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それら花々は恍惚をさえ曝さない #7

 

 

 

 

 

家まで送ってくれたナムを握手の後に見送って、フエの家には明かりさえもまだ、つけられてはいない。私が出て行ったときそのままの、開けっ放しのシャッターをくぐって、点在する夜の光にだけ照らされた薄暗い室内の、なにかの残像のように見えるものの翳りを、眼差しにただふれさせる。

室内の暗さに目がまだなれない。

その馴れない眼差しの、翳りを追うしかないおぼろげさを、私がつけた照明の鮮明さが、名残りも何もなく一気に破壊して仕舞う。

まばたき、フエの気配さえもない。ミーは、まだ帰っていないようだった。

振り向いた、ソファの黒いビニールの上に、あの男が座って、血を流していた。いまや、両眼からさえ、細い血の筋を垂れ流して。

フエの父親。娘に惨殺された男、あるいは、娘が自分を殺して仕舞うことを許した男。見たこともない、ただのあなぼこ。その、色彩のない昏い実在に、静かに、音もなく上方、天井に向けて、血の鮮烈な色彩を垂れさせていく。

私に向けらた眼差しは

ほら

私をは

ぼくは

見てはいない。

ここにいるよ

なぜ、と想う。なぜ、こんなところに目覚め続けているのか。あるいは、なにも破壊しもせず、何も救済せず、それどころか、なににもふれる事さえも出来ず、何をも見出すことことすらできはしないくせに。

寝室に行くと、フエは横たわったまま、寝ていた。そう想っていた。最初から。そうに違いなかった。垂れ落とされた蚊帳をはぐって、ベッドに腰掛、背中を向けたまま彼女の頭をなぜると、不意にフエの手のひらが私の手をつかんだ。

Đi đâu ?

どこへ

Anh

フエ。

Đi đâu ?

行っていたの?

Anh à

とっくに目覚めたままに、身を転がしていたフエ。照明をはつけないままの室内の暗がりの中に埋もれ、たしかにあの、苦悶の佇まいはなかったのだった。ただ、目が閉じられていただけに過ぎなかった。

ナム。と、彼の名前だけ口にすると、フエはなんとなく、事の次第を察して仕舞う。そう。

彼と。

と。

そして手の甲を、彼女の手のひらが包み込んで離さない。

もう、8時を過ぎていた。たしかに、さすがに、目を覚ましていないわけもなかった。暗がりの中で、彼女の肌はいよいよ黒く、沈み込んだ。

遠くに、近くのロン橋の広場で行われている何かのイベントの騒音が、かすかに聞こえた。風に乗って、あるいは風に邪魔されて、その、若干不安定な音響の向こうに、鮮明に、あの、私を食い尽くしていく、ナイーブで、ナーバスな音が拡がる。

音が、音をたてながら、私を食っていく。

牙さえも無くて、なにに立つ歯もないので、噛み付くことさえできないくせに。ねぇ。

おなかがすいたわ。

Đói quá

つぶやいて言ったフエの眼差しは、私を振り向きもせずに、ただ、つかんだその手の平にだけ私の存在を確認する。

あるいは、澄まされた、その五感のすべてで。

冷蔵庫の中に、食べ切れなかったパーティの残りが、もらっておいてあるの、と彼女は言った。断るのにも関わらずに、あの新婦の女がつつんで無理やり渡したらしかった。

ビニール袋の中に、そのまま無造作にぶち込まれた、ゆでた鳥一匹を骨ごと潰したその料理、中部のパーティで必ず供されるそれを繊維に添って、千切って指先につかんむと、指先に、冷やされきった鳥のべたつく油がじかにふれて、指先はべとつかされる。香辛料が酸く匂う。

ベッドに座って、彼女に差し出してやれば、あお向けたフエは口をあけてほら、

ね?

と。

あーん、

à......

その無言のジェスチャーのままに、私は彼女の体を穢さないように鶏肉の断片を、半開きの口に運んでやった。

つかんだ骨の、叩き折られた切れ先が、彼女が咬み付くたびに指の腹ににぶく踊る。ここでは、くちゃくちゃと音を立てたところで、誰も何も言わないばかりか、むしろそれが当然なので、彼女も当たり前のように唇を舐め、耳になでつく咀嚼のやわらかい音を立てながら、咬む。

フエは、私以外の外国人の前では、さすがにそんな音は立てなかった。外資系企業のアカウンターばかり遣っていたので、その程度の知識くらいはあるのだった。

手羽先の、複雑にへし折られた残骸を、結局はうまく食いつけなくて、フエはそのまま口の中にくわえ込んだ。私を見つめた眼差しの奥で、彼女がむしろ、口の中にくわえ込まれた鳥の骨の断片の、その触感が与える映像を追っているに違いないことは、私には知れていた。黒眼が、ふるえるように、かすかに揺れた。

しゃぶり取った骨を、舌でつきだして、唇にくわえ、

Ăn đi

ほら

たべなさい

言う。

あなたも

私は

Anh ăn đi

首を振る。

No rồi

微笑む。私は。

おなか、いっぱいだよ。

彼女に。

Xấu

かすれた声。

駄目よ。

咥えられた骨のために、うまくは発音できないベトナム語の音声。

Ăn đi

ベッドに投げ出されたままの、フエの両腕は、何ものをもつかまない。頽廃。

ほら、

頽廃と言えば、これ以上の頽廃もない気がした。

たべなさいよ。

為すすべもなく、喰うと言う最低限度の生き物の行為にさえも、戯れてみせるほかにない。

身を屈めて、彼女の咥えた骨を唇に奪ってやる。鼻で笑った彼女の、その、息がかかった。左手に持ったビニール袋の中に、そのまま骨を吐き棄てた。

フエの指先が、足の付け根だかどこかの骨を拾う。皮が千切れそうにぶら下がって、フエの指先にへばりついて震えた。

...ăn đi

唇にふれそうなほどの至近距離に差し出されたそれを、

Anh

彼女の指先に歯をふれさせながら、私はしゃぶりついた。フエの眼差しと、唇から、微笑みが消えない。私はフエを見つめていた。

Ngon

決して、

おいしいでしょう?

他人が作った料理を褒めない、フエ。

Ngon quá

骨を、ビニールに棄てると、かさっと、それが立てた音が小さく耳にふれたが、私の眼差しの先に油にぬれた自分の二本の指先、親指と一刺し指をさしだして、ほら。

舐めて。

と。

口には出さない。

わかるでしょう?

ね?

あなたが人間でさえありさえすれば。

舐めて

咥えた私の唇と、舌と、歯が、

好きなだけ

なんども

あなたが

その指を

好きなだけ

しゃぶって見せるのを、フエは

舐めて

ときに、

舐めなさい

鼻にだけ

ほら

笑い声をたてて

ね?

見守る。

いい子だから

私の唇から、名残りさえ惜しまずに引き抜かれた指先は、すぐにビニールをまさぐって、つかまれた胸肉の断片を、フエは彼女の曝されたままの乳首にのせた。ほら。と。

Ăn đi

声を立てて笑う。ふくらみ、というほどのふくらみさえないそれ。褐色の肌の上の、そのいよいよ黒ずんだ濁点を隠した、引き裂かれた白の肉片を、私は身をまげて加え、舐めて、フエはくすぐったさに、耐えられないように声を立てながらじゃれれば、拒絶した手首が私の腕を打ち、ビニールからこぼれた骨と肉の断片を、彼女の腹部に散乱させた。

いくつか。

ほんの、3つか4つかだけ。

彼女の上に、覆いかぶさり、ひれ伏すようにして、それらを唇に拾っていく。

 

無意味で、お互いの失笑をしかひきださない戯れの後に、時間だけは持て余されて、一人だけのシャワーのあとに、日付も変わって仕舞えば、私はフエの傍らに添い寝するしかない。

シャッターにかぎはかけなかった。ミーが帰ってくれば、たやすく入ることが出来る。そして、ミーが盗難に入った日からの習慣で、ふたつめの居間の照明はつけっぱなしにされていた。盗難防止のために。笑うしかない。

その物音に気付いたときに、フエも、私も起きていた。暗がりに、胸に彼女を抱いてやりながら。一時間くらいの間も、暗がりのなかに目を覚まして、眠りに堕ちたことを自分に対してさえ偽装して息遣うがまま、それ以外には何もしないままに。

シャッターが開かれた音はミーに決まっていた。とはいえ、私はそれを確認しないわけにもいかないのだった。立ち上がると、バイクが数台立ち去る音が聞こえた。

居間の照明の下、ビニール袋をぶら下げて、私に気付いたミーは微笑みを返した、何の屈託もなく。テーブルの上に放り出されたビニールの中には、白い油彩絵の具がいっぱいに入っていた。その瞬間、無造作に放り投げられてテーブルの上に転がり出し、たしかに、ホイアンにも、サイゴンにも、そしてダナンにも、日常的な雑貨屋や飲食店と軒を並べて、画廊がどこにもかしこにも目に付いた。

そのくせ、誰かが買うところを見たこともなく、絵を描くのが人々の一般的な趣味であるなどいうことなどは、間違っても在り獲ない。

本屋さえ、都市部にすら数件もなく、なにかの教科書以外の本を読んでいる人間など殆ど見ない。ミーが、声を立てて笑い、何も言わずに、服を脱ぎ捨てていった。

完全に曝された肌を恥ずかしがりもせずに、体を捩ってシャッターを指さすミーの、その指先の先には、派手な大振りの清龍刀が立てかけてあった。鞘にさえ収められずに、剥き出しの刃を上にして。間違っても、美しい刀身だとは言獲ない。いびつな装飾がほどこされながら、刃の光にそこまでの冴えた痛々しさはなく、ただ、鍛えられ、砥がれた部厚い鉄身という、それそのものの無骨な存在をだけ、眼差しの先に曝す。

ミーが笑っていた。声を立てて。

ほら。

どう?

私も、彼に追随して

すごいでしょ?

これ

笑うしかないのだった。

どう?

油彩のチューブをねじって、自分の手のひらに不器用にひねり出すのを、私はただ見守った。彼女が何をしたいのか、私はすべて、すでに知ってさえいる気がした。ひとつの、留保もない実感として。

たとえば、化粧。自分を、より鮮明に美しくするための。

彼女の指先が、白い油彩をもてあそんで、その額は白くぬり潰されていく。眉も、鼻筋、そして、頬をまだらに、あるいは、髪の毛をまで。

いつか、化粧との、埋めようのないどうしようもない差異を、私は実感していた。書かれることのない純粋な白の氾濫は、ただ、彼女の形姿も個性も塗りつぶして消滅させて仕舞い、ただ、それがそこに存在していることだけを際立たせた。自分の色彩の在り獲ない鮮明さを矜持するでもなく見せ付け、否定の挙句に否定も出来ずに、それはいま、そこにいるのだと。寝室から出てきたフエは、褐色の肌を照明の下に曝しながら、そして、そのかすかな凹凸に、やわらかい翳が添って、這い、かたちを崩しては彩る。

フエが、声を立てて笑った。理由さえ聴こうとはせずに、ひざまづいて、ミーの身体に白を塗りたくる。自分の手のひらを、いっぱいに白く汚して。

撫で付けられる乱雑な白の色彩の群れが、でたらめに彼の身体を染め、その、形姿の固有性を、いよいよ彼から奪っていく。そのかすかに感じられる性別の刻印をさえも。彼、あるいは、彼女から。

女たち二人は、声を立てて、時に笑った。女、でさえないのかもしれない、その、彼をも含めて。私は唯、見守る。ソファにいつか、身を横たえて仕舞いながら。

まだらに、無残なほどのむらを残しながら、ミーが自分の身体の色彩を、何をも語りかけはしないただ無機質な白にだけ埋没させて仕舞うと、くるっと回って、無意味な嬌声を上げた。

Đẹp không ?

空間に響き、

綺麗でしょ?

まだらに垣間見える、塗りきられなかった地の肌のところどこに見い出せた息づいた色彩は、その白の無機質な一色に、偽せものじみたいかがわしさをだけ与えた。

見世物のような。くだらない、宴会芸か何かの失敗作のような。いびつで、冗談にもならない、本気にはできない眼の前の、ミーの肉体が曝した彼女が存在している現実。

純白でさえ、ない、ミーの白濁。

来い、と、ミーが、笑いながら手招きをした。私たちを。

笑む。

フエは従わない。夜も遅い。そして、彼女は服さえ着てはいない。いつものように。私の傍らに寝転がって、白く穢れた手のひらを曝し、私に戯れてみせた。

ミーは、清龍刀をつかむと、開け放たれていたままの、シャッターの隙間に消えていく。

遅れて、私は彼女の後を追った。

背後に、フエが声を立てて笑った。やわらかく、邪気もなく軽蔑混じりの、いかにも軽々しい笑い声。

 

深夜一時を回って仕舞えば、町に人通りなど何もない。夜の家屋の照明さえ、もはや疎らに過ぎない、その街路を街路灯だけが、鮮やかに照らし出す。

ミーの白塗りの、まがい物の素肌は、ただ、外気に曝されて、ゆっくりと油彩を渇かせていく。

裏道をまっすぐ、そして、広くは無い車道を渡ると、朝の更地に出る。剥き出しの土の上、まだらな雑草の散乱を踏む。どこかで、野鼠か何かが疾走し、逃げる。その、音だけが足元の向こうのどこかに立つ。

右手の先には、主幹道路の街灯の、さっきまで彼女の肌を染めていたと同じオレンジ色の列と、ハン川がただ、暗い翳になって、夜の光に染まる。その向こうには、朝まで続く街路とビルのイルミネーションが、遠く、小さく点在し、それ以外に人工の光はない。想ったよりも、月は明るく、冴えていた。月の光が、彼女の肌を白く、やや、かすんで浮かび上がらせていた。染まりきらない翳として。

広大な更地のほぼ真ん中に立つと、彼は立ち止まってホー

Ho !

と、甲高い呼び声を立てた。南部のベトナム人が盛んに口にする、遠い人を呼ぶときの声だった。動物的なその音声を、私は耳に聴いた。

だれも反応するものはいない。

ダナン市は、夜にもなれば外気は肌寒さを持つ。たとえ、夏であったとしても。ショートパンツだけの私の素肌に外気がふれて、かすかに、私の肌を鳥肌だてた。

どこかで犬が、遠く吠えた。朝の犬が、結局どうなったのかは、私は知らない。フエの話によれば、そこまでミーがその身体を破壊して仕舞ったのだったとしたら、とても五体満足でいるとは想えない。安楽死させてもらえたのか、あるいはどこかで、いまだに生き続けさせられているのか。

みずから、生き残ろうと苦闘しているのか。

戯れるにも程がある気がした。誰もいないのに、誰に、彼のその塗りたくられた白い裸身を見せびらかそうというのだろう?かならずしも、その体が女じみているわけでもないのに。

むしろ、少年のそれのように、色気をすらかもし出せてはいないのに。あるいは、やわらかく、いかにも幼さなく、夭い、あるいは倒錯した気配を以外は。

帰ろうよ、と、彼に笑いかけようとした瞬間に、ふたたび聴こえた犬の吠え声のこちら側に、気配がした。

人。

街路灯を背にした逆光の、単なる影としてその男は接近し、私もそこに居ることを見留めると、彼ははっきりと舌打ちをした。

その男。ミーに犬を破壊された、その、色の白いお金持ちの男。朝方、私が殴った男。殺意を隠さない眼差しに、バイクの上の私たちを捉えていた男。仕事は何をしているのかは知らない。いずれにしても、新興のエリート層であるには違いなかった。

ミーに、呼ばれて出てきたのに違いなかった。ただ、私に軽蔑を明らかに含んだ眼差しを一瞬だけ、溢れかえっていっぱいに投げた後、ミーをだけ見つめて離しもしない。

もはや。

眼差しに、明らかに、その眼差しが捉えている存在への渇望があった。たぶん、本人とって、胸やけがしそうなほどの。渇望。焦がれ、飢えた、求め、ただただ飢えた眼差し。すべてを、骨までしゃぶっても飽きたりないような。

あるいは、ミーのあの下僕たち。彼を取り込んだ取り巻きたちが、ひそかに、あるいはときに露骨に曝して見せる、それに限りなく近い、その。

彼女にかならずしも降伏してるわけではない以上、ミーに、うかつには近付けはしないが故に、彼の眼差しが帯びる切迫して容赦もないその色合いの違いだけが、その取り巻きたちと彼の間にある差異にすぎなかった。

男は、私も見向きもせずに、わざと私のすれすれを通り過ぎていった。お前の出る幕は無いのだと。そこで、指をくわえてみているがいい。そのとき、私の眼差しが捉えたのは、結局は、自分が曝したわけでもなければ、自分のために曝されたわけでもないもない、あくまでも他人事に過ぎない欲望が傍らで燃え盛ったときの、その眼差しが持って仕舞うどうしようもない矮小さと、意地穢さと、見苦しい生理的な穢らしさにすぎなかった。最低の、ポルノ・フィルムに辱をなんども塗り重ねて、その何十乗にもかけて侮辱し、そしてひねり潰して指先程度のちっぽけな汚穢にして仕舞ったような、ただ、たんなる見苦しさだけが、眼差しに、単なる汚点としてだけ拡がる。

ミーは煽情もしないままに、彼女を見つめる男を魅了して仕舞っていった。もともと、そうだったからこそ、彼女に暴力をふるわせたのかも知れなかった。あの群集たちに。その男は。

この日の朝に。

愛するもの、そして、彼の手には追えず、彼の手にはふれ獲ないものに、むしろ泥をぬりつけて仕舞うこと。あくまでも他人の暴力によって。

男はミーを見つめる。息をさえ殺して、そして彼の穢い、飢えた眼差しは、明らかに、私のフエを見る眼差しの、フエの私を見る眼差しの、あるいは理沙の、美沙子のそれらの眼差しの、留保もない素直なコピーに過ぎない。

私は、目線を外しはしない。ただ、彼の穢さをだけ、見る。

ミーは微笑み、ときに声を立てた。

男が至近距離に近づいたときに、そして、眼の前に肌を曝す真っ白い生き物の、その白さの必然と意味をなんとか探り出そうと男の眼差しが目論んだときに、あるいは、それからいま何をなすべきなのか、その答えを必死に、ただ軽蔑交じりの微笑を浮かばせるに過ぎないミーの、自分を見つめる傲慢な眼差しに探っていたときに、不意にミーが言った。

Đẹp không ?

きれーじゃない?

どう?

anh

わたしのこの、純白の肌は。

きれい?

Đẹp không ?

あなたたちが、必死になって、美の基準として崇め奉っているところの、肌の純白。

ね、ほら

Anh

あなたも守り続けているんでしょう?

きれいじゃない?

Đẹp không ?

白。

もともと白い肌に塗りたくられたにすぎない単なる色彩の白さが、ミーの生体の白さの、いかに複雑なそれ以外の色彩をふくみ、もむくちゃに塗れているのかをただ、無言のうちに冷酷な事実として曝す。

塗りたくられたただ一色の、もはや色彩とさえ呼べないほどに単なに白いだけの白。暴き出しながら覆い隠した生き物の穢さの上で、自らの色彩の留保もなき鮮度と冷淡さをだけ、曝していた。

綺麗でしょ

男は、何も答えずに、彼女の眼差しを見つめる。飢えた、男の性器の匂いさえした気がした。

爪先立ったミーは、男の唇に、一度だけ、ほんの、瞬きにもみたない一瞬だけ、ふれようとした。

とおりすぎた空気がふれただけの、そんな。

ややあって、男が不意にミーを押し倒そうとした瞬間に、振り上げた清龍刀が男のわき腹に突き刺さった。

斜めに。

血は噴き出さない。

ミーが、声を立てて笑った。

腹を足蹴りにして、男の体から無理やり刃を引き抜くと、一気に血が噴き出しながらも男はいまだ倒れない。

男は、何かを確認しようとしていた。何を?ミーがもう一度蹴り飛ばし、それでも倒れない男を、むしろ嘲笑う。私に目くばせをくれて。

頭に清龍刀を振り下ろした瞬間に、突き刺さりはせずに、皮膚と骨格を砕いただけのそれは、破れた皮膚の鮮血を好き放題に撒き散らした。

なにが起こっているのかもわかってはいないままに、口と眼を、ただただ見開ききった男の身体が、覆いかぶさって自分の体ごと地にたたきつけた瞬間に、ミーは小さな悲鳴を上げた。

血にまみれる。

男は、なぶるようにミーに馬乗りになって、血を撒き散らす。ミーの、白の身体に、その、鮮血の赤を。呆然として、ミーを見つめ、彼は絶望さえ出来ない。

乾ききらないミーの、油彩の色彩は男の血まみれの肌をも穢す。男は、まだ死ねない。のた打ち回りながら、ミーは泥だらけになって、男を跳ね除けたとき、後ろ頭をやわらかい地面にぶつけた男は長い長い鼻息でだけ答えた。馬乗りになったミーに、刃先で突き刺され、破壊されるに任せる。ミーの、そして、男の肉体は血に染まる。

死なない。まだ。

ただ、最早ぼろぼろの肉体の残骸をだけ曝し、皮膚を、筋肉を、骨をまで砕かれ、破壊されながら、筋肉痙攣に無残に引き攣らせるしかなく、そして身体は、とっくにその生存限界を超えて、生きていくことの出来る可能性のすべてをすでに喪失して仕舞っていながらも、男の身体は死なない。

もはや、男には意志さえないはずなのに。

私の傍らに、色彩をなくした、見たこともないでたらめな、むしろカマンベール・チーズを、パソコン上でゆがませたような、そんな人体らしきものの翳。

翳り、それは息遣う。

もはや、人体でさえも無いのに。

それが血を流す。その昏さのいたるところから、ただ、鮮明なそれを。

男の身体は、馬乗りになったミーの身体の下で、痙攣と、壊れはててえづくしかない呼吸音を、無茶苦茶なノイズそのものとして、ただ、かき鳴らした。

かくも、と、想う。私は、こうまでも、と。死とは困難なのか。

すべての可能性をなくし、もはや死と完全にただ一致していながらも、死に到達することは、これほどまでに困難でなければならないのか。生への執着など、肉体自身にさえももはやありはしないのに。

吐き気がする気がした。

その瞬間に、私は、私が泣きじゃくっていたことに、気付いた。鼻水を散らしながら。

 

男が死んだ瞬間には、ミーも、私も、気付かなかった。

他人の血にまみれて、白い化粧を半分以上落として仕舞って、まがい物の肌のくすんだ白を無造作に曝す、ミーは飽きもせずに、すでに完全に死に絶えて仕舞った肉体を、清龍刀で破壊し続けていた。

私は止めなかった、止めるすべも、必然性もなかった。

最後に、単に、おそらくはただ肉体的に限界に達した自分勝手な疲労のためにだけ、振り上げた清流等を、ミーはでたらめに顔だった部位の残骸にたたきつけた。地面ごと突き刺さったそれは、すでに死に絶え、壊れきった肉体から、最後に血とその飛沫を飛び散らせた。

息をつき、しゃがみこんで、やがて立ち上がったミーが、私に微笑みかけると、駆け寄って、ミーは私にその体を預けた。やばい。

Mệt quá

疲れたよ。

私は彼女をしばらくのあいだ抱きしめてやり、その体温を感じ、彼女におそらくは私の体温を感じさせ、生乾きの白に自分さえ穢させて、家に連れ帰るために、彼女を腕に抱きかかえて振り向いたとき私の眼差し前のすれすれに、色彩をなくしたあの男の、顔さえない肉の残骸が縦に、どこまでも高く伸びていた。暗い空の向こうにまで。ただ、いたるところから血を吹き出させて仕舞いながら。

天に昇る?どこまでも、地面にへばりついたままに?空の先など、ただ、宇宙が広あっているだけなのに。

男の、くらい肉塊は、どこまでも空を突き破って延びていた。

色彩さえもないままに。

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

やがて目を覚ましたとき、フエは、傍らで眠っているままだった。私に寄り添って、いつもの静かな苦悶の表情をだけ曝して。ミーを連れて帰ったとき、フエは疲れ果てたように、散乱する絵の具さえ片付けないで、寝室にすでに寝ていた。ひとりで。

手のひらに、白の油彩を乾かせ、罅割れさせさえして。

床に、渇かない白の絵の具が、飛び散ったままに。

 

寝室の通風孔からの光。白濁したそれ、そして、後れて、すでにずっと鳴り響いていた降りしきる雨の騒音に、私はようやく気付く。ミーを連れて帰って、ミーは、ともあれシャールームで血を洗いながすものの、すでに皮膚の体温の上に、渇ききった油彩の白は、取れもしなかったのだった。

trơi

ほら、

ơi

と。

まったくもう

シャワールームから出てきた彼女は両手を広げ、そのまま、白い、ぬれて、輝きを失った絵の具の白濁が穢した皮膚を曝した。

私が彼女の皮膚の油彩を爪ではがしてやろうとすると、ミーは声を立てて笑った。

だから、私もつられて笑うしかない。

 

いずれにしても雨。久しぶりに降った雨だった気がした。ほんの数日前にも降ったかもしれない。庭のブーゲンビリアも、バナナも、すでに雨にぬれているはずだった。周囲のすべての色彩を、色彩も無いままに、鮮やかに白濁させて仕舞う雨の中に。

それら本来の色彩を奪い去らずに、むしろよりあざやかに際立て見せながらも、ただ、白濁させるほか無い、その、それ。雨。

朝の明けも近くになって、私とミーが、その戯れにも飽きて仕舞って、ソファーの上、お互いに塊りあって寝付いていた明け方に、終には堪えられずに一面の雲の群れは、雨を降り堕させはじめたに違いなかった。いまや、叩き付けるような音を、家屋の、トタン敷きの屋根に低く、無造作にかき鳴らさせて、私は聴く。

それら、音響。

その、連なりあいもせず、反響し合いもしないままに、ただ、無際限に鳴り続けるそれら無数の単独の音の群れ。

ひざまづくようにして、フエの手のひらをひらき、彼女の手のひらの絵の具をはがそうとすると、ミー。

剥ぎ取られていく白い絵の具の皮膜に、あるいは、私の爪の先に、彼女はその白い繊細な皮膚を充血させて仕舞いながら、そして笑った。まだらに、いくつもの引っ掻き傷のような、赤い痕跡を体中に曝して。

剥ぎ取りようも無い髪の毛に、どこも彼処も白い汚点を散乱されて、彼女は。なんども声を立てて笑い、ブーゲンビリア、その花も雨にぬれているだろうか。

いま。

沈黙したまま際立ったぬれた色彩の、それらの白濁の中に、あざやかにその本来の、むらさきに近い紅の色彩をひときわ目立たせて、誇ることもなく無造作に曝して見せながら。フエが、小さな笑い声を鼻に立ててた。

目覚めていたフエは、寝た振りをするわけでもなくて、ただうすく、やさしく、ただかすかにふれ合わされただけのその眼差しの向こうに、そして、彼女は笑っていた。

Làm gì ?

その

ねぇ、

ちいさく、ただ、ふるえる空気の

Anh làm gì vậy ?

いわば、振動。

あなた

感じ取れないほどに

なに、

こまやかで

してるの?

かすかな。

微笑む

フエの褐色の肌。

きみを

手のひらの皮膚は白い。

ぼくは

複雑を極めたしわに塗れて。

見る

シャワーを浴びに行くと、シャッターもまだ開かれないままに、結局は昨日そこで寝付いて仕舞ったミーは、ふかく、ソファに背をもたれうずもれ、指先に自分の太ももの皮膚をもてあそんでいた。自分を慰めようとしているのか、未だに粗く、疎らに付着したままの、白い油彩の痕跡と戦っているのか、それは私にはわからない。

 

彼女たちのために、朝食の Bánh cuôn バン・クンを買いに行くと、その、ちいさな市場の目の前、更地に人だかりが出来ていることに、私は昨日のことを想い出す。男の死体はいまだに撤去されていなかった。あの、無残な惨殺死体。警官が人だかりを規制しようとするまでもなく、人々は維持されたある程度の距離の向こうにたたずんで、声を潜めるでもなくささやきあう。

人々の連なりあった体の、足元の向こうに、雨の中に野晒しの死体が曝されたまま、血を失った、赤と白の残骸を雨はなおも洗い流していく。

たんなる肉と骨格の塊り。誰かが、スマート・ホンに写真を撮った。警官は何も言わない。合羽を着た半数の人間と、着のみ着のままに、細かい雨に打たれる半数。群がった合羽と周囲のトタン屋根を打つその音響の群れが響く。

ショートパンツだけの、わたしの肌をじかに生ぬるい、冷たくはない雨がふれていた。移り気に、自在に強さと弱さをもてあそぶ気まぐれな雨が、かすかな風さえ伴ってでたらめに肌をもてあそぶ。自分の髪が、ぬれた質感を持って不意に匂う。

髪の毛の匂いは、誰も彼もが、いつも、同じだ。

誰かが私に気付き、そして、教えあったわけでもなく無言のうちに連鎖して、人々の振り返った眼差しが私をだけ捉えた。表情は何もない。訝りの表情さえも。顔。

口。

鼻。

耳。

皮膚。

そして眼。いつのまにか、彼らは沈黙していた。緑色の制服の警官は、もとから押し黙って、ただ死体を見つめているだけに過ぎない。

そのまま、見つめていさえすれば、事件など勝手に解決して仕舞うのだとさえ言いたげに。無能な人間たち。と。

不意に、私は心の中にだけつぶやき、二十人ばかりの、彼ら、群集は私を注視した。ものも言わない。シン、チャオ…Xin chào …こんにちは、さえも。

雨の音が聴こえる。殺したのは私に違いないと、彼らはそう想ったに違いない。私は、そう想った。通りをバイクが一台だけ、通り過ぎた。為すすべもなく、私は微笑み、目をそらした。

金を払って、ビニールに野菜ごとぶち込まれたバン・クンを受け取りながら、彼らはどうするだろう、と私は想うのだった。

もしも、彼らがかたくなに、私があの男を惨殺したのだと確信したならば、彼らは私をどうするのだろう?フエごと、あるいはミーごと、惨殺して仕舞うだろうか。ミーが、あの男にしたのと同じように。たとえば、この更地で。フエも私も、いずれにしても共犯者には違いなかった。それに留保も条件付けもありはしない。フエは体中に絵の具を塗りたくって、戯れながら、彼女に白い油彩の色彩を与えて遣ったのだし、私はそもそもがミーのすることを許可していた。無言のうちにでも、なんであっても。

彼女があの男を殺して仕舞う前から。私はすでに、彼女がそうすることを知ってさえいた。そうなる以外になかったのだった。何かを認識するというわけでもなくて、認識する前にすでに、私はもう知っていた。ミーが、あの男を殺さないわけがない。すくなくとも、私はミーの共犯者だった。

頭の上の市場のトタン屋根が、ただただ過剰なほどに、雨の音を反響させる。水を漏らしながら。拡声器でもつけたように。

 

 

 

 


それら花々は恍惚をさえ曝さない #8

 

 

 

 

 

開け放たれたままのシャッターをくぐると、フエはソファの前にひざまづいて、身を投げ出したミーの皮膚の白いペンキをはがして遣っていた。丁寧に、ピンセットを当てて。大袈裟にフエは声を立てて叱りつけ、そしてわざと痛がって見せるミーを、大声で笑いながら諌める。戯れ。今日はメーデーだった。5月1日。祝日。

フエの褐色の肌が背伸びして、息を止め、そのついでに私に歎くような眼差しをくれて、そして、媚びる。その眼差しのうちにだけ。ミーの髪の毛は、丸坊主に刈り上げられていた。彼女たちの周辺、ソファの上、床の上に、白と黒との短く、細い散乱が、散り散りに乱れ、テーブルの上に置かれた型式の古いバリカンは昔弟が使っていたものだったと言う。フエの、生存するたったひとりの肉親が。

歯のなかば錆びかけたバリカンには、いかにも鉄くさい、そして、集積して消え去らない髪の毛の粒子を散らしたような、鼻に衝く臭気が執拗に留められていた。

Chết rồi

仕舞った!

死んだわよ

フエが、想い出だしたように言った。皿を出してバン・クンを盛り付ける私を振り向き見ながら。

だれが?

Anh thanh

タンさんよ。

誰?

ai ?

つぶやく。タンさんって、だれ?

Thanh nào ?

フエは、私を見つめ、すぐに噴き出して仕舞って、ミーを指さす。ほら。

Mỹ ghết

殺したわ。

M

あの男、

đã

ミーが。

ghết

その男の名前が、タンだということを、私はようやく想い出した。ミーは、目を

Anh

伏せて、そして

いつくしむような

Biết

眼差しを、ただただ

Không ?

私に媚びた目線を向けるにフエに、投げた。

何も言わないままに。

タンはすぐ近くの、小さいが真新しい家に住んでいた。自動車販売業かなにかで、とりあえずの財はあった。年齢は私とほとんど変わらない。違うのは、二十五、六で結婚した彼には十何歳かの息子と娘がいることだった。むしろ、彼の母親の、たしか Hạnh ハンという女性のほうとの付き合いが、私には印象的だった。

彼らの家のガレージに、バン・ミー Bánh Mì というベトナム風サンドイッチの店を出して、そこでときどき私はバン・ミーを買うことがあったから。私の片言のベトナム語をなかなか聴き取れない彼女は、派手に笑いながらいつも受け答えした。周囲のだれにでも、こいつ、

ね?

日本人なのよ

Người Nhật

そう、わめくように囃し立てて見せながら。

Hiểu không ?

一度、雨が止んだタイミングで、私がフエの家を出たのは、単純にバイクに乗りたかったというだけだった。いたずらに、殺人現場にたむろしつづける人々の群れから逃げたかったわけではなかった。いずれにしても、私たちのあの家屋、孤島の森の中のような孤立した空間が、暴徒の群れだかなんだかは知らない。群集に襲われて、私たちが皆殺しにされて仕舞うのが、そもそもの事の必然として、確信以前に当然のこととして、いずれにせよ私はすでに受け入れていたのだった。

そうするに違いなかった。私たちは彼らの平和を粉砕したのだった。そうなるほかない。

もはや、一片の疑いさえいだかずに。崩壊は、すぐに、いつか、やって来る。と。容赦もなく。想う。私は。待つと言うわけでもなく、ただ、その猶予としてだけ、私は私のその現在の時間を認識していた。

遁れようとするわけでもなくて、受け入れる気もさらさらなくて、ただ、私はバイクを転がすことを選んだ。絵の具の小さな断片を剥ぎ取ってじゃれつくミーとフエの、終わりも無い無際限な戯れを、眼差しに捉え続けるのをは、私はすでに持て余して仕舞っていた。

ラン・コーと言う、山の向こうの、ダナン市とフエ市の境の、湖のような入り江を囲う町にでも、行って仕舞おうかとも想っていた。なんどもナムたちと行った事があった。フエと、結婚式の前に、その家族に連れられて、遊びに行ったことさえもあった。

雲にふれ合いながら山を越えて、海に近づいて行った先の入り江は、ただ空の下に霞む静かなたたずまいを見せて、かつては水産の豊富だった底には、乱獲のせいでもはやまともな魚などいない。遠めに見れば、あまりにも美しい風景も、近づけば投げ棄てられたペットボトルや、ビニールや、缶のごみを沈めて、ただただ穢らしい。

日本人のボランティアでも連れてくればいいのに、と、私はナムに言ったことがあった。彼らは、そう言うのが好きだよ。後進国にやってきて、慈善事業をやって、自分たちで満足して、それで帰っていくんだよ。フェイスブックやインターネットに、いっぱい記事をアップロードしてね。フィーはいいねの数と自己満足。それだけ。

雨の日の午前、主幹道路を走っていれば、いきなり雨が降り始める。そうなるに決まっていた。今日は一日中、降ったり止んだりを繰り返す。明らかに、その日の空の色彩は、気象レーダーのコンピューター解析を待つまでもでもなく、誰の肉眼にも結果を明かしてた。雨の中、気付けば周囲に人の気配はなくなる。視界はいよいよ白濁し、激しい雨に逆らって進む速度の加速させた雨粒の群れが、じかにふれた顔の全体をこまかく鋭い痛みで埋め尽くす。雨の味が唇にする。匂う。ぬれる。いつもの群れるバイクの姿は、ほぼ、消えうせていた。

聴こえるのは、基本的には雨の轟音と、自分が尻に敷く瀟洒なホンダのバイクの、エンジンの荒いうなりに過ぎない。

足元にだけ、エンジンが撒いた暖かい温度がある。体はすでに冷え切った。

海辺の橋、いくつもの人間が飛びこんで自殺するので有名な、高い橋を渡る。荒れて吹き荒れる海風にハンドルを取られそうになりながら、制限速度の倍以上を超えた。

無造作な凹凸を疎らに散らした路面はぬれ、水溜りは飛び散り、水滴は撥ね、これで転びでもしたら生きてはいない確信だけは、まざまざと与えてくれる。

フエが見たら、取り乱して罵るに違いなかった。何台も、まばらなバイクを抜かした。合羽に、盛大な雨の音を鳴らし続ける彼らを。

Tシャツが雨にぬれて、もはや重力を感じさせる。

雑な工事が好き放題に作って仕舞った水溜りの群れが、いつでも激しい飛沫を飛ばしていて煙立ち、横目に見る海岸線の向こう、海はただ、白い。

真っ白の、海の白濁。もっと、と。

もっと、速度を。

橋を降りて、市街地を横断する主幹道路を飛ばす。バイクの台数はにわかに増え、事故の危険も増大する。もっと。

雨はいよいよ叩き付ける。もっと。

更に加速し、苛立ったいくつもクラクションを聴いた。警察が来たら、ここではなんでも簡単だ。五万ドン紙幣を一枚握らせて遣ればいい。

信号を無視し、そして、対向車線をはみ出して追い越そうとする向かいの日本車のすれすれをわざとすり抜けてみる。かけられた急ブレーキの気配が耳の背後にあって、その結果は見なかった。さらに。

もっと。さらなる加速を。転倒しそうになりながら、ぎりぎりで交差点をカーブした。対向車にぶつかりそうになりながら。

 

フエの家の前を通り過ぎて、もういちどぐるっと川沿いを回ろうかと想った。雨が急激に、その力を失って、そして、次第にやんでいく雨は不意に匂った。通り抜けて仕舞いそうなほどの至近距離に。

とっくの昔から、ずっと匂い続けていたはずのそれを、不意に、なんの前触れも無い想起ででもあるかのように気付いて、速度を緩めた。あの喫茶店に止まった。その店は、雨の白濁の中に、ただ、廃墟のような相変わらずのたたずまいをだけ曝す。

いつ見てもそうに違いない。

バイクを止めて、中に入ろうとすると、雨はもはや完全にやんでいた。ぬれた大気の質感が、それ以上に濡れぼそっているはずの肌にじかにふれて、湿気を感じさせてやまない。湿った髪を両手のひらにぬぐった。

カフェのテーブルは出しっぱなしで、飛沫を立てながら、樹木が風に落す水滴に打たれるままだった。誰もいない。家屋の中にも。

結婚式のとき、私が横たわっていたベッドの上に、脱ぎ捨てられた女の寝巻きと、男のショートパンツが散乱していた。それらは、だれかがその上から寝転がったに違いなく、押しつぶされていた。生活に、気品を感じない。

背後に甲高い、咎めだてる喚声が上がって、その聴き覚えのない女声。振り向くと、あの、結婚したばかり女が笑いながら血相を変えて、何を遣ってるの?

と。

彼女はそう言っているに違いない。

Làm gì ?

こんな雨の中に、

Anh

ずぶぬれになって、

làm gì ?

と、そう言った女自身が、同じようにぬれぼそっていた。あるいは、近くの市場かどこかへ行って、時間をいたずらに濫費するだけの雨宿りが耐えられずに、小ぶりの雨の中に肌を濡らしながら帰ってきたのかもしれなかった。バイクの音が聞こえた気はしなかった。

大袈裟な声を立てて、許可もなく女が私のTシャツをはぎっ取った瞬間に、私は嗅いだ。

不意に、自分の匂い。雨に濡れて、いつか汗ばみさえもしていた自分の皮膚の、執拗な臭気。雨の中で腐った内臓のような。そして、多くの女たち、他人たちが、いい匂いだと言って見せた、それ。

体臭。そして女は、まるでそれが、あたりまえの作法であるかのように眼差しと口元の頬に色づいてみせて、私の肌に鼻を寄せて、匂いを嗅いでみせて、音を立てながら、ねぇ、

なんで、

こんなに、

あなた

いい匂いが、

もう

するんですか?

こんなに

その、単純な疑問文に微細な差異をかさねただけのヴァリエーションの群れ。

なんなん?

なんで、

この

こんな、

なに?

匂い

この

すんの?

匂い

臭気。一瞬、眉を顰めた私には構わずに、その女はTシャツを丸めて、

どうして、さ。

さ、ね?

てか

こういう

やばっ

匂い、

なに?

する?

もう

絞って見せては声を立てて、その

んー

ねぇ、

まじ、

いい匂い。

なに?

なんで。

これ

撥ねる水滴。笑う。ひどい。

やー

やばい。

やーって

匂う。

ね?

めっちゃ。

いい

いいの。

ん、

ね?Xấu ! びしょぬれじゃない。ひどいっ!我慢の限度を

てか

んー、匂い、

てか

なんか、

てか、さ

ね。

てか

いいかも。

って

なんか。

超えて仕舞ったとでも言いたげに、

でも

好き、

実は

だったりする。

でも、

こういうの。

男の子の

ん?

体臭。

じゃない?

罵る声を私に投げて、

もう

なんでさ、

もう、ね

私の

もう

好み

んー

知ってたりする?

好き

ショートパンツも脱がせた。女が、何をしようとしているのかは、私には知れた。私は、自分で下着を脱ぎ捨てて、濡れたままにベッドに横たわった。好き?

ほら、と。想う。

欲しい?

好きにしたらいい。

好き?

私は最後に、不意に犠牲者のような顔を曝して

どうせ

黙り込み、私を見つめる女を、

欲しくて

見た。

仕方ないのなら

私は

好きに

目を

すればいい

閉じる。

閉じられた眼差しの向こうに、彷徨いおよぐ仕草さの、微細で明晰で鮮烈でしつこく、これみよがしな気配の、剝き出しの、ささやくような連なりとして。

まるで、そうするのを楽しむように、戸惑いの時間を女は楽しむ。心の中、あるいは、体の中に、躊躇のゆらめきをいじり倒して好き勝手にもてあそんで。

脱ぎ捨てられる服の衣擦れもしないままに、私の胸に唇をつけた女は、唇で、そして、ややあって、大切なことを想い出したように、匂いをまた、ふたたび嗅ぐ。

音を立てて

嗅いでいますよ。

くんくん、って

いま、犬のように。

ほら

あなたの匂いを。

どう?

そう

感じてる?

伝えなければならないのだとばかりに

わたしを

はっきりと

あなたは

派手な音を立てて。

ほら

ぬれた、女の

あなたの匂いが

衣類が私の

体の中に。心の

腹部にふれる。

中にさえ

体を押し付けて、唇をむさぼった後になって、ようやく衣服を脱ぎ棄てては見てものの、すでにお互いの皮膚に移されて仕舞った、かすかに体温を移した雨の水滴は、容赦もなく私たちを濡らしあってた。髪の毛がたれ堕ち、頬を、額を、あるいはシーツごと濡らして仕舞う。

髪の毛の水滴は、むしろ、ただ、冷たい。

触感。皮膚の、いかにも女じみた。こんな触感に、あの、人も殺せないような顔をした新郎は、たとえば昨日の夜に、あるいはパーティのはねた午後の遅い時間にも埋もれ、戯れてみたのだろうかと想うと、不意に耐えられずに私は声を立てて笑い、女が戸惑う。ひとりで。

快感。その肉体が、それを与えていないとは言獲ない。気持ちいい?もちろん。

確かに。それがどんなものであったとしても。

感じられていたそれを憎み、軽蔑し、拒否していたとしても、単純にそれが鮮明な快感であることには違いない。穢い母親。あの美紗子のそれであったとしても。同じような代わり映えもしない快感を、まったく違う手つきで、ときに埋もれ、ときにいつくしみ、焦がれ、ときに留保もなき憎悪と怒りとをもって拒絶する。

ねぇ

もっと。

ほら

ふれればいい。もっと、と。

もっと

女のために

ね。俺に

そう想った。

ふれて

焦がれて、どうせ、欲しくて仕方がなく、夢にまでもてあそんで仕舞うのならば。所詮は縋るしかない家畜にすぎないのならば。なんど、夢見たの?と。

したの?

匂う。

なんど

あれから、私のことを。

想って

女の、髪の

なんど

ただただ、私を

したの?

求めて。

飽きもせずに

そして体臭。

家畜たち

時には、

なんど?

口臭。

感じた

口の中の、獣ものじみた

感じた?

かすかな匂い。

感じていた

もはや、

匂う

差し込まれた舌が感じさせる、

想う

その。

フエ

女の歯が、やさしく

想った

唯のいたずらとして

フエ、

倦んだ、戯れ、

不意に

そんなものとして、私の唇を、

フエ

咬んだ。

褐色の百合、彼女は私に違いない。

どちらがどちらの生まれ変わりであるという問題ではなくて。理沙がミーの、あるいはミーが理沙の生まれ変わりであったように。初めてフエと出会ったとき、それはサイゴンの三区にある縫製会社の事務室の中だった。その日の朝の7時、私は東京からホーチミン市のタンソニャット空港に降り立って、そのナイト・フライト。クアラルンプールを経由した二時間くらいの間に、空港のロビーの天上にへばりつていた、色彩をなくした私が、彼。

何の見覚えも無い男が、空港の高い天井に無様に、べったりと、ただ、静かに右手の方に水平に鮮血を流しているのを見ていた。昏い口の中から。

私は、私の両目が血を流している確かな質感におびえた。

異国の空港のトイレ、国籍も知らない無数の人間たちの間に、背中をすれ違われながら、なにも、涙さえ流していたわけでもない私の両眼から、あふれ出す血。

血が、あなばこから流れ続けて止まないのを見た。

渇ききった、そのまぶたがまさに。

執拗に聴こえていた音響。耳元に、耳の奥に、あるいははるかな遠方に、静かに響き続けていたそれ、私を喰いつくしていく音響の群れ。

空港のロビー、国籍の無い土地。国籍がなくどこでもないなににも染まりきらない場所として、無理やりどこかの国の土地の上に確保された、いわば不在の土地。私は、空港のロビーが好きだった。歎かわしいほどに、音が聞こえた。

私を食い散らしていく、その。

タンソニャット空港。乱立する柱の群れが淡い翳を作り、海。

私が、空港の到着ロビーを歩きながら見たのは海だった。白濁した海。

浪打つ表面のわななきを反射させる光によるのか、ただ空の色彩に染まって仕舞っただけなのか、いずれにせよ、海。空など見えない。小刻みに無際限にわななく、きらめきに白濁した海。夢。それが夢であることになどすでに気付いていた。どこまでも、無慈悲なまでに拡がる海。その上に、一人の少年が立ち尽くしていた。休みもなく、その形態を崩し続け、白濁した光の、眼差しが捉えた先からすでに失われた名残りの残像にさえなっていくしかない、その、光の色彩。浪の。漣の、白濁の鮮やかなグラデーション。それは、もはや、と、想う。

色彩でさえない。

少年は、浪の上にただただたたずんで立ち、両眼から涙のように、血を流し続け、海の水に受け入れられもしない血は、上の方、垂直に上昇していく。

その先に、なにがあるというわけでもないのに。

瞬く。まばた、こう、と、する。

夢。見つめられた夢の中では、瞬くことさえできないことを知った。

少年。いまだかつて、何の記憶もなく、いちども、見かけたことさえもない見ず知らずの、美しくもなければ醜くもなく、抽象的というにはあまりに単なる具象にすぎない、その、単なる少年は、私に微笑みかけもしない。

タンソニャット空港の、到着ロビーの、その自動ドアを抜けると、出迎えの人々の群れ。騒音。話し声。それらの渦。

乱れるような。ぶつかり合ってかさなるような。散り惑うような、混濁した、乱反射する、それら。

音響。

騒音の群れ。聴く。私は聴いていた。耳を澄ますまでもなく。熱帯のぶ厚い空気はすでに私の皮膚に素手で触れていた。容赦もない熱気。息遣い。温度。私には出迎えもなければ、眼の前の到着ロビー。彼らが、彼女たちが、まばらに差し出しているダンボールにかかれた名前の群れ。私の名前など在るはずもない。無関係にすぎない。出迎え人のそれらに一切の用はない。

乗り込んだタクシーの中、トランスジェンダーなのかも知れない、男勝りで短髪の女性の運転にゆられていた。

海がきらめいた。

匂いは無い。あの、なまなましく鼻を衝く潮の薫りさえも。

少年は瞬きもせずにその、彼の血に翳ってなにも見い出し獲ない眼差しは、確かに私を見ていることを知っている。なぜなら、いま、見ているのは、その少年が見ている眼差しの、描き出した風景に他ならないことなど、私はすでに知っていた。

それは、その少年が、声さえ立てずに見ている風景そのものに違いない。

隠しようもなく。否定のしようもなく、フエは私に他ならない。

町の中心部のランド・マークに準備中の販売店舗を二店分視察して、その日本人クライアントと共に。英語さえまともに話せない、アパレル・メーカーのたたき上げの社長。人種差別の色に染まる。うちの商品の問題は、ね?

わかります?

ベトナム人でも、理解できるかどうか、それが問題なんですよ。

センスが?

水沢さん

サービスが?

わかりますか?

すべてが。「彼ら、われわれから言えば、本当に未開の原人みたいものですからね。」啓蒙してやら無いと。

でしょ?

日本のクオリティをね。私は笑っていた。

声を立てずに。眼差しと口元でだけ。

そうですね。まさに。そしてその男の出店プランが成功するとは思えなかった。日本でさえ、かならずしも成功しているとは言獲ないその男の、かろうじて日本で、つぶれない程度にしか通用しなかったプランが。

礼儀正しく文句の多い差別主義者の群れ。自分たちが白人だとさえ想いこみ、都合のいいときにアジアの冠たる日本人になりおおせる。無意味な誇りばかりが高く、世界中の人間たちに尊敬されていると想いこまなければ海も渡れない。英語さえまともに話せず、コミュニケーション能力自体に深刻な欠損を曝しているくせに、外国にまで彷徨いでて仕舞ったアジアの島の田舎者たち。

サイゴンの中心部に借り上げた事務所の中で、窓から刺す光の、その日翳のパソコンに出金データを入力しているフエを紹介された。彼らも、そんな現地の女に手を出すなどとは想わなかっただろう。だれからも美しいといわれる、独身主義者の私が。清楚なだけの、地味な女。

パソコンからフエは顔を上げて、そして彼女がいかにも外国人用に笑顔を作って見せた瞬間に、あるいは、その、眼差しがふれあうのその寸前の一瞬に、私は彼女と愛し合うことになるに違いないことに、すでに気付いていた。たとえば、理沙のときもそうだったように。葉のときも、慶輔のときも、誰のときも。なかば、為すすべもなく。

やがて一年間のコンサル契約を更新しなかった私に、フエが言った。私と一緒に、ダナンに行きましょう。

どうして?

Tai sao ?

あなたは、私と

Why ?

結婚するから。

You will marriage

すでに、

with me

実現された事実であるかのように、彼女はそう言った。ただ一度の口付けさえも交わしてはおらず、かるい抱擁も、それどころかまだ、ただひとことの愛の言葉をさえささやきあわないうちに。

It’s just a reality

誘惑。

決定論化された、留保も無い誘惑。

私は日本になど帰る気もなかった。私は、彼女に唇に人差し指をふれた。

I know

私は答えた。

引継ぎ処理に追われた、私の契約最終日。誰もいなくなった昼休みの雑然としたオフィスで。

クーラーをつけられた上に、回されていた天上の扇風機が、舞う。

しずかな、なぜるような風が髪の毛にふれていた。

結婚が理由だと、フエが辞職理由をあけすけに言って仕舞ったので、フエがやめるまでの一ヶ月間、サイゴンの安いホテルで暮らした私はその縫製会社の人間たちの仇敵に他ならなかった。その会社の中で、何と言われていたかは想像がついた。とはいえ私には、直接的な連絡は一本も無かった。クレームも、断罪も、おめでとうのかりそめのひとことも。

女は息遣った。私の体の上で。やがては、その、射精のない終わりの無い行為を、女は疲れ果てたように中断した。

体内に、そのままの私を残して。女の豊満と、肥満のあいだをさまよう体が匂いをたてていた。しがみつくように覆いかぶさって、女は満足していたのだろうか。

そうではないのか。

見開かれた眼差しが、ふたたび雨を降らせて、やがて、ふたたび止ませた空の、しらんだ光のつくった形態を作りきれない散漫な翳を追う。その、私の見つめられた女の瞳孔に反射したそれ。私は女の首に手のひらを添えた。戯れに、その首を絞めた。女は抵抗しない。もうすこし、と想う。力を入れてやれば。

もうすこし。

ぎゅっと

緩め、私は女の背中をなぜ、大気の湿気に汗ばんだ皮膚の、そのかたちをなぞって遣った。女は、私の首筋に口付けるのをやめない。飢えたように、ね。

ねぇ

ふたたび、

もっと

女の

ね?

首を絞め、身をよじってその唇が私の唇を舐めるのに任せた。足が絡みつく。もう少し。

もう少しの間、締め続けさえすれば。

 

いつのまにか、傍ら、寝息を立て始めた女の承諾もなくシャワーを浴びた。匂った。それ。水の匂い。

錆びたうえに、醗酵さえして仕舞ったような。雨の匂いとは確実に違った、その。

Tシャツは渇いているはずもない。下着も、ショーとパンツも。肌につければ、濡れたその水分の鮮度を失って、しかもいまだ乾き始めてもいないそれらの布生地が、ただ不愉快に皮膚に張り付く。体温を、急速に奪っていく冷えた触感を感じる。ふれあった皮膚の全面が。

外に出れば、濡れたままの路面。でたらめに曝された無数の水溜り。切れない雲の、空に曝した白濁の、それ。地味でみじめったらしいグラデーション。その向こう側から直射しているはずの日の光が、みずからの姿をは顕さないままに雲に、光を与えていた。うかびあがるように不穏に。内側から照らされたような、むごたらしいほのかな明るさを。

樹木は、水滴に倦んだように、洗われたそれみずからの色彩をただ、曝していた。濡れて。

フエの家の近く、雑然として、香草の匂いを立てるしか能のない飲食店が軒を並べた道路を、無数のバイクの群れにすれ違いながら、エンジンが止まりそうなほどの低速で進めば、人々は私を見つめては、何も話しかけようとはしない。ただ、それぞれに想いあぐねたように見つめ、私には決して伝わらない想いのたけを自分勝手に撒き散らし、そして、もはや目線を離そうともしない。

見たこともない、はじめて見る人間を見るように。

家のシャッターをくぐると、フエが、小さな木の台に載って、仏壇に果物を飾ろうとしていた。いまだ素肌を曝したままに。

あら?

どこへいっていたの?

Anh …

微笑み、彼女は

Đi đâu ?

ながい髪の毛を肩に垂れ堕とす。斜に傾いた首の上に、そして、彼女の足元にだけ日差しがふれていた。鮮やかに光は、白塗りの台をそこだけきらめかせて。その、光みずからの色彩に。

ミーはソファの上にうつぶせて、そのまま眠っていた。未だに髪の毛はそこらに散乱し、彼らが来た、と言った。

誰?

町の人たち。

どうして?

あなたに、謝るために。

なぜ?

声を立てて笑ったフエは、不意にうつむいて、手のひらにドラゴンフルーツのやわらかい棘をなぜた。知らないわ。

I

でも、ね。

don’t

本当に、ごめんなさいって

know

言うのよ。

Em

紫色に

không

赤を混ぜ込んだ、その

biết

果物の。

いろ

色彩。私は言った。

You are me

君は、

見る

笑う。私は、

その

僕。

色彩を

鼻でだけ、短く笑い声を立てて、フエは声もなく唇で笑っていた。

anh

開かれた唇が

もてあそぶように

em

空間に数回だけ震えて見せるのを、

Tai sao ?

なぜ?、と。

ねぇ

言ったフエは、台の上から私をやさしく眺め遣った。

Why ?

胸元にドラゴンフルーツを抱いて、腕にもてあそぶ。あまりにも小さすぎる子供をでもあやしているように。

I

不意に、

know

舌を小さく出して、上唇をだけ舐めて見せた。

フエは

知ってるわ

言った。

em

聴く。

đã

フエの声、そして

Biết

褐色の肌が、私の眼の前に息づいて、息遣い、私が近寄るのを拒絶しはしない。なぜ、と。

Why ?

言った私には

Tai sao ?

答えもせずに、

微笑む。

なぜ?

どうして

私をやさしく

Tai sao ?

見下ろしたままに。

em

ねぇ。

đã

もう、

Biết

知ってるわ。

Why ?

言葉。

私の吐く、空気の震え。

I

聴く。私の

don’t

声を、そして

know

つぶやかれる、彼女の

but

声、その

I

唇を、

just

微笑む。

know

私は塞いだ。

it

口付け、として。彼女の唇を。半開きのままに。台に、片足だけよじ登りながら。目を閉じないのフエ、そして、私が見上げた眼差しの、彼女の微笑みの向こうには、あおむけに天井にへばりついたフエ。その、見たこともない色彩も無い男の昏い翳りが、横向きに血を吐き続けていた。

唇が、彼女の首筋に触れた。フエ。

それが、唐突にはじめて仕舞った愛しあう行為なのか、それとも単なる口付けとして終るべきものだったのか、それさえも私にはわからない。ふれ合わせて仕舞った唇の処遇に迷いながら、増殖する私たち。

無際限に。

たとえ、この世界が崩壊したとしても、アインシュタインの数式がはじき出した多元論のどこかしらに、無数に。生命体の存在の可能性の限りに、無際限に存在した宇宙のいくつもの空間の、そのいずものうちに。

為すすべもなく。

指先がフエの腹部の皮膚に触れる。息遣われる、その、やわらかい運動体。

体温。

日差しが足元に触れていた。

 

想いだしたように、フエが私の胸に手を当てて、私の体をすり抜ければ、手放されて仕舞ったドラゴンフルーツは床に、鈍い音を名残のように立てて、撥ねた。

床の反射光。もはや、明確な携帯さえない白濁。

フエの後姿を追って、日翳をくぐる。木戸の先の正面庭に、ブーゲンビリアの花々が、土の上にその花を大量に散らして、なおも樹木の葉々を覆いつくして咲く。

あざやかな、あきらかに空間に、際立ちを穿った色彩。

フエは庭に出る。いっぱいに、水滴に満たされた庭が、土が、樹木が、敷き詰められた石の群れ、そして草と花。

それらの匂いと色彩。

匂う。それらが濡れて、無理やり雨の臭気に引き立てられて仕舞ったそれらの固有の匂い。

土を踏んだ。フエは、庭の真ん中に立って、その頭から、正午の雲間の日差しに肌を曝した。

北のほう。わずかに切れた雲の先から、雲の先端をだけ黄色がかって染め上げて、光は堕ちた。

細く。

空の色彩。白濁したままの、まだ、もう一度雨は降るに違いなかった。フエの傍らに寄り添って、その女、愛すべき女、そして、事実、明らかに愛している女。

フエ。彼女を振り向かせると、その微笑を、疲れ果てたように、あるいは、倦み果てて仕舞ったように、ただ、曝している女の、その潤みを持った眼差し。

見つめられ、まぶたに口付けると、かすかにフエが唇を開いて仕舞ったことには気付いた。その気もないくせに。

もはや、誘惑も。媚も、欲望も。

かならずしも。

まだ、その、もう一度の雨は降り始めない。

私は、唇を軽くふれたまま、そして、彼女の顔を唇の表面になぜると、匂うのは髪の毛の、そして彼女の体臭。褐色の肌は、いつでも彼女固有の体温を持つ。

うざったいほどに。

くちびるに、唇をふれあわせた瞬間に、ようやくフエは、諦めたように目を閉じた。

 

夜。

何時かは知らない。

眼を開く。

昼間のうちに、あれから二度雨は降り、やみ、そして暗くなってからは一度もまともな雨など降らなかった。

静かに雨の音が聞こえていた。力もなく、やみかけの。何の意味もなく、その、音が止んで仕舞うのを待った。

十二時を回ってベッドに入ったのだから、もうすぐ朝が来る、そんな時間なのかもしれなかった。覚醒に、堕ちるように目を醒まして仕舞った私は、たぶん、眠ろうとすればすぐに眠れるはずだった。その確信が、何の揺るぎもなく、頭のどこかにあった。眠気など、すでに跡形もなく消え去って仕舞っているにもかかわらず。

私に縋りつくように腕と足を回したフエの皮膚の、その触感と体温が剝き出しの皮膚に、じかに触れる。

温度。大気には、肌寒いほどの冷ややかさがあった。すずしいと言って仕舞えば、その言葉にやさしすぎる嘘を感じざるを獲ないほどには。

光が、通風孔からだけ差し込む。

いつ、雨の音が止んで仕舞ったのか、その瞬間をは覚えなかった。

何の意味があったわけでもなく、たとえば、雨が本当に止んでしまったのか、それを確認しようとしたかのように、寝室の外に出ると、木戸が開かれきっている。音響が聴こえる。にぶく、遠く。

物と物がぶつかり合う音。なにかとなにかが。

ささやき声の群れ。

ふれあい、こすれあい、叩かれあって、そして、あるいは。

息遣いの音、そのつらなり。

衣擦れ、ときには、体のふれあう音、それら。

音響としか、言いようのなかったそれらは、木戸の向こうから小さな、空気にふれて触っただけのような揺れとして聴こえて、ミー。

彼女が何かを遣っているに違いなかった。

木戸に立つ前には、すでに暴力の匂いがした。容赦もなく。庭に、怒号のように、ただ、不穏なだけの音響が空間を掻きむしる。もはや、轟音、としてだけ感じられていたほどに。

血まみれのミーが強姦されていた。庭、ブーゲンビリアの樹木の前で。無造作に立てられる彼らの笑い声が不意に連なり、声が煽った。《盗賊たち》。ミーの、あの、それぞれに半裸になった下僕たちが声を立て続けていたが、誰一人としてそれを聴いているものなどいない。お互いに。無関係なひとりひとりの声がわななきあって、泥に塗れた肌を曝す。水滴を滴らせる庭。その中央に、血まみれのミーが失心しかけて口を開く。あ、と。

そのかたちに。二十人ばかりの男たち。結婚式で、一緒に騒いだその、彼ら。

私とだれかが目を合わせ、とはいえ、何を言うわけでもない。だれかが声を立てて笑った。群れて、バラバラに立った男たちが、泥に塗れたミーを下敷きにした男の背中を見下ろして、囃し立てられているのはやじるような、気まぐれな怒号。哄笑?まばらに、笑い声は立って、消え、起こり、そして、もはや顔の原型をとどめない、目さえ開けられないミーの剝き出しの肌に、白さなどどこにも現存しない。すべてを泥と血が覆い隠す。

私は、後れて、やっと息を飲んだ。

だれも、もはやフエを振り向き見もしなかった。フエは私の背後に立ったまま、何も言わないで立ち尽くした。彼らが、と、私は確信した。この町の住人たち、彼らが、《盗賊たち》を買収したに違いない。《盗賊たち》に、そこまで追い詰められて、ミーを破壊しなければならない怒りなど、ミーに対して、かけらさえもありはしなかった。必然などなにも。単なる他人事として、ミーは彼らに破壊されていた。すべては手遅れに違いなかった。

何もかもが。

奇妙な方向に向いて、かかとを曝したミーの左足が、男が腰を使うたびに揺らぎ続けた。かろうじて息遣っているだけの、と。想う。破壊された、不意に、肉体。私は。そして認識した。

私は。

フエが殺したのは彼女の父親ではない、と、それに私は気付いていた。私が、私の父親を殺して仕舞ったのに違いない。何の間違いかは知らない。フエは、その父親をは殺さなかった。

殺したのは、私だ。

フエは、その手で、私の父親を殺した。私が、憎しみに塗れて殺して仕舞うべきだった、あの父親を。

想う。もはや、と、ひょっとしたら、もう、ミーは死んで仕舞っているかもしれない。ただ、息遣っているだけで。すでに。そして、一瞬で音響につつまれる。

ただ、ひたすらな轟音。夥しい羽音。小さな羽撃きの音が群れ、連なり、反響しあい、かさなって。

見あげた空に、無数の、無際限なまでの鳩の群れが舞っていた。わななき、羽音を撒き散らしながら。

撒き散らされた羽根が空間を舞う。

無数の羽根が、あるいは止め処もなく降り注ぎ、空間をただ純白に染める。暗い夜の薄い光の中に、それ自身の色彩を白く浮かび上がらせて、明滅さえさせながら。

雪。と。

まるで、雪のように。

わななく。

啼きさわぐ。

舞い踊る。

ミー。すでに、彼女はもう失われて仕舞ったに違いない。何ものも、救われることなどなく、罰せられさえせずに。

他人の死。目の前に、そして雪。

白い羽根が舞った。

空間に。

降り注ぎ、地を埋め尽くそうとばかりに、白の氾濫。

ミーのまみれた血と泥の色彩をさえ隠す。

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない。散文

 

 

明け方、ふたたび遠い怒号で目覚めた。寝室に引き下がって、フエを抱きしめ、やがて眠って仕舞った私は。明け方。かすかに、空が白み始めていた。

街中が、怒号を立てていた。なおもフエは目醒めない。

ガソリンが匂い、煙の臭気が、室内にまで混入していた。

シャッターを開けると、町が炎につつまれていた。無数の家が、そして人々は逃げ惑うことも出来ずに、とはいえ立ち尽くしていられるわけでもなく、ただ、路上に惑い、無残な怒号を上げるしかない。燃え盛る家屋の三階から、燃えながら子供を抱いた女が飛び降りた。大量に、その区画中に撒き散らしたガソリンに、だれかが火を放って廻ったに違いない。《盗賊たち》。

彼らの報復。町の人間たちによって、彼らの最愛の、愛すべき彼らのミーを、ボロボロに破壊された挙句に殺されて仕舞った、彼らの容赦なき報復。自分たちが下した、彼らのミーのための、留保もなき当然の制裁。

無差別な炎が、一体どれだけのものを、人の命さえ含めて破壊し去ったかは知らない。

匂う。煙が、そして、無数の何かが、人体を含めて焼き尽くされる、その。

熱風に煽られた体が熱い。

眼差しの向こう、炎があぶる。

煽る。

舞う。

朝焼けがかろうとする空の色彩にさえ、眼差しはもはや気づかない。

破壊。舞う。

ブーゲンビリア。

花々は、炎を背景に、その逆光の翳りの中でもはや、みずからの冴えた色彩をさえも曝しはしない。

炎は、ただ、破壊した。

炎がわななく。

肺の中さえ熱い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.01.-9.05

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

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《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

scherzo; largo

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《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

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それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125047/read 

 

 

 

 

 

紫色のブルレスケ

散文①

http://p.booklog.jp/book/125299/read 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


それら花々は恍惚をさえ曝さない ②


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著者 : Seno Le Ma
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