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それら花々は恍惚をさえ曝さない #5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない。

散文

 

 

 

                                                                                                                                     

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はただ、昏く、彼は私を見つめもしない。昏いばかりのその、私を見つめるしかないそれ、彼の眼差しは。血の色彩の鮮度だけが、あまりにも鮮やかに私の眼差しにふれていたのだった。

あなぼこのままに、私はそこに停滞し続ける。

匂う。

傍らに添って、なぜていたはずの手のひらはいつかその目的と営みをさえ忘れて仕舞って、もはや私の腹部のうえに添え置かれているだけにすぎない。たんなる、やわらかい重みとして。

やわらかい、息遣う腹部の上に。結婚式の物音。騒音。ミーはビールを口にしなかった。何人もの《盗賊たち》が、彼女の、彼の?、違法なそのお仲間たちがかわるがわるに彼を彼女を?、取り囲んで媚をうり、はやしたてもし、あるいは、たとえば。

美しい、と。そのあまりに無慈悲な残酷さを眼差しに突きつけて、留保なき絶望として、眼差しを泳がせて仕舞うしかない、それ、すてばちなほどに野晒しに曝された美しさの痛さ。

痛ましいだけ、ただそれだけの。とは言え、それは彼が短髪だから、と言うだけに過ぎない。彼に、すくなくともその時の彼に、悲劇性も、悲痛さも、残酷な何かのきらめきも、そんなものなどあったはずもないのだった。捉えられるべきだったのは、結婚式に、珍しく着飾って見せた十六歳の、トランスジェンダーか、同性愛者の少女が微笑んでいる、という、そんな風景にすぎなかったが、そして、眼差しが捉えていのはどうしようもない、痛み。

痛い。

私が血を流す。

鮮やかな、色彩を純粋な鮮度としてだけ静かに、音もなく。

撒き散らしていく。空間に。ゆっくりと。時間を嘲笑うように。徒刑囚のようなミーの、突き立った短髪に、日陰のやわらかい光は差しつづけているのだろうか?人々の、もはや祝福をなど、その目的も営みも、完全に忘れて仕舞ったパーティの罵りあうような声の連なりのざわめきの中に。

突き立った短い髪の毛の、その先端をだけ白くきらめかせて。

腹部に添え置かれた手のひらが、そっと、まだ。

おきないで。

いいんだよ

まだ。

と。胸に、すべって上がる。手のひらは。気配。それがつぶやいていた。そのままに、と。

なぐさめて、ささやくようなその手つきに、ひたすら華奢なその触感。やわらかく、弱い。どうしようもなく、へし折れそうな。不意に自分の手のひらにつかんで、かたく握って仕舞ったら一瞬でつぶれ、鮮血をだけ撒き散らして跡形もなく、消え去って仕舞う。かも、知れない、そんな。血。それを、握り潰した私の手は、噴き出した血をかたく掴みとることもできないままに、結局はあざやかすぎるその色彩にだけ、染まるしかないのだった。流れていた。

あふれ、流れ出し、私が血を流す。

一筋のその赤い色彩を流していたそれ、見開かれたまんまるな眼差しはただ、昏い。どうして、と。

なぜ

想う。見開いているの?

なんで

無意味なあなぼこを、ただ、

あなたは

あなぼこにすぎないあなぼこが。

どうして

何も、もはや

なにも

いないのに

あなたは

何も

いまや

見ては

何も

もはや

見ては

何も

もう、

いないのに

もはや、

寂たる、

眼差し。何か言って御覧。

そうやって

血ばかり

流して

いないで。指先が、喉仏をくすぐる。やわらかくふれ、それがその形態を確認していることは知っている。華奢な、なぜ、と、どうしてそんなことするの?

そう確認して見たら、

もう

その指先は

笑っちゃいそうねぇ

答えられるのだろうか?

なんで?

なにか、

もう

たった一言でも。

為すすべもなく、戸惑いを曝しながらでも。

おののき、眼差しを震わせながらでも。

嘘でも偽りでも。

でたらめでもこじつけでも。むしろ、留保もなく沈黙して、顎をなぜる。

指先の、ゆっくりとした上昇。それは、愛撫、というもの。

指先が形態を愛撫する、ということと、指先が形態を確認する、ということの、容赦もない差異を知った。それは、あるいは、いずれにせよ、皮膚は皮膚にふれてなどいないのかもしれない。ゆっくりと、自分勝手にそのふれられた皮膚の触感を知って仕舞うだけなのだった。

指先が、一瞬のおどけたようなためらいの震えを、まるで不意に立てられた短い笑い声のように感じさせたその直後に、感じられたのは唇。その触感。

唇に。私は目を開けた。

傍らに、ミーがいた。斜めに差し込む翳のなかの光に、その形態をやわらかく昏らませて。

表情をなくして、頬杖のままに私を見つめながら。寄り添って。ミーは、ただ、呆然として。なに?

なぜ、

どうしたの?

彼女は。

なに?

訝る。なぜ、そんな表情を曝す必要があったのだろう。野生の、好き放題の彼の生を、投げやりなほどに自由に、ただ、濫費するだけでしかない存在なのに。もはや何を気にする必然性などなりもしないはずなのに。野晒しの犯罪者。単なる無法者。脆弱で、美しく、男か女なのか、よくわからない。ミーの指先は、私の唇にふれて離さない。

私を見つめる眼差しも。

向こう、パーティの騒音のほうを伺いもせずに、もういちどミーは私に口付けた。そのまま、自分の添えられた指先のうえから。

大丈夫

ブーゲンビリアに、手を触れることはできない。

気にしないで

そんな事は

なにも

知っている。私は、なにも

気にしないで

できないままに、画策し続けたのだった。

それらのただ停滞するだけの、無際限なまでの散乱を燃やし尽くして仕舞うことを。なにもすべがないばかりか、私に、そもそもの手足さえもがもとから存在などしていなかったことは知っている。

あるいは、私など生まれたことさえあったのだろうか。なんども生まれ変わり、なんども喪失された記憶の故に、その繰り返しの現実さえもが無効化され、でるならば、なんども、生まれ変わることにいったい何の意味があったのだろう。私は、一度たりとも私の生まれ変わりとは出逢わない。眼の前に、私の生まれ変わりが生きていたとしても。彼は私ではない。私は他人にしか出逢わない。自分の体臭も、自分の体温も感じ取れはしないように。生が、死をは決して体験し獲はしないように。

なぜ、理沙はなんども生まれ変わって、惨殺されなければならないのだろう?繰り返し、何の必然性もなく、何の罪もなく、何の記憶さえなく。理沙にとって、それは単なるひとつの固有の死に過ぎなかった。

ミーの、あの、雨の日の残酷な死も、結局は

決してふれ獲ない

忘れられて、彼女自身のなかにさえ、その

永遠に体験され獲ざるもの

痕跡すらのこせない。せめて、と。

あなたは

想う。

死んだことがありますか?

燃え上がって仕舞えばいい。

あなたは

あざやかに。

なぜ

未生の者たち。

生きていますか?

永遠に、

死んだことさえ

生誕する直前に

ないのに

漂い続け、

なぜ

その、

あなたは

鮮やかな色彩のきらめきをかすかに明滅させ、変化させてやまないそれら、花々。

燃え上がって仕舞えば。ブーゲンビリアの、燃え上がって仕舞えば、炎。

果てまでも、焼き尽くすことさえ出来ずに、永遠に燃え上がって仕舞った。音響さえないままに。見つめられながら、私に。そうすれば、私の眼の前で、もし。そうしたならば私は。

あるいは血を流す。

言葉にふれることもできない私はただ昏く、

ねぇ

血を流しながら、

あなたは

何をも見い出さない

なにを

眼差しは

見てるの?

私を見つめていた。言葉もなく、見つめていたのはいまだに見開いていたままの、私の眼差しが捉えた、薄く目を閉じたミーの、至近距離の、その。

色彩。いままで日の光にあたったことなどないのだと、そう確信しているかのような白さ。ラインの引かれた、濃いまぶたの色彩。描かれた顔。黒く、そしてかすかに褐色めいて黒く、描かれた、そして、光沢のあるまつげがふるえる。

ときに。

ときどき。

たまに。

ふいに。

長い、唇と唇が、ただ、そっとかさねあわされただけの口付け。まるで、

ふっ

無意味な。

ちょっ

あるいは、

ちょっ、

口付け、

だけ。ちょ

と、

そう

と、だけ

呼ぶことさえためらわれなければならないかのような。何をも生み出しはしない。新しい命さえも。

私たちは口付けていた。

やがては離された唇はかすかに脱力されたままに、そしてミーが見つめる眼差しにはただ、留保も無い絶望だけがある。何に望みを立たれたのでも、何かに、何かを救って欲しい、そのすべが明確に目の前で容赦もなくに断たれて仕舞ったその悲しみの事実を抱えたわけでもなくて。

ただ、絶望していた。

もはや眼差しは絶望としてしかなにをも見出さない。見つめられた私は彼を見つめるしかなかった。美しい、ミー。

声を立てて、ミーは短く笑った。不意に身をひるがえし、勝ち誇ったように振りかえり、アオヤイをひるがえして。立ち去る。自分勝手にやって来て、自分勝手に。

最後に、私を微笑みのうちにもう一度見つめ、なんどか繰り返し私に振り向きながら、パーティの方に立ち去って行くミーを私は見ていた。

 

Line で美紗子が私に送ってきたのは、彼女たちの家の周辺の、自然災害の画像の10枚近くだった。見馴れているといえば見馴れていた。雪崩れ込んだ土砂。崩れて、薙ぎ倒して、土の色、生きとし生けるもののすべてはやがてはそれに帰るのだと言われ続けるところの、その土の色そのものが、それが破壊した樹木も河も家屋も、そのことごとくに比べて明らかに醜悪で、美しいという感性自体にいまだかつてふれた事などないあくまで他人の色彩を曝していること。

氾濫する川は、なぜあんなにも穢らしいのか。それはたぶん、土の色に染まっているからだ。崩れ、罅割れた山の傾斜が、なぜあんなにも穢らしいのか。それはおそらく、隠されていた土の色彩が、無防備にも曝されて仕舞ったからだ。いずれにしても、遁れようもなくも壮大な破壊の穢らしい風景。あるいは、すべてが、かならずこそに帰還しなければならないところの留保なき破壊と壊滅。美しくも、大いなる海さえもが、その美しさ、大きさそのものを曝しながら、時にはすべてを破壊しつくす。あまりにも大きく美しいままで。

大変よ、と、キャプションを添えて、そして、最後の一枚は介護ベッドの上でピースサインを曝す、もはやまともに言葉も話せなくなった父の、満面の笑顔だった。あいかわらずげんきです。と、短い平仮名だけのキャプションに大量のうごめくスタンプを添えて。パーティのざわめきは、静まりつつある。

そして、まだ、続く。午後、一時すぎ。まどろむのに飽きて、起き上がり、庭に出ると、素手でさわる日差しが、日翳げとはいえ不意にまぶしい。細められた眼差しの向こうに、私に気付いて振り向いた数人が笑い声をくれるが、知った顔はもちろん一人もいはしない。

フエとミーは、花嫁を取り囲み、ミーの傍らに寄り添って、彼の恋人は背後に立っていた。ハン。彼女たちに囲まれた花嫁は、飲まされた数杯のビールに、胸元を桃色にまで上気させた。庭の、敷かれたコンクリート地の上に、野菜のクズと吐き棄てられた牛骨の破片と飲み干されたビールの空き瓶が転がされて、歩くたびに足に触れる。皿も何も床にそのまま転がすのが、此処では作法だ。それが美しいか、正しいか、そんな事は私の知ったことではない。私は異郷の人間に過ぎない。ある意味において、故国を棄てた、自分勝手な亡命者が如きものだったとしても。

であれば、なおさら。

亡命したものは、常に、どこにあっても異郷の人間である、と言うことだったのかもしれない。そして、そうなりたかったには違いない。フエが私を振り向きもしないままに、近づいた私の手首を握る。

おかえり

声。

あなたがいるべき場所は

無数の。

ここ

もう、残っているのは十五人ばかりしかない。彼らのすべてが、《盗賊たち》であるわけではないのだろう。単なる友達もいれば、ひょっとしたら、親戚の人間だっていたかもしれない。いずれにしても、フエは不意に私を振り返って、大丈夫?

飲みすぎたの?

眼差しが私を伺う。花嫁は盛んに、ドレスの膨張色に、いよいよ肉体の豊満さを無様なまでに強調しながらミーに、執拗に何かを語り続けていた。まるで、年上の男性の友人のようにミーはそれを聞いてやる。澄んだ眼差しがある。ミーの、それ。知性をなど、一切感じさせないままに、英知も何もないただ澄んだだけの眼差しが、花嫁を見つめていた。やわらかい笑みをその気もなく浮かべて。顔を包帯でぐるぐる巻きにした、あの犠牲者の男が私に新しいグラスを差し出すと、フエがあわてて拒絶した。

駄目よ

グラスを差し出す手にさえ、

もう

包帯が

駄目

捲かれている。冷酷なミー。

決して違法者を許しはせず、容赦もせず、させもしない彼。沈黙したままの澄んだ眼差しを、私に、不意にミーは投げる。伺うような上目で。いずれにしても、私はもうすぐ、連休が終ったら日本へ行くのだという、《送り出し会社》の生徒と一緒にカフェに行く約束があった。午後に。彼は、不安でたまらないのだった。縋るように私にその約束を取り付けた。そして私に感謝の意を表明しておきたい必然もあった。私は彼に優しかった。私にとっては、彼は金を払っている客なのだから、彼に当然与えられて然るべき優しさにすぎなかった。懇願するように媚びる彼の眼差しを、私は断るわけにもいかなかった。フエの頬に口付けてやると、隣で花嫁が色づいた嬌声を上げてみせ、

あら

行くよ。

Anh đi về

私は

すてき

言った。フエは

キスしたわ、いま

微笑を薄く

あら

くれただけで、言葉を

すてき

返しはしない。

 

うちに帰って、その日、二度目のシャワーを浴びて、簡単な服装に着替えてそして、待ち合わせのいつもの小穢いカフェに行くと、その、Kha カーという名の二十代半ばの青年は、先に来てひとり、スマートホンをいじっていた。

遅刻するのが当たり前のこの国に

せんせい

珍しい十五分前到着は、

こんにちは

《送り出し会社》の教育の賜物だったのだろうか。

せんせい

あるいは、

おげんきですか?

彼の律儀さを

わたしも

証明していたのだろうか。

げんきです

《送り出し会社》の近くの、ベトナム中部の各地から集められた研修生たちのための寮の近くの、雑多で、雑然とし、廃屋のような、ただただ、穢いカフェ。歩道にまでもちろんあの、赤いプラスティックの粗雑なテーブルと椅子が並べられ、そこは安価で質の悪いアイス・コーヒーを提供する。煙草の吸殻や紙くずやなにやかにや、棄てるべきものはすべて床の上にほうり投げられ、放置され、疎らなベトナム人の若い男たちの集合の中から、私がカーを認めると、私が声をかけるより先に顔を上げて、彼は立ち上がって椅子を差し出したのだった。どうぞ、こちらへ。

せんせ

甲高い

どじょお

笑い声を立てながら。あわてて、彼は奥で椅子に座りこんでスマホをいじり続けている店員の女を呼ぶと、コーヒーを二杯頼んだ。カーが媚びて、どこか、縋るような眼差しを私に向けていた。そして、選ばれた人間の矜持を、どこかにその表情の背景として秘めて。

カーは、クアン・ビンという、中部とはいえかなりの距離を隔てた田舎町から来た。そこにはいわゆるベトナム戦争、つまりは第二次インドシナ戦争のときの、地雷がいまだにどこかしらかにさび付いたまま大量に埋まっていて、いまだにどこかしらから発掘される。まともな開発もされないがらんどうの町で、仕事もないから、普通、まともな人間は何かしらの都市に流れてくるしかない。そして、彼らは連休でも何でも、暇さえあれば必ずその出身地に帰る。そして言うのは、かならず、出身地こそは、ベトナムの中で一番美しい、と。

なかば、その故郷を見棄てて異郷で働いていながら。

いじましいほどにきらつかせた眼差しをまばたかせ、うざったらしいほどに媚を撒くカーは、エンジニアとしての能力はともかく、優秀な言語能力を持っているとは言獲ない。そもそも、まだ、動詞の活用さえ完全に教えられてはいない。とは言え、日本の会社が彼を買ったのだから、彼は日本へ行けるのだ。そして、入国管理局が在留資格を交付したのだから。二週間ばかり《送り出し会社》を休んで実家で過ごし、今日の早朝にダナン市に帰ってきたばかりだと言った。あさって、関西空港へ、ダナンの国際空港から発つことになっている。

あさ。来ます。午前、6時です。

そして、二日ばかり、此処で過ごし、準備をし、

あさぃきぃまっ

ダナンの空港からの

ごじぇぅん、ろっじ

直行便で関西国際空港へ行く。

大変。クアンビンは遠いですから。

6時間くらい。たしか。

たいへんクアンビン

此処から

わぁとうぃえっから

関西まで、直行便なら。

あなたはぁ

日本の、どこへ

にぃほぉん、のぉ

行きますか、と、

どこ、ね?へぇ、いき

彼に

ますかぁ?

聞いたら名古屋か岐阜だと言った。どっち?

まだ。

まじゃ

これから?

まだ、

まや

知りません。

しらなせぇ

名古屋は、どんなところですか?

まじゃ、まじゃまじゃ

そう言った彼に、いいところだよ、と、私はそう返すしかない。なんどか行ったことはある。どこまでも、真っ平らな街だった。山影と言うものが、見えない。ある意味において、その平野の、その規模はともかく、見える風景はベトナムのサイゴンに似ていないわけでもなかった。いずれにしても、空恐ろしくるほど向こうまで平野が拡がっていた。

ぃやぁ

岐阜は?

じぃっわ

女の人がきれいです。

本当ですか?

えんぇい

うなづく。

ほぅんとじぇっか

それが事実かどうかは知らない。岐阜出身の美人芸能人は美人だ。すくなくとも、そこで使われている化粧品はここのものよりは綺麗なはずだ。

カーの浅黒く日焼けした肌。フエよりも黒い。しみこむような褐色を曝し、彼はいかにも丸顔で、えらの張った骨格を顔に曝す。はっきり言って仕舞えば日本のことなどよく知りもしない。ましてやその国が馬鹿の一つ覚えに誇る日本文化になど興味があるわけではない。

もともと、その国に興味などなかった。自国で、少しでもチャンスを獲得すために、彼には海外経験が必要だった。就職するにしてもなんにしても。いずれにしても日本に行けば、単なる貨幣価値の差異のせいで、賃金は多くなる。たとえ、買い付けられたのがかの国の地方の零細企業の、英語も話せない田舎の上司にこき使われるがんじがらめの奴隷労働であったとしても。

カーの、日本に対する知識も、親近感も、興味も、憧れも、基本的には単なる後付けに過ぎない。彼にとっては、彼の生活拠点は、日本に住もうがどこに住もうが、結局はベトナムの、母なる故郷クアン・ビンなのだった。多くの人間たちがそうだ。一般的に教育程度の低い男たちは。そして、むしろ女性たちは、容赦なく平気で海を渡って帰ってこなくなる。男たちは、いずれにしても、どこか、どうしようもなくいじましい帰巣本能を曝してやまない。

同時に、日本の大学に留学して帰ってきたベトナム人たちは、男も女も、たいていはどこかで国を棄てた風情を曝す。自国への一種の軽蔑さえ曝して。付け焼刃の知性らしきものを身につけ、こんな国に、いつまでもいるものじゃないよ、と。まるで、知性と言うものが、自分の周囲そのものを軽蔑するためにしか存在しないとばかりに。もっとも、白人たちの国に行った日本人だって、同じことには違いない。

労働者に過ぎないカーは、そんなアジアの先進国風に、エレガントに斜に構えてみせた、そして、本質的にはいじけたところのある感性になど一切ふれることさえできずに、たんなる、野放図な愛国者に過ぎない。

二時過ぎの、執拗な暑さを内側に含んだ大気が、連休のために、人通りをなくした街路に停滞した。日差しは土を曝したままの路面に直射し、容赦もない。カフェに座り込んだ数人の青年たちは、店員含めて、誰も彼もが猫背でスマホをいじり続けていた。カフェの客は男しかいない。髪の毛を刈り上げて、自然とつんつん咎って仕舞ったカーの髪の毛の、その反射光の白濁を点在させた鮮やかに黒い色彩の下に、カーは大袈裟な笑みを浮かべ続けて、眼差しはあてどもなく泳いで止まない。

その實、不安で仕方ない。

後二日しかない、と言うことなのかもしれない。それが、渡日を待ち望み、あの《奴隷売買》以外のなにものにも見えない面接を繰り返して、やっとつかんだ渡航切符であるということと、あと二日で好きでもなく知りもしない外国に、数年間の契約期間にわたって拘束され、滞在しなければならない不安とは、また、共存しながらもあいまみえないもの、なのかも知れない。

たどたどしい文法、二週間の休みの間に忘れかけた数少ない語彙、そのうちにすぐに話すことなど、あるいは、話せることなど尽きて仕舞って、沈黙がちになりそうになるが、不意に、想い出したように、恋人が日本にいます、と彼は言った。

前にも、聴いた事がある。授業のときに。カーの恋人は、福岡にいた。農業実習生として。野菜

やしゃい

か何かを作っている

をしまっ

と言っていた。

遠いですか?近いですか?と

ふぅくおっは

言う。それは、

とぉおぃぇっか

自分で、

ちかぃぇ

前にも私に

っか

聴いたことだった。

遠いね、と。

言って、しかし、新幹線で三時間くらいだ、と。私は言う。その、新幹線という彼のよく知っている言葉が、無意味に憧れをカーの眼差しに浮かべさせて、直接的な、現実的な、余りにも遠い距離の隔たりと資金力にもとづく100パーセントの不可能性そのものを見えなくさせる。

そもそも、それを意図して、新幹線の話しなど持ち出したのだった。だれもが知っている。日本政府のロビー活動のせいで。新幹線は早くて、安全で、格好のいい憧れるべき乗り物なのだと。《有償奴隷たち》。経済網がこのうえもなく上品に、エレガントに作り上げていく、もはや国家あるいは領土の枠にかならずしも縛られるわけでもなく拡げられていく留保なき、かつ容赦なき殖民地活動。

奴隷売買。

いつかのスカイプ面接で、パソコンの向こうにいた日本人の下請け企業は、明らかにベトナム人主体に買いあさっていた。日本語が流暢なベトナム人さえ自分たちの周りにはべられせて。次の標的はどの国だろう。あるいは、どのくらいの貨幣価値に停滞していて、どのくらいの教育水準を維持しているところの、どの地域の、どの国家に所属する、どの人種なのだろう?のこっている、扱いやすい《親日国》は、どこだろうか?扱いやすい、値札を首からぶら下げた奴隷候補の人材たちの産出地は?アジアはもう、なかなか厳しいんじゃないか?たくさん、今まで使い棄てにしてきたから。ブラジルの日系人、要するにかつてのブラジルへの移民たち含めて。奴隷売買に、もはや人種も、肌の色も、宗教も、そんなものは一切無効だった。貨幣価値の差異と、御しやすい効率性こそが、奴隷たり獲る条件であるに過ぎない。教育、あるいは知性とは、たんなる家畜化された御しやすさ以外をは意味しない。日本で恋人に会いますか?

そう言ったら、カーは声を立てて笑った。

いいえ。あいません。

のけぞって、

いぃーぇえ

大袈裟に、そして、

あいましぃえ、え

たぶん、逢えません、と言いたいのだろうと、察された。

とおいですから。

手のひらと手のひらを

ろーいぃでっ

かさね合わせて、そして

からぁあ

拡げる。いっぱいに

といぃー

ほら。

とぅ、いぃー

こんなに

こんなにも

遠い。

わたしたちは

アラスカよりは近いだろう?と、そう

離れています

言おうとして、そんな比較文法など、彼は

遠く、遠く

まだ知らないことを

ふたりは

思い出す。

離れています

時間を持て余し、近くの海に行った。ミーケーという海岸。津波など起こしようもない、いわば、牙の無い脆弱な海。海岸には、驚くほどにまばらにしか人がいない。なぜなら、この午後の浅い時間、まだ日差しが高く直射する時間帯に海岸になど行くなど、地元の人間たちにとっては、気狂いじみた行為にほからないから。

海岸を、少数の白人たちがたたずみ、大量の韓国人たちが強烈な日差しに顔をしかめ、そして、そのくせタンクトップとノースリーブから肌を露骨に曝す。海岸とは、肌を曝し日差しを浴びるためだけに存在するのだ、と。

日本語の音声と韓国語の音声が、結局は区別がつかないほどに酷似していることにいつものように、そして何度目かに気付く。舌に高速にかたかた乾燥した音を叩きつけるか、舌の奥にいつまでももてあそんでじゅくじゅく湿った音を舐めるかの違いにすぎない。耳には、同じように響く。空港のロビーで。町の中で。ふとしたすれ違いざまに。レストランの中で、となりあわせに。海岸で。外国の街。容赦ない、お互いがお互いの模造品であるかのような類似。お互いに、異郷の人間としてすれ違うならば。

海。

韓国人たちは、奇妙に同じような顔をしている。

ざわめく。

日本人女と中国人女との差異はメイクの違いに過ぎない。

浪。

それら複数の、浪。固有の、ただただその一回性のもとに消え去っていくそれらの、浪。無際限な集合にほかならないそれは、眼差しの中に、浪。ようするにただ一つの浪立ち。

浪が打ち、打ち続け、終わりもなくそれらはざわめくが、

べぅえとなんいんわぁ

ベトナム人はきれいですね。

きれえぇっつねぇえ

カーが秘密ごとめいて、耳打ちした。だれに聴こえるわけも鳴く、彼の覚えたての下手糞な日本語など、彼らがわかるわけもないのに、私たちの目の前で、なにかじゅくじゅくと文句を言い合っている韓国人カップルたちの集団に気を使って。

ほら

ひねくれた、軽蔑交じりの眼差しを

どうですか?

加えながら。

見てくださいよ

カーが、頬を軽蔑的に

ね?

ふくらませて笑った。

彼ら。ほら

ベトナム人は、いちばん、きれいです。

まったく

韓国人たちの

ね?

何が、カーに気に食わないのだろう?たぶん、単に、そして留保なく、彼ら韓国人がベトナム人ではないからに違いない。

 

 

 

 

 


それら花々は恍惚をさえ曝さない #6

 

 

 

 

 

ざわめく浪の音が、連なる。聴こえた。人々のさまざまな言語の、低い聞き取れない遠い木魂しのような連なりのむこうに、あるいは、むしろ、こっちに。

聴く。

カーの耳打ちした声。

にほんぁわ

日本は、あっちです。

あちぃえっ

うなずいて私は、正面の海の果てのほうを指さした。ダナン市の海岸は東向きだから。東の海の向こう。雪。

それは雪なのだ、と想った。

ブーゲンビリアの花々。

直射日光にまばたき、傍らのカーを振り向けば、直射した午後の海の日差しは彼の褐色の皮膚を、そしてその髪の毛を光に白濁させるのだが、純白の。

その雪は。眼差しのなかにいっぱいに広がった、その、ブーゲンビリアの花々は。

カーの眼差しに暗い影が差す。

気付く。それらは雪に過ぎない。

濃い日差し。

その本性を曝してみろ、と想う。花々に。お前たちの本性を。眼の前に咲き乱れた、そして雪。結局は、いかに指先を、そっと、気付かれないようにさえそっと、壊して仕舞わないようにふっと、やさしく……っと、音も立てずに差し伸べて、ふれようとしても、ふれた瞬間には雪は、すでに私の体温が一瞬のうちに溶かして仕舞っていて、水に変わり果てていて、私は一度たちとも雪そのものにはふれたことさえなかったのだった。

いつでも。

すでに。

雪が

いつであっても、雪は、そして

舞う

雪なのだ。その花々。いま、眼差しが見つめるブーゲンビリアの、その、匂って撒き散らされる色彩、むらさきがかった、赤の、要するにあざやかな紅。その、それら、色彩。

愉しいですね。

カーが言った。にこやかに笑みをくれながら。私たちの肌が汗ばんでいることをは知っている。知ってるよ、と、言いそうになった。私はずっと、彼を傷付けたり、不安がらせたりしないように、親切そうな微笑をくれてやりながら、ぼくたちが今、時間を持て余してだけいて、まともに交わされるべき会話の手立てさえなく、単に立ち尽くしているに過ぎないことくらいは。

知ってるよ。安心して。

私はカーの背をなぜてやった。外国人たちが海に入る。生暖かい温度。潮に塗れて。

声を立てない。不思議なくらいに。肌を曝しながら、それでも日灼けを気にするのは、韓国人と中国人に過ぎない。

日本人は、奇妙なほどに目に付かない。そんな人種がこの世に存在すること自体が、なにかのフィクションのようにさえ想えた。アメリカ映画が作り上げた虚構なのではないか?どこかの島の食人族や、どこかの奥地のゾンビかなにかと同じく。韓国人が、わざと立てた水しぶきに、短い喚声を上げてみせていた。背後に、主幹道路に疾走するバイクの音が連なっていた。遠く。

水面の群れは、止め処も無い浪打ちの連なりのきらめきの明滅に、その、太陽光の反射をざわめかせて止まずに、太陽。あまりに野生的なもの。

見上げられたそれはむしろ、ただ野生そのものとして、まったき他人、預かりも知らない他者そのもとしてだけ、空のやや低いところに直視できないまぶしすぎる閃光を放つ。

誰のためのものであったこともなかった。なにものかのためであったことなどなかった。太陽は。その膨大な時間を浪費しての自己破壊の燃焼は。それ。それら。空の色彩も。光そのものも。海も。大気も。風も。温度も。

太陽は、結局はそれが私の眼差しにふれるためにそこに存在しているわけではなかったことをだけ明示して止まない。私の眼差しに、ふれるときにはいつでもまさに。無慈悲なまでの他人の輝き。閃光。破壊的に、肌を焼き、やがては私たちを破壊して仕舞う。だから、懸命な人間たちはそれから隠れ、日翳げに身を寄せる。汗を拭い、火照る皮膚をいたわってみる。

野生の息吹。留保もなき、ただ、破壊的な。

 

フエのうちに戻ってくると、静まり返って、人の気配など何もない、ただただ広い家屋の隅の、狭い私たちの寝室のベッドの上に、絡み合うように下着だけになったフエと、

苦しいの

ミーが

苦しくて

寝ていた。ドアの

ねぇ

差込式の鍵は

しかたないの

内側からしかかからず、鍵をかけない限りたてつけのわるい古い木戸は開いて仕舞って、そして、私が帰ってこない限り鍵を閉めるわけにもいかないので、当然、ドアは開け放たれている。

そもそもが、ドアくらい開け放たれていなければ、暑苦しすぎて寝苦しい。扇風機がかすかな雑音を立ててオレンジ色のファンを廻し続け、彼らは何かからお互いを守ろうとしたかのように、複雑に四肢を絡めて褐色と白の皮膚を汗ばんでみせる。

ベッドの上と足元に、彼女たちによって脱ぎ捨てられたままの、二人分のアオヤイとブラが散乱する。私はシャツを脱ぐ。

衣擦れの音がする。ショートパンツに着替えて、肌。色彩。私の腕はフエの色彩に近いほどに褐色に染まっていた。それが二の腕でその色彩を失い始め、気の長いグラデーションを描いて、やがては胸元、胸、そして腹部の、真っ白い色彩に褐色は消し去られて仕舞う。いわば、乱暴に言って仕舞えば、二色の色差をもっているのだが、無様な色差をひとつに色彩に染めて仕舞おうとは想うものの、庭で肌を焼くことは出来なかった。

駄目です

フエが、発狂したようになって、

Are you

私に食ってかかるから。

crazy ?

何遣ってるの?あなた、

いけません

この世の中の

おかしくなったの?

不条理のすべてを目の前にたたきつけられて仕舞ったかのように。混乱さえ切迫した眼差しに曝して。肌は、白くなければならない。そもそも、白いものなのだから。自分の肌の褐色を、いつでも無造作に曝しながら。ベッドの上の彼女たちに眼差しを落とし、眼差しが感じたのは、かすかな違和感。

なにが、おかしいのか、私は気付かない。眼差しはおさまらない違和感に一瞬軽く戸惑うが、確認しようとする眼差しの先にふれていたのは、汗ばんで絡みつくふたりの女の体、日翳げの、そのあわい明るさを全体に浴びた、それだったに過ぎない。細められた眼差しは諦めて、外に出ようとした瞬間に、ミーが私を見つめていたことを想い出す。

振り返ってみたベッドの上で、背を向けたフエの後頭部の、黒づいて、寝乱れた髪の毛の乱れのさきに、ミーの、かすかに笑んでいる眼差しが見つけられていた。

見つめ返し、ややあって、私は微笑むしかなかった。やがて、私が立ち去ろうとするのに、明らかな拒否の色が浮かんだ。その眼差しに、

駄目

なぜ?

行ってはいけない

と、想うまでもなく、私の体がドアをすり抜けていこうとするのを、ミーは息をひそめて、やさしく、フエを起こして仕舞わないように気を使ってやりながら、やさしく、フエ。

フエはいつでも、苦しくて仕方がないかのように

もう

寝る。

一日に、十時間も

苦しくて

寝なければ

たまらないの

気が

すまない

わかる?

ミー。

ベッドから、身をすべらせたミーが、私を追う。

私は家屋の中を、とはいえ、どこに落ちつこうというあてなどなにもなかったから、さまようように。二つ目の居間で、水を飲む私をミーは見る。ずっと、微笑んでくれながら。私も同じように、笑み、そして、指先には水。

ほら

グラスのガラスを通して、感じられるはずもない

これは

水の触感。

水。いのちの

てざわり。

私から、やさしい眼差しを離そうとしないミーの、傍らを抜けて仏間の翳に、そして、風通しと日照のせいで、そこだけはとても涼しい。私が、ときに振り返る眼差しの、そして彼女も確認するのだろうか?ミーの肌に確認したように。私の皮膚に、落とされた翳が、私の歩くにしたがって、その翳の色彩と形態を、崩し、移行させて仕舞うのを。

光の庭。夕方、とまでは言獲ない。午後5時。仕事が終る時間、平日ならば。休日の5時。いまだに力を失わない太陽の光は、しだいにやさしさを強めながらも庭に降り注ぐ。庭は光の、明るさのうちにたたずむ。

庭を、私を確認した3匹の猫が親しげで、媚びた一声をくれて、瞬間の停滞の後に、あわてて走り去って逃げる。

素足が、庭のコンクリート地の上の、砂粒の触感に痛みを知る。庭の、ちょうど真ん中にまで出ると、ミーは、家屋の正面の、仏間の開け放たれた六面の木戸の端にたたずんで、私に微笑む。まるで、それを、私自身が求めていた気さえした。

たとえば、見て。と。もっと、と、ぼくを。そして、見て、と?

見て

ミー。

ぼくを

美しい、

見たいなら

華奢を極めた少年のような。中性的な

見つめて

少女のような。ミーの

ぼくを

真っ白い体が日翳げに

見つめて

曝され、

もっと

足元でだけ、直射に

ずっと

ふれる。

好きなだけ

声を立てて笑う。背後で、クラクションが鳴った。

門の先、ブーゲンビリアの向こう、主幹道路に一台のバイクが止まっていた。その、バイクにまたがった青年が、エンジンを吹かしてみせる。行こう、

...Đi !

と。

包帯を、頭にぐるぐる巻きにした青年。ショートパンツだけで、彼は上半身を日に曝す。体中に、傷がある。打身の黒ずみの点在。まるで、いまさっきまで死んでいた人間が、なにかの間違いで突然蘇って仕舞ったような、そんな滑稽さがあった。あの青年。結婚式でも逢った、ミーが痛めつけさせた、あの、傷だらけの青年。振り返り見ると、仏間の翳にミーはもう、いない。すぐに、Tシャツに首をくぐらせながらミーは駆けてき、彼女が履いている私のショートパンツは大きすぎてだぶつく。

広い庭の中に、わざと選んで私のすれすれにすれ違って見せて、私が嗅いだのは、その汗ばんだ体臭。寝起きの。他人の汗にさえ濡れた、その。

不意に立ち止まったミーが、振り返って、一瞬想いあぐね、すぐに私に駆け寄って、ミーの差し伸べた指先は私の唇をなぜた。目を閉じないままにキスをくれ、走り去る。傷だらけの成年は、ミーにやわらかい笑みを

好きだよ

投げ続けていた。

ぼくは

すべてが、と、

この世界

いつでも、

目に映るもの

すべてが、

感じられるもの

いとおしくも

すべてが

美しいのだ、と、

好きだよ

そんな

ぼくは

留保なき確信を

君のことが

ぶちまけようとしているかのように。

知ってる?

バイクの後ろにまたがって、ミーがヘルメットをかぶり終わらないうちに、バイクは走り去った。

居間のソファに寝転がって、Line を開けば、大量の土砂災害の画像と、おかゆを食べさせられている父親の画像が交互に届いていた。美紗子。母親。いまや、老いさらばえた。

最後に彼女を抱いてやった時、美紗子は何も言わなかった。そんな事実がかつてあったこと、それ自体が、すでに想い出されもしない過去になって仕舞ってから、たぶん十年以上経っていたはずだった。十代の私の眼差しが捉えた彼女と、三十の私が捉えた彼女とには明らかな差異が、あるいは、差異しか、なかった。もはや、あの頃とその頃とでは、あからさまに違う人物たちが、違う物語を生きていた。たとえ体を同じうしたところで、もはや同じうするものは何もない気がした。それが許せなかったわけではない。なぜ、あんなことをしたのだろう?最後に顔を逢わせた夜に、美紗子はなにも言わずに私を受け入れて、私は激しい嫌悪感に駆られながら彼女を抱く。当然のように、美紗子はすべてを許して、そして、その日の朝にも、当然のような朝の笑顔をくれる。おはよう、と。老いさらばえた声で。ひさしぶりに実家に帰ってきて、遠い外国に行って仕舞う息子に見せるのに、ふさわしい、その。

父親はただ、介護ベッドの上から、

ああーぃ

言う。

ぃーぃえ

体に

えーんなぁー

気をつけて、な。

なんども繰り返して。それら繰り返しを聴くまでもなく、すぐさま理解されていく母音だけの

ああんぁおおうひおおぇええ

言葉。美紗子は

いおいえぇえうんぁあ

にこついて、ときに

あいえんあぁああぁ

声を立てて笑い、肉体。

あがあんとおいとこえ

花。

ひこうきでいくんわ

色彩をなくした、やせた

たいへんじゃあなあ

全裸の青年が、目の前の床を

あんなに遠いところへ飛行機で行くのは

張っていた。ホア。まだ、

大変ですね

這うことも出来なかったころに死んで仕舞ったというのに。

そんな、経験のなさを嘲笑わせさえせずに、ただ、床の上を這う。ホア。

涙を流して仕舞いそうになる。そんな感覚が、喉の奥にくすぶるだけで、私はそれをただ見つめるしかない。

色彩の無い、昏さにそまって、顔を失ったホア、声を立てて鳴きもしない。昏い。

私はその子がよちよちと這うすがたをなどは見たことはない。変わり果てた、見覚えなど一切ないホアに、どうしても感じてしまう懐かしさの根拠はいったい、なんなのか。

ホアが、やわらかさの気配をさえ失ったその昏い両手足を引きずるようにうごかして、這っていくその先から、床の緑の御影石を血の、鮮烈な紅彩が筋をひいて穢していく。ときに、どこから吐き出されて仕舞ったのか、ぶちまけられた血の飛沫をさえ飛ばしてみせながら、飛沫。

歌舞伎町のホストだった二十代の頃に、出会ったその女、私に貢いだ、あるいは、私を買った、その、四十代のアパレルの女社長は私をすべて脱がせると、飛沫。

彼女の表参道の、かならずしも広くはないリビングの真ん中に立たせて、ねぇ。

言った。

「ひざまづいてみて。」

欲しい?

酒に弱い女だった。シャンパンの数杯で、すぐに

わたしが

酔いつぶれて仕舞うくせに、

欲しいの?

何時間も、ずっと

あなたは

酔いつぶれたまま起きている。だから、ずっと、

欲しい?

酔いつぶれた眼差しを私に

わたしが

向ける。彼女がその人生の

欲しいの?

経験のひとつとして、

あなたは

捉えた私の姿の九割以上は、だから、ほぼ、酔いつぶれた眼差しが捉えた、かすんで、ゆがんだ形態にすぎなかったに違いない。たとえば、彼女の

見えますか?

眼差しが私の、色彩のないくらい翳をいつか

あなたは

見出したなら、それを私だと

わたしの顔

気付くことができるのだろうか。

笑った顔を

犬みたいに。」

泣いた顔を

ね?」

怒り狂った顔を

表参道沿いの、古いマンション。グランド・フロアから

倦み果てた顔を

「ひざまづいて見せて。」

侮蔑

数えた二階、ようするに三階、窓から街路樹の

軽蔑

てっぺんの茂みの、深い時間の

訴えた非議

朝の

にくしみ

葉々の

浪立ちが、

あふれでる

ざわめく。

ね。べろ、

女は、

「だ、」

名前は忘れた。確か、恵子、けいこ、さん。彼女は

「だし、し」

夕方に待ちあわせて、彼女の原宿の会社の近くで食事をして、店に行く前に、雑な歌舞伎町のホテルで私を求めて、店に行って、朝が来て、そして、

「だっ、し、」

彼女の自宅に連れ込む。いつものように。ねぇ。

「べろ、だし、し、し、出して。」

来て。媚びて、笑う。来てよ。

ねぇ」

見せたいもの、あるの。そんなもの

んにぃねぇええー

ありはしないのに。

きぃって。きっ

なにも。

みせたぁぃもんの

いつものように

ああんぉ

来て。

「犬っころみたいに」

午前、10時。

いにゅっ、っこ、ろぉみ、たいにぃい

たぶん。時間、そんなものは、どうでもよかった。あのころ。時間はただ濫費させれるためだけにしかなかった。流れ出し、あふれ出し、好き放題に停滞し、時間。私のその、好き放題の濫費は、なにをも生み出しはしないままに女たちに金を支払わせた。私はその大量の金銭を喰い散らした。そして、彼女たちが喰い散らし獲たのは、結局は私の肉体が与えた彼女たちの、かならずしも肉体上のそれでだけはない充足以外にはなかった。

微笑みながら、スリットの入った短いスカートいっぱいに、引き裂かれそうなほどにだらしなく股を広げて、ときにふらつきながら立ち尽くす彼女の目の前に、ひざまづいてやる私は微笑んでいる。脛に、張り替えられたフローリングの質感がある。やわらかい。防音素材なのだ、と言った。だから、大丈夫。

潤が、いっぱい声、だしても。

「犬みたい」

と、笑う。女は。いっぱい、声、

ね?」

出して。

「ねね。犬?」

不意に、ねぇ。声を

「ね。」

立てて笑って、声、立てちゃう男、

「ねぇ

好きなの?

「誰の犬?」

嫌い。死ぬほど、嫌い。けど、

ねぇ」

潤のは

やぁあれのいんぬんあぉ?

聴きたい。

にぇぇえ

好きにしろ。と、私は、そして私はその時の声を立ててやった。耳元に。まだ、何もしていないのに。これ見よがしに。彼女と向い合わせに立ったままで。激しく、えづきながら、

「誰の犬なの?」

息をあららげ

やれぇんぃにゅぁあのぅお

もう、なにもかもが耐えられないように、

もう

その声だけを。もっと。

んむぅぉうぅ

もっと、

も、ぉうぉ

叫んじゃって。

ねぇ」

にぇぇえ

女は言った。

「誰の?」

叫んじゃっていいよ。

やぁれえのおぉお

「お前の、犬じゃん?」私は、言った。上目遣いに、彼女を見つめ、「決まってるでしょ?」お前のね?

じゃない?

「お前だけの犬でしょ。」

違う?

「うそ」

うちょおおあー

女が叫んだ。大声で、笑い出して仕舞いながら。いま、為すべきなど、叫び、ただ叫び、泣き叫ぶがまでに、そして笑い、大声で、大丈夫。

誰にも聴こえはしないから。

だいじょうぶ。もう

朝の日差し。

なにも

「うそでしょう?」

気にしないで

まばゆいような。

うちょぇしやうぅ

「知ってるよ」

ちてりるおぅう

向かいにはショップのガラスが

んにゃぁあは

「何人とやってるの?」

んにぇぇえ

反射光を曝す。どうせ

にゅあん

「何人に舐めさせるの?」

んにぇぇえ

だれにも見られはしない。

てぇばあ

「何人妊娠させた?」

んにぇぇえ

反射光がすべてを

んぅうぁあ

「何人降ろさせたの?」

んんんー

おおいかくして仕舞って

にゃぁぃん

「何人、壊したの?」

んんー

すべて、ことごとくの

「泣かせて、」

にぇぇえ

すべてを

「ぼろぼろにして」

ええええぇえぇえ

むきだしのまま

「ぐちゃぐちゃにして」

っ、ってぇ

なにをも隠し獲は

「生まれてきたこと、」

く、くぅ、く

しないままに

後悔させてさ」

く、んうぅう

ただ、光。その

「でもさ、」

んくぅんんんん

美しい

「あんたのこと、

にぇぇえ

光が

「想いきれなくてさ」それ、さ。

「自分のことでしょ?」私は言った。「それ、お前の、自分のことじゃない?」ボロボロにされたい?笑う。一瞬、堕ろさせられたい?不意に私は、戸惑って、棄てられたい?すぐに、そして女は笑む。

どうせ、俺のこと、私は。

微笑む。「忘れるなんて出来ないから。」彼女のためだけに。好き、と。

「死んじゃえば?」

ただ、好きなの。

あなたが。

わたしは

好きで、好きで、仕方なくて、好きで、と、そんな。それらの言葉を

好き

「俺に棄てられたら、

わたしだけを

貼り付けたような、

好きでいてくれる

みだらで、

そんな

いびつで、

あなたが

てか、」

好き

穢らしく、だらしなさ過ぎる笑みが女の顔から離れない。「てかお前、もう。

ね?「死んじゃえよ。」むしろ。私は言った。「いま、お前、」さ。「ね?死んじゃえ。」

「なんで?」

あんんぇえ

「俺のこと、見つめながら死ねるから。」いきなり、「幸せじゃん?」ひざまづいて女は私の唇に、咬み付くようにむしゃぶりついて、そして、終には本当にやさしく咬んでさえ仕舞うのだった。私の体には、指一本触れないままに。ただ、飢えた唇でだけ。まるで、それが全世界共通の、淑女のたしなみでさえあるかのように。

エレガントめかして。

やがて、ながいながい飽きもしない口付けのあとに、離された唇にいまだにあきらかにその名残りをただ感じようとし続けながら、開いた瞳孔。潤んだ、女の。

女は、立ち上がってキッチンに行き、何日か前の朝に私が抜いてやった、その、赤ワインを持ち出して、さかさまに差し込まれたコルクを抜くと、無造作な音が立つ。

見えますか?

なぜか、女は

わたしの顔が

声を立てて

あなたは

笑って仕舞う。

見えますか?

とっくに、酸化してして仕舞っているはずの

笑っています

かならずしも

あなたのために

もとからたいして

泣いています

旨くもなかった失敗作の

あなたのせいで

ロマネを、逆立てたボトルに、

微笑みます

口に

あなたの

含む。

未来に

ネックをくわえた唇の端から、ワインが垂れて、線を引く。肌の色は白。かすかにきな粉くさいファンデーションを、執拗になんども叩きつけられ、塗りこめられたそれ、皮膚。肌。飛沫。

口を膨らませて、すぼめて閉じられた唇のはしからこぼして仕舞いながらも、女は私に、ワインを吹き付けるのだった。顔にまで飛び散る飛沫に、私は目を閉じて、声。閉じたまぶたのうちに、女は笑った。私は私を食い散らす、声を立てて。ナイーブで、ナーヴァスな、かすかな音を聴く。しゃく、しゃく、しゃく、と。

なにも、食い散らせはしないのに。むしろ、噛み付くことさえできはしなかったのに。

私の体中を、彼女が吹き飛ばしたワインがぬらしていた。匂う。むせるような、倦んで、熟れた匂い。もはや、ヴィネガーのような酸味を立てているはずのそれの。女は一人で笑い続けていたが、彼女が不意に沈黙して仕舞った理由を、私は見ない。

私の眼は、閉じられていて、かすかにしみこんだワインの、小さな痛みに涙をにじませているのだから。

ひざまづいたに違いない女の唇が、わたしの萎えたままのそれの先端にふれた。いつくしむように、唇をだけふれ、半開きのままに、おそれたように舌をはふれない。

いつも、誰かに、あるいはなにかに教わった、穢い音を立ててしゃぶりつく、馬鹿げた流儀でしゃぶりつくものなのに。

年取ってから、

唇が、ゆっくりと、

覚えたの

下腹部の皮膚を上昇する。ただ、

エロい?

かるく、寄り添うように触れるだけで。女の髪の毛の醗酵した臭気が匂う。汗と酒気を含んだ。ナイーブな音が、私を食っていく。ナーヴァスな音を好き放題に立てながら。

彼女の体にはふれない。私は目を閉じたままに、ひざまづき、おろされただけの両手は、なにものにもふれなかった。

唇。胸に這って、両方の乳首を、なんども女は確認した。ふれるのは、その唇と、彼女の、もたれかかる汗ばんだ髪の毛だけ。

そして、吐かれたなま暖かい息。それは酒気を匂わせて、匂う。酒と不自然な汗にまみれた女の体臭。

みぞおちを、喉を。そして顎を這いかけたとき、溜まらずに女は舌を出した。

舐めた。

やがて、飢えを満たさなければもはや生きてさえいけないかのように、私の唇をもう一度むさぼったときに、私は、この女がすでに私に愛されてなどいないことをなど、知りすぎているほどに知っていることに、何度目かに気付いた。

好き?

もっと、と、想う。

あなたは

見ればいいのに。

わたしのことが

もっと。

好き?

求めればいいのに。

わたしをしか

もっと。

愛せない

ひざまづいて。

あなたは

もっと。

わたしのことが

自分の魂をさえ

好き?

崩壊させて仕舞いながら。

たとえば、自分の喉を掻き切っても飽き足らず、地獄の底にまで焼かれながら堕ちて仕舞えば。

あるいは自分の自傷された肉体を血まみれにして、生まれてきたこと、そしてここに存在していること自体を後悔しながら、自分で自分の頭を壁にたたきつけて、砕き果てて仕舞えば。

絶叫とともに。

そして両眼を自分で抉り出し、自分で舌を引き抜いて、自分で自分の首を絞めながら自分の最期の吐瀉物にまみれながら窒息して仕舞えば。

全身に言葉ももはやない痙攣をだけ曝して。

もっと。

むさぼればいいのに。

もっと。

それしかできないのだから。

ねぇ。

それしか能がないのだから。

もっと。

生きている根拠も、生まれてきた理由も、そのそもそもの存在原因それ自体が、愛してもくれずに心に留保なき軽蔑をしかもってはくれない私にただ焦がれて、憧れて、求めて、慕い続けて、そして壊れていくことでしかあり獲はしないのだから。生きた価値さえ在りはしない。

私の閉じられた眼は、何をも見い出さなかった。何を見つめない、閉じられた眼差しの中の、まぶたごしにかすかに明滅するのは光の、その穏かな残像。

その向こうに、女の息をひそめた眼差しが私の体を見ていて、彼女が愛して止まないもの。ただ、欲しくてしかないもの。彼女は見つめ、そして、ふれようともせずに、私の眼差しがふたたび見ひらいて、むしろ彼女を奪って仕舞うことをだけ、求める。

 

夕方の6時、その日の空は焼けなかった。曇っていたから。5時あたりから急激に雲を知り始めた空は、南のほうから黒ずみを曝した雲の群れに支配され、ときに小雨をさえ降らせた。

夕方は、ただ、ゆっくりと光を失っていくだけに、その光の色彩の変貌をとどめる。

それは別にそれでいい。夕焼けの空は、好きではない。

ナムがひさしぶりに私たちのうちの裏道に、彼の白いスズキのバイクで乗りつけたとき、ミーは出て行ったままだったし、フエは相変わらず寝ていた。いつもの、眠りに堕ちてあること、それ自体が苦痛以外の何ものでもないのだと、そんなたたずまいを、その折り曲げた全身に曝して見せながら。

ひさしぶりだね

Khỏe không ?

笑いながら、彼の不意の

Long time no see

訪問に、開かれたシャッターに凭れて私は

Lâu rồi không gặp

手を振って、今日帰ってきたばかりだと

久しぶり

ナムは言った。ナムは、私と同じ年で、インドに1ヶ月ばかり出張していた。電気技師だった。若い頃、ロシア、当時のソビエト社会主義連邦という国に留学して、発電技術を学んだ。故国は中国だかカンボジアだかといまだに戦争をしていた。いま、中国の企業と、その安価さを根拠としてメインに、ときに、日本の企業と、その技術的な正確さを根拠としてサブに、技術協力を受けながら、ベトナムのあちらこちらに発電所を作って回っていた。その現場管理が彼の仕事だった。そして、要するに現地の技術者たちと、仕事が終った後に飲んで騒ぐのが。

英語を専門的に勉強したことはない。私と同じように。日本語はそもそもが読めもしないから、結局は私たちはむちゃくちゃな、想いつきの英語文法で、でたらめな会話を繰るのだった。

今日は何の日か知っているか?

知っているよ。と。4月30日。サイゴン陥落。その40数年後の記念日。初めてベトナムに来たときの4月30日は、ちょうどその40周年だった。しかも、そのサイゴン、そのちょうど40年前の日に、ホーチミン市へと名前を変えた、旧南ベトナムの首都に住んでいたから、町の中心部はお祭り騒ぎだった。とくに、フランスの植民地だった頃にフランス人たちが、菜食日さえある根強い仏教国に作って仕舞った、聖母マリア教会の周辺などは、でたらめなほどに。

フエと、出会ったばかりだった。フエは、私が協力していた、縫製会社の海外出店のコンサル仕事の、その現地法人のアカウンターだった。いまは、やめて、もっと大手の、日本の貿易会社のアカウンターを、していた。

会社に、日本人が来たとき、はじめまして、と、日本語で挨拶したら、本気で驚かれたと言った。

夫が、日本人なんです。

おとわにほんでぃんえっ

そう。すごいですね。

喜んでくれた、と言って、私に喜んだ。その現地法人に日本語が出来る人間など一人もいない。結局のところ、日本語を教えたところで、まともな会社に就職するためにはなりはしない。英語と専門能力しか求められない。

考えてみれば当たり前だが、日本語をどれだけ勉強したところで、貨幣価値の格差にもまれて差別的なバイトに明け暮れるために日本に留学するか、日本の地方の下請け企業に《有償奴隷》として買い叩かれるか、それ以外には展開のしようもない。あいうえおさえもまともに知らない人間たちが、日本産の一流企業の現地法人の、その管理ポストを占めて、かの、世界一習得困難な言語を、外国人のくせに無理やり習得した人間たちには、日本人のためだけの《奴隷》にでもなるよりほかにない、そんな、容赦もない理不尽なねじれが、彼らを襲うことになる。そして、私もそのねじれの一端の中に巣食って、いまだに持たざるものたちのなけなしの金をふんだくりながら、《奴隷》になるための教育というものを、施しているのだった。

かの国の、自国語しか話せない類のいわば下等な人間たちに愛されるための、最低限度の日本でしか通用しない礼儀作法を教えるなどして。まるで、奴隷に下僕服の上品でエレガントなな着方を教えようとしているかのように。国際倫理公認の、留保なき《奴隷商人》たち。

Trơi ơi...

と。ナムは、

マジかよ

私が4月30日の意味を知っていることに、大袈裟に驚いてみせ、サイゴン陥落。ベトナムでは南部解放、ダナン市には4月30日通りという名の大通りさえあり、それは、その日に南ベトナムの首都サイゴンが陥落した、という意味をは表さない。実際には、サイゴンおよびサイゴン政府など、その日にはすでに陥落していた。崩壊し、政権としての実体さえなく、アメリカに見棄てられた後の戦後処理に終われていただけだと言っていい。殖民地以下の存在根拠しかない、冷戦戦略上の単なる傀儡国家は。4月の始めにはすでに、実質的には決定して仕舞っていた敗戦の、戦後処理と撤退だけが、在留米軍をも含めた彼らの仕事のほとんどすべてだった。

名目としては、未だに終戦をは宣言しない中での一ヶ月をかけた、ぐだぐだでへろへろの完全撤退への猶予。敗北の確定へと至るしかない、すでに敗北して仕舞っていた彼ら、南ベトナム人、ある意味で、二重に《故国》に見棄てられて仕舞っている人々。《南ベトナム》はすでに彼らを見棄て、やがて来るべき《統一ベトナム国》は生まれるより前にすでに彼らを見棄てている。すくなくとも、彼らにとっては。その軍人、民間人、そして残留している米兵、民間アメリカ人、韓国兵、彼らが見た、約一ヶ月に渡るいつ唐突に終るとも知れない、信用の一切出来ない無様な猶予の風景は、どんなものだったのだろう?日本の8月15日とは、全く別の風景のはずだった。もう終っている、しかし、まだ、終ってはいない、のだ。

日本の8月15日に、一気に起こった旧・大日本帝国の完全崩壊は、もはや国家が存在しないと言うことであって、同じ一つの国が戦前と戦後の変化を体験したなどとは言獲ない。それはひとつの国家の留保なき消滅と、新国家の樹立に他ならない。連続性など何もありはしない。天皇でさえも、同じ天皇制のもとでの在位ではない以上、改めて制定された新天皇制が新たに擁立した、単なる新しい君主の即位にすぎない。同じ天皇が人間宣言をしたなどとは言獲ない。人間宣言を許に、新しい王は即位させてもら獲たのだ。

そうした、容赦もない断絶を経験しなければならなくなるまでの、その、一ヶ月に渡るながい猶予。

サイゴンの外には北ベトナムの戦車隊が待機している。4月30日、シグナルコードの《ホワイト・クリスマス》をかき鳴らすラジオが鳴り止まない中に、米兵たちは完全撤退し、頃合を知ってから、誰もいないサイゴンに、北ベトナムの戦車部隊は突入する。そんな日の、記念日。

フエをは、起こさなかった。起こしてもよかったし、どちらでもよかった。人懐っこく、外国人馴れして礼儀正しいナムは、同じように外国人馴れした職業エリート層のフエに愛されていたし、そして、ナムは大酒飲みだったから、その片一方で疎まれてもいた。フエは寝ていた。苦しそうに。苦悶の表情に塗れながら、彼女は彼女が大好きな睡眠をむさぼっていた。彼女を起こす必然性はなかった。私には眠るフエの頬に、軽くキスをくれて、出かけよう。

Đi chơi

そう言って私を誘うナムに従ったのだった。

お気に入りのバイクを走らせながらナムが気まぐれに、意味もなくふかして見せるエンジンは、追い抜かれる人たちを例外なく驚かせて仕舞いながら、バイクの後ろで、すでにどこかで何本か飲んでいるはずのナムの運転に私はゆられる。

君に、英雄を紹介しよう、と

Introduce hero Việt Nảm

言った。

誰だ、と言っても、ながいながい話なんだよ、と、

Long long story

それ以外には返そうともしない。声を立てて

Khó

大袈裟に笑って見せながら。

いろんな外国人と一緒に仕事をしたが、日本人とドイツ人が一番まともだ、と言った。中国人が一番ひどい。まるでベトナム人だ。そして彼は、いつも言う。ベトナムほど美しい国は無いと。知っているか?かつて中国人は言ったものだ。ベトナムのことを、南の果ての美しい場所、と。そして、ベトナムの軍隊は世界で一番強い、中国がなんどやって来ても、結局は負けたりはしないのだ。公式人口二十倍近い中国人の烏合の群れ如きには。

酒が入れば、いつも同じ事を、まるで初めて言って聴かせるように言うナムの後ろで、主幹道路を曲がり、ロン橋 Cầu Lôngという、のたうつ龍をかたどった黄色い橋を渡る。

ハン川。昏んで仕舞った浅い夜の光線の中は、泥色の色彩を隠しとおして仕舞う。ハン川をまっすぐ行った、2キロにも満たないすぐそこの海からのぶ厚い海風が、このあたりのすべての橋には横殴りに叩き付ける。ここの風が止まることなどありえない。止まるとしたら、それは海が干からびるか、世界が終って仕舞うときでしかない。

開発されてほんの十年足らずの新興観光地は、その中心部には、どこも彼処もイルミネーションが施され、眼差しを休める隙もない。空の、昏んだ表面さえも、うすく、朱や紫に染まっているしかないのだった。

橋を渡った向こうの、四車線一方通行の主幹道路を曲がり、その道路沿いの、けんかしてばかりのナムたち夫婦の居住マンションの手前、市場の通りの一番手前のブロックの、古びた廃墟じみた低層家屋の前にバイクを止めた。

一階の、ガレージと居間を兼ねたスペースのシャッターは完全に開かれきっていて、その奥の右の隅っこに、小さなテーブルを置いた老婆が、私たちを振り向いた。

ナムに気付いて、手を振る。

老いさらばえた歎くような眼差しは、私をは、まだ捉えようとはしない。右目に翳りがある。斜眼なのかと思った。そして、白内障なのかと想った。最後に、それが義眼であることに気付いた。

黒目を暗示すべき部分には、まるで何らかの眼球疾患をわずっらているかのように、薄い灰色の丸らしきものが彩色されているだけ、それはどこからどう見ても、黒目とは見えようもない。眼窩の骨盤の異常か何かのように、そのサイズがかならずしも合ってはいないらしい義眼は、ふかく、ふかく、脳にめり込んだように落ち窪んで見えるので、とにもかくにも、右目の周囲に留保なき異常性をのみ、刻む。

なぜ、そんな効果をしかもたらさない義眼などがそれでも必要なのか、私にはわからなかった。

年のころは、60代後半。わかく、老け込まない70近い老人だということが、その、荒れてしわんだ肌に気付かされる。それでも、彼女はうすく口紅をぬって、そして、美容の刺青が施してある眉のラインを鮮やかに曝した。

年齢が、いまや、若い頃には美しかったのか、そうでもなかったのか、その名残りを感じることさえ禁じて、ただ、右目に異常のある老婆、としての情報しか、もはや視覚にはもたらさない。

ナムが、いつものように人のいい微笑みを、その顔と身振りのいっぱいに曝してみせながら私の名前を教えて、日本人だよ、と言うと、老婆は、私の苦労をねぎらうような声をくれて、私の手を取った。

しわだらけの手のひらの、ふやけたようにやわらかく、そして不自然に火照った体温が、彼女の加齢を容赦もなく私に突きつけた。

彼はベトナムに住んでいるんだよ。彼の奥さんはベトナム人なんだ。ここで、日本語を教えているんだ。と、それら。

言葉。

老婆の足元に屈みこんだナムが耳打ちする、私についても情報の数々に、老婆はなんどもナムにだけ、耳打ちした。

フエが殺して仕舞った彼女の父親は、私が初めて彼に紹介された日に、古い皮の、反れてひんまがったパスカード入れの中に保管されている、軍役時代の、少年兵だった頃の写真を見せてくれた事がある。その後、初めて会う人間の片っ端からが、彼に見せられる写真であることを知った。

見てくれ

いずれにしてもその

これが

白黒の、褪せかかった写真の中に、

俺だ

一人の、老いさえばえてからの姿には名残りさえ残っていない痩せた躯体の、将校服姿の少年が写っている。幼くはあっても、精悍とは言獲ない。

年齢にして、たぶん十七八くらいなのだろうか。いずれにしても、1975年の時点で三十年も続いていたことになるながいながい戦争の、最後の終わりが見え始めた時期に、彼は銃を取ったということになる。

あまりにも一般的で、通俗的にさえ感じられる感慨なのだが、目の間にじかにふれ逢っている人間が、その手に銃を取って、人に向って発砲し、あるいは爆弾を投下して、理由はどうであれ、殺戮と破壊を重ねたという事実に、軽く目舞った。そんな、記憶があった。

ナムが、ネムという、練り物をバナナの皮で包み込んだ、よくあるみやげ物を老婆に手渡そうとすると、いきなり激しく拒絶して、老婆はかたくなに手を触れようとはしない。

あなたみたいな若い人が、わたしみたいな老いぼれにお金なんか使っちゃいけない。と。

渡そうとする者、渡されようとはしない者、その、いったりきたりの終わりのないありふれたやり取りが終らないままに、立ち上がった老婆は、不意に想いついてビールを取りに行ったのだった。奥の、埃塗れのくすんだ冷蔵庫の中から。ここでは古びた冷蔵庫は日本製に決まっていて、新興富裕層の新しい冷蔵庫は中国製に決まっている。

私の、彼女の背中を追う眼差しが捉えたのは、そのいかにも不自由な義足だった。

失われた眼のちょうど反対。左足に義足がはめられていて、それをどうしようもなく無様によろめかせながら歩いているのは、その明らかに質の悪い義足のせいというよりも、加齢のために弱った足腰全体のせいなのかも知れない。

ネムを包装したバナナの葉を開いて、テーブルの上の、干からびた何かを付着させた皿の上に出すと、置きざらしのくだものナイフで、練り物を切って行った。粗末で空気のように軽いプラスティック皿の上の、乱雑に描き棄てられた中華風の貴婦人の絵柄が、適当に撒かれるネムの茶色に消されていく。

薄汚い家屋だった。ブロックを積んで、それをコンクリートで固めた、中華風と言うのか、アメリカ風と言うのか、フランス風と言うのか、それとも要するにベトナム風なのか、この国によくある建築様式の建物であるに違いない。

照明はただ、天井から裸電球が二三個刺しているに過ぎない。ガレージには、座席シートの合成ビニールをいっぱいに罅割れさせた年代物の自転車が錆びたまま置いてあって、何かの飲食店が、かつて此処で営まれていたに違いない名残りがくすんだ四方に感じられた。

私の肩をたたき、壁を指差したナムの、そのほうを見れば、壁の一面に、さまざまな賞状と、色あせた写真パネルが飾られている。

賞状に何が書いてあるのかはわからない。写真はどれも、若い彼女が誰かにどこかで表彰されている記念の写真であって、6枚ほどもあるその中の一つに、この国の、最初の国家主席たる、ホー・チ・ミンと並んで移された写真がある。

ハノイ市の、巨大な廟の中に未だにその遺体が安置されている社会主義国の象徴的国家主席なのだから、その待遇の程が推測された。もっとも、ホー・チ・ミン、現地ではかならずバック・ホー(ホーおじさん)と呼ばれる彼は、1969年に亡くなっているので、その意味では、彼が一度も統一国家たる現ベトナムの国家主席であったことはない、とは言える。結局のところ、南ベトナムと北ベトナムとは、内戦を繰り返してばかりの、あるいは、繰り返させられてばかりの、お互いに正規の国家承認のされていない不法支配領土に君臨するふたつの非合法政府にほかならず、そして、彼はその、優勢な片一方のリーダーだった、と言うことになる。あくまでも、正確に言えば。

いずれにしても、その国家的英雄に、彼女は肩を抱かれて祝福されているのだった。苦難を耐え忍び、戦う勇敢なる国民のアイコン、あるいは英雄、要するにナムの言うHero として。

彼女はヒーローなんだ、と、ナムが私に、なんども嬉しそうに笑って見せながら話しかけた。

町の、中心部のど真ん中にあるので、ふきっさらしに、庭の隔たりさえない車道沿いの家屋の中には、ひっきりもないバイクの音と、通り過ぎる韓国人旅行者たちの集団の、それら声の群れまでもが、切れ切れに飛び込んでくる。韓国軍も、かつて、あの戦争で、南ベトナム側の援軍として介入していたはずだった。虐待と、性暴力と、結果したライダンハンという韓越混血児の問題を撒き散らしながら。

いつかどこかで聞いたかもしれない、自分に銃を向けた韓国語を、彼女はどんな風に聴くのか気になった。もっとも、それを言えば、その韓国人たちが、たとえば私が話しかけたときに、かつての宗主国言語だった日本語をどう聞くのか、とも言える。

いずれにしても、老婆はよろめきながら、冷えたサイゴンという名の南部製のビールを持ち出してきて、そして、それは、その銘柄がナムのお気に入りだったから、に過ぎないのかも知れが、私たちは老婆が、私たちのためだけに缶ビールを空けてくれるに任せる。

小さな、彼女のテーブルに、ばらばらの椅子を持ち寄って座り、いま、彼女の身の回りの世話は全部、国がしてくれているんだ、と、ナムは言った。

この家も国が配給したものだし、毎月の食事代も、それに医療費も全額無料だ。そして、と、彼は繰り返す。なぜなら彼女はヒーローだから。

Vì là chị hero

エロー、と、なぜかフランス語風の読みかたで。

アメリカ軍が、ダナンに侵攻してきたときの、最初の捕虜の一人なのだ、と言った。

30キロもの資材袋を担がされて、山の上まで登らされたものだ、と彼女は言った。山の上の在留拠点まで、毎日運ぶのよ。なにが入ってるのかなんて知らないわ。苦しい仕事を与えるのが彼らの仕事だもの。彼らだって何が入ってるのかなんて知りはしないわ。もちろん、その時には、もはや、片眼と片足は吹き飛ばされていた。いうまでもなく、米軍が最初に侵攻してきたときの、空爆や、陸上の銃弾、それら、硝煙と轟音と血と悲鳴が散乱する、その時のどれかのなにかのなんらかのときに。

子供の写真もあるので、夫を得て、出産したのかも知れない。とはいえ、すくなくとも、いま、彼女の身の回りには彼らはいない。生きているのか、死んでいるのか、その詳細を問う気にはなれなかった。

飾られた色褪せた写真の群れは、彼女と子供たちの、徴兵などには無縁だった幼いある時期をまでしか見せてはいないのだから。

ほんの十数年前まで、第三次インドシナ戦争が片付くまで、中国、カンボジア、いずれにしてもずっと戦争ばかりしていたのだから、この国にいるある世代までの国民とは、基本的には戦火の生存者であるにほかならない。

膨大な量の生き残らなかった死者たちは、彼らの傍らに言うまでもなく存在する。ここに。

と。

時々、アメリカン人が来るのよ、と、そう彼女は言う。聴き取り難い英語で。取材のために、だろうか。学生の歴史調査?いずれにしても、インタビューのために、と彼女は言った。

そのたびに、私は何も話せなくなるのだ、とつぶやく。歎きを気配させて。耳に残って離れない英語の響き、かつて聴いた米兵たちの英語の群れの中にいた日々がいやおうなく想起されて、どうして何も話せなくなる。だから、もう、なにもかも、そう言うのはお断りしているのよ。

と、話す、彼女の英語での発声を、私は耳を寄せるようにして聴く。かつて、短期間でも、この国の宗主国であった国からながれついて来た、この私は。

そんなに長い時間、老いた女を煩わせるわけには行かなかった。そして、そして、ナムもすでに何杯も友人たちと飲んだ後だった。頃合いを見て、私たちは辞した。

 

 

 

 

 


それら花々は恍惚をさえ曝さない #7

 

 

 

 

 

家まで送ってくれたナムを握手の後に見送って、フエの家には明かりさえもまだ、つけられてはいない。私が出て行ったときそのままの、開けっ放しのシャッターをくぐって、点在する夜の光にだけ照らされた薄暗い室内の、なにかの残像のように見えるものの翳りを、眼差しにただふれさせる。

室内の暗さに目がまだなれない。

その馴れない眼差しの、翳りを追うしかないおぼろげさを、私がつけた照明の鮮明さが、名残りも何もなく一気に破壊して仕舞う。

まばたき、フエの気配さえもない。ミーは、まだ帰っていないようだった。

振り向いた、ソファの黒いビニールの上に、あの男が座って、血を流していた。いまや、両眼からさえ、細い血の筋を垂れ流して。

フエの父親。娘に惨殺された男、あるいは、娘が自分を殺して仕舞うことを許した男。見たこともない、ただのあなぼこ。その、色彩のない昏い実在に、静かに、音もなく上方、天井に向けて、血の鮮烈な色彩を垂れさせていく。

私に向けらた眼差しは

ほら

私をは

ぼくは

見てはいない。

ここにいるよ

なぜ、と想う。なぜ、こんなところに目覚め続けているのか。あるいは、なにも破壊しもせず、何も救済せず、それどころか、なににもふれる事さえも出来ず、何をも見出すことことすらできはしないくせに。

寝室に行くと、フエは横たわったまま、寝ていた。そう想っていた。最初から。そうに違いなかった。垂れ落とされた蚊帳をはぐって、ベッドに腰掛、背中を向けたまま彼女の頭をなぜると、不意にフエの手のひらが私の手をつかんだ。

Đi đâu ?

どこへ

Anh

フエ。

Đi đâu ?

行っていたの?

Anh à

とっくに目覚めたままに、身を転がしていたフエ。照明をはつけないままの室内の暗がりの中に埋もれ、たしかにあの、苦悶の佇まいはなかったのだった。ただ、目が閉じられていただけに過ぎなかった。

ナム。と、彼の名前だけ口にすると、フエはなんとなく、事の次第を察して仕舞う。そう。

彼と。

と。

そして手の甲を、彼女の手のひらが包み込んで離さない。

もう、8時を過ぎていた。たしかに、さすがに、目を覚ましていないわけもなかった。暗がりの中で、彼女の肌はいよいよ黒く、沈み込んだ。

遠くに、近くのロン橋の広場で行われている何かのイベントの騒音が、かすかに聞こえた。風に乗って、あるいは風に邪魔されて、その、若干不安定な音響の向こうに、鮮明に、あの、私を食い尽くしていく、ナイーブで、ナーバスな音が拡がる。

音が、音をたてながら、私を食っていく。

牙さえも無くて、なにに立つ歯もないので、噛み付くことさえできないくせに。ねぇ。

おなかがすいたわ。

Đói quá

つぶやいて言ったフエの眼差しは、私を振り向きもせずに、ただ、つかんだその手の平にだけ私の存在を確認する。

あるいは、澄まされた、その五感のすべてで。

冷蔵庫の中に、食べ切れなかったパーティの残りが、もらっておいてあるの、と彼女は言った。断るのにも関わらずに、あの新婦の女がつつんで無理やり渡したらしかった。

ビニール袋の中に、そのまま無造作にぶち込まれた、ゆでた鳥一匹を骨ごと潰したその料理、中部のパーティで必ず供されるそれを繊維に添って、千切って指先につかんむと、指先に、冷やされきった鳥のべたつく油がじかにふれて、指先はべとつかされる。香辛料が酸く匂う。

ベッドに座って、彼女に差し出してやれば、あお向けたフエは口をあけてほら、

ね?

と。

あーん、

à......

その無言のジェスチャーのままに、私は彼女の体を穢さないように鶏肉の断片を、半開きの口に運んでやった。

つかんだ骨の、叩き折られた切れ先が、彼女が咬み付くたびに指の腹ににぶく踊る。ここでは、くちゃくちゃと音を立てたところで、誰も何も言わないばかりか、むしろそれが当然なので、彼女も当たり前のように唇を舐め、耳になでつく咀嚼のやわらかい音を立てながら、咬む。

フエは、私以外の外国人の前では、さすがにそんな音は立てなかった。外資系企業のアカウンターばかり遣っていたので、その程度の知識くらいはあるのだった。

手羽先の、複雑にへし折られた残骸を、結局はうまく食いつけなくて、フエはそのまま口の中にくわえ込んだ。私を見つめた眼差しの奥で、彼女がむしろ、口の中にくわえ込まれた鳥の骨の断片の、その触感が与える映像を追っているに違いないことは、私には知れていた。黒眼が、ふるえるように、かすかに揺れた。

しゃぶり取った骨を、舌でつきだして、唇にくわえ、

Ăn đi

ほら

たべなさい

言う。

あなたも

私は

Anh ăn đi

首を振る。

No rồi

微笑む。私は。

おなか、いっぱいだよ。

彼女に。

Xấu

かすれた声。

駄目よ。

咥えられた骨のために、うまくは発音できないベトナム語の音声。

Ăn đi

ベッドに投げ出されたままの、フエの両腕は、何ものをもつかまない。頽廃。

ほら、

頽廃と言えば、これ以上の頽廃もない気がした。

たべなさいよ。

為すすべもなく、喰うと言う最低限度の生き物の行為にさえも、戯れてみせるほかにない。

身を屈めて、彼女の咥えた骨を唇に奪ってやる。鼻で笑った彼女の、その、息がかかった。左手に持ったビニール袋の中に、そのまま骨を吐き棄てた。

フエの指先が、足の付け根だかどこかの骨を拾う。皮が千切れそうにぶら下がって、フエの指先にへばりついて震えた。

...ăn đi

唇にふれそうなほどの至近距離に差し出されたそれを、

Anh

彼女の指先に歯をふれさせながら、私はしゃぶりついた。フエの眼差しと、唇から、微笑みが消えない。私はフエを見つめていた。

Ngon

決して、

おいしいでしょう?

他人が作った料理を褒めない、フエ。

Ngon quá

骨を、ビニールに棄てると、かさっと、それが立てた音が小さく耳にふれたが、私の眼差しの先に油にぬれた自分の二本の指先、親指と一刺し指をさしだして、ほら。

舐めて。

と。

口には出さない。

わかるでしょう?

ね?

あなたが人間でさえありさえすれば。

舐めて

咥えた私の唇と、舌と、歯が、

好きなだけ

なんども

あなたが

その指を

好きなだけ

しゃぶって見せるのを、フエは

舐めて

ときに、

舐めなさい

鼻にだけ

ほら

笑い声をたてて

ね?

見守る。

いい子だから

私の唇から、名残りさえ惜しまずに引き抜かれた指先は、すぐにビニールをまさぐって、つかまれた胸肉の断片を、フエは彼女の曝されたままの乳首にのせた。ほら。と。

Ăn đi

声を立てて笑う。ふくらみ、というほどのふくらみさえないそれ。褐色の肌の上の、そのいよいよ黒ずんだ濁点を隠した、引き裂かれた白の肉片を、私は身をまげて加え、舐めて、フエはくすぐったさに、耐えられないように声を立てながらじゃれれば、拒絶した手首が私の腕を打ち、ビニールからこぼれた骨と肉の断片を、彼女の腹部に散乱させた。

いくつか。

ほんの、3つか4つかだけ。

彼女の上に、覆いかぶさり、ひれ伏すようにして、それらを唇に拾っていく。

 

無意味で、お互いの失笑をしかひきださない戯れの後に、時間だけは持て余されて、一人だけのシャワーのあとに、日付も変わって仕舞えば、私はフエの傍らに添い寝するしかない。

シャッターにかぎはかけなかった。ミーが帰ってくれば、たやすく入ることが出来る。そして、ミーが盗難に入った日からの習慣で、ふたつめの居間の照明はつけっぱなしにされていた。盗難防止のために。笑うしかない。

その物音に気付いたときに、フエも、私も起きていた。暗がりに、胸に彼女を抱いてやりながら。一時間くらいの間も、暗がりのなかに目を覚まして、眠りに堕ちたことを自分に対してさえ偽装して息遣うがまま、それ以外には何もしないままに。

シャッターが開かれた音はミーに決まっていた。とはいえ、私はそれを確認しないわけにもいかないのだった。立ち上がると、バイクが数台立ち去る音が聞こえた。

居間の照明の下、ビニール袋をぶら下げて、私に気付いたミーは微笑みを返した、何の屈託もなく。テーブルの上に放り出されたビニールの中には、白い油彩絵の具がいっぱいに入っていた。その瞬間、無造作に放り投げられてテーブルの上に転がり出し、たしかに、ホイアンにも、サイゴンにも、そしてダナンにも、日常的な雑貨屋や飲食店と軒を並べて、画廊がどこにもかしこにも目に付いた。

そのくせ、誰かが買うところを見たこともなく、絵を描くのが人々の一般的な趣味であるなどいうことなどは、間違っても在り獲ない。

本屋さえ、都市部にすら数件もなく、なにかの教科書以外の本を読んでいる人間など殆ど見ない。ミーが、声を立てて笑い、何も言わずに、服を脱ぎ捨てていった。

完全に曝された肌を恥ずかしがりもせずに、体を捩ってシャッターを指さすミーの、その指先の先には、派手な大振りの清龍刀が立てかけてあった。鞘にさえ収められずに、剥き出しの刃を上にして。間違っても、美しい刀身だとは言獲ない。いびつな装飾がほどこされながら、刃の光にそこまでの冴えた痛々しさはなく、ただ、鍛えられ、砥がれた部厚い鉄身という、それそのものの無骨な存在をだけ、眼差しの先に曝す。

ミーが笑っていた。声を立てて。

ほら。

どう?

私も、彼に追随して

すごいでしょ?

これ

笑うしかないのだった。

どう?

油彩のチューブをねじって、自分の手のひらに不器用にひねり出すのを、私はただ見守った。彼女が何をしたいのか、私はすべて、すでに知ってさえいる気がした。ひとつの、留保もない実感として。

たとえば、化粧。自分を、より鮮明に美しくするための。

彼女の指先が、白い油彩をもてあそんで、その額は白くぬり潰されていく。眉も、鼻筋、そして、頬をまだらに、あるいは、髪の毛をまで。

いつか、化粧との、埋めようのないどうしようもない差異を、私は実感していた。書かれることのない純粋な白の氾濫は、ただ、彼女の形姿も個性も塗りつぶして消滅させて仕舞い、ただ、それがそこに存在していることだけを際立たせた。自分の色彩の在り獲ない鮮明さを矜持するでもなく見せ付け、否定の挙句に否定も出来ずに、それはいま、そこにいるのだと。寝室から出てきたフエは、褐色の肌を照明の下に曝しながら、そして、そのかすかな凹凸に、やわらかい翳が添って、這い、かたちを崩しては彩る。

フエが、声を立てて笑った。理由さえ聴こうとはせずに、ひざまづいて、ミーの身体に白を塗りたくる。自分の手のひらを、いっぱいに白く汚して。

撫で付けられる乱雑な白の色彩の群れが、でたらめに彼の身体を染め、その、形姿の固有性を、いよいよ彼から奪っていく。そのかすかに感じられる性別の刻印をさえも。彼、あるいは、彼女から。

女たち二人は、声を立てて、時に笑った。女、でさえないのかもしれない、その、彼をも含めて。私は唯、見守る。ソファにいつか、身を横たえて仕舞いながら。

まだらに、無残なほどのむらを残しながら、ミーが自分の身体の色彩を、何をも語りかけはしないただ無機質な白にだけ埋没させて仕舞うと、くるっと回って、無意味な嬌声を上げた。

Đẹp không ?

空間に響き、

綺麗でしょ?

まだらに垣間見える、塗りきられなかった地の肌のところどこに見い出せた息づいた色彩は、その白の無機質な一色に、偽せものじみたいかがわしさをだけ与えた。

見世物のような。くだらない、宴会芸か何かの失敗作のような。いびつで、冗談にもならない、本気にはできない眼の前の、ミーの肉体が曝した彼女が存在している現実。

純白でさえ、ない、ミーの白濁。

来い、と、ミーが、笑いながら手招きをした。私たちを。

笑む。

フエは従わない。夜も遅い。そして、彼女は服さえ着てはいない。いつものように。私の傍らに寝転がって、白く穢れた手のひらを曝し、私に戯れてみせた。

ミーは、清龍刀をつかむと、開け放たれていたままの、シャッターの隙間に消えていく。

遅れて、私は彼女の後を追った。

背後に、フエが声を立てて笑った。やわらかく、邪気もなく軽蔑混じりの、いかにも軽々しい笑い声。

 

深夜一時を回って仕舞えば、町に人通りなど何もない。夜の家屋の照明さえ、もはや疎らに過ぎない、その街路を街路灯だけが、鮮やかに照らし出す。

ミーの白塗りの、まがい物の素肌は、ただ、外気に曝されて、ゆっくりと油彩を渇かせていく。

裏道をまっすぐ、そして、広くは無い車道を渡ると、朝の更地に出る。剥き出しの土の上、まだらな雑草の散乱を踏む。どこかで、野鼠か何かが疾走し、逃げる。その、音だけが足元の向こうのどこかに立つ。

右手の先には、主幹道路の街灯の、さっきまで彼女の肌を染めていたと同じオレンジ色の列と、ハン川がただ、暗い翳になって、夜の光に染まる。その向こうには、朝まで続く街路とビルのイルミネーションが、遠く、小さく点在し、それ以外に人工の光はない。想ったよりも、月は明るく、冴えていた。月の光が、彼女の肌を白く、やや、かすんで浮かび上がらせていた。染まりきらない翳として。

広大な更地のほぼ真ん中に立つと、彼は立ち止まってホー

Ho !

と、甲高い呼び声を立てた。南部のベトナム人が盛んに口にする、遠い人を呼ぶときの声だった。動物的なその音声を、私は耳に聴いた。

だれも反応するものはいない。

ダナン市は、夜にもなれば外気は肌寒さを持つ。たとえ、夏であったとしても。ショートパンツだけの私の素肌に外気がふれて、かすかに、私の肌を鳥肌だてた。

どこかで犬が、遠く吠えた。朝の犬が、結局どうなったのかは、私は知らない。フエの話によれば、そこまでミーがその身体を破壊して仕舞ったのだったとしたら、とても五体満足でいるとは想えない。安楽死させてもらえたのか、あるいはどこかで、いまだに生き続けさせられているのか。

みずから、生き残ろうと苦闘しているのか。

戯れるにも程がある気がした。誰もいないのに、誰に、彼のその塗りたくられた白い裸身を見せびらかそうというのだろう?かならずしも、その体が女じみているわけでもないのに。

むしろ、少年のそれのように、色気をすらかもし出せてはいないのに。あるいは、やわらかく、いかにも幼さなく、夭い、あるいは倒錯した気配を以外は。

帰ろうよ、と、彼に笑いかけようとした瞬間に、ふたたび聴こえた犬の吠え声のこちら側に、気配がした。

人。

街路灯を背にした逆光の、単なる影としてその男は接近し、私もそこに居ることを見留めると、彼ははっきりと舌打ちをした。

その男。ミーに犬を破壊された、その、色の白いお金持ちの男。朝方、私が殴った男。殺意を隠さない眼差しに、バイクの上の私たちを捉えていた男。仕事は何をしているのかは知らない。いずれにしても、新興のエリート層であるには違いなかった。

ミーに、呼ばれて出てきたのに違いなかった。ただ、私に軽蔑を明らかに含んだ眼差しを一瞬だけ、溢れかえっていっぱいに投げた後、ミーをだけ見つめて離しもしない。

もはや。

眼差しに、明らかに、その眼差しが捉えている存在への渇望があった。たぶん、本人とって、胸やけがしそうなほどの。渇望。焦がれ、飢えた、求め、ただただ飢えた眼差し。すべてを、骨までしゃぶっても飽きたりないような。

あるいは、ミーのあの下僕たち。彼を取り込んだ取り巻きたちが、ひそかに、あるいはときに露骨に曝して見せる、それに限りなく近い、その。

彼女にかならずしも降伏してるわけではない以上、ミーに、うかつには近付けはしないが故に、彼の眼差しが帯びる切迫して容赦もないその色合いの違いだけが、その取り巻きたちと彼の間にある差異にすぎなかった。

男は、私も見向きもせずに、わざと私のすれすれを通り過ぎていった。お前の出る幕は無いのだと。そこで、指をくわえてみているがいい。そのとき、私の眼差しが捉えたのは、結局は、自分が曝したわけでもなければ、自分のために曝されたわけでもないもない、あくまでも他人事に過ぎない欲望が傍らで燃え盛ったときの、その眼差しが持って仕舞うどうしようもない矮小さと、意地穢さと、見苦しい生理的な穢らしさにすぎなかった。最低の、ポルノ・フィルムに辱をなんども塗り重ねて、その何十乗にもかけて侮辱し、そしてひねり潰して指先程度のちっぽけな汚穢にして仕舞ったような、ただ、たんなる見苦しさだけが、眼差しに、単なる汚点としてだけ拡がる。

ミーは煽情もしないままに、彼女を見つめる男を魅了して仕舞っていった。もともと、そうだったからこそ、彼女に暴力をふるわせたのかも知れなかった。あの群集たちに。その男は。

この日の朝に。

愛するもの、そして、彼の手には追えず、彼の手にはふれ獲ないものに、むしろ泥をぬりつけて仕舞うこと。あくまでも他人の暴力によって。

男はミーを見つめる。息をさえ殺して、そして彼の穢い、飢えた眼差しは、明らかに、私のフエを見る眼差しの、フエの私を見る眼差しの、あるいは理沙の、美沙子のそれらの眼差しの、留保もない素直なコピーに過ぎない。

私は、目線を外しはしない。ただ、彼の穢さをだけ、見る。

ミーは微笑み、ときに声を立てた。

男が至近距離に近づいたときに、そして、眼の前に肌を曝す真っ白い生き物の、その白さの必然と意味をなんとか探り出そうと男の眼差しが目論んだときに、あるいは、それからいま何をなすべきなのか、その答えを必死に、ただ軽蔑交じりの微笑を浮かばせるに過ぎないミーの、自分を見つめる傲慢な眼差しに探っていたときに、不意にミーが言った。

Đẹp không ?

きれーじゃない?

どう?

anh

わたしのこの、純白の肌は。

きれい?

Đẹp không ?

あなたたちが、必死になって、美の基準として崇め奉っているところの、肌の純白。

ね、ほら

Anh

あなたも守り続けているんでしょう?

きれいじゃない?

Đẹp không ?

白。

もともと白い肌に塗りたくられたにすぎない単なる色彩の白さが、ミーの生体の白さの、いかに複雑なそれ以外の色彩をふくみ、もむくちゃに塗れているのかをただ、無言のうちに冷酷な事実として曝す。

塗りたくられたただ一色の、もはや色彩とさえ呼べないほどに単なに白いだけの白。暴き出しながら覆い隠した生き物の穢さの上で、自らの色彩の留保もなき鮮度と冷淡さをだけ、曝していた。

綺麗でしょ

男は、何も答えずに、彼女の眼差しを見つめる。飢えた、男の性器の匂いさえした気がした。

爪先立ったミーは、男の唇に、一度だけ、ほんの、瞬きにもみたない一瞬だけ、ふれようとした。

とおりすぎた空気がふれただけの、そんな。

ややあって、男が不意にミーを押し倒そうとした瞬間に、振り上げた清龍刀が男のわき腹に突き刺さった。

斜めに。

血は噴き出さない。

ミーが、声を立てて笑った。

腹を足蹴りにして、男の体から無理やり刃を引き抜くと、一気に血が噴き出しながらも男はいまだ倒れない。

男は、何かを確認しようとしていた。何を?ミーがもう一度蹴り飛ばし、それでも倒れない男を、むしろ嘲笑う。私に目くばせをくれて。

頭に清龍刀を振り下ろした瞬間に、突き刺さりはせずに、皮膚と骨格を砕いただけのそれは、破れた皮膚の鮮血を好き放題に撒き散らした。

なにが起こっているのかもわかってはいないままに、口と眼を、ただただ見開ききった男の身体が、覆いかぶさって自分の体ごと地にたたきつけた瞬間に、ミーは小さな悲鳴を上げた。

血にまみれる。

男は、なぶるようにミーに馬乗りになって、血を撒き散らす。ミーの、白の身体に、その、鮮血の赤を。呆然として、ミーを見つめ、彼は絶望さえ出来ない。

乾ききらないミーの、油彩の色彩は男の血まみれの肌をも穢す。男は、まだ死ねない。のた打ち回りながら、ミーは泥だらけになって、男を跳ね除けたとき、後ろ頭をやわらかい地面にぶつけた男は長い長い鼻息でだけ答えた。馬乗りになったミーに、刃先で突き刺され、破壊されるに任せる。ミーの、そして、男の肉体は血に染まる。

死なない。まだ。

ただ、最早ぼろぼろの肉体の残骸をだけ曝し、皮膚を、筋肉を、骨をまで砕かれ、破壊されながら、筋肉痙攣に無残に引き攣らせるしかなく、そして身体は、とっくにその生存限界を超えて、生きていくことの出来る可能性のすべてをすでに喪失して仕舞っていながらも、男の身体は死なない。

もはや、男には意志さえないはずなのに。

私の傍らに、色彩をなくした、見たこともないでたらめな、むしろカマンベール・チーズを、パソコン上でゆがませたような、そんな人体らしきものの翳。

翳り、それは息遣う。

もはや、人体でさえも無いのに。

それが血を流す。その昏さのいたるところから、ただ、鮮明なそれを。

男の身体は、馬乗りになったミーの身体の下で、痙攣と、壊れはててえづくしかない呼吸音を、無茶苦茶なノイズそのものとして、ただ、かき鳴らした。

かくも、と、想う。私は、こうまでも、と。死とは困難なのか。

すべての可能性をなくし、もはや死と完全にただ一致していながらも、死に到達することは、これほどまでに困難でなければならないのか。生への執着など、肉体自身にさえももはやありはしないのに。

吐き気がする気がした。

その瞬間に、私は、私が泣きじゃくっていたことに、気付いた。鼻水を散らしながら。

 

男が死んだ瞬間には、ミーも、私も、気付かなかった。

他人の血にまみれて、白い化粧を半分以上落として仕舞って、まがい物の肌のくすんだ白を無造作に曝す、ミーは飽きもせずに、すでに完全に死に絶えて仕舞った肉体を、清龍刀で破壊し続けていた。

私は止めなかった、止めるすべも、必然性もなかった。

最後に、単に、おそらくはただ肉体的に限界に達した自分勝手な疲労のためにだけ、振り上げた清流等を、ミーはでたらめに顔だった部位の残骸にたたきつけた。地面ごと突き刺さったそれは、すでに死に絶え、壊れきった肉体から、最後に血とその飛沫を飛び散らせた。

息をつき、しゃがみこんで、やがて立ち上がったミーが、私に微笑みかけると、駆け寄って、ミーは私にその体を預けた。やばい。

Mệt quá

疲れたよ。

私は彼女をしばらくのあいだ抱きしめてやり、その体温を感じ、彼女におそらくは私の体温を感じさせ、生乾きの白に自分さえ穢させて、家に連れ帰るために、彼女を腕に抱きかかえて振り向いたとき私の眼差し前のすれすれに、色彩をなくしたあの男の、顔さえない肉の残骸が縦に、どこまでも高く伸びていた。暗い空の向こうにまで。ただ、いたるところから血を吹き出させて仕舞いながら。

天に昇る?どこまでも、地面にへばりついたままに?空の先など、ただ、宇宙が広あっているだけなのに。

男の、くらい肉塊は、どこまでも空を突き破って延びていた。

色彩さえもないままに。

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

やがて目を覚ましたとき、フエは、傍らで眠っているままだった。私に寄り添って、いつもの静かな苦悶の表情をだけ曝して。ミーを連れて帰ったとき、フエは疲れ果てたように、散乱する絵の具さえ片付けないで、寝室にすでに寝ていた。ひとりで。

手のひらに、白の油彩を乾かせ、罅割れさせさえして。

床に、渇かない白の絵の具が、飛び散ったままに。

 

寝室の通風孔からの光。白濁したそれ、そして、後れて、すでにずっと鳴り響いていた降りしきる雨の騒音に、私はようやく気付く。ミーを連れて帰って、ミーは、ともあれシャールームで血を洗いながすものの、すでに皮膚の体温の上に、渇ききった油彩の白は、取れもしなかったのだった。

trơi

ほら、

ơi

と。

まったくもう

シャワールームから出てきた彼女は両手を広げ、そのまま、白い、ぬれて、輝きを失った絵の具の白濁が穢した皮膚を曝した。

私が彼女の皮膚の油彩を爪ではがしてやろうとすると、ミーは声を立てて笑った。

だから、私もつられて笑うしかない。

 

いずれにしても雨。久しぶりに降った雨だった気がした。ほんの数日前にも降ったかもしれない。庭のブーゲンビリアも、バナナも、すでに雨にぬれているはずだった。周囲のすべての色彩を、色彩も無いままに、鮮やかに白濁させて仕舞う雨の中に。

それら本来の色彩を奪い去らずに、むしろよりあざやかに際立て見せながらも、ただ、白濁させるほか無い、その、それ。雨。

朝の明けも近くになって、私とミーが、その戯れにも飽きて仕舞って、ソファーの上、お互いに塊りあって寝付いていた明け方に、終には堪えられずに一面の雲の群れは、雨を降り堕させはじめたに違いなかった。いまや、叩き付けるような音を、家屋の、トタン敷きの屋根に低く、無造作にかき鳴らさせて、私は聴く。

それら、音響。

その、連なりあいもせず、反響し合いもしないままに、ただ、無際限に鳴り続けるそれら無数の単独の音の群れ。

ひざまづくようにして、フエの手のひらをひらき、彼女の手のひらの絵の具をはがそうとすると、ミー。

剥ぎ取られていく白い絵の具の皮膜に、あるいは、私の爪の先に、彼女はその白い繊細な皮膚を充血させて仕舞いながら、そして笑った。まだらに、いくつもの引っ掻き傷のような、赤い痕跡を体中に曝して。

剥ぎ取りようも無い髪の毛に、どこも彼処も白い汚点を散乱されて、彼女は。なんども声を立てて笑い、ブーゲンビリア、その花も雨にぬれているだろうか。

いま。

沈黙したまま際立ったぬれた色彩の、それらの白濁の中に、あざやかにその本来の、むらさきに近い紅の色彩をひときわ目立たせて、誇ることもなく無造作に曝して見せながら。フエが、小さな笑い声を鼻に立ててた。

目覚めていたフエは、寝た振りをするわけでもなくて、ただうすく、やさしく、ただかすかにふれ合わされただけのその眼差しの向こうに、そして、彼女は笑っていた。

Làm gì ?

その

ねぇ、

ちいさく、ただ、ふるえる空気の

Anh làm gì vậy ?

いわば、振動。

あなた

感じ取れないほどに

なに、

こまやかで

してるの?

かすかな。

微笑む

フエの褐色の肌。

きみを

手のひらの皮膚は白い。

ぼくは

複雑を極めたしわに塗れて。

見る

シャワーを浴びに行くと、シャッターもまだ開かれないままに、結局は昨日そこで寝付いて仕舞ったミーは、ふかく、ソファに背をもたれうずもれ、指先に自分の太ももの皮膚をもてあそんでいた。自分を慰めようとしているのか、未だに粗く、疎らに付着したままの、白い油彩の痕跡と戦っているのか、それは私にはわからない。

 

彼女たちのために、朝食の Bánh cuôn バン・クンを買いに行くと、その、ちいさな市場の目の前、更地に人だかりが出来ていることに、私は昨日のことを想い出す。男の死体はいまだに撤去されていなかった。あの、無残な惨殺死体。警官が人だかりを規制しようとするまでもなく、人々は維持されたある程度の距離の向こうにたたずんで、声を潜めるでもなくささやきあう。

人々の連なりあった体の、足元の向こうに、雨の中に野晒しの死体が曝されたまま、血を失った、赤と白の残骸を雨はなおも洗い流していく。

たんなる肉と骨格の塊り。誰かが、スマート・ホンに写真を撮った。警官は何も言わない。合羽を着た半数の人間と、着のみ着のままに、細かい雨に打たれる半数。群がった合羽と周囲のトタン屋根を打つその音響の群れが響く。

ショートパンツだけの、わたしの肌をじかに生ぬるい、冷たくはない雨がふれていた。移り気に、自在に強さと弱さをもてあそぶ気まぐれな雨が、かすかな風さえ伴ってでたらめに肌をもてあそぶ。自分の髪が、ぬれた質感を持って不意に匂う。

髪の毛の匂いは、誰も彼もが、いつも、同じだ。

誰かが私に気付き、そして、教えあったわけでもなく無言のうちに連鎖して、人々の振り返った眼差しが私をだけ捉えた。表情は何もない。訝りの表情さえも。顔。

口。

鼻。

耳。

皮膚。

そして眼。いつのまにか、彼らは沈黙していた。緑色の制服の警官は、もとから押し黙って、ただ死体を見つめているだけに過ぎない。

そのまま、見つめていさえすれば、事件など勝手に解決して仕舞うのだとさえ言いたげに。無能な人間たち。と。

不意に、私は心の中にだけつぶやき、二十人ばかりの、彼ら、群集は私を注視した。ものも言わない。シン、チャオ…Xin chào …こんにちは、さえも。

雨の音が聴こえる。殺したのは私に違いないと、彼らはそう想ったに違いない。私は、そう想った。通りをバイクが一台だけ、通り過ぎた。為すすべもなく、私は微笑み、目をそらした。

金を払って、ビニールに野菜ごとぶち込まれたバン・クンを受け取りながら、彼らはどうするだろう、と私は想うのだった。

もしも、彼らがかたくなに、私があの男を惨殺したのだと確信したならば、彼らは私をどうするのだろう?フエごと、あるいはミーごと、惨殺して仕舞うだろうか。ミーが、あの男にしたのと同じように。たとえば、この更地で。フエも私も、いずれにしても共犯者には違いなかった。それに留保も条件付けもありはしない。フエは体中に絵の具を塗りたくって、戯れながら、彼女に白い油彩の色彩を与えて遣ったのだし、私はそもそもがミーのすることを許可していた。無言のうちにでも、なんであっても。

彼女があの男を殺して仕舞う前から。私はすでに、彼女がそうすることを知ってさえいた。そうなる以外になかったのだった。何かを認識するというわけでもなくて、認識する前にすでに、私はもう知っていた。ミーが、あの男を殺さないわけがない。すくなくとも、私はミーの共犯者だった。

頭の上の市場のトタン屋根が、ただただ過剰なほどに、雨の音を反響させる。水を漏らしながら。拡声器でもつけたように。

 

 

 

 


それら花々は恍惚をさえ曝さない #8

 

 

 

 

 

開け放たれたままのシャッターをくぐると、フエはソファの前にひざまづいて、身を投げ出したミーの皮膚の白いペンキをはがして遣っていた。丁寧に、ピンセットを当てて。大袈裟にフエは声を立てて叱りつけ、そしてわざと痛がって見せるミーを、大声で笑いながら諌める。戯れ。今日はメーデーだった。5月1日。祝日。

フエの褐色の肌が背伸びして、息を止め、そのついでに私に歎くような眼差しをくれて、そして、媚びる。その眼差しのうちにだけ。ミーの髪の毛は、丸坊主に刈り上げられていた。彼女たちの周辺、ソファの上、床の上に、白と黒との短く、細い散乱が、散り散りに乱れ、テーブルの上に置かれた型式の古いバリカンは昔弟が使っていたものだったと言う。フエの、生存するたったひとりの肉親が。

歯のなかば錆びかけたバリカンには、いかにも鉄くさい、そして、集積して消え去らない髪の毛の粒子を散らしたような、鼻に衝く臭気が執拗に留められていた。

Chết rồi

仕舞った!

死んだわよ

フエが、想い出だしたように言った。皿を出してバン・クンを盛り付ける私を振り向き見ながら。

だれが?

Anh thanh

タンさんよ。

誰?

ai ?

つぶやく。タンさんって、だれ?

Thanh nào ?

フエは、私を見つめ、すぐに噴き出して仕舞って、ミーを指さす。ほら。

Mỹ ghết

殺したわ。

M

あの男、

đã

ミーが。

ghết

その男の名前が、タンだということを、私はようやく想い出した。ミーは、目を

Anh

伏せて、そして

いつくしむような

Biết

眼差しを、ただただ

Không ?

私に媚びた目線を向けるにフエに、投げた。

何も言わないままに。

タンはすぐ近くの、小さいが真新しい家に住んでいた。自動車販売業かなにかで、とりあえずの財はあった。年齢は私とほとんど変わらない。違うのは、二十五、六で結婚した彼には十何歳かの息子と娘がいることだった。むしろ、彼の母親の、たしか Hạnh ハンという女性のほうとの付き合いが、私には印象的だった。

彼らの家のガレージに、バン・ミー Bánh Mì というベトナム風サンドイッチの店を出して、そこでときどき私はバン・ミーを買うことがあったから。私の片言のベトナム語をなかなか聴き取れない彼女は、派手に笑いながらいつも受け答えした。周囲のだれにでも、こいつ、

ね?

日本人なのよ

Người Nhật

そう、わめくように囃し立てて見せながら。

Hiểu không ?

一度、雨が止んだタイミングで、私がフエの家を出たのは、単純にバイクに乗りたかったというだけだった。いたずらに、殺人現場にたむろしつづける人々の群れから逃げたかったわけではなかった。いずれにしても、私たちのあの家屋、孤島の森の中のような孤立した空間が、暴徒の群れだかなんだかは知らない。群集に襲われて、私たちが皆殺しにされて仕舞うのが、そもそもの事の必然として、確信以前に当然のこととして、いずれにせよ私はすでに受け入れていたのだった。

そうするに違いなかった。私たちは彼らの平和を粉砕したのだった。そうなるほかない。

もはや、一片の疑いさえいだかずに。崩壊は、すぐに、いつか、やって来る。と。容赦もなく。想う。私は。待つと言うわけでもなく、ただ、その猶予としてだけ、私は私のその現在の時間を認識していた。

遁れようとするわけでもなくて、受け入れる気もさらさらなくて、ただ、私はバイクを転がすことを選んだ。絵の具の小さな断片を剥ぎ取ってじゃれつくミーとフエの、終わりも無い無際限な戯れを、眼差しに捉え続けるのをは、私はすでに持て余して仕舞っていた。

ラン・コーと言う、山の向こうの、ダナン市とフエ市の境の、湖のような入り江を囲う町にでも、行って仕舞おうかとも想っていた。なんどもナムたちと行った事があった。フエと、結婚式の前に、その家族に連れられて、遊びに行ったことさえもあった。

雲にふれ合いながら山を越えて、海に近づいて行った先の入り江は、ただ空の下に霞む静かなたたずまいを見せて、かつては水産の豊富だった底には、乱獲のせいでもはやまともな魚などいない。遠めに見れば、あまりにも美しい風景も、近づけば投げ棄てられたペットボトルや、ビニールや、缶のごみを沈めて、ただただ穢らしい。

日本人のボランティアでも連れてくればいいのに、と、私はナムに言ったことがあった。彼らは、そう言うのが好きだよ。後進国にやってきて、慈善事業をやって、自分たちで満足して、それで帰っていくんだよ。フェイスブックやインターネットに、いっぱい記事をアップロードしてね。フィーはいいねの数と自己満足。それだけ。

雨の日の午前、主幹道路を走っていれば、いきなり雨が降り始める。そうなるに決まっていた。今日は一日中、降ったり止んだりを繰り返す。明らかに、その日の空の色彩は、気象レーダーのコンピューター解析を待つまでもでもなく、誰の肉眼にも結果を明かしてた。雨の中、気付けば周囲に人の気配はなくなる。視界はいよいよ白濁し、激しい雨に逆らって進む速度の加速させた雨粒の群れが、じかにふれた顔の全体をこまかく鋭い痛みで埋め尽くす。雨の味が唇にする。匂う。ぬれる。いつもの群れるバイクの姿は、ほぼ、消えうせていた。

聴こえるのは、基本的には雨の轟音と、自分が尻に敷く瀟洒なホンダのバイクの、エンジンの荒いうなりに過ぎない。

足元にだけ、エンジンが撒いた暖かい温度がある。体はすでに冷え切った。

海辺の橋、いくつもの人間が飛びこんで自殺するので有名な、高い橋を渡る。荒れて吹き荒れる海風にハンドルを取られそうになりながら、制限速度の倍以上を超えた。

無造作な凹凸を疎らに散らした路面はぬれ、水溜りは飛び散り、水滴は撥ね、これで転びでもしたら生きてはいない確信だけは、まざまざと与えてくれる。

フエが見たら、取り乱して罵るに違いなかった。何台も、まばらなバイクを抜かした。合羽に、盛大な雨の音を鳴らし続ける彼らを。

Tシャツが雨にぬれて、もはや重力を感じさせる。

雑な工事が好き放題に作って仕舞った水溜りの群れが、いつでも激しい飛沫を飛ばしていて煙立ち、横目に見る海岸線の向こう、海はただ、白い。

真っ白の、海の白濁。もっと、と。

もっと、速度を。

橋を降りて、市街地を横断する主幹道路を飛ばす。バイクの台数はにわかに増え、事故の危険も増大する。もっと。

雨はいよいよ叩き付ける。もっと。

更に加速し、苛立ったいくつもクラクションを聴いた。警察が来たら、ここではなんでも簡単だ。五万ドン紙幣を一枚握らせて遣ればいい。

信号を無視し、そして、対向車線をはみ出して追い越そうとする向かいの日本車のすれすれをわざとすり抜けてみる。かけられた急ブレーキの気配が耳の背後にあって、その結果は見なかった。さらに。

もっと。さらなる加速を。転倒しそうになりながら、ぎりぎりで交差点をカーブした。対向車にぶつかりそうになりながら。

 

フエの家の前を通り過ぎて、もういちどぐるっと川沿いを回ろうかと想った。雨が急激に、その力を失って、そして、次第にやんでいく雨は不意に匂った。通り抜けて仕舞いそうなほどの至近距離に。

とっくの昔から、ずっと匂い続けていたはずのそれを、不意に、なんの前触れも無い想起ででもあるかのように気付いて、速度を緩めた。あの喫茶店に止まった。その店は、雨の白濁の中に、ただ、廃墟のような相変わらずのたたずまいをだけ曝す。

いつ見てもそうに違いない。

バイクを止めて、中に入ろうとすると、雨はもはや完全にやんでいた。ぬれた大気の質感が、それ以上に濡れぼそっているはずの肌にじかにふれて、湿気を感じさせてやまない。湿った髪を両手のひらにぬぐった。

カフェのテーブルは出しっぱなしで、飛沫を立てながら、樹木が風に落す水滴に打たれるままだった。誰もいない。家屋の中にも。

結婚式のとき、私が横たわっていたベッドの上に、脱ぎ捨てられた女の寝巻きと、男のショートパンツが散乱していた。それらは、だれかがその上から寝転がったに違いなく、押しつぶされていた。生活に、気品を感じない。

背後に甲高い、咎めだてる喚声が上がって、その聴き覚えのない女声。振り向くと、あの、結婚したばかり女が笑いながら血相を変えて、何を遣ってるの?

と。

彼女はそう言っているに違いない。

Làm gì ?

こんな雨の中に、

Anh

ずぶぬれになって、

làm gì ?

と、そう言った女自身が、同じようにぬれぼそっていた。あるいは、近くの市場かどこかへ行って、時間をいたずらに濫費するだけの雨宿りが耐えられずに、小ぶりの雨の中に肌を濡らしながら帰ってきたのかもしれなかった。バイクの音が聞こえた気はしなかった。

大袈裟な声を立てて、許可もなく女が私のTシャツをはぎっ取った瞬間に、私は嗅いだ。

不意に、自分の匂い。雨に濡れて、いつか汗ばみさえもしていた自分の皮膚の、執拗な臭気。雨の中で腐った内臓のような。そして、多くの女たち、他人たちが、いい匂いだと言って見せた、それ。

体臭。そして女は、まるでそれが、あたりまえの作法であるかのように眼差しと口元の頬に色づいてみせて、私の肌に鼻を寄せて、匂いを嗅いでみせて、音を立てながら、ねぇ、

なんで、

こんなに、

あなた

いい匂いが、

もう

するんですか?

こんなに

その、単純な疑問文に微細な差異をかさねただけのヴァリエーションの群れ。

なんなん?

なんで、

この

こんな、

なに?

匂い

この

すんの?

匂い

臭気。一瞬、眉を顰めた私には構わずに、その女はTシャツを丸めて、

どうして、さ。

さ、ね?

てか

こういう

やばっ

匂い、

なに?

する?

もう

絞って見せては声を立てて、その

んー

ねぇ、

まじ、

いい匂い。

なに?

なんで。

これ

撥ねる水滴。笑う。ひどい。

やー

やばい。

やーって

匂う。

ね?

めっちゃ。

いい

いいの。

ん、

ね?Xấu ! びしょぬれじゃない。ひどいっ!我慢の限度を

てか

んー、匂い、

てか

なんか、

てか、さ

ね。

てか

いいかも。

って

なんか。

超えて仕舞ったとでも言いたげに、

でも

好き、

実は

だったりする。

でも、

こういうの。

男の子の

ん?

体臭。

じゃない?

罵る声を私に投げて、

もう

なんでさ、

もう、ね

私の

もう

好み

んー

知ってたりする?

好き

ショートパンツも脱がせた。女が、何をしようとしているのかは、私には知れた。私は、自分で下着を脱ぎ捨てて、濡れたままにベッドに横たわった。好き?

ほら、と。想う。

欲しい?

好きにしたらいい。

好き?

私は最後に、不意に犠牲者のような顔を曝して

どうせ

黙り込み、私を見つめる女を、

欲しくて

見た。

仕方ないのなら

私は

好きに

目を

すればいい

閉じる。

閉じられた眼差しの向こうに、彷徨いおよぐ仕草さの、微細で明晰で鮮烈でしつこく、これみよがしな気配の、剝き出しの、ささやくような連なりとして。

まるで、そうするのを楽しむように、戸惑いの時間を女は楽しむ。心の中、あるいは、体の中に、躊躇のゆらめきをいじり倒して好き勝手にもてあそんで。

脱ぎ捨てられる服の衣擦れもしないままに、私の胸に唇をつけた女は、唇で、そして、ややあって、大切なことを想い出したように、匂いをまた、ふたたび嗅ぐ。

音を立てて

嗅いでいますよ。

くんくん、って

いま、犬のように。

ほら

あなたの匂いを。

どう?

そう

感じてる?

伝えなければならないのだとばかりに

わたしを

はっきりと

あなたは

派手な音を立てて。

ほら

ぬれた、女の

あなたの匂いが

衣類が私の

体の中に。心の

腹部にふれる。

中にさえ

体を押し付けて、唇をむさぼった後になって、ようやく衣服を脱ぎ棄てては見てものの、すでにお互いの皮膚に移されて仕舞った、かすかに体温を移した雨の水滴は、容赦もなく私たちを濡らしあってた。髪の毛がたれ堕ち、頬を、額を、あるいはシーツごと濡らして仕舞う。

髪の毛の水滴は、むしろ、ただ、冷たい。

触感。皮膚の、いかにも女じみた。こんな触感に、あの、人も殺せないような顔をした新郎は、たとえば昨日の夜に、あるいはパーティのはねた午後の遅い時間にも埋もれ、戯れてみたのだろうかと想うと、不意に耐えられずに私は声を立てて笑い、女が戸惑う。ひとりで。

快感。その肉体が、それを与えていないとは言獲ない。気持ちいい?もちろん。

確かに。それがどんなものであったとしても。

感じられていたそれを憎み、軽蔑し、拒否していたとしても、単純にそれが鮮明な快感であることには違いない。穢い母親。あの美紗子のそれであったとしても。同じような代わり映えもしない快感を、まったく違う手つきで、ときに埋もれ、ときにいつくしみ、焦がれ、ときに留保もなき憎悪と怒りとをもって拒絶する。

ねぇ

もっと。

ほら

ふれればいい。もっと、と。

もっと

女のために

ね。俺に

そう想った。

ふれて

焦がれて、どうせ、欲しくて仕方がなく、夢にまでもてあそんで仕舞うのならば。所詮は縋るしかない家畜にすぎないのならば。なんど、夢見たの?と。

したの?

匂う。

なんど

あれから、私のことを。

想って

女の、髪の

なんど

ただただ、私を

したの?

求めて。

飽きもせずに

そして体臭。

家畜たち

時には、

なんど?

口臭。

感じた

口の中の、獣ものじみた

感じた?

かすかな匂い。

感じていた

もはや、

匂う

差し込まれた舌が感じさせる、

想う

その。

フエ

女の歯が、やさしく

想った

唯のいたずらとして

フエ、

倦んだ、戯れ、

不意に

そんなものとして、私の唇を、

フエ

咬んだ。

褐色の百合、彼女は私に違いない。

どちらがどちらの生まれ変わりであるという問題ではなくて。理沙がミーの、あるいはミーが理沙の生まれ変わりであったように。初めてフエと出会ったとき、それはサイゴンの三区にある縫製会社の事務室の中だった。その日の朝の7時、私は東京からホーチミン市のタンソニャット空港に降り立って、そのナイト・フライト。クアラルンプールを経由した二時間くらいの間に、空港のロビーの天上にへばりつていた、色彩をなくした私が、彼。

何の見覚えも無い男が、空港の高い天井に無様に、べったりと、ただ、静かに右手の方に水平に鮮血を流しているのを見ていた。昏い口の中から。

私は、私の両目が血を流している確かな質感におびえた。

異国の空港のトイレ、国籍も知らない無数の人間たちの間に、背中をすれ違われながら、なにも、涙さえ流していたわけでもない私の両眼から、あふれ出す血。

血が、あなばこから流れ続けて止まないのを見た。

渇ききった、そのまぶたがまさに。

執拗に聴こえていた音響。耳元に、耳の奥に、あるいははるかな遠方に、静かに響き続けていたそれ、私を喰いつくしていく音響の群れ。

空港のロビー、国籍の無い土地。国籍がなくどこでもないなににも染まりきらない場所として、無理やりどこかの国の土地の上に確保された、いわば不在の土地。私は、空港のロビーが好きだった。歎かわしいほどに、音が聞こえた。

私を食い散らしていく、その。

タンソニャット空港。乱立する柱の群れが淡い翳を作り、海。

私が、空港の到着ロビーを歩きながら見たのは海だった。白濁した海。

浪打つ表面のわななきを反射させる光によるのか、ただ空の色彩に染まって仕舞っただけなのか、いずれにせよ、海。空など見えない。小刻みに無際限にわななく、きらめきに白濁した海。夢。それが夢であることになどすでに気付いていた。どこまでも、無慈悲なまでに拡がる海。その上に、一人の少年が立ち尽くしていた。休みもなく、その形態を崩し続け、白濁した光の、眼差しが捉えた先からすでに失われた名残りの残像にさえなっていくしかない、その、光の色彩。浪の。漣の、白濁の鮮やかなグラデーション。それは、もはや、と、想う。

色彩でさえない。

少年は、浪の上にただただたたずんで立ち、両眼から涙のように、血を流し続け、海の水に受け入れられもしない血は、上の方、垂直に上昇していく。

その先に、なにがあるというわけでもないのに。

瞬く。まばた、こう、と、する。

夢。見つめられた夢の中では、瞬くことさえできないことを知った。

少年。いまだかつて、何の記憶もなく、いちども、見かけたことさえもない見ず知らずの、美しくもなければ醜くもなく、抽象的というにはあまりに単なる具象にすぎない、その、単なる少年は、私に微笑みかけもしない。

タンソニャット空港の、到着ロビーの、その自動ドアを抜けると、出迎えの人々の群れ。騒音。話し声。それらの渦。

乱れるような。ぶつかり合ってかさなるような。散り惑うような、混濁した、乱反射する、それら。

音響。

騒音の群れ。聴く。私は聴いていた。耳を澄ますまでもなく。熱帯のぶ厚い空気はすでに私の皮膚に素手で触れていた。容赦もない熱気。息遣い。温度。私には出迎えもなければ、眼の前の到着ロビー。彼らが、彼女たちが、まばらに差し出しているダンボールにかかれた名前の群れ。私の名前など在るはずもない。無関係にすぎない。出迎え人のそれらに一切の用はない。

乗り込んだタクシーの中、トランスジェンダーなのかも知れない、男勝りで短髪の女性の運転にゆられていた。

海がきらめいた。

匂いは無い。あの、なまなましく鼻を衝く潮の薫りさえも。

少年は瞬きもせずにその、彼の血に翳ってなにも見い出し獲ない眼差しは、確かに私を見ていることを知っている。なぜなら、いま、見ているのは、その少年が見ている眼差しの、描き出した風景に他ならないことなど、私はすでに知っていた。

それは、その少年が、声さえ立てずに見ている風景そのものに違いない。

隠しようもなく。否定のしようもなく、フエは私に他ならない。

町の中心部のランド・マークに準備中の販売店舗を二店分視察して、その日本人クライアントと共に。英語さえまともに話せない、アパレル・メーカーのたたき上げの社長。人種差別の色に染まる。うちの商品の問題は、ね?

わかります?

ベトナム人でも、理解できるかどうか、それが問題なんですよ。

センスが?

水沢さん

サービスが?

わかりますか?

すべてが。「彼ら、われわれから言えば、本当に未開の原人みたいものですからね。」啓蒙してやら無いと。

でしょ?

日本のクオリティをね。私は笑っていた。

声を立てずに。眼差しと口元でだけ。

そうですね。まさに。そしてその男の出店プランが成功するとは思えなかった。日本でさえ、かならずしも成功しているとは言獲ないその男の、かろうじて日本で、つぶれない程度にしか通用しなかったプランが。

礼儀正しく文句の多い差別主義者の群れ。自分たちが白人だとさえ想いこみ、都合のいいときにアジアの冠たる日本人になりおおせる。無意味な誇りばかりが高く、世界中の人間たちに尊敬されていると想いこまなければ海も渡れない。英語さえまともに話せず、コミュニケーション能力自体に深刻な欠損を曝しているくせに、外国にまで彷徨いでて仕舞ったアジアの島の田舎者たち。

サイゴンの中心部に借り上げた事務所の中で、窓から刺す光の、その日翳のパソコンに出金データを入力しているフエを紹介された。彼らも、そんな現地の女に手を出すなどとは想わなかっただろう。だれからも美しいといわれる、独身主義者の私が。清楚なだけの、地味な女。

パソコンからフエは顔を上げて、そして彼女がいかにも外国人用に笑顔を作って見せた瞬間に、あるいは、その、眼差しがふれあうのその寸前の一瞬に、私は彼女と愛し合うことになるに違いないことに、すでに気付いていた。たとえば、理沙のときもそうだったように。葉のときも、慶輔のときも、誰のときも。なかば、為すすべもなく。

やがて一年間のコンサル契約を更新しなかった私に、フエが言った。私と一緒に、ダナンに行きましょう。

どうして?

Tai sao ?

あなたは、私と

Why ?

結婚するから。

You will marriage

すでに、

with me

実現された事実であるかのように、彼女はそう言った。ただ一度の口付けさえも交わしてはおらず、かるい抱擁も、それどころかまだ、ただひとことの愛の言葉をさえささやきあわないうちに。

It’s just a reality

誘惑。

決定論化された、留保も無い誘惑。

私は日本になど帰る気もなかった。私は、彼女に唇に人差し指をふれた。

I know

私は答えた。

引継ぎ処理に追われた、私の契約最終日。誰もいなくなった昼休みの雑然としたオフィスで。

クーラーをつけられた上に、回されていた天上の扇風機が、舞う。

しずかな、なぜるような風が髪の毛にふれていた。

結婚が理由だと、フエが辞職理由をあけすけに言って仕舞ったので、フエがやめるまでの一ヶ月間、サイゴンの安いホテルで暮らした私はその縫製会社の人間たちの仇敵に他ならなかった。その会社の中で、何と言われていたかは想像がついた。とはいえ私には、直接的な連絡は一本も無かった。クレームも、断罪も、おめでとうのかりそめのひとことも。

女は息遣った。私の体の上で。やがては、その、射精のない終わりの無い行為を、女は疲れ果てたように中断した。

体内に、そのままの私を残して。女の豊満と、肥満のあいだをさまよう体が匂いをたてていた。しがみつくように覆いかぶさって、女は満足していたのだろうか。

そうではないのか。

見開かれた眼差しが、ふたたび雨を降らせて、やがて、ふたたび止ませた空の、しらんだ光のつくった形態を作りきれない散漫な翳を追う。その、私の見つめられた女の瞳孔に反射したそれ。私は女の首に手のひらを添えた。戯れに、その首を絞めた。女は抵抗しない。もうすこし、と想う。力を入れてやれば。

もうすこし。

ぎゅっと

緩め、私は女の背中をなぜ、大気の湿気に汗ばんだ皮膚の、そのかたちをなぞって遣った。女は、私の首筋に口付けるのをやめない。飢えたように、ね。

ねぇ

ふたたび、

もっと

女の

ね?

首を絞め、身をよじってその唇が私の唇を舐めるのに任せた。足が絡みつく。もう少し。

もう少しの間、締め続けさえすれば。

 

いつのまにか、傍ら、寝息を立て始めた女の承諾もなくシャワーを浴びた。匂った。それ。水の匂い。

錆びたうえに、醗酵さえして仕舞ったような。雨の匂いとは確実に違った、その。

Tシャツは渇いているはずもない。下着も、ショーとパンツも。肌につければ、濡れたその水分の鮮度を失って、しかもいまだ乾き始めてもいないそれらの布生地が、ただ不愉快に皮膚に張り付く。体温を、急速に奪っていく冷えた触感を感じる。ふれあった皮膚の全面が。

外に出れば、濡れたままの路面。でたらめに曝された無数の水溜り。切れない雲の、空に曝した白濁の、それ。地味でみじめったらしいグラデーション。その向こう側から直射しているはずの日の光が、みずからの姿をは顕さないままに雲に、光を与えていた。うかびあがるように不穏に。内側から照らされたような、むごたらしいほのかな明るさを。

樹木は、水滴に倦んだように、洗われたそれみずからの色彩をただ、曝していた。濡れて。

フエの家の近く、雑然として、香草の匂いを立てるしか能のない飲食店が軒を並べた道路を、無数のバイクの群れにすれ違いながら、エンジンが止まりそうなほどの低速で進めば、人々は私を見つめては、何も話しかけようとはしない。ただ、それぞれに想いあぐねたように見つめ、私には決して伝わらない想いのたけを自分勝手に撒き散らし、そして、もはや目線を離そうともしない。

見たこともない、はじめて見る人間を見るように。

家のシャッターをくぐると、フエが、小さな木の台に載って、仏壇に果物を飾ろうとしていた。いまだ素肌を曝したままに。

あら?

どこへいっていたの?

Anh …

微笑み、彼女は

Đi đâu ?

ながい髪の毛を肩に垂れ堕とす。斜に傾いた首の上に、そして、彼女の足元にだけ日差しがふれていた。鮮やかに光は、白塗りの台をそこだけきらめかせて。その、光みずからの色彩に。

ミーはソファの上にうつぶせて、そのまま眠っていた。未だに髪の毛はそこらに散乱し、彼らが来た、と言った。

誰?

町の人たち。

どうして?

あなたに、謝るために。

なぜ?

声を立てて笑ったフエは、不意にうつむいて、手のひらにドラゴンフルーツのやわらかい棘をなぜた。知らないわ。

I

でも、ね。

don’t

本当に、ごめんなさいって

know

言うのよ。

Em

紫色に

không

赤を混ぜ込んだ、その

biết

果物の。

いろ

色彩。私は言った。

You are me

君は、

見る

笑う。私は、

その

僕。

色彩を

鼻でだけ、短く笑い声を立てて、フエは声もなく唇で笑っていた。

anh

開かれた唇が

もてあそぶように

em

空間に数回だけ震えて見せるのを、

Tai sao ?

なぜ?、と。

ねぇ

言ったフエは、台の上から私をやさしく眺め遣った。

Why ?

胸元にドラゴンフルーツを抱いて、腕にもてあそぶ。あまりにも小さすぎる子供をでもあやしているように。

I

不意に、

know

舌を小さく出して、上唇をだけ舐めて見せた。

フエは

知ってるわ

言った。

em

聴く。

đã

フエの声、そして

Biết

褐色の肌が、私の眼の前に息づいて、息遣い、私が近寄るのを拒絶しはしない。なぜ、と。

Why ?

言った私には

Tai sao ?

答えもせずに、

微笑む。

なぜ?

どうして

私をやさしく

Tai sao ?

見下ろしたままに。

em

ねぇ。

đã

もう、

Biết

知ってるわ。

Why ?

言葉。

私の吐く、空気の震え。

I

聴く。私の

don’t

声を、そして

know

つぶやかれる、彼女の

but

声、その

I

唇を、

just

微笑む。

know

私は塞いだ。

it

口付け、として。彼女の唇を。半開きのままに。台に、片足だけよじ登りながら。目を閉じないのフエ、そして、私が見上げた眼差しの、彼女の微笑みの向こうには、あおむけに天井にへばりついたフエ。その、見たこともない色彩も無い男の昏い翳りが、横向きに血を吐き続けていた。

唇が、彼女の首筋に触れた。フエ。

それが、唐突にはじめて仕舞った愛しあう行為なのか、それとも単なる口付けとして終るべきものだったのか、それさえも私にはわからない。ふれ合わせて仕舞った唇の処遇に迷いながら、増殖する私たち。

無際限に。

たとえ、この世界が崩壊したとしても、アインシュタインの数式がはじき出した多元論のどこかしらに、無数に。生命体の存在の可能性の限りに、無際限に存在した宇宙のいくつもの空間の、そのいずものうちに。

為すすべもなく。

指先がフエの腹部の皮膚に触れる。息遣われる、その、やわらかい運動体。

体温。

日差しが足元に触れていた。

 

想いだしたように、フエが私の胸に手を当てて、私の体をすり抜ければ、手放されて仕舞ったドラゴンフルーツは床に、鈍い音を名残のように立てて、撥ねた。

床の反射光。もはや、明確な携帯さえない白濁。

フエの後姿を追って、日翳をくぐる。木戸の先の正面庭に、ブーゲンビリアの花々が、土の上にその花を大量に散らして、なおも樹木の葉々を覆いつくして咲く。

あざやかな、あきらかに空間に、際立ちを穿った色彩。

フエは庭に出る。いっぱいに、水滴に満たされた庭が、土が、樹木が、敷き詰められた石の群れ、そして草と花。

それらの匂いと色彩。

匂う。それらが濡れて、無理やり雨の臭気に引き立てられて仕舞ったそれらの固有の匂い。

土を踏んだ。フエは、庭の真ん中に立って、その頭から、正午の雲間の日差しに肌を曝した。

北のほう。わずかに切れた雲の先から、雲の先端をだけ黄色がかって染め上げて、光は堕ちた。

細く。

空の色彩。白濁したままの、まだ、もう一度雨は降るに違いなかった。フエの傍らに寄り添って、その女、愛すべき女、そして、事実、明らかに愛している女。

フエ。彼女を振り向かせると、その微笑を、疲れ果てたように、あるいは、倦み果てて仕舞ったように、ただ、曝している女の、その潤みを持った眼差し。

見つめられ、まぶたに口付けると、かすかにフエが唇を開いて仕舞ったことには気付いた。その気もないくせに。

もはや、誘惑も。媚も、欲望も。

かならずしも。

まだ、その、もう一度の雨は降り始めない。

私は、唇を軽くふれたまま、そして、彼女の顔を唇の表面になぜると、匂うのは髪の毛の、そして彼女の体臭。褐色の肌は、いつでも彼女固有の体温を持つ。

うざったいほどに。

くちびるに、唇をふれあわせた瞬間に、ようやくフエは、諦めたように目を閉じた。

 

夜。

何時かは知らない。

眼を開く。

昼間のうちに、あれから二度雨は降り、やみ、そして暗くなってからは一度もまともな雨など降らなかった。

静かに雨の音が聞こえていた。力もなく、やみかけの。何の意味もなく、その、音が止んで仕舞うのを待った。

十二時を回ってベッドに入ったのだから、もうすぐ朝が来る、そんな時間なのかもしれなかった。覚醒に、堕ちるように目を醒まして仕舞った私は、たぶん、眠ろうとすればすぐに眠れるはずだった。その確信が、何の揺るぎもなく、頭のどこかにあった。眠気など、すでに跡形もなく消え去って仕舞っているにもかかわらず。

私に縋りつくように腕と足を回したフエの皮膚の、その触感と体温が剝き出しの皮膚に、じかに触れる。

温度。大気には、肌寒いほどの冷ややかさがあった。すずしいと言って仕舞えば、その言葉にやさしすぎる嘘を感じざるを獲ないほどには。

光が、通風孔からだけ差し込む。

いつ、雨の音が止んで仕舞ったのか、その瞬間をは覚えなかった。

何の意味があったわけでもなく、たとえば、雨が本当に止んでしまったのか、それを確認しようとしたかのように、寝室の外に出ると、木戸が開かれきっている。音響が聴こえる。にぶく、遠く。

物と物がぶつかり合う音。なにかとなにかが。

ささやき声の群れ。

ふれあい、こすれあい、叩かれあって、そして、あるいは。

息遣いの音、そのつらなり。

衣擦れ、ときには、体のふれあう音、それら。

音響としか、言いようのなかったそれらは、木戸の向こうから小さな、空気にふれて触っただけのような揺れとして聴こえて、ミー。

彼女が何かを遣っているに違いなかった。

木戸に立つ前には、すでに暴力の匂いがした。容赦もなく。庭に、怒号のように、ただ、不穏なだけの音響が空間を掻きむしる。もはや、轟音、としてだけ感じられていたほどに。

血まみれのミーが強姦されていた。庭、ブーゲンビリアの樹木の前で。無造作に立てられる彼らの笑い声が不意に連なり、声が煽った。《盗賊たち》。ミーの、あの、それぞれに半裸になった下僕たちが声を立て続けていたが、誰一人としてそれを聴いているものなどいない。お互いに。無関係なひとりひとりの声がわななきあって、泥に塗れた肌を曝す。水滴を滴らせる庭。その中央に、血まみれのミーが失心しかけて口を開く。あ、と。

そのかたちに。二十人ばかりの男たち。結婚式で、一緒に騒いだその、彼ら。

私とだれかが目を合わせ、とはいえ、何を言うわけでもない。だれかが声を立てて笑った。群れて、バラバラに立った男たちが、泥に塗れたミーを下敷きにした男の背中を見下ろして、囃し立てられているのはやじるような、気まぐれな怒号。哄笑?まばらに、笑い声は立って、消え、起こり、そして、もはや顔の原型をとどめない、目さえ開けられないミーの剝き出しの肌に、白さなどどこにも現存しない。すべてを泥と血が覆い隠す。

私は、後れて、やっと息を飲んだ。

だれも、もはやフエを振り向き見もしなかった。フエは私の背後に立ったまま、何も言わないで立ち尽くした。彼らが、と、私は確信した。この町の住人たち、彼らが、《盗賊たち》を買収したに違いない。《盗賊たち》に、そこまで追い詰められて、ミーを破壊しなければならない怒りなど、ミーに対して、かけらさえもありはしなかった。必然などなにも。単なる他人事として、ミーは彼らに破壊されていた。すべては手遅れに違いなかった。

何もかもが。

奇妙な方向に向いて、かかとを曝したミーの左足が、男が腰を使うたびに揺らぎ続けた。かろうじて息遣っているだけの、と。想う。破壊された、不意に、肉体。私は。そして認識した。

私は。

フエが殺したのは彼女の父親ではない、と、それに私は気付いていた。私が、私の父親を殺して仕舞ったのに違いない。何の間違いかは知らない。フエは、その父親をは殺さなかった。

殺したのは、私だ。

フエは、その手で、私の父親を殺した。私が、憎しみに塗れて殺して仕舞うべきだった、あの父親を。

想う。もはや、と、ひょっとしたら、もう、ミーは死んで仕舞っているかもしれない。ただ、息遣っているだけで。すでに。そして、一瞬で音響につつまれる。

ただ、ひたすらな轟音。夥しい羽音。小さな羽撃きの音が群れ、連なり、反響しあい、かさなって。

見あげた空に、無数の、無際限なまでの鳩の群れが舞っていた。わななき、羽音を撒き散らしながら。

撒き散らされた羽根が空間を舞う。

無数の羽根が、あるいは止め処もなく降り注ぎ、空間をただ純白に染める。暗い夜の薄い光の中に、それ自身の色彩を白く浮かび上がらせて、明滅さえさせながら。

雪。と。

まるで、雪のように。

わななく。

啼きさわぐ。

舞い踊る。

ミー。すでに、彼女はもう失われて仕舞ったに違いない。何ものも、救われることなどなく、罰せられさえせずに。

他人の死。目の前に、そして雪。

白い羽根が舞った。

空間に。

降り注ぎ、地を埋め尽くそうとばかりに、白の氾濫。

ミーのまみれた血と泥の色彩をさえ隠す。

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない。散文

 

 

明け方、ふたたび遠い怒号で目覚めた。寝室に引き下がって、フエを抱きしめ、やがて眠って仕舞った私は。明け方。かすかに、空が白み始めていた。

街中が、怒号を立てていた。なおもフエは目醒めない。

ガソリンが匂い、煙の臭気が、室内にまで混入していた。

シャッターを開けると、町が炎につつまれていた。無数の家が、そして人々は逃げ惑うことも出来ずに、とはいえ立ち尽くしていられるわけでもなく、ただ、路上に惑い、無残な怒号を上げるしかない。燃え盛る家屋の三階から、燃えながら子供を抱いた女が飛び降りた。大量に、その区画中に撒き散らしたガソリンに、だれかが火を放って廻ったに違いない。《盗賊たち》。

彼らの報復。町の人間たちによって、彼らの最愛の、愛すべき彼らのミーを、ボロボロに破壊された挙句に殺されて仕舞った、彼らの容赦なき報復。自分たちが下した、彼らのミーのための、留保もなき当然の制裁。

無差別な炎が、一体どれだけのものを、人の命さえ含めて破壊し去ったかは知らない。

匂う。煙が、そして、無数の何かが、人体を含めて焼き尽くされる、その。

熱風に煽られた体が熱い。

眼差しの向こう、炎があぶる。

煽る。

舞う。

朝焼けがかろうとする空の色彩にさえ、眼差しはもはや気づかない。

破壊。舞う。

ブーゲンビリア。

花々は、炎を背景に、その逆光の翳りの中でもはや、みずからの冴えた色彩をさえも曝しはしない。

炎は、ただ、破壊した。

炎がわななく。

肺の中さえ熱い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.01.-9.05

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

scherzo; largo

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125047/read 

 

 

 

 

 

紫色のブルレスケ

散文①

http://p.booklog.jp/book/125299/read 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


それら花々は恍惚をさえ曝さない ②


http://p.booklog.jp/book/125077


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
 
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