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はじめに

 アルベド①「序説と混在的一者」に引き続いて、ここに、アルベド②「教育の段階」を配信します。


 今回は9回の連載で完結する予定なので、3回で完結した「序説と混在的一者」と比べれば、かなりボリュームがあると言えるでしょう。内容的にも、格段に充実していると思います。


 ただし本書においても「序説と混在的一者」と同様、適宜、第二福音書からの転載を行っていきたいと考えています。


第1章 教育の初期

 客観と主観に分かれるということが表象の第一の、最も普遍的かつ本質的な形式である

 

   ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』斎藤忍随他訳より


(1)男性原理と女性原理

意識の発達

 

 教育とは自己形成過程の前半を貫くものであり、その内容は、すなわち"意識の発達"を意味している。そして意識の発達とは識別能力の発達であり、したがって、より砕いて言えば、あらゆるものを"分けて"把握する能力が身につくことを意味する。


 というのも、自己形成の過程とは、その前半において「混在→分化」の段取りを踏むものであり、また、かかる分化という言葉が意味することこそ「意識性、識別能力、分けて把握する能力」に他ならないからだ。そして、分化の極限には、発達しきった意識性としての「自我」が存している。ゆえに、かかる自我の確立こそが教育段階の終極であり、自己形成過程における中間地点であると言っていいだろう。


 そうなると、混在的一者――母親と主体との混在による一者化――を始発点とするならば、それが「母親と自分とは別のものだ。また世界のなかに自分がいるのであり、自分が世界そのものなのではない。だから自分か望むことと実際の環境(世界)との間にズレがあったとしても、その現実を受け入れなければならない」と分かってくると、それだけ意識性も高まってくることになる。


 こうした高まりは「自我の確立」まで漸次的に(だんだんに)続くわけであるが、私は、かかる意識の発達、つまり「教育を三つの段階に分けることにした。すなわち、初期、中期、後期、の三区分である。そのうちの中期は「共同体への適応」を、後期は「自我の獲得努力」を意味するのだが、では本章で語るべき「教育の初期」とは何であろう。


 それは一口に言って[主体が共同体に参入する以前に行われる家庭内教育」のことである。そして、それは同時に「主体の人生に対して、直接的に父親が関わり始めること」を意味するということができるだろう。

 

 


男性原理が疎外される時期

 

父親との関わりが今になって語られるということは、それまでの混在的一者の時明においては、主体は父親と直接的には関わってこなかったことを意味する。事実、混在的一者の状態が成立しているとき、父親は母子関係から疎外されていると言っていい。


 それと言うのも、父親は、たとえ本人に自覚がなくとも、男性である以上は男性原理の体現者であり、かかる男性原理とは"分ける"ことをその内容としているからだ。


 そして、そのような"分ける"原理が慟くとき、混在とか一者化といった事柄はまったくの不可能事になる。混在や一者化とは、ふたつ以上のものが結びつくことを意味しているのだし、かかる"結びつく"ことと"分ける"ことは、片方を立てれば片方が立たなくなる概念であるからだ。


 すなわち"分ける"ことは"結びつける"ことの否定なのである。また、そうであるならば、男性原理は混在的一者に対する否定でもあろう。こうした場合、潜在的一者からしてみれば、自身を定立させるためには、男性原理――その体現者としての父親――を疎外せざるを得なくなる。


 それに対して"結びつける"ことをその内容としている女性原理、並びに女性原理の体現者たる母親は、ただその自然な本性を露にするだけで、混在や一体化を成立させることができるのである。

 

 


父なく夫だけがある時期

 

 こうした事情から、混在的一者の時期(だいたい主体が生後一年に至るまで)には父親は母子関係から疎外され、この間、彼は"夫として"ただただ外部から混在的一者を支えることに終始することになる。


 もっとも、より正確には「夫が妻を支え、この妻が母親として子供(主体)を支える」という言い方が適切かもしれない。夫にしっかりと支えられていてこそ、女性は"母親としての強さ"を発揮することができるのだし、母子の混在、一者化は、あくまでも母親による子供の完全保護という形で成立するのであるから(保護するためには、それなりの強さが必要であろう)。


 いずれにしても、混在的一者の時期、すなわち主体の生後一年ぐらいの間は「世界としての母子関係」と「外部から世界を支える夫」という図式ができていることになる。これを混在的一者の、最も基本的な見取り図だと考えてもいいだろう。


 イメージを提供するなら、大きなタライに母子が入って、そのタライを下から夫が持ち上げている、といった感じになるだろうか。タライのなかが主体にとっての世界であるが、見えないところでは夫が頑張っているわけだ。


 ただし注意してもらいたいのは、ここで言う世界とは、結局は"主体の視界"ということに過ぎないし、その視界ですら、主体にとっての"見える範囲"ではなく"見たいと望む範囲"を意味するに過ぎないということである。

 

 


教育の初期へ

 

 ところが、混在的一者の時期が終わると――それによって教育の初期に移行すると―― 先の図式が大きな変化を見せることになる。


 と言うのは、それまで夫の役割だけを仰せつかっていた男性が、いまや父親として「世界としての母子関係」のなかに侵入してくるからである。


 すなわち、生後一年ぐらいを迎えると、主体は自らの意識発達(教育)を望むようになるので、その際の支援者となってくれる父親をも、また求め始めるのだ。このときやっと父親という存在は、主体にとっての"見たいと望む範囲"に入るのであり、前のたとえで言えば、主体に許されて、かのタライに片手を突っ込むことになるのである。


 なぜなら、父親は"分ける"という男性原理の体現者であり、その"分ける"原理は教育のために、すなわち「意識性、識別能力、分けて把握する能力」を発達させるために絶対に不可欠なものだからだ。


 このような要請が前提となり、このとき夫は初めて"父親として"子供の前に登場する。それまでも名目としては父親だった彼であるが、いよいよ実質的にその父親としての価値が問われることになるのである。
 かくして「世界としての母子関係」と「外部から世界を支える夫」という二部構造の図式は「母と子と父からなる家庭という世界」たる単一的な図式になりかわり、ここに「教育の初期」のための舞台が設けられることになる。


 やがて三歳から六歳ぐらいを境にして、主体の教育は、彼が共同体(幼稚園や学校)に参入することによって著しい広がりを持つことになるが、それは共同体(※)への適応が課題となる「教育の中期」に属する話である。


 ゆえに定型化するなら、教育の初期とは、主体が生後一年を迎える頃から最長六歳ぐらいに至るまでの「母と子と父からなる家庭という世界」という図式内での教育、ということになるだろう。そして、この間に主体は、共同体に参入するために必要な、最低限の社会性を身につけることになるのである。

 

※家庭も一種の共同体であろうが、家庭と共同体、私はこれを分けて考える。その違いは、家庭が男性原理と女性原理を等量に持っているのに対し、狭義の共同体――学校、会社などの部分社会から国家まで――女性原理よりも男性原理を優越させていること、である。


 基本的に男性原理はルールを破った者を排斥するが、女性原理はルールを破った者をも受容する。つまり家庭では、子供(主体)がルールを破った際、父親(男性)の排斥的な厳しさを母親(女性)の受容的な優しさがカバーするが、共同体では、主体がルールを破れば、たいがいは社会的な排斥が与えられるばかりなのである。許してもらえる可能性は、分化が進めば進むほど薄くなっていく。分化の進展とは、男性原理がより優越していく過程に他ならないからである。

 

 


すべては漸次的に

 

 ただし、現実の生活のなかで「混在的一者」から「教育の初期」への線引きが明確に見られる訳ではない。実のところ、教育の初期の内部にも混在的一者の要素が残っているし、混在的一者の期間にも教育(意識分化)的要素が侵入してきている。


 なぜなら、すべては"漸次的に"変化していくからだ。そして私も、でき得るならば、かかる漸次的な変化を、滑らかな"色のグラデーション"のように表現してみたいのだが、しかし文章でそれをすることは不可能に近い。そしてこの限界性が、本来ならば存在しない"段階の線引き"を生み出すことになるのである。


 たとえば――視覚に訴える形なら――赤をスタート、黄色をゴールとしたとき、その狭間に切れ目のない色のグラデーションを表すことができる。が、それを文章として表現することはできないので、仕方なしに「赤、桧、黄」と各色相を分けて並べているのが私の立場なのである。そうだとすれば、言葉で赤と言っても、実際には、その赤の大部分にはすでに黄色が混入している―-結果、橙がかる――し、黄色のほうにしても赤が混入しているため、その大部分が橙かかることになるのである。


 したがって、混在的一者に教育の初期が、教育の初期に混在的一者が侵入していても不思議はないし、実際、現実もそのようになっているのである(なお、現実としての自己形成のグラデーションは、一途な色の変化と言うよりは、さまざまなモワレを伴った複雑なグラデーションであることを追加して指摘しておきたい)。

 

 


人間≠原理

 

 一例を挙げるならば、たとえば「人間=原理」ということはあり得ないので、一人の人間のなかには女性原理も男性原理も含まれているということになる。


 つまり女性のなかにも男性の要素があり、男性のなかにも女性の要素が含まれているということだ。女性が女性であるのは、その女性的要素、あるいは女性原理が、量的に男性原理よりも勝っているということに過ぎない。男性の場合も同様だ。


 そして、私たちは先天的、本能的に「自己形成の過程」を知っているので、たとえば混在的一者の状態を呈している母親(女性原理=結びつける働き、の体現者)でさえ、その期間の中盤以降においては、自ら進んでわが子の意識分化を促したりするのである。むろん彼女のなかの男性原理(分ける働き)がそれを可能にするわけだ。


 具体的には――少しあとで触れるように――主体(子供)の言語獲得トレーニングは主に母親が担うものであるが、そのような"言語"は、混在的一者の状態においては必要のないものである。一者と呼び得るほど強く結びつけられた母子関係が、言語を要さないほどにも濃密なコミュニケーションを具現するからだ。


 そうであるにもかかわらず、母親が子供に言葉を教えるのは、そこに男性原理の要素が侵入しているからに他ならないのである。


 あと、これとは逆のパターンについても簡単に触れておこう。


 主体は教育の初期に移行することによって、次第に意識の分化、他人と切り離された自己の自覚などを深めていくが、そんな頃にも、「黙っていても分かってくれる、目分のすべてを受け入れてくれる」混在的一者としての母親像が主体の心の一面を支えることは確かである。つまりここには、教育の段階においても残存している混在的一者の姿が見えるわけだ。


 ただし、かかる混在的一者の存在感は、主体の意識分化が進むほどに薄くなっていくし――なくなりはしないにしても――またそうであらねばならない。年齢不相応の混在的一者に対する執心が、いわゆるマザコンというやつである。

 

 


原理としての説明

 

 ところで、上述の部分において、私は男性原理と女性原理という切り口による考察を行ってきた。男性原理とは分けることであり、女性原理とは結びつけることである、と。そうして混在的一者の期間においては女性原理がほぼ完全に支配権を取り、教育の初期においては男性原理がそこに侵入してくるのだ、と。


 しかし、こうした男女の原理的な説明は、これから先、すなわち「教育の中期」以降は行われない。というのも、かかる男女原理による説明は、第五巻『女性の本質()』における基調であり、そこで大いに展開される予定になっているからだ。


 本巻において基調になるのは、空間軸、時間軸、倫理軸、という観点による問題考察であり、それをするにあたって男女原理による説明が必要になる、ということは特にない。それでいて本節において男性原理や女性原理に触れたのは、教育の中期以降ならば、共同体が舞台となるため"父親"という存在から離れることもできるが、教育の初期(家庭内教育)では、かかる父親の存在を無視する訳にはいかなかったからである。


 そして、父親について語るとき、彼が背負っている男性原理について無視することも、やはりできなかったのである。


 しかし、これから以降は、本来の『日己形成の過程』における基調へと戻ることにしよう。そうして、本節における説明の仕方は『女性の本質』のための伏線として記憶の片隅にでも置いておいてもらえたら幸いに思う。

 

※『序説と混在的一者』でも語ったが、この『女性の本質』は、実際には書かれていない。

 

 


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奥付



【サンプル号】アルベド② 教育の段階


http://p.booklog.jp/book/125249


著者 : 正道
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