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プロローグ

 始業前のオフィス――。
 今日も、忙しい一日が始まろうとしている。
「なァ、代神《しろくま》、聞いたかよ?」
「え、何ですか?高木さん。」
「今年の新人にミス栄応《えいおう》がいるらしいぞ。」
「えッ、マジすか!?」
 ミス栄応大といえば、テレビ局女子アナの登竜門的位置づけで、毎年逸材を送り続けている日本最高峰のキャンパス・ミスコンだ。
「しかも――だ。その子がウチに配属になるらしいぞッ。」
「それ、本当ですか!?大変なことじゃないですかァ。」
「おお、すごいよな。これはとんでもない人事部のファイン・プレーだよ。」
「すごいですね。」
「おおッ・・・!」
 高木は代神の3つ上の先輩社員で、30歳になる。独身だ。ゴリラのような顔をしていて10年ほど彼女がいない。
「それにしても、よくそんな子がウチなんかに来ましたねぇ?」
「あ、まァ・・・そ、それはウチだって一応は日本五大商社の一つだし、東証一部上場企業ではあるし・・・?」
「くわえてこの食品カンパニーなんて、この会社じゃ弱小窓際部門じゃないですか?ミス栄応なんていったらカンパニー長同士で取り合いになるのは必至。よく取れましたねェ?そんな子。」
「お・・・おう。それは確かにそうだ。何でだろう?くじ引きで勝ったかなァ・・・。」
 代神良平《しろくまりょうへい》が勤める三藤商事《みつふじしょうじ》は歴史ある総合商社で、学生たちに人気の就職先企業ではある。だが、三藤商事《みつふじしょうじ》はもともと鉄鋼資源に強みのある総合商社で、代神が所属する食品カンパニーは他の総合商社とくらべると後発も後発で、長年後塵を拝してきた。シェアでいえば中小の食品専門商社よりも小さく、コンペになると連戦連敗だ。
 代神自身は入社5年目になるが、他カンパニーに配属となった同期には、出世と給与面で大きく差をつけられている。
「まァ・・・とにかく。今日から配属だ。楽しみだよな。」
 毎年、新人は4月に入社して一通りのビジネスマナーなどを身に着ける1ヶ月の研修を終えてから配属となる。
「今年は何人がウチに配属になるんです?」
「3人だったかな・・・?男1人に女2人だってさ。」
「へぇ、相変わらず少ないですね。」
「それは・・・な。昨年度の実績もボロボロだし・・・。」
「まァ・・・。」
 代神と高木が席で話しているところへ、カンパニー長が新人3名を引き連れて入ってきた。一同がそれに気づき、起立をしてカンパニー長が話し始めるのを待つ。食品カンパニーはフロア半分を使っていて、約50名の体制だ。
「あ、みんな。おはよう。」
「おはようございますッ。」
 全員が一斉に頭を下げた。このカンパニーは業績は悪いが、土台ムリだと開き直っているためか、みんな元気がいい。
「食品カンパニーでは、今年こうして新人3名を迎えることになりました。どうぞ、みんなで盛りたてて、立派な社員に育てて上げてください。じゃァ・・・それぞれ自己紹介をして。」
 カンパニー長の後ろで待っていた新人達が一人ずつ挨拶を始めた。
 まずは少しズングリとした健康そうな女の子からだった。彼女が自己紹介を終えるとパチパチと拍手が鳴り、拍手をしながら高木が代神に尋ねてきた。
「なァ・・・代神。アレじゃァないよな・・・。」
「高木さん。その反応はあまりにあからさますぎて、彼女に失礼ですよォ。」
 次に少しキリッとした美人タイプの女の子が挨拶をした。
「確かに美人タイプではあるが、ミス栄応っていうほどではないよなァ・・・。どう思う?」
「ええ・・・そうですね。」
 再び拍手がパチパチと鳴った。
「え?でも高木さん。今年は男1、女2ですよね?ということはあのどっちかが、そうなんじゃないですか?」
「ええッ、マジかよ。ミス栄応もレベルが落ちたモンだなァ。オレはがっかりだ・・・。」
「まァまァ・・・そんな落ち込むほどのことでも・・・。ここは職場ですから。」
 深く落胆する高木に代神が苦笑いをしながらたしなめていると、前の方から「オオオッ――」というどよめきが聞えた。何事かと2人は前を向く。
「本日より食品カンパニーに配属となりました、篠宮玲於奈《しのみやれおな》です。ご指導とご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いします。」
 自己紹介をした彼女がペコリと頭を下げて顔を上げると、そこにはとてつもなく可愛らしい華奢な女の子がいた。顔が希望に溢れ、新人らしくキラキラと輝いている。いや、キラキラと輝いて見えるのはそればかりではないのだろう。何というか高い純度の透明なオーラに包まれている。顔に似合わずトーンはやや低めだが、逆にそのギャップがドキリとさせた。
 再び、食品カンパニーにいる男性陣が「オオオッ――」と獣のように騒ぎ、一斉に激しい拍手喝采が沸き起こった。
「オイッ、代神。アレだろう!? ミス栄応。超絶可愛いじゃねぇかッ。オイ!どうするよコレ!?あんなのがいたら、仕事にならなくなるよッ・・・。なッ、どうしよう!?」
 長谷田大学の応援団出身だった高木は、可愛らしい女の子に目がない。仕事ぶりは実直で真面目だが、ああいう子を前にするとすぐに変態の本性を現してしまう。もともとゴリラのような顔をしているが、さらに鼻穴を大きくし、息をハァハァさせはじめた。
 あらためて見ると確かに美人というか、とんでもなく愛らしい女の子がそこにいた。髪の毛は肩にかかったぐらいまであり、ツヤの良いアーモンド色。顔は色白で頬がふっくらとしていて、目はクリリとしてる。まさしく今どきの子といった感じだが、ビジネスカジュアルをセンスよく着こなしていた。ちなみに食品カンパニーは、常にビジネスカジュアルでOKということになっている。身長は160cmぐらいといったところだが、ウェストが細く、小顔でスタイルも良い。
 あれは芸能事務所に所属していてもおかしくない、数万に一人の抜群のルックスだ。噂のミス栄応は彼女で間違いないだろう。
 カンパニー長が咳払いをしながら話しだし、男性社員のザワザワとした空気がスッと引いた。
「コホン・・・。ところで篠宮くんは三課に配属となる。三課のみんな宜しく頼むよ。」
 それを聞いた高木がさらに興奮をして涙を流しながら代神の肩を揺すった。
 対して他のチームからは、落胆の溜め息が漏れ聞える。
「シャァアアアアッ!聞いたか代神!?彼女はウチだそ、ウチッ。俺は一目で恋をしたァッ。運命を感じ始めたぞォッ!職場恋愛、職場結婚待った無しだッ!教会の鐘の音が聞えるぞォッ・・・。」
「えぇ・・・。」
 また再び、カンパニー長が咳払いをした。
「コホン・・・。くれぐれも誤解のないように言っておきたいのだが――あのォ、その何だ。あのォ・・・。」
 フロアにいた面々一同が怪訝な顔をした。
 商社マンならではの立て板に水のトーク力を誇るカンパニー長が言い淀むのはごく稀で、もしかすると初めてかも知れないからだ。
「あァ・・・ダメだ。――スマン。篠宮くん。君から言ってはくれないか・・・?」
「あ、はい。わかりました。」
 すると篠宮がもう一度ペコリと頭を下げて、ニコリと愛らしく微笑んだ。
 
――私《わたくし》は男ですッ。
 
 彼女、いや彼の言葉を聞いたフロアにいた一同が、水を打ったようにシーンとなった。
 高木は鼻水を垂らして灰色になって固まっている。
 もちろん代神も、(何のことだ――)と我が耳を疑い、篠宮を二度見どころか三度見した。
「え・・・何・・・?ぇぇええええええ!?」
 これが代神と、ちょっと変わった新人篠宮の出会いだった。


scene1 マンツーマンリーダー

 ややいつもと違う雰囲気になってしまったが、月初定例の朝礼が終わると、いつも通り業務が始まった。
 三藤商事は業界シェアこそ小さいが、乳製品や小麦粉など、一通り食品原料を扱っているためEU諸国や北米・南米との取引もある。昨今、勤務時間の短縮がメディアでも叫ばれているが、時差があって向こうが開くのを待たなければならない時もある。必然的に業務時間は長くなりがちだ。
 一方ではもちろん国内の食品メーカーとのやりとりもある。買いと売り、その間で安定した供給と情報を提供し、モノを動かすだけでなくそこに付加価値を見出すのが商社の機能だ。それら日常的な運用は受け渡しチームが担当するのだが、受け渡しは昔の一般職制度時代に入社した女性、派遣や契約社員により各課で構成されている。
 最近では女性の総合職も当たり前に増えたが、食品業界とは時代が移ろいでも人の生活に密接して昔からある業界なので、食品メーカーは男中心の会社が多い。必然的に三藤商事の営業員も男性が割り当てられることが多い。
 才能豊かで柔軟に対応できる個の能力を備えた女性というよりも人はどこにでもいるものだが、男が誰でも生存競争に生き残れるわけでもないのと同様、そういう人ばかりではない。今となってみると、これは差別であるとか意図的に出来上がったわけではなくて、これまでの歴史的な経緯の結果としてそうなっているのだろう。内外の景色はグラデーションを帯びながら変わって来ていて、言われてみると10年前とは大きく変わった。過渡期ともいえる。
 ゆえに先ほどのような篠宮に対する歓声が男性を中心に起こる。抑えろといわれるとそれもまた厳しい。受け渡しチームの女性だってモデルやアイドル顔のようなイケメンがいると、キャーキャー言って争奪戦が起こるし、双方、人として幼少の頃から成長とともに形成された自然な反応なのかも知れない。
 篠宮が三課の松岡課長に導かれ、こちらにやってきた。三課は営業員5名、受け渡し6名から成っているチームだ。成績は芳しくない。
 彼女は、いや、彼はペコリと頭を下げた。
「4月からこちらに入社いたしました篠宮と申します。至らない点もあると思いますが、どうぞご指導のほどよろしくお願いいたします。」
 やはりどこからどう見ても、完成度が高い可愛らしい女の子だ。課内の面々一同がパチパチと拍手をしながら、未だ信じられずに息を飲んでいる。
 代神は視覚からはいってくる情報と、実際は違うという情報のアンマッチにより頭の中がクラクラしていた。子供のころから自然に形成されてきた脳ミソのスキームが外側からガンガン叩かれているのだから無理もない。
 高木はさっきまで灰色になっていたが、篠宮が近くにきてからは再びハァハァしだしている。彼は目の前にある欲望に常に正直だ。
 松岡課長は事前に情報を聞いて、少しは心の準備が出来ていたのだろう。苦笑いをしつつも普通に話し始めた。
「では、篠宮くんのマンツーマンリーダーは代神、お前に頼むから。」
「えッ・・・!?俺ですか?」
「何だ?それはそうだろう。この課はお前以来、新人が配属されていないんだから。順番から言って次はお前の番だ。」
「はァ・・・それは確かに。」
 マンツーマンリーダーとは入社から一年間、新人をインフォーマル的にフォローアップする制度で、年齢が近い先輩社員が担当する。業務のみならず会社には相談しにくい悩みまでを吸い上げ、人事部にフィードバックして行く役割もある。
 新入社員にとってみると社会人として最も影響を受けやすい相手となり、話し方や仕事のやり方が似てしまうことも多々ある。だから責任は重大だ。ちなみに代神のマンツーマンリーダーは高木だった。
「代神がイヤならば、ママママ・・・マウスツーマウスリーダー、自分がやりますッ!」
 高木がビシッと挙手をした。彼はまだ大学時代の応援団のクセがどこかに残っているところがある。
 松岡課長が顔の前で手を振った。
「ダメだ。ダメだ。これは人事部が組んでいることで俺の判断じゃァない。代神の育成も兼ねているんだから、お前はダメだ。しばらくは受け渡しをやってもらうことになるし、地方の客先が多くてほとんど外を走り回っているお前じゃフォローできんだろう?」
「はァ、確かに。そうですねェ・・・。」
 身長180cmの大柄な高木がションボリと背中を小さくした。
「席は代神と栗原さんの間が空いてるから、しばらくはそこでいいな。じゃァ頼んだぞ。さッ、今日も業務開始ッ。」
 各課の席の作りは商社によくある縦長の対面型で、机を二列に向かい合わせに並べた配置だ。各突端には課長が座る。先日、業務量不足により代神の隣にいた派遣社員の契約を解除していて、篠宮は受け渡しチームと営業員の間に座ることになる。
 カバンを肩にかけた篠宮が代神のほうにやってきてペコリと頭を下げた。
「代神さん、篠宮です。お世話になります。どうぞ宜しくお願いしますッ。」
「お・・・おお、こちらこそ。わからないことがあったら何でも聞いてくれ。」
 それを聞いた篠宮が頬を少し赤くし、嬉しそうに微笑んだ。
「はいッ。」
 真近で見ると、もっと可愛かった。
 代神は別に初めて性的マイノリティの人に対面したわけではない。大学時代にそういう友人もちょくちょくいたし、就職をしてから高木らとともに二丁目へ飲みに行ったこともある。
 だけれどもこれはモノが違う。
 普通は細部をよく見ると男っぽさをどこかに残しているものだが、篠宮はどこからどう見ても女の子だった。
「わァッ・・・そのカバン可愛いね。」
 篠宮の席の隣にいる受け渡しチームの栗原加代《くりはらかよ》が声をかけてきた。彼女は派遣から契約社員になった経歴で社歴も7年と長く、今や三課における運用業務の中核の一人である。2年前に結婚をして29歳になるが、言うところはビシッと言いながらも、内外の男性に対しては愛嬌も上手く使いこなす地頭のいい人だ。客先の評判も良くて安定感がある。
「あァ・・・ありがとうございます。これ買ったばかりなんですよ。」
「へぇ、どこで買ったのォ?」
 栗原と普通に女子トークに応じる篠宮を見ながら、代神は暑くもないのに背中に汗をかき始めていた。
(ダメだ・・・。女同士が話しているようにしか見えん・・・。俺はコイツとどういう会話をしたらいいんだろうか・・・。)
 代神は平均的なサラリーマン家庭に生まれ、ごく平凡な学生生活を送り、やがて就職したタイプだ。大学時代から付き合っている彼女がいて、何となくそろそろ結婚も考えている。いま、席の島の反対側で篠宮を見ながら条件反射でハァハァ言っている高木とは違い、女性に飢えているわけでもない。
 栗原との会話がひと段落したのを見計らい、篠宮に課内のメンバーを紹介した。
 課内のメンバーはやはり篠宮に戸惑っているのか、いつもより硬かった。特に高木の息の荒さは酷くて、長年後輩として彼を見てきた代神も苦笑いをした。
 それからはグループウェアや内外線、OA機器類の使い方、オフィス利用の簡単なルールなどを説明した。ちゃんとメモを取りながら説明が足りなかった部分を質問してきたので、代神は(ほぉ――)と少し感心をした。
 篠宮がトイレに行っている間、代神が救いを求めるように栗原に小声で相談をした。
「栗原さん、栗原さん・・・。」
「え、何?」
「篠宮なんですけど、アレどうしましょう?お茶だし当番とか、給湯室ルールとか。」
「ああ・・・確かに。」
 三藤商事では昭和から残っているいくつかの習慣がある。
 例えば新入社員は半年間、朝来たら机拭きをする。これは丁稚奉公や縦社会的なモノではなくて、フロア全体に足を運んでもらいながら先輩社員と話すきっかけづくりや、自分がいる島だけではなく社内全体を見渡すクセをつけてもらう意図から残っている。一旦廃止になったこともあったが、その年の新人は社内の行動範囲がなぜか狭くなり、他チームの営業員と会話をするきっかけが永遠とやってこなくなってしまった。三年目には自分を守るために周囲を攻撃するタイプが増える傾向が顕著になり、最終的にその年代だけ離職率が上がった。その反省から復活した。これは男女問わずやることになっている。
 ところが男女で差があるものがあって、さっき代神が言った「お茶だし当番」だ。これは各課内の女子社員の間で週ごとにローテしている役割で、来客があると女子社員は商談ブースへお茶を出しに行く。理由は誰もが感じる感覚的な問題で、男が毛むくじゃらな手で出すと男でも女でもお茶に手をつけたくなくなるから仕方のないことだった。国内の外資系の企業に行っても、お茶や飲み物はやはり女性が出してくれたりする。千利休が開いた茶の湯は男性が出しても平気なのに、緑茶はそう感じてしまうのだから考えてみると不思議だ。
 このお茶だしの一番厄介なところは、女性同士で不公平があってはいけないことだ。誰かに偏ってお願いしすぎると当人から不満が出ることもあるし、頼まれない周囲からもなぜ私には頼まないのだと不満が出る。この場合、後者のほうが根深く残り、突然別な形になって表面化するケースがある。だから当番制になっている。
 機転の塊のような栗原が暫し何事かを考えたあと、口を開いた。
「レオナちゃんの意識というか希望次第じゃないかな?レオナちゃんは総合職だし、本人がやりたいと言えばやってもらえばいいし、やりたくなければそれでいいんじゃない?」
「ああ・・・なるほど。」
 代神はなんでそんな自然で単純なことが思い浮かばなかったのだろうと思う。それにしても栗原が「篠宮くん」ではなく「レオナちゃん」と呼んだのには驚いた。自分は何て呼ぼうかと、ふと迷う。
「昼休みのランチに一緒に行ったら、その辺も訊いてみたら?」
「そうですね。わかりました。」
 
 
 昼休みになり、代神は篠宮をランチに連れ出した。
 高木が来ると言い張ったが、彼は午後に外出があったので渋々諦めた。
 三藤商事は20階建ての自社ビル本社を持っていて、代神たちはその6階北側に入っている。上層フロアや眺めがよい南側には業績の良い部門が入るのが暗黙のルールだ。
 エレベーターは8基があるが、昼時ともなると上から乗ってくる社員たちで混雑していて、6階からは何本か見送らないと乗られない。
 代神はドアが開くたび、男性社員の目線が代神のとなりにいる篠宮に視線が集中しているのが明らかにわかった。
(男っていうのは、いや、人というのは悲しいほど単純だよなァ・・・。)
 代神は苦笑いをしながらそんなことを思っていた。(それにしても――)と代神は隣にいる篠宮を見る。代神は175cmあるので160cmほどの篠宮を見下ろす角度になる。
(どっからどう見ても女の子だよなァ・・・。)
 篠宮は女性モノのサイフを右手に持ち、まだ初々しいがまぎれもなくオフィスで働くキャリアウーマンの駆け出しの姿をしていた。
 混雑していたが、詰めてもらいながらやっと3本目のエレベータに乗ることが出来た。
 ランチはどこで食べようかと迷ったが、初日だけに少し奮発をして後輩におごってやろうと思い、少し足を伸ばして1500円のイタリアン・ダイニングの店にした。店は近隣のオフィスで働く女性たちが多かった。
「え?私《わたくし》は蕎麦とか適当なのでもよかったんですが・・・?」
「まァ、気にすんな。初日だから奢ってやる。」
 5分だけ順番待ちをしたあと、2人は席へと案内された。
「ここのパスタ・ランチは上手いから、それでいいよな?キライなものとかある?」
「あ・・・大丈夫です。先輩と同じのでお願いします。」
 後輩にいちいち好き嫌いの有無まで訊いてしまった。代神は何だか自分の意識が少しだけ不安になる。
 料理が出てくる間、住んでいる場所や家族構成なんかを話した。母親は病気で亡くなり、兄弟はなく今は父親と二人暮らしで、二子玉川のマンションに住んでいるそうだ。家ではミニチュア・ダックスを飼っているという。代神は自由が丘で一人暮らしをしているので、電車一本だから意外に近いななどと雑談をした。
 やがてランチが運ばれてきて、話題は大学時代の話などに及んだ。
「そういえば篠宮さ、大学時代にミスキャン取ったんだろ?栄応大のミスキャンといえば、色々と雑誌でも取り上げられるし、すごいよな?」
 自然と「篠宮」と呼べたことと、篠宮の反応も普通だったことに代神はホッとした。
「ああ・・・アレですかァ・・・。」
 ここまで何でも明るくハキハキと応じてきた篠宮の顔が曇った。「そうなんですッ。」という自慢げな反応を予想していた代神は(あれ――)と思う。
「実はアレ、勝手にエントリーされてたんですよ。女の子として。」
「何だ?自分で応募したんじゃなかったのか?」
「はい・・・。友人に面白半分でエントリーされまして、実行委員会のほうも私を疑うことなく女だと思い込んだみたいで、学生番号と在籍だけ照合して詳しく調べられることもなく、そのまま走ってしまったそうです。」
「へェ・・・それで?」
「私もずっと知らなくて、気付いたらネット上で他の女子に三倍以上の差をつけて1位になってました。やっとその段階になって実行委員会も私が男だと気付いたんですが、外から相応の協賛金も預かって内外に多くの人が関わって動いてきた手前、今年は男がミス・キャンですなんてとても言えない。」
「ああ、確かにアレは大学によるが色々と絡むからな。」
「それならばと、受賞を辞退しようと思ったんですが、結局、実行委員に今さら引き返せないからと頼み込まれて、授賞式まで行きました。名前も篠宮玲於奈とどっちとも取れる名前だったんで、そのまま・・・。そもそもこの名前はノーベル賞を受賞した学者さんから由来して父がつけたものだったんですけどねェ・・・。」
「なるほど・・・。それは気を使って大変だったなァ。」
 篠宮が深く頷いた。
「そうなんですよ・・・。あ・・・あとよく私、こういう服装をしているから誤解をされるんですが、LGBTではないです。」
「えッ・・・。」
 代神はサラッと重要なことを言われ、思わず口をあけたままフォークを止めた。
「男の人が好きなわけでもないですし、普通に女の人が好きです。高校時代は彼女もいました。大学時代はフラれてばっかりでしたが。」
 普通に笑いながら軽く話す篠宮に、代神はまだついて行けていない。
「いや・・・ちょっと待て。じゃァ、とても言いにくいことではあるが――。その、何だ・・・。」
 しどろもどろになった代神を察するように篠宮が可愛らしく微笑んだ。
「なぜこの格好をしているかですよね?それは何も難しい理由はありません。この格好のほうが好きだからです。女の子の格好って可愛いじゃないですか?」
「――お・・・おう。それはまァ、男として気持ちはよく解かる。同感だ。否定しない。」
 代神はますます篠宮について行けず、もはや周回遅れになっていた。
「学生時代からつねづね総合商社で働きたいなと思っていまして、三藤商事は比較的ドレスコードが大らかだと聞いてこちらにしました。他も受けたんですが、面接で落ちてしまいまして・・・。たまたまコネもあったので最大限フル活用しました。」
「なるほど・・・・。それなりに苦労は色々とあったんだな。」
「それは、まァ・・・。そもそも男女の服装なんて、法律にも就業規則にも記載がないじゃないですかァ?だから世につれ人につれ、変化するモノだと私は思いますよ。スコットランドの男の人だってスカートみたいなキルトを履きますし、今やメンズコスメだってあって、職場にして行く人もいますよね?」
「そう言われてみると確かに・・・。学校の校則のような境界線を探る話になるな。それは・・・。最終的にはそれぞれの都合に基づいて誰の権限で決めるのかという話になる。」
「だから、気にしないでください。自分自身、男だと思ってますし、ちょっと奇抜な格好をした普通の男性社員として扱ってくださいッ。」
 そう言った後、篠宮はペコリと頭を下げた。
 代神としてはネットやテレビで見聞きする事情ではなかったので、気をつかう部分がだいぶ減ったが、余計に頭が混乱してきていた。
 篠宮の一番の問題は、その視覚的に見た者が受ける印象、言われなければ解からない自然さ、好感さえも与えてしまう圧倒的に高すぎるクオリティにあると代神は思った。
 ランチを終えて席に戻った後、とりあえず栗原には事情を説明し、お茶だし当番は他の男性社員と同様、忙しい時だけヘルプ対応をやってもらうということにしてもらった。

 


scene2 新人歓迎会

 日本語は漢字をつかう言語なので、単語そのものの詳しい意味を知らなくとも、字を見るとおおよその意味を想像できる特徴がある。
 ところが明治維新以来、加速をつけてたくさんの外来語がカタカナ表記で輸入されるようになった。
 英語から逆流をして新しい意味が吹き込まれた日本語もある。その一つが《夢》だ。本来、日本人にとっての夢は眠っている間にフワッと見るもので目標を示す言葉ではなかった。それは《志》と呼ばれていた。英語のdreamの訳として夢という言葉が使われ、今では「将来の夢」などと言ったりする。だから今でも人によって使われ方が微妙にズレていて、どこかフワッとしている感じがする。
 さらに近年では、三文字英単語がどこの業界や職場でも幅をきかせている。ERP、SCM、DCM、KPI、ROI、ASP・・・枚挙に暇がない。あげくにはMTG、PJTなどがあり、なぜあえて会議、計画、実行体から言いなおす必要があるのか?――それは謎だ。
 日本においてカタカナ単語は注意が必要だ。個人によって理解や含めている範囲の違いがあり、出発地点から会話の齟齬を起こすことがしばしばあるからだ。
 とりわけ、近年の日本で意味が拡張して暴走が止まらない言葉がある。
 
――コンプライアンス。
 
 直訳すると法令順守。日本国内では意訳をすると思考停止だ。
 本来は2000年前後から企業のグローバリズムの進展や規制緩和に対応するため、主に会計基準や業務工程の適正化を目指したものであった。企業内部で自己監視、自浄できる体制と仕組みを作ろう、という理念を掲げて始まった。
 一方でいつしか、職場環境の改善が社員の士気の向上と利益の最大化、ひいては株価向上につながるとして、社内内部の人間関係にまで意味が拡張され、コンプラ委員会なるものが各社に存在するようになった。本来のコンプライアンスの意味から逸れて、さながら学校の風紀委員のような活動も見受けられる。
 コンプライアンス対応のため費用を上げますとか、よく分からない会社まで出てくる始末だ。いや、それはそちらの会社の問題であって取引先には関係がない。
 日本で働くある外国人が言っていた。(日本では酒を飲みながらでもうっかり女性に下ネタもいえないし、誰かを食事に誘うのも気をつかいますねェ――)と。いや、待て。てっきりグローバルスタンダードの潮流に乗ったつもりで日本国内では朝から晩までコンプラコンプラとコンプリートしようとやっているのだぞと。
 ところが実は少しちがっていて、いつからか日本独自のモノになってしまったらしい。最近で言えばハロウィンのようなものか。
 外資、主に米国企業は解雇の契約が文化的に緩やかだ。その代わり、市場での人材需要があり、流動性が確保されている。ところが日本は解雇のハードルがとても高い。(年功序列は終焉した――)と言いながらも、雇用契約はガチガチなままだ。前者をフルーツバスケット的とするならば、後者は残りのイスをめぐる椅子取りゲーム的な様相ともいえる。だから日本企業は内向きで大企業病に陥りやすく、この風土の違いが、日本における「コンプライアンス」なる言葉を特殊なものにしているのかもしれない。
 パワハラ、モラハラ、セクハラ・・・。これらの言葉は年々意味が微妙に変化し、拡張されている。なぜだろう?法治国家らしく、罪刑法定主義に基づきそろそろ日本語で、個々個別で定義しなおしたほうがよいのではないだろうか。そうすれば当事者双方になりうる人にとって納得が行くものになり、実効性がより確かなものになるはずだから。
 現代の職場では、上と下、男と女・女と男、または男と男・女と女でその境界線をめぐり、探りさぐりの息苦しい環境で仕事をしている。もともと話し合いや交渉が下手なのに、余計に下手になっている。他の本質的な企業を取り巻く問題をなおざりにして――。 
 
 
 配属以来、篠宮は栗原の指導の下で受け渡し業務の研修を受けていた。
 代神は外に出ることも多いので、いつも篠宮を見ているわけではない。
「レオナちゃんはちゃんとメモも取っているし、一度教えたことはしっかりと憶えてるよ。一度失敗すると繰り返さないし、優秀なほうだと思う。帰る前には一応『他にやることはありますか?(もう上がってもいいですか?)』と聞いてから上がるし、気づかいもしっかりしてる。お茶だしも結局のところ当番の手が埋まっていると気が付くと、すぐに出しに行ってくれるからとっても助かってる。他の事務員の評判もいいよ。」
 2週間、業務を共にした栗原の評価を聞き、代神はホッと胸をなでおろした。
 新入社員の評価、ひいては会社員の評価は最初の3ヶ月間が重要だともいわれる。そこで無自覚にトンチンカンなことをやって印象が定まってしまうと後々とても苦しむことになると、他の会社で人事部にいる大学の先輩から代神は聞いたことがある。
 初めてマンツーマンリーダーとして預かった後輩が褒められると嬉しいし、ひとまず安心できた。第一関門突破だ。早くも事務員のお局ヒエラルキー連中の間では、他の部門に入った新人がやれ使えない、アイツはダメだという噂がチャットツールによって高速で飛び交っている。
 この受け渡しの研修でダメだと思われた総合職は、いつか営業員として仕事を取ってきても事務員にそっぽを向かれることが多々ある。だからこそ特に真剣に取り組む必要があるのだ。
 その点、贔屓目抜きで篠宮はよく出来ている。資料のファイリングを頼んでも、女性が作ったように細やかだ。インデックスやラベルもしっかり着けてくれる。派遣の女の子の中には保管文書のファイルをやっつけで押し込むようにやる子もいるが、あれが地味に大きな差になる。1分かかってやっと探し出せるか、即座に辿りつけるかで、一年の積み重ねとしてみると結構な時間のロスになる。小姑のようになるのも難なので、営業員や他の人はみんな言えずに黙っているが。
 また、篠宮は売上と原価を計上をさせてもミスが少なく、電話の応対もしっかりしていた。
 貿易の実務は栗原というエキスパートがいるので、今後どんどんおぼえて行ってくれるに違いない。
 あれは親の教育の賜物だろうと松岡課長と飲みながら話していたところ、それを聞いていた高木が再びハァハァと息を荒げていた。
「きっと篠宮は良い嫁になるに違いないッ・・・!」
「いや、だからこの前話したじゃないですかァ。篠宮はそういうつもりがないって・・・。」
「何だとォッ!?あんなにけしからんルックスをしていてもか?あれは、あれでインノセンスと言えるのか?」
「確かに彼女・・・あ、いや・・・篠宮の外見のクオリティは高いですが、そういう格好をしているというだけですから。マジで。」
「・・・わかってる。代神。それはわかっているんだ。でもダメなんだ、オレはァ・・・。」
「な、何がですか?」
「篠宮を見るたびに自分に言い聞かせるんだ。アイツは男だ、アイツは男だと。そのたびにどんどんどんどん恋をしている自分に余計に気が付く。――なァ?代神、俺はどうしたらいい・・・?アイツは俺にとって、とんでもないフェミニン小悪魔だ。女であってくれたほうが、いや、せめて男に興味があってくれたら、俺はどんなに良かったかァッ・・・。それならばOKでもNGでも、気持ちを伝えて何らかの答えをもらえるじゃないか。」
「そ、それは辛いですね・・・。」
 高木は酒を飲むといつも泣くクセがある。松岡課長は早々に退散したが、その日は夜の12時まで高木の苦悩について延々と聞かされた。
 松岡課長も「つい、ウチの同じ年頃の娘を思い出してな・・・。篠宮にはお前らに言うようには言えないだろうな。篠宮が入れてくれたお茶は温度もよくて美味しいし、課で使ってる食器類も全体的にキレイになったような気がする。」と言っていた。
 
 
 そんなある日の金曜日、新人を迎えた一課、三課、四課合同の新人歓迎会が開かれた。
 総勢30名弱の宴会となったが、今年は出席率がいい。要因ははっきりしている。篠宮だ。
 いつもの新人歓迎会となると、ほとんど皆が最初の席を動かないのだが今年は序盤からよく動く。特に篠宮周辺の席を狙って男どもが回転をしていた。
 四課の事務員のドン的存在の条之内《じょうのうち》が頬づえをつきながら、栗原の横でやれやれと溜め息をついて笑った。条之内は栗原よりも年齢は上で、32歳になる。独身だ。
「ちょっとォ・・・あれ何よ?あからさますぎない?」
「しょうがないじゃん、あんなに可愛いんだから。」
「え?でも男でしょ?レオナちゃんは。愛想もいいし、彼は好きだけどね。でも、ヤツらだけじゃないんだよね。実際。別フロアから来た人に篠宮さんてどこにいるの?と聞かれたのは1度や2度じゃないよ。」
「男はああいう造形を見ると、反応したくなるように出来てるんでしょ。歌舞伎だって女形ってあるし、日本人は性別どうこうよりも造形の美意識が正直に出来ているのかもね。」
「造形ねぇ・・・。」
「造形だけじゃないよ。レオナちゃんは前からいるウチの他の事務員よりも細やかなことに気がつくし、本当に助かってるよ。」
「内面も乙女か・・・。でも男には興味ないんでしょ?」
「そォらしいよ。でも彼の場合は女だから男だからという以前に、人として細やかなんだろうね。アレは親の教育に違いないわ。」
「人として・・・。」
「――あのさ、よくTVとかで草食系男子ガーとか言うでしょ?でもよくよく考えてみると昔からいたんだよねェ、草食系。肉食系中心のドラマや情報のほうがネタになるからそれが普通で主流のようになっていただけで。」
「ヘェ・・・。」
「男だからといってエッチのことばっかり考えているかといえばそうでもなくて、実際はそんなに多くないんだよ。病的な男が一人で10人も100人も食っちゃったり、そういう人が表に出てくるから、男全体があたかもそう見えているだけで。その辺は女と一緒で、あまり好きじゃない人もいたりするんだよね。ホラ、彼もそうだよ。代神くん。彼もそこまであんまりエッチが好きじゃないって前に言ってたよ。それを聞いたときには女の人に求めているモノが人それぞれ違うんだなァと思ったよ。考えてみると当然といえば当然だよね。」
「そういえば、彼はちょくちょくモテるけど、浮いた話が無いねぇ・・・。彼女いるんだよね?」
「うん、大学時代から付き合っているらしいよ。ああして群がっている彼らもレオナちゃんが男だと解かっているわけだから、求めているモノはエッチな事ばっかりではないって事なんだろうねェ・・・。そもそも、男の人って男の後輩が性的にじゃなくても好きだしさ。」
「なるほど・・・。」
「高木さんはのぞくけど。」
 高木は篠宮の横に座り、頑としてずっと席を譲ろうとしなかった。篠宮に酔った勢いを装って抱きつこうとするたび、代神をはじめとした周囲の面々から「男同士でもセクハラの事例が社内にありますからッ。やめてください。」と羽交い絞めで制止されている。
 条之内が頬づえをついたまま苦笑いをして、焼き鳥をくわえてビールで流し込んだ。
「大丈夫かな・・・。セクハラなりパワハラなり起こらないといいけど。」
「ああァ・・・そっか。それもあるかもね。篠宮くんが男に興味ないのは一応みんなに伝わってるし、可愛い子の近くにいられる安心感のようなモノもあるのかも知れない。嫌われるかな?○○ハラとか言われないかなぁ?と恐る恐る間合いを探って心配しなくていいじゃん?」
「あァ・・・確かに。私なんて下ネタなんてバンバン平気だけどさ、私が言っても女の子で嫌がる人は嫌がるからねェ・・・。あればかりは思春期とか大学時代のすごし方から影響していると思う。」
「確かにあるねェ・・・それ。あとさ、○○ハラってさ、そう思った人がいたらそうだ、というワケでしょ?見た目とかで不快感を与えがちな人とかってあまりに不利だよね。イケメン俳優とブサメン芸人が同じ事言ってもまったく真逆に聞えることってままあるし・・・。」
「そうか・・・そう思うと酷い話ではあるよね・・・。一部の酷いことをする人達がいて、それに平均をもっていくから普通の人が苦労をする悪循環・・・。100人いれば2~3人は極端な人がいるものだけど、その人に予防線を張るためにみんなで息苦しい思いを我慢するという・・・。会社って学校のようにグループごとに距離を保てないし、しょせんは他人同士。私も若い子に接するときはそろそろ気をつけないと・・・。個人では止められない世の流れだねェ。」
「そォだね。条さんは気をつけたほうがいいよッ。」
 栗原と条之内が笑い合っている向こう側で、三課のテーブルは異様な盛り上がりを見せていた。
 篠宮の正面に座る一課の男が訪ねてきた。
「なァ、篠宮。お前、パンツとか下着どうしてんの?」
「オイ、こらテメェ。酔っ払ったどさくさに紛れて何聞いてんだよ。セクハラだぞそれ。」
 酒が進むにつれて全体的に口が軽くなってきて、シラフから下ネタ発言が多い組から際どい質問が出るようになった。さっきから代神がマンツーマンリーダーとして必死にガードをしていた。
「代神さん、別に大丈夫ですよ。」
 篠宮が手を小さく振りながら笑った。
「――普通ですよ。皆さんと一緒です。今日は黒のボクサーパンツです。」
 途端に周囲が(オオオッ――)とどよめいた。
「ブラはどうしてんの?」
「必要ないんで付けてません。」
 再び周囲がどよめいたが、となりにいた高木が鯨の潮吹きのようにブッと鼻血を飛ばし、正面の席にいた男が浴びてしまった。
(いや、篠宮は普通に男だし・・・。)
 他にも代神が気になるのは篠宮のほうだ。宴の始まりから篠宮に酌をしてもらう順番待ちが出来てしまい、量自体は飲めるようだが、酌を返されているうちに篠宮は相当飲んでいる。
「ほらッ、みなさん。篠宮は相当飲んでますんで、各席に戻ってくださァーい。」
「っせーな。お前は篠宮のマネージャーかよ!?新人と親交を深めたら罪なのか?アカンのか?」
「いや・・・そんな事はありませんが。」
「代神さん、私は大丈夫です。酒の席ですから。ありがとうございます。」
 普段、若い者たちから相手にされない鬱憤が溜まっているのだろう。ここまで酒が深まってくると篠宮の外見がどうこうというよりも、酒を飲みながら仕事の自慢や愚痴をウンウンと話を聞いてくれる後輩の存在が嬉しいのだろう。今年の新人は篠宮以外は女性なので、酒も進んでついうっかり余計な事を言う恐れもある。消去法的にこちらのテーブルに来たくなる気持ちも少しはわかる。
 篠宮は相変わらず可愛らしいリアクションを挟みながら笑顔で応じていた。
「もォ、みんな仕方ねェなァ・・・。」
 代神はやれやれと呆れながらその様子を眺めた。
 傍らでは、鼻血を出して倒れた高木が後輩から介抱されていた。
 
 
 宴会終了後、二次会まで有志20人が参加し、お開きとなった。
 高木はしばらく起き上がることができず一次会で帰った。
 代神と篠宮は共に駅に向かっていたが、篠宮はだいぶ酒が回っている様子でフラフラとしている。足元がおぼつかない。
「おい、お前大丈夫かよ・・・?」
「あ・・・大丈夫です。すいません。やっぱり社会人は飲みますねェ。これでも大学の頃は強い方だったんですが。」
 その時だった。
 篠宮が足首をグリッと横にくねらせて道端にひっくり帰ってしまった。
「うわッ・・・痛ァ・・・。」
「オイオイ・・・何やってんだよ。」
 代神が手を差し出すと、篠宮が「すいません。」と言いながらそれを掴んで立ち上がろうとした。
「クッ・・・。つぅ・・・。」
 どうやら左足首を捻ってしまったらしく、立ち上がったが歩くことが出来ない様子だ。
「何だよ。足やっちゃったか。」
「はい、そうみたいです。」
「それだと電車乗れないなァ・・・。」
「いや、今日は電車がもうつながらないし、満喫に泊まるつもりなので大丈夫です。あとは自分で何とかします。」
「はァ・・・?そこまで無理しなくてもよかったのに・・・。」
「一応商社マンになる訳ですし、これでも男ですから。」
 確かに引く頃合いなんて新人には解かるはずもなく、最初に言っておくべきだったと代神は責任を感じて後悔をした。篠宮は男だからと自分に言い聞かせるあまり、その辺の気づかいが必要以上に不足していたなと思う。いや、平均的な男の新人でもその程度の気づかいを先輩として、してやらないといけなかったと反省をした。
 くわえて、この格好の篠宮を路上に放置していく訳にもいかない。絶体に怪しい奴等が群がってくるのは火を見るより明らかだ。
 迷った挙句、代神は背を向けて屈みこんだ。
「ヨシッ、おぶされ。」
「え?恥ずかしいですよ。止めてください。」
「逆に男同士のほうが恥ずかしかったし、お前がその格好だと丁度いい。早くしろ。こっちの電車もなくなってしまう。」
「止めましょうよ・・・。こういうベタなBL展開。」
「BL・・・?ファッ!?違げーよ。余計に意識してしまうだろォがッ。お前がそういう格好しててもしてなくても、お前が高木さんでもだ、おぶって帰るしかない状況だろうが?早くしないと本当に置いていくぞッ。」
 篠宮としてもこんな所に置いていかれてはかなわないし、これから人通りも少なくなって、おかしな連中に出くわすとも限らない。その辺の自覚はある。
「じやァ・・・すいません。では、失礼いたします。」
 篠宮が代神の首に手を回し、身を寄せておぶさると、代神が立ち上がった。
「お前、体重まで女みたいだな・・・?俺の彼女よりも軽く感じるぞ。」
「女性と違って肉が分散してついてないですからね。そのせいだと思います。」
 それから代神は駅に向かって歩き出した。すでに人通りは少なくなり、慌てて駆けていく人達もいる。
「――なァ、篠宮。」
「はい?」
「ギュッってすんな・・・。」
「あァ、すいません。その方が歩きやすいかなと思いまして・・・。」
 とりあえずその日は、代神の家で足首を手当てし、篠宮は回復を待って翌朝帰ることにした。


scene3 修羅場

――ピンポーン、ピンポーン・・・
 よく響くワンルームマンションのインターホンが鳴り、代神は深い眠りから呼び戻された。なかなか上がらない重いまぶたを持ち上げ、枕元のスマートフォンを見た。
「まだ6時半じゃねぇかよ・・・。」
 土曜日になると不思議と体のスイッチが切れてしまう。
 代神は特に趣味もない。土日はほとんどゴロゴロして、TVを見たり、本を読んだりしてダラダラと過ごすのが常だ。
――ガチャンッ・・・バンッ・・・
 玄関のカギが何者かによってこじ開けられ、ドアが勢いよく開いた。
「ちょっとォ!愛しい彼女が地球を半周して帰って来たんだから、せめて出てきなさいよッ。」
 騒がしくてよく通る声がするほうを見ると、髪をきつく後ろに束ねた制服姿の背の高い女性が、トランクケースを引いて立っていた。
「あァ、夏生《なつき》、お帰り・・・。」
「お帰りじゃないわよ。ったくもォ。そうやって休日に電源を完全に落とすのやめたらッ?」
 彼女は長い足の先に掛かっている靴を玄関で窮屈そうに脱ぎながら、眉間にシワを寄せている。
 矢幡夏生《やはたなつき》は代神が大学1年の頃からかれこれ8年もつきあっている彼女で、卒業後は国際線のCAをしている。大学時代はチア・リーディング部に所属していて、3年の時には2人が通う大学のミスキャンにもなった。美人ではあるが中身はキツイ。
 少しのんびりしたところがある代神はいつも彼女に尻を叩かれていて、結婚をしたらカカァ天下になるのは明らかだ。夏生は最初、契約社員としてJNAに何年か勤めたあと、2年前からは正社員となり、今は仕事が楽しくて仕方ないらしい。だから結婚はどちらかといえば代神のほうが待っている。
 きっと今回のフライトは嫌な客がいたのだろう。今朝はとても機嫌が悪い。足音をドタドタと立てながら入ってきた。
「ホラ、部屋も散らかりっ放しィ――じゃないわね・・・?アレ?ちゃんと整理するなんて珍しいじゃん。誰かきたの?それになんでそんなトコで雑魚寝なんかしてるの・・・?」
 夏生は昔からとても勘がいい。いつもより片付いている部屋を見た途端に質問を投げかけてきた。
 その質問を耳にした代神は、すっかり忘れていた大事なことを思い出した。
(――はうァッ!ヤバい・・・!)
 思った刹那、全てが手遅れだった。
「――あれ・・・代神さん、お客さんですか・・・?」
 ベットの中から篠宮が目をこすりながらムクリと上半身を起こした。代神の大きめのTシャツをパジャマ代わりに借りていて、どこからどう見ても寝起きの女の子だった。
 昨夜、篠宮は寝る前にメイクを落としたのだが、すっぴんになるとさらに可愛かった。代神はなんとなく篠宮を直視できなくなり、複雑な気持ちになりながら布団にくるまって眠りについた。
「えッ・・・何?」
 夏生が目を見開いて固まり、絶句をしていた。
 もちろん夏生が篠宮と会うのはこれが初めてだ。
 いわゆる修羅場の幕が上がった。
 クローゼットの取っ手には篠宮の服がハンガーにかかっていて、部屋には明らかに女性の手によって丁寧に掃除がなされた痕跡がある。
 さっき部屋に入る時には気付かなかったが、玄関のほうを見ると、下駄箱の上にかわいらしい女性モノの靴が揃えて乗せられていた。
 これらの状況証拠から推測される答えは、ただ一つ。そう、ただ一つだけだ――。
 こういう時、女性には2つの選択肢がある。ショックを受けて泣きながら出て行き、彼がこちらを追いかけて来るのを待つか、そのまま居座って泥棒ネコと直接対決の姿勢に入るかだ。当然、夏生は後者を選ぶ。
「コラッ!誰よあなたはッ!?私の留守をいいことに、人の彼氏を寝取るとかアリなわけ!?」
「いや待て、待ってくれ。夏生。これは会社の後輩、新人だ・・・。」
 今にも篠宮に歩み寄って殴りかからんとする夏生の腰に、代神はすがりつきながら制止した。
「何?良平。アナタ。早速新人に手をつけたのッ?そんなのコンプラ違反でしょォ!?いいの?オタクの会社は。それでいいのッ?」
 火に油だった。
 夏生の額にマンガのような太い筋が浮いていた。良平は生まれて初めてそんなモノを見た。
「いや、だから・・・コイツは男だ。男。」
――バシンッ・・・
「うッ・・・イタァ・・・」
 限りなくグーに近い平手打ちが振り下ろされた。
 夏生が実力行使に踏み切ったのは大学時代から通算するとこれが2度目だ。1度目は確か代神が夏生の誕生日をすっかり忘れ、友達と飲みに行ってしまった時だった。
「キーッ。嘘をつくならもう少しまともな嘘をつきなさいよッ・・・。こんな男がいるワケないでしょッ・・・!」
「いや本当だって・・・。なァ篠宮、お前からも何か言ってくれ。頼むッ。」
 左目を抑えながら代神が呻いた。
「あ、はい、わかりました。」
 ベットにいる篠宮がニコリと微笑むと、Tシャツのすそにクロスさせた両手をかけ、前をバッとめくり上げた――。
「うおッ・・・。」
 代神は思わず目をふさいで顔を逸らした。
「えッ・・・、はい・・・?」
 夏生は呆然として、しばらく篠宮の色白の体に見入っていた。
 
 
 一応、夏生の怒髪天の形相はおさまったものの、10畳1DKの部屋の中にはおかしな空気が漂っていた。
 篠宮はバスルームで自分の服に着替えて出てきたあとは、キッチンで夏生と代神にコーヒーを入れてくれていた。足の痛みはだいぶ落ち着いたようで、びっこを少し引いているが歩けるようになっている。
 夏生は未だに信じられないといった表情で、まじまじと篠宮を見ていた。
「あの子、本当に男の子なんだね・・・信じられない。」
「な・・・やっぱそう思う?」
「だって・・・スゴく可愛いじゃん。――良平、まさかアナタッ・・・。それはダメよ。それだけはダメッ。だって私・・・それは同じ土俵に立てないもん・・・。」
 夏生は両手で口元を覆い、涙目になりながら小刻みに顔を横に振った。
「バカッ・・・違うって。それはくれぐれも違うから・・・。」
 代神は苦笑いをした。
 それから昨晩の出来事について夏生に一通りの説明を終えたころ、トレーの上に3つのマグカップを乗せた篠宮がやってきた。
 膝をついてから2人の前にコーヒーを出してくれた。
「あら、ありがとう・・・。」
 コーヒーの香りは気持ちを落ち着かせてくれる効果がある。
 とにかくまずは冷静になろうと、夏生はマグカップを口に運んだ。
「――あれ、美味い・・・。」
 いつもと同じ道具と豆を使っているはずが、夏生は自分が入れたコーヒーよりも篠宮が入れてくれたコーヒーのほうが格段に美味しくて驚いた。
 夏生は大雑把なところがあって、目分量で豆を入れたあとはダダダダダーッとお湯を注ぐ。彼女は何でも短時間を目指す性分なので、丁寧に入れられた篠宮のコーヒーと味に差が出るのは仕方がないことだった。
「JNAのCAさんなんですよね?代神さんからゆうべ聞きました。」
 愛くるしい顔で篠宮が尋ねてきた。
 それを見た夏生は(か・・・可愛い。私より――)と、なぜか思わず危機感を先に覚えてしまったが、気を取り直して答えた。
「ええ、そうよ。」
「実は私の母も、若いころはJNAの国際線のCAだったんです。当時はスチュワーデスと呼ばれていたみたいですが。」
「あら?そうなのッ?先輩の娘さん・・・いや、息子さんということになるのね。えー、お母さまはいつごろお勤めだったのォ?――」
 おしゃべりな夏生は途端に上機嫌となり、篠宮との会話に夢中になりはじめた。
 どうやらやっと篠宮への警戒が解けはじめたらしい。代神はやれやれと胸をなでおろした。(それにしても――)だ。
(この篠宮というヤツは、誰にでも飛び込んでいけるなァ。案外、営業向きなのかもしれない。さっきだってとんでもない修羅場であったことには違いなかったのに、今は普通に夏生と話しているのだから・・・。)
 急にマンツーマンリーダー目線になった代神は、楽しそうに話す2人の様子を嬉しそうに眺めていた。思えば職場の人間を家に招いて夏生を紹介するのもはじめてだ。これはこれで、何となくいいなと思ってしまう。
「ねェ、レオナちゃん。そういえば私、アナタの顔をどこかで見た事がある気がするんだけど、気のせいかなァ?どこだったっけ・・・。TVとか出たことある・・・?」
 いつの間にか夏生の篠宮への呼び名が《レオナちゃん》に変化していた。
「あァ、篠宮はミス栄応だから。ミスキャンの。何かの雑誌とかで見たんじゃないの?」
「えッ!?本当にッ?今は男でも出られるの・・・?時代は変わったのねェ。」
 篠宮は苦笑いをしていたので、代神が一通りの経緯を夏生に説明してやった。
「ふーん、そんなことがあるんだァ・・・。確かに、性別のチェックまでなかなかしようとは発想が及ばないもんねェ・・・。人って視覚を信じちゃうから。レオナちゃんと大学は違うけど、そういえば私もミスキャンでは性別や身体チェックまでされた記憶はないなァ・・・。」
「まァ、それはそうだよな。女の人にそんなこと訊いたら普通は失礼に当たるもんな。」
 ふと時計を見ると、午前8時になっていた。
「代神さん、私そろそろ失礼致します。大変お世話になりました。夏生さん、お疲れのところお相手いただきありがとうございました。お邪魔いたしました。」
 篠宮が三つ指をついて丁寧に頭を下げたので、夏生と代神も思わず頭を下げて応じた。
「いえいえ、ろくなお構いもできず・・・。ところで篠宮、足の具合はどうだ?まだ痛むなら駅まで送るぞ?」
「あァ、おかげさまでだいぶよくなりました。大丈夫です。一人で帰れます。」
「そうか、それはよかった。」
 それから代神と夏生はマンションのエントランスまで行って篠宮を見送った。
 夏生が手を振ると、篠宮が可愛らしく小さく手を振り返しながら歩いて行った。
「しっかし、あれは奇跡だね。本当に愛くるしい・・・。」
「そうか?」
「CAの中でもあのレベルはなかなかいないわ。外見だけじゃなくて中身もね。」
「へェ・・・。よく見てんだな、夏生は。」
 自分の会社の後輩が褒められ、代神はなんだか誇らしい気分になった。
「そォよ・・・。よく見てるのよ。良平さ、アナタ、私と付き合っている8年間で『駅まで送ろうか?』なんて言ってくれたこと一回もないよねッ・・・?」
「えッ・・・またそういう展開?男の篠宮に嫉妬してんの?」
「違う違う。良平にとっての《《人としての存在の重み付け》》を問うているのよ。私が疲れて帰ってきても空港まで迎えにきてくれたこともないのにィ――」
 この日、2人は仮眠をとったあとに午後から出かけたが、午前中一杯は、代神は人間サンドバックとしてずっと言葉責めを浴びていた。


scene4 客先初訪問

 8月下旬。
 篠宮が三藤商事食品カンパニー三課に配属されてから4ヶ月近くが過ぎようとしていた。
 彼女は――いや彼はすっかり課内や周辺と馴じみ、職種や性別を問わずランチへ一緒に行ったりしている。
 中身が男だということを忘れれば、相変わらず客観的に見て淀みがなく可愛らしい。
 女性社員に対しては友達のようになるし、男性社員に対しては女性の見た目でありながら中身は男の後輩ということになるので、必然的に皆が気兼ねなく近い距離感で付き合える立ち位置になっていた。
 受け渡しのOJTも順調で、一貫して丁寧にこなしている。
 一方で篠宮が来てから、事務職たちに少しずつ変化が起こりはじめていた。ファイリングがキレイになったし、データフォルダの分類も整理されてわかりやすくなった。何より、ミスがだいぶ減った。システム部門のレポートによると、三課事務職たちの業務システムへのログイン頻度が、他チームと比べて大幅な増加傾向にあるそうだ。つまり、時間をとって入力後のチェックを頻繁にやりはじめているという事を示している。新入社員であり、かつ男の篠宮に追い越されるわけにはいかないと、彼女たちもプライドをかけて頑張ってくれているのだろう。不思議と残業も減少傾向にある。
 8月に入ってからは篠宮の総合職としての研修もグラデーションを付けながら始めた。年度末あたりで受け渡しと営業が半々の比率になるよう、松岡課長と代神の間で話し合っている。
 とりわけ高木が篠宮の研修にとても熱心で、暇を見つけては貿易倉庫やメーカー工場とのアポを取って見学に連れ出してくれている。そこは沢山の営業先がある代神としてはとても助かっている。
 ところが、高木が地方メーカー工場に泊まりで篠宮と出張に行きたいと言い出した時には、温厚な松岡課長も何事かを察して決裁を出さなかった。松岡課長が「あえて地方のメーカー工場を見せる理由は何だ?」と鋭い眼光で詰めたところ、「えッ・・・。」と高木はしどろもどろとなり、顔を真っ赤にして俯いていた。
 6月に第一四半期が締まったが、三課の実績の数字は芳しくない。
 昨年対比でマイナス5%。
 その要因は明らかで、先行する競合総合商社にやられているというよりは、小回りが利く食品専門商社にジワジワと食われた結果だ。三藤商事食品カンパニー三課にとっての真の競合は専門商社だ。
 大抵のメーカーはリスクをヘッジするために複数の商社と取引をしているものだが、親身になって柔軟に対応をしてくれる中規模の専門商社は、彼らにとって言うことを聞いてくれるから付き合いやすい。
 ごく一例として先日のお盆期間中のことだ。
 多くの商社と同様に三課も休みではなかったが、関連子会社の冷蔵倉庫はコンプライアンス上の取り決めにより休みになっていた。出荷業務システムもメンテナンスで止まっていて発送ができない。仕方なく事情を説明して渋々諦めてもらったが専門商社が抱えている小規模倉庫は稼動していて、メーカーに発送ができたそうだ。
 そういう無理を言ってきたメーカーにも、やむを得ない事情がある。需要予測に反してお盆期間に急にモノが動いてしまい、材料が不足して困っていたゆえだが、工場のラインは予定が組まれているし人をすでに確保しているから絶体に材料を確保したい。万が一お盆休み明けに欠品を起こすようなことにでもなれば、売り場からペナルティで外されてしまうことだってありうる。
 本来ならばそういう所に小回りを利かせてナンボなのだが、大企業ゆえの制約条件によりそれが出来なかった。
 三藤商事では内部統制が強化され、近年導入された業務システムはガチガチだ。ステップを飛ばしてモノとカネを動かすことが出来ない。それをやってしまおうものなら、経理部門が監査からつつかれて社内全体に迷惑をかける事だってありうる。
 食品カンパニーは弱小部門なので社内への発言力や交渉力も弱く、システムの要件定義ではウン億円のコストが膨らむようなことを強く要求できなかった。
 あとは先々、メーカーから「あの時はやってくれたじゃないか?」と再三要求されてしまうようになると、社内業務がイレギュラーだらけになってこれもまた困る。
 たどってみるとこんな風に要因が色々とあるのだが、カンパニー長や部長、課長連中もただ指をくわえてみているわけではない。なんとか三藤商事と付き合うメリットを作ろうと、あらゆる角度からビジネススキームを日々検討している。倉庫会社や中小加工工場を買収してみたり、武器を増やすことに余念がない。
 今はまだそれらの取り組みがなかなか噛み合っていないのだが、果たしてどうすると好循環が起こるのか、誰もこれと言った答えを見出せずにいた。
 ちなみに第二四半期も、カンパニー全体で実績の進捗が重い――。
 
 
 そんな折、代神は篠宮を同行して客先を訪問した。
 篠宮が客先に行くのはこれが初めてで、出発前に名刺交換のやり方から確認した。新人のビジネスマナー研修で教えられるそれは硬すぎて、交換相手と呼吸が合わないことがしばしばある。だから代神は実体に即した失礼にならない簡略的なやり方を教えてやった。
 性別については特に触れるなと言ってある。
 これは一種の賭けだが、考えてみるといちいち仕事上で性別を尋ねられることなんてない訳だし、こちらから「女です。」と言わなければ嘘をついた事にもならない。何よりモノを動かす仕事上で、そういえば性別なんて関係がないと代神は思ったからだ。
 今日の訪問先は北関東にある中堅冷凍食品メーカーで、彼らの売り先は主にはスーパーやコンビニだ。代神が昨年にやっとの思いで開拓をした顧客だが、対三藤商事の取引は細々としたもので、今年度は微増といった所だ。
 これからどうやって膨らませるかが代神の課題だった。
「――いや、代神さんお待たせしました。」
 今日は部長と製品開発担当、デリバリー業務担当の若い女の子が出てきてくれた。
 代神は中年の部長と製品開発担当の目線をわざと悪戯っぽく観察していたが、代神が予想した通り、やはり篠宮を二度見した。
「あれ?こちらは・・・?」
「申し訳ありません。ご紹介が遅れました。弊社新入社員の篠宮玲於奈です。」
 あえてフルネームで紹介してみた。
「あら、これはこれはァ・・・。」
 篠宮と名刺交換をするオッサン2人がとても嬉しそうにニコニコとしていた。少し緊張ぎみに名乗る篠宮の声を溶けそうな顔でウンウンと聞いている。
(まァ・・・そういうモンだよな。男は・・・。)
 名刺交換が終わり、着座しながらデリバリー担当の女の子が嬉しそうに話しはじめた。
「篠宮さんは新入社員の総合職の方だったんですね・・・。3年目ぐらいの事務職さんかと思ってました。いずれお会いしたいなァと思っていたんですッ。」
 ここは出荷頻度が少なくちょうどOJTに都合がよかったので、5月から篠宮に担当させている。まさかまさか、そういう風には説明できないが――。
「篠宮さんになってから、こちらのミスにもすぐに気が付いてくれるし先取りしてお電話を下さるので、うっかり発注漏れをすることもなくなり、リードタイム計算の余裕が立つようになりました。」
 代神としては、まさかこんな小規模取引でそこまでの感謝をされると思ってもみなかったので素で驚いた。
「それはありがとうございます。実はこの篠宮なんですが新人の中でも優秀で、ウチは弱小部門ですから激しい争奪戦の末にやっと獲得できたエースなんです。これから篠宮の成長とともにお取引を拡大させて頂ければと願って今日はご挨拶に伺いました。ご迷惑をおかけすることもあると思いますが、この篠宮を育成するような感覚で、今後ともどうぞ宜しくお願いします。」
 篠宮は少しキョトンとした顔で代神の方を見ていたが、代神も営業員だ。これぐらい話を膨らませるのは日常茶飯事だ。
「ボクねェ・・・育成ゲームが好きなんだよね・・・。」
 篠宮の前に座る製品開発担当が、ニヤけながらポロリと言った。隣のデリバリー担当の子が(えっ――)と少し引いていた。
「へぇ・・・三藤さんとの連携も安定稼動に乗り始めたんだァ・・・。こう言ったらとても申し訳ないけれど、御社はガチガチで融通が利かないイメージが強くあったからさァ。」
「はい、導入当初は大変ご迷惑をおかけ致しました・・・。」
 篠宮が来る前までいた派遣の子が、立ち上げ初日に単純ミスの誤出荷をやらかしてしまい、しかもリカバリーすべきところで融通を利かせられず、いきなり部長から携帯電話で叱責された経緯がある。最終的には代神が電車でモノを手持ちして解決させた。
 こことはそういう関係性だった。
 どうやら代神の対面にいる部長は、デリバリー担当が嬉しそうに語る篠宮の評価を初めて聞いたらしい。
 どこの会社も同じだ。業務の流れを支えているのは事務員で、中間管理職である営業員や上長は、社内の実務者のキャパや状況を確認しながら規模感を計算する。客先の実務者の評価は商売の行方を左右すると言っても過言ではない。
 デリバリー担当と親しげに端で話をしている篠宮の顔を真剣に見つめながら、部長は暫し何事かを考えている様子だった。
「あのさ、代神さん。実はこんど新しい売り先と商品が決まってさ、急ぎで工場の稼動を拡げないといけないところだったんだよ。既存のところはそのまま安定して回しておかないといけないからさ、かなり悩んでたんだよね。品目的には御社でも扱いがあるものだし、相談に乗ってくれないかな?ボリューム的には今の3倍ぐらいで始まって、倍々と行くから最終的には10倍を超えると思う。できる?今から時間ある?」 
 今日は挨拶程度に足を運んだつもりだったので、思いがけない申し出に代神は興奮をした。
「はい、それはもちろんやらせてくださいッ。」
 代神の快諾を聞いた部長はホッと安心をしたような顔になった。ここしばらく社内から難題を押し付けられて頭を悩ませていたのだろう。
「じゃァ、ちょっと待ってて。今、資料を持って来るから――。」
「はいッ。」
 代神が横を見ると、篠宮が製品開発担当と育成ゲームの話をして、デリバリー担当の女の子と3人で楽しそうに笑っていた。
(今日は篠宮を連れてきて良かったァ・・・。ランチは奮発して奢ってやらないといけないな。)
 今期の下降トレンドの中、既存から膨らむ案件が出るのは大きい。
 この案件に関しては篠宮に受け渡しと営業の中間的な役割で運用を任せようと、代神はすでに構想をはじめていた。
 
 
「さァ、篠宮。好きなモン食べてくれ。」
「じゃァ、ロースカツ定食、ゴハン大盛りでお願いします。」
「おお、ガッツリ行くねェ。」
「それは私も男ですから。」
「じゃ、それ2つでお願いします。」
 それにしても気分がいい。こういう前向きな気分で仕事ができるのはいつ以来だろうと代神は思う。
「――ところで篠宮。お前はあそこに何をやったんだ?すごく向こう側の印象が良かったけれど。」
 篠宮は口元に人差し指を乗せ、少し考えている様子だった。
「いえ、特には。他と一緒です。そろそろ必要かなァという頃に電話をかけてご機嫌伺いをしていただけです。ウチのシステムだとリードタイムが詰まっちゃうと対応ができなくなりますから、それならば前もって言ったほうがお互いのためかなと思いまして・・・。」
「ふーん・・・。それだけかァ。」
 確かに《それだけ》ではあるのだが、なかなかそれが出来ないものだ。複数社を担当すると複数の締めと決済方法、発注タイミングが走るので、ついつい追われがちになるからだ。そして最終的には、目の前に来たモノから処理をするという感覚に陥ってしまう。代神も新入社員時は受け渡しをやったことがあるから、その悪循環がよく解かる。
「あそこな、10倍超と言ってたけれど、もっと行くような気がするよ。これからやる案件が安定的に稼動したら、ウチが仕事を食われた時と逆の事が起こって他も流れてくる。あとはこの前カンパニーで買った加工工場とかと連携すれば、客先も波高性に対応できてメリットが出てきてウィンウィンの関係になれそうな予感がする。現にさっき、そういう話もしてきた。そうなったら、栗原さんにもこの案件に加わってもらおう。」
「それはよかったですねッ!嬉しいです。――あ・・・でも、すいません。部長さんと代神さんの商談の内容を聞かず、ずっと他のおふたりと関係のない雑談をしてしまいました。失敗です・・・。」
「いいんだよそれで。会社同士の商内の関係性とは本来そうあるべきなんだ。営業担当は先方の窓口とつながり、業務担当は業務担当者同士で複数の階層につながる。そうするとイレギュラー事項への柔軟性や問題解決能力が生まれ、より案件は安定する。安定すると成長の余地も生まれる。不思議とそういうものなんだよ。以前のように何でも先方の部長から俺に連絡が来るようになると、互いにストレスを感じる関係性になって顔も見たくなくなってしまうからさ。ダメなんだよ。それじゃ。」
「なるほどォ・・・。仕事をやるのは人ですから、感情は大事ですね。」
「そうッ。そういうこと。とにかく今日は篠宮を連れてきてよかった。MVPはお前だ。ありがとなッ。」
「いえ、そんな・・・。」
 篠宮は頬を桃色に染めて恥ずかしそうに下を向いた。
 代神は篠宮の可愛らしい仕草を見ているうちに、ふと別なことを思いついた。
(篠宮はさっき《いえ、特には。他と一緒です。》と言った・・・。ということは、篠宮に研修がてら担当させている他の4件はどうなんだろう?どれもこれも小規模ではあるが、ウチにとってそう見えているだけで、それぞれ相応の規模を抱えているメーカーや工場だ。よしッ。篠宮を連れて挨拶回りをしてみようッ――。)
 果たして、代神のその目論見は見事に的中した。
 行く先々の反応はすべて北関東のメーカーの人達と一緒で、事務員や営業員が篠宮と会いたがって出てきた。そして愛くるしい彼女――いや、彼を見てニコニコとしていた。
 10倍増とまでは行かないが、いずれの客先でも上昇トレンドのきっかけをつかめた。(これは行けるッ。何年ぶり、いやもしかすると初めて三課の評価が上がるかも知れないッ――)と、代神が手ごたえをつかみはじめた矢先の事だった。
 今年度の数字と、今後の三課の行方を左右する問題が起こってしまった――。



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