に。トゥイは知る。百合は蓮を食う。何度目かに、あるいはフンと、フエと、咀嚼される蓮と、

あなたはただ、光を集めて空に投げつける

ブーゲンビリアには一切の差異がない。そればかりか、

みずからの

つながってさえいた。ひとつの、

孤独を顧みもしないで、こんな

分かちがたい一塊りの、そしてその

雨上がりの

眼差しの

日に

なかに、想わず声を立てて笑って仕舞うトゥイには、だれも眼差しをなど投げかけはしていなかった。

同じだよ

仕舞った、と

Chết rồi...

そう言った。

同じものだよ

空は死んだ。

Chết rồi...

ブーゲンビリアが

みんな、みんな

匂った。

Em chết rồi...

フエは

同じものだよ

まばたいた。

わたしは

傍らに

死んだよ

トゥイは太った巨体を曝して、汗ばんだ肌を好き放題に匂わせた。午後の陽光。ブーゲンビリアに、無数の色彩のない翳りが四肢を、でたらめに突き出していた。ばらばらに。ばかばかしいほどに、むちゃくちゃに。馬鹿なことばかりを大声に独り語散るトゥイの傍らに寄り添うようにフエは座って、トゥイの、自分の膝に礼儀正しくそろえて添えられた両手の、その甲にふれた。肥満したその巨体は、たっぷりと脂肪をその皮膚のやわらかさの下にたたえて、身じろぎもしないトゥイの、その手の甲は何の感情をも伝えない。いとこのハーもフンも、長女のトゥイの面倒をなどみて遣りはしなかった。それに対して、フエは何の文句があるわけでもなかった。そもそも彼女は家族たちを、かならずしも愛しているとは言獲なかった。愛していないわけではなかった。いずれにしても、それは愛と名付けるしかない、痛ましくて救いようもないなにかとは分離して考えるべきだった。例えば、自分自身がユイに感じる、不可能で、出口のない、惨めな行き止まり。あるいは、アンが自分に感じているはずの。

フエの体をむさぼりながらも、フエが、ユイに対してそうであるように、結局はアンはなにも獲得出来はしなかった。フエはアンを

いずれにせよ人類が絶滅した後には植物がのさばるのだ

受け入れることさえ

とりあえず

出来ない。自分が

だれかに伐採されるまでは

受け入れて遣ったところで、あるいは、アンは自分を殺してでもして仕舞うよりほかに、救済される余地など無い。ユイを見つめる自分とまったく同じように。あなたは知っているの?と、頭のおかしなトゥイに、だれかを愛するということを。無言のままに問いかければ、

知っている?

ほら

割れた。

ね?

Bị vỡ...

つぶやく。

あなたは

壊れた

知っている。壊された。

知っている?

Hị huỷ

声。

同じものだよ

ほら

それら、

知っている?

何が?

トゥイの声を聴くでもなく

まったくすべて

ひび割れた

聴きながら

知っている?

空が。

フエは、自分の

一塊りの

なにを

足先

知っている?

Huỷ...

その切れたひさしの翳の、

分かち難い

見てるいのか

光の直射を受けた

知っている?

Nói gì ?

白濁した

同じものだよ

何を

きらめきに

んー

Chị nói gì ?

かすかに

まったく

言っているのか

微妙な

知っている?

Bầu trời bị huỷ

汗ばんだ

完璧に

知っていますか?

発熱があるのを、

すべては

Chị biết rồi

感じる。ハーは結婚したばかりで、男の建てた少し離れたところにある新興住宅街に引っ越したまま、ほとんど帰って来はしなかったし、フンは二年前に結婚して、大きい腹を抱えて離れの、簡易キッチンを備え付けた個室に引き篭もっていた。だれもトゥイを家族として、ましてや姉妹として認めようとはしない。トゥイは姉妹の数から、彼女たちによっていつか完全に排除されていて、あきらかにトゥイはその事実さえ、事実として何の認識も持ってはいなかった。あるいは、フエをも含めて、彼女の世界には人間さえ存在してなどいなかったかもしれなかった。トゥイの頭をなぜてやると、いつもトゥイは

ử...

あぅうう

言う。喉の奥から、その音声はひん曲がって鼻に抜けて、それ。空気のこまやかな振動を、フエはトゥイの頭をなぜてやりながら聴く。ブーゲンビリアの咲き乱れた花々の堕した翳に、土の地面からトゥイは顔をだけ突き出していた。色彩もなく、ただ昏いだけの、そのあなぼこのような男。何歳かは分からない。いずれにしても、男。捻じ曲がった体躯。その翳りは、両眼いっぱいに血をためたままそのあざやかにすぎる色彩を揺らめかせて、地面に水平にその血は細く流された。

糸のように。口からも。口らしい穴ぼこはいっぱいに血をたくわえていて、それはきらめきながら揺らぐ。いつか、まどろみに抗いながら眼を開いた。

 

 

 

 

 


紫色のブルレスケ #5

 

 

 

 

 

おぼろげな意識の白濁が、見ていたはずの夢を一気に消滅させれば、為すすべもなく夢の実在は眼の前から消え去って、もはや記憶さえも残ってはいないことに、さびしさとも喪失感とも名付けたくはない、ただ、空虚な穴が開いたざらついた感覚だけを、フエは身体のどこかに感じていた。やがて肌が人の気配に気付いた。そんな事は当り前だった。

かたわらに、壁に縋るようにアンは背を向けたまま寝息を立てていた。気の小さい女の子のような、しずかで、ひそめられた、その寝息を聴いた。午後の日差しにふれられて、空間は為すすべもなくその形態と色彩を曝していた。泣き伏して仕舞いたいほどに、すべては鮮明だった。半ばひらかれたドアのこっちに立っているのはトゥイだった。フエの狭苦しい寝室の中、アンがいつもように、結局は役にたたず、ふき溜まった想いをとげることもなくて、ただただ絶望的な眼差しをだけ曝して終って仕舞ったあとに寝入って仕舞い、フエはまどろむしかなかったのだった。フエは覚えていた。なんどもまどろみ、なんども醒めかけて、ドアくらい閉めるべきだったのに、すべてを放棄したままで通風孔が差し込む日曜日の午後のやわらかい日差しに、彼女の肌の、あざやかな褐色は曝された。

いつのまにか入ってきたトゥイが、独り語散りつづけていることには気付いていた。いつか、何度目かの醒めかかった意識の中に、彼女が入ってきたことはすでに知っていた。醒めきることを拒絶し、ふたたびまどろもうとしながら、トゥイ。雨が降らないよ。

Không mưa

トゥイはそう言った。雨。通風孔の向こう、空が雨を静かに降らしているには違いない。白濁した色彩、そしてあまりにやわらかにすぎる、ただ、悲しんでやるしかない光線の淡さが容赦なく降りしきるやさしい雨にフエを気付かせて、

雨が降るからと言って花が咲くとは限らない

フエは笑った。フエは、トゥイをベッドに誘った。トゥイは警戒を曝し、彼女にも警戒という本能があったことにフエは

お願いですからもう少しゆっくりしゃべってください

驚きながら、彼女は

いいですか?

はしゃいだ。

あなたは

「来なさいよ。」

駄目だよ

わたしを

ベッドが堕ちるよ。

そこには

見ているね?

「来なさい。」

何もないよ

あなたは

「すぐに。」

もう

いま

駄目。ベッドが

何も

堕ちるよ。と、フエは、彼女の警戒の意味を知った。その寝室に、彼女は寝たことがなかった。そこはいわば彼女の処女地だった。アメリカ大陸にはじめて上陸するような、月の砂地にはじめて足を着けるような、そんな降って湧いた戸惑いに、トゥイは

雨の日に窓は閉じられていた

脅かされているに違いなかった。

死者を弔う日の朝であっても

ねぇ

「来ないで。」

わたしを

聴こえる?

ここに。」微笑みながら

あなたは

わたしの声が

命じた瞬間に、

見ているね?

いつものように、なんの表情も曝さないトゥイは、寝台のふちに腰を下ろした。フエが声を立てて笑ったのを、トゥイは聴いていた。それは、フエが仕掛けた策略だった。その策略に何の意味や必然があるのか、フエには最期まで分からないままだった。彼らがフエを殺して仕舞ったときに至るまでも。終に、あるいはトゥイは、いつでも、なんの表情さえも曝しはしない。いつでもふてくされたような顔をして。賢者の眼差し。眼に映るものすべてを非難し、軽蔑しないではいられないと、そんな眼差しを曝して、吐き出される言葉は彼女の認識をただ赤裸々に伝え、その嘘など存在し獲ない留保なき認識の鮮明さをだけ、だれにでも容赦なく突きつけながら、であるなら表情など、彼女がいちいち作り上げる必要はなかったのかもしれなかった。筋肉によって作られ、人間たちの眼差しのために何かを表現するさまざまな、かならずしも正確ではないそれら表情など、いかに高貴を極めたものであっても所詮は愚劣に過ぎない。と、

それ、何ですか?

そしてふたまわり以上ふとっちょの、自分よりもさらに濃い褐色の巨体を、フエは

あなたの頭が雪をかぶります

ベッドに横たえさせた。自分とアンの間に、そして仰向けのトゥイの額に口付けてやった時に、立てた

ử…

その音声に、

あぅうう

フエは明らかに彼女が今、そこに自分自身の皮膚が存在していることを認識したに違いないことを、悟った。あるいは、ふれたのかもしれなかった。トゥイは、すでに

いつか私はこの世界にその最期のときに最後の花飾りを

捧げてやらなければならない

存在していたトゥイの自分自身そのものに。なんどめかに。いつかフエの、手のひらが彼女の頭をなぜてやった時と同じように。感じて、と。

ほら

フエは想う。感じればいい。

何が見える?

あなたは。

いま

あなた自身の存在を。歯軋りするほどに。もはや、自分が誰かも分からなくなるほどに、自分自身だけを感じて仕舞えばいい。憎しみに近い、驚くほどかたちをなさない感情のやさしさがフエを満たした。いつくしみ、いたわり、そして

やさしい歌が

彼女を

いま

虐待する。

聴こえます

留保なく。フエが、教え諭すような、慰めるような指先で、トゥイにその、彼女の性別の存在の根拠そのものを教えて遣っている間中、トゥイは声を低く、猫が

花々はただ沈黙の時間の中にだけその饒舌な香気を放つのだ

泣いたように長く立て続けて、そして、終には

これは何?

失禁した。なんの

あなたがくれた

恥じらいも、

愛の

容赦もなく。

想い出

やがて

わたしにだけ残した記憶

眼を醒ましたまどろみの中に、トゥイの巨体にしがみつくように添い寝をするフエを、アンは見た。フエは寝ていた。トゥイは起きていた。沈黙していた。彼女はじっとしたままで、仰向けのままに眼を見開いて、何一つ言葉を発していないトゥイをアンは久しぶりに見た。彼女は眼を開けたまままどろんでいるのかも知れなかった。身を起こしたアンの気配に、トゥイの死んだ眼差しに一瞬で生気が宿った。

トゥイのつぶやき始める言葉と、その

だれだろう

cây

嗅ぎ取られていた臭気。

夜中に目覚めて

rơi

それが何なのは知らない。あるいは

歌を歌い始めたその

lả

体臭。

いつかの

tả

よどんだ、複数の

色彩のない鳥たち

trong

狭い空間に

あの夜明けの鳥たちの

trời

押し込められた

飼い主の

mưa

自分たちの。

男たちは

雨の中に木の葉が飛んだよ

いたたまれない。アンは、フエが寝ていることも、トゥイがそこにいて、大声で独り語散りはじめたことも、自分がフエを見つめていることも、すべてがいわば開いた傷口か何かのようにさえ感じられて、追い立てられて部屋を飛び出すと雨の匂いがする。

雨の日の、薄暗い家屋のなかには人の気配は無い。外の、庭のほうにフンの罵り声が聴こえた。どうせ、新設された自分たちの部屋の水道の調子の悪さに逆上したに違いない。

 

トゥイは海辺の町に生まれて、そしてただその町の中でだけ育ったにもかかわらず、二十五歳まで海を見たことがなった。だれもトゥイを海辺に連れて行ってやらなかったからだった。初めて海を見たのは、十六歳のフエが、バイクに乗せて連れて行って遣ったときだった。

その日の朝方も雨が降っていた。人々が眼を醒まし、起き上がる頃には止んでいた。全面を白濁の色彩で埋め尽くしながら空にうすく乱れて、その向こう側からの朝の太陽光に自らを内側から淡く光り上げさせて仕舞った雲の光沢の、かならずしも美しいとは言獲ない惨状だけがあとに残された。

庭の地面も、木立も、地に堕ちたブーゲンビリアの花々も、路面も、庭先の門の白塗りの錆びた鉄も、なにもかもが濡れていまだ乾かないまま、眼差しの見い出すすべては水気に匂いたってあざやかに、ただ、光っているばかりだった。フエは高校の制服のアオヤイに着替えると、庭にバイクを出した。

地面はぬかるむ。濡れた地面が、踏みしめるたびにあざやかに匂った。ブランコにトゥイが一人で座っていた。並んで立った樹木の、葉が風に吹かれて水滴を散らした。ほかに選択肢などない気がした。

なにか決断を下したわけでさえなく、フエは不意にトゥイを手招きした。トゥイは

いつでも

Đi

ただするどい、睨みつけるような眼差しを

あなたの頭の中は

ăn

いつもと変わらず

雨漏りで

ắp

曝すだけで、

忙しい

泥棒にいくのか?

立ち上がろうとしないトゥイの手を、フエは

あんた

無理やりに

泥棒に行くのかい?

引いた。気がつけば、すでに

あんたは馬鹿だね?

フエは決断して仕舞っていた。来なさいよ、と、その巨体が無理やり立ちあがらされると

森林の中で失心していたその人は、不意にまばたいて

ブランコが

鳥たちの声を聴いた

ゆれる。錆びた音を立てて軋む。朝はまだ早い。アンはまだ寝ているか、シャワーを浴びているに違いない。ハンとタオの姉妹は炊事場の竈に火を起こしているに違いない。明日の分の飲み水を今日沸かしておくために。ダットは朝早くにいつものカフェに行き、十時近くにならなければ起きてこないフンと、フンが捕まえたお金持ちの自動車業者は、離れに引き篭もっていまだに彼らの夜は明けていない。

騒音を立ててゆれるブランコが、水滴を散らしてフエを濡らしていた。その音響はずっと耳にふれつづけていた。フエは声を立てて笑っていた。華奢なフエが支えるには、ばかばかしいほどに太って骨太で大柄な、トゥイの巨体はバイクの後ろに、あまりにも困難すぎる存在だった。その理不尽さがむしろフエを楽しませて、フンの、お金もちの Thanh タンが庭に止めている日本の車の脇をよろめきながら迂回し、庭を出た。

すれ違う風に、あからさまに濡れた触感があった。どこに行くのか、

Em

と、

đi đâu ?

聴きもしないトゥイはハン川に牛乳がぶち撒かれて仕舞ったことを歎き、

飲みすぎだよ

何の色に

樹木がひん曲がっているのはタオが水道を

朝から晩まで尻に

染められたんだい?

食っていたせいだ、と

便器を突っ込んで

言った。そうに違いなかった。そうなら、それでよかった。フエは気まぐれにトゥイに話しかけ、いつもより過敏になって仕舞ったせいで、トゥイからのまともな答えなどかえって来ることもないままに、極端な低速度でゆれながら走るフエのバイクを、みんな大袈裟に避けて追い抜いて行った。トゥイは、同じように大柄なアンよりもむしろ重いに違いない。

容赦もないほどに本格的な開発が始まった町は、いたるところにさまざまな破壊された旧家屋の残骸の群れを曝し、広大な更地と、膨大な建築現場と、工事現場を無様に剥き出しにして、フエは粉砕されて掘り起こされた道路を迂回する。残存した細い土の道を通り、でこぼこにひとりで声を立ててはしゃぎ、やがては山のほうからぐるっと整備された湾岸道路に出ると、雨上がりの大気に、すぐに左手の海の潮の匂いが混ざった。

見ろ、とフエはトゥイに

見える?

言う。海を。

あれが

あなたは

浪を湛えた

海よ

海が

それには見向きもせずに、

ね?

見えた?

何を言っているのか?

Em…

何を

あなたは、何をしているのか?

Nói gì ?

あなたは

問いかける

Làm gì ?

なにを

トゥイに、フエは答えを返さない。

海よ

何をしてるの?

湾岸道路の右手には、

これが

こんなところで

建築されたばかりの大規模なホテルと、

Biển...

ひとりで

遊興施設が立ち並ぶ。同じ町の、ほんの数分を隔てた風景だとは

...của em

あなたは

想えない。フエがなんどめかに声を立てて笑い、トゥイに話しかけたとき、トゥイは

いかなる時であっても便器を食べてはいけない。なぜなら

ただ

へし折れた歯が血まみれで

風が逆流するのは明日

便器を汚して仕舞うから。だって

雨が降った

せっかくあんたが掃除したんだろ?

その証拠だと言った。

わたしを

にもかかわらずかつてだれも鳥たちを埋葬しはしなかった

浪立つ。その

見つめないで

ただの一度も鳥葬は鳥たちを弔う

音が

わたしたちは

埋葬ではなかった

聴こえる。

あなたの

なぜなら鳥たちがかつて一度たりとも死ななかったから

わずかにだけいつもよりあららいで。

ものじゃない

バイクを止めた。止めた瞬間に、ひっくり返りそうになった。トゥイが大袈裟な、背後に刃物でも衝き立てられて仕舞ったかのような悲鳴を立てた。フエは声を立てて笑っていた。潮が執拗に鼻に匂って、肌に潮気はべたついてふれた。花々。浪立つ。ブーゲンビリアの花々が、あれが海だ、とフエはつぶやき、匂う。トゥイに言った。トゥイは、空間の中にいっぱいに、無際限なブーゲンビリアの、何?

Nói gì ?

何、言ってるの?と、地にふれようとさえしない停滞が、瞬くまもなく、いつか、そう言ったトゥイは知らないに違いない。海。燃え上がって仕舞ったのは知っていた。その言葉を。その色彩。海。むらさきに近い紅の、海という言葉の意味を。それらブーゲンビアの色彩の向こうに、トゥイは、だれにもつれてきてもらいはしなかったから、何があるのか気になった。花々の尽きた先に。すでに、知るわけもないのだった。彼女は、海という言葉も、何もありはしないことなど知っていながら、永遠。海と言う存在そのものも、永遠の空間の中に、咲き乱れるブーゲンビリアが、トゥイは。匂い、フエは声を立てて、その色彩をさえ匂わせて、笑った。すでに。泣いていたのに違いなかった。その眼差しに、ブーゲンビリアが捉えられる、あるいは、声を立てて笑い、眼差しを花々が捉えて仕舞うその前、永遠の時間の先から、フエは、流すべき涙もないままに。耳元に繰り返す。トゥイの耳元に、声もなくて。海よ。花々。海。

Biển...

フエに手を引かれるトゥイの眼差しには、一切の

あなたの見ているもの、それを海と言います

驚きさえもない。トゥイは

ご存知でしたか?

目に映るその色彩、青と、反射光の白濁と、かすかな緑彩と黄彩、微細な穢れたような赤らみ、それら、こまやかに過ぎる色彩の群れの、浪打って留まらない変転にだけ、その眼差しをじかにふれて、

あんたが

匂う。

昨日

独り語散る大声には、耳を

đi

食べた

貸さずに

Huệ

雨の

フエは、

水は

砂浜に誘って、

Huệ

終に

その足をよろめかせる

đi

あふれ出た

巨体を

tiểu

だれかの

笑いながら

涙の

支えるが、

それは百合がおしっこをしたからだ

周囲に散らばった

Vì Huệ đi tiểu

まともな仕事もなくて、平日の朝からほかに行く宛てもなくて、海にでも繰り出すしかなかった男たちの無数の眼差しに曝される。かならずしも美しいとは言獲ないはずのフエは、見当たる理由さえもないままに男たちの人目を引いたし、トゥイの大声のつぶやきは人々の神経にふれずにはいられない。いずれにしても、華奢すぎるアオヤイの少女と巨体過ぎる頭のおかしな女が、ふらつきながら砂浜を歩くのを、人々に見るなというほうが無理なのだった。

おしっこは食べられない

眼差しの群れ。

液体だから

呆気に取られた、素直な戸惑いしか曝さない、自分勝手に感情を押し付けるような、あるいは誘うような、嬌声を上げたのと変わらない、色めいた、あるいは囃し立てるような、嘲笑したような、あられもなく発情したような、ふたりの存在そのものを見咎めるような、しずかに、ただ、言葉もなく赦して仕舞ったような、そんな、それら、無数の眼差しのさまざまを、フエが感じていたのは最初の一瞬だけだった。空は、あまりに容赦なく輝いていた。

そして私は泣き叫ぶ以外になかった

ただ、

その

真っ白く。

花の名前は?

薄くしか張ってはいない雲は、それでも見上げられた空の全面を隈なく覆い尽くして仕舞いながら、高くなりはじめた太陽光に背後から差されて、いくつも空の高みに層をなしてかさなった。曝された混濁した白濁の推移は、推移に推移にをかさね続けたその無際限のグラデーションの繊細さそのものを、きらめかせもせずただ静かに光らせて、白い。バイクを出すときも、土の粗い道を通るときも、湾岸の主幹道路を走ったときも、いつでもそこに曝されていた、あまりにも巨大で、惨めな白濁。

その色彩に染まった海さえも白く濁らせながら、それでも終にはみずからの色彩に染め上げることなど出来なくて、雲は、不意に浪間に、無数に細かく裂かれて垣間見させる海そのものの暗い青の色彩のその上に、上空の大気に押し流されてひとたまりもなく変容する。むごたらしい風景だ、とフエは想った。トゥイに、フエの失禁を嘲笑うその声を好き放題にひけらかさせながら、ただ、トゥイはいつもの、何かへの容赦のない非難と軽蔑をへばりつかせた無表情のさなかに眼を見開いて、フエは、かならずしも、自分を凝視する彼女のまん丸な眼が何かに見入ってなどいるわけではないことはすでに知っている。トゥイの眼差しは、素手ですべてを見い出しながら、結局は何をも見てはいない。

海辺を彷徨って、海辺にぶら下がったハンモックも何も、フエが媚びれば男たちはタダにした。道路沿いのカフェでたっぷりと午前中の時間のほぼいっぱいを潰したあとで、午前十一時、低速のバイクをよたつかせながら家に戻ってきたフエを、ブランコに座っていたハンは立ちあがって殴りつけた。トゥイを乗せたバイクごと横様に倒れて、コンクリートに頭を打ちつけたフエは、一瞬失心した。背後に、バイクから投げ出されたトゥイが、ながいながい、間歇的な悲鳴を上げ続けていることは意識のどこかで知っていた。そのあとでハンが炊事場で声を上げて泣いた事は知っている。タオが言った。泥だらけの横顔と、アオヤイを曝して立ちあがったフエを、瞬間さえおかずにハンが殴り続けるのに容赦はなく、不意に手にふれた箒さえたたきつけられて、あるいは、身をよろめかせて逃げもせずに、フエは鼻血と、鼻水と、口からの出血にむせた。壁にぶつかって、二度目の軽い失神の後、ひれ伏した背中を殴りつけるアルミのちりとりが、背中の皮膚を無造作にえぐった。それは呼吸を困難にした。えづきながらフエは空気を求めた。体内に肺がもはや存在しない実感が在った。

むせた。

体の中にこもった痛みが、吐き気じみた塊りになって鼓動していた。トゥイはバイクの下敷きになったまま、地面に背中をべったりと押し付けて、ながい悲鳴をあげつづけるだけだった。タオが遠巻きにハンを諌めていることには気付いていた。あくまでもおびえきったささやき声で。吐きそうになるほどの罪の意識が、すでにフエの体中を羞恥させていた。自分の存在そのものが、恥じても赦されざるべき恥辱以外のなにものでもなかった。仏たちの天の国など失われて仕舞ったに違いなかった。フエは、自分が生まれてきたことそのもを後悔した。

疲れ果てたハンがようやく折檻の手を休めたときに、フエはうずくまって、頭から地面にひざまづいたままに、四肢を痙攣させながら必死に呼吸を整えようとした。痙攣させながら突き出した尻から頭部に、血が逆流していた。狂った肺が、もはや呼吸とはいえないささくれだった浪立ちとしてのみ無造作に躍動して、血管の中には発熱があった。体中が汗ばんで、体温のその穢らしさを恥じた。ちりとりを放り投げたハンは、それが庭先のコンクリートに鈍い騒音を立てたのを眼差しに確認すると、体をくの字にひん曲げて、最後にフエの丸められた背中を殴った。のけぞって、その一瞬の静止の後で、息をいっぱいに吸い込んだあとフエは嘔吐した。

木戸の翳で、アンは見ていた。学校に行く時間だった。ハンが倒れたままのバイクを起こしても、トゥイは仰向けにのけぞったままに、いつか、その悲鳴はあぅうう、

ử…

彼女固有の長いうめき声に変わっていた。起こしたバイクの後ろにアンを乗せて、ハンは出て行った。トゥイを棄て置いたままに、フンがフエを介抱した。あきらかに、フンは戸惑っていた。それは理不尽な暴力以外のなにものでもなかった。だれにとっても清楚で、頭もよくて、ただ、無防備なほどにやさしいフエに、落ち度など在ろうはずもなかった。トゥイが、どこかへ遊びに行きたいと言ったに違いなかった。すでに、彼女は自分たちが、結局は一度も海も、山も、なにも、ほとんどなにも見せてはやらないままに、この敷地の中にトゥイを幽閉していたことには気付いていた。トゥイが言ったに違いないのだった。遊びに行こう、と。タオは遠巻きに、小声で姉を非難し続けていた。トゥイをそのまま、起こしてやりもせずに。

フエから、どこへ言ったのか聞きだすまでに、一時間近くかかった。もう二度と、この子が微笑むことなどないだろうという予感が、19歳のフンをしずかにおののかせた。フンが寄り添ってやった数時間のあいだに、ただ一言フエが言ったのは、ようやく、海、と

Biển…

その一音節にすぎなかった。フエの体の痙攣が、やみそうもなかった。

ひとり、シャワールームで、フエは泥と傷にまみれた体を洗った。立っているのもやっとだった。傷にしみこむ水流が、無際限なほどに皮膚の表面いっぱいに、こまかくあざやかすぎる痛みを撒き散らして、いまだに指先と唇を痙攣させ続けるままに、フエは赤らんだ褐色の傷だらけの皮膚を曝した。

拭うタオルを、にじんだ血がでたらめに穢した。口の中を執拗な痛みがぶしつけに乱し続けた。フエは、部屋に引き篭もって、その日出ては来なかった。夜遅くに帰ってきたダットは、非難めくタオから昼間の虐待のことの次第を耳打ちされたものの、何をし、何を言うわけではなかった。気の弱く、結局は無能なダットは、肉付きのいい大柄な体躯を神経質にときに揺らして見せながら、ただでさえいつも内気でおとなしいハンに、自分の動揺を隠して何も知らないように接するのに苦労した。

何をしでかしても文句一つ言うわけでもない貞淑なハンがいつも通りなので、ダットは結局は何事もなかったのだと了解してみた。

いつも、十二時を回れば部屋に忍び込んでくるアンさえもその日は来なかった。皮膚にはいまだに、痛みの長引く火照りが巣食い続けていた。癒えることなどない気がした。ハンに対する怒りも、憎しみも、恥辱も、なにもなかった。非難の想いさえも。フエを悔恨が襲い続け、彼女は母親をただ愛していた。すでに記憶され、反芻されるつづけるその暴力の生々しさは、いまだに執拗に体中に息遣い続けたままに。アンに体を許してやってから、ずっと、一年近くアンは、同じ絶望しきった、フエ自身をふくめて、目に映るものすべてに迫害されているかのような眼差しを曝したまま、フエの傍らに寄り添って、フエを求め、結局は何もできずに、やがては疲れ果ててしがみついて、そして寝息を立て始めたものだったが、ひさしぶりに傍らに誰にも寄り添われないでひとりでいることの、孤独と言うよりも、寂しさというよりも、たんに穴の開いたふさぎようのない空虚さを、フエは味わうしかなかった。一年近く前のその雨の日に、夕方、だれもがどこかに出払って仕舞って、家に残っていたのはフンとトゥイの親子だけだった、その、黄昏近くのあざやかな朱に近い光線の中に、帰ってきたアンと顔を合わせた瞬間に、フエは自分がすでに決意していたことに気付いていた。あざやかに、忘れられていた記憶が一気に取り戻されて花開いたような、そんな認識。フエはそうしなければならなかった。フエはアンを手招きして、寝室に誘った。アンは一瞬だけ戸惑いながら、フエを見つめるときにいつも曝す、その留保もない絶望を無防備に浮かべていた。フエは、今日、いま、それをして仕舞うしかないことを知った。もはや遁れ難い認識だった。寝室のドアを半ば、うすく開けておいたのは、いつでも自分が遁げ出せるように、フエが意識のうえにしたことだった。アンの眼差しが、恐怖していた。不安と、恐れと、渇望と、戸惑いと、歎きと、そして相変わらずの絶望と。それらが混濁して、ただ、赤らんだ、悲しみの表情以外のなにものでもない、明白には何も語りかけてはこないしずかな眼差しを、アンは曝していた。

いいわ。

Em được

フエが言った。

Không được

駄目だよ。

アンが独り語散るようにつぶやいたとき、嘲笑うに近いかすかな微笑みがフエの唇にだけ浮かんだ。

アンがひざまづいて、腹部に顔をうずめ、フエの匂いを嗅いだ。ユイとチャン以外に、初めて他人に体臭を曝すことに、フエは羞恥した。それ以上のことを、アンは自分ではできなかった。アンを横たわらせて、脱がせ、フエはアンに教えてやった。仰向けにひっくり返された、愛おしいフエの体の上で、アンができたことは折檻以外のなにものでもなかった。体中に押しつぶされそうな体重がかけられて、へし折っても飽き足らないほどに、男の四肢がしがみついてフエを締め付けた。押し付けられた汗まみれの胸から顔を背けて、やっとフエは呼吸した。下半身をたたきつける、アンの骨格が皮膚と、筋肉と、やがては骨の中にまで、さまざまな鈍い痛みを響かせた。アンのそれは、ほんの一瞬にも満たない時間に、すでに能力を失っていた。ながいながい、なんの意味もないたんなる暴力に、アンの下半身は費やされるにすぎなかった。快感もなにもなく。フエはしがみついて耐えるしかなかった。許したことそのものを後悔した。

 

折檻の次の日に、なにもなかったかのようにいつもの清楚な笑い声を立てて、フエははしゃいだ。トゥイに朝ごはんを食べさせてやって、学校に行くそのフエを、タオは奇妙な違和感にとらわれながら見送った。相変わらずハンは内気で、無口で、うつむきがちで、そしてタオも、あえて姉の理不尽な虐待にいまさら触れようとはしなかった。

ハーは、フエが悪いのだろうと言った。理知的で、質素で、いつでも凜と清らかなハンが間違いなど犯すはずはなく、そして、タオは、ハーがいつでもフエを嫉妬していることには気付いていた。自虐的にさえ見える容赦のない嫉妬を、ハーは飽かずフエに曝しつづけていた。一夜を明かせばフンは、そもそもが、夜が来る前の、そんな大昔の折檻になど興味をさえ持たなかった。フエなど、眼差しにすら入れたくはなかったのだから。フンは、ただ、フエを軽蔑し、憎悪した。殴られて少しは頭が良くなったの?庭先ですれ違いざまに、目線も合わせずにそう声をかけたフンに、フエは無言で首を振り、そして微笑みかけた。フエは、もはや憎しみも、憤りさえも感じはしなかった。振り向いたフエがタオに、そしてトゥイに手を振った。ハンは炊事場で家事に終われて、そこにはいなかった。

バイクが、そのタイヤの至近距離にだけちいさな小石を撥ねた。

白いアオヤイがひるがえり、風にはためく。

風ははためかせる。それは百合ではない。その巨大な嘘に、トゥイは

世界は誰のものでもなかった

言葉を失った。

わたしはあなただけのもの

だれもが

すべてを捧げてただ、わたしはあなたのためにだけ生まれた

嘘をついた。

わたしは

本当ですよ

ブランコは白い、それは

知っていた

あなたはわたしを信じていました

百合ではない。だれもが

すでに

Huệ

嘘をついた。事実

知っていた

bị

百合はかならずしも

わたしは

nói

白くはない。にもかかわらず

わたしがいま

dối

だれもがそれを

生き延びていることを

nói

ただ白いと言うときに

わたしはいまだに

dối

嘘をつかれたのはその

死んではいなかった

あからさまに嘘をつかれたフエが嘘をついた

花。

いまもなお

百合の花。ブーゲンビリアでさえ、かならずしも赤くはなかった。大気。

ふれる

Huệ

雨上がりの大気は、ふるえる。いま

もはや怯えながらもわたしは

bị

雲が急激に流れていくから

わたしの、この

đi

大気はふるえた。だれにも、もう

ざわめきだつ命にふれて

tiểu

見られることがなかったフエが

わたしの眼差しは

大気を揺らした。雲が

ただ、しずかに

ai

急激に雨を

声さえたてずに

đi

降らす前に

ひそめられたおののきを曝して仕舞ったことを

tiểu

流れ去って行ったから。

知ってる?

百合はおしっこを引っ掛けられたは誰はおしっこに行った?

流れない。なにも。水滴は、そして

頭の吹っ飛んだあんたは

Huệ

雨が降ったら、と、トゥイは

ひとりで頭を抱えて

瞬くまもなく失心しそうになって

そこに

của

失禁したのはだれなのか?

息遣いながら

anh

フエが、失禁させて仕舞ったのは、あの日、

指先に

百合は光のもの

誰が?

あなたみずからの汗を

フエはアンのもの

声の主。聴き取られる声をさまざまに

拭った

知っているか?

ひとりで立てているもの、

あんたは

だれもが、もはや

それ。

いま

知っている

それこそが。トゥイはだれも自分の声など聴いてはいないことなど知っていた。自分自身さえ聴き取ってなどいないのだから。フンは、いつものように、ただわめき散らすだけのトゥイの声には耳を貸さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.19.-09.20.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

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堕ちる天使

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《雨の中の風景》連作:

 

 

  

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それら花々は恍惚をさえ曝さない

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それら花々は恍惚をさえ曝さない

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紫色のブルレスケ

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紫色のブルレスケ

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奥付


紫色のブルレスケ ②


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著者 : Seno Le Ma
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