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それら花々は恍惚をさえ曝さない #4

 

 

 

 

 

憎悪。留保も無く。憎む。迫害者たちを。嫌悪。たたきつけられた犬は立ち上がれもしなかった。フエは、何の抵抗も曝さずに、私の指先が彼女をなぜるがままにまかせ、指先は、悪趣味なピンク色の寝巻きの上からそのかたちをなぞった。怒号が立つ。一瞬唖然とした後で、人々は駆け寄って、なかなかその暴力をやめな いミーは、そしてだれかに突き飛ばされた。羽交い絞めされ、それでもその犬の首輪を放さない彼の憎悪。そして彼らの。指先は、いつか、やさしく彼女のそこを這う。フエのパンツを剥ぎ取って棄てるのに、時間などかからない。人々は、怒号に塗れ、ミーからやっと剥ぎ取られた犬はすでに口を広げきったまま、舌をさえ喉に押し込んで仕舞って、失心のうちに窒息しかかる。目を開けたまま。その、あるいは、精神の崩壊を曝した無残な白眼は、何ものをも見はしない。フエ。しゃくりあげるだけのフエは。ショートパンツを脱ぎ棄てた私の裸をさえも。どうするだろう?壊れ果てたように、しゃくりあげるしかない彼女のそのふるえる唇の先に、それを近付けてやったら?

ふくむのだろうか?唇に。

彼女は、朝のように、やさしく、装って、いつくしんだ眼差しを曝して、泣き叫びながら、太った女が犬をゆする。大丈夫?北欧系の、生きてる?薄い茶色の短毛の死んでない?猟犬。まだ?駆け寄ったとき、フエの眼差しが捉えた泥だけの犠牲者は、ミー。眼差しに透明な憎悪だけを曝して、ミーは。犬に向けていたのと同じ、それ、眼差し。あるいは、下をだけ脱がされた、大股を開かせられて無防備なフエの眼差し。無言の。

どうしたの?と。あなた、何をするの?と、その問いかけさえも無い眼差しに私が口付ければ、唇を濡らしたのは涙。その許可も無く私は彼女を愛する。ゆっくりと、傷つけないように彼女を完全に奥まで確認しきったあとに、かすかに身を起こして、見れば、ブーゲンビリアの下に、美紗子は横向きの血を流した。シャッターの向こう、日差しの中に、彼女の昏く失われた色彩がそこでだけ、ブーゲンビリアの花々の色彩の鮮やかさを、無きものにして仕舞っていた。そして、鮮やか過ぎる水平の血の流れは、どこまでも落ちて北の方に流れ去っていく。唇は痙攣をやめない。フエ。

しゃくりあげ続けるフエ。ふるえ続けるその下唇を、私は口に含んだ。土砂降りの雨の日に、やがてあのカフェの女が私にそうするのと、ちょうど同じように。

まるで、それを記憶の中で模倣して仕舞ったかのように。

一瞬だけ眼差しが白濁した気がして、そして。力尽きれば、そうしなければ為らないと決まっていさえいるかのように、フエは私の頭をなぜるしかない。誰も助けてくれなかった、と言った。フエは。

あんなにも人々が私たち二人だけをとり囲んでいるのに、だれも、だれひとりとして、私たちをたすけてくれるものはだれもいなくて、そして、むしろそこに取り囲んでいたのはだれもが迫害者たちだけだった。だれ一人として、そして、戯れるような拳に殴打をくれられて、ミーの眼差しは憎悪を絶やさない。それが、さらに、彼らを怒らせて、その、残酷なほどの軽蔑の光は、すでに彼らを十分以上にたじろがせていた。まるで、一度も殴りもしかったかのような、やさしいただふれただけにすぎない暴力が、彼を苛む。引っ掛けられて、転がされて、土の触感を感じる。背後にフエの立てた悲鳴を感じる。

聴く、よりむしろ。

感じていた。遠く、鮮明に感じられたもの。

憎しみ。それは。

ただ、ミーは、なんらかのものへの破壊欲などではなくて、単純な憎しみだけに駆られていたに違いない。私が見た、あの澄んだ目のミーは。

彼の純粋な憎しみは、もはや、彼から行動をさえ奪って仕舞った。壊すべきものなどなにもない。なにも。なにもかも。燃え上がって仕舞えればよかった。

憎しみそのものとして。そのとき、一瞬たりとも燃え上がれもしない彼はただ、眼差しに純粋な憎しみとしてだけ、映ったすべての形象を捉えるしかなかった。ぴったりと、容赦もなくふれあって、汗ばんだ皮膚の籠りあった温度に耐えられず、身を起こし、そっと、自由になっていく。私は。フエのなかで、やわらかくなりかけたそれが、内部に押し付けていたものが、ゆっくりと、垂れ堕ち始める。フエの体の外に。

そのままに、股をひらいたままで、両腕さえ投げだして、フエは留保ない絶望を眼差しに曝していた。

もう救われはしないのだと、そう自覚して、もはや一切の喜びさえも無く。

しゃくりあげる声さえ、なにも無い。

想い出したように、言った。

彼らは狂ってるわ。

あの、ミーを囲んでいた人間たち殆どすべての、近所に住まう人間たち、彼らのことを言ったのだということに、おくれて

They are...

気付く。

...Crazy.

4月30日。そして、5月1日も、休み。だから、ベトナムに住む人間たちはみんな、連休だということになる。私も、フエも。30日はサイゴン陥落の記念日で、そしてあけて1日はメーデー。ここは、社会主義国家だった。町にはときにスローガンを書きつけたいわゆる社会主義アートが眼に留まる。

外気に触れて急激になえきったそれを為すすべもなく垂らし、私は、あるいはあの青年。ミーが彼らに制裁を命じたその青年のそれをなぞってみたかのように、私はミーの投げ出されていた足元に方膝にひざまづいて、

やぁ

垂れ下げられた私の両腕は

元気?

何をも

終った?

つかまない。

もう

ミーは、微笑んだままに

終ったの?

私を見つめていた。

何をも踏みしめない、脱力して放置されたフエのくの字に立てられたままのその足と同じように、私の垂れ下げられた手は何をも、彼。ミーはどうしたのだろう?あの青年を。

垂れ堕ちる、私が吐き出したもの。フエが体内にいだいた小さなそれを起爆させ、発芽させたかも知れない、その、そしてミーは。

彼はあのまま殺して仕舞ったのだろうか。殺させて、仕舞ったのだろうか。

生きているだろうか?彼は。

たとえ虫の息であったとしても。たとえば、あの更地に放置されて?雨は降らなかった。その二日間の間には。だから、日差しは彼の肌を焼いたのだろうか?

放置されたままに。焼かれたのだろうか?為すすべもなく。垂れ下がる。彼の皮膚の上に、彼がにじませた汗の粒が。

そして、結局は、私は為すすべもなくてミーの傍らに横たわった。合成ビニールの、日本製のソファの、此処では高級で、とはいえ明らかに安物の触感が、肌にじかに触れていた。貨幣価値のマジック。貧しい日本人は此処ではリッチ・マンになりおおせて、ホスト上がりのいかがわしい起業コンサルの私のようなものが立派な日本語教師になりおおせ、そして、安っぽい日本産の粗悪品は高級品になる。

日本製はなぜあんなに高いのか、と、ベトナム人生徒に聞かれたとき私は答えた。日本に行って、働けばわかるよ。

ビールも何も、日本で、日本製がいかに普通のありふれたプライスを曝しているだけに過ぎないかが。

わかるよ。

奴隷労働、のようなもの。

わかるよ。

安価に買い叩かれて、後進国の国際支援の名目で日本の末端企業にこき使われる。安価なだけが取り柄の労働力として、かの国で酷使されて使い棄てられ、現地人たちに軽蔑さえされながら、あるいは日本の高貴を極めた至高の独自文化を破壊する唾棄すべき金目当ての移民どもと罵られ、それでも彼らの多くは言う。その契約が切れた後で。もう一度日本に戻りたいと。

その理由は私にはわからない。あんな、暴動さえ起こせない去勢された家畜どもの共同体に。

立ち上がったフエが、自分のそこを確認した。彼女が受け入れたもの。単なる、性行為の必然的な代償にして、哺乳類たちの存在根拠。そこに人格など存在せず、人権も存在しない。

昼間、参加している、いわゆる《送り出し会社》の、ウェブ面接に立ち会ったことがあった。広い会議室に、だれもが使っているみんなの日本語という教科書の、第20課程度、初級の半部くらいの教程を終えたばかりの若いベトナム人技術者たちが、外付けカメラを取りつけらたノート・パソコンの前に、ご大層に二十人ばかり整列する。フエは、笑いもせずに、私に眼差しをくれた。

絶望的な色彩を隠しもせず、消し去りもせず、ただ、容赦もなく曝して、そこに、生きてあること、存在すること、それ自体がすでに手遅れだと言わんがばかりに、もう

遅い、と。女性主体のベトナム人教師たちは

もう

パソコンの背後に、7人近く座りこんで事の首尾を

なにもかも

観察する。日本人は

すべて

私しかいない。特別扱いの

終ったの

日本人。まるで、

もう

殖民地を視察しに来たサーか何かのように。学生たちは

絶望するしか

《送り出し会社》の制服に正装して、奴隷じみて

ただ

個性を奪われ、日本風に

もう

パイプ椅子に座る。自動車部品系の

絶望するしか

下請け製造企業らしかった。大阪の会社だ。外国人相手に

ないの

容赦のない、大阪なまりが

もう

耳につく。早口の、

ないもかも

抑揚の激しい

終ったの

踊るような発音が

知ってる?

起立したベトナム人の一人ひとりに

あなたは

浴びせられていく。諦めて仕舞わなければならないことを、

知ってる?

ただ、なすがままに

もう

諦めただけなのだと、そう

なにもかも

つぶやいたように、そんな

私たちは

色彩を、一瞬だけ

終ったの

眼差しに曝して、

ね?

フエ。

立ち上がったフエが、よろめいたのはその瞬間にだけ。やがてそのままたちずさんで、彼女は想い出したようにいまさら服を脱ぎ捨てた。上半身にだけにはりつて、彼女が行為の最中に垂れ流した汗を吸った、その、それ。

褪せかかったピンク色の。

立ち上がった教え子の一人ひとりが、丸暗記の、文法的な理解の一切無い自己紹介を大声で発話する。斜め背後から見るパソコン画面にどんな顔が並んでいるのかは見獲ない。ただ、窓越しの光を直射した、やわらかい白濁。その液体。

垂れ堕ちている。

床に。太ももをつたって。私が吐き出して、彼女に与えたもの、彼女が受け取ったもの。フエが。受胎?あるいは。フエが求め続けていたものを、彼女の体内のそれは浴びて、飢えたように分裂し始めるのだろうか?

その、彼女がはぐくむ細胞が。

それとも、唯の無駄なのだろうか。結局のところ、日本語以外に英語さえ話せもしないから必死になって、奴隷どもに日本語を勉強させるしかない数人の彼ら雇用主のサーたち、日本語を勉強したばかりの外国人労働者に馴れた崩れかけの日本語は、WiFi電波をとおして、極端なほどに聴き取りづらい。

あぁたぉおなまぇえはぁ?

一問一答に、なまりの強い

あなたのお名前は?

外国人の日本語は、海の向こうで

しぃゅっしぃいんはぁあ

聴き取られ獲て

出身は?

いるのだろうか?電話回線のような背後のノイズをは

どのくぅらぁあいにほぉんぐぅおぉ

ふくまない、クリアなひしゃげた

どのくらい日本語を

ノイズのような声の

べんきゅょうぉしますぃたはぁ

群れ。質問と

勉強しましたか?

全く違う答えをなんども返して仕舞うベトナム人には、容赦もない軽蔑が与えられる。

ちょっと

見下しきった

あんた

笑い声。ベトナム人たちはそれを

馬鹿?

当然のものとして、ただ

てか

無根拠に

むしろ

受け入れるに過ぎない。すぐに

糞?

想う。

死んだら?

私は、まるで、これは

お前ら

単なる人身売買に過ぎない、と。故国から

日本語も話せないなら

連れてこられた

むしろ

奴隷労働者たち。

死ねよ

やわらかく膨らんだ尻を曝す。立ち尽くしまま。日差しは斜めに、そしてフエはそのまま身動きもしない。私の視線すら考慮には入れずに、彼女には、私の知らないむしろただ彼女にだけに見い出されていた時間が流れていた。

私の眼差しの先で。

わたしは

《有償奴隷たち》、と、心の中でだけで私は

ここに

彼らをそう呼んだ。パソコンの

います

向こうで、裕福で住みやすく近代的で安全で礼儀正しく世界中の人々の尊敬を集めた東洋最高の国から、苦笑混じり褒められたことがわかれば、にこにこ媚びた笑顔を曝してみせる。

お願いします

買ってください。

わたしは

Sir、私をできるだけ

ここに

高価に買ってくれませんか?

います

かの国を、無数の

あなたの

《有償奴隷たち》が

眼の前に

回転させる。安価な

わたしは

労働力が、かの国の誇った

ここに

製造クオリティを

います

維持させる。フエは、

見えますか?

思いつめたように、壁に

あなたは

作られた、小さな

見えますか?

母と妹、一緒に、彼女が二十歳のときに死んで仕舞った彼女たちのためだけに作られた祭壇に、そしてフエはちいさな台に上がって、背伸びして、線香に火をつけた。

ながいながい、その線香。それは線香立ての灰の中に突き刺されて、体の中から垂れ流れだしているものはそのままに。

馬鹿?

一問も答えられなかった学生の

お前、

ひきつった表情。垂直に

糞だろ

伸ばされたふるえる背筋、あまりにも

死ねよ

下手くそな発音。不用意な

お前

相槌。それらの

死ね

すべてが、ベトナム人教師たちの

価値ない

頭を抱えさせ、ときに

お前

不意の失笑を

生きる

呼ぶ。

価値、ない

お手上げだよ、と。

死ね

台から降りて、振り向いたフエは私を見つめるのだった。見つめる?そうではなくて。

ただ、不意に、意図もされないままに想い出されて仕舞ったように。

私の存在を、そういわれて見ればそこにいたに違いない私の存在を、振り返ったその眼差しにふれさせて仕舞った瞬間に、唐突に想い出したような。あれ?

やっと、               

いたの?

想い出せたことに

そこに

表情さえなくその眼差しの奥にだけ笑んでみせ、

あら

そこには。

こんにちは

彼女が振り返ってみるべきべき必然など、そこに私がいるという、それ以外には存在しないことなど、すでに、私にも、彼女自身にも、知られていたには違いないままに、そして。

契約が成った《有償奴隷たち》は、買われて行ったかの国で、同じような外国人の群れの中に投入される。外国人だらけの寮。まるで、奴隷村のような。形成される、《有償奴隷たち》のコミュニティ、決して、かの国の人間たちには、軽蔑交じりの白い目では見られても、尊敬の眼差しなど一切向けられはしない、そこ。《奴隷村》。

どこが奴隷売買と違うのか、私にはわからない。そして、その会社に参加している限り、結局は私は奴隷商人の端くれには違いなく、かの故国は余りにも洗練された奴隷労働市場の大国以外の何者でもない。曝された、褐色の皮膚。

臀部と、下腹部と、かすかな胸にだけ、女性性を表現した、痩せた身体。フエ。むしゃぶりつきたいような、とは、間違っても言獲ない。とは言え、それはあからさまに女性のもの以外ではなく、すべての曲線がただ、しずかにその女性性をだけ、曝す。

女。あなたは、と。

女を見ています。わかりますか?そう、耳元にささやかれたような。

日差しの中。朝の日差し。それはやわらい。かすかに霞む。まだかろうじて朝と呼んでもいい気がする、とはいえすでに褪せかけて、失われはじめていた朝の日差し。

なぜかは知らない。

頭の中で、モーリス・ラヴェルの、二番目のヴァイオリンソナタが、鳴った。自分勝手に。何の想い入れもない曲。

まるで、耳元に再生されたように。

いい加減な記憶をだけ、でたらめにつぎはぎにしたものしかないはずなのに、まるで、本当に耳元に、勝手に、だれかが弾きはじめて仕舞ったかのように。ためやいも容赦もなく。

愛着も、なにか固有の記憶も、想い出も、なにもありはしない、唯、頭のどこかに記憶されていたに過ぎない曲。かならずしも美しいとも想わない。鳴る。

響く。それだけ。眼差し。

フエは、私からもはや目をそらさない。

ぐるっと、外を廻って来たのに違いない。日差しを注ぎこむ、開かれたままの研磨の荒い鉄板のシャッターの、そのあやういぎざつきにふれて仕舞いそうなすれすれに、意味もなく添って入って来たミーは、右手に引きちぎられたバナナの葉っぱをもてあそんでいた。私には目もくれない。そのまま、フエに寄り添うように耳打ちし、相変わらず、ショートパンツのままのミーは、不思議に、彼女へのかすかな同性愛のような気配をさえ暗示させて、フエ。彼女は彼に身を寄せられるにまかせたまま、至近距離に、無造作にふれ合う皮膚。

耳元から唇を離したミーは、不意に声を立てて笑った。私に流し目をくれる。

Go

フエが、

wedding party

表情さえ変えずに、私に

Anh

言った。行きましょう。

ね?

結婚式に。

あなた

結婚式?

Lễ kết hôn ?

けっこんしき、に、いきましょう

私の問いかけにはうなずきもしないで、フエは

けこんしきいぃんきましょ

つぶやいて、そして、フエが不意に声を立てて笑った。

 

シャワーは一緒に浴びた。先に出た私が、普通にショートパンツを履いて、ソファでパソコンを見ていると、ミーは私たちの寝室から、勝手に探り出してきたフエのパーティドレスや、アオヤイを、テーブルの上にでたらめに並べていった。ぬれた髪をバスタオルに拭き取りながら、裸のままにフエは出てきて、その無造作に積まれた衣装の山に目をくれて、そのミーの行為には文句さえつけない。

扇風機を廻し、椅子に座りこんで、身をくねらせて、ミーが選んで差し出すドレスのひとつひとつに駄目出ししていく。駄目よ。

これは?

テーブルの上の、無造作な

違うわ。

これ?

ドレスの山を、なんども

それじゃない。

これは?

ひっくりかえして、ときに

それも。

声さえ立てて笑いながら

気分じゃない。

これ?

なかなか乾きもしない

なかったっけ?

どれ?

その髪の毛。ぬれた光沢。ながい、

もっと、ほかに。

あれ?

そして

ちゃんと、持ってきたの?

これ?

ながい選別。不意に

全部。

どれ?

立ち上がったフエは、寝室に引き込んで、私のためのスーツを一そろい持ち出す。着て。

ほら

ね?

わたしの

ようやく

ハンサムさん

選んだ、候補の四着をミーに抱えさせて、フエは寝室に引き込もった。私は立ち上がって、スーツに着替え、どうせフエの着替えは時間がかかるに決まっていた。

んー

冷蔵庫をあけ、

やっぱ

グラスに氷を

なんか

落とす。

違うの

鳴らされる音。

なんか、

注ぐ水。透明な。

色彩。

違うんだよね

透明無色とはいえ、まがうことなくそこにそれが存在していることを執拗なほどに明示した、その、色彩さえない存在の色彩、と、しか、言獲ないその、実体。顔を上げた至近距離に、あの、朝の白い男が立ち尽くしていた。私が殴ってやった、あの。

彼。

息がかかりあうべき距離に。

彼の名前は知らない。

その、見たこともない穴だらけの形態。無造作に、翳に無数の洞穴を穿って子どもが戯れたような。

絶望。

留保なき、容赦なき、無慈悲なまでの、唯のむき出しの絶望。不意に開かれた真ん丸く開いた口から、血が一気に下にあふれだす。床を、水浸しに血で浸していきながら。

色彩の無いその男。あるいは穴だらけの欠損物。彼はただ、そこで絶望していた。なにに、というわけでさえもなくて。

もはや。ただの昏さそのものとして。まばたく。私は。

空間に、彼が存在していた気配だけでも探してみる。床は窓越しの陽光を、反射させる。あわい、いたずらなだけの反射の白濁、グラスにふれた唇に、その触感がある。冷たく、硬く、ぬれた、その。

私は息遣う。振り返った先の、屋外の竈へとつづく開け放たれたドアの向こうの、まだるっこしい逆光の中で、見も知らない老人が開け放った口からいっぱいの血を垂れ流す。しずかにだらだらと、そして彼の周囲に光は無く、色彩も無く、音もない。

ミー。

不意に、耐え難いほどに沸き立ったどうしようもない懐かしさに、私は想わず手を差し伸べるのだが逆光の中、庭は日に照っている。

きらめき、きらめきながらもそこにはもはや、朝の気配は完全にない。朝の不在に容赦もない。

ただの、午前だという以外の何ものをも曝さない、光。土に蒸したこけ。錆びた、冴えた緑彩。その横には赤茶に錆びついたトタン屋根の下の崩れかけの竈。煤にまみれ、誰も使わなくなったそこの横には、積まれたままの薪の山がその名残を留めて、てっぺんで猫が見つめていた。白い、その猫が。

私を。

ミーが消えうせても、消えうせないままの私に残った、その耐えられない懐かしさの残存に、私はなすすべもなく涙を流していたのだった。

声は無い。

泣き声をさえ、もはやなくして仕舞った気がした。あまりに切なる悲しみに、泣き声さえもが追いつけないのではなくて、もとから泣き声などもっていなかったのだ。私は。そうとしか想えなかった。さまようしかない眼差しの中に、苔の向こう、やがてはバナナの木が無造作に実をつけていた。さかさまに、天を向いて房を曝して。淡い、緑とさえ呼び獲ないほどの、淡すぎる緑。酸味が匂う。

背後に、花のない、名前さえ知らない樹木は沈黙するだけだ。

 

寝室に入ると、すべて肌を曝したミーが、そしてその前にフエは、ひざまづく。褐色の肌の背中が、くらんだ日差しの中にいよいよ色彩を濃くした。

あなたは

何をしてる?と、

なにを

問いかけるまもなく、フエが

してるの?

自分の下着を

あなたたちは

とっかえひっかえして、ミーのための下着を選んで遣っていた。

少年が、少しだけ照れくさそうな笑みを装って、私に眼差しを投げたのは一瞬に過ぎない。白いミーの肌と、フエのそれが、鮮やかな対比を作っていた。戸惑いを曝したままに、私は、しずかに息遣って、前触れもなく振り向いたフエの唯単につぶらなだけの眼差しが、そして、広げた薄くピンク色がかった下着をフエは私に差し出して見せる。どう?

似合うかな?

ねぇ、これなんか、

んー

どうかな?

ね?

倒錯的な匂いがする。むしろ、同性愛的な。

どう?

まだ未成年の、いわば土くれをつけたままの奴隷の少女を、大人のレディが慰み者にしている、そんな、あるいはエレガントで貴族的な戯れ現場を見せ付けられたような。

生乾きのフエの髪の毛が、雪崩れを打って背中に堕ちた。

私の同意を獲ないままに、顎をしゃくったフエの指図にしたがって、ミーは片足を上げて、足元に屈みこんだフエの広げた薄手のそれに足を差し込む。華奢な、少女のような。

ミー

どうしてだろう、と、私は

Mỹ

想った。

なぜ、彼を少年だと想いこんでいたのだろう。あの、彼に、暴力を容赦もなく加えて仕舞った早朝に、水流の飛び散るシャワールームで彼を裸にひん剥いて、私の眼差しは彼の全裸を視界に治めていたのに。

なぜ、彼は少年でなければならなかったのだろう?すくなくとも、私にとっては。

フエが、彼の眼差しの前で、好き放題に肌を曝してなんとも想わないその必然性を、ようやく理解した気がした。確かに、彼の名前は明らかに女性名なのだから、そうでなければならないはずだった。

薄手の下着が、彼の下半身をつつみ、下着だけを身に着けた、短髪の少女がいたいけもなくはにかみながら、私に上目遣いをくれる。

刈り上げられた髪の毛がむしろそこに、鮮やかな倒錯の気配をあたえていた。まるで、収容所に収容された、捕虜の少女かなにかのように。これから拷問を受けるのか、性奴隷としてなぶられるのか、明日の栄光と勝利のための人体実験に供されるのか、単に集団屠殺されるのか、いずれにしても何かが間違っている。そして、それはまったくもって彼のせいではない。あるいは、正確に言えば、彼女の。

うすく肉付いただけの、少女の、少年の胸をいっぱいに詰め物のされたブラが隠す。肌色の、余りに地味なそれ。それが、アオヤイ用のものだということは知っている。選んであったアオヤイを、フエは彼が、自分の16歳で失ったその妹であるか何かのように着せてやる。まず、パンツを。真っ白い、さらさらする薄手のそれ。かすかな光沢は、単に、それが絹だから、なのだろうか。

薄紫色のトップが彼女の上半身をつつみ、垂れ下がったやわらかな生地がパンツを上から隠して仕舞う。下からわき腹へと、斜めに這い昇って散らされた、何かの花の図柄。

紅に、紫味をかすかに含ませたそれ、想起される、ブーゲンビリアの色彩に、かすかに目舞う。

どう、

ね?

で、

似合う?

すか?

どうぇすか

私を振り返ったフエに、私はなにも答えなかった。下半身を膨らませるだぶついたパンツが、本来ありもしない曲線とボリュームをそこに華奢な質感のままに与え、下着に作られた体のラインに無造作に添ったトップが、痩せた身体に仮構されたひたすら女性的な曲線を、ふるえるように繊細に描く。

痛ましい。

刈り上げられた徒刑囚のような髪の毛と、眼差しを色づかせた少女の、ただただ綺麗でしかない気配が、あまりにも女性美を強調したアオヤイに飾られてもはや、残酷な刑罰をだけ、ただ、眼差しの前に曝していた。

目をそらしもせずに、私は彼女の名前を呼んだ。

ミー

Mỹ

何?

Nói gì ?

つぶやく、フエの声が、

なんて、

ひざまづいたままの下方から

言ったの?

聴こえた。

đẹp

美しい

私は言った。フエはややあって、声を立てて笑う。でしょう?

ね?

Mỹ

そうでしょう?

もっと、さ、だから

んー

ほら、言ったじゃやない。

ちゃんと

なんか、なんか

あんた、結構、かわいいのよ

背筋くらい

ね。なんか

まって。

伸ばすものよ

違わない?

わたしほどじゃないけど。

だから

ねぇ

でしょ?

もっと

どうなの?

違う?

ばか

なんか、さ

やっぱ、この色

なにやってるの?

違うんだって

言ったじゃない

ねぇ

わかる?

すごく映えるね?

なにやってるの?

違う?

んー

馬鹿な子

じゃない?

あんたに

ほんとに

でも

ね?

声。フエが放つ、ベトナム語の音声の群れ。その、否応無く感じ取られる、聴き取れさえしない言葉の意味の群れが耳にじかにふれて、私は目をそらした。ミーはそして、もしろその、美しいものが持っていてしかるべき矜持をあえてこれによがしに曝して見せたように、

どう?

直視した。

綺麗でしょ

私を。

どう?

なぜ、と。

わたしは

想う。なぜ、

綺麗でしょ?

ここにいるの?

ね?

何の必然性も、ありはしないのに。なんの記憶さえももはや存在してはいないのに。振り返った向こうの、たんなる無意味なヴォイドとして、通路の用をしか足さない三番目の居間の突き当たりの壁際に、ただ、血を流し続けるのは理沙。

その、見たこともない、ただ単に地味な、それが女であることが確認できるだけの不細工な形態。デッサンのゆがんだ、できそこないの人体造型。

色彩を無慈悲なまでに完全になくして仕舞って、そして、どうして、と、私の想いは言葉にはならない。背後に、ミーの笑い声が聴こえた。どうして、と。こんなふうに、君は、と、私は、生まれ変わって仕舞ったのだろう、想う。私は、君は、と。なぜ?こんな異国で。そして。

そんな大量の血など、どうして?人体に含まれているはずも無いのに、理沙の開かれた口はその鮮烈な血の色彩の濁流を、あふれさせて留まらない。教えて。

どうして?

花々

そんなところに

きらめくのは

涙さえ、

花々

たたずんでいるの?

その

もう、

色彩は

噴き出しながら

見い出され獲たことなどあったのだろうか?

私は

光と

鮮血を

網膜に

ながさない。

つかれた嘘を通さずに

ただ、

そのものとして

朽ち果てたように。私は寧ろ、涙さえも流せないままに、背後のミーたちを悲しむ。自分自身さえもが悲しい。体中に、あるいは体中の神経の線の中が痛い。感じ取られていた痛みなど、どこにありはしないのに。

やがて、疲れ果ててソファに身を投げていた私に、アオヤイで着飾ったふたりが姿を顕した。奥の日翳げから、色づきあった笑い声をふたりだけで立てながら。並べば、フエのほうが少しだけ背が高く、あるいは、余り似ていない姉妹のように見えるかも知れない。

私が投げて遣った微笑みは、騒ぎ立つ彼女たちには何の影響さえ及ぼさない。無造作な、彼女たちの戯れあいの中に、ようやく私の存在に気付いたかのように、やがてフエは言った。

Đẹp trai

私に。

あら、

装って

ハンサムさん。

媚をあふれさせた笑みをくれて。

完璧に施された、いかにも描かれたはっきりとしたメイクが、ふたりに造り込まれた美しいふたりの女を存在させる。

虚構された美、そして、虚構されてあることを、一切悔いようとはしない。恥ずかしげもなく、迷いもなく、あなたが見ているのはいわば描かれた美しい絵なのだと、そのまま地の声で耳元に話されたような、そんな、私を戸惑わせたふたりの化粧の美しさ。

ミーの短髪が、あきらかに理不尽な悲惨さを、その美しさに鮮やかな破滅の色彩を加えて、みずからは何を意識するわけでもない。

そこに目醒めさせて仕舞った、容赦もない破滅美をなど、知らないわ。

と。ねぇ

なに?

ミーの友達の

それ

結婚式なのだ、と、フエが私に口ぞえした。彼女の、彼女のお姉さんの。

Her girl friends’

微笑む。そして

Syster

笑う。繰り返す。

marriage

それを。微笑み、そして

Anh à

笑う。

Hiểu không ?

ふたりは。

外にひっぱり出したホンダの真っ白いスクーターを運転するのは私だった。ミーを真ん中にして、フエがうしろから私の腹部に手を廻し、しがみつく。お互いに、体は押しつぶされそうなほどに密着し、その息ぐるしさにミーは大袈裟にわざと暴れてみせる。声を立てて笑いながら。ふたりは、いずれにしても、きっかけを探し出しては戯れあうことをやめない。

家を出るときにすれ違った、路上でトヨタのワゴン車を洗車していたあの白い男は、私たちに気付いた瞬間に明らかに殺意を孕んだ、暗い、陰湿でただ暗い感情を、眼差しに容赦なく曝した。戯れあう二人には、気付かれもしないままに。

通り抜ける風の向こうで、大声にフエがいちいち英語に翻訳してくれるミーの指示の先に辿り着いたのは、その前の日の朝の、あの喫茶店だった。

前面道路の半分にまでもはみ出してテントが張られ、その翳の下に丸テーブルが並べられる。アルミの。そして敷かれた粗い装飾布が、無造作に日翳げに色彩を投げる。その飢えに、必要以上にグラスと茶碗と平皿が並べられ、料理の殆どがラップされたまま、すでに並べられていた。

午前十一時。もうすぐ、パーティが始まるのだった。用意された席の半分以上を、人々が埋めていた。若い、十代から二十代の、行ってその後半までの若い男たちと女たちが、でたらめに座を埋めて、だれもがすぐにはその眼の前に顕れた、アオヤイの美しい女の一人がミーだとは気付かない。ほんの数秒の眼差しの、戸惑った揺らめきの後に、彼らは急に喚声を上げてミーに群がり、罵るような賛辞をくれる。

あの女はいない。そして、もう、私は確信してさえいた。これは、あの女結婚式に違いないと。群がってくる集団の中に、顔の半分近くを包帯にぐるぐる巻きにした男が、笑い顔をときに痛みにひきつらせて仕舞いながらミーにじゃれる。右足を引きずって。

彼は、ぼろぼろになっても、生きてはいた。集団リンチの犠牲者。女たちは、私に、だれもがそうするような、一様の流し目をくれた。いつものように。

あら

ただ、

やだ

私は

どなた?

その

ハンサムさん

眼差しに倦む。

人の子を散らしたように、喚声を上げ続ける集団が場を空けて、その、ミーをバイクの後ろに乗っけていたサングラスの女がそれに違いない、彼女の彼女がそこに微笑む。極端に露出の高いドレスに、書かれた完璧な顔を曝して。女のとなりがミーの席であることは、すでに法律で決まっている。女の眼差しが、私とミーとを交互に前後して、どちらにともなく媚びて色づく。

ミーが、彼らに私たちを何と言って紹介したのかは知らない。ミーの到着だけを待っていたように、ビールは抜かれ、皿の上のラップははがされて、強奪されるようにパーティは始まった。ハンだ、と

Hằng...

言って、フエが私に紹介したミーの恋人は、むしろ、何かの精神疾患か、薬物の影響を感じさせるほどに、開かれきった瞳孔に私を捉えて、ふるえる黒眼はただ、無言に媚を曝す。何も言わない。挨拶さえしない。ドレスに押し込んだ体の輪郭が、彼女の性別をうざったいほどに大声で喚き散らす。二十代の前半。たぶん。この女の姉に違いない。あの女は。

ざわめき声が群れをなして、好き放題に、乾杯の音頭が四方で鳴って、それらのでたらめな連鎖のなかに三十分おくれて、バイクに乗った新郎と新婦たちが到着したときには、すでに席は乱れ始めている。ベトナムの街中に、どこにでも必要以上に濫立するブライダルショップのどれかひとつで、ウェディングドレスの着付けをしていたに違いなかった。透けるレース地の、純白のドレスが必要以上に強調されたその豊満な体をラインごと膨張させて、むしろ、みだらなまでの無様な肥満を感じさせた。

まるで、高額娼婦の熟れの果てかなにかのような。

それは、あの女だった。予想の通りに、そして、妹の祝福を受けるすれ違いざまに、私に、何の色づきもない、会ったこともない人を見るような眼差しをくれたのが、私を一瞬戸惑わせた。

誰かが持ち込んだ、こまのついた巨大なスピーカーから鳴らされだした轟音の、現地のダンスミュージックが空気を割って、あるいはその騒音のただなかに、新郎と新婦は長い長いキスを曝した。やせたひょろながい痩せ身の黒スーツの新郎は、まるで、卑猥な純白の肉の塊に体ごと突っ込んでいるように見える。

彼。

目を、やさしく閉じて、地味な顔立ちを精一杯に気取って。

 

まどろむ。

カフェの奥の、物置のような彼女たちの寝室のベッドの上に横たわったまま。

それほど飲んだわけでもないのに目舞いがして、帰ろうとするのを新郎が引き止め、私を彼らのベッドに横にならせた。

ただただ乱雑に小穢い部屋の開けっ放しの向こうに、パーティの騒音が、次第に人数を間引きさせながら立ち騒ぎつづける。目舞いはやまない。さまざまな混濁した匂いが鼻にふれて、離れない。女の。

女?

女たちの?男と女の。

薫り。

残り香、匂い。生活臭、臭気。腐敗臭、衣服の匂い、その他。

誰が一体住んでいるのか、もはや定かではない男用、女用、あきらかな子供用、各種のサイズ、色、かたち、それらがでたらめに山づみされた、壁の隅の無造作な衣服の山が、いつまでも鼻に馴れない匂いを撒き散らす。

剥げて、漏れて染みた雨水のつけた色彩の鈍い混濁を曝す壁面に、日差しが投げやりにうちつけてその、廃屋のようなたたずまいを容赦なく曝した。約二週間の休暇のあとで、いよいよ日本に渡るのだという、ヴァンという青年が言った。

いつか、二日前か、その前か。あの、《送り出し会社》の生徒が。最後に、個人的に施してやった会話の授業の中で。

私が質問したのは、単純な構文。あなたは、と。

日本と、ベトナムと、どちらに住みたいですか?

比較構文の例題。笑んだ私の顔に、いつでも真っ向から、無意味に微笑を返す悪びれもないヴァンが、素直にベトナムです、と答えた。

どうしてですか?

大袈裟に、おどけた表情を曝して見せた私に声を立てて笑いかけ、留保もなく答える。

ベトナムのほうが、きれいです。から。

笑うしかない。一瞬たりとも外国人の心情さえ考慮に入れない、田舎者じみた愛国の表明。それが当然で、だれもがそう想うに違いない当たり前の常識であるかのように。《有償奴隷たち》なのに、帰ってきた後でもなぜ、日本にふたたび行きたがるのだろう?

なんども、なんども、チャンスをうかがって。

捲き上げられたままの蚊帳が、風にそよぐ。雨の日に、やがてはあの女が私に覆いかぶさるときにも、もっと湿った気配をたたえて、そよぐそれ。名前は知らない。女の。

匂う。

その女が、入り口の向こう、日差しの下の、テントが無理やり作った日陰の中に、正午過ぎの祝福を浴びる。血まみれのミーが、絶望さえさらさら無い、表情の欠けた眼差しを曝した。

問いかけようとする。何を?

声も

ねぇ

でない。

かなしいの?

何を

さびしいの?

見てるの?新婦が新郎の頭を戯れに引っぱたいて見せ、君は。何を?

うれしいの?

見てるの?何を?

どうしたの?

両目が開かれただけの血まみれの顔がつつんだ、その、精神?そのうちに、壊れかけの。

はかなむの?

瀕死の。

あわれむの?

死にかけた。

ふるえるの?

美しいミー、君は、

いとい、のろわしみ

今更

なげいているの?

血に塗れて

おののくの?

君は、嬌声。へたくそなカラオケの轟音が鳴り、ひときわ高い笑い声を立てるのはハンの傍らに立った女装のミー。なにも、言葉を発そうともしない唇をミーは、ただ、力なく開き。

死にゆくミー。

なぜ、今更。想った。

君はふたたび死のうとするの?

まばたき、指先が私の額に触れたことに気付く。ミー。彼女は静かに、案じる眼差しで私を見下ろした。覗き込むように。

額に手を当てて、彼女は私の熱を、なぜか測る。その手のひらが私の体温にじかに触れていた。十六歳よ、と、フエは、彼女に髪をとかさせながら、言った。誰にと言うわけでもなく、そして、私のために英語で。結婚式のために、うちを出る前の、最後の身づくろいに追われながら。

知ってた?

お父さんとお母さんは、もういない。

あなたは

どこに?

知ってた?

天国に。

指先。上を指すフエの指先の向こうに、色彩の無いダットが張り付いたままだった。

ミーは、フエの髪をとかしてやりながら、あなぼこ。昏いそれ、私から微笑む眼差しをそらさない。流す。それは、血を。下に。重力に素直に。もはやそんなもの、彼が感じているはずもないのに。ただの、欠損した出来損ないのあなぼこのくせに。

見開いただけの眼差しが仰向けに横たわったまま、覗き込む彼女の眼差しにふれる。鮮やかな、薄紫のアオヤイが匂いを立てる。どこかで決定的に、他人を排斥しながら色づいた清冽さを香らせる、絹固有の匂い。

瞬き、私は目を閉じていた。閉じられた眼差しの向こうに、遠くフエの声が聞こえていて、離された手のひらは名残らせた彼女の体温の残像だけを、感じさせる。

かすれる衣擦れの音、そして、空気のざわめき。

立ち去った少女。あるいは少年。美しいミー。

やがてすぐに死んで仕舞う、その、彼女。彼らに惨殺されて。

自分の血と体液と汚物に塗れて。

刈り上げられた短髪が、どうしようもない悲惨さを付与するむき出しの美しさ。誰かが私をまたがって、壁際に添い寝した。女。体をよせて、私の腹部に添えられた手のひらが、私をただいつくしむようになぜた。あ。

大丈夫、と。いいのよ。

ね?

そのまま

寝て仕舞っても、

構わない。

から、

手のひらの触感が、そう

ね?

つぶやく。何も心配はないから。

なにも、と。そして視界に、もはやなにも入れたくはなかった。ただ、私はまどろんだ。閉じたまぶたの中にさえ、止め処もない視覚が止め処も無くなにかを見せ付けるのをやめはしないことなど知っていながら。例えば花。

見い出されている花々の美しい色彩。

停滞したブーゲンビリアは音さえ立てない。

鈍い、締め付けられ苦痛に似た疲労が、鼻の付け根、目の奥にほのかに停滞した。フエの妹と母親は、彼女の目の前で死んで仕舞ったのだ、と、その弟は言った。ナムに、英語に通訳してもらいながら、私はそれを聴いたのだった。私たちの結婚式の前日の、家族だけのうちわの小さなパーティで。ナムという陽気な乱入者を含めて。

彼がむかし語る。

酔いつぶれかけた眼差しを、鈍くナムにだけ投げかけて、フエの長身の弟は。

彼が十八歳だった頃、庭先で、やがては土地問題のせいで喧嘩別れして仕舞う前の、いとこが生んだ二人目の幼児をあやしてやるフエ。日曜日。

昼下がり。

その日も暑苦しかったのだろうか?妹を連れて、英語学校へ行く母親が、またがったバイクのクラクションを鳴らして、妹に催促をかける。

きらめかせるのは直射日光。

奥から、歯ブラシを口に刺したまま顔を出した妹に、甲高い罵声を浴びせたのは、その母親と、それに同調したフエ。

早く。

Nhanh

駆け込んだ奥で、うがいをする音が派手に鳴る。

幼児が、転びそうになって、あわてて駆け寄ったフエが抱きかかえた腕のなかに、幼児はもがく。言葉にはならず、吠えるのとも、鳴くのとも違う、あきらかにヒト、その、言葉にいまだふれないままのヒト科ヒトの稚児が立てた嬌声。

白いアオヤイのまま駆け出してきた妹がバイクに飛び乗ったときに、その、赤いヤマハのスクーターが揺れる。

大袈裟な罵り声。時間はまだ、十分にある。それに、遅刻することが当たり前の国なのだった。いつでも、いかなるときも、どんな場所でも、どんな場合でも。ここでは三十分程度の遅刻は倫理だ。

ふかされたエンジンが音を立てて、フエは手を振ってみせる。お互いにいらだった彼女たちは無言のまま振り返らない。そのまま、吸い込まれるように走り出し、主幹道路に曲がろうとしたその瞬間に、逆光のふたりの翳を大型トラックが消し去って仕舞う。

一瞬のうちに。

何事も無かったかのように。バイクごと、轟音さえ立てずに、ただ、短いノイズが遠く聴こえた。

そうなる事が、当たり前の、当然であるかのように。音響そのものが消滅したかのような、ほんの刹那の静寂、その、真空に落ち込んだに違いない寂とした一秒未満、やがて、一気に罵声が立ちかい、騒音、そして怒号、人々が駆けつけていくことが、音響として理解された。

立ったまま、失心していたフエは、ただ、すべてを音響として、それらのすべてにふれていた。容赦もないその現実、それそのものに。涙を拭って、自分の眼差しのすぐ先で起こったことであるかのように語る。

弟、、名前は忘れて仕舞った。彼は。その日、そもそも、その日もいつものように、Trần Thị Ý チャン・ティ・イーのうちに入り浸りっぱなしで、うちにはいなかったと言う彼は。

俺がいれば

フエ。

なんとか、

ミーを立たせてふたたびひざまづき、メイクの修正をほどこしてやるフエ。美しい女たち。装われた女、留保なく、自分たちが女であると言うどうしようもない真実を装って表現しつくす女たち。ミーが、私の体の上にその幼いからだを曝して、腰を使う。それが、夢だということには、すでに気付いていた。

あの時、メイクをもう一度施されなおすミーを見やりながら、不意に鳴った Line の無料通話の、向こうで、困り果てた顔をした美沙子の、老いさらばえた顔が、斜めにさした日差しの、画面を反射させた白濁の中に、

地震よ。

顰め声で言って、すぐさま鼻にだけ笑い声を立てた美沙子の声にはなぜか、軽蔑し、嘲笑うような気配があった。

白い肌が、色彩を失ったままに、私の体は快感をさえ、あるいは、そのそもそもの触覚それ自体をさえ、発動させない。自分勝手に、ミーは腰を降るしかなく、彼女の顔は見えない。

ただ、色彩をなくし、暗い、彼女のそれは、私の眼差しに見つめられることを拒否しながら、関西よ。

美紗子が言った。

こんどは。

笑う。

こっちもいっぱいゆれたよ。となりだからな、すぐ、と、諦めはて、軽蔑しきり、挙句嘲笑し、生まれてきたこと、それ自体を後悔させてやりたい、そんな欲望に突き動かされたはずなど無かった。そんなはずは、と、戸惑いを曝す私を、ミーは考慮しない。

穴を空けたように、開かれきった口が垂れ流すのは、鮮烈な血の色彩、赤。

私は、彼女に壊される、上に乗ったミーに、彼女、私が壊して仕舞った残骸。こっちも、と。

土砂が崩れたばかりよ。もう一度。

台風のせいで。

あのあと、すぐにね。

美紗子。美紗子は水平に、血を流す。

静かに、ものも言わずに。

凄惨なまでの、日本の自然。叩き潰し、なぎ倒し、破壊し、破滅させ、それを繰り返しつづけなけば気がすまい、その。理不尽で、無慈悲で、容赦もなく、絶望的であること事態を、ただ恍惚として曝し続けるかのような。

ただ、過酷でだけあろうとする。

それ。じかに、私の唇に触れたそれが、誰だかは知っていた。色彩の無い、彼。

両目から、血を流す。色彩。

冷酷なほどにその鮮度を誇る、その色彩、それは赤。見事なまでに、ただ、醜悪な彼。

もはやかたちを留めない、たんなる昏さ。

穢らしい、その。

目を背けることさえできずに、私は、朽ちかけの。

腐りかけの。

ボロボロの。

悲惨な

汚穢そのもの。

永遠に穢いもの。

破滅した。

原型さえない。

無慈悲なまでの。

ただ昏いだけのあなぼこで、色彩もないままに、決してその姿を曝しはしない、彼。

止め処も無い両目の血。開かれた口からは、そして、それら、血。その色彩。

私。

それは、色彩を喪失した私にほかなならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.01.

Seno-Lê Ma

 

2)に続く

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

scherzo; largo

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125077/read 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


それら花々は恍惚をさえ曝さない


http://p.booklog.jp/book/125047


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
 
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