閉じる


プロローグ

       この島に来たからといって

       やめられるとは限らない…。

 

 

 不吉な島影が、灰色の空、暗い海上に見えてきた。

 波も大きくうねっている…。

「そのサングラス、外しなさいよ。なんか変よ」

 ジャケット姿に合わない、ということらしい。妻のミチ子にあきれ顔で言われ、鉄男は、しぶしぶサングラスをはずした。

 四月半ばの空は、晴ればれと明るく、まぶしい。

 青く広がる海。

 小さな島はなだらかな緑に覆われ、晴天のせいもあり、まるで南洋だ。

「これで東京都なんだからな」

「東京都なの?」

「……」

 ただ、たしかに船は揺れていた。甲板にいる鉄男たちは、ときどき、白ペンキ塗りの金属の手すりを強く握り、両足を踏ん張るようにして、体を支えていた。洒落た白い専用連絡船が高速だからか。波しぶきは届かないが、潮のにおいは強い。甲板に出ている客は、ほかにいなかった。

 鉄男の胸は、どんより重い。

「おまえこそ、なんだ、その帽子…」 

 ミチ子は白いひらひらしたつば広の帽子をかぶり、それに似合うひらひらした服を着て、やけにヒールの細いサンダル靴をはき、ごく小さなショルダーバッグは斜め掛けにし、船が揺れるたびに、長い手袋をした片手で強く手すりにつかまり、よろめきそうなのをこらえている。もう一方の手は帽子のつばをおさえ、サングラスをかけた顔に日が当たらないように…。

「あれっ。いつのまに。おまえだってサングラスかけてるじゃないか」

「あたしのはUVカット加工だもん。目の中に紫外線が入ると、肌にも目にも悪いの」

 長手袋も、日除けのためだ。

 海上の日差しは強い。

「オレはどうなるんだ? 最近、日焼けは皮膚がんになりやすいって…」

「そっちのサングラスは、UVカットじゃないから……」

 ミチ子の声が先細りに小さくなる。

 もともと、そうきつい性格ではなく、おっとりしている。だいたいは、鉄男の主張に、ついてくるように行動する。そんな見かけに、ごまかされそうなところも、ある。

「え、どういうこと?」

 妻が何に気後れしているのかわからないながら、何か隠し事があるのはわかった。

「どうって…それ、自分で選んだでしょ? センスないなあと思ったけど、言い出したら聞かないじゃない」

「センス……」

 島に滞在するにあたり、持参を推奨されるもの。スポーツウェアやシューズ、水着などに加え、サングラスも含まれていたから、買った。スナイパーみたいかな? ほんとにスナイパーだと思われたら、どうしよう? それはないか、などと、内心楽しく想像しながら、地元のディスカウントショップで購入したものだった。

「に、似合ってないと思ったら、言ってくれてもいいだろう」

「まあ、でも、『そんなにしない』からいいか、と」

「そりゃ、こんなサングラス、今回のコレがなきゃ買わないよ」

「そういう意味じゃなくて…」

「なんで目そらすの」

「ううん、船が揺れただけ」

「そらしてるよ。第一、かけるの、オレなんだから、オレのセンスでいいじゃないか」

「かけてる姿を見るのは、こっち」

 おっとりしていようが、言葉がちゃんと出てくるのは女の方だ。一方の鉄男は、子供のころから、妙に負けず嫌いなところがあるせいか、強い声で主張しつづけてしまう癖がある。始まると、自分でも止まらない。

 その自覚はあって、たまに、「わたし、言葉がきつく聞こえるかもしれんが、これ、郷里の方言で……」などと、新しい部下にあえて言い訳をすることもあるのだが、方言なら、同郷・同学年の夫人がおっとり話せるのはなんなのか。営業マンでやってきた鉄男が、大事な相手にはへいこらできるのに、比較的、自分よりは下のポジションや年下の相手に対して、どなるようにしゃべるのは、なんなのだろうか。

 しかも。孫ができた頃からか。しゃべり言葉が、郷里の昔の爺さんたちのように、なりがちだ。あんな年寄りじゃないっ、と思いたいところ、よく考えると、昔の年寄りは今の自分程度の歳なのだ……。

「なんか、なんか変だよ、おまえ。はっきり言いなさいよ」

「言ってます」

「いや、なんか、引っかかる」

 日差しの中で言い合いをし、夫妻は汗ばみ始めていた。

 長手袋までしているミチ子はなおさらで、船が大きく揺れたはずみに、サングラスがずれかけ、

「あん、こっちのは高い…」

とっさに、左右の手で、帽子とサングラスとをおさえようとし、思わず手すりをはなしてしまった。

「あぶないよ」

 鉄男は急いで妻の腕をつかみ、ささえてやり、夫妻はなんとか踏みとどまった。

 決して、情のない夫婦ではない。

 帽子のつばの中で、ミチ子の汗ばんだ顔が上気し、化粧がはげかけているのが、鉄男にもわかった。若い頃を知っているだけに、お互いに歳をとった、とも思う。一方、今の妻を見ても、昔の姿がうかび、かわいいと思う気持ちがある。ミチ子も、平気でうそをつけるような女ではなく、頬に赤みを帯びさせて、いまだに目をそらせながら、懸命に足を踏ん張っている。

(ん……おや……?)

 今さっき、何か、答えのヒントを聞いたような……。鉄男は考えようとしたが、どうも、まとまらない。

 もともと、この船に乗る前から、いらいらして、ものをうまく考えられないのだ。

「ああ、もう」

 鉄男は思わず、ジャケットのいつものポケットに手を入れたが、目的のものがない。どきっとして、両脇やズボンのポケットを次々さぐり、上からたたいた。財布、スマホ、ペンはあるが…。

「ああああああ、まったくう」

 ポケットから、飴とガムは出てきた。気をまぎらわす飴と、禁煙ガムだ。鉄男は、ガムをつかみしめ、耐えた。

「うぐぐぐぐ…」

 だいたい、夫妻が、こんなに暑い揺れる甲板に出ていたのは、出たくて出たというよりは、船内が人でいっぱいだったから、でもあった。

 特に個室はなく、こぎれいな大部屋のラウンジに、固定されたソファがならび、なにやら案内など映し出す大画面が天井近くにあった。乗客はおおむね夫婦者らしく、三、四十代が多く鉄男たちよりやや若く、夫もしくは妻、または両方が、不自然に平静を装い、実はいらいらしていた。平静を装っているゆえに、ますます変な空気だった。

 そんな雰囲気だったので、

『島が見えてまいりました』

 アナウンスを聞いて、甲板にでも出てみるかと、鉄男とミチ子は、エアコンのきいた大部屋を出たのだった。

『…間もなく、ヘルシー・ロハス・エクセレント&ハッピー・リゾート・アイランド到着でございます。皆さまご承知の通り、島では、フィットネスや美容など、様々なメニューとスタッフが皆様をお待ちしております。極力ストレスなく、生活改善をしていただくべく、従業員全員が最善をつくさせていただきます…』

 ストレスなく?

 鉄男は、ガムを握りしめる。

「なんでっ…なんで、この歳になって今さら禁煙なんかっ」

「健康…」と、ミチ子。

「どこも悪くないッ」

 もちろん、この島の施設に来る前に、人間ドックを受けた。そういうシステムだ。喫煙しない同行者も。島全体がクリニックだが、すぐに治療が必要な病気があるなら、島でのんびりしている場合ではない。鉄男は、長年の飲酒・喫煙、不摂生のわりには、体重も標準以内、ほぼ健康だった。髪も真っ黒、虫歯もない。そういう男は、いるものだ。

「やめないリスクはあるでしょ」

「今まで何十年も吸ってたんだ、今後もリスクはあるっ」

「やめれば、少しは…」

「うるさーい」

 今朝早く、自宅を出るとき、鉄男は、ミチ子の目どころか、おのれまでごまかし、うっかりしたていで、ポケットに煙草の箱を入れておこうかと、かなり迷った。結局。ミチ子の、「持ってないわよね」という、微塵も悪意の感じられない一言に、ぐっと引き留められ、手を止めたのだった……。

 それでよかった。

 陸の乗船センター棟内のいくつものカウンターで、きりっとした紺の制服姿の男女受付係たちが、国際空港の入管さながら、丁寧かつ、明朗かつ、手慣れた素早さにより、

「では、お荷物確認させていただきます」

 空港以上に長さのある、ゲートをくぐった。最後にはエアーを浴びせられ、出たとたん、係員に手持ちのセンサーで全身をさっとなぞられた。探知犬を連れた係員も複数いた。

 危険物もチェックしたかもしれないが、それ以上に、煙草類を探していたのだ! 喫煙者はにおいが染み込んでいるはずだが、なにやら、検出法があるらしい。

 荷物も、衣類のポケット等も、ばたばたっとチェックされた。

 煙草を持ち込まないこと、そのチェックを乗船時に受けること、意図してでも錯誤でも持っていたら廃棄することは、契約に含まれている。驚いたことに、荷物の中などに、かなりの煙草を持っていた男たち、女たちがおり、鮮やかに見つけ出され、カウンターにどんどん出されていき、赤面したり、憮然としたり、連れに呆れられたり、していた。怒り出し、抵抗する者さえいたが、受付係たちは慣れているのか、同性の数人でとりかこみ、にこやかに、別室へと連れこんでいた。

「電子タバコもだめだなんて、聞いてないぞーっ」

「ご契約時にご説明しております」

 それを見て、鉄男は、みっともないことにならなくてよかった、と、それだけは、ほっとした……。

 しかし。

「うぐぐぐ…」

 鉄男は、紙パッケージと中身が一体になるぐらい握りしめたガムを、力いっぱい、海に投げた。あ、なにも、捨てなくても、とミチ子がつぶやいて止めようとしたが、もう遅かったし、夫がそういう性格なのは知っていた。ただし、軽いガムは風にあおられ、ほとんど飛ばず、音もなく海面に落ち、紙くずとして漂った。鉄男はますます、苛立ちと無力感に襲われ、歯をかみしめ、両こぶしで、音をたてないように手すりを叩くふりをした。

「気の毒とは思うけど…」

「オレは、強制じゃなくて自分からやめる気になったら、いつでもやめられるんだっ。なんで七十近くなって、今さら…」

 ミチ子はついに、ちいさな口の動きだけで、「伝家の宝刀」を抜いた。

「ま・ご」

 夫をからかうのが、ちょっと楽しいようでもあった。

「ううううう…」

 その時。実際は少し前から聞こえていたのかもしれないが、上空に重量感ある回転翼の音が響き、夫妻は思わずそちらを見た。一機のヘリコプターだった。機体にクリニックの名前とマークが小さく見える。日の光を反射させながら、青い空を、行く手の島へむかって、船を追い抜き、飛び去っていく。

 機影が小さくなっても音は大きく響くようで、夫妻はしばらく、毒気をぬかれて、そちらを見ていた。

「ヘリなんか、あったのか…」

「VIP用じゃない? 有名人も来るっていうから」

「整形だろ? そういう噂だ。美容整形もできるんだろ?」

「ただの噂でしょ?」

「でなきゃシャブ抜きだっ」

「もう。……女優の誰かも、来たとか来ないとか、さんざん言われてたわね。整形じゃないけど、ほんとはヘビースモーカーなんですって。整形より喫煙の方が問題みたい。それも変よね」

「ふんっ」

 そうこうするうち、島が近づき、大きく見えてきた。いくら妻に当たっても、毒づいても、逃れられるものではない。禁煙はすでに始まっており、これから二週間がヤマだ。環境をかえて継続できれば、のりこえやすいと言われているし、自分でもそんな気がする。だが、その二週間、一秒一秒、ただ耐えるのみの時間になるのだ……。

 

 年々、肩身が狭いとはいえ。小規模な飲食店では死活問題だ、などと、意外に、全面禁煙に至らなかった日本。

 煙草を売って税収を得ているのも国だ。どこかでは吸える、一生吸ってやる、と思っていた鉄男だったが……。

 禁煙が「産業」として成立し、『全員どこでも吸っちゃダメ』とは、どこにも書いてないはずの、わかりにくい法案が通過すると。現実は、怒涛のように襲いかかってきた……。


島へ

 夫妻は、大学以来、首都圏在住。

 息子が二人おり、無事成人し、独立した。子供の頃は、休日に釣りに連れて行くなど、それなりに接したつもりだが、実際は数えるほど。子育てはミチ子に任せきりだった。今は夫婦だけの暮らしだ。

 六十五歳になり、会社の定年を迎え、幸いなことに再雇用された。営業部のまま、カタカナの肩書がつくが管理職ではなく、若手を育てながら、仕事や顧客を徐々に引き継いでいく、という、ちょっと曖昧な立場だ。直属の上司は、もとは部下だった男だが、鉄男としても、みっともなく出しゃばらないようにしていたし、上司も要領よく鉄男を立ててくれる。

 再雇用にあたり、退職金の支給、社会保険の手続き、基本給の引き下げなどなど、やはり以前通りの現役ではないのだ、と感じさせることもあり、鉄男は、胸の中で、ちょっと口をへの字にしながらも、なるべく平静を装い、受け入れるようつとめていた。稼働時間も、減った。

「あのお、ええと、アレは済んでましたっけ」

と、ある日、上司が、忙しそうにデスクにむかいながら、顔をあげて言った。

「アレとは? いろんな手続きがあったから、アレじゃわからんよ」

「そうですよね。ちょっと待ってください」

「いくらでも待つよ。ひまだから」

「あはは…」

 この世代が上司になってから、ペーパーの文書は、すっかりなくなった。すべてコンピューターで作り、決済し、社内でもメールがやりとりされる。必ずしも、新卒の社員たちがPCにたけているわけでもなかったが、覚えは早い。鉄男は、長年のうちにためこんだ紙類を、自分の手で、何日もかかって、シュレッダーで処分しなければならなかった。

「まず、健康診断…」

「受けてるだろう、毎年」

「いえ。過去の記録によると…」

 上司は、ディスプレイに過去の記録を出せるらしく、かちゃかちゃと調べ、

「毎年は受けてません、三、四年か。五、六年に一度かな」

「そうか。忙しかったんだもの」

「再雇用前に、人間ドックは受けてますね。そうか…受けたのか…。でも、これは…」

 いくら仕事の手際がよく、鉄男を立てているとはいえ、こんな上位の管理職からでなくても、受けていい連絡だった。鉄男の性格は知れている。上司は、いくつかの小さな手続きをあげたあと、その続きであるかのように、言った。

「あ、これだ。これ、受けてください、『禁煙プログラム』」

 あまりに意外で、ちょっと反応できなかった。

 内容も、よくわからない。

「え」

「今年度中です。国から補助金が出るんです」

「そ、そ、そんなこと言われても」

 鉄男は寒気すら感じた。このうえ、煙草まで奪われるのか。もう、一生吸っていようと、なんとなく心づもりしていたのに。

「こ、今年度なんて、始まったばかり…」

「すぐ末になります」

 そうだった。こいつは、手際がいいのだ…。

「これ、部課ごとに達成率ノルマがあるんです。お願いしますよ」

 そこまでは、まわりにも聞こえる声でいったあと、上司はそっと手招きし、小声で言った。

「喫煙室、なくなります。近々。決定です」

「え。一階のあれが。あれもなくなるの」

 社内は、もちろん、とうに禁煙になっている。路上もだめ、もちろん電車内もだめ、都内の飲食店も、年々、肩身がせまい。冗談のように話そうとして、声まで裏返ってしまった。

「き、喫煙室なくなるの。そ、そ、それ、どうかと思うなー。ふだん会わない、いろんな部署のやつと、いろいろ雑談して、情報交換できるんだよ。女子も来るよ。多いんだ、若い女子。わたし、あんなに、若い女子たちと雑談するの、生涯で今くらいだよ」

「情報交換は、別の場所でしてください。『定年ごくろうさま休暇』も、まだ未消化ですよね。ちょうどいい、奥様といらしたら。奥様の費用も出ます。全額は無理かもしれませんが、なるべく絡めて…」

「な、なんで、女房まで? 彼女は吸わないよ」

「吸わなくても、同伴者オッケーなんです」

「で、でも、そのプログラムと、『ごくろうさま』は、べ、別のものだろう」

「別ですけど。うまく申請しておきます。そしたら、自己負担ゼロか、かなり減らせます。

年度も合うし。『ごくろうさま』の未消化も、まずいんですよ。…いいなあ、僕が定年の頃は、こんなの、なくなってますよ」

 もと部下である上司が、笑顔のまま、きらりと見た、目の冷たさは本物だった。

 そう。定年にあたり、いろいろ優遇されてきた社内規定は、どんどん廃止され、鉄男ですら受けられなくなったものが多い。とっくに廃止されるはずが、規定の改正に手違いがあり、やり直しで遅れてしまったものもある、とも聞く。入れ替わるごとく、新たな、日和見的な補助金が、期間限定で現れては消える。再雇用自体、その年、たまたま人手不足だったから、積極的になされたにすぎない。同じ部に残れたのも幸運だ。来年度は、どこへ行かされるか、わからない。

「喫煙女子かあ。うちの部も、そんなのがいれば、ノルマ達成簡単なのに。女子に人気のプログラムですからね」

「『ごくろうさま』はともかく、禁煙の方は、ほかのやつでもいいんじゃないの?」

「喫煙者、先輩だけです」

「ぼ、僕だけ? ほんとに?……ノルマは何人?」

「この課の人数だと三人ですが、喫煙者が先輩ひとりだから、ひとりでいいです。先輩を出さないわけにはいきません。社内でも知名度ナンバーワンのヘビースモーカーですからね」

 

 

 それと前後して。

 家庭でも、勃発した。

 息子たちは、それぞれ結婚し、所帯を持っている。次男が急に…急、と感じたのは鉄男だけだったが、近所にマンションを買って、越してくるつもりだ、と言い出した。長男は家族連れで地方に転勤しており、いつ首都圏に戻るかわからない。一応、兄弟で、先々の親の介護なども、視野に入れて、話をしたらしい。あくまでも、先々の話として。

「彼女も働くことにするから」

と、次男。彼女とは、その妻のことだ。

 若い夫婦には、女の子が二人いるが、まだ小さく、下は赤ん坊だ。次男がどんな男か、鉄男はよくわかっているつもりだった。つもり、だっただけか。大人になって、いつの間にか、こんな風にできあがったのか。

 それまでも、正月などに家族で顔を出しに来たり、孫が生まれるにあたって、鉄男夫妻が病院にかけつけたりと、ひととおりの行き来はあり、鉄男は孫が非常に可愛く、孫娘たちが何を好むかわからなくても、さほど懐かなくても、無理に手出しはしないものの、赤ん坊のふりまわした手が文字通り目に入っても、腹も立たず、あまり痛く感じないくらいだった。

 息子たちの妻たちは、あまり表立ってしゃべらず、何か用があれば、夫である息子たちが言ってくる。そんなものかなと、鉄男は思っていた。

 どのみち、大昔、舅姑につかえたヨメのようではない。

「こっちなら、保育園が確保できそうなんだ」

「も、もう決めたのか?」

「まだだよ。住所地でないと。でも、調べたら、都内とちがって、こっちは定員割れしてる。田舎はそうらしい」

「田舎…」

 都内通勤圏が、田舎か。

「地元の友達からも、話を聞いた。大丈夫だと思うんだ。彼女の実家だと、遠すぎるし。基本、保育園に入れるけど、手伝ってほしいとは思ってる」

「まだ赤ん坊なのに…」

「赤ん坊を預かるところなんだよ。父さんがよければ、入れないで、丸一日、ここで預かってもらってもいいけど」

 と、次男がにやりと笑ったのが、やけに皮肉っぽく見えた。それを見て、鉄男は、次男に対して、まるで知らない人間のような感覚を覚えたのだった。

「上の子は」

「学童保育に入れる。もし入れなかったら、そのときは、頼むよ」

 いろいろ相談もあり、久しぶりに長い時間、次男一家は滞在した。次男は、当たり前のように、幼い娘たちを連れ、抱き上げ、手を洗わせ、食事をさせ、風呂にもいれ、ときには叱り、鉄男の目には母親以上に子の面倒をみる父親になっていた。何もかも、鉄男には初めて見るもののようだった。自分が、子育てのとき、ほとんど何もしていないからだ。…父親から何もされなかった息子が、何故できるのだろう…。

 一方。ミチ子は、ヨメたちとも、鉄男より、なごやかに会話が持てるようだったし、もちろん、どの孫も可愛がっていたが、近所に越してきたいという提案には、あからさまに嫌がりはしないものの、いい顔もしなかった。

「しかし、意外だな。あんた、もっと喜ぶかと思ったよ」

と、夫婦だけのときに、鉄男は言った。

「だって…。そりゃ、頼ってくれるのはうれしいし、孫もかわいいわよ。でも、いいように使われるの、いやだわ。あたし、まだ、自分の時間は自分で使いたいの。あなただって、そうよ。もっと家にいるようになっても、昼ご飯くらい、自分で支度してね。まだ先は長いんだし」

「孫たちは保育園に入れるんだろう?」

 ミチ子はついに、声をあげた。

「もう! 熱出したから迎えに来てください、とか、しょっちゅう呼ばれるわよ。なんだかんだ使われるから。あなた、頼むわね。オーケーしちゃったでしょう」

「え、したか」

「し・た・わ・よ!」

 相談は、行きつ戻りつするように見えて、どんどん進んでいった。

 それが、突然、「物質」としても、現実化した。

 次男が、表情もかえずに、言ったのである。

「そうだ、父さん、禁煙してくれ」

「き、禁煙? 今だって、孫たちがいるとき、家の中で吸ってないぞ」

「外で吸って戻ってきても、成分は体や服についてくる。受動喫煙と同じだ。娘たちを近づけられない。ほんとは、今もいやなんだ」

 預かってくれと頼みに来たはずが、次男は、冷ややかなまでに断固としている。

「だから、今までも、あまりここに帰ってこなかった。彼女もいやがるし。僕もいやだ。この家にくると、こっちの服にまで臭いがつく」

「お、親にむかって…。ペット飼ってる家じゃあるまいしっ」

「最近、喫煙者が減ってるから、ますます気になるんだよ」

 もともと長男よりクールだが、どちらも、口答えしない、できのいい息子たちだと思っていたのに…。鉄男の怒鳴り癖のせいで、口では反抗しなかっただけなのか。そして今は、絶対に言い負かされないつもりでいる。

「ど、ど、どうしろと言うんだ」

「だから、禁煙だよ」

 言い切って、次男はふと、何か思いつき、明るい顔になった。

「そうだ、父さんの会社も、アレあるだろう。『禁煙補助金』、あれを受ければいいじゃないか。場所も、いいところが近くにある」

「な、な、なんだ、おまえまで」

「再雇用でも受けられるんだろ。いいよな。うちの会社、もう吸ってるやつがいなくて。さきに禁煙した連中が、文句言ってたよ。みんな、自前で禁煙外来に行ったんだから。補助金なんて、遅すぎるときに出るんだよな。あ、壁紙も全部張り替えて」

「ええっ」

「なんなら、そのカネは出すよ。こっちが世話になろうという話だ」

「かっ…」

「でも、いいか、この際、そっちでやってもらっても。何年も張り替えてないもんね。禁煙すれば汚れなくなるし。たぶん、壁紙だけで大丈夫だと思う。長年、喫煙者がいると、あちこち染みついてるんだよ、悪い成分が。カーテンは、母さんがまめに洗濯したり、消臭スプレー使ってたけど。母さんも、親父の禁煙には賛成だろ?」

 急に話の矛先が向いて、ずっと黙っていたミチ子が目を丸くした。ずっと黙っていたのは、おっとりと、父子を放置していただけだったが。鉄男はすでに、次男から言われ放題に言われながら、次男の顔とミチ子の顔を、かわるがわる見ていた。ミチ子に、あまり驚いた様子がない、と気付いたからだ。

 自分たちの子育て中、家の中では、吸わなかった。誰もいなければ、吸っていたと思う。昔は、今ほど、うるさくなく、意識しなかった。息子たちが大きくなり、独立するあたりで、家の中でも吸うことが増えた。寝室はやめてくれとミチ子が言ったので、リビングだけで吸い、ちゃんと換気扇をつけ、戸をあけて換気するなど、気を遣ってやったつもりだ。なにしろ、当節、庭で吸っていると、近所から苦情がくる。

 目をぱちぱちさせているミチ子を、父と子は見つめていた。ミチ子は、穏やかに頷いた。

「賛成。禁煙に」

 数日後、次男が、リフォーム業者を下見に連れてきた。業者は何やら、片手で持てる装置を、家中くまなく、壁や天井にあて、発がん性物質等の数値とやらを計っていった。

「そうですね。クロスと障子、襖の張り替えで、対応できます。照明器具は洗浄で大丈夫ですが、あちらのランプシェードは布なので…」

 あんなもので何がわかる。鉄男はむっつりと、ソファに座り、ぎらぎらした目で二人を睨みつけたまま、ゆっくりと煙草をくわえ、ライターの火を近づけた。話を終えた業者を、次男はにこやかに送り出し、戻ってくると、冷ややかに睨み返してきて、換気扇を動かした。鉄男は怒鳴りたく怒鳴りたくて、たまらなかったが、言葉が出ない。

 その上。ミチ子の運転する車で、一緒に買い物に出ていた、ヨメと孫娘が帰宅する物音がして、鉄男はほとんど反射的に煙草をもみ消し、急いでサッシをあけてしまい、言葉もなく赤面した。以前から、孫たちがくると、条件反射で、ここまでやってしまうのだ。次男がにやりとした。自分の負けは明らかだったのだと、鉄男にも、もうわかっていた。

 

 

 日本の国会議員の喫煙率は、一般人のそれより、はるかに高いといわれる。そのためか、受動喫煙防止や、公共の場での禁煙が、一方では、何十年も求められていながら、他方では、強硬な壁が、がっちりとスクラムを組み、あたりに紫煙を漂わせ続けていた。

 ところが。

 ある年、禁煙を推進する法案が、次々に決まった。

 特に、『禁煙支援と、生活習慣病の予防・改善のための医療サービスを中心とする、滞在型リゾート施設』の建設推進等が、国の施策として決まると。壁は突如崩れ、なだれをうって、国全体が「そっちの方」へ走り出した。

 認可されれば、大規模リゾート・医療施設を建設できる。

 しかも、島など、隔離しやすい場所の方が、向いている。島でなくても、僻地でもよい、とされたから、地方活性云々も、くっついてくる。

 過去に作られ、不良資産化した大型リゾート施設が、先を争って、手をあげた始めた。

 国も、国民の利用を奨励して、様々な補助金を打ち出す。

 東京都には、都に属する小さな島が、たくさんある。

 利用者数も見込めるため、真っ先に具体化し、開業した。

 夫妻が行くことにしたのは、その…『ヘルシー・ロハス…以下略』…ここだった……。


第一日

『ご乗船の皆様にご案内申し上げます。間もなく、到着でございます。おそれいりますが、いったんラウンジにてご着席いただき、シートベルトをお締め下さい。安全のため、いったんご着席のうえ、シートベルトをお締め下さい…』

 アナウンスを聞き、鉄男とミチ子は、ざわつくラウンジに戻った。ベンチ型のソファは直線ではなく、波状のカーブを描いて、幾列も並び、席はゆったりしていた。ほとんど満席だ。席にかけた客たちのシートベルトを、パーサーたちが確認にまわっている。パーサーたちはインカムをつけ、小型のタブレットを持っており、これだけの乗客が勝手な位置にすわっているのに、人数確認ができるらしく、互いに頷きあっている。

 鉄男は、めざとく、出入口に近い席ふたつを見つけ、ミチ子をうるさくせきたて、せかせかと、その席を確保し、すわった。

「急がなくても大丈夫よ」

「わかってる! 出入口に近いところがいい。万一のために…」

「こんな隅っこ」

「前に沈没した船があっただろう!」

「なんだっけ?」

「しーっ、大きな声出すな。みんなが気にすると、出口が混む」

「万一でしょ?」

 ラウンジに数か所、大型のモニターが天井からつられ、音楽や映像、ニュースなど流していたが、今は、船の前方、島の北側の入り江にむかっているのが映っていた。

 入り江の奥に、白いホテルのような堂々たる建物がたっている。航海中、アナウンスはくりかえす録音と、パーサーのマイクからのと、どちらも、日本語と英語が流れている。

『今、見えております、白い建物が、ヘルシー・ロハス・エクセレント&ハッピー・リゾート・アイランドの中核であります本館棟・ヴィーナス棟とヴィーナスタワーでございます。本部、受付、クリニックなど、いろいろな機能が集約されております…』

 モニターと窓から見える港には、いくすじかの桟橋も長くのび、モーターボートや小さなボートが相当数、整然とつながれていたが、連絡船は速度をゆるめ、本館棟のあしもと、平たい大きな白い構造物へと、すべるように、ゆっくりとむかっていく。

 構造物は港にはりだす巨大な片屋根だった。その下に続く海面に、船はゆるゆると入っていく。コンクリートの岸壁には、揃いのつなぎを着たスタッフたちが数人、動きまわっている。どうなっているのか、岸壁から、何本もの軸索がぴゅんぴゅんとびだし、船の所定の場所にショックもなくつながった。軸索があまりに速くて、船の側から伸びたようにも見えた。空母に戦闘機が着艦するかのように、ただしソフトに、着岸させるシステムだった。

 ラウンジの人々の口から、感嘆の声があがり、鉄男もつぶやいた。

「こりゃすごい」

「すごいの?」

「……」

 何か言い返そうかと思ったが、不機嫌にうめき、目をとじた。ただ言っただけで、鉄男も船舶にそれほど詳しくない。ミチ子も、深い会話ではなかったので、返事がなくても不満そうでもなかった。まったく。女というやつは、なぜ、答が返ってこなくてもいい質問を、するのだろう。答えたときには、別の話に移っていることもあるし…。

 発着場には、ほかにも似た船が二隻ばかり係留されていた。同じ向きで、順に発艦し、出ていくのだろう。場所には余裕があり、ほかにも一隻、やや小型だが、いかにも速そうな形の船があった。

「あれ速そうだな。あれにすればよかった」

「申し込んだコースは…」

「わかってるよ!」

 急ぐわけでもないし、申し込んだ船に乗っていることも知っている。契約項目がこまかく多くて、その場限りで忘れてしまった事柄もある。ただ、単純に、高速船に乗りたかった気がしただけで、返事がほしかったわけでは…。

『お待たせ致しました。到着でございます。シートベルトはそのまま、ご案内をお待ちください。出入口が混雑しますので、ゆっくりと…』

 出入口に近いエリアから、シートベルト着用のランプが消えていく。乗客たちは、つかのま、安堵と、うきうきしたざわめきをもらしつつ、立ち上がり、ぞろぞろと、複数のドアをめざした。

 航空機から降りるときのようなボーディング・ブリッジが、直接、船と岸壁をつないでいる。ここでは、雨でも濡れずに上下船できそうだ。台風が来たら、島に来なくてすむ…いや、台風の多い昨今、島の行き来は、どうするのだろうとあやしんでいた鉄男は、日本にはそんな観光地も多いのだから、それなりになんとかするのだろうと、納得した。

 タラップをおり、広々とした出入口に流しこまれると、にわかに、豪華で広々としたロビーとなった。海に面した外部は、堅牢なコンクリートと塗装が主だったが、内部はつやつやと磨き上げた石の床と円柱が輝き、各所に大きなフラワーアレンジメントが置かれ、静かな音楽が流れ、制服姿の従業員たちがそこかしこに居並び、訓練されたしぐさで、きっちりしたおじぎをし、歓迎の言葉を口にしていた。

「荷物をお預けになりましたお客様は、左手へお進みください」

 もう床が揺れていないのが、船に慣れない人々には、かえって妙な感覚がする。まだ昼前なのに、軽い疲労感もあった。

 広いロビーには、これまた、空港同様、ターンテーブルに、つまれていた荷物が現れ、まわり始めた。夫妻は預けたスーツケースをみつけ、鉄男が取り上げた。全部の荷物にタグがついており、従業員たちが小さなタブレットを片手に、にこやかに客を手伝い、次々と荷物を見つけ、おろしていく。

 現場スタッフには、日本人でない、多分アジア系の者がかなりいたが、多少は日本語が話せるか、スマホらしいものを携帯しており、簡単に翻訳できるようだ。

 次はチェックインカウンターへ。相当に幅広く、二十か所ほども同時に受付ているため、下船した客たちは、たいして待つこともなさそうだったし、明るい色のソファがあちこちに置かれ、座って待てるので、快適だった。

 ただ、このロビーを出ても喫煙室があるわけではないと思うと気が遠くなりそうだ。逃げ場のないイライラが続く。落ち着かない感じを抱いているのは鉄男だけでなく……客たちの半分くらいはそう見えた。

 客たちの服装などは、さしてセレブ感のない者がほとんどながら、それなりに余裕があるか、勤め先の福利厚生がなければ、来ていないだろう。船の中でも気づいていたが、見た目でわからなくても、日本語を話していない者がかなりいる。アジア圏から、わざわざ来たのだ。わざわざ禁煙に…。隆盛期にあるアジア国では、喫煙者はむしろ多い。禁煙に来る者たちは、最先端かもしれない…。

「お待たせいたしました」

 すぐに、鉄男夫妻の番がきた。にこやかな挨拶と名前の確認のあと、スタッフがカウンターのディスプレイに手を触れ、めまぐるしく、データを出したり消したり、確認しながら、言うべきことを、猛烈な早口で言い始めた。

「別送のお荷物は、すでに届いております」

 施設内の主な建物、万一の際の避難路のマーク、契約したコース…。

 毎日言っているのだろう、それでこんな早口になってしまう。そもそも最初に申し込みをしたとき、都内の施設のスタッフも、これよりは、やや時間をかけて内容を確認しながら、契約書を読み上げた。聞かねばならないが、だんだんぼーっとしてくる。長いチェックインカウンターで二十組のスタッフが各自の客に、同時に同じようなことを早口で言っているので、客たち皆が、ますます、ぼーっとしてきそうだった。

 今朝、起きたのも早かった。鉄男は、立ったまま、ぐらっと居眠りしそうになり、思わず隣の妻を見ると、ミチ子はうつむいて静かに立ったまま目を閉じており、どうも立ったまま本当に寝ているようなので、鉄男は目をむいた。

「…あんた、すごい特技があるな」

 本心から、小声で言うと、さらに驚いたことに、ミチ子は何事もなかったように顔をあげ、

「なに?」

と聞き返した。おっとりした顔つきのせいで、見分けにくい。しかし、かすかに目のはしが充血していたし、ちょうど、チラッと、よだれをすすりあげ、さりげなく指で拭いたのが見え、それも本当に気の迷いのようだったから、鉄男はまじまじと妻を見つめ直さずにいられなかった。

「それでは、おひとり様ずつ、こちらのリストバンドを手首におはめください」

 白い樹脂製の細いバンドが、トレーにのせて差し出された。

「利き手でない方が、お気にならないかと。ご入浴の際なども、つけたままで大丈夫です。伸び縮みしますので、とりはずしできますが、くれぐれも紛失なさらないよう、常に装着なさってください。シリコンですので大丈夫と思いますが、きついとか、かゆみなど出ましたら、おとりかえ致します。内臓のチップで、各施設ご利用データをとらせていただきます。GPSもついております」

「GPS?」

「はい。島内の施設は、ご契約の範囲で、ご自由にお入りになれますが、広いですので」

「そんなもの、つけなきゃならんのか」

「…ご契約の際に…」

 確かに、説明は受けていた。が、いざ本物を見ると、むらむらと束縛感がわきおこってきた。

「GPSなんてっ、アメリカの軍事衛星の技術だぞっ。ア、アメリカに位置知らせて何になるっ」

「お客さま…衛星はもう日本の……。と申しますより、ご契約時にご説明しました通り、ここは島ですので、万一の際、安全のために…」

「海に落ちて死んでも客の責任、ていう契約書にもサインしたぞっ」

 いつのまにか、だんだん大きな声になっていた 

 と。急に、どこからか、パチパチパチ、と拍手が聞こえた。鉄男たちの方が驚き、振り返った。それは、まだソファに腰かけている、若い女だった。

 ぱっちりと目をこちらに向け、真面目に、懸命に拍手している。茶色に染めたパサついた髪、ふっくらした顔。正直、あまり利口そうでなく、鉄男の目にも化粧がうまいとは思えない青いアイシャドー。美人という顔立ちではなかったが、こちらを見る顔は真剣だった。

 チェックインカウンターの二十人ほどの係員たちが、業務を滞らせまいと対抗してか、読み上げる声を高めたように聞こえた。

「ハニー…」

 女には、連れがいた。そばに立っていた若い男が、穏やかに、彼女に声をかけたのだった。すらりと背が高く細身、色白の整った小顔で、上下調和した麻のジャケットにパンツ、首元にスカーフまで巻いている。ホストか、と鉄男が思うような外見だった。

「ほら、順番が来たよ」

「でも、ほんとだもん。死んでも客の責任て書類、あったわよ」

「万一のことだよ、ハニー」

 若い女はむきになっていたが、男になだめられ、しぶしぶ立ち上がった。ホストかもしれない男が、鉄男たちににっこりし、会釈を送ってきた。カウンターにむかう女は、ゆったりした柄物のワンピースを着ており、あか抜けない感じだ。どういう関係か判然としないものの、ホストっぽい男は見た目のわりにしっかりしていそうだった。

「ハニーだって…。あんなこと言う日本人、初めて見た…」

 鉄男はその男女から目をはなせずにつぶやいたが、はっとして、ミチ子を振り返った。「もしかして、ハニーとか、呼ばれたいか?」

「えっ?」

 ミチ子はそう発したきり、考え込み、すぐには答えなかった。

「…そんなに真剣に…」

「いえ、いいわ、呼ばれたくない」

 答える前に、ミチ子の目が鉄男を頭から足先まで、きっちり見ていた。

「だよな。日本人の呼び方じゃない……。いや、あんた、今、オレの外見を値踏みしただろう。今さら亭主の……」

「外見で選んでないから」

 鉄男はとっさに言い換えそうとして、褒められたのか、けなされたのか、激しく迷った。とにかく心外だ。何か言い返したい、何かっ。欲求不満が胸にふくれあがる中、どうしてか、まったく別のことが頭にうかんだ。

「ハニーって…あの子の本名かな」

「え」

 夫婦がそんなことを言っているあいだ、カウンター係は作り笑いして、待っていた。本当は手続きをすませたいのだろうが、鉄男が怒りだしたところから説明再開なのと、「おもてなし」のため、客のタイミングを待っているのだろう。

 鉄男も思い出した。

「あ、そうだった。なんでGPSなんかっ」

「お客様…」

「あなた、いいじゃないの、それくらい…」

 イラつきやすい禁煙者に、誰かの同伴が奨励されているのは、同伴者が助けになるからかもしれなかった。

「あのぉ…ここまでで、説明は、どのくらい済みましたの?」

「はい、ええと、三分の一ぐらいでしょうか。順調でございます。もうしばらく、お付き合いください。あくまでも医療メインの施設ですので、ご説明は必要でございます。もしお忘れになりましても、客室その他のディスプレイでいつでもお調べになれます。ご安心くださいませ」

 あと三分の二。

 ミチ子は、とりなす意欲をなくし、鉄男は、言い返す気力を失った…。

 

「…以上でございます。お付き合いいただきまして、ありがとうございます。すぐにお部屋へご案内させていただきます」

 スタッフは全員、インカムをつけていた。手続きのすんだチェックイン係たちは、胸ポケットにとめていた小さなマイクを口元に近づけ、早口で何か言う。それに応じ、待機していたホテルマンがさっと歩み寄り、スマイルで荷物を受け取り、小奇麗な台車にのせ、部屋へといざなう。鉄男夫妻は、船を下りた直後より、ふらつく感覚をおぼえながら、ついていった。

 ホテルとしての建物は、期待のふくらむ広さと豪華さ、瀟洒で明るいリゾートムード満点だった。カーペットの敷き詰められたロビーを歩いていくと、布張りのソファと木製テーブルの並ぶラウンジ。そのむこうの広いガラス張りの外は、中庭の四角い池に蓮の花が咲き、回廊を超えて、青い海が垣間見える。シティホテル並みのショッピングエリアや、何か所かコンビニもあるらしい。

 二人の部屋は、回廊を南にだいぶ下って、曲がった先に並ぶ、コテージのように独立して並ぶ棟々のひとつだった。棟の間はたいして開いていないが、壁は接していない。

 ドアをあけるなり、広々とした客室。暖色のソファや、テーブルがゆとりをもって置かれ、大型テレビなどを備えている。ミチ子が帽子をぬぎ、セミロングの髪を手櫛でファサファサやりながら、ほほえんで見回す。

「あら、すてき」

「おそれいります」

 若いホテルマンは、笑みを絶やさない。

 ぴかぴかのキッチン、クイーンサイズのベッドをふたつ並べた寝室、窓のある浴室、化粧室、ウォークインクローゼットなどが揃っていた。これで、特に高いコースではない。

 手すりで囲まれたテラス越しに、青い海が見える。下り傾斜に、テラコッタ色の瓦屋根のコテージがほぼ無数に並んでおり、どの棟からも同じように海をのぞめそうだった。

 ホテルマンは、浴室や化粧室、キッチンなどの設備をひとわたり案内し、クローゼットに戻ってきた。

「お荷物確認、済んでおります。その際、こちらで封印しておりますので、ご一緒にご確認お願い致します」

 自宅から先に送った、段ボール箱一個だった。

 二週間の予定に足りる着替えなど、別送していいということなので、箱につめて送ったが、衣類を全部取り出しても、このクローゼットが埋まるとは到底思えない。夫妻は赤面しそうになった。

  ホテルマンの方は気にする様子もなく、スマイルのまま、黄色いテープの封印を示してから、夫妻の前で切り、箱をあけた。紛失物等ないか、中を改めてほしいと言う。

  煙草をひそませていないか、荷物到着時に施設側で確認するか、自分たちの到着後に確認するか、選ぶことができた。なんとなく前者を選んだので、当然、貴重品は入れていない。もう中は見られているし、ミチ子は自分の下着類は今日持参するキャリーにつめてきた。

 あらためろと言うから、ミチ子はおずおずと箱の中身を取り出し、ひとつひとつ、クローゼットのハンガーにかけ始めた。ホテルマンは嫌な顔ひとつせず、スマイルで見守っているが。日が暮れそうである。鉄男が手を出し、箱の中身をかきまわすようにして、

「いいよ。問題ない」

「おそれいります」

 ホテルマンは、リビングルームに置かれていた二台の小型タブレットのひとつを取り上げた。

「ご不明のことは、だいたいこちらで検索できます。現在地も、リストバンドを近づけてログインしていただければ、表示されます。決まっておりますご予定、選択できますメニューも、同様にご確認いただけます」

 ミチ子が試すと、施設の平面図に、すぐ、自分の居場所が表示された。

「ほんとだわ」

 手持ちのスマホも、設定すれば、だいたい同じことができる。

「ほか、何かございましたら、タブレットの通話機能で、フロントにお尋ねください。廊下などにも、同じものがございます」

 なめらかに説明を終え、ホテルマンはスマイルと一礼をもって、退出しようとする。胸の名札に、越智、とあった。実のところ、最初にロビーで案内に立ったとき、彼は名乗ったのだが、ちゃんと聞いていなかった。

 ミチ子は、衣類を片付けるつもりらしく、クローゼットへ。鉄男は、越智ホテルマンを見送るともなく、手持無沙汰に、ドアの方へと付いていった。

 越智ホテルマンが、思い出したように、意外そうに言った。

「ニコチンパッチはご使用ではないんですね」

「ああ」

 医師に勧められたが、意固地に拒否してしまった。

「あなた、この部屋というか、フロアの担当?」

「だいたいそうです。シフトもございますので、他の者も参ります。どのスタッフにも、お気軽にお声をおかけください」

 越智は、にこりとした。三十前後か、やや小柄で痩せ型。意外と、鋭敏な目つきをしている。その目を鉄男に向けたまま、行きしなに、彼の手が自分の上着のポケットに入り、何か白っぽい箱をつまんで、ちょっと出し、すぐに戻した。越智が、にやっと笑ったように、見えた。

 鉄男は、愕然とした。

 えっ?

 た、煙草…?

 だが、越智ホテルマンは何事もなかったように、微笑したまま、出ていった。

 鉄男は、呆然と、立ち尽くしていた。

 確かに、洋モクの箱だった…と思うが…。こ、こんなに厳重に持ち込みを禁止されているのに、今の今、見た? それも、自分に見せた?

 幻覚? いや、確かに見た…と思うけれども、ありえないことだ…。

「段ボール箱、たたむ? いいわよね、場所あるし。服、適当にしまっちゃった。鞄の荷物も全部出した」

 ミチ子が、のんびりと、クローゼットから出てきた。

「クローゼット、広すぎるー。服、足りなかったかしら。何か買おうかなぁ。ショッピングセンター、あったものね」

 クローゼットを埋めるために服を買うのかッ、と本来なら言いそうなところ、鉄男は突っ立っていた。ミチ子は、次に、キッチンの点検を始めたらしい。

「お茶とコーヒーがあるわ、補充してくれるのかしら。あ、自炊しようと思えばできるのね、材料も届けてくれる、ここに書いてあった。頼めば、紅茶もくれるんだ。でも、いいわよね、二週間くらい作らなくても、食事、コースに含まれてるんでしょ? せっかくだから、のんびりしたいわ。ルームサービスもあるし。でも、飽きるかなぁ。コンビニもあったわね。朝、コンビニで買って、ここで食べる? 案外落ち着いたりして。いい部屋じゃない?」

 誰も返事をしないのに、よくしゃべりつづけていられるな、それも脈絡なくッ、と言いそうなところ、鉄男はやはり突っ立っていた。

 あの白い箱は幻覚? いや、現実だったと思うが…。

 これ、禁断症状か?

 それほど自覚がないのが、かえって、不安になってきた。

「ねえ、お茶でも飲む?」

 今度は、ミチ子は顔をあげて、呼びかけてきた。

 鉄男は、ぶるぶるっと頭を振った。

「いや、えーと…アレだ、水をくれるかな?」

「うん。どうかしたの?」

「いや…なんでも…」

 大きなグラスに浄水器の水を注いでくれたのを受け取り、鉄男は一息に飲んだ。

「うーん、うまい。もう一杯」

「はいはい」

 ミチ子は笑って、もう一杯、水を注いで渡すと、自分はテラスへ出て行き、晴れ晴れと景色を楽しんだ。

「わあ、結構いいわあ。想像してたより、いい。海もきれい。リゾート、て感じ」

 台風さえ、来なければな、と鉄男は、胸の中で答えつつ、カラフルな布張りのソファにぐったりと腰かけた。

 開放的な印象だが、回廊はすべてガラスが閉じている。あくまでも「コテージ風」であって、暴風雨でも、濡れずに出入りできるのだ。

 それより、あんなに紫外線防御してきたのに、帽子も手袋もとっちゃって、テラスなんかにいて、いいのか?

 溜息をつきながら、つい、左手がポケットに。ない。どきっとして、反射的に、右のポケットもさぐった。ない。わかっていながら、両手であちこちのポケットを上からたたき、煙草とライターをさがした。ない。これで何度目だ。まだ、ドキッとする。

 わかっていた、覚悟していたつもりだったが、いてもたってもいられない、もどかしさに、鉄男はソファに全身でもたれかかったり、ごそごそ体をこすりつけたり、とにかく何か、気をまぎらわそうとした。

「あ、今、何時かしら!」

 ミチ子は急に部屋へ戻り、タブレットをとりあげた。

「あたし、フィットネスの予約をしてあるんだ、行かなくちゃ!」

 小走りにクローゼットへ。おっとりした性格とは思えないほど迅速に、カラフルなスポーツウェアとシューズに着替え、ポーチを斜め掛けにし、髪をまとめながら、足早にクローゼットから出てきた。

「あ。ひ、昼飯は?」と、鉄男。

「あとで。食べたら、すぐは動けないもの。ちょうど、参加したいメニューがあったの。あ、あなた、大丈夫?」

「だ、大丈夫だよ」

 何が大丈夫なのやら。過去、妻から、そんなことを聞かれたことがない。いつのまにか、苦しそうに、ソファに背面全体をずりずりこすりつけている夫の姿など、彼女も見たこともないとは、考えが及ばない。

「えーと、えーと…。お昼か。どうしよう。あとで会えるわよね?」

「会えるだろう。どうせ島だ」

「そ、そうよね。この部屋のキーは…」

「リストバンドで鍵があく。予定が決まってるんだろう? 行っていいよ。うまく会えなかったら、昼飯も別でいいよ。気にするな」

「そうお? じゃ。あとお願い。行ってきます!」

 自宅ではあるまいし、何をお願いされたのやら。

 別に、ただ言ったたけなのだろう。

 いちいち気に障る! いつも以上に! それは自覚していた。鉄男は、ソファに沈み込み、うめきながら、両手を力いっぱい握り、そのわりに加減して、クッションやソファをパフパフ叩いた。いい大人が、そんなものを本気で殴るわけにもいかない。

 何も思いつかず、しかし、このまま部屋にいても、腹がむずむずするような気がして、溜息をつき、とりあえず、ジャージとスポーツシューズに着替え、部屋を出ることにした。わざわざ新調したウエアだ。ジャージは、家で何か作業をするとき用の、息子たちのお古しか持っていなかった。釣りの服や、付き合いでやるゴルフウェアは別として。

 個室外の寝間着とスリッパ姿は禁止だが、スポーツウェアは問題ない。もしかして、二週間、ずっと体操服でいることになるかもしれない。体にいいフィットネス系だけでなく、気をまぎらわすシアターや、多彩なアクティビティ、文科系の習い事もあるというが。いちいち何を着ればいいのやら。

 妻のように、到着日のメニューなど決める気にもなれなかった。ここに来るまで、何ひとつ、リアルに想像できずにいた。いまもって、現実感がない。

 そのうえ、何か考えようとすると、『考えてはいけないもの』ばかり、浮かぶ。

 思い出さないようにするのは、難しかった。

 部屋を出るにあたり、持ち物を確認した。リストバンドがあれば、キーも財布もいらない。ハンカチくらい持っていればいいだろう。財布すらいらないとは、妙な感じだ。

 ポケットをたたいて……。

(ああっ、もうっ、またやってしまった!)

 妻もいない、ひとりの部屋だ。

「ちくしょうっ」

 つい、小声で悪態をつき、握った拳を前につきだすと、はからずも壁にあたった。

「あ痛ッ」

 いい歳をして、涙が出るほど痛い。拳を使ったことなど、もしかしたら半世紀ぶり。距離感が全然わかっていなかったのも、歳のせいだ。ますます、情けない。波音すら聞こえない、ガラスのぴったり閉まった静かな部屋で、涙をこらえ、しばらくうずくまっていた。

 それでも、ここにずっといるのも、いらいらしてきそうだった。鉄男は、しゃがみこんだまま、怒りの目で、部屋のあちこちをにらみつけた。ふと。さっきまで、形ばかり叩いていたカラフルなクッションに、目をとめた。

 

 鉄男は、なんとか別のものに気を向けようと、ぶらぶらとまわりを見ながら、コテージエリアを出て、メインの建物へ歩いていった。

 クッションをひとつ、胸にかかえて。ぱすん、ぱすん、と、片拳で叩きながら。ホテルの部屋のクッションを外へ持ち出すなど、我ながら、かなり変な気分だった。しかし、そのぐらい変なことをしないと、気がまぎれないような、気がした。

 ざっと、施設の全貌をつかもうと、コテージエリアを出て、メインの、なんたらいう建物へ。

 さきほどの到着ロビーを、逆方向から見る形になった。もう閑散として、何人かスタッフが通りかかるばかりだった。客の到着ピークは正午前後、チェックアウトは、それより前らしい。

 いくつものカタカナ名前のレストランもあり、喫茶もあり、ショップもあり……。とある壁に、巨大な、施設全体図が掲示されていた。足を止め、ぱすん、ぱすん、とクッションをたたきつつ、眺めた。スポーツゾーンもあり、ダンスホールもカラオケもある。言うまでもなく、医療ゾーンもある…。そのさきが…建物の輪郭だけで、薄紫色にされただけの、名称のない、かなり広い部分が…。

 ちょうどその時、ひとりのスタッフが通りかかり、「フレンドリー」に声をかけてきた。肩越しに振り返ると、まだ若い女性だった。ただし、襟章が、士官か船長のような数だ。平のホテルマンではない。

「何かお探しでしょうか? えー、今日ご到着の…」

 手にしたタブレットを見る。

「アイアン様」

 鉄男は、目をまんまるくした。

 その名で、口頭で呼ばれるとは。

 ホテルウーマンは、フレンドリーに微笑んでいる。すっきりした目元、顔立ち、きれいな肌。つやのある短めの黒髪。紺の制服のスカートから、形のいい脚がのぞいている。思わず名札を見る。小山恵梨香。カタカナでなんとかかんとかのマネージャーらしい。

「…本当に、その名前で呼ばれるんですな…」

「はい。私どもは、職員用タブレットがあれば、近くにおいでの、リストバンドをされたお客様の、お名前と『ニックネーム』を知ることができます。もちろん、ほかのお客様に聞こえるところでは、お呼びしないことになっております」

 この島にいるあいだ、ニックネームを名乗ることになっていた。

 二週間の滞在で、初対面の人々とも会う。個人情報を守りつつ、円滑に交際するため、事前に登録する。これは、禁煙に効果があるという、日常生活・日常習慣からの切り離し、という意味もある。

 しかし、本当に呼ばれると、かなり、どぎまぎした。

ホテルウーマンの方は、フレンドリーに落ち着き払っている。

「『5番や』『15番』のつかないアイアン様ですね」

 にっこりする。いろんなアイアンが来たのだろう。

「コンシェルジュをお呼びしますか?」

 呼んでもらおうか?

「いや、何も急ぐことはないし」

 また、にっこり。

「そうですね。ランチはお済みですか?」

「あー、連れを待つつもりなので」

 またまた、にっこり。

「では、ごゆっくり」

 と、行きかけたホテルウーマンが、鉄男のかかえるクッションに目をとめ、足を止めた。

「それは……。お部屋の備品……ですね」

「そうですな」

「……」

 小山嬢は、タブレットに目をやりそうになり、堪えた。規則を確認したかったのだろうが。見るまでもなく、備品の持ち帰りは、もちろん、ダメだろう。部屋からの持ち出しも、普通のホテルなら、ご遠慮ください、だ。

 しかし、ここは普通のホテルではない。

「なんか、手持無沙汰でね。苦し紛れに持ってきちゃった。何か持ってると、落ち着く気がして。もし何かしたら、弁償しますよ」

 しっかり者の恵梨香嬢、唇を微笑みの形にした。

「おそれいります。そうならないよう、お気を付けください」

「そうですな」

「できましたら、置忘れなくお部屋にお戻しいただけると助かります。部屋番号は書いてございませんので、どこかで発見されましたとき、部屋係がお部屋にお戻しするのが、ちょっと大変かもしれません」

「そうですな。気をつけましょう」

「ありがとうございます。では、ごゆっくり」

 会釈して、恵梨香嬢は立ち去ろうとした。  

「あ、ちょっと待ってください」

 この際、聞いてみよう。

「ここは何?」

「どこでしょうか?」

 平面図の、薄紫のエリア。恵梨香嬢、はきはきと答える。

「バックヤードと、スペシャルエリアです」

「ⅤⅠPがいるの?」

 落ち着き払った微笑。

「いろいろでございます」

 整形、シャブ抜き云々、といった、もっと下世話なことを聞きたかったが、妙齢の女性相手では、さすがの鉄男も気が引けた。恵梨香嬢の側から、補足してくれた。

「アイアン様はご健康と存じますが、医療ケアにやや重点を置くお客様など、別エリアにご滞在いただいております」

「来るときに、ヘリコプターを見たけど」

「はい。ヘリもございます」

「ヘリポートは?」

「ヴィーナスタワーの屋上です」

「悪天候のときは? このあたりは多いでしょう」

 ちょっと目を丸くする。

「おっしゃる通りです。強風のときなど、ほかに着陸場所を用意してございます」

「でも、飛べないときは?」

「ある程度、想定しておりますので、物資の備蓄など、ご心配ございません。ちなみに、こちらの医療施設では、周辺の島での救急患者を、可能な範囲で受け入れることになっております。特殊な手術は無理ですが、本土のドクターヘリを手配できない場合など、こちらで受け入れます。本土においでと、まったく同じでございます」

「なるほど。で、僕がいよいよ我慢できなくなって、乗せてくれっ、と言ったら、ヘリで脱出させてくれるの?」

「別料金ですが」

「おっと」

 二人は、なごやかに笑った。

「結構お高くなりますし。なんとかご無事にご滞在いただき、目標を果たされたアイアン様を、お見送りさせていただきたいです。アクティビティもたくさんご用意しておりますので、プラン内でも快適にお過ごしいただけると存じます。では、よろしければ、そろそろ……」

「ああ、忙しい方と長話してしまって」

「こちらこそ、失礼致します」

 一礼し、恵梨香嬢は、歩き去って行った。

 制服と黒パンプスの後ろ姿を見送りながら、何歳くらいだろう、独身かなあ、などと、口に出したらセクハラになりそうなことを、ぼんやり考えた。紺の制服、短めのタイトスカートの似合う若い女性には弱いので、美人度は、割り引いてみなければなるまい。制服できれいに見える女性が私服になったとき、よりよく見えるケースは、まれだ。

(越智クンの上司かなあ…)

 越智ホテルマンより若く見えたが。近頃、年下の上司も、ざらにいる。正採用と派遣の関係かもしれないし……。女性管理職は、男より厳しい場合がある。なんだか、越智ホテルマンを、心ではげましたくなってきた。若者たちは、こんな定年男の思惑などの、ずっと外にいるというのに。

 急に、越智の見せた白い箱が思い出された。

 ちょっと、ひらめいた。

(ニコチンパッチだったのかな?)

 無理するな、というメッセージだったのか? 事前検診で、パッチを拒んでしまったが、言えば今からでも、処方されるだろう。

 でも、何故、ホテルマンが持っている?

(……彼も禁煙中で、自分のだったりして。紺屋の白袴だな……)

 ふふ、と笑おうとしたが、やはり釈然としない。

 そもそも、幻覚かもしれなかったのだ……。

 ふと気づくと、クッションをかかえて呆然と立つ彼を、行きかう人々が、それとなく離れながら、それとなく見ている。恥ずかしさに、我に返った。でも。その恥ずかしさの方が、耐えているイライラを、ちょっと紛らわせてくれている。

 先は長い。島について、まだ何時間だ? それを思うと、背筋が寒くなった。

 

 考えるまい、考えるまいとしながら、鉄男は歩いていった。

 屋内スポーツ施設のエリアに入ってきた。ガラス張りの広い室内に、さまざまなマシンのある部屋。体育館もあり、球技ができる。数人で、バスケットボールをやっている。そのまわりに、ランニングコースがあり、走っている者もいる。老若男女。卓球室もあり、そちらの方が、中高年男性が多かった。

(みんな、禁煙中なのか?)

 煙草をやめると同時に、突然スポーツにいそしむのも、極端に過ぎないだろうか。それとも同伴者か。

 しかし、喫煙者のくせにランニングを始め、体力が落ちたのを感じ、禁煙したと言っていた部下もいる。子供が生まれ、家で吸えなくなり、そのままやめた者もいる。煙草代を小遣いから出さねばならず、負担にたえかね、やめた者も……。

 思えば、自分にも似たような節目があったはずが、ひとつひとつ乗り越え、何十年も続けてきたのに。こんな風に、やめさせられるとは。

(情けない……)

 妙な感慨に、肩を落とす鉄男だった。

 会社から電話でもないだろうかと、心のどこかで思っていた。電話してみたかったが、それは思いとどまった。そんな用事など、まず、ない。二週間の休みをとる前、社内外の関係者に、ことあるごとに、会話や電話のついでに、吹きまくってきた。

『ところで、二週間、休みをとることになりまして』

『海外旅行か何かですか?』

『いや、アレですよ、禁煙島』

『えっ、まだ吸ってたんですか』

 などと、興ざめな返事をする相手もいた。というか、かなり、いたが。

『おやー。ついに? こりゃー、煙草会社も売り上げ激減だー』

 などと、明朗に調子を合わせてくれる、同年配の取引先もいた。

『いやいや、たかが二週間。その間、やめといて、帰ってきたら、またスパスパやってやりますよ』

『え、いいの? 補助金の出るやつでしょ?』

『別に、あとでチェックなんか、ありませんよ。ザルですな、ザル。補助金なんて、税金の無駄遣いですよ。でも、税金納めてるんだから、たまには、使わしてもらいます。

 だってねー、申し込みとか健康チェックとか、手続きがむちゃくちゃ面倒なのに、「禁煙に成功しなくても責任は負いません」て、しらっと書いてあるんですよ……』

 その通り、長々しい書類の中に、その項目はあった。

 しかし。鉄男自身、日常に戻って、また喫煙するつもりはなかった。税金はともかく、会社も、相当な額の負担を義務付けられているはずなのだ。

 家でも、孫に近寄らせてもらえない。

(壁紙まで貼り換えた家に、入れてもらえないかもしれないぞ……)

 この滞在中に、次男が有給休暇をとって立ち合い、自宅の壁紙等々を交換することになっている。まるで、渡った吊り橋を落とされ、退路を断たれた気分だ。

 それに、これほどの苦痛を乗り越えたら。まだ半日足らずで、これほどつらいのである、乗り越えられる気がしないが、この島に煙草があるはずがなく、吸えるはずもないということは、理屈のうえでは、禁煙できるはずである。

 これほどの苦労を無駄にするなど、到底できない。

 とにかく、電話はこないだろうし。それゆえというより、待ち構えていたみたいに出るのも嫌で、スマホも部屋に置いてきた。まあ、この施設なら、電話がかかってきても、リストバンドをたどって、居場所につながりそうである。

 来るとすれば……メールだ。それを確認するために、自分からスマホを見るのも、腹立たしい。

 いつしか、鉄男は、屋内スポーツ施設の、休憩コーナーのひとつらしきところに、たどりついていた。ベンチや椅子が並び、ドリンクバーがあり、二方向の壁は厚いガラスで、マシントレーニング室の一角と、鏡張りの多目的室が、見えていた。

 多目的室では、エアロビクスらしきものをやっており、女性インストラクターを先頭に、何十人もが、とんだりはねたり、汗を流していた。まさに老若男女だが、女性の方が多いし、若い女性は少ない。

 その中に、ミチ子の後ろ姿があった。年齢相応だが、ウエストはちゃんと存在しているし、動きもきびきびしている。

 実のところ、彼女は、地元の公民館で体操のたぐいを教えている。見かけによらず、若い頃からスポーツを得意とし、主婦の余暇として、いろいろ習っているうちに、教える側になった。今回この島へ来るにあたっても、情報を吸収すべく、たくさんのメニューを「偵察」、つまり、体験しようとしていた。来る気満々だったわけだ。ただ、普段から、指導しているとは、おおっぴらにしたくないらしく、鉄男は、どっちでもよかったが、本人の希望に合わせ、自分からはひとに言わない。

 相当大音量の音楽が流れているらしいが、ガラス越しに、かすかにしか聞こえない。女性インストラクターの、高い、しっかりした声は、いくらか聞こえる。マイク越しとはいえ、あれだけ動きながら、たいした体力だ。

 鉄男は、おかしなおじさんに見えないよう、ドリンクをひとつ取りに行き、女性ばかり眺めないよう気をつけながら、ベンチに腰かけ、一息いれることにした。クッションをかかえている分、おかしなおじさん度は引きようがないが。

 と、はつらつと飛び跳ねていた参加者のうち、ひとりの男性が、急に限界を感じたのか、動きを止め、よろよろと群れから離脱した。インストラクターが声をかけるのに、手を振って返事をしたようなので、急病ではなさそうだ。

 フロアのすみにおいてあったタオルとドリンクホルダーをとりあげ、喘ぎながら出てきたのは、汗まみれの、大柄な、三十代くらいの男だった。白地のTシャツにハーフパンツ。たまたま近かった、鉄男のいるベンチの反対端に、どかっと腰をおろし、ベンチが振動した。体を折り、はあ、はあ、と激しく息をしている。

「だ、だいじょぶかね、あなた?」

 思わず尋ねると、相手は、同じように喘ぎながらも、うんうん、と大きく頷いた。

「……話しかけても、いい?」

 男は、喘ぎながら頷く。

「……同伴で、みえたの?」

 ちょっと動きを止め、ぶんぶんと首を横に振る。

「えっ、じゃ、あんたも禁煙なの?」

 うんうんと、男は大きく頷いた。

「じゃあ、同伴の方がご一緒?」

 ぶんぶんと首を横に振る。

「おや。おひとり……」 

 まことに素直な男だった。次第に息も整い、滝のような汗を拭き拭き、ボトルの飲み物を飲みながら、鉄男の問いかけに仕草で答え、だんだん声も出るようになった。

 彼も、勤め先が補助金を得て、禁煙するはめになったひとりだった。結婚しているが、妻は同伴していない。

「彼女も仕事があるので……」

 鉄男の方は、彼に興味があるというより、誰かと話す方が気がまぎれると、さきほどのエリカ女史と別れたあと感じたので、相手が拒まなかったのを幸い、チャンス、とばかり、一方的に話しかけることにしたのだった。

 第一、この島にいる以上、ある意味、同類のはずだ。

 禁煙しているか、その同伴者か、どっちかだ。

「たくさんは吸わないんですけど……」

 聞けば、名の通った大学を出て、ほぼ安泰といえそうな企業に勤めている。話の途中で、

「あ、水野と申します……」

 と、礼儀正しく名乗った。エアロビクスの場でも、最後まで律儀に動こうとしていた。

 鉄男は苦笑した。

「わたし、ここではアイアンです」

「あ。ああ、わたしは、パックンです」

 思い出して、登録名を名乗ってから、ようやく、鉄男のかかえているクッションに気付く余裕が戻ってきたようだった。

「……あのお……それ……」

「え?」

 鉄男は、クッションに馴染んでしまってか、平気でかかえこんでいた。

「ああ、これ。部屋のクッション」

「ですよね……」

「なんか、持ってると落ち着く気がして。さっき、スタッフの女性に怒られかけたけど、大目に見てくれたみたい。禁煙さえできれば、ほかのことはね」

「ああ……」

 パックンこと水野は、あまり受け入れられない顔つきながら、あからさまにはしなかった。

 しかも、話題がない。鉄男にもその自覚はあったが、かまわず、同じことを何回もヘラヘラ聞く。

「しかし、頑張るねえ。失礼だけど、ふだんも運動されてるの?」

「いえ、あまり……」

「急にあんなに張り切って、だいじょぶかい?」

 パックンは、あらためてタオルに顔を埋めながら、深いため息をつく。

 その頃、通路の人通りが多くなり、多目的ルームで飛び跳ねていたグループも、インストラクターの指導のもと、クールダウンに入っていた。施設案内を無言で映し流している、壁面の大きなディスプレイに、レストランの案内とランチメニュー画像が現れ、目を引くようになった。

 とっくに、昼だ。

「わたし、特に予定ないんだ。とりあえず、食事にします。じゃ、無理しないで」

 鉄男が立ち上がると、意外にも、パックンは顔をあげ、まわりを見まわし、言った。

「あの……ご一緒していいですか?」

「ああ。いいですとも」

 並んで立つと、パックンはたっぷり頭ひとつ、大きい。歩きながら、いまだに湧き出る汗をタオルでおさえている。

「シャワーとか、いいの?」

「午後もあるんで……。あ、汗臭いですか?」

「いや、全然」

 

 パックンは、前日から来ているとのことだった。二階の、レストラン街のようなエリアへ案内してくれた。

 鉄男は相変わらず、左にクッションをかかえ、右こぶしでバスン、バスンと、パンチしながら、わざと口角をあげていた。笑いたくないときでも、口を笑いの形にすると、気分が上向くと聞いたことがあるし、新しい連れがいるので、それなりに愛想をよくしたかったのだが、ひきつった不吉な作り笑いになっていた。

 パックンは、横目でクッションを見て言った。

「それ、ぬいぐるみにしたら、どうでしょう。売ってますよ、きっと」

「えっ、ぬいぐるみ?」

 クマ? 羊? パンダ?

「い、いやだよ! みっともない!」

「……そ、そうですか」

 クッションもみっともない、とは、パックンも言わず、鉄男に至っては、何故か、ぬいぐるみの方が異次元のみっともなさに思えた。

 和洋中華アジアン、さまざまなレストラン的なものもある中、パックンが、ここでどうてすか、と示したのは、広々と明るい、バイキング形式のビュッフェだった。すでに、ずいぶんな客が入っているが、席にはまだまだ余裕がある。

「いろいろあるね。いいね」

「先に席を取りましょうか。それを……」

 控えめに促され、鉄男は、今はクッションが邪魔だと気付いた。これまた控えめに示されたエリアのテーブルに決め、樹脂製のカラフルな椅子に、クッションを置く。パックンは、タオルと飲料ボトルを置いた。

 トレーを持ち、バイキングのカウンターを眺めると、かなりの種類の料理が並び、カウンター内に、白衣・白帽子・マスクのスタッフがいて、補充をしているようだった。

 ローストビーフなど、高そうなものもあり、料金はコミコミだから、余分に払うわけでもない。なるべく高いものにしてやろうかと、鉄男は意気込んだが、和食系を見ると、ごはんも、白米・麦飯・五穀など選べる。とろろもあったので、

(麦とろにしようかな…)

 魚も、『オーダーにより、お焼きします』と但し書きがあり、選べる魚名がホワイトボードに書いてあるばかりか、ガラス張りの冷蔵ケースに実物が並んでいた。

「塩鯖、焼いてくれる?」

「はい、お焼きしますよ!」

 白い完全衛生防備とマスクごしにも、スタッフの「おばさん」は本当にフレンドリーだった。焼けたら運ぶので、「塩鯖」のプレートを持っていけと言う。鉄男は、麦ご飯にとろろ、アサリの味噌汁、酢の物、高野豆腐の煮物、塩鯖待ち、という、当たり前すぎるニューに落ち着いてしまった。

 パックンは、自分のトレーを整えつつも、こちらに目配りしていたらしく、手招いて、

「ここにリストバンドを」

 トレーを置いて、リストバンドをかざす場所を、教えてくれた。

「無料じゃないの?」

「これで、カロリー計算してくれるんです」

 画像として映すだけで、だいたいのカロリーと栄養価を、自動計算する。

 禁煙すると太るケースもあり、データをとるサービスがついているのだ。

「……そういえば、そんな説明もあったね。忘れてたよ……歳かね」

「いえ、僕も、昨日その場になって、思い出しました。そんなもんですよ。スタッフも教えに来ますよ」

 勝手自由なバイキングでも、広い部屋の周辺各所に、白シャツ紺ベストの男女スタッフが配置され、にこやかに目配りしているようだ。

 トレーを手にした鉄男は、あれ、席はどこだっけ、と、思う間もなく、大柄なパックンに導かれ、無事、テーブルにトレーを置いた。

「あ、お手拭き、いります? 水も、持ってきますね」

「あ。悪いね」

 大柄な体格にもかかわらず、パックンは腰軽く、使い捨て手ぬぐいや、水を取りにいってくれた。

 鉄男は、樹脂製の椅子に腰かけ、クッションを抱えなおすばかり。賑わう室内に目をやり、ふと、気付いた。

「なあ、パックン。若い女子、あまりいないね?」

「え、そうですね。やっぱり、連休前の平日だからじゃないですか? なんのかの言って、休みにくいでしょう」

「きみは?」

「僕のとこは、連休も誰かしら出るんです。今、休んで、連休に出勤します。ここ、この時期の方が安いですし、自己負担もおさえられるからと、彼女が……」

 値段か! 自分は出さずにすんだので、気にもしなかった。会社によっては、自己負担が発生する。

「そ、そう。統計では、女性の喫煙率の方が、低いしね」

「それはどうでしょう。統計に正直に答えてるか、わかりませんし」

と、なかなか冷静だ。

「だよねー。うちの会社、喫煙室に女子が多いんだよ。あ、奥さんも連休は出勤?」

「それは……ちがうんですけど……」

「あ、ああ……」

 なんとなく、立ち入った話になってしまったかと、鉄男はうまく話題もかえられず、むぐむぐした。

 所在なく目をやると、さらに入ってくる利用者たちの中に、一群の女性たちがいた。カラフルなフィットネスウェアのまま。六十代か、もしかしたら七十代と見えるのに、おしゃべりが弾んで、まことに賑やかだ。全員でテーブルをともにするつもりらしく、何人かがいそいそと席を確保しに行った。不慣れな者に、トレーの取り方など、手取り足取り、教えている者もいる。その、教えられている側に、ミチ子がいた。

「おや…」

 ミチ子も夫に気付き、明らかに、顔が曇った。指南役にこちらを示し、おずおずとひとりでこちらへやってきた。

「おや、奥さん。もう、あんなに友達ができたの?」

「さっき、エアロビで一緒だった人たちなの」

 ミチ子が、隣のパックンに、見覚えがあると気づいた。

「あら」

「家内です」

「あ、そうですか」

 パックンはただちに立ち上がり、社会人らしい挨拶になったのち、

「さっき、エアロビを途中でぬけた方よね? 大丈夫?」

「大丈夫です。ちょっと、ついていけなくて……」

 頭をかくパックンに、ミチ子は微笑み、夫に言った。

「あなたこそ、こんなに早く、お若いお連れができるなんて」

「たまたまね。つきあってくれてるの。あんた、あっちへ行っていいよ。皆さんとランチするつもりで来たんだろう?」

「いいの?」

「いいよ、こっちは気にするな。せっかくの女子会のじゃまなんか、できるか」

 相変わらず、物言いはきついが、ミチ子は慣れている。ぱっと顔を明るくし、それじゃ、と、パックンと会釈をかわして、小走りに仲間たちの方へ戻っていった。

「焼鯖のかたぁ」

 白衣のスタッフが、盆にのせた焼鯖を手に、さがしに来た。

「あ、こっちです」

 目ざとく「焼鯖プレート」を鉄男のトレーに見つけ、返事をしたのは、パックンだった。大柄で指も丸まっちいのに、あれよと言う間に動く。

「奥様はご同伴ですか?」

「そうだけど、あっちはあっちで、来たくて来たんだ。いろんなこと、したいんだって。わたしとは同級生だし、遠慮がないの」

「お若いですね、奥さん」

「気を遣わんでいいよ、気楽にして。あんたも禁煙だよね? ただでさえストレスなんだから」

「そうですね……。ありがとうございます」

「では、いただきます」

「いただきます」

 焼きたての塩鯖が、いい匂いだ。

「アイアンさん、普段もそんな感じですか。だから、太ってないんですね……」

 パックンが、横目でのぞきながら言うので、そちらを見ると、パックンのトレーが、ほとんど大皿の生野菜や海藻などのサラダ類で占められていたので、鉄男は驚いた。

「あんた、若いのに、それだけ⁉」

「ええ……なんとか痩せようと思って……」

「禁煙と同時に減量も⁉ そんな無茶しなくても!」

「学生時代と比べて、十キロ以上、太ってしまって……。禁煙すると太るというじゃないですか、気をつけて、この機会にと思いまして……」

「そ、そうなの……」

 箸をつけかけた自分の昼食を見下ろす。

「なんか、気が付かないで。ごめんねぇ。目の毒じゃない?」

「大丈夫です。何食べていいか、よくわからないんです。好き嫌いもなくて、あまり考えたこともないくらいで。アイアンさんのを拝見して、ああ、和食いいかも、と思ったとこです。気にしないでください」

「そう。じゃ、ほどぼどにね」

「はい」

 ミチ子の女性グループは、まだトレーを手に、にぎやかに、料理を選んでいる。せっかく動いたのにカロリーがどうの、と言っているのが聞こえる。

(何が、カロリーだ……)

 六十過ぎの婆が、太ってようが痩せてようが、たいした違いはない。ま、男好きかするか、しないかは、あるものだが、それは太ってるか痩せてるか、ではない……。

 などと、いつのまにか、不機嫌な顔で、きゃぴきゃぴ老女グループを見やっていた鉄男に、パックンが遠慮がちに尋ねた。

「あのぉ……ほんとは僕、お邪魔でした?」

「えっ、なんで?」

「その……脚が……」

「え」

 言われるまで気付かないのも、びっくりな話だったが、見てショーゲキ、鉄男の片足は、はげしい速さで貧乏ゆすりをしていた。

「あ」

 止めようと思っても止まらない、思わず箸を放り出し、それをパックンがキャッチし、鉄男は膝に手を置いて、止めようとしたが、何故か止まらない。

「ううううう」

「アイアンさん!」

「ふんっ!」

 と、下腹に力をこめ、両手でおさえて、どうにか膝を止めることができた。

「パ、パックンのせいじゃないから!」

「わかりました! わかってます! 一応、聞いてみたくなりまして……」

 あらためて見ると、室内の何人かの男たちの膝。何かを待っている者、食事を終えた者、全員ではないものの、すごい貧乏ゆすり率だ。

「皆さん、がまんしてますからね」

 と、受け止めた箸を置いてくれる。

 初めて入った広いビュッフェの、明るい賑やかさにまぎれ、気付かなかったが、自分同様、顔をかすかに歪め、耐えている中高年が、実は大勢いるのだった。

「わあ……気が付かなかったねえ……」

 パックンは、生野菜を口に入れ、噛んでいたため、黙って、うんうん、と頷いた。

 「みんな、耐えてるんだねえ」

 噛みながら、頷く。

「昨日も、こんなだった?」

 噛みながら、ちょっと考え、小首をかしげ、頷いた。

『だいたい、こんなものでした』

と、答えたい風に、見えた。

 噛む回数を数えているようだ。

「もしかして、三十回噛め、とか、誰かに言われた?」

 こくりと、真顔で頷く。

「そうかあ……。あんた、やると決めたら、やるタイプだね。禁煙も減量も、きっとうまくいくよ」

 パックンは嬉しそうに、ぱっと明るい表情を、こちらに向けた。が、噛んでいた口を止め、全停止した。回数がわからなくなったようだ。

「あ、ごめん、ごめん。邪魔したね。ええとね、十七回目くらいだったよ、今」

 パックンは素直に頷き、また噛み始めた。いい加減な数を言ったのだが……。こっそり見ると、パックンにもそれはわかっていそうな、笑みをうかべていたので、何故か安心した。

 ようやく、まだホカホカの塩鯖に箸を入れ、油がじわっと……。

 その時。そう遠くないところから、いきなり、男の怒声が響いた。

「あんた! あんただよ!」

 心当たりはなかったものの、ビクッとしてしまったのは、鉄男だけではなく、周辺に座っていた者たち、だいたい皆が、声の主をさがして見まわした。

「汗臭いんだよっ!」

 パックンが反応して顔をあげたが、まだ野菜を噛んでいた。

 低く、言い返す男がいた。

「なんだよ、俺のことかよ」

「決まってるだろう! わかんないのかよっ!」

 鉄男はようやく気付いたのだが。

 広い室内には、カラフルな樹脂の椅子で組んだテーブルと、落ち着いた茶系の合皮の椅子で囲んだテーブルと、二種類あり、エリアも分かれていた。スポーツウェアで実際にスポーツしていたらしい客は、だいたい、カラフルな樹脂の椅子に。ゴルフウェアのようなカジュアルであっても、運動してたわけじゃないらしい客たちは、合皮の椅子にかけている。樹脂の方が汗を拭きとりやすいか、あるいは……こんなトラブルを避けるためなのだろう。

 しかし、どちらのテーブルにも、連れ同士の混在もあり、区画されていると言っても、目立つほど距離はなく、言い争いは、ちょうど境界に、互いに背中を向けあって座っていた男二人が、肩越しに、始めたのだった。

 ドスのきいた低い声以上に、目つきがきわめて険悪だった。

「てめえのオヤジ臭の方が、よっぽど臭えよ!」

「なんだと!」

二人とも、四、五十代か。背丈は中背程度だが、スポーツしてたらしい方は、がっちりとして黒く日焼けしている。ゴルフウェアの方も、色白で小太りに見えたが、相撲取りタイプとでも言おうか。どちらも、顔つきといい、目つきといい、腕に覚えがありそうな雰囲気だった。こんな真昼、酒を飲んでいる様子もないのに、まるっきり本気だ。

 黒ベストのスタッフたちが、平静に、さささっと、あちこちから素早く歩み寄ってきたが、多すぎる必要もないのか、互いに、ベテラン野手のように、近い四人ばかりにまかせ、他の者は、もとへ戻って行った。

「お客様、よろしければ、お席をお移しします」

「なんで、オレがっ」

 あいだを遮るように、それぞれ、ひとりのスタッフがひとりの客に、にこやかに話しかけ、もうひとりずつのスタッフが、トレーを手にフロアを見回し、客のオーケーが出るまで待機している。

 男たちは押し黙り、スタッフのすすめに従い、席を立ったが、互いに、目と目でにらみ合っていた。スタッフはすみやかに、食べかけの食事をトレーに移している。

 フロア中の客たちが、ほっと安堵の息をつき、鉄男も同様だったものの、

(大の大人が……)

 しかし、その気持ちはわからないでもない。

 ごくん、と、パックンが野菜を噛み終えて、飲み込んだ。

「みんな、気が立ってるねぇ……」

「そうですね……。……あの……」

「ああ、君は汗臭くないよ、ほんとに。少なくとも、ワタシは大丈夫だ」

「よかった」

 

「で、どうなったの?」

 夕方遅く。夫妻はようやく、部屋で再会した。

 沈みゆく夕日が、空を染め、海を染め、波をきらきらと輝かせているのが、テラスいっぱいに見えて……いたが。

 先に戻った鉄男は、そんなものでは気がまぎれず、しばらく所在なく、クッションを抱えてソファに座ったり、寝室のベッドに寝転んだり、うろうろ歩いたり、していた。そのあと、ミチ子が戻ってきて、話しかけようと口を開きかける前に、

「先にシャワー使っていいかしら?」

 午後も、何やら、飛んだり跳ねたりしていたらしく、ご機嫌で、まっすぐバスルームに入ってしまった。鉄男はまた、うろうろしたり、座ったり、寝転んだり、テレビをつけてみたが面白いものもなく消し、クッションをベッドに投げつけ、予想外にはねかえって床に落ちたのを、思わず小走りに拾いに行ったりした。

 ようやく、ミチ子が、備え付けのバスローブをまとい、洗い髪を拭きながら、尋ねたのが、それだった。

「て言うか、なんだったの、あれ?」

「なんだったの? 同じ場所にいたじゃないか」

「遠くて、よくわからなかったのよ。大勢で、しゃべってたし」

「イラついた男同士が、汗臭いだの、そっちが臭いだの、言いがかりをつけあってただけだよ。すぐスタッフが来て、席を移動させて、おさまったよ。まったく……みんな、イライラしてるから、あんたも気をつけろよ。あんたは、何してたんだ?」

「あたしは……、あのままおしゃべりして、もう一コマ、エアロに行って、お茶して、おしゃべりして、ヨガに行って、ちょっとだけ水分補給しながら、おしゃべりして……。そんな感じ。あら、海、きれい~」

「あの奥さんたちは、みんな旦那の同伴なのか?」

「うん、たぶんね」

「たぶん? そんなに喋ったくせに、たぶん?」

「だって、やっぱり初対面だし、それほど立ち入ったこと話さないわ。自分から話すひともいるけど。ずっと同じひとたちといたわけでもないし」

「ずっと同じ相手じゃないのか?」

 ミチ子は、あきれ顔だ。

「そりゃそうよ。別メニューに行くひともいるし、たまたま、また同じメニューに行ったひともいるし、新しいメニューで一緒になったひとも……。そっちこそ、ずいぶん早く、お友達ができたじゃない?」

「偶然だよ。エアロビクスから放り出されて来ただけだ」

「あなたも何かやれば? ヨガなら、そんなにきつくないわよ」

「やだよ! 禁煙だけでも苦痛なのに、なんでまた、やりたくもない健康生活をしなくちゃならないんだ! だいたい、みんな、どうして、ガツガツ一日中スポーツなんかしてるんだ! 体に悪いんじゃないか?」

「人間ドック受けて来たんだから……」

「そういう意味じゃないっ! 日本にリゾートなんか根付くわけがないっ、そういう話だよ!」

 鉄男はベッドに大の字になり、手足をばたつかせた。

「はいはい、わかりました。あ、夕食どうする?」

「お友達と行くんじゃないのか?」

「誰とも約束しなかったわ。晩御飯くらい、旦那さまとご一緒しないと。皆さんも、そうだったんじゃない?」

 ミチ子は、髪の拭き具合を確かめながら、バスルームの方へ歩いていく。

「ルームサービス、取るんじゃないのか?」

「そうも言ったけど。来て早々だし。あのランチの場所は、スポーツの合間のヒトでも使いやすいビュッフェだったみたいよ。ほかのレストランも見てみない?」

「オレはどっちでもいいよ!」

「あ、出るんなら、お化粧しなくちゃ。それもなあ……」

「だから、どっちでもいいってば!」

 と、鉄男が叫ぶ間もなく、バスルーム手前のパウダールームから、ミチ子がドライヤーを使う音が響き始めた。

「あ、ごめーん、聞こえなーい。ちょっと待って」

 ドライヤーを使い始めたら、聞こえないのはわかっているはずのに、何故、会話の途中で行く⁉ 鉄男は、目もくらむような憤りに、ベッドの上で、はあああああ、と息を吐きだし、手足をバタつかせ、ばたん、と大の字になった……。

 

「お待たせ~」

 ミチ子が、ドライヤーとブラシで髪を整え、出てきてみると。

「あら……?」

 沈む夕日に染まる海が、窓の外に広がり、やや明るさの衰えた寝室のベッドの、カバーの上に、鉄男は大の字になり、大いびきをかいて、眠っていた。

「あなた?」

 何度も声をかけても、鉄男はびくともしない。

「えー……」

 ミチ子は、しばし考えた。

 リビングへ移動し、タブレットを取り上げた。禁煙者の同伴家族として、「禁煙時の禁断症状」について、一応、聞かされる機会はあった。

 そのひとつ、強烈な眠気。

(え、これがそう?)

 ミチ子は彼女なりに迷い、考えたが、

(起こしても、またイライラするだけだから、かわいそうよね…)

 本心である。かといって、夫だけ部屋に残して、食事に出るのも……夫が目覚めたときのために、書置きを残すのが、面倒だった。

(しょうがないわね…… )

 タブレットで、館内サービスを調べるうちに。

(そうか。そうしよう)

 自分の夕食を、ルームサービスで頼んだ。部屋着用の楽なワンピースに着替え、ホテルマンがワゴンを運んでくるのを迎えた。銀のカバーをあけると、焼き立てのステーキに付け合わせの温野菜、サラダ、スープ、ライス、ワインのボトルと、グラス二つ。充分、運動し、明日もあるので、タンパク質を補給。

 夫は呑兵衛だが、部屋にアルコールはない。自分はワインを少しだけ飲み、食事をし、半分残ったライスを、キッチンのラップで包み、冷凍庫に。

 さらにタブレットを取り、館内のコンビニへ電話。

「賞味期限が明日の昼頃まであるのを届けてもらえます? ええ、それでいいわ。お願いします」

 配達を待つ間に、次男から、様子を尋ねるメールが来た。

『問題なし』

 言うべきことを全部次男に押し付け、おとなしぶるヨメを思い出し、鼻をしかめるだけで忘れることに決め、メールを返した……。

 

 鉄男は、ぱちっと目を開いた。

 暗い部屋に見覚えがなく、ぎょっとして、跳ね起きた。

「えっ……」

 服のまま、ベッドに寝ていた。ナイトランプをつけると、隣のベッドに、ミチ子が眠っている。枕もとのテーブルに、便箋が一枚。

『冷蔵庫にサンドイッチとワインがあります』

 真夜中だ。

 寝てしまったのか……。

 そこまで思ったのだが……。

 また、ばったりと倒れ、眠ってしまった。 


第二日

 翌日、午前。

 鉄男は、ヴィーナス棟三階、はめころしの大きなガラス越しに、空と、コテージのたくさんの屋根、海の垣間見える、静かな休憩室で、三十ほども並ぶ黒革の寝椅子のひとつに、寝転がって……爆睡していた。

 朝は、ミチ子と、コンビニサンドイッチとコーヒーの朝食をとり、ミチ子はまたもや何かフィットネスをやりに行った。

 禁煙者である鉄男は、一度寄ってください、との連絡を受け、シャワーを浴びてから、医療エリアへ行った。もちろん、前日と同じく、クッションをかかえ、拳で叩きながら。実は、クッションを忘れて居室を出ようとし、はっと気づいて、寝室の床にころがっていたのを、拾ってきたのだが。

 診察室で、血圧・体重を計られ、医師の問診を受けた。

「体調はどうですか?」

「最悪です!」

「禁煙以外では?」

「何も!」

「ニコチンパッチ、出しましょうか?」

 もう何度目か、医師が気楽に言うのだが、

「そんなもの、いりません!」

 不必要なほど意固地に断った。

「ご予定は?」

「何も決めてません! 何かしなくちゃいけませんかね⁉」

「いえ、別に」

 医師はソフトに微笑み、何か体調に異常があれば申し出てください、とだけ言い、鉄男はカーテンの外に出た。

 別の診察室の、カーテンの中では、別の医師が、別の禁煙者に、雑談的に何か欲しいものはあるかと聞いたらしく、

「煙草ください!」

と、相手が大声で真剣に訴え、医師に迫っているらしいのが聞こえた。

「そ、それはダメです……」

 カーテンの外のカウンターに、男女の看護師がおり、まったく驚いていなかったが、声のする方には、油断なく目をやっていた。

「煙草ください!」

「それはダメ……」

 二人の看護師は、鉄男には、にっこりと会釈した。彼ぐらいの不機嫌さは、普通なのだろう……。

 ともあれ、何もしないでもいられない。だが、おしつけがましい健康メニューはまっぴらだ。

 コンシェルジュに声をかけられ、文化的なクラスや、シアタールームもあると勧められたが、じっと座っているのが我慢ならない気がする。かといって、居室に戻るのも、絶対イライラする。

 コンシェルジュが、やたら、タブレットで案内をするので、思いつき、

「紙の新聞はないの?」

 けんか腰で言ってしまったが、コンシェルジュはあっさり、いくつかのラウンジや喫茶室、そして図書室に置いてある、と教えてくれた。持ち出さず、その場で読んでくれとのことだった。

「朝刊が届くのが、昼になりますが。ご希望でしたら、毎朝お部屋にお届けするよう手配いたします。明日以降となりますが」

「あ、ああ、それはいいです」

 教えられた場所の中から、鉄男は、三階のここに来てみた。入口や、各席のサイドテーブルに掲示がある。

『お静かにお過ごしください』

 それがルールの、休憩室のようだった。

 ぱらぱらと、男性ばかり、寝椅子の背もたれを好みの角度にし、休息したり、タブレットをささえる架台で動画か何か見ている者もヘッドホンを使い、確かに静かだった。特に常駐スタッフはいない。

 ラックに、日刊新聞、スポーツ新聞、雑誌など豊富にあった。確かに、まだ昨日の朝刊だ。かまわず、一部とり、すぐ近くにあいていた寝椅子にころがって  間もなく。

 眠気を覚えるいとまもなく、眠りに落ちたのだった。

 どれほどかして。

「アイアン様……失礼します」

 誰かが声をかけ、そっと肩をゆすった。

「失礼します。血圧はかりますね」

 はっと目をさますと、自分は全開に開いた新聞を腹の上に広げ、ほぼ大の字で眠っていた。傍らに片膝をつき、手際よく血圧をはかっているのは、女性看護師だったが、医療エリアにいたのとは制服が微妙にちがい、医療キットのバッグを肩にかけている。巡回するような役目らしい。

「ご気分は?」

「えっ……ど、どこも……」

 看護師は、血圧は問題ないと言い、微笑し、少し顔を近づけて、耳打ちした。

「いびきをかいておられましたので」

「えっ……」

「こちらでは、お静かにお願いします。では」

 看護師はそっと立ち去っていった。

 鉄男は、ぼーっとしたまま起き上がった。見回すと、ほかの寝椅子にいた人々が、ずいぶん少なくなっているような……。

 自分のいびきがうるさくて、よそへ行ってしまったのだろうか。眠っていた自覚がないほどの爆睡状態だったため、時計をみて、一時間以上たっているのに驚いた。

 各サイドテーブルに、ファミレスにあるような呼び鈴のボタンがあり、『ここでは音は鳴りません。点灯しましたら、スタッフが参ります』と小さなプレートがついている。

 苦情でもあったのだろうか。

 看護師は、体調をみるのを口実に、起こしに来たのだ。

(は、恥ずかしい……)

 どこかよそへ行こうかとも思ったが、起き抜けのだるさもあり、億劫だった。ほかの、どこへ? 居室に戻り、ひとりになるのも、嫌だ。鉄男は、ほとんど考える力もなく、また瞼と頭が落ちそうになったのだが。

(あっ、クッションは?)

 びっくりして、さがした。ちゃんと、体のわきにあった。新聞をむやみにガサガサさせてしまい、別の客がこちらをちらりと見た気がして、赤面した。

 と。

 細長い室内の、はるか反対端の椅子に、女がひとり、こちらに背を向け、腰かけている姿が見えた。うつむいた、染めた茶髪や、年恰好に見覚えがある。

(あれは、ハニーちゃんじゃないか……)

 しかも、うつむいた顔に片手をもっていく様子が。

 泣いているようだ。

(えー……)

 さっきの看護師は、気付かなかったのか? 自分は入口近くにいる。苦情を受け、いびきをかいている自分だけを起こし、とっとと立ち去ったのか。なんて、マニュアルちっくなんだ……。

 鉄男は、批判がましく思うとともに、気が気ではなかった。女の子が泣いても、なんとも思わなかったのは、せいぜい半世紀前。その後、目の前で女子に泣かれるなど、冠婚葬祭を除けば、ほぼ、ない。ま、テレビドラマを見るだけで泣いている、おばさんたちは別として。ただし、部下の女性に突然(と感じるのは鉄男だけで、まわりには理由がわかっているらしい……)泣きだされたことはニ、三回あり、あたふたしたあげく、何がどうなってか、ことは収まるのだが、理由も結果も鉄男にはわからず、彼に残るのはモヤモヤだけだった。だから、決して得意なジャンルではないのだが、前日、見知っていた娘だ、知らない相手ではないと感じていた。

 そっと立ち上がり、クッションを抱え、どきどきしながら、そちらへ近づいた。ためらいはあったものの、

「あのぉ……」

 若い女は、びっくりして振り返った。やはり、目元を濡らして、泣いていた。しかし、驚きの方がまさっている。思ったとおり、チェックインカウンターで遭遇した、『ハニーちゃん』だった。

「だ、だいじょうぶかね?」

 女は答えない。

 むしろ、ありありと不審者を見る目つきだった。

 もっともである。鉄男はとたんに、声をかけたことを後悔したが、慌ててしまい、どうやってこの場を切り抜ければよいか、まったくわからなかった。

「あ、あの、あのあのあの……わ、わたしは……」

 が。

 女の目が、クッションに向けられた。

「あ、クッションおじさん?」

「えっ。な、なんのこと?」

 ともに、声をあげてしまい、誰かが寝返る気配がした。静かにしなければ。鉄男は手まねで声を落とそうと示し、女は、ぽかんとしている。

「わたしを覚えてない?」

「えっ」

「ほら、昨日。チェックインのとき。拍手して、応援してくれたじゃないか」

 女は、相当な時間、目を見開いて、思い出そうとしていた。鉄男はあやうく、人違いしたかと、気持ちがグラつきそうになった。

「あー、昨日のー」

「声が大きいよ。やっと思い出した?」

「クッションおじさんだったのね!」

「僕、アイアンなんだけど……。そのクッションおじさんて、何?」

「SNSにあがってるの」

「なんだってー!」

 また、誰かが、うるさそうに身動きした。女は不思議そうにしている。鉄男は何をどうしていいやら、片手はぎゅっとクッションを抱き、片手をやたらふりまわしてから、『お静かに』のプレートを指さした。

 女はようやく、そのルールを知ったらしく、驚いて、片手を口にあてている。

 鉄男は、とにかく事情を聞きたくて、同じ寝椅子の、女と触れ合うほどではない位置に腰かけ、小声で尋ねた。

「そ、それ、どういうこと?」

「どうって……」

 女は、こぶりなショルダーバックから、スマホを出し、ささっと何やら画面を操作し、見せてくれた。施設内の、どこかの廊下を歩いている鉄男の姿。禁煙島で耐えるひとりとして、誰かが写したらしい。

「なっ!」

 鉄男は、また大声を出しかけ、思わず、がばっとクッションを顔に押し当てた。まさか、自分の姿が世界にさらされる日がくるとは。ショックと不安に、いやな動悸がし、冷たい黒雲に覆われる心地だった。クッションの隙間から、はあはあ息をし、耐えがたいものを耐えようとした。

「だいじょうぶ?」

「あ、あのさ、ハニーちゃん……」

「ハニーちゃん? やだ、あたし、ハニーじゃないです」

 否定しながらも、女は照れて、体をくねらせるようにした。静かにすべき場所だということを、また忘れてしまったようだ。

「だから、彼にも、そんな呼び方しないで、て、最初は言ってたんだけど。なんか慣れてきちゃって」

「頼むよ、きみ。ちょっと場所をかえないか? その、それのこと、教えてほしいんだ。SMS? わし、そういうの、よくわからなくてね」

 ふうん、と、いうように、女は頷いた。備え付けのティッシュを一枚とり、バッグから小さな鏡をとりだし、目元の涙をおさえ、立ち上がった。

 今さらながらに、足音をしのばせ、二人は、廊下へ出た。鉄男はクッションに顔を半分埋めたまま、歩いた。廊下を行く客の姿は多くなかったが、すれちがう人に、その姿を見られるのと、顔を見られるのと、どっちが恥ずかしいか、わからない心境だった。

「あ。あんた、気分でも悪かったんじゃないの? さっき、看護師が来なかった?」

「来たけど。妊娠初期で情緒不安定なんですと言ったら、すぐ行っちゃった。みんな、そう。実際、そうなんだし」

「そうなの?」

 

 同じ階の、そう遠くないところに、これまた広いラウンジがあり、ガラス壁ごしに外ののぞめるテーブルに、席をとった。

すぐに、スタッフがドリンクのメニューを持って来た。

「何か、お召し上がりになりますか?」

 女はメニューを見て、オレンジの生ジュースを見つけると、それをオーダーした。

 鉄男は、いっそビールでも、ぐっと飲みたかったが、まだ昼前だ、アイスコーヒーにした。深いため息をつき、クッションを腹にかかえる。

 女は、少々ふっくらした体形のせいか、外見からは妊婦とはわからなかった。

 世界にアップされてしまった画像のことを聞くために、つきあってもらったのだが、聞き方もわからない。さっきまで泣いていた相手なので、詮索したくはなかったが、少し事情を聞いてから話す方がいいかと、なにげない風を装い、遠慮がちに尋ねた。ただ、鉄男には演技力がなく、すべて丸出しだった。

「……じゃ、お連れの彼が、旦那さん?」

 女は、あっさり答えた。

「婚約してるだけ」

「そうなのか。まあ、でも、赤ちゃんは……」

「うん」

 彼との子だ。女は、自分の本名を名乗った。近頃の、漢字にふりがなをふってもらわないと読めない名で、よくあることだが、鉄男には覚えにくかった。ニックネームは、

「ガガ」

「なんだっけ、それ?」

「いいの。忘れて。後悔してるの。でも、ニックネーム、一度決めると、変えられないんだって。サイテー」

 そう言われても、すでに本名を忘れてしまった。あとで聞きなおすチャンスをつかまえようと思いつつ、鉄男は一応慎重に、穏便な方角をさぐった。

「ええと……ま、おめでたなんだ? おめでとうございます」

 祝いの言葉に、女は、こくんと頭を下げた。その目に、また涙がうかびかけるのを見て、鉄男は、神や仏に助けを求めたくなったが、女自身が、紙ナプキンを取り、目元を抑えた後、ちーんと鼻をかんだので、その場は救われたようだった。

「ご、ごめんねぇ、初対面なのに、あれこれ言って。失礼なこと言ったかね? わし、若いひとと話す機会があまりなくてね、失礼なこと言ってたら、勘弁してね」

 職場で若い女子を泣かせたことがあるなど、鉄男自身は、よく覚えていない。

 しかし、女は、けなげに、首を横に振った。

「オジサンのせいじゃないんです。ほんとに、情緒不安定なの。あたし……どうしよう……」

 妙なことになった。アップされた画像のことを教えてもらえばいいはずなのに。

 鉄男は、女が紙ナプキンを目に押し当て、涙をこらえ、アイメイクが崩れないよう、押さえるのを待つしかなかった。わずかな思い付きで、聞いた。

「つわりは、ないの?」

「ないんです」

「……誰が禁煙してるの?」

「あたし……」

 そう言うと、女は、わっと泣き出した。紙ナプキンを次々と取って、口に押し当て、嗚咽を隠そうとするが、隠れない。

 ラウンジの視線が気になり始め、鉄男は、またもや、後悔した。

 なんで、こんなことに。

「ま、まあ、落ち着いて」

 スタッフが歩み寄ってきた。すると女は、リストバンドをはめた左手をぐいっと差し出し、決まり文句のように、スタッフに言った。

「妊娠初期で、情緒不安定なんです」

 スタッフの腕の、時計サイズのディスプレイが、リストバンドに反応したらしい。それを見て、スタッフは、失礼致しました、と引き下がった。妊娠初期で情緒不安定、なる情報が確認されたのだろう。

「いつでも、お呼びください」

 ちらりと鉄男の方を見つつも、会釈して、立ち去った。入れ違いに、別のスタッフが、飲み物を持ってきた。

 女は涙を押さえつつも、生ジュースが来ると、ストローを差し込み、すううっと飲んだ。飲食に集中するタイプらしい。

「な、何がそんなに悲しいの? 彼も優しそうな二枚目じゃないか」

 女は頷くが、言われるほどに、涙が出るらしい。

 しばらく。

 鉄男は、脱出もできず、女の身の上話を聞く羽目になった。それで? などと相槌を打ったりもしたのだから、彼にも、責任がないわけではない。

 女は、訥々と、語る。

「……うち、親が離婚して。その前から、どっちとも、うまくいってなくて……。高校をギリ卒業して……。その前から働いてたから、独立したけど、その給料じゃ暮らせなくて、夜のバイトもして……。でも両方は続かなくて。キャバ嬢だけ、やってたの」

 キ、キャバ嬢?

 けなすわけではないが、この程度のルックスと素養でも、できるのか、と思いつつ、鉄男は聞いていた。

「そ、そうなんだ。く、苦労したんだね」

「そうでもない。多いわよ、そういう子。で、彼はお客だったの」

「え」

 呆然。

 女は、不思議そうだ。

「どうかした?」

「いや、いや、あのね。彼もシュッとした二枚目だろ? 彼の方が、夜のお仕事かな、と思ってたもんで。失礼だけど」

 失礼だけど、を言ってしまうと、かえって墓穴を掘るのが、鉄男の常だったが、本人は気付いていないのだった。

 そして、女も気付かなかった。

「ああ、前はホストやってたんだって。それでお金貯めて、友だちと飲食店始めた。調理は友だち、営業と経営は彼。彼も料理できるけど。器用で、なんでもできるから。うまくいって、三店舗目を開くところ」

 それは、簡単な話ではない。

「ほお。才覚あるんだねえ」

「たぶんね……。あたしのいたお店にも、仕事のつきあいで、たまたま来たの。そのあと、ひとりで来てくれて、同伴してくれたり、でも無理言わないし。売上のきつい時に来てくれたり、とても助かった……。

 だけど……彼が、キャバ嬢やめた方がいい、て言い出したから、ちょっと嫌な感じがしたの。そういう男、いるじゃない?」

「そういう男?」

「心配だから、とか、なんとか」

 心配だよ。だからと言って、手も口も出せないけど、と鉄男は思った。

「昼間の仕事を紹介すると言われて、断れなくて行ったら、彼の店の事務所だったの。事務なんか、やったことない。役にも立たないのに……。そこで、最初に彼とお店に来た人たちと偶然会っちゃって、みんな驚いて、変な感じになっちゃうし……。

 でも、その……。彼と付き合うことになっちゃって。付き合いだして、すぐ、妊娠しちゃって……」

「……」

 さすがの鉄男も、返す言葉もない。これらが、数か月か、数週間か、どれほどの期間に展開されたか、ちょっと想像がつかない。

「それで……婚約?」

 女は、そっと頷いた。

「うん……。妊娠したのを彼に言ったら。彼、驚いたけど……喜んでくれた……。彼も親が離婚してるから、家族を作りたかったんだって。そのとき、露店みたいなところで、指輪買って、はめてくれた」

 女は、ちんまりした自分の左手を見やった。

 言われてみれば、薬指に、小さな黒い石のはいったリングがはまっている。若い子の安いファッションリングにしか見えない。

「あとで、ダイヤのも買ってくれたけど。しまってあるの。あたし、ドジだから、なくしそうだし。こっちの方が落ち着く……」

 何故か、ダイヤ、大きそうだなと思いつつ。

 安物のファッションリングを見る女の表情に、鉄男は、唐突に好感を抱いた。

 彼にしては珍しく、穏やかな気持ちで、言った。

「……それで、結婚なさるんだね? 生まれたあと?」

 すると。指輪に目を向けたまま、女の見開いた目に、また涙がうかんだ。

 えー? 何を言うと泣かれるか、こんな歳になっても、予想できない。

「すぐにでも、て、彼は、言ってくれたんだけど……」

 女の大きな目に、涙がたまっていく。

「子供が大事だったら、なんでもできそうでしょ? あたしも、子どもができたら、大事にしたいと、思ってたの。たぶん、なんとなく、だけど。大事に、温かく、育てたかったの。たぶん、そう思ってたの……それなのに」

 女の、見開いた目から、涙が流れ落ちた。

「煙草がやめられないの! おなかの子供が大事だったら、即、やめられるはずでしょ? それなのに、やめられない。あたしって、サイテー……!」

 顔をくしゃくしゃにし、紙ナプキンを次々と引き抜き、丸め、目をおさえ、口をおさえ、嗚咽をもらす。

「か、か、彼は吸わないの?」

「吸わない。ホストやめるとき、やめたんだって。飲食店を始めるの、決まってたから。意志が強いのよ」

「じゃ、家に煙草ないんだろう?」

「ないけど……。外で誰か吸ってると、ねだりたくなっちゃうの。我慢できない! 事務所にも、吸うひといるし。禁煙だけど、休憩の時、外で吸ってる。知らない相手でも、公園とかで、ねだっちゃう。もう、あたし、ヤク中みたい! 彼がいないと、買っちゃって。捨てられない。彼が見つけて、毎日捨ててる。だから、ここへ……」

「ハ、ハニーちゃん……!」

 真昼間、少なからぬ人のいるところで、若い女がありありと泣いているのだ。妊娠初期で情緒不安定だとわかってるスタッフのひとりくらい、助けに来ないものだろうか? 鉄男は助けを求め、急いで見回したが、スタッフたちとは目が合わない。

 そのかわり。

 ちょうど、ラウンジに入ってくる、ひとりの青年が見えた。かなり遠かったが、まぎれもない、ハニー嬢の婚約者だ。

 こちらを見つけ、笑顔もなく、まっすぐに、むかってきた。コツコツと、洒落た靴の音をたてて。

(えー……!)

 鉄男は身の危険を感じ、何を言おうか考えたが、まったく間に合わなかった。長身の青年は脚も長く、あっという間に、目の前に達していた。鉄男を見やったが、意外にも、すんなり、ハニー嬢のうしろにまわり、髪に口づけた。

「ここにいたのか、ハニー」

 そう言っただけで、さっと、外に面したガラス壁にむかい、下を見下ろした。

「どうしたの?」

「見てごらん」

 

 女が彼のそばに立ち、見下ろした。鉄男も、好奇心に勝てず、立ち上がった。光を加減できるガラスだったが、間近に立つと眩しく、女も鉄男も、手をかざして影を作った。

 見下ろせる中庭は、建物にそって細長く、おおむね芝に覆われていたが、真四角の蓮池がいくつも並び、ソテツの植え込みで整然と囲われ、さらに回廊で囲まれていた。よく見えない真下には、白いデッキチェアがずらりと並んでいるようだが、寝そべっているような人影はなかった。

 テラスの中央に広い空間があり、責任ありげな黒チョッキの男性職員がひとり、タブレットを見つつ、立っていた。もうひとり、スポーツ施設の制服である青色のポロシャツを着た、筋肉ムキムキの男も、足早にやってきた。

 そこへ、数人の男性スタッフたち、黒ベストたちと青ポロシャツたちが、相当に重そうな、大きな白いマットのようなものを囲んで、一気に、ひきずるように運んできて、素早く広げた。

 マットには、ほぼいっぱいに、大きな円がひとつ、黒い線で描かれており、中央には、短い二本の平行線。マットではあるが、相撲の土俵を連想させる。テラスに固定できるらしく、男たちがセットするのを、ムキムキが素早く見てまわり、確認し、責任者にうなずいて見せた。

 次に、建物から、二人の男が、現れた。それぞれ、ヘルメットとボクシンググローブ、防具をつけている。一方が赤、一方が青。各自のまわりを数人ずつの男性スタッフたちが囲んでいるので、二人というより、二群れだった。

「あっ」

 二人が誰だかわかり、鉄男は思わず、声をあげた。昨日の昼間、言い争った男たちだ。女も、彼らに見覚えがあるようだ。青年に聞く。

「あの二人? また、何かあったの?」

「また?」

 と、鉄男が口をはさむと、女が答えた。

「夕べ、レストランでケンカ。今朝も、朝ごはんのバイキングで、なんか、もめて。毎回、黒服さんに止められてたけど」

「夕べ? 昨日の昼間も、やっとったよ」

 青年が、両方に答えた。

「うまが合わないみたいだ。また、どこかで会っちゃったらしい。で、今回は、何か解決策を提案されたみたいですよ」

 ラウンジの客たちも、様子に気づき、次第に何人か立ち上がり、同じように下を見下ろし始めた。さらに、廊下から、何人か客たちがラウンジに走って入ってきた。

「ここから見えそうだ」「こっち、こっち!」「え、何があるの?」

 皆、ガラスに額を押し当てるようにして、見下ろす。急に人が増えてきて、鉄男たちはガラスに押し付けられてしまった。

 下のテラスでは、二人それぞれ、ムキムキに、グローブや防具の確認をされていた。その間にも、責任者の黒ベストが、タブレットを見て、何か読み上げている。例の、何かあっても責任負いません、的な説明だろう。

それがすむと、二人は、マットの中央へ導かれ、二本線の位置で向き合わされた。ムキムキが、双方に戦意を確認してから、ファイト! と手真似した。それらを、責任者がタブレットで録画し始めている。

 二人は、防具のせいで、すでに動きにくそうだ。色黒は青、色白は赤の、ヘルメット・グローブ・防具。膝当てまでつけている。

「いいぞ、やれー!」

と叫んだのは、ラウンジの見物人の方だった。

 外からも、室内の遠いテーブルからも、どんどん増えて、ガラス際に集まり、下を見ようとする。鉄男たちは、押されて、ガラスにおしつけられてしまった。すると、下方の、建物の端ぎりぎりが見え、一階にも見物人がかなり集まっているのが、わかった。さまざまなアクティビティより、リアルな殴り合いの方が刺激的なようだ。

(なんと、決闘か!)

 小競り合いばかりしているので、防具つきの安全な状態で、決着をつけさせようというのだろう。わざわざ、大勢に見えるところで。無論、あの様子では、施設側が急に用意したわけではない。

「ねえ、なんで、まだ何もしないの?」

と、女が尋ねる。

「ハニーちゃん……素人が急にあんな恰好させられて、そうそう殴りあえるもんじゃないよ」

 そう、見物人たちの盛り上がりのわりに、二人はまだ、ぎこちなく向き合っているだけだった。

 が、そのとき、ひとりが大きくパンチを繰り出した。がっちりした色黒の方だ。対して、むっちり色白の方が、なかなかの恰好でガードしたが、どのみち、パンチはグローブをかすっただけのようだった。

 しかし、ギャラリーは妙に盛り上がる。

「おっ、行けっ」

「いいぞ、やれっ」

 見物人が、さらに増えていく。何があるんだ、と疑いながら、入ってくる者もいる。野次馬は、何だかわからなくても、来てしまうようだ。

 ひしめきあい、鉄男たちは、ぐいぐいガラスに押しけられていく。押されたハニー嬢を、婚約者の青年が、ガラスに、ぐっと腕を突っ張って、かばった。

 鉄男も、ガラスに押されまくった。たまたま押されてきた別の誰かが、どーんと手をつき、それ以上押されないようにしたので、鉄男もかばわれた格好になった。顔をあげると、

「あ、パックン!」

「アイアンさん!」

 がっしり、かばわれるのは、妙なものだったが、助かった。こんないい場所に来たのに、パックンも、何を見物しに来たのか、わかっていないひとりだった。今日はスポーツウェアではなく、カジュアルな服装だ。

「ア、アイアンさん、ここ、何があるんですか?」

「知らんで来たのか、きみ。ほら、あの二人が……」

 また野次馬が歓声をあげる。下を見ると、今度は色白がパンチ、色黒がガードした。二人とも、懸命に腰を落とそうとしているが、足元はぐらぐらだ。互いに、また一発。また一発。打つ方はグローブに振り回され、打たれる方は防具に振り回される。マットも、もしかしたら、転倒に備えて、弾力があるようだ。

 二人は、肩で息をし、向き合っている。次に、いつ打つのか。いつまでやるのか。いつ終わるのか。どうやって、終わるのか。ギャラリーが、口でははやし立てながら、ぼちぼち飽きてきたころ。セコンドはついていなかったが、レフェリー的にマット上にいたムキムキが、のぞきこもうとした、ように見えたとき。

 色白が、赤いグローブの右手を差し出した。色黒が、ややあってから、青いグローブの右手をおずおずと差し出し、二つの右グローブが触れ合った。お互い、戦い疲れて、変な感じに手を出してしまったかのようにも見えた。が、色白が両腕を広げると、色黒も応じた。二人は、抱き合い、お互いの肩や背中をぽんぽんと軽くたたいた。

 見物人たちは、しばし、なんだかわからなかったが。

 和解したのだ。

 そう悟り、あんぐり口をあけたり、やっと終わったと、伸びをして位置を離れようとした者もいたが。パンパンパン! と、誰かが大きく拍手を始めると、にわかに祝福ムードとなり、誰もかれもが拍手を始めた。

「よかった、よかった!」

「おめでとう!」

「感動をありがとう!」

 鉄男たちはまた、ガラス際に押された、下方でも、ギャラリーたちが、さかんに拍手をしているようだ。抱き合う男二人を、ムキムキも、派手に称えた。スタッフたちも拍手している。男二人は、いかにも仲良さげに肩を組み、ギャラリーに手を振りながら、建物の中へ入っていった。

 見えなくなると、ラウンジの見物人たちも、潮が引くように離れていった。残されたのは、クッションをかかえた鉄男、ハニー嬢、その婚約者、そして、パックンだった。

 パックンは、何か話そうとしたが、未知の二人を鉄男の連れと思ったのか、ではまた、と会釈して、立ち去っていった。

「あ、パックン……」

 いいのに。身体が大きいわりに、気をつかう男だ。

 この二人だって、知り合いというわけでは……。

(ええと……?)

 なんで、この二人と、一緒になったのか。

 青年も、不思議そうに、ハニー嬢の顔を見て、説明を待っている感じだったが、ハニー嬢は何も気づかず、ぽかんとしている。

 鉄男は、おのれのかかえているクッションに気づき、思い出した。

「あっ、そうだった! ほら、あの、ハニーちゃん! アレだ、アレ!」

「あれ? なんだっけ? あっ」

 鉄男は、何をどう説明していいか、わからない。ハニー嬢は、わかっているが、説明がうまくない。二人して、青年に、アレだのコレだのと、うったえる格好になり、青年は目を丸くしたが、

「まあ、すわりましょう」

 元の席に戻って、三人で座をしめ、ハニー嬢が自分のスマホで画像を見せると、こともなく状況を理解し、にっこりして、鉄男に会釈した。

「そうか。クッションおじさんでしたか。初めまして」

「いやいや、それじゃ困るんだよ!」

「わかってます。冗談ですよ。他人の画像をアップしちゃダメなはずでしたけどね……」

「そうだった?」

「契約書にありました。そうは言っても、あげてる人はいますけどね」

 青年は振り返り、ラウンジのスタッフを呼び、画像を見せながら、責任者と話したい、どこへ行けばいいかと、てきぱき尋ねた。鉄男は、異国で、外国語の話せる同朋に出会った心地がした。

 スタッフが真顔になり、自分のタブレットでも画像を探してから、こちらでお待ちいただけますか、と言って、小走りに立ち去った。

 ハニー嬢、鉄男を青年に紹介しようと思ったようだ。

「えっと……クッ……じゃなくて……。なんでしたっけ?」

「アイアンだよ、ハニーちゃん」

「……あたし、本名を教えたのに」

「すまん、覚えられない……」

 あっさりあきらめ、ハニー嬢、青年に訊く。

「翔のニックネーム、なんだっけ?」

「ホテイ」

「あ、七福神の」と鉄男。

「えっ、布袋って七福神なの?」

「ハニーちゃん、七福神を知っているのか」

「うん、あの、船に乗ってるのでしょ? えー…じゃ、ほかの6人は誰……?」

 大問題かのように、考えこむ。

「……ハニー、君が思ってるミュージシャンの布袋と、七福神の布袋は、別だ。まあ、どっちでもいい。ただ、『さん』や『様』を付けて、呼ばれやすい名前を思いついただけなんだ」

「それは、うまい……!」

 この青年、やはり、なかなか頭が切れるようだと、鉄男は感心した。

 やがて。それなりのポジションらしい年恰好の男性スタッフが、足早に現れた。座っている三人に対し、立ったまま、腰をかがめ、青年の説明を聞く。文字通り、低姿勢である。

「SNSに、許可なく他人をアップするのは、NGでしたよね?」

と、ホテイ青年。

「おっしゃる通りです。ただちに、こちらのお客様に削除要請をさせていただきます」

と言ってから、鉄男の顔をうかがう。

 何か言わねばならなかった、と、わかったのは、青年がもろもろ読み取って、かわりに答えてくれたからだった。

「では、とりあえず、早急に削除を。ほかは実害が出たら、ご相談ということで。今は、そんなところでいいですか? まだ、お気づきになったばかりですし。ご自分はSNSをなさらないので、ちょっと考えないと。アップした方は規則違反ですよね。とりあえず、謝罪していただいてもいいかなと思いますが」

 青年が、鉄男と責任者、双方の顔を見ながら、話をさばいていく。鉄男には、よくわからない。

 まったく! ひと昔前なら、経験で若い者に助言できたはずなのに。近頃は、わからないことだらけ! 若い者に頼ることばかりだ!

 この場のことだけでなく、押し寄せるものがあり、鉄男は無念さに目を閉じた。

 青年と責任者が見守っているのにも気づかず、鉄男は目を閉じたまま、深いため息をつき、目をあけた。

 びっくりし、目を見開いた。

 二人と、ハニー嬢に、見守られている。

「謝罪……してもらいます?」

 青年が、うかがう。

 鉄男は再び、諦観にまみれ、目を閉じた。

 問題のクッションは、あいかわらず、抱きしめたまま。

「……いや、どっちでもいいよ。何がなんだか、わしにはわかってないから……」

 実は、どっちでもいい、は、責任者側は困るようだった。

 青年が、かわりに返事をした。

「では、けじめとして、謝罪してもらいましょう。実害が出た場合のことは、そのとき、ということで」

 鉄男がようよう頷くのを、青年とともに見届け、責任者は、のちほどご連絡させていただきます、と、最敬礼して、立ち去った。

 とにかく、一段落ついたようだ。

 鉄男は、はあっと、さらに深く息をつき、ぐったりとソファにもたれこんだ。

「ありがとう……。本当にありがとうね……。すっかり、お世話かけちゃって……。きみたちがいなかったら、何をどうしていいか……」

 ぼそぼそと、言う声も、だんだん小さくなっていく。

「いいんですよ」

「大丈夫、アイアンさん?」

「……いや、もう、ほんと……君たちがいなかったら……」

 やけに疲れ、安堵するうち、しばし忘れていたものが、鉄男の中で、むらむらと沸き起こってきた。忘れ去るということは、できないものである。クッションをつかみしめ、ううううう、と長くうめいたあと、腹の底から、大声で叫んだ。

「一服したいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 今の今、一服したい。

 歯ぎしりしたいほどだ、いや、してしまっている。

 もともと、地声が大きい。

 ラウンジが、ほんの一瞬、驚愕のあまり、静まり返ったあと、妙な沈黙、不自然過ぎる無視、にらみつける凝視に、空気が凍って固まったかのようになった。

 ハニー嬢が、両手でおのれの口を覆い、見開いた目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちさせた。青年が、ラウンジの人々を意識して、鉄男をなだめようとする前に、ハニー嬢が両手をこぶしにし、叫んだ。

「わかるわ! アイアンさん!」

 鉄男の手を強く掴んだ。

「行こう! アイアンさん!」

「ど、どこへ……?」

「どこでも! 叫ぼう! 叫ぶのよ! 海へ行こう! 海にむかって叫ぼう!」

「えー……」

 ハニー嬢はぼろぼろ泣きながら、意外に強い力で、鉄男の片手をつかみ、ぐいぐい引っ張っていく。止めるかと思われる青年まで、ラウンジを見やり、促すように一緒に動き出したため、鉄男はなんの抵抗もなく、出口へむかっていた。

 低い地鳴りが、どどどどど、と三人の背中を追ってくる。貧乏ゆすりだ。一服したい人間は、当然、鉄男だけでなく、たくさんいるのだ。

 そのラウンジに、逆に、スマホをのぞきながら、楽しげに入ってくる者がいた。ミチ子だ。スポーツ系はとっくに終わったのか、カジュアルなパンツスタイルながら、街着レベルの服装だった。鉄男の知らない、連れの女性がひとりいる。

「あ、旦那さま、見っけー」

「な、なんだ、なんでここに」

「あなたの位置がここに出るのよ。やり方、覚えたの」

 と、連れの女性と、笑顔でスマホをのぞきこむ。

 連れは、白髪、小柄、地味な身なりの、健康そうな老女だった。髪の色では、年齢はわからない。ミチ子の黒髪も、染めている。

「あら、また若いお友達?」

「え、えーと。あ、ハニーちゃんだよ、あの時の。それとホテイ君。家内です」

「ハニーじゃないのに。ホテイは覚えられるのね……」

「うん、ホテイは覚えやすい」

「初めまして。主人がお世話に。ベアトリーチェです」

「こちらこそ、ホテイです」

 と、青年はさすがのスマイル。鉄男の方が、ミチ子に、

「あんた、そんな名前だった?」

「そうよ。で、こちらが……あら、なんだったかしら?」

 自分の連れのニックネームを忘れても、ミチ子も相手も、にこにこしている。

「アリスよ」

「そうでした、ごめんなさーい」

 コロコロ笑い合う。ハニー嬢は目を見開き、顔を濡らしつつも、しばし泣くのを忘れている。その様子に、ようやくミチ子が気づいた。

「どうかしたの?」

 鉄男は、言わずにいられない。

「大変だったんだよ、いろいろー。この二人に助けてもらってねー」

 ホテイ青年が冷静に遮った。

「とりあえず、ここを出ましょう」

 貧乏ゆすりの地鳴りが、まだまだこれから、追ってきていた。

 ハニー嬢が我に返り、もはや、せがむように、鉄男の手をつかんだまま、

「そうよ……海へ行こう?」

 そうか、まだ海か、と、ホテイ青年は天を仰いだが、それも一瞬。スマイルに戻り、両腕を広げ、一同をラウンジの外の廊下へ導いた。

「よかったら、ご一緒に。ベアトリーチェ、アリス」

「どこへ?」

「ちょっと海を見に行くだけです」

 ミチ子がアリスに尋ねる目を向けた。アリスは、なにやら予定があるのか、気を悪くする様子もなく、二人は別れることになり、挨拶をかわした。

「ごめんなさい、急に」

「いえいえ、気になさらないで。またお会いしましょう」

「それじゃ」

「ごめんください」

 最後尾のホテイ青年に促され、一同は、急いでいるのか逃げるのか、わからない速足で、地鳴りの響くラウンジから遠ざかった。

 ハニー嬢と鉄男が先頭、ホテイ青年がしんがりなのに、

「どっち?」

「左に曲がって」

 彼に指示されるまま、一階に降り、建物の出入口の一つを出た。

 幅広い階段の下に、白い小さな、屋根つきの車両が数台、整然と並んでいた。青年が一台の運転席に乗り込み、リストバンドをどこやらのセンサーに近づけると、音がして、いくつかランプがついた。

「皆さん、どうぞ乗って下さい」

 鉄男が急に思い出し、ハニー嬢とミチ子を後ろに座らせ、自分は助手席についた。

「妊婦なんだから、うしろがいい! ちゃんとシートベルトしめて!」

「妊婦なの?」

「まだ初期なんです……」

「あ。妊婦はシートベルトはしないのか?」

「苦しくないわね? なら、した方がいいわ」

 と、ミチ子。鉄男は、部下に運転させるときの口癖で、強く言った。

「ホテイくん! 安全運転でね!」

「了解です」

 青年は楽しそうに破顔しており、さわやかに答え、発車させた。

 電気自動車は、するすると走り出す。

 ヴィーナス棟の脇から、広いコテージエリアの外側にかけては、ヤシの木の列と植え込みに囲まれ、車は、一段低い、舗装された広い空間を、南へと走る。鉄男は右腕にクッションを抱え、左手は、車内の手すりをしっかり握っていた。

「人の運転、怖い方ですか?」

と、ホテイ青年が気遣う。鉄男、強く否定。

「いや! ただ万一のために!」

「この人、免許ないの」と、ミチ子。

「あら、そうなんですか、アイアンさん」と、ハニー嬢。

「忙しくて、取らなかったんだよ! それだけ!」

「うっそ。教習所でケンカしちゃうの。何回もよ」

「えー」

「嘘だよっ、そっちが嘘っ!」

 鉄男は言い張ったが、当人の顔・態度を含め、あれこれ、バレバレだった。女二人、くすくす笑い出し、まだ否定する鉄男に、ついに青年まで、声をたてて笑った。

「何を笑ってるんだっ!」

 言うほどに、車内の笑いは高まった。

 前方に、陽光があふれるのがわかった。

 砂浜が広がっている。

 ミチ子が、片手を目の上にかざす。

「あら。日傘も帽子も持ってこなかったわ」

「屋根のある場所があるはずです。ランチもできるはずですから。レディを困らせることはしませんよ、ベアトリーチェ」

 島の南側の湾が、砂浜になっている。建物群の方から、ビーチへと、褐色の木製のように見える桟橋風の、屋根つき通路がまっすぐのびており、おしまいには茅葺屋根のカフェがあり、南国ムードの音楽がかすかに聞こえた。砂の上にビーチパラソルとチェアのセットが並んでいる。のんびり横たわる人、そぞろ歩く人々の姿はあったが、海に入っている者は少ない。ウエットスーツのグループが、ひとりはトレーナー、ほかは生徒、小さなボードをかかえ、何かの練習をしている。ボートの音が聞こえ、海上で、パラセーリングをしている、歓声がなごやかだった。

 電気自動車はタイヤが大きく、砂に対応していたが、カフェの近くに駐車場所があり、青年はそこで止めた。

 日差しはやや強いが、ずっと海辺にいたはずが、室内にいたせいか、あらためて潮風が心地よい。

 ハニー嬢が先に、どんどん歩き出した。ヒールのない、ペタンコ靴をはいていたが、鉄男は彼女がころばないよう、手を取ろうとして、逆に自分が砂に足を取られ、ハニー嬢が振り向き、ささえてくれた。気遣われたことにも、気付いていない。鉄男は転ばずにすんだかわりに、クッションを落とし、拾った。

 やや、ざらつく浜辺を、波打ち際まで、来た。息があがっていた。

「叫ぼう! アイアンさん!」

 なんで? なんで、オレが叫ぶことになったかな?

 鉄男は、ひどく困惑し、まわりに誰もいないわけでなし、恥ずかしくも思ったが、状況を掴みきれないだけに、反論できなかった。

「あのお……君が先に……」

「アイアンさん、どうぞ!」

 ハニー嬢のきらきらする目と微笑みに、まったく悪意はなく、もしかしたら敬意さえあるように、鉄男は感じてしまった。ただの期待かもしれなかったが。

 波のきらめく、海にむかう。

 基本的なイライラと、恥ずかしいドキドキと、どちらがより強いストレスなのか、もうよくわからない。目をつぶり、はああ、と息を吸い込み、叫んだ。

「バカヤロー!」

 ハニー嬢も叫んだ。

「バカヤロー!」

 少し離れた場所で、ボードの練習をしていたグループが、こっちを見た。恥ずかしいとともに、ちょっとした快感。誰の反応もなかったら、逆に、途方もなく心細くなったかもしれなかった。

 しかし、二人が繰り返し叫び続けるうちに、グループは元の練習に戻った。むこうも半数以上、禁煙者のはずだ。優しく、理解してくれたのかもしれない。その、お門違いな感じが、鉄男の気力をなえさせていった。

「バカヤロー!」

「バカヤロー!」

 二人は、どちらからともなく、叫ぶのをやめ、しばらく肩で息をして、たたずんだ。

「……アイアンさん……気がすんだ感じ、する?」

「いや……。君は?」

「あたしも……」


第三日

 午前。

 モーターつきボートに引かれ、パラグライダーに装具で吊られて、予想外に高くうきあがり、鉄男は腹の底から声を出した。

「うわああああああ!」

「あはははははははははは!」

 二人乗りの、連れは、バックンだった。いかにも、楽しげだ。改めて、すごい体格差なので、本当にいいのか、鉄男は案じたが、係員はまったく問題にしなかった。

「うあああああああああ!」

 島の浜辺からは、だいぶ離れ、砂浜は、デッキチェアや人々が点々と見える程度だ。あとは青い空と海ばかりである。引っ張られていて、行先を決めることもできない。ヴィーナス棟、その足元に並ぶコテージ群。そして……。

「自撮りしていいですかぁ?」

「えっ、えっ、撮っていいんだっけ?」

「撮るのはいいんです、SNSにあげなければ」

 彼女、つまり妻に見せるのだろう、青空と海を背景に飛ぶ二人を、腕を伸ばして、パックンが激写……。

 砂浜の白いデッキチェア、パラソルの日陰に、ミチ子とハニー嬢がいた。それぞれ、くつろいでいる。ミチ子は、白いつば広帽子、大きなサングラス、首から足まで大判のタオルを全身にかけ、サングラスばかり目立ち、鼻が汗ばんでいた。日焼けを避ける女優はリアルにこうかも、と思わせる姿だったし、本人、落ち着き払っている。

 ハニー嬢も、つば広帽子と、大きなサングラスをつけていたが、肩や腕をむきだしにした、肩紐の細いカラフルなワンピース姿だった。全体にむっちりしているせいか、腹は特に目立たない。だけでなく、白い大きな丸っこい、ふわふわしたものを抱えており、腹は見えなかった。

 彼女は、ミチ子の「全身紫外線対策」にたじたじとするだげでなく、そのサングラスに並みならぬ興味を引かれているようだった。横目で見て、

「そのサングラス、いいですね……」

「まあね」

 砂を踏んで、ホテイ青年が両手にドリンクを持ち、歩いてきた。粋なパナマ帽、シックな色合いのアロハシャツと麻のハーフパンツ、こちらもサングラス。ドリンクを女性二人に渡した。カラフルで、小さな紙の傘やフルーツを飾ってあるが、どちらもソフトドリンクだった。

「どうぞ、マダム」

「ありがとう」

「はい、君の。ターコイズ・ブルー・ヴィーナス。……なんだろな、このネーミング」

「ありがと。でも、ジュースよね」

「今はアルコールはだめよ」

「煙草もだめ、お酒もだめ!」

「今だけだ。あと数か月。一緒にがんばろう。ね。ハニー?」

 青年が、ハニー嬢の肩に手を置き、尋ねた。

「寒くない?」

「うん、ちょっと……」

「ストール持ってきただろう? やっぱり、ここにいると涼しいね。マダム・ミチ子は正しいよ」

 砂に置いた籐編みのバッグから、ストールを出し、ハニー嬢の肩をふわりと覆ってやった。微笑むハニー嬢、微笑み返すホテイ青年。

 いかに「南の島」を演出していても、まだ四月の、東京都下の島にすぎない。日差しは強いが、しばらく座っていると風は涼しく、浜の砂は、ざらついている。

 ハニー嬢があらためて数える。

「数か月? そう?」

「授乳のあいだも、だめかな。一年くらい? そのあと吸えばいい」

「こんなに苦労して、また吸うなんて」

「じゃあ、そのまま、やめればいい」

 あやすように、青年はさからわない。そんな二人を、ミチ子は、大きなサングラスごしに、横目で見ていた……。

 そうこうするうち、鉄男とパックンが、砂浜を歩いて戻ってきた。

「面白かったですねー! また乗りましょうよ!」

「無料なのは一回だけだって」

 二人とも、半ズボンタイプの水着と、Tシャツ、ビーチサンダル、そしてサングラスをかけている。「持っていくといいもの」の中に、サングラスが入っていたからだ。実際、砂浜に並ぶパラソルの下のビーチチェアに横たわる人々は、申しわせたようにサングラスをかけていた。

 鉄男は、ミチ子の足元に置いてあった青い大きなビニール袋をとりあげ、中身を引っ張り出した。客室のキッチンに備え付けられていたゴミ用袋。中は、もはや「ご愛用」のクッションだった。

「いくらビニールに入れても。これだけ持ち歩いてたら、汚れそうね」

「もう、かまわん」

「……ほんとに効果あるの?」

「言うなっ、惑わせないでくれ。あると思いたいんだよっ」

 夫婦の会話を、パックンが、どちらの味方もしにくく、笑顔を顔にはりつけて、見守っている。

  

 前日。四人、つまり鉄男夫妻とハニー嬢とホテイ青年は、この浜辺の、ハワイアンの流れる、南の島風レストランで昼食をとった。そこで、鉄男は、SNSにあげられてしまった画像のことを、ミチ子に話した。

「ふうん。それ、まだ見られるの?」

 ミチ子は相変わらず、慌てる様子もなかったが、ホテイ青年がスマホを操作して見せるのをのぞきこむ様子は、鉄男よりは、状況がわかっている風だった。

「あんた、意味わかるのか?」

「まあ、だいたい。いろいろやってるお友達もいるから、付き合いで見るし」

「まだ、あがってますね」と、ホテイ青年。「一応、証拠として、僕の方で、保存してあります。あとで消しますから、ご心配なく。奥さんがおわかりなら、そちらでも、保存されたらいいかもしれません」

「そう? その保存のやり方、わからないわ」

「やりましょうか?」

「お願い」

 ミチ子は青年にスマホを渡し、青年はミチ子に画面を見せながら、何やら操作した。返されたスマホの画面を、ミチ子はさらに、指先で右に左に、すべらせて見ていた。こう見えて、しかもエンジンの仕組みもよくわかっていないのに、鉄男が何度もリタイアした自動車学校にまともに通い、一発で合格した女だ。この件でも、あてにしていいのかも……。

 正直、近頃の新しい、いろいろなものを、息子たちが気軽に教えてくれればいいのにと思うこともあるが、見えない壁があるかのように、敬遠されていて……。

(いやいや!)

 鉄男は、おのれの弱気を振り払った。若い者に頼る気になったら、終わりだ! それも、思い出すだに腹のたつ、次男などに!

ハニー嬢が妊娠初期で、煙草をやめられず悩んでいる、という話も、鉄男とホテイ青年から、自然と出た。ハニー嬢自身は、うつむいている。

ミチ子は、ふうん、と聞いていたが、

「つわりは、ないの?」

「全然」

「あれば、煙草どころじゃないのにね。体調は、人によってずいぶん違うから、あまり気にしすぎない方がいいわ。そうやって、考えたり、悩んだりしてるだけで、あなたは立派なお母さんよ」

 やわらかく言ったので、ハニー嬢はまた涙をこぼさんばかりだった。

「経験者の言うことだからな。安心して、ハニーちゃん。そういえば、おまえ、つわりなんか、あったか?」

「あったわよ。あなたは留守だったから」

 若い男女は笑ったが、ミチ子の顔と声に、長いつきあいだからわかる、冷やかさを感じ、鉄男は笑えなかった。

 

 そののち。四人が再びホテイ青年の運転で、ヴィーナス棟に戻ると、ちょうど、出入口あたりで職員が鉄男をさがしていた。

「画像をアップした方と連絡がつきました。今、お時間よろしいですか?」

 鉄男は仏頂面で、うなった。

 彼が不機嫌なのだと、職員は不安そうにうかがっている。

 もちろん、鉄男は不機嫌だった。禁煙しているし、基本イラついている。よくわからん世界に対峙しなければならないと思うと、壁に立ちふさがられるようだった。

「よかったら、僕らもお付き合いしましょうか?」

 ホテイ青年が提案し、鉄男は内心ほっとした。が、青年が何気ない風にしていても、面倒みてやらないと、と上から来ているのを感じ、理不尽にも、ムカついた。

 おっとりと、場を救ったのは、やはりミチ子だった。

「お願いしましょうよ。あたしたちでは、話がよくわからないわ」

「うむむむ……。そしたら! お願いしようかな! 悪いけど!」

 妙に語気が荒くなるのを、青年は笑顔で頷き、職員は一語一語、確認するように頷いて聞いた。

「では、立ち合いをご依頼、ということで!」

 フロント近くの、応接室とも小会議室ともつかない部屋へ、全員が通された。

 あとから、画像をアップした者が連れてこられた。すると、鉄男がなんとなく想像していた若者ではなく、彼自身と同年配の男性だった。まともに謝りはしたものの、話しているうちに、その男性が、自分の何が悪いのか、いや、もしかしたらSNS自体、よく理解していないうえ、その自覚がないようで、すぐ不満そうになり、話が堂々巡りを始めた。人生のどんな罠にはまったのか、いつ終わるのか、鉄男とミチ子は見守るばかりだった。

 早い時点で、男と鉄男が、「万一、実害があったら、賠償する」旨の書類に、互いにサインはしていた。辛抱強く聞き取っていた職員が、その書類について念を押し、双方、サインしたのは事実だから認めると、携帯電話でどこかにかけた。

「今、法務部の者から、お話を」

 と、彼がテーブルに置いたのは、スタンドで立てたタブレットだった。画面に映ったのは、どこかの会議室、たった今席についた、背広の男。胸に弁護士バッジ。法務部は、たぶん、東京あたりにあり、テレビ電話でつながれたのだった。

『えー、初めまして、わたくしは法務部の……』

 そのタブレットを向けられたのは、画像をアップした男だった。

「では、アイアン様はとりあえず結構でございます」

 職員にドアへと送り出され、鉄男は心底、ため息をついた。ミチ子たちも、彼に続く。

「このたびは、大変ご不快な思いを……」

 職員が、言うべきことらしい「お詫びの言葉」を、はきはき、ずらすら言うのを、鉄男は、もういいよっと止めたくなった。が、彼の片袖の端をミチ子がつかんで引っ張り、はからずも同時に、反対側の服の裾をホテイ青年が引っ張ったので、うむむむと唸り、最後まで聞いた。

「誠に申し訳ございませんでした。あちら様も、おそらくご納得されると存じます。万一、不調に終わりましたら、またわたくしからご連絡させていただきます。万一その節は宜しくお願い申し上げます」

 と、深々と腰を折って、頭をさげる。

「ああ、わかりました、あんたも大変だね」

「恐れ入ります」

 では、わたくしはここで、と職員が頭を下げつつ、そっとドアをしめる、室内では、アップしちゃった男が、タブレット相手に、不満と不服と困惑をないまぜに、だが、しかし、だけど、を連発。タブレットのむこうの声は、このような処理が初めてではないらしい。その声が大きくなるのが、鉄男たちにも聞こえた。

『えー、では、SNSそのものについて、弊社IT部門の者からご説明を!』

本社側は、人間が増えたようだった……。

 

 ようやく、ヴィーナス棟のラウンジに戻ってきて、鉄男はクッションを抱きしめたまま、深く深くため息をついた。

 一服したい……。

 したい。

 したい……。

「ううううううう~!」

 ほぼ獣のような唸り声をあげながら、椅子のひとつに座りこみ、かかえたクッションにばすばす頭をたたきつけたが、連れの三人は、格別心配しなかった。三人も、それなりに疲れているせいもあった。

「誰だ、ここへ来れば快適に禁煙できますと言ったのは!」

「快適とは言われなかったわ。でも、禁煙は続いてるじゃない? この島でなかったら、もう二箱は吸ってるでしょ」と、ミチ子。

「え、二箱? いつからのカウント?」と、ハニー嬢。

「そうねえ、あの会議室が禁煙でなければ……」

「つまらんことを言うなっ! ここへ来なければ、こんな面倒も起きなかったんだぞっ!」

 ミチ子が、気が付いて、口調をあらためた。

「あ、そうだわ。あなた、こちらにお礼を」

 そうだった。二人を付き合わせたのだった。そのくらいの分別と忍耐力は、鉄男にも残っていた。立ち上がった。

「ほんとだ。本当に、すまなかったね。助かったよ」

 ホテイ青年が、首を横にふった。

「いいえ、ちょっとでもお役に立てれば。本当に、よく我慢しましたね」

 案外、うわべでなく、男気があるのかもしれない面持……。

「我慢するの、苦手でしょう?」

と、にやり。鉄男は前言撤回したくなったが、むしろ、ホテイ青年は年相応に、ココロが顔に出るだけかもしれなかった。

「ま、そういうことね」

 と、ミチ子。

 また、この件で何かあればと青年が言って、四人は互いに携帯の番号などを交換し、その場は別れることになった。

「こちらこそ、またハニーとつきあってください。ベアトリーチェも。経験者とお話できると、彼女も安心できるみたいだし」

 ハニー嬢は、そういうことを言い出しにくかったのか、青年の言葉に、ぱっと顔を明るくして、鉄男夫妻を期待のまなざしで見た。

「そうね。じゃ、また、お食事でもしましょう」

「よろしくお願いします」

 ミチ子は、また何か行きたいものがあるらしく、ひとりで歩き去っていった。若い男女は、話しながら、ゆるゆると遠ざかっていく。

「あたし、これから、何しよう」

「ネイルでも、行けば?」

「ネイル?」指を見る。「まだいいわ」

「エステとか」

「妊娠初期なのに?」

「できる範囲のことをしてくれるよ。フェイシャル・マッサージは? 美容院とか?」

「そうね……。あ、髪染めるの、赤ちゃんに悪くないのかな?」

「うーん。なるべく質のいいもので染めればいいんじゃないか? 天然材料とか。ここの美容院で聞いてみよう」

「ネイルも……リムーバーの臭いが……」

 鉄男は、クッションをかかえて椅子に座り込み、そんな彼らを見送るばかりだった。立ち上がる気力もない。SNS騒ぎのおかげで、げっそりだ。一服したい……一服したい……一服したい……。思いつつ、クッションに顔を押しつけ……。

 

「……アイアン様……」

 耳元に、冷静な女性の小声が聞こえ、はっと顔をあげた。ここはどこ、今はいつ? というくらい、隔たりがあった。口から、よだれが……。

 傍らに片膝をつき、こちらを見ているのは、例の巡回看護師の制服を着た、若い女性だった。鉄男の手をとり、きっちりと血圧を計り始めたが、それは鉄壁の「見た目」であり、本当の目的はもうわかった。

「ご気分は?」

「き、気分は別に、悪くないです……」

 いつの間に熟睡してたんだ?

 あんなにつらく、我慢していたのに、いつの間にか寝ていて、その間の記憶はない! で、脳梗塞とか、病気でないことを、看護師は確認しつつ、苦情が出る寸前に、起こしに来ているのだ!

「わたし、いびきかいてた?」

「はい」

「……」

 

 その夕刻。鉄男とミチ子が夕食をとろうと、レストランフロアの廊下にいると、パックンと出会った。出会ったというより、パックンに、合流したい気があったらしい。

「おや。あー、晩飯、一緒にどう?」

 と誘うと、しっぽがあったらブンブン振りそうな顔で、ついてきた。

 三人で、なごやかに食事をした。イタリアンの店に入り、シェアすることにして、やはりパックンが、ミチ子の様子に気を遣いつつ、出過ぎないようにしつつ、あれこれ、腰をあげた。イタリアンで減量メニューなど、鉄男は思いつかなかったが、事情を知ったミチ子がボーイに相談すると、メニューにもそれなりの気配りはされ、ドレッシングを自分でかけるなど、あれこれ対応された。料理をシェアすれば少しずつ食べられるのも、パックンを喜ばせたが、なにしろ、一人で食事をするのが寂しいようだ。

 パックンもSNSは使っていたが、クッションをアップされた事件のことは知らなかった。ミチ子が保存した画像を見て、

「ほんとだ。この島の中では、他人を撮らないルールでしたよね」

「やっぱり、そうなのか」

「契約書にありましたし。そもそも、ひとを勝手に撮って、アップするやつ、どうかしてますよ。普段から、映り込みを気にしない人、多いですけど」

 眉根を寄せた。真面目な男だ。

 彼が鉄男をさがしていたのには、理由もあった。

「パラグライダー、やったことあります? やりません? 好きですよね、ああいうの」

「パ、パ? 空飛ぶヤツ?」

「海で、ボートに引っ張ってもらうのです」

 正直、鉄男は、大きな声で威勢のいいことを言うわりに、そういうものは苦手だった。いつも、わかったような、わからないような理由をつけて、逃げる。しかし、パックンの期待に満ちた目に押され、むにゃむにゃと口の中でつぶやくだけだった。

「きっと、スカッとしますよ!」

「スカッと……?」

 正直、頭がちゃんと働かない気分だった。うまく断れないまま、やることになった。では、明日の午前一番で予約します、とパックン。お互い、携帯番号など、交換した。

 とりとめない会話から、妊娠初期のカップルと親しくなった話になり、パックンが、野菜を噛んで飲み込んだ後、生真面目に打ち明けた。

「実は、うちも、そろそろ子どもをと思っているんです。それで、彼女が禁煙した方がいいと……」

「彼女って、奥さんのことだよ」と、無駄な小声で鉄男。

「わかってます」と、ミチ子。

 パックンは、ここでの毎食を画像におさめるだけでなく、日々の食事も撮り、SNSとやらにアップしていた。うれしそうに、見せる。

「彼女、料理がうまいんです。仕事してますから、毎日とはいきませんが」

 日々の、夫婦の食卓の画像を、見せてくれた。鉄男の目にも、まるで婦人雑誌か何かのように、きれいに整った食卓だった。毎日ではないにせよ、バラエティに富んだ朝食も含め、相当な頻度で画像を撮ってる。

 オーブンから何か取り出そうとしている、料理上手な、細君本人の姿もあった。小顔で色白、ショートカットの、小づくりな女性だが、目つきが、しっかりしていそうだ。

「御馳走だねえ」

 ミチ子も、ほめていたのだが。何日分も見せられるうちに、何かに気づき、やや遠慮がちにきいた。

「お二人暮らしよね?」

「そうです」

「これ、全部、食べきれる?」

「ええ! 美味しいし、残すと悪いから」

「……」

 ミチ子は、言葉を選ぼうとし、結局あきらめ、控えめに言った。

「これ、お二人で食べるのね。ていうか、あなたが食べきるのね?」

「そうです」

「それは…太るわ……。と、思うんだけど……?」

「え」

 改めて、鉄男も、料理の画像を見た。クリスマスか? と、しか彼には説明できないような献立が、色鮮やかに……。和食もあり、立派な角煮もあれば、魚もあったが、ほぼ毎日、細身の妻はちょっとだけ食べて、あとはパックンが喜々として食べるとすると……。

 パックンが、異様なまでに真剣に、画像を見つめている。

 禁煙しろと言ったのも、妻。減量しろと言ったのも、妻。そして、たらふく食わせて、太らせたのも妻……。

 だが。ややあって、パックンが言った。

「……彼女に、なんて言えばいいんでしょう……。忙しいのに、ちゃんと料理してくれるんです。まめだし、美味しいし……。でも……でもっ……ここで減量できても、帰ったら、また太りますよね……。でもっ、彼女にそんなことっ、言えませんっ」

 苦悩のあまり、頭をかかえる。

 そんなこと言われても……。鉄男夫妻は、困惑して目を見かわしながら、シェアされた肉のローストだの、ラザニアだのをつつきながら、あてもなく考えた。

 鉄男には絶望と思われた中、ミチ子が言った。

「ここでは、気を付けて食事しているのよね?」

「……ええ、まあ……」

「そしたら、その画像を、彼女に送ったら? 料理上手な方なんだから、減量向けのものも作れるはずよ。どう?」

 パックンは、次第に落ち着いていき、明るさを取り戻した。さっそく、囲んでいるテーブルを撮ろうとした。たっぷり三人分のイタリアン。

 思わず、夫妻は、手をのばして、止めた。

「これは撮らない方がいい!」

 鉄男のスマホが鳴り、ハニー嬢が、アプリで連絡をとってきたのだった。ごはん、一緒にどうですか。ごめんなさい、もう食べています。明日、やること、決まってますか。パラグライダーをやりにいく予定です。見に行って、いいですか!

 こうして。

 翌日、一同はロビーで待ち合わせた。鉄男は、もちろん、クッションを、青いビニール袋につめて、携帯した。

「海にまで持っていかなくても……」

「いや、欲しくなるかもしれない!」

 青年とともに、ロビーですでに待っていたハニー嬢は、なにやら、白い、ふわふわした、丸っこいものを遠慮がちに、かかえていた。クッションかと思えば、ほとんど顔だけの、ウサギのぬいぐるみだった。

「なんだ、きみまで」

「ごめんなさい……真似してみました……。でも、これは、ぬいぐるみ。昨日、ショップで買いました」

「別に特許じゃないから、いいよ。まあ、試して! 殴るなり、蹴るなり」

 ハニー嬢は、ぎこちなくウサギを見直したが、

「やっぱ、殴れな~い。でも、抱いてると落ち着くかも」

 ハニー嬢の顔か、髪か、どことなく、違っているような気がしたが、鉄男には理由がわからなかった。

「エステに行ったの?」と、ミチ子。

「わかります?」

「お肌がつやつやしてるわ。若いと、ちゃんと効果が出て、いいわね」

 嫌味なく、ミチ子に言われ、ハニー嬢の表情が輝いた。

 ホテイ青年が、微笑む。

「僕が褒めても信じないんです」

 大柄なパックンと、二人は、鉄男から見れば、ひとくくりに「若い者」だが、挨拶したきり、話がはずまない。しかし、

「さあ、とにかく行こう! じっとしてると……」

 吸いたくなる! と言いたいのを飲み込み、ずんずん歩き出したのだった。



読者登録

筏川Ryo子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について