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紫色のブルレスケ #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紫色のブルレスケ

散文

Burlesque màu tím

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

Oδίπoυς τύραννoς

 

オイディプス王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まばたくまもなく、見あげられたブーゲンビリアの葉の群れのざわめきが水滴を撒き散らした。

こまかく風に煽られてこすれ、乱れ、フィリピンの方に荒れ狂っているらしい台風の名残りのような暴風と暴雨にすぎないにしても、このあたりにはめずらしく荒れた天候だったには違いない。

昨日からずっと空は白濁していて、その日の明け方にまで大雨を降らせた。それら、荒れ乱れてトタン屋根のいたるところを打つ好き放題にざわめきだった轟音とともに。

16歳のTrần Thị Huệ チャン・ティ・フエは庭先にバイクを出してまたがり、彼女がクラクションを鳴らすと、不意に呆気に取られたその少年はまばたく。がらんとして広い家屋の奥から顔を出した弟に、フエは尻を振って見せた。早く。

Nhanh

遅れて仕舞うから。Guyễn Huy Trang グイン・フイ・チャンとの約束の時間は

...Nhanh đi

午後二時だったから、すでにその時間には十分ばかり遅刻していた。

午前中の、風が荒れてときに間歇的な土砂降りの雨を降らせた天気はようやくおさまりはしても、空にはまだ荒んだ気配がある。未来が見えると言うフエの母親は、妹を学校に連れて行ったきりまだ帰ってきてはいなかった。だから、弟のAnh アンを英語学校に連れて行ってやるのはフエの仕事だった。アンはいつにも増してぐずついた。

アンの頭は英語など勉強するようにはできていなく、それはその体もそうだ。彼の存在自体が、無意味に遊びまわるようには出来ていても、九十分も机に座っているようには出来ていない。だらだらと、いまさら着替え始めるアンにいらだった言葉をかけるのにも飽きて、フエは見上げた。午後、白濁した幾層もの雲の密集が、処々に鋭利な裂け目を散らして、急激に流れ崩れていく無残な群れの、その向こうに輝いているらしい空は相変わらずの青をときにちいさく垣間見せながら、あるいは細く鋭く、そして長い光の筋を地上のすれすれに堕としてさえいたのを見る。上空の大気の流れは、たぶん、早い。

見つめるさきから層を成す雲間は潰れ、変容し、その先、乱雑な土の道の先のハン川の泥色の向こう、遠く、かすんだ山の頂にぶつかって崩壊した雲は、無様に雪崩れて覆いかぶさって、取り返しようもないみずからの破滅をだけ曝した。

その崩壊のただ中には、霧か雨か定められもしないこまやかな水滴が、止め処もなくただ大気に舞っていたのかも知れない。フエは、その濡れた匂いさえをも感じられた気がした。もはや、生まれたときからそうだった気さえもする濃い褐色の肌に、やわらかく、力の失せた午後の光がふれていた。ただただ広く古びた家屋にはいま、20歳半ばの、知能障害を抱えた叔母 Thúyトゥイと、その母親であるThảoタオ、つまりはフエの母親の妹と、そしてフエと、アンしかいない。

Đật ダットという名の父親は朝早くから、だれに断るでもなくいつものように仕事か飲みにか出かけていたままだったし、トゥイの妹たちはそれぞれの学校に行っていた。

いずれにしても濡れた土の匂いが生き物の穢臭じみた臭気を撒き散らし、葉がときに荒れた風に煽られるたびに水滴を散らすので、ブーゲンビリアの木立の下、フエは黙って濡れるにまかせるしかない。

雨を止ませた空は、しかし、降っては止み、止んでは降った執拗な土砂降りのせいで、皮膚にふれるそのすみずみまでがふしだらなほどに潤って、息苦しさをさえ感じさせ、一方で冴えた涼気をいっぱいに張らせてもいたのだった。わざとなげやりに、車体をゆらしながら後ろに乗ったアンのせいで、一瞬ひっくり返りそうになって仕舞ったときには、不意に、開け放たれた木戸に立ったトゥイが叫んでいた。

偸まれたから死んだんだよ!

いかにも悲痛に、

いいかい

想い詰めて、そして

知ってたかい?

嘲るような醒めた知性を眼差しにだけ

あんたのその両眼は

感じさせて。フエには、もちろん彼女の眼差しが捉えている風景の意味など分からない。そして、馬鹿でまともなことなど何一つ話せもしないトゥイは、いつでも高邁な哲学者のような眼差しを温度もなく曝して、表情もないままに罵ってはふたたび唐突に沈黙する。一日中、ずっと。

偸まれたら殺さないんだよ!

そう。そうなの。

と。

...Hiểu

なんの意味もなくフエが独り語散るのを、不機嫌な

Em Hiểu

アンは許そうとはしない。腰を振ってバイクを揺らし、早く出せよ。

đi

無言のうちに、

Nhanh đi

そして、14歳のアンは小柄で華奢なフエの一回り以上太って大きいから、フエはあやうくバイクを支える手首をさえ傷めて仕舞いそうになる。不意に夢を見るような眼差しを曝して、どうして?と、

Tai sao...

私を殺したの?

Con giết mẹ ?

そう母親が言った9歳のとき、フエはその、Hằng ハンのかすかに潤んだ眼差しをただ、美しいとしか想えなかった。なにかに焦がれたような気配さえ持って、夢をまだ見ているとしか想えないハンは、膝の上に抱えたフエの幼さを曝した眼差しに不意につぶやいたのだが、感じられていたその体温。そのときの、肥満したわけでもない痩せぎすの体のくせに、不思議にやわらかさをだけ感じさせるその触感、母親のそれ、フエはただ懐かしく、美しいものとしてのみその、ときに意味も分からない言葉を吐くハンを見あげるが、なんて

Con xấu...

悪い子なの?

つぶやくハンは、いまだ眠りもしないで醒めたまま見ていた夢を見つづけていたに違いない。フエは目を閉じて、彼女に身を預け、過去も未来もその目に見て仕舞う母親がそう言うのなら、きっと、自分は彼女をいつか殺して仕舞うに違いないと、ただ、その受け入れ難い事実を沈黙した微笑みのうちに受け入れるしかなかった。

知っていた。

悲しみも、不安も何もなく、フエはハンの胸に顔をうずめていたが、淡いピンク色の粗末な部屋着の布ごしに、頬が感じるのはその粗くやわらかい布地の触感の下の、痩せた肋骨の触感と、肉付いたあたたかさとの両立しない質感だけだったにすぎない。フエがバイクを走らせ始めると、濡れた土にタイヤを取られて、なんども転びそうになるそのたびに舌打するフエをアンは背中で笑った。水溜りをいっぱいに散らした土の道は、どこをどう走ったとしても泥水を跳ねて仕舞うので、フエのハンドルはあぶなっかしくふらついてばかりいる。

道を横切ろうとした寝そべった牛に向ってアンが口笛を鳴らしたとき、フエは恐怖に駆られて諌めて罵る。追いかけてきたらどうするの?

そんなわけがないことくらいは知っているが、あの、ずぼらなほどに巨大な牛の群れの体躯は、いつでもフエを恐怖させた。アンを送って、ようやく約束の海鮮料理屋に辿り着くと、チャンのパーティはめずらしくもう始まっていた。いつでも約束の時間をすぎてからでないとだれも集まらず、約束の時間を大幅にすぎてからでないとパーティなど始まりはしない。フエの学校の友人、彼女たちは、小穢い露天に並べられた赤いプラスティックのテーブルを囲んで座っていて、一斉にフエに微笑んだ視線を投げかけたのだが、高校の制服の、真っ白いアオヤイを着たままのその少女たちは十人ばかりたむろして、自分勝手に話しこみ、フエの一時間近くの遅刻に、一群の中から立ちあがったチャンは笑いながら、まだ始まったばかりだと言って、食い散らされた食べ残しの料理の皿をフエの前に差し出した。あらっぽい音を立てて、そしてアオヤイを着替えていたのはフエだけだった。

フエはそのアオヤイが好きになれなかった。それ、みじめなほどに光沢を持って真っ白い、留保もない清冽な色彩のなさ、その色彩、形態、絹の匂い、ようするにそれ自体が。清楚という見かけのために、どうしてあざやかであるべき色彩の喪失などという大きすぎる代償を払わなければならないのだろう?あるいは、頻繁に顕れる色彩のない死者たちの翳りのように。

彼ら、彼女ら、あるいは、あれら、ただ鮮明な血を吐くしかないあなぼこのような翳りは、その存在が結局はなにものにもふれ獲たことなどない以上、眼に映るすべてのもののなかで、あるいはもっとも清楚なものなのかも知れなかった。むしろ無慈悲なまでに穢く、一切の美しさという概念に対するまったき差異としてのみ、それ自身をそこに曝したてながら、あれら。

沈黙するさまざまな翳り。たとえば、ぐずったアンを待つ間に彼女の眼にふれていた、ブーゲンビリアの木陰の翳りに顕れた、見たこともないその少女。トゥイの不意の咆哮のこっちで、アン。眼差しが直視する、その、かつてアンだったもの。

色彩のない昏い少女は木の枝、ブーゲンビリアの花々のむらさきがかった紅彩の間に、さかさまにぶら下がって空の方に血を、あざやかに静かに流れ堕とさせつづけたのだった。穴ぼこでしかない両眼と、みだらなほどに開かれきった口から、そして、なんの知性のかけらさえ、もはや名残りすらもなく、呆然とフエを見つめるしかないそれは、確かに、それ以上に清楚な存在など在り獲なかったかもしれない。この世界のなにものも、それにふれることさえ出来なかった。だから、それは永遠に無垢でるほかはない。

店には彼女たちしかいなかった。四時半をまわって、何の名目もないままに、日々の夜の単なる惰性にほかならないパーティに男たちが集まってくるまでのあいだ、その店は自然に彼女たちの貸切になって仕舞った。少女たちの集団の中に、一人だけ男の子がいたが、その Đào Quốc Duy ダオ・クオック・ユイは、実際には女の子だったから、要するに少年たちの眼差し、あの必要以上に媚びてくる犬っころのような眼差しにふれる煩わしさなどなにもなかっのだった。戯れに、目の前の席に座った Guyễn Nhi グイン・ニーが魚の肉を、わさび菜につつんで口元に差し出すのを、顎を突き出してフエは、その白い指先に舌をふれさせながら食いついて見せた。

ほら

フエは、ニーの色づいた眼差しが、むしろ

見える?

フエのその、あまりにも無作法な仕草を

見て

求めていたことには

あなたが

気付いていた。

見たいなら

ニーは声を立てて笑った。隣に座ったチャンが、これ見よがしに体をすり寄せてきて、フエの目の前のコーラ瓶を取ろうとしたときに、チャンのおびただしいほどに豊かな髪の毛の垂れ堕ちた、その匂いは否応もなくフエの鼻にふれたが、廃墟。

目の前にどこまでも拡がる廃墟群の、繁殖した樹木に覆われた崩れかけのビルのひとつが、見つめられた眼差しの向こう、焼けた紅蓮の夕方の日差しの照射のそばに遠く、その音さえ聴こえさせずに倒壊して行った。自己破壊、と、フエはそう想った。

その、見たこともない巨大なビルの残骸は、結局はそれ自らの風化をさえ待たずに、それらを多い尽くした植物の繁殖の群れにその内部を破壊されて、崩壊させられて仕舞ったのだった。だとしたら、そのビルが瓦礫として下敷きにし、押しつぶし、引きちぎり、叩き潰し、へし折って叩き殺し、壊して仕舞った樹木の夥しい群れの無数の無残な殲滅は、文字通りその樹木たちが意識も望みもしないままに果たした自己破壊の風景にほかならないはずだった。

それでも樹木が自死したとは言い獲なかった。ただ望まれていたのは無際限な彼らの繁殖に過ぎず、自死などその風景のどこにも描き出されてなどいなかったのだから。

なら、なにが、それら、殲滅された樹木の繁殖を、殺して仕舞ったのだろう?

もはや、破壊者さえもたない無残な破壊の風景に、フエは目舞う気さえした瞬間に、振り返るまでもなく、彼女の傍らのその男が涙を流していたことを、彼女はすでに知っていた。その、見たこともない男は、もはや頭髪も、肌の自然な色彩さえも失って、毛細血管からうすく血をにじませ続けることしか出来ない血まみれの彼女に寄り添いながら、何を、と。

なにを見てるの?

Anh ...

彼女が、

Anh xem gì ?

問いかけようと想った瞬間にフエは、もはや自分にそんな能力さえ残ってはいないことに気付く。言葉を吐く余力はなく、すべてはもう、滅びていくしかない。なぜならもう、すべて、とっくに滅びていたから。あるいは、と、彼女は想った。なにもかもが生まれる前から、なにもかもすでに滅びていたのかもしれない。あの、色彩のない翳りの群れのように。ただ、鮮血の色彩のあざやかさをだけ撒き散らしながら。あなたは、

ねぇ

と。あなたは

微笑んでいる

何を見てるの?

あなたは

フエは想った。

いま

いま眼差しの先で、

わたしの背後で

跡形もなく崩壊して仕舞ったビルが

悲しみを押しつぶして

何の罪の意識さえ持つことも出来ずに、いやおうもなく実現して仕舞ったあの留保なき殲滅の風景を、

見て

あなたは

わたしを

その網膜に見たのだろうか?

あなたが

フエは

見たいなら

想う。見たのだろうか?あなたは、紅蓮の日没のこっちに遠く舞う、いまだに滅びることができなかった夕暮れの鳥らの群れの無数の羽ばたきを。

聴いたのだろうか?あるいは。その音響のつらなりを。本当に、それは夕暮れの風景だったのだろうか?自分の体内がにじませ続ける血の色彩が、血染めの眼差しに見せた単なる色彩の錯誤だったのではないか。あるいは、空は、澄み切って青かったのではないか?どうして、と。

見なさい

想う。

あなたの愛した

あなたは

わたしを

泣いているのか?

いつまでも

どうして、声をさえ上げ獲ずに、かろうじて喉をだけふるわせて、わたしが死んで仕舞うからか、すでに実質的に死んでさえいたからか、すべてはすでに滅びて仕舞っていたからからなのか、ひとりこんな廃墟の風景の中に取り残されて仕舞うその孤独の想いからか、

あなたは

そして

見た

フエは知っていた。その、

不意に微笑んだ

見知らない、

わたしを

眩んだ視界に翳さえ顕そうとしない背後の男、もはやだれも手のほどこしようもなくて、滅びるのを見つめるしかない最期の世界の最期の時間の中で、終には人間でさえなくなった彼女にだけにそれでも一途な愛を捧げ続けた男、やがてフエが殺して仕舞ったダット、あの、父と呼ばれた男。なんども生まれ変わって、永遠に巡り逢う。

突き出された自分の手のひらが、そして彼女の指先がふるえているのは知っている。うすくにじんだ血が、いつのまにか血まみれに染め上げて仕舞ったその華奢な、骨格を反対にゆがませた指先は、ふれえていた。何の明白な理由さえもなく。しずかに伸ばされて、何をつかもうと、何に差し伸べようとしたわけでもなくて、それ、神々の光。

それら、無数の神々の光が、その指先にも目醒めていた。すべての一切を救って仕舞おうと、ただそれだけを切に望み、それだを常に果たし続けながら。意志ある神々の、光さえ放ちはしない光。そのしたたった指先の血の一滴にも、チャンが声を立てて笑って、倒壊したビルの殲滅の塵墳にも、チャンが流し目をくれるのを、植物、フエは、樹木、息をひそめもせずに、光そのものにさえも、見つめ返す。あらゆるもに宿って止まない神々のほら。光が、飲んで。ね?ただ眼差しの中にきらめきさえもせずに、映える。ほら、と。なにものをも救いもせずに、チャンがグラスに、なにものをも裁きもせずに、注いだコーラが、ただただ映えるだけのそれら神々が、黒の色彩を、いつでも、泡立てる。とめどもないばかりに、泡立つ。溢れかえって、泡立ち。やまない。ほら、と、美しい、と、飲んで。そう言う気にさえならない。チャンはただ、美しい。なぜ、微笑んでばかりで、神々はこれほどまでに、眼差し。すべてのものたちに、チャンの、映えて、色づいた、すべてのものたちを照らし出すのだろう?神々は。眼差し。内側から、ニーが目をそらした。ただ、それは、命そのもの、なぜだろう?存在そのものの息吹きをまさに撒き散らして、ニーの、この、そらされた、留保なき滅びの最期の時にあってさえも。眼差しが瞬いて、フエはすでに知っている。チャンがフエを愛していることを。

少女の同性愛の、その理由付けはどうでもいい。いずれにしても、チャンが焦がれているのは、自分のこの褐色の肌にほかならない。自分が戯れに立てた声。笑い声。不機嫌な嘲笑。自分の一瞬の仕草。軽蔑さえ含んだ、彼女の容赦のない挑むような凝視。フエの、そしてあらゆるすべて。チャンにとって、どうしようもなく煽情的なまでに美しいはずの自分の顔。あるいは、その体つき、ときにはその気配、不意に翳る眼差し、いつか立てられた吐息、不意に彼女の唇に散らされた、自分でも不可解な歎きに倦んだ息遣い、要するにフエの、その存在の想いつく限りのそれら、そのすべてに。

彼女は焦がれる。フエはしなだれかかるようにチャンに体を寄せてやった。醒めたまま見た夢の残像がいまだに眼差しに離れようとしないままに、フエは、綺麗、と、

...Đẹp quá

十二歳のチャンがフエに言ったとき、そのつぶやかれた言葉にはあざやかな憎しみさえある気がした。

チャンの真新しい家屋。三世帯が住むそこの、その、仏間とチャンの部屋を兼ねた最上階の西側の背後の窓からの逆光が、チャンの

どうして

眼差しの中で自分の褐色の皮膚を

眼をそらしたのだろう?

いよいよ黒く

あなたは

染め上げているに違いないことを

わたしが

フエは

見つめたときに

よく知っていた。チャンは

あなたを

ダットの弟の娘だった。ダットは

微笑みながら

貧しく取り立てて能力のない電気技師にすぎなかったが、その弟、Trần Văn Quý チャン・ヴァン・クイは町の成功者のひとりだった。

法律家のクイは人格者だったし、知性的で、法知識も処理能力も群を抜いていた。すくなくとも、町の人々はそう想っていた。持たざるものからは最低限度の報酬しか受け取らずに、ながいながいいくつもの戦争に区切りがついて、まだようやく十年ほどしか経っていない疲弊した国土の、見棄てられたような田舎町で、豊かとは言獲ない町の人々の人望をただ一身に集めていた。そして70年代の終わりのカンボジアとの戦争で、至近距離で爆発した地雷のために顔の半分を吹き飛ばして仕舞った、いわば護国戦争の英雄だった。

顔の左の半分をゆがんだ鏡に映したように捻じ曲げて仕舞って、駐留地の軍病院から帰還してきた包帯だらけのクイを見たとき、その母親は泣き崩れた。若い、やがて彼のふたりめの妻になる女は何も言わずに仏壇に線香を立てた。父親は凝視して、一度短く舌打した。いずれにしてもそれぞれに、傷付きながらでも死なずにクイが還ってきたことに、感謝したのだった。

フエの服は、その殆どがお金持ちのチャンのお下がりだった。それに何を感じるということもない。チャンは家族だった。豊かな家族が持たざる家族に金品を譲ることなど、当たり前のことに過ぎなかった。仏間の窓際に立って、フエは自分に予告も告げずにふれる午後の日差しが窓越しに、肌に温度を与えているのを感じながら、そして彼女は気付いていた。チャンの眼差しに、容赦もないほどの誘惑があることに。

ずっとそうだった。チャンは、

見せて

不意に、全部

あなたを

脱いで仕舞え、と言った。

Em

小さく声を立てて笑いながら、

見てあげる

その

yêu không ?

背後の、チャンの広く清潔な部屋の壁に、

あなたを

見たこともない老人が、色彩をなくしたままに体半分だけ壁から生えさせて、血を

見せられる

流しているのを見遣りつつも、フエは

あなたに

服を

わたしは

脱ぎ棄てていった。いまだに

いわば

はっきりしたおうとつもない幼い

あなたのすべてを

身体を、踊るように。ときに戯れに尻を振って見せて、あきらかにチャンが望んでる、意図的に彼女を煽情する眼差しをくれてやり、声を聴く。

チャンのささやく声。早口の。棄てちゃえ。

鳥たちの羽撃きの

と。

音響は聴こえはしない

そんな薄穢い服など、全部

地上では

棄てて仕舞えばいい。口を尖らせたフエは、

なぜなら、別々の空間が生きられているからだ

早口で矢継ぎ早のチャンの、自分勝手な焦燥さえ曝した言葉遣いに、とはいえ、あえて、これは大切なものだと口答えするわけでもない。だって、

ね?

あなたにもらったものだから。どんなにこれが薄汚くても、だから私は、この薄穢い服を大切に着まわししているのだ。どんなに、あなたがその唇に罵ろうとも。

流れた。

しずかに、老人の、あなぼこの口の翳りから血が水平に流れていって、フエは瞬く。お母さん。チャンは笑っていた。あなたは、と。どうしてそんなに日に灼けているの?

Đen quá…

真っ黒じゃない。翳る。彼女は、そして声を立てて、もはや色彩もないほどに。翳っていた。笑う。その、甲高い空間にひきつるような声をフエは聴いた。自分が抱え込んだ感情に、いつか焦燥したチャンには自分の笑い声を聴く余裕はない。でも、

Yêu không ?

好きなんでしょ?

フエはつぶやいた。わたしのこの褐色の肌こそが。

あなたは、と、その、聴こえなかったはずもないフエの声をあえて無視したチャンの眼差しは、曝していた。色褪せたプリントのTシャツを無造作に脱いで、そのベッドの上に放り投げていくフエを見つめることにかかわるささやかな逡巡を。目をそらすことさえ出来もしないままに。あきらかに。あるいは、午後遅いあたたかな日差しが、曝された背中の皮膚にじかにふれて、見ればいい。

フエは想う。もっと、と、好きなだけ見つめればいい。そうフエは、わたしは美しいのだから。彼女は想った。

美しいものは必然として、見つめられなければ済まされはしないのだから。たとえ、ひそかな偸み見であったとしても。あるいは、ぶしつけに発情した、もの欲しげな野良犬のような眼差しであったとしても。

下着だけになったフエに、わざとらしい嬌声を上げて見せながらチャンはとっかえひっかえ、自分の衣類をその褐色の身体にあわせていった。フエは微笑んで、お母さん。

可愛そうな

わたしの

お母さん。

いとしい人

フエの、壁に流された眼差しが見つめた昏いハンは、ただ

わたしが愛した

その昏さそれ自体のうちに

あなたとの日々

色彩を失って、無様な

わたしは

あなぼこの眼差しを

あなたに

曝し、なにものをも見出さないままに

寄り添った

フエを

あなたの

見つめていた。迸るのは

そばに

鮮血。神々は光る。神々の光が、フエ自身の内部そのもの、細胞の息吹きのひとつひとつにさえも、じかにふれて息遣っていることには気付いていた。救いを。すべてのもに、救済を。

もはや容赦なきまでに。と、それ。

光。ハンは血を流した。口から、ただ、その昏い穴から音もないままにゆっくりと、速度というもの自体を嘲笑ったかのように、間延びして、ときには逆行しさえして、堕ちていく鮮血のあざやかすぎる紅。不意にチャンの指先がフエの腹部の皮膚にふれたとき、フエは息を吐く。そっと、指先は気付かないほどの曖昧さで、皮膚と皮膚の表面をだけかさねあわせて、そしてそれはふれていることを、あくまで感じさせないままに済まして仕舞おうとたくらまれた気配を曝していた。自分の正面に、片膝にひざまづいたチャンの頭を、フエはなぜてやった。チャンへの哀れみだけが、フエの中で

人々はその実、だれとも共生などしていない。なぜなら

あざやかだった。チャンの

それらは一塊りのものに過ぎないから

完全に瞳孔を開ききった眼差しは、みじめなくらいに歎きをだけ曝すのだった。何に葛藤しているのでもなく、何に想い迷っているのでもなくて、理由も、根拠さえもなく、チャンはいま自分の眼が見い出しているものそれ自体の前に、自分の存在自体をさえ持て余していた。感じられているのはただ、無慈悲なまでに鮮明な絶望以外には

痛い

在り獲なかった。

あなたを見つめるとき

飢えているとさえ言獲ない、どうしもようない

いつでも

渇望が、

わたしは

どうすれば癒されるというわけでもなく、

ただ

チャンの眼差しの中に

痛い

巣食った。たとえば、その、美しい褐色の肌に唇をつけ、舌を這わし、あるいは咬みつき、あるいはむさぼり喰ってみたところで、その容赦もない飢餓が満たされるはずもなかった。

潤んだチャンの眼差しには、フエは、ただ自分を絶望させ、破壊して仕舞うためだけに生まれたとしか想えなかった。手のひらに、チャンの髪の毛の、やわらかく、そして無機質なだけのてざわりがあった。そして彼女はふれる。

チャンの十六歳の誕生日パーティを解散させた後で、フエはチャンを

ふれる

バイクの後ろに乗せた。ヘルメットの下から、風に乱れた髪の毛が

あなたの

無造作にチャンに

くちびるに

ふれた。

ふれる

ふたりで海を見に行く。夕方の四時に近くなった店内には、薄穢れた男たちがまばらに集まり始めて、飲んだくれる男たちが撒き散らす饐えた酒と熱帯の汗と体臭の交じり合ったその臭気をチャンは嫌悪していた。彼女たちはそこから逃げ出さなければならなかった。穢らしいものは、その眼差しにふれさせることも嫌だった。父の顔の半分は

ふれる

穢らしかった。だから

あなたの

父を嫌悪した。ベトナムの町は

まぶたに

穢かった。だから、

ふれる

そこを嫌悪した。テレビが流す祖国の戦勝のフィルムの荒れた白黒の画質は穢かった。だから、その国の歴史そのもを嫌悪した。海は美しいのかもしれなかった。とはいえ、穢らしかった。

例えば、その潮の、あまりにも生物的な匂いは。穢臭?芳香?まるで、腐りかけの生き物の内臓が

ふれる

不意に曝した籠った臭気のような、そんな

あなたの

執拗な生臭さをチャンは

頬に

激しく嫌悪しながら、

ふれる

眼差しに映った日差しに光る海は、あまりにも美しかった。それは、美と醜をめぐる巨大な謎だった。それ。浪打ち、青空に浮かんだあまりにも暴力的で、あられもなく剥き出しで、ただただ原始的で無造作な、燃え盛って単なる光の塊に過ぎない太陽のぶちまけた光に差されるがままに差されて、そして時には青空の色彩に青く染まって見せながらも浪の間に、反射光の白濁をざわめかせ続けて終には、そしてそれはそれみずからの色彩をなど曝しはしない。そのただなかに、あまりにも醜悪を極めた、芳香に似た悪臭が漂って、空間を支配し、潮の匂いただそれだけが、それみずからの実在証明なのだとばかりに、触感。

潮の。肌になまぬるくべとつくその潮のふれられもしない触感と味わわれてもいない味覚。なぜか、全身がそれらを感じ取っていた。

海には

君のつぶやく声を聴いた。わたしは

どうしようもなく

わたしの背後で

解き難い疑問があった。そこから

不意にささやかれた君の声を

生まれて来たにすぎない陸上の生き物たちは、なぜ、いまやそのただなかで生きていくことさえできないのだろう。その生の存立根拠それ自体を海の中に預けておきながら、にもかかわらずその故郷自体は拒否されてあらなければならない。ただ、刹那に騒ぎ立つ浪の連鎖として垣間見られて、そのものを見つめ獲もしない眼差しに、ときには美しいとただ抽象的な言葉をだけ投げ棄てられるにすぎない、その。海。あるいは、それでもなおも、それが遁れ難いまでに美しいのだというのならば、その美という概念はいったいどれほどまでまでに破滅的な概念だったのだろう?チャンはアオヤイを着ているままだったから、海の近くに近づこうとはしなかった。フエも、彼女は泳げるわけでもなかったし、海の近くの町に育ったせいで、ほんのちいさな子供のとき以来、ありふれた海になどほとんど近づきもしなかったから、とりたてて海に入りたいわけでもない。

いずれにしても、家に帰る気にもなれずに、そこにいたいわけでもなく、どこかに行きたい場所があるわけでもないときに、結局はこの町の人々はつぶやいて仕舞う、海に行こう、と、その、

...Đi chơi biển

お互いのどちらが言ったという記憶すらもが曖昧な言葉の結果にただ辿り着いたにすぎない場所で、フエとチャンは、それぞれに、ただ徒労感にだけ襲われた。事実、嬌声を立てながら時速50キロで飛ばして走ったそのバイクを海に止めた瞬間に、鼻に衝いた潮の臭気とともに、海にまで辿り着いて仕舞った瞬間にはすでに、鮮明に感じざるを獲なかったありふれた絶望感。地元の人間たちだけが、夕暮れていこうとするにはまだ早い暮れかけの、暮れ始める寸前のやわらかい最期の青空の明るさの中にまばらに海べにたたずんで、そのくせ何をすると言うわけでもない。サンダルを砂間に脱ぎ捨てたままに、フエは嫌がるチャンの手を引いた。声を立てて笑いながら、かならずしもそれを求めていたわけでもないままに、無理やりチャンを海に連れ込んで、無造作に走る四つの足がでたらめに水滴を撥ねると、チャンの純白の光沢を持ったアオヤイはすぐに海水に染まっていく。暴れてみせるチャンを羽交い絞めにしながら腰まで海で浸かりこんで、チャンの汗ばんだ皮膚と髪の毛は好き放題に匂った。

 

 

 

 


紫色のブルレスケ #2

 

 

 

 

 

体が濡れる。海はもう干上がって仕舞ったのだろうか、と、彼女は想う。かすかに、吐息をひそかに吐いたように、そっともれだしてにじんだ血で、もはや真っ赤に染まりこんで仕舞った手のひらに、濡れた触感、かすむ眼差しを堕としながら彼女は、その少年を知っている。閉じられた眼差しのうちに想い出す、その少年、廃墟に彼らが作りこんだ住居の翳に、樹木を育て続けていたその。放って置けば、もはや人間の土地でなど在り獲なくなった廃墟の群れのいたるところに、多様を極めた樹木の群れなど勝手に繁殖して無造作に、破壊的なまでに、一切の彼らの秩序をなど否定して、地表のすべてを覆い尽くして仕舞うに違いないのに、その少年はブーゲンビリアの木を植えて、育て続けようとしていた。いつか少年は自らその繁殖の種を捲いた無数のブーゲンビリアで、彼の生存領域さえ奪われて仕舞うに違いない。その少年、やがて大人になって、ふたたび転生したわたしを終には何度目かに殺して仕舞うその少年、と、そしてフエは彼に見覚えなど一切ない。

かつて、なんども繰り返した転生のたびに、無根拠なほどに時には愛し続けた来たはずのその愛おしい存在。神々が光る。その、一切の光を放たない救済の光の手は、彼女の体内をさえすでにつかみ果てていた。光。差す。

まぶしくはない。上空から、その雲間の切れ目からも。差していた。少年の長く伸ばされた、ひっ詰められて、垂れ、やわらかくその褐色の首筋にふれたふれた髪の毛に。もはや透明に感じられるまでに白い空から注ぐ、荒れるよりほかにすべのない野生の太陽の光。その真っ白な髪の毛にも、神々の光は籠って、そのきらめきさえ発さない光を失った光が、ただ静かに彼の細胞の、あるいは彼の存在のすべてに宿って、それはあくまでも目醒めつづけた。知っていた。

無際限に生成したいくつもの宇宙のそのすべての果てまでも、私たちは出逢っては愛し合い、あるいは殺しあったに違いない。ときには恍惚としながら我を忘れて、ときにはかなしげな微笑の中のいたわりあう息遣いのうちに、あるいはときには舌と喉に自分のいきりだった血の味をあざやかに感じるほどにも憎しみ果てさえしながらも。

眼を閉じたくらがりのその背後に、その音が、気配が、彼が涙を流しつづけているに違いないことには気付いている。ずっと前から。彼女に対する最期の涙を。やがては自分で、最期の始末をつけてやらなければならないはずの、そして、彼女は

かならずしも雨の日に鳥たちはすべて

もはや

巣の中に憩うわけではない

眼を開けようともしなかった。眼差しに捉えるべきものなどもうあり獲はしなかっただろう。すべてが、色彩を失い始めてもはや、鮮やかな白濁にだけ染まっていこうとしているのに。まるで、地表のすべてを雪で埋めようとしたかのように、すべてのあふれ返った色彩さえもがただ白い光の残像としてしか、そして眼差しはあらゆる形態を白の淡いグラデーションとしてしか捉えなくなっていこうとしていたのに。白い、かすんだ世界。その眼差しの外では、滅びて仕舞ったその世界の固有の、いわば野生の色彩をさえ誇っているには違いない、その。匂う。なにが?と、想った瞬間にフエは、それがチャンの海に濡れた体の匂いだったことに気付く。

海水に、戯れるだけ戯れて、髪の毛さえも濡らして仕舞ったチャンの、びしょ濡れのフエをいたわるように抱きしめた手のひらが、めくりあげられたTシャツのなかにフエの背筋をなぞった。その、やわらかく、はっきりとした背筋のおうとつを。

フエよりも背が高いチャンがむしろ羽交い絞めにするようにフエに覆いかぶさって、頬に頬をかさねれば、フエは目を閉じたままのチャンの頭をなぜてやった。チャンの髪の毛が乱雑なたばになってフエの顔にへばりつき、水滴を垂らす、その匂いの先に、いつか暮れ始めた日没が紅蓮に焼けた。

 

チャンが市場の、日の下に野晒しの台の上に曝された豚肉の塊の匂いに不意に振り返って仕舞ったときに、眼差しにふれたその傍らの物乞いの戦傷者は顔を上げもしなかった。地雷なのか爆撃なのか。あるいは銃弾の一斉掃射か。いずれにしてもなにかで一瞬に、迷いなく吹き飛ばされて、両足の無い老いぼれの彼はただうす穢く、まとな生き物とはもはや想えない。

だれかが通りがかりにその前の、汚水をにじませた土の上に置いたざるのタオルの下に紙幣を押し込んでやった。しわくちゃの安い紙幣。そのどれもにバック・ホーの顔が印刷されてある。物乞いの男はまばらな白髪を日差しに直射させて、彼は眼が見えないのかもしれない。なぜ、彼がずっと猫背のままにひんまがって、うつむきっぱなしなのかもチャンにはわからない。

目をそらそうとしながらも、彼女がやっと目をそらし獲たのはたかった蠅の羽先が自分のまつげに触れようとした一瞬だった。その羽音、耳元に鳴った瞬間のあとに、眼差しに、至近距離の羽撃きの息吹き、そしてのけぞって蠅を払ったチャンを、義理の母親は声を立てて笑った。14歳の娘を見遣る Văn ヴァンの眼差しははっきりとした嫌悪をだけ浮かべた。

チャンは、自分では育てられもしないくせにチャンを生み棄てて、あっけなく死んで仕舞った内縁の先妻の残した娘だった。その先妻の腕は、発育途中で幼児の状態のままに止まって、反対側に、在り獲ない角度でひねくれていた。米軍がばらまいた薬物のせいに違いなかった。あるいは吹き飛ばされた爆弾が撒き散らしたなにかの影響なのか、さまざまな戦禍が汚染した土壌のせいなのか、河川に流されたなにかのせいなのか、人類がいまだに知らない何らかの因子のせいなのか。そもそもが、その腹に在ったチャン自体、クイの種でさえなかったかも知れない。

失語症で、言葉を一切話せなかったあの Vỹ ヴィーが、かつて韓国兵に強姦された母親から生まれたことなどだれもが知っていた。棄てられたように育って、まともに自国言葉さえもしゃべれないばかりか、眼差しに、わずかな知性のかけらさえも浮ぶことのなかったヴィーが、その貧しい集落の男たちのだれもの慰み者なっていたことなど、だれも彼もが知るところだった。悲惨な戦災地クアン・ビンで牛を飼っていた貧しい死にかけの家族から、クイがおそらくは同情に過ぎない刹那的な感情のためだけに引き取って妻にしたに過ぎない哀れな女。やすりでならしたようにのっぺりしたチャンの顔立ちは明らかに外国人の顔立ちにほかならなかった。すくなくとも、ヴァンにはそうとしか想えなかった。

ずっとクイの家の離れに幽閉されていた、あんな穢い母親の腹から生まれた蠅のような生き物が、いまさら蠅におびえていた眼の前の姿は、ヴァンに軽蔑と、容赦もなく残酷で同情の入る余地もないむごたらしい哀れみだけを誘った。統一戦争で死んだ英雄の、ヴァンの父親の命日は明日だったから、ヴァンはそのパーティの料理のための買出しに追われた。この国では死者の命日には盛大なパーティを開くことになっている。そして父は救国護国の稀に見る英雄なのだから、だれよりもパーティは派手で盛大でなければならない。たとえ、決まりきった十人ばかりの親族が集った、ありふれた昼間の飲み会にすぎなかろうとも。

チャンは市場が嫌いだった。あの、家畜の屠殺体の陳列。うすくにじみ出た血と肉の脂に、黒く淀ませられた穢い木製の台の上、無数の蠅をたからせながら曝された肉片、あるいは鋼に吊るされてぶら下がった牛や、豚の肉の骨付きの塊の断片の、鼻の奥を衝く異臭の混濁が、チャンにはとても耐えられはしなかった。クイのあまりにも醜い顔の半分も。

チャンは鮮明に記憶していた。父親が戦争から帰ってきたとき、未だに癒えない崩壊した顔の手当てのために、ヴァンが包帯を替えてやるのを見るたびにチャンは、自分の心の芯を立ち腐れさせて仕舞いそうなまでの、無際限な恐怖の連鎖にのみふるえた。

手のひらの上になった、あの手触りのよかった包帯の布地が、替えても替えても、すぐににじんだ血と倦みに穢されて仕舞う。眼の前で、それはいまや汚穢にまみれた汚物に成り果てて、もはや人の顔の原型を留めない骨格と、かろうじて張り付いているにすぎない皮膚、手荒な戦地の形成手術を施された色違いのそれからはがされれば、黒ずみ、赤らみ、黄ばみ、黄土色ばんだ荒々しい色彩をだけ曝し、そして、ヴァンの色づいたふくよかな手によって、純白のやわらかい布地がガーゼとともにあてがわれて、純白はその汚穢にふれた瞬間にすぐさま、いずれにせよ、それはすでに穢されて仕舞った。破壊の現実。肉体は破壊されても、にもかかわらずそこに息遣い、生存しつづけ、細胞はそれでも分裂して繁殖しているに違いないのだった。それぞれのちいさな限界状態の中で。まさに、生き生きと。おびえるばかりで何もできずに、そして、父なる存在の英雄的な惨状を軽蔑するわけには行かないことくらいは自覚している6歳のチャンの、複雑ででたらめで情けない表情の、もはや表情をなくした外国人じみた顔つきを、横目に視界に入れながらヴァンはただ、後悔した。なぜ、こんな情もなにもないみじめな痩せぎすの餓鬼が、自分の眼の前に存在していなければならないか。しかも自分の娘として。歎くしかないヴァンは、自分の骨に咬み付くような悔恨にくれるしかなかった。それは、残酷を極めた現実そのものにほかならない。

チャンは、彼女が処理しなければならなかったその、生き物の肉体が吐き棄てた汚穢で穢れた包帯を、素手につかんで処理しなければならなかった時の、それ。皮膚と神経の狭間に張り付いた鈍い醒めた苦痛を忘れることが出来ない。もはや吐き気さえも感じられない。ただ、ヴァンが差し出す穢れた包帯を、裏庭の焼き場にもって行ってほうり棄ててくるだけだったが、手のひらがつつんだそれが立てた、どうしようもない臭気。眼差しにじかにふれた生き物の穢らしさ。

雨に濡れたその日、樹木が湿り気に倦んだ匂いを立てた。

ブーゲンビリア。

むらさきがかった紅の花。ここにはいくらでも、どこにでも、気付けば不意に忍び込んだ犯罪者のように繁殖しているそれ、年中花々を咲き乱れさせて、好き放題に散らして無造作に地面に花弁を撒き散らしてやまないみだらでふしだらでけばけばしいあばずれた樹木が、執拗にたてた濡れた匂い。どうして、と。

チャンは想う。生まれてなど来て仕舞ったのだろう。

あまりにも穢い生き物の、その穢さそのものとして。いつでも常にチャンは、十二歳まで、妹と弟のあいだに、彼らに決して寄り添われることさえなく同じベッドで寝たものだった。ふたりはヴァンの生んだ子どもだったが、ヴァンが想っているようには、そこには何の違和感もなかった。ただ、亜熱帯の熱気を孕んだ大気が、三人を寄り添わせることを拒否させた。恋人同士でもない限り、その大気の中で寄り添うことは不可能だった。妹のMai マイは4歳年下で、弟のThanh タン2歳年下だった。十二歳の頃に、急激にヴァンのようになり始めた自分の身体がチャンの感情を翳らせた。

男でも女でもだれもが、かならず一度は眼を見留めて仕舞う、あまりに豊満で女性的なヴァンの身体に、チャンの下半身だけはそっくりになっていた。シャワールームに置かれた、手洗い場の上にやや離れて映る罅の入った鏡が映した、あきらかに女性づいたみずからの下半身を、チャンはそれでもいま、自分は美しいものを見ているのだと想おうとした。その周りの多くの男たちが、自分勝手に色づかせた眼差しをくれていたのだから。そうであるなら、そうであるべきだった。

ほとんどふくらみを持たない胸がチャンに、さまざまな感情の小声で騒ぎ立つせめぎあいの中に、ぽっかりと明いた穴に堕ちたような安心をだけ与えた。その胸の中に、あきらかな変化を持った女の乳首があざやかにチャンを裏切った。いまでも、クイとヴァンが愛し合っていることくらいは知っている。もういちどヴァンは身篭るかも知れず、クイは新しい生命体を生誕さしめるかもしれない。そんなことは問題ではない。ほうっておいても、彼らは繁殖するしかないのだった。自分自身の身体、あるいは存在そのもを空間に穿ってやまない無数の細胞たち有機体の、無際限なまでの分裂と再生と同じように。

庭先の、チャンが名前さえ知らない樹木は、日差しの下に、ただ風に葉を揺らすばかりでたたずみながらも、その荒々しい幹を曝した。

その樹木。土を突き破って突き出した細い幹が互いに重なり合って、半身同化しあってひとつになって、人六人よりもふとい基幹を形成し、天に伸び上がる途中の不意に、いくつも幹別れして彷徨って、さらにふたたび同化して、にもかかわらずまた分化する。のた打ち回るようなその幹の乱れた形態を、チャンは吐き気に近い感覚とともにいつも見た。まったく、でたらめで、無意味な同化と分化。まともな生き物とは想えない。とはいえ、そのあまりに奇形的な形態こそがその生体に本来的な形態であるにほかならず、どうして?と。想う。

チャンは。いずれにしても、どうして生まれてきてなどして仕舞ったのか、と。彼女は、このような生き物の亜種のひとつの固体のひとつとして。チャンは想う。地球上に繁殖する生命組織のひとつとして。彼女は、そして、それはあまりにも無残な事実だった。眼の前の樹木はチャンを、チャンが感じた吐き気と同じ感覚の中に見つめているに違いなかった。

チャンはその眼のない眼差しを知っていた。皮膚感覚として。チャンは奇形だった。葉の群れはただ緑彩を散らして、ざわめかせながら年中豊かに茂った。信じられないのは、穢らしいクイの皮膚に、ヴァンがその皮膚をむき出しでかさね合わせ、ふれあわさせて仕舞えること、それそのものだった。チャンは、それだけは自分には不可能に想われたばかりでなく、純粋な狂気、例えば疾患として分類可能で解析可能なものではなくて、ただただ壊れた壊れ物としての狂気、それだけをただ、その事実に感じた。ヴァンも、クイも狂っていた。そして、皮膚を一枚剥ぎ取りさえすれば、自分そのものもあの穢さを体中に存在させていること、あるいは、あの穢さそのものが自分自身の生存の根拠にほかならないことの事実の遁れ難さを、チャンは嫌悪した。チャンは狂っていた。自分は狂気そのものだった。なにものも、彼女を救うことなどできないことだけが、現実として彼女には認識されていた。チャンが乳首をくわえてやると、フエは声を立てて笑った。十三歳のチャンは、そしてそれからもずっと、あるいは彼女が両眼を失って以降にさえも、フエの、あきらかにそれが女のものであることを曝したてて仕舞っていながらも、いずれにしても中性的な、少年のような褐色の肌を、埋もれるように愛した。

その、眼球のない、映像のない眼差しの中でも。籠った欲望も何もなく、チャンはそれにふれ、愛し、匂う。その肌の、生き生きとして匂い立つ新鮮な生き物の臭気。穢いもの。穢さをはかろうじて感じさせられないですむには違いなく、そして、にもかかわらず決定的に穢いもの。その本質的で遁れようもない穢さによって成立させられていることを、すでに十分に知りすぎるほど知ってさえいるもの。愛している、と、それを否定することは出来なかった。それが同性愛と呼ばれるものか、どうなのか。それはチャンには終に分からなかった。自分のその欲望の正確なかたちそれ自体さえも。

チャンが愛したのは単純にフエだけだったから、それ以外のだれかへの愛が、チャンに自分の、あるいは性的な嗜好の性別を教えてくれることなどなかった。フエだけを愛しつづけるかぎり、結局は自分がなにものであるのかさえ未解決に伏すしかなかった。いつでもそのときに、戯れるように声を立てて、笑いながら耳たぶをさえ咬んでみせるフエが、自分を、自分がそうであるようには愛してなどいないことなど知っていた。未来を知っているというフエは。この世界の、生まれ変わりの秘密を知っているというフエは。観音様の生まれ変わりに違いない敬虔なフエは。ときに目醒めたままに夢を見始めて仕舞う、半分この世界にはいないに違いない頭のおかしなフエは。彼女にとって、チャンにふれることは子どもの戯れに過ぎず、

何を見ても

それ以外ではない。

いつもあなたを

愛おしいもの。

想いだす

戯れれば戯れるだけ愛おしいその真っ白い肌の少女の服を脱がせると、フエは高い天井の下で、無作法なまでに広く開口された木枠の窓ガラスに手をつけさせた。見えないから。と、つぶやいてやったチャンの耳の裏の匂いをかいだ。外からはどうせ、ガラスに撒き散らされた反射光が、すべてを白濁させて仕舞っているのだから。

きらきらと、ときに斑にきらめきを明滅させながら。

後ろ向きのチャンの

きらめきの中に

その

わたしたちは

あまりにも女性的な尻を

埋没する

突き出させると、

わたしたちは

美しい、と、

微笑み

そう想ってみるも

ときに

まもなくフエは

ささやきあいながら

声を立てて笑っていた。

Đệp

きれい、と、不意に哄笑したかのような笑い声を立てたフエに、これ見よがしに、もっと

見て

尻を突き出してやりながらチャンは、嘘でしょう?

Phải ?

本当に?つぶやくチャンは、フエの言っている事がまったき嘘に他ならないことをは

見てください

知っている。生み出すもの。

Phải...

本当よ。生み出され、そして

窓の外を

生み出していくもの。その

空が晴れています

やわらかく、丸みを帯びて、ただ扇情的に、なにを矜持してみせているのか特定さえしないままにいきなり矜持してみせたような、その

Không phải...

嘘よ。赤裸々なふくらみ。嘘でしょう?

Không

褐色の指先が、

phải...

いいえ。それに

Em

ふれた。

Không...

違うわ。チャンのつぶやく声には耳を貸さない。答えて遣りさえもしないままに、フエはそのむき出しのやわらかい形態を指でなぞってやって、少年が育てたブーゲンビリアは、花を咲かせはしない。無数の苗木は、あるいはすでに人間よりも高いところの空気を、その乱れた葉のうちに呼吸させさえしながらも。

何十年かかるのだろう?それらが花を咲かせるまでには。死に行く彼女は知っていた。フエ。だった、には違いない、その女。フエが見たこともない女。彼女は。自分の血にまみれて死んでいく、その、滅びのとき、人間たちの壊滅の、見た事もない風景の中の。もっと前にも、焦土で死んだことがある。空から堕ちてきた爆弾が、生きたままフエを焼いた。

叫んでいるのか、叫んでいないのかさえもわからないままに、彼女のその存在それ自体はもはや叫び声の鮮烈な存在それそのものにすぎなかった。過去。

あるいは未来。たぶん過去。いつかの戦争。ナパーム弾なのかも知れない。過去に生きられた未来の、もっと違う爆弾だったのかも知れない。燃え盛る炎が、そして眼差しはもはや何ものをも捉え獲はしなかったはずなのに、あの男が、哀れみのつもりで彼女の額を銃弾に撃ち抜くのを見た。

焼き尽くされた洞穴の、瞳孔のかつての存在の名残りに、彼女は。伸ばせば指先をふれられる至近距離に。あの

さようなら

男。ダット。彼は

いとしい人

私を殺した、と、フエはつぶやきもせずに

さようなら

チャンのその、

いとしい

ひざまづいた眼差しの先の

この

それを

世界

匂って見せた。鼻と唇をすれすれに接近させて。その、彼女たちの、言って仕舞えば単にみだらな戯れには気付いていたクイが、それでも彼があえて何も言おうとしなかったのは、男たちと戯れることに明け透けだったヴィーを想いだして仕舞うからだったかもしれない。それが正しい選択だったのかどうかはクイ自身さえ知らない。

何人もの男たちに、小さな腕をひん曲げたままにその芳醇なばかりの体を与えて遣っていたヴィー。かならずしもその肉体に快感が目醒めていたとも想えない。土の上にばたついた幼児の腕。だれもが、彼女を夢のように美しいと言った。そしてそれは事実だった。ただただ、その肉体は留保もなく綺麗な造型として形作られた流線型を曝し、その豊かな曲線は恐れることなく女性美のあるべき姿を、もはやみじめなほどに煽情的に顕した。澄み切った、なんらの色彩をさえ感じさせはしないほどに翳りのない眼差しは知性の一切を欠いて、それがなにを見ているときにも、実際にはなにものをも捉えてはいないことを取り繕うことなく明かし、不意に肉づいて、やわらかく、見事なまでに繊細にふくらんでみせるもの言わない沈黙の唇は、大股を開いてひれ伏して、皿に顔を押し付けて、喰い物を家禽じみて食い散らすときにしか決して開かれようとはしなかった。三歳児のままに、そしてそのあるべき形態をひん曲がらせた両腕が、そこに曝されていた美しさに、何かの鮮明な兆しを与えている気がした。そして、その兆しを解読できるものなど誰もいなかった。反対側にぶら下がっているだけのそれはなにひとつ、その秘密をなどは所有してさえいなかったから。

ヴィーには知性など、なにもなかった。クイが洗って遣らない限り、自分の体さえ洗わないのだから、猫以下の知性さえないはずだった。猫でさえ、自分の体の始末はつける。だれもが、そう想っていた。言葉もない彼女の、ただ不在をしか曝さない眼差しに、だれもがその魂の欠如だけを当然のこととして認識していた。いずれにしても、ヴィーは美しかった。

その生みの母親に、禁忌にふれた家畜以下の扱いをされながらも。あのヴィーに比べれば、あきらかに劣って失敗作じみた不細工さをこそ感じさせて仕舞いながらも、あるいはチャンも、たとえばヴァンと同じ程度には美しいのかもしれなかった。人間としては。とはいえ、美しいと言い切ることはクイには出来ない。みじめな失敗作を、まるで自分が美しすぎて存在して仕舞ったことへの無償の代償として、ヴィーが生産して仕舞ったのだと、クイの眼差しの中に、そんなふうにしか想えないチャンは宿命として、母親譲りのあけすけな戯れに、だれかの慰み者にされるよりほかはないはずだった。

チャンは、ヴィーの、できそこないの生まれ変わりでしかない。クイには為すすべもない。

フエがゆっくりと、そこに指先を差し込んでいけばチャンは抵抗もなく受け入れる。指先にまとわる粘膜の、ただ、なんの意味もなくふれて仕舞うにすぎない、なんの意志も感情も感じさせない触感の向こう、チャンは彼女の固有の感覚にむせ返りながら、ようやくかすかにだけ息を吐き、いつものように、尻の筋肉をひきつらせた。なぜるでもなくそこにしばらく停滞して、やがては抜き取られた指を差し出して、ユイの鼻の先に自分の体液に濡れた指先をちらつかせたときに、背後に恥じて目を伏せたままのユイが、ただ、苦痛と、葛藤をだけを感じていることをは知っている。その、フエの狭い寝室の中で、ほら。

Em ...

見て。

yêu không ?

と、そして、好き?ユイは、そのささやかれなかった言葉を気配のうちに鮮明に聴いて、彼は自分を決して愛しはしない。フエは知っていた。はっきりと。あざやかな、すでに明白に知られていた認識そのものとして。

眼の前でユイはまばたく。音もなく。ふたりだけの空間の中、曝された素肌のうえに、お互いの体温を、お互いに感じさせながら、フエは想った。彼女は、あなたはわたしを愛しはしない、と、想う。フエは、どこか異国の地でいつか、彼が、激しく、あまりにも容赦なく焦がれ仕舞った彼女のせいで、彼らの法の許に罪に辱められたことさえあったというのに。ユイが壊した彼女の身体。為すすべもなく崩壊した心。彼が自分に与えた無残な暴力を、彼が報復のリンチを食らった後にも、なんども夢にさえ見た。彼の事など、意識さえしてはいなかったのに。石造りのやわらかな日差しが差すその部屋の中で。砂漠地帯の空気は渇く。あれほど彼女を欲しがって、そのせいで不具の身体をさえ自分の身に受け入れて死んでいかねばならなかった彼は、そして、ユイは女の子だから、彼はフエを愛さない。知ってる。それでもフエが、彼を愛していることは事実だった。

奇妙な、頭のおかしい少年。十六歳のフエの、曝された褐色の肌をおびえた家禽の眼差しにいれ、そしてすれすれに接近した彼女がその色づいた肌の匂いをさえ嗅がせて見ても、ユイが決して男にはなれないことを知っている。汗にまみれたTính ティンが、脱ぎ捨てたTシャツのしたから曝した無防備に灼けた上半身に、ユイはあれほど男を曝して仕舞うにもかかわわらず。少しも美しくない、小太りの、にきびだらけのユイの、その男らしくも筋肉質な胸にふれようとしたときに、ユイは激しく仕草でだけ拒絶した。差し込んだ、フエの寝室の高い通風口からの光に直射されて、不意にまばたいて仕舞いながらも。

言葉もなく。言って仕舞うよ、と。あなたのティンに。フエはつぶやく。あなたが従わないのなら。そう、と、わたしたちが

ね?

愛し合っていることを。

すべてを

言葉にもならずに、わたしを

あなたに

愛さないなら。想う。フエは、

わたしの

独り語散るように。

すべてを

悲しかった。フエはユイの、おびえた犠牲者の眼差しにただ嗜虐的な情熱を感じ、いつか、その体内をさえ煽られながら、ただ皮膚の下に巣食った悲しみにだけ、悲しんでいた。まるで、零度の温度を持ったような、氷を皮膚の下に滑り込ませたような、悲しみそれ自体の存在の触感。

あなたは私を愛さない。わたしがなにをしたとしても。泣いても。叫んでも。ひざまづいても。みだらに足を広げても。くわえてあげても。尻を振って見せても。あなたの眼の前で他の男になびいてみても。あなたの眼の前で内臓を切り裂き出して仕舞っても。首を掻ききって止め処も無い獣の絶叫のうちに、鮮血を噴きだして仕舞っても。あなたは愛さない。知っている。色彩のない男が、張り付いた天井で自分勝手に血を流しているのは知っている。それも、わたしを愛さない。それでもわたしは愛されない。昏い、あなぼこ、けっして、あなたもそれも、私を愛しはしない。まるでそこに存在しないかのように、眼にもふれてはいないかのように、その、色彩をなくしたフエが、フエを見つめながら両眼から血を流していた。下に向って。どこまでも、その鮮血を下に、ただ下に、ただ堕としつづけながら。言葉もなく。穴が開いただけの昏い口からは、その鮮血を吹き出しもしないで。吸う。なぜ、と、想う。なぜ、と、フエは、愛さないの?

想った。なぜ、わたしはあなたに愛されないの?フエの

愛するとは常に、ただ、あなたの幸福を祈り続けること

指先が、ユイの唇に

それだけ

ふれる。

わたしにとってそれだけが

彼女自身に虐待された彼女の

あなたへの真実だった

いとしい存在は、

あなたを愛し続けて

体をこわばらせて

わたしは

ただ引き攣けつづけて、

ひとり

海。16歳の誕生日のとき、海で、フエはチャンがせがむがままになんども口付けて遣った。その顔中に。わざと、夕暮れた海の周囲のまばらな人目にふれさせながら。腰に、浪が崩れてふたりの体を濡らした。飛沫は頬にさえ飛び散って、匂うのは潮の匂い。海水に冷めたチャンの皮膚、そして髪の毛の、それらが混濁することなく一緒くたになった、その、それら、匂い。

ユイの胸の尖った乳首に口付けた。

午後の深い日差しが、通風孔から漏れ入るだけの室内にはいつでもやさしい光しか入ってこないし、そして風は揺らぎようもない。台風の日にさえも、風は入ってはこれないのだから。ユイはなすがままに目を開いたまま、仰向けに素肌をすべて曝しながら、もはや覗き込むフエを見つめ返そうともしなかった。その眼差しの殆ど全部を、覆い被さったフエにすでに占領されているにもかかわらず。戸惑う女。

見た。

堕として、叩き割って仕舞って水のたっぷりと入ったグラスを、堕として、戸惑い、泣きそうな表情を曝してフエを見た、見る、それ、堕とした女、褐色の肌、フエと同じ、その、そして堕ちる。

堕ちる女。フエはその唇をむさぼって、堕ちた女。舌を這わせ、見つめる女。フエを見つめながら、空から堕ちていく女。ユイ。目醒めたままに夢を見る。彼は、体のうえにひざまづくように覆い被さったフエの為すがままに、そして、ベッドの上に投げ出され、開かれた手のひらはなにものをもつかもうとはしない。知っていた。フエの鼻先がそれにふれて、彼の匂いをかぐのを。そして、垂れ堕ちた彼女の髪の毛はユイの下半身を隠していた。ときにその意図もなくくすぐりながら。これ。

あなたのもの。これは。それ以上のことは想いつきもしないままに、フエは至近距離の眼差しにそれを見つめるものの、それに指先をふれて、いたずらにいじってみせればそれは、やがては覚醒していくしかない。唇を、そっとそれにふれた。くわえ込んで、舌の先がそれにふれた。やがてあの少年に言ったのだった。フエは、覚えているの?

Are you

忘れたでしょう?

remenber me ?

口の中に、覚醒していくもの。してあげたでしょう?愛もなければ、あなたに。容認された快感さえないままに。忘れたの?美しい少年は、その背後に白い鳩の無数の羽ばたきの騒音をざわめかせながら、そして何も言わないままに、フエは、

知らないよ

口の中に

ぼくは、なにも

感じた。ユイ。自分を

知らないよ

愛することなどありえない単なる女の子。ティンに、同じ事をされたらどうするのだろう?喜びのあまりに失心さえして仕舞うに違いない。そんなこと、在り獲ないにしても。体の上で、彼女自身の肌を、その形態を指先に確認するように恥らいながらなぜているフエを、ユイは眼差しには入れようとはしない。その視界を、覆い被さって、覆い尽くして、埋め尽くしてさえやりながら、自分をは決して愛さなかった男。あなたは私を殺して仕舞うのね、と母は言った。向いの壁にめり込んだ、見たこともない若い男の色彩のない顔を見た。ハン。母親。

昏く、色彩の喪失。ユイのそれが覚醒しているうちに、フエはそれを誘った。なかなか入ろうとはしないそれを、なんとかして半分まで感じることが出来たときに、体内にあきらかに馴れない痛みのような感覚があった。痛みとは言獲なかった。あるいは、痛みそのものに過ぎなかったかも知れなかった。いずれにせよ、そうとは想えなかった。ゆっくりと、ふたたび眠り込もうとするそれに、フエは抗った。

男は横向きに鮮血を垂れ流す。水平に。その両眼から。涙もないままに。ユイは泣いているに違いなかった。泣き顔も涙さえもなく、ただ、表情をなくした顔を曝して、そして、それが、すべてを破綻させて白濁して仕舞った意識の中に、ただ言葉もない悲しみのような皮膚感覚にだけ、苛まれるでもなくただふれられたときの、その、消失された表情そのものが、人間の本当の泣き顔に違いないとフエは想った。葛藤があった。

わたしはユイを壊して仕舞う、と、その破壊の鮮明さにあざやかな恐怖さえ覚えながら、フエはゆっくりと腰を動かしてみる。かき混ぜるように。血があふれる。口からも。目の前の色彩のない男。年齢さえ分からない。見たこともない、たんなる昏い翳りにすぎない、ハン。肉体。悲しくてしかない魂が快感のような充足を感じ始めるのを自覚した。体内で眠りについて、萎えきって、あやうく外れそうになるそれに無理やり押し付けて、ただ、悲しみが皮膚の下、筋肉の上にへばり付いて息遣う。

目醒めたままの肉体が、その感覚を下腹部の奥に勝手に研ぎ澄ませて、あえてかすかな快感の息吹きに染まってみようとする。

私はかなしい、と、フエは

わたしは

なんども

いつでも

それだけを

かなしい

頭の中に

Em

繰り返し、庭で

buồn

ブーゲンビリアは

あなたを見つめるときには

匂っているに違いない。いつものように。一年中、ずっと花々を咲き散らかし、散らし撒き、撒き散らかしながら、花々。むらさきがかった、その紅。台風を遠い向こうの、はるかにその姿をさえ曝さない海の向こうの島国の上にいただいた空が、ときに突風をなげつけながら、眼の前に浪は高い。荒れて、あららぐ浪におびえるチャンはいつもにもましてフエに縋りついた。自分よりも背が、わずかでも低く、そして自分にくらべればもっと、比較にならないくらい軽いはずの華奢なフエ。

羽交い絞めにするようにすがり付いて離れようとしないチャンの、むさぼる唇が彼女の唾液の匂いを撒く。潮が匂う。潮には容赦もなく、それを決して口にしてはいけない破滅的な匂いがする。

 

4月30日、南部解放の日が来るたびにチャンは破滅を、もはや実在としてその体内に感じた。祖国統一戦争の、あるいは独立戦争のフィルム。それらの白黒の荒い映像がブラウン管になんども映り、流され、繰り返されて、戦勝の日。無数の、穢い死者たちの破壊された肉体をその周囲に、夥しくも撒き散らして山積みにした果ての日。破滅のときが、常にかならず体内に巣食っていることを明示させてやまない日。クイの顔。

もはや、加齢の皺なのか、ケロイドの引き攣りなのか、それとも手術痕なのか、その区別さえつかない、生まれてきたときからそうだったのだとしか想えないほどにその顔の半分に定着して仕舞った、破壊された残骸。いまだに生きて、生き生きとした豊満なヴァンの白い皮膚に口付けさえする、そして、決して、美しさをではなくて。それ自身と圧倒的な醜さとを表裏を一体にせざるを獲ない、あの、例えば海が圧倒的に暗示した美しさをではなくて、むしろ惨めな単なるうすらべったい綺麗さをだけ、チャンは求めた。

白黒のフィルムが、あるいは破滅したチャンの顔をさえ明らかに圧倒的な美しさそのもに染め上げて仕舞う、狂気としか想えない美しさというものの、実体をさえ伴った留保なき暴力性をではなくて、情けなく自分で慰めでもするしかない、見苦しいだけの綺麗さを。

フエの褐色の皮膚。ただ、綺麗で、つるつるして、穢らしくみじみな発情の対象にでもして仕舞うしかないもの。ふれる。やわらかく、生き物の匂いを発し、その単なる臭気に似ているだけの鼻にふれるもの。垂れ流される汗のうす穢さ。綺麗、でしかない、くずのようなもの。圧倒的に醜く、穢く、破滅的で、すぐさまなにもかもを一緒くたに殲滅して仕舞う美しさを、いつかすべて焼き尽くして仕舞いたかった。例えばチャンを、その、死に損ないの美しい自分自身を、盲目の闇の中にさまざまな夢を見る眼の前のチャンを。穢らしい破滅の美しさを。その、無数の美しさの散乱を、例えば泥まみれの戦場に見つめたかもしれないその眼差しが捉えた美しさの実在の、それら、ことごとくのすべてを。突き出した尻に、そして、褐色のフエの指先。なぜて、差し込んで、もてあそんで見せて、時には声を立てて笑い、哄笑するようなそれ。

綺麗なフエ。彼女が無造作に息遣わせた褐色の肌。チャンの眼差しに、窓の向こう、手の油の白濁を曝したガラス越しに人々が見える。

チャンは口を覆う。無数の。同じ人種。ベトナム人たち。そう自分を呼んでいる人々。人間たちの群れ。

彼らは笑う。声を立てる。息遣う。チャンは。彼らは繁殖し、好き放題に増殖し、そして、自分の体の、細胞の群れの音さえ立てない繁殖をチャンは感じた。

美しい人々。ガラス越しに映る無造作に日に灼けた美しい人々が笑いながら何かを罵った。

コンクリート敷きの前面道路に日が照ってどうしようもなく輝けば、美しい。粘膜に、ささやくようにかさなっていく触感があって、綺麗に。

留保もない反抗として、犯罪的なまでに綺麗であること。

綺麗?

Đẹp không ?

と、チャンが、やがてベッドの上に足を広げて、自分の指先をあてて、それを押し拡げて見せようとしたときに、

Bẩn

穢い、とフエは

Em

チャンがつぶやき終わりもしないうちに声を立てて笑い

mùi

くさい、と、嗜虐的にさえ笑ってみせるフエに尻を振ってやりながら、ハンがフエをひっぱたいたとき、フエは十七歳になっていた。市場の小さな売り場で、

すべての色彩を私は信じられないものとして見た

山積みにした仏教小物を売っていたハンが、めずらしく

例えば空の

昼下がりに店を閉めて午後三時、帰ってきた彼女が

例えば薔薇の

半開きのドアの、娘の

あるいは雪の

部屋に入って行って、

なぜなら

見留めたのは

それらは網膜の中の単なる事実の一形態にすぎなかったから

裸で

わたしは

寄り添う

色彩に焦がれた

フエとユイだった。

あるいは、色彩の

終ったあとで

留保なき不在に

仰向けのユイは何の悪びれたふうもなく英語の教科書を開いていて、その傍らにフエは苦悶の表情を浮かべて、身をひん曲げながら寝息を立てていた。ドアが不意に開かれた瞬間に、何が起きたのか良く理解できないままにユイは、ややあって飛び起きて、ベッドの上に自分の衣服をかき集めようとしたが、それらはフエが床に投げ棄てて仕舞ったままだった。ハンは何も言わずに彼らを見つめてていた。そして、ドアを閉めもせずに、そのまま出て行った。ユイは、ただ混乱しながらフエをゆすって起こそうとしたが、フエはまどろんだままに、ユイを拒絶しながら腕を暴れさせ、身を丸めて寝入って仕舞う。どうすることも出来なかったユイは、服を着て、そのままにフエの家を立ち去った。もう二度とこんな家には来ない、あるいは、来れはしない、と、そしてただ、むごたらしいほどに自分は辱められて仕舞ったという隠しようのない実感だけがあった。

ユイは、庭のバイクにまたがりながら、そして、だれもが自分を強姦者だと想ったに違いないと、頭の中にじかに認識する。だれもが、想うに違いない。自分こそは誘惑者で、犯罪者で、あの賢くやさしい観音の生まれ変わりのような褐色の少女を穢して仕舞った穢らしい存在だと、辱め、貶めずにはいないだろうと、ユイは庭で、ハンには出逢わなかった。

 

 

 

 


紫色のブルレスケ #3

 

 

 

 

 

その妹の Thảo タオが、庭の白いブランコに座ってトゥイにブンを食わせて遣っていた。まだ何も知らないらしい人懐っこいタオが、陽気に何か言ったが、ユイは答えもしないままに、振り向かない背後に響く、

明日は晴れないから

トゥイの叫び声を

雨が上がったんだよ

聴いた。誰に向けたわけでもない、ただ、自分の認識そのものをじかに発話させて仕舞うトゥイの

台所がもう

甲高い叫び声。日差しに温まったシートが

水浸しだったんだよ

尻に温度を与えて、噴かされた

明日私が死んだのに

エンジン音はその声を消しもせずに、少年。

あんたは今日死なないね?

少年が振り向きもしないままに何か言った。フエはそれを聴き取らなかった。

その努力さえしようとしなかったのは、聴き取ったところで、自分には一切かかわりなどないことを、よく知っていたからだった。それは自分ではない。血を流し、滅びようとしているのは。

それが、自分であることなど出来ない。残念ながら。あなたが何を言おうとも、私はなにをも聴き取ることなど出来ない。少年が振り返りさえすれば、そこに顔などないことには気付いていた。人間らしい顔などは。

崩壊するしかない最期の世界の最期に、人間が人間らしい顔を曝して見せる必要など一切なく、そして、見つめる眼差しが、人間の眼差しであることに一切、もはや、意味などなかった。ブーゲンビリアはまだ咲かない。

自分たちが、滅びて、骨だけを残して、はびこった細菌の群れに食い荒らされて果てたその、風化しかけた残骸を土に埋めかけて仕舞ったときに、咲き乱れるはずなのはブーゲンビリア。死にかけの少年が死んだ後に咲く、むらさきに近い紅の色彩。突然変異か、奇形化でもしない限りは。白い。

白濁した色彩の翳の残像としてしか形態を捉えはしない眼差しは、このうえ生き延びたとしてもその色彩をなど捉えはしない。背後に、廃墟のビルのひとつが遠い大音響を、耳にやさしくかすかに立てて、倒壊していった。ポットを持って、お湯を取りに外の竈に行ったとき、竈に火を起こしていたハンはいきなりフエをひっぱたいた。その瞬間、フエはポットを落として仕舞ったが、魔法瓶の、中の鏡が砕け割れたあざやかな痛みのある騒音を、いちはやく足元にフエはちいさく聴いた。

 

テト tết 、旧正月の近くにはいつも

雨が

大量の

町に

雨が

騒音をあげて

降る。雨が

いつでも

降らない日はないと

降って

言っていい。雨が

わたしは

降っている時間と、

いつも

一時止んでいる状態があるだけだ。空は

そんな日には

いつでも

花には

白濁し、常に

水を遣らずに

白濁の雲が

そっと

空をうずめて、時に、

眼を

稀に、

閉じる

その切れ目から

朝の

光の筋がながく、

日差しの

ながく、

なかで

ただ、ながく、

ひとりで

一直線に流れ落ちて、しかし、それは終に地上にまでふれることはない。二階のベランダに立って、四方八方に企業買収と、開発が進み始めた都市の、更地だらけの、まるで廃墟のような姿をクイは見遣りながらも、むしろ戦争が起きているのだろうかとクイは訝った。

でたらめな空爆で廃墟と化した、そんなかつての町のありふれた日常の風景になにも違わない気がした。土の道路は地雷で吹き飛ばされたように掘り起こされて、長期の通行止めと一方通行と、そして、土地買収と立退きが周囲を騒がせて、朝から晩までクイは忙しかった。川の向こうの中心部には、日本というかつての不当な宗主国の協力を得て、巨大な市役所ビルが建設中だった。町を象徴するべきランドマークタワー、そのひとつとして、役人と不動産屋に計画されているに違いないもの。この町にいくつもの橋が通されると誰かが言った。それに伴って、人々が住んでいる町に無造作に都市計画の赤線が引かれれば、どこもからもかしこからも法律家は相談を請ける。人々は、顔を半分失った、正義の人徳者をばかり求めた。体を二つに割ってみたところで、手が、挙句の果てには足さえもが足りなかった。

前面道路に、学校にチャンを迎えに来た清楚で優秀なフエのバイクが止まった。誰かの命日はかならず顔を出す、敬虔な少女。フエはクラクションを鳴らし、バイクの尻を振って見せた。何かを見い出した眼差しは、そして不意に色づいて彼女は声を立てて笑った。飛び出していく、あまりにも媚態に片寄りすぎる、放逸でみだらにさえ見えるチャンが、甘えた声を立てて奥の誰かに手を振り、後ろに飛び乗ればバイクは派手に横に揺れた。

戯れて、少女二人の喚声が立った。ヴィー。美しいヴィー。悲しくて仕方がないほどに、ただただ綺麗だったヴィー。クイは終に、彼女に指一本ふれなかった。怖かったから?あるいは。美しい彼女を、自分の指先が穢して仕舞うことが。さんざん、手当たり次第の男たちが、彼女が生まれ育ったあの集落で、彼女を好き放題に慰み者にしていたというのに。

チャンにはその面影など、どこにもありはしない。クイはそう想い、もはやそれは悔恨というよりも、すでに、生々しさをなかなか失ってはくれないいつかの葛藤にすぎなかった。なんども想い起こされては反芻される解決のない葛藤、穢らしいチャン、愛すべき、そして事実愛してさえもいる、

ぼくの

誰の

きみを

種かもわからない少女。明らかな

愛しているよ

失敗作なのかも知れないその

ぼくは

愛娘に、なにを

ただ

どう間違ったのかも分からないままに、そして

やさしく

ヴィーは

ひそかに君を

美しかった。

愛していたよ

両手の明らかな欠損さえもが、

いつでも

例えばミロのヴィーナスの失われた両腕のように、いつか、そうでなければならない必然としてだけクイの眼差しを魅了した。失語症の、なにも言葉をなど話さない眼差しは何をも語りかけないままに、嘲るような色彩と、縋るような色彩とを、同時に曝した。すくなくともクイはそう想った。荒れた貧困の町クアン・ビンで、友人の Thái タイの家に

出会わなければよかった。あなたに、と

遊びに行ったときに、彼に

わたしは想うのだった。あなたを

家族を紹介されながら、

失った

もう一人妹がいるんだ、と、

そのときに

ビンは自虐に染まった嘲笑を浮かべた。尊敬すべき、聡明で勇敢な戦友のその見馴れない微笑に戸惑いながら、それ以上は何も言おうとはしなったタイの沈黙をクイは尊重した。

彼らは牛と豚を飼っている、田舎町の資産家だった。裕福とは言獲なかったクイは、素直にその悠々とした生活に憧れたものだった。広大な野晒しの敷地の中のペンキの剥げ懸かった暗い家屋に三世帯の家族たちは住み込んで、人々は薄い歓迎の笑みを浮かべながら、いまだに世慣れない四歳くらいの痩せた少女が家屋の隅の日陰の中に、異形のクイを上目に見つめながら必死に日陰の暗さの中に、どうにかして埋没して仕舞おうと

見ないでください

息を

わたしを

殺していた。その

わたしは

数年前にカンボジアで失った

あなたの

顔の

ものじゃない

半面を、タイの家族たちが必死に尊重していることには気付いていた。無造作に、彼らの眼差しがさまざまな色合いを持って、その崩れ果てた半面を隠した包帯にふれた。傷はいまだ、完全に癒えきったわけではなかった。炎症が引かず、そして倦む。いつでも顔に熱がある。表情を作ることさえ苦痛だったクイを、いつか人々はいつでも冷静な男だと評価した。

タイの家族たちと粗悪な国産のビールを飲んだ。大気に温まった常温のままで。いずれにしても、クイが子供の時には、ビールにさえもめったにありつけはしなかったのだから、それは政府が始めたドイモイ政策の挙げた目覚しい効果の一つだとは言獲た。クイは近代的な政府に満足した。タイの弟もカンボジア帰りだった。そして、彼は五体満足だった。クイと並ぶとき、どうしようもなく卑怯者の気配を彼のその健全でたくましい身体はおびた。

クイの身体の傷だらけの反面は、間違いなくタイの両親たちに、自分たちの幸運を感じさせていたに違いなかった。吹き飛ばされた瞬間。それは至近距離に、サゴンから来たCảnh カンが踏んづけて仕舞った地雷だったが、見えたはずはない、背後にばらばらに吹き飛んで行くカンの四肢が血を撒き散らして肉の残骸になっていくのを、見つめていた記憶が鮮明に在った。例え、本当に見たとしても一秒以下の刹那にすぎず、事実としてはそれは背後の出来事だったのだから、そんなものを見ているわけの無いことなど自分でもよくわかっていたが、確実に、あざやかな、十秒以上に引き伸ばされた映像の記憶は、クイの頭脳の中に褪せもせずに生き続けていた。

爆発と同時に意識など吹き飛んで仕舞っていたに違いない。自分の顔が吹き飛んだその記憶など、一切なかった。気付いたときに、意識の存在を確認しようとしたに違いない軍医が盛んに話しかける、負傷時の事の次第の確認に、言葉を発そうにも、まったくその手立てが無い事実に、自分の顔面の、すくなくとも顎の損傷が始末に置けないものであることをうすうす感づいた。そもそもが身体感覚も、顔が存在するという感覚もないままに、意識と、眼差しが捉えた視覚だけが存在しているという奇妙な実感に、自分がすでに半分涅槃の蓮の翳のうえに存在しているのではないかと、そんな事をさえ疑ったものの、眼差しにふれていたものはなにもかも、どこもかしこも、うす穢い軍病院のありふれた風景に他ならなかった。

塹壕の中に、丸二日間地べたにうつ伏せで待機したときの、二日目の朝の体の感覚に近かった。もはや自分の身体としては機能させられない他人のそれに載っかっている感覚。顔の周辺だけが。そして、やがて、ふたたび正気付かれ始めた身体はその内側から、あるいは表皮から、そのすべてが現実そのものに他ならない執拗な生々しさで、苦痛をだけささくれ立たせはじめた。神経そのものを、あらいやすりですり剥いていくような痛みだった。無能な医師団に、もっと麻酔を打てと言おうとしてそのすべもない、ただなにも訴えかけないクイの眼差しに、54歳の軍医は意識障害の深刻さを確信した。軍医の眉を顰めた眼差しの中で、眼の前の傷付いた男は身体のみならず、頭の中さえすでに壊れているに違いなかった。事実、彼は壊れていたのかも知れなかった。うろ覚えの記憶として、地面を穿った爆発の衝撃に沸騰したままの頭の中が、めまぐるしく眼差しに映し出していた映像のいくつかを、クイはずっと忘れられないでいた。死んだはずのクイの祖父が、起き上がれもしないクイの体の上に座りこんで、のんきに食い物をせがんだ。クイは頭の中で彼をののしりながら、そしてこの国のだれもが、この祖父の空腹の事実をなどまだ知らないに違いないと、クイは不意に悲しみにくれ、やがては青空が罅割れてその向こうからひまわりの花が顔を出した。軍病院の裏の畑に、スイカの実がなったに違いないことをクイは認識し、それは笑うしかない明白な事実だったが、クイはその眼の前の事実に咬み付く。味覚と触感がはっきりと、舌の上に残っていた。そのとき、笑うことも出来ない自分を、クイはみずから哀れんでやるしかない。スイカの種が罅割れれば、中から蜥蜴が這い出してくるに決まっていた。百合の種子を音を立ててばら撒く蜥蜴が。あるいは、すでに、彼の体中に、白いトカゲの群れがすでに卵を産みつけて仕舞っていたことは知っていた。そして、卵のままうごめいてクイの骨の内部の骨髄を吸い取ろうとするその未生の群れは、やがて、殻を破れば光沢をさらけ出して純白の真珠の群れをみだらにも、周辺に派手に撒き散らして仕舞うに違いない。あるいは空は、音を立てて太陽が子供を生んだのを、すでにいつか見て仕舞っていた。それらはまさに、まったき事実としてタイが、開け放たれたシャッターの向こう、家の裏の広大な草地の中のあばら家に、男たちがふたり入っていくのを目に留めた。鼻でちいさく、彼は笑っていた。

あそこに妹がいるんだよ、とタイは言い、妹?

クイは、もう一人の紹介されなかった妹のことなど忘れていた。タイは酔っていた。まだ二本しか飲んではいなかったが、まったくと言っていいほど飲めないタイにとっては、数十本飲んだに等しかった。

恥辱だよ、と、タイが酒気を帯びて赤らんだ眼差しを、微笑みに細めて仕舞った瞬間に、クイは想いだした。その、すでに告げられていたもう一人の妹のことを。

奇妙な懐かしさを、クイは覚えていた。タイの父親が他人の微笑を浮かべながら、空になったクイのグラスにビールを注いでくれた。かならずしも、興味があったわけではなかった。立ち上がったクイを、だれも止めはしなかった。

家の外に出ると、粗末なサンダル越しに土のかすかな隆起の触感が感じられた。雨が上がったばかりの土は、草とともに倦んだような匂いを撒いた。よく知っていた匂いだった。その匂いの中に、無数の硝煙の臭気のなかで、無際限なまでの銃弾を撒き散らし、クイは結局は何人殺したのか分からなかった。彼は英雄と呼ばれた。それは決して過大ではなかった。だから、彼は英雄だった。自分に銃を向ける、あるいはその可能性のある存在に対して、クイは容赦がなかった。戦場で、戦友たちはクイにだれもが一目置いた。多かれ少なかれ、生き残っている彼らが生き残っていられるのは、何らかの形でクイの恩恵にほかならなかった。よく喰らい、よく笑い、よく倒す。まさか、自分を吹き飛ばして仕舞う地雷があるなどとは想えもしなかった。いずれにしても、戦場は男が男になれる場所だった。クイは戦場を嫌悪しながらも、そこに満足していた。本能だよ。クイは言った。かつて、戦友たちの家畜じみた眼差しに、雄の本能だ。殺し、喰らうためにだけ、俺たちは生きている。忘れるな。お前は所詮は哺乳類の雄だ。

山際の土地だった。ゆるやかに隆起を繰り返して、目測の500メートル弱の先に、山の本当の隆起は始まっていた。あばら家は、木材にわらを組んだ、いまや山間部の少数民族たちの貧村でしか見れないような、そんな建物だった。もともとは、牛たちのための何かだったのではないか。あるいは、そのあまりにもな粗末さに、クイは、懐かしさを感じて仕舞うより外なかった。物音も、人の気配さえも感じられなかった。男たちは、そこに入って行ったのだから、すくなくとも二人の男は、そこに存在しているに違いなかった。

放牧された牛が、目線を合わせないままにクイに距離を取り、そして草を食んだ。なぜ、いつでも常に見えるものすべてに怯えざるを獲ないような、そして、ただ、怯えるためだけにこそ、その目を見開いているかのような、そんな眼差しでしかなにものをも見い出すことができないのか、いつものようにクイはまばらに遊んだ牛の群れを哀れんだ。女の上に、ズボンをおろした男が腰を動かしていた。あばら家の中は薄暗い。終ったのか、まだなのか、連れの男はその傍らに胡坐をかいて煙草を吹かしていた。吸い込むことなく、ただ口の中でだけ。

ドアさえもない吹きっ曝しの開口面にたたずめば、腰を使う男のわざと立てる嘲るような息遣いと、尻だけむき出した男の衣服がこすれる、衣擦れの音がクイの耳に響いた。女の足が、彼女がまだ生きているその痕跡さえ曝さずに、ただ、開かれていた。女に、なにか、鮮明だが納得できない違和感を感じた。煙草をすっている男が微笑みながら、床に転がった煙草の箱を蹴ってよこした。お前もどうだ?

クイは、腰を使っている男を女から引き離すと、一瞬の舌打ちとともに怯えた眼差しをくれたその顔面を殴りつけた。なぜかは知らない。クイに興奮などなにもない。殴られてもいない、その煙草の男は、いきなり立ちあがって、すでに逃げ出していた。仲間を呼びに行ったのかもしれないと一瞬疑いながらも、その男にそんなそぶりはなく、そして、事実、仲間など来はしなかった。

殴られた男は、気絶などしてもいないくせに、自分の下腹部を曝したままに、仰向けに床に倒れつづけていた。のけぞって、頭から転んだ板敷きの、削げた隙間に土をのぞかせた床の上に後頭部をこすりつけながら。見下ろした、裸に剥かれた女にまともな両手がなかったことが、クイに感じられた違和感の正体だったように想った。そうではなかったのかもしれなかった。いずれにしても、女はあきらかに、煽情的なまでに美しかった。

わたしを愛しなさい、と。もう、すでに、あなたにはそれしか出来はしないのだから、と、そう耳元に、鮮明につぶやかれたかのように、彼女は美しい。そうでなければならない、と、クイは想った。これほどまでに、あざやかに、匂い立つがまでに美しいのならば、その、美しいものはむしろ穢され、壊され、侮辱され、辱められて、再起不能なまで滅ぼされなければならない。そうであるより以外には在り獲ない。無罪だ、と。クイはそう想った。それは、留保無く鮮明な、自分がいま、人類の歴史の中で初めて見い出した獲ものとしか想えない認識だった。クイは、いま、生きていた。誰が何に無罪なのかはわからない。とはいえ、無罪であるよりほかには、在り獲ない。

残された男は、股を広げて自分を曝し、逃げようともしないまま、自分の鼻血を指先に拭っていた。緩慢に、指先がひそめられた興奮にふるえていた。なによりも今重要なのは、いま、そうやって、鼻血を指先にとって、流れ出た血の有様を確認すること以外にはないのだ、と。男の、決してクイを見ようとはしない眼差しがそうつぶやく。言葉もなく。女は、両眼を見開いてどこかの上方を見つめるばかりで、クイにも、だれにも何の反応も示そうとはしなかった。

穢らしいもの。知的障害があるに違いない。そして、あきらかに、その女の美しい顔立ちには人種的な混交が感じられた。それは、単一の種族がかろうじて為し獲る、予測可能でどこか見飽きた美しさなどではなかった。見たこともないほどに、見たこともない美しさが、初めて見るその女の顔立ちにはあった。身体にも、豊かに、あふれるように乱れた髪の毛のかすかに赤らんだ色彩にさえも。穢らしいもの。まともな知性を欠損した、どこの何人とのいかなる交配による結果なのかもしれない女は、ここに放置されて、無数の男たちの慰み者になっているに違いなかった。いずれにしても、クイは、自分に出来ることなど何もないと、そう想うしかなった。

彼女に意志があるとは想えなかった。意志もなく、なにが彼女にとっての救いであるのか、それをさえみずから提示しようとしないものを、他人が救うなど決してできはしないと、もはや留保もない皮膚感覚としてクイは悟った。いかなる意味でも彼女は救済から見放されて、そこに存在している。クイは孤独だった。一切の救いから見放された実感があった。背を向けて、立ち去ろうとした瞬間に、背後に、女は声を立てて笑った。

それは哄笑じみていた。そして、その哄笑じみた笑い声の意味は、一切慮れなかった。ただ、むきだしの笑い声と呼んでみるしかない、その声。

聴く。クイは、ほんの一秒程度に過ぎなかったそれ。なんども、またたくまに反芻され、そのたびにふたたび想い出して、クイは、そして聴いていた。小屋を出て、何十歩も歩き、何のきっかけも無く立ち止まったクイは、踵を返して、そして女を胸に抱いた。女は逆らいなどしなかった。

意思など存在していない、単に脱力された身体の留保なき重さが、彼の腕にあった。いつのまにか、殴られた男はどこかへ立ち去って仕舞っていた。立ち去った気配さえ残さずに。ずっと、そこには女と自分しかいなかったような気さえもがしていた。タイは、腕に女を抱きかかえて家のシャッターをくぐったクイに、何も言わなかった。

その家族たちは、目をそらした。護国の英雄のふしだらな気まぐれに。あるいは単に、その女を眼差しに入れたくもないに違いなかった。連れて行く。クイは言った。どうして?タイは、そうつぶやきそうになりながら、上目にクイを見遣った。クイは何も言わなかった。クイは背を向けた。

不意に、振り返って言った。私の妻だから。クイは裸の女をバイクの後ろに乗せて、すれ違う人眼を好き放題にあびながら、日が沈んだ町を走った。

 

ハンが何も言わなかったので、フエは、ハンがそれを知っているをことを一週間後にユイから不意に、打ち明け話めいて告白されるまで知らなかった。最初から、かならずしも、それを隠そうとしていたわけでもなかった。もちろん、赤裸々に明かしたい欲望などもなかった。息さえひそめて、しどろもどろに言葉を選びながら、秘めごととめいて耳元にささやくユイに、それが秘密の、禁忌じみた行為にほかならなかったことにあらためてフエは気付いた。フエは、ユイのためにそれをふたりの秘密にした。

ふと、フエのアオヤイにふれた指先にユイが一瞬戸惑って、ややあって、もういちど触れて、なぜ?と。そして、綺麗、そうユイは

いま

言った。

Đẹp quá

指先が、

とても綺麗です

褐色の腕を覆った絹地のてざわりを

まばゆいほどに

確認していた。絹の光沢を放つ無地のアオヤイは女の子の制服だったから、ユイはそれを着たことなど一度もなかった。なにが?フエは言った。笑いながら言ったには違いない、フエのそのだれが?言葉の微細なふるえを、ユイはね?聴いた。何も答えないユイの眼差しに、だれが?そして

わたしは綺麗です

見る。

いま

ユイの頭の上、

あなたに

学校の、なんの飾りもないただ広いだけの教室の高い天井に、

見つめられながら

色彩をなくした子ども。その頭部の細長くゆがんだ形態がさかさまにたたずんでいるのを。血を流してみるべき穴さえもないので、昏い翳りのでたらめな、いたるところから鮮明な紅彩の鮮血を糸のように垂れ流し、チャンが母親を殺して仕舞ったに違いないことをフエは知っている。チャン。臆病で、内気で、話しかけられた男の子の嬌声にさえも、まともに一言も言い返せもしないチャン。彼女が、頭部を失ったまま血を放射状に流していた。フエはすでに知っていた。雨が下から上に、反対向きに降っていた。昏い大地のただなかで。その在り獲ない光景にフエは笑って見せるしかなかった。もはやチャンは何も言わなかった。降りしきる雨の中で、ただ、残酷な笑い顔だけを曝した。すでに、チャンは両眼を失っていたから、フエを見つめ返したそれはただ、昏いあなぼこに過ぎなかった。百合科の花々らしい香りの群れが、無造作に、それぞれにかさなりあわないそれぞれの匂いを撒き散らして、それはチャンの体臭だった。そんな匂いなど、彼女の皮膚から匂ったことなど一度もないにかかわらず。やめたほうがいい、と想った。フエは。それは自分を殺して仕舞うことだから。チャンは身を屈めて、体の下からなぶるように振付ける土砂降りの、もはや暴力でしかない無際限な雨粒にもてあそばれながら、チャンは眼を剝いてそれを喰い散らしていた。それは、両目の無いチャンだった。フエは気付いた。あなたはあなたの母親をさえ殺して仕舞った。もはや、涙さえ流せない気がした。滂沱の涙をながして、フエは、獣じみた息遣いのもとに喰い散らすチャンを見つめながら。花々の匂いは好き放題に薫り、充満し、いまやむせ返りそうだった。フエが、ユイの頬に手のひらを預けると、ユイはその手のひらに頬を預けた。見つめる眼差しに、すこしも戸惑いは無かった。その戸惑いの不在にこそ、むしろフエは戸惑った。どうしたらいい?フエが言った。どうして欲しい?ユイが、自分を愛してなどいないことは知っていた。せめて、縋るような、おびえた眼差しさえ曝されていれば、

いずれにせよ

まだしも

たとえ、あなたが何と解釈しようが、わたしは事実として

フエには

幸福でした。なぜなら

言葉をかけるすべがあったような気がした。ユイは

あなたを愛せたのだから

なにも言わない。小さく首を振って、

限りもなく

沈黙し、

美しい

ただ、

あなたを

眼差しを

わたしは

不安げに揺らめかせて、大丈夫よ、と

Không sao

つぶやいてみせるフエを、ただ愛おしいもののように、ユイは見つめてやるしかなかった。フエの指先が、自分の白い男物のシャツの襟元にふれるのに、ユイは任せた。ゲイ!と、

Gái !

背後に嘲った Bính ビンたちの声を、

女の子!

ユイは聴いた。不意に沸き立った笑い声を、振り向いた眼差しの中で、その疎らな少年たちの集団は立てていた。ティンもいた。彼は挑発する眼差しを、自分を通り越してフエに投げていた。ティンが、自分の気持ちなどすでに気付いているだろう事実を、その眼差しが浮かべたあけすけな哄笑に、ユイは感じ取った。あきらかに、ティンは意図してユイから視線をそらしていた。ユイが彼に微笑み返した気配をフエは感じた。チャンが血を流す。天井にさかさまにへばりついて、放射状に血を流して見せるしかないチャンに、フエはただ何の言葉もないからっぽの哀れみをだけ感じて仕舞い、神々は光る。何と、と。

光は何と?すでにすべてのものにじかにふれていた。何と、あなたに言葉をかけてあげるべきなのだろう?

チャンが、もはや何も感じてなどいないことは知っていた。色彩をなくして、そこにただたたずんで、ひたすらそこに存在して、無造作に彼女は血を流し続けるしかなく、なにものも彼女を燃やし尽くすことなど出来なかっただろう。天国の光も、地獄の業火も。なのに、なぜ、それらは存在して仕舞うのだろう。文字通り、網膜には見い出せない空の向こうに天国が、地のはてに地獄が、それぞれに至上の幸福と、救済と、至上の苦痛と、責め苦を湛えて、すべてを捉えて休むことなく永遠に裁き続けているのは、なぜなのだろう。

神々は眠ることなく目覚め続け、何の言葉もないままに、言葉そのものとさえ無縁なるがままに、しずかにすべてのものの内側に、光さえなく輝き続けていた。何故なのだろう?

それは。

彼らはただ救済をのみ志向しながら。と。フエは一瞬、声を立てて笑い、ビンたちにそうよ。

そうなの。

彼らにいたずらじみた微笑をくれてやった。

Dạ...

女の子よ。

Em gái

わたしたち、女の子なの。

Hiểu không ?

フエの唇が、そっと、自分たちを放さず、しずかに見つめて微笑むままに、ユイの頬に口付けてやるのを見留めたビンたちは喚声を上げた。ゲイ、と

Gái !

はやしたててみせ、恥ずかしげに顔を赤らめてうつむいていたユイの頭をなぜるフエの手のひらの下に、ユイはひとりで屈辱に塗れていた。少年たちが、自分に焦がれていることをフエは知っていた。彼らの眼にふれるもの、あるいはいまだふれてはいないもの、その、白いアオヤイが隠している褐色の肌のすべてにさえも。見苦しく息づいた、肌よりもさらに色彩の濃いそこにすらも。彼らの押し付けがましい眼差しが曝す、彼らの心のうちの、純粋な感情と騒ぎたつ欲望にまみれた何かとの、いじましく滑稽な混合物を、想いのままにもてあそんでやるすべをフエは知っていた。もっと見つめればいい、と。想った。

もっと。息をひそめて、フエは、自分がかならずしも哀れみ以上の想いをなど与えてはいない限り、あなたたちは永遠に救われはしない。ずっと、ただ、自分の体の内側に巣食って、自分のいじましい感情のさざ浪をだけもてあそび、もてあそばれて彷徨うしかない。まだ、一度たりともわたしの肌の匂いをさえ嗅ぎ取ったことのない哀れな少年たち。豚のように鼻を立てて嗅ぎ取ろうとする恥ずかしい生き物たち。さまざまなそれらの眼差しの、それぞれに浮かべた、結局は彼女に対して惨めな発情と純な求愛を曝すことしかできない、一瞬ごとのあざやかな変容を見せる、それらのめまぐるしい色彩を、フエは交互に見比べてやった。せめても彼らにわずかばかりの報いを与えてやるために。自分が彼女に、一瞬であっても見つめられたという特権的な事実の想い出に、慰められる余地を

いつか

与えてやるために。

わたしたちは

愛しあう。

息をひそめながら

腕の中で、

感じあっていた

チャンが

お互いの存在、その

自分へのひそかな

息吹きを

欲望に、その

見つめあった

内側でだけ

眼差しの中に

ふるえていることには気付いていた。完全に脱力した身体を、自分勝手に押し付けながら。夕暮れをすぎた海は、浪をいよいよ高くして、そして、昏らんだ空は月の光に明るく、そのあわく昏い色彩を曝した。まだらに、無造作に、雑然と、装われもせずに、ただただ散らされて乱された、でたらめに千切れはてた雲の群れが、むしろ雲母のような複雑で繊細な模様を空の明るんだ暗滅に翳ったままにきらめいて、明るい夜だったには違いない。

たぶん、貧しく困難なフィリピンを、数百人の死者を出しながら、いまふたたび壊滅させているに違いない海の向こうの台風のせいなのか、見上げられた雲の流れは速く、かさなった層のそれぞれに形態の自在な変化を見せて、昏い空はその色彩を澄み切らせるがばかりに鮮やかだった。色彩らしい明確さをは伴わない、黒いとも言い難い、ともあれ、その夜空の固有の鮮明を極めた色彩は。あざやかだ、と、終にはただ、諦めとしてそうつぶやいてみるしかない。

亜熱帯のダナンの海辺は、夜になると涼んだ。その涼気が、あるいはチャンを鳥肌だたせているかも知れなかった。チャンの頬をなぜ、唇を、その唇にかさねあわせてやると、チャンは素直に目を閉じて見せた。

フエになされるがままに、自分勝手に愛されることを待ち望むしかできない奥手で内気なチャンに、いっぱいの幸せを与えてやらなければならない必然がフエにはあった。フエは、

あなたは

濡れた髪の毛をなぜてやった。人翳は

いま

まばらに、やることもなくて

幸せだった

暇を持て余した田舎町の住人たちをその周囲の遠くに、単なる

やさしい

翳りとして

光の中で

散らした。至近距離に

夜の

さわぐ浪、遠くに通り過ぎる

穏かな

バイク、聴き取れない

月の

話し声、耳元の

光の

息遣い、

その下で

それら、さまざまな音響が

わたしと

周囲に、ごく微細音として連なり、

同じように

鳴って、

しずかに

混濁することなく

そっと

群れて、

かすかに

散り、

息遣いながら

空間に惑う。海から上がって大気に曝されれば、濡れた肌は一気にその涼気にふるえた。

チャンが声を立てて笑っていた。不意の嬌声とともに、チャンが戯れにしがみつけば、しかし、冷えた肌はいつものようなその体臭をさえ匂いたてずにちぢこまって、フエは笑う。腰を華奢な腕に抱いてやり、バイクの後ろに乗せると、走り出したバイクが送り込む風はふたりの皮膚を一層固まらせて、骨をさえふるわせた。

両手を回して抱きついたチャンの腕はこまかくふるえていた。愛おしさを感じ始めるその一歩手前で、フエの皮膚は凍える。

チャンのうちに送って行ったとき、びしょ濡れのチャンをその家族たちは口々に罵った。あら。

Trơi ơi...

どうしたの?

Em

あらまぁ

Trơi ơi...

あららぁ。連鎖するそれらの声に、そしてあばずれのチャンが自分の誕生日にさえも、わけのわからない自分勝手なその場しのぎの戯れに、可哀相にフエを担ぎ出したに違いなかった。水滴を撒き散らしながら、わめき散らすような嬌声を上げて自分の部屋に駆け込んでいく濡れたチャンに、ヴァンはひとり、もはや声さえかけようとはしなかった。

クイは、家の先に出したプラスティックのいすに座ったまま、フエに、シャワーを浴びていけ、と

…Ly hằng

言った。壊れた顎が無理やり発する

Ý ăn

でたらめな発音を無理やり

...Đi tắm

聴きとって、フエは、ただ、やさしく微笑んでやった。片手に空を指先した。散り散りの雲は雲母の様のそのままに、いつか、ふたたびこまかな雨を降らしていた。空のどこから堕ちているのかさえ理解できない、文字通り降って湧いたような水滴、無際限な、繊細すぎるか細いそれら。

雨粒には温度があった。その温度がむしろ、涼気に乾き、凍え始めていたフエの肌を温めさえしていた。

クイは、うなづきも、否定しもせずに、眼差しが捉えた褐色の、ただ何の穢れもなく生きて行くためだけに生まれたような信仰の厚い少女の、けなげで清楚なたたずまいを見つめた。

目に映るものすべてにやさしくしてやらなければ気がすまない彼女は、いっそのこと生まれてこなかったほうが彼女自身のためには幸せだったに違いない。クイにはただ、無残に想えた。どうしようもなく、少女はその母親の妹の方に似ていた。ひたすら知的で、もの想いの深いその、どこか哲人じみた気配を曝した母親には、望んでも手に入らない清冽な気配だった。

フエの空を差す指先の意味など、クイにはわからなかった。彼女がそう想うなら、そうに違いなく、そうしたいのなら、そうすればいいのだった。フエ、百合の花、その名前の通りに、観音佛に護られた彼女がふれれば石ころでさえ百合の花々の芳香を嗅ぐのかもしれないのだから。

クイの眼差しの中で、百合の花は小さく手を振って、やわらかくあたたかい雨の中に、バイクをふかして去って行った。

風が吹き荒れた。海の向こうの島国は、とっくに殲滅されて仕舞ったに違いない。海のこっちのこんなところでさえも、こんなにも風が、横殴りに吹き付けているのだから。想った。

何人の人間たちが、どんな風景を見い出したのだろう?降りしきる豪雨と、吹き荒れる風の中で、滅びていくそのときに。

フエは、十分ほど遅れて、アンの英語学校の前にバイクを止めた。雨は降り止まなかった。すこしの間に、次第に強さを増して、その温度を残しながら雨は、太ももの、腕の、首筋の、顔の、皮膚の上を撫ぜて這い堕ちた。

アンは、その、個人が開いているあばら家の英語塾の軒先に突っ立って、絶望したような表情を曝していた。フエに気付いても、その表情をわずかに変えるわけでもない。

ほかには誰もいなかった。ただ突っ立ったままのアンに手招きしてやると、ようやくアンは、決心をつけたように、雨の中に足を踏み出した。

知ってる?

雨だよ。

...Mưa

アンが言った。

あなたは

雨ね。

Mưa…

そう。

知ってる?

フエは、自分がつぶやいたその、

…Mưa

そしてアンの

Mưa…

それら。

雨が

それらの

無造作にわたしたちを濡らして飽きもしないのだった

音声を、でたらめに

この

頭の中に、なんども

美しく

響きなおさせて、

豊饒なる

雨。

地表の上で

後ろに乗ったアンは、もっと。

激しく

しがみつけばいいのに。もっと。と。フエは、いつものように、

叩き付けるように

そう想う。

すべてを

いつもののように

破壊し去るかのように

かたくななまでに、アンは姉の体にはしがみつこうとせずに、

抱き締めれば?

そんな仕草に、もはや何の意味さえないのに。

いつものように。

わたしたちは

知っていた

すでに、すべてを

わたしたちは

知ってるに違いないのに。

もう

哀れむように、その、

すべてを

意味の分からないプライドを

もはや

声もなく

わたしたちは

笑ってみせて、

Mưa

しずかな、

雨の

やさしい雨。

その中で

明るい空に

わたしたちは

降る。

すべてを

フエ。

すでに

雨にぬれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.15.-09.19.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

scherzo; largo

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125047/read 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125077/read

 

 

 

 

 

 紫色のブルレスケ

散文

http://p.booklog.jp/book/125358/read

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


紫色のブルレスケ


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著者 : Seno Le Ma
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