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本文表紙

新波出版ショートストーリー

 わが友フランツ

 

著:鷺山 京子

 


◆◇ 本作品は、試し読み用のサンプルです ◇◆

◆◇ 製品版の序盤(約3500文字分)までを無料でお読みいただけます ◇◆

 

製品版は、2018年12月25日(火)より配信開始予定です。

現在、Amazon Kindle ストアにて予約注文を受付中!

 

※本作品は、Kindle Unlimited 読み放題対象になっております。

※読み放題サービスのご利用は、配信開始日になりますとご選択いただけます。配信開始までしばらくお待ちくださいませ。


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最終更新日 : 2018-12-16 23:37:49

【試し読み版】 わが友フランツ(1/4)

「なんだって?」

 ベッドを取り囲む人々の中から、かん高い声があがった。自分の権力を見せつけようとする、高飛車な言い方だ。この男は、いつもこうだ。若い医師は、反発を隠しもせずにその男に目を向け、もう一度繰り返した。

「皇帝陛下は、亡くなられました」

「これは驚いた」

 男は胸を反らし、小馬鹿にしたような調子をいっそう強めた。

「きみは分かっていないようだな。ここには、皇帝などいない、いないのだぞ」

 この小さな島は、本国イギリスから派遣された総督が統治している。男は総督の副官で、確かにこの島ではナンバー2の権力者だ。いちばん近いアフリカ西海岸から千九百キロ、ヨーロッパへは船旅で二ヶ月と遠くへだたったこの島は、まさに絶海の孤島だ。それだけに、統治者の権力は絶大だった。その背後には、本国である大英帝国の威光が控えている。

 だが、そんなもの、このお方の偉大さに較べたら、象の前のありと同じだ。

 医師は、心の中でそうつぶやいた。皇帝の主治医となって二年ほどだが、この方に皇帝陛下以外の称号は考えられない。

 大いなる生涯を終え、安らかな死の腕に抱かれて横たわっている今このときでさえも。

 五年に及ぶ流刑生活の間、皇帝と苦楽を共にした側近たちは、それぞれの悲しみにひたっていた。ベッドの足元では、献身的に仕え続けた従僕が、人目も構わず泣き崩れている。

 イギリス人の副官は、わざとらしくせき払いをし、声を張り上げた。

「つまり、将軍は死んだのだな?」

 医師は静かにうなずいた。

「一八二一年五月五日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト将軍は、ここセント・ヘレナ島で亡くなられました」


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最終更新日 : 2018-12-18 14:03:00

【試し読み版】 わが友フランツ(2/4)

 拳銃は大きく、ずっしりとした重みがあった。暗い屋根裏部屋の床に立てたろうそくに照らされ、黒く底光りしている。すでに弾は込められていた。ルディは撃鉄を起こし、引き金に指を掛けた。もういつでも発射できる。

 撃たれたら、どんな感じがするんだろう?

 銃口をこめかみに押しつけてみた。

 冷たい。

 でも弾が体を貫いた瞬間は、たぶんすごく熱いんだ。火のように。ほんの一瞬感じるその熱さが、最後の感覚になる。一発で確実に仕留めるんだから。

 今から十二年前、大群を率いたナポレオンが、アルプスを越えてオーストリアに攻め込んで来た。首都ウィーンの防衛のため、ルディの父親にも武器と軍服とが支給された。といっても、父が戦闘にたずさわった訳ではない。オーストリア帝国の会計官僚として、戦時にまつわる金の遣り繰りに駆けずり回っていたのだ。

 何よりも、ウィーン市内では戦闘そのものが起きなかった。ナポレオン軍がウィーン郊外に悠然と陣を布くと、なすすべもなく市の城門を開くしかなかったのだ。市を取り囲む厚い城壁は中世の遺物に過ぎず、ナポレオン軍の大砲の前には全く無力だった。

 そのころルディは、まだ三才にもなっていなかったから、戦争の記憶が少しでも残っている訳ではない。父の仕事のことも、ウィーン市開城のことも、ずっとあとになって知ったのだ。

 あのころ食人鬼と恐れられたナポレオンは、ワーテルローで徹底的に打ちのめされ、今や遠いセント・ヘレナ島に閉じこめられた囚人だ。その一方我がウィーンは、偉大なるハプスブルク帝室の旗の下、変わらぬ繁栄を謳歌おうかしている。恐怖も屈辱も、まるでなかったかのように忘れ去られている。

 それでも、残されたものはある。一度も使われなかったこの拳銃だ。

 去年の秋、ルディは屋根裏部屋の衣装箱の底に、これを見つけた。それからは、ときどき家族の目を盗んで屋根裏に忍んできて、拳銃を手に取るようになった。オイルを染みこませたボロ切れで磨き、撃鉄を起こして、引き金の感触を確かめる。箱のふたにきちんと収納されていた弾丸を初めて込めた時には、手が震えた。

 でももう平気だ。今日は心を決めて、屋根裏に上がって来たんだから。

 ルディは拳銃を古いハンカチに包むと、ベルトに挟み、上着のボタンを掛けて拳銃を隠した。それから、ろうそくを吹き消して立ち上がった。


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最終更新日 : 2018-12-18 14:03:08

【試し読み版】 わが友フランツ(3/4)

 二階に降りると、一階のサロンからピアノの音が聞こえてきた。妹が稽古をしているのだと思ったが、すぐに違うことに気づいた。指の動きが早くなめらかだ。何よりも曲が違う。いつもの退屈な練習曲ではなく、流れるような美しいメロディだ。こんな音楽を聴くのは、初めてだった。

 驚いたのは、ピアノに続いて若い男の歌声が聞こえてきたときだ。

 

   泉にそいて しげる菩提樹ぼだいじゅ

   したきては うまし夢見つ

 

 この家に、客は多くない。父が、来客を好まないからだ。数少ない母の友人たちは、午後の早い時間に訪れ、長居もせずに帰ってゆく。父の留守に来た客が、ピアノを弾いたり歌ったりなんてとても考えられない。

 

   みきにはりぬ ゆかし言葉

   うれし悲しに いしその影

 

 いつの間にかルディは、サロンの前に来ていた。ドアの向こうでは、歌声が続いている。オペラ歌手のようなこれ見よがしな歌い方ではない。むしろごく自然に歌っている。それでも、深い響きを秘めた声には何か訴えかけるものがあり、メランコリックな歌詞や流麗なメロディと相まって、ルディの心をきつけた。ルディはサロンのドアに隙間を作り、そっとのぞき込んだ。

 

 開け放った窓から午後の陽光が差し込み、サロンの深い緑色の壁紙をいつになく明るく見せている。壁寄りの長椅子ながいすに母と妹のリジーが座り、その後ろに口ひげをたくわえた若い男が立っていた。三人の視線は、奥のピアノの方に向けられている。

 ルディの位置からは、ピアノに向かっている男の茶色い巻き毛の横顔が見えた。眼鏡がときどき、きらりと光る。

 その向こうに、歌い手が立っていた。片手を軽くピアノにかけ、広げた譜面を覗き込んでいる。歌に集中しているのに、なぜかとてもリラックスして、心からくつろいでいるように見える。

 曲が短調に転じると、つい今しがたまでただよっていたあまやかな夢は、北風に吹き散らされる枯れ葉のように一瞬にして消え失せた。代わって暗い悲しみが、不吉な予言のようにたちこめる。ルディの胸は、何とも知れぬ不安で波立った。


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最終更新日 : 2018-12-18 14:03:16

【試し読み版】 わが友フランツ(4/4)

 その不安に耐えきれなくなる寸前、曲は再び長調に転調して、過ぎ去った夢をせつなく甘く懐かしんだ。やがて、泉の水が軽やかな波紋を描いて消えるように、歌は終わった。

「すてきだわ。ねえお母さま」

 手をたたきながらリジーが叫んだ。ルディがあんな風に大声をあげたら、たちまち父親の叱責しっせきが飛んでくるだろう。リジーは父に甘やかされるのをいいことに、どんどんわがままになっている。ルディはそんな妹が憎かった。

「ほんとうに素晴らしい音楽ですわ」

 母がそう言いながらにっこり微笑むのを見て、ルディは軽い違和感を覚えた。そしてそれが、こんなに晴れやかな母の表情を見るのが、ほんとうに久しぶりだということから来ているのに気づいて驚いた。

 長椅子の後ろから一歩踏み出しながら、口ひげの男が陽気に両手を広げてみせた。

「どうです、ワルター夫人、ぼくの言った通りでしょう。我らがフランツは、天才的作曲家なんですよ」

 ピアノを弾いていた男が、もじもじと立ち上がる。眼鏡をかけた顔が、恥ずかしそうに真っ赤になっている。

「ディーターの手柄ですよ。すごくうまく歌ってくれたから」

 フランツはそう言って、歌い手の方を見やった。ディーターと呼ばれた歌い手は、ぴしゃりと言った。

「ばかなことを。ぼくなど、ただの素人だ」

 フランツは、いくらか早口になり、生真面目に反論しだした。

「きみはぼくの音楽をよく理解してくれている。それが大切なんだよ。音楽は魂さ。ソウルだよ。もちろん技術は大事だ。けれど技術だけあっても魂がなければ……」

 ディーターがにやにや笑っているのを見て、フランツはむきになりすぎたのに気づいたらしい。照れ笑いを浮かべて黙った。次の瞬間、ルディの心臓が跳ね上がった。ディーターが真っ直ぐにルディの目をとらえ、呼びかけたのだ。

「きみはどう思う?」

 サロンのドアを開けてはいたものの、ルディは扉の影に身を隠すようにしていた。だから誰にも気づかれていないと思っていた。実際、部屋にいた者たちがそろってディーターの視線を追い、ルディを見つけた様子からすると、それまでは誰もルディがいることに気づいていなかったようだ。ただ、ピアノの向こうで譜面に集中しているように見えたディーターだけが、ルディの姿に気づいていたのだ。

 それでびっくりしたんだ。ドキドキしているのは、そのせいなんだ。ディーターの視線に射ぬかれて、正体の分からない胸騒ぎのようなものがルディの胸いっぱいに広がった。逃げ出したかった。それなのに、身動きすることもできない。


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最終更新日 : 2018-12-18 14:03:23


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