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第4章 混在的一者

主人公の名前

 

 主体、としよう。これが本シリーズの主人公の名前である。


 自己形成の過程とは一種の成長ドラマであり、ドラマであるからには、主人公なしで話を進めることはできない。

 

 ただし、このドラマは具体的なものであるよりは、はるかに抽象的なものであり、ゆえに主人公に関しても、ある程度抽象的なキャラクター性が求められることになる。その際「主体」という抽象名詞はまことに求めに相応しく、私としては、これ以外の主人公名はとても考えつきそうにない。


 そして、この主体とは私たちそのものである。彼は私たちになりかわって、私たちが歩んできた道を辿り、また私たちが歩むべき道を辿ってゆくだろう。読者にあっては、どうかそこに、かつての自分の姿、自分のあるべき姿を重ねていってほしい。

 

 


誕生のとき

 

 主体は、いま自己形成の過程の始発点にいる。そして主体にとって、あるいは人間である私たちにとって、人生始発のときの風景はいつだって変わらない。それは誕生の風景であり、母親の胎内から広大な世界へと引き出される出産の風景である。主体はいま小さな小さな赤ん坊であるのだ。


 私はかかる出産から一年ぐらいまでの期間、つまり生後一年ぐらいまでの期間を「混在的一者」と呼んでいるが、この時期の主体にとって、最も身近で重要な存在は紛れもなくその母親である。


 母親こそは主体を生んだ張本人であり、徹底した主体の保護者であり、主体を包み込む偉大な存在である。これに対して主体自身は、ただただ泣くばかりの、ほぼ百パーセントの保護を求める、か弱き存在でしかないと言えるだろう。


 混在的一者とは、この"大いなる母親"と"小さな主体"の心が混在している状態のことであり、また、そうした混在によって母と子(主体)が、二人の人間であるのにもかかわらず心理的に一者化している状態のことである。一者化している以上、母と子のどちらかだけを切り取って採り上げる訳にはいかない。それは全体的な真実が、一部不当に欠けてしまうことを意味しているからだ。

 

 


論述スペースの移動

 

 ゆえに混在的一者について詳述しようとすれば、母と子の両方について語らなければならず、かつ、どうしても主体以上に、母親について多くのことを語らなければならなくなる。それは、畑に種を蒔くときには、種そのものよりも、畑の土質にこそ多くの語るべきことがあるようなものだ。


 しかし、主人公(主体)以上のスポットライトを脇役(母親)に当てなければならないというのは、やはりどう考えてもバランスが悪い。実は次の「教育の初期」にもその気があるのだが、本章では――もしも、そのまま論述を進めるならば――それとは比べものにならないほどのアンバランスが生じることだろう。


 ところで母親とは女性であり、私は女性について詳しく考察するために『女性の本質』という論述スペースを用意している(おそらく第五巻)。だとすれば、混在的一者について本格的に論述するならば、この『女性の本質』こそ、そのためのスペースとして最も相応しいということになるだろう()。


 そして、かかる案に則るならば、その当然の帰結として、ここでは逆に沈黙することこそが最も相応しい態度ということになる。

 

※ すでに述べたように『女性の本質』の執筆は構想の段階でストップしている。だが、この本を代替するものとして、第二福音書の「座標1、混在的一者」がある。よって、本章の補遺として、これを載録する(次ページという扱い)。

 

 


意識の不在

 

 そういう訳で、ここでは本格的な潜在的一者についての論述は避けるが、それでも最低限の説明として「意識の不在」ということについてだけは触れておきたいと思う。


 私たちは自分が生まれたときのこと、生まれてからしばらくの間のことを覚えていない。それは、そのとき主体(私たち)が物理的に存在していなかったからではなく、そこに存在していたけれども意識性を欠いていたからである。


 基本的に意識とは"分ける"能力のことであり、より正確に言えば"識別する"能力のことである。
 この点、新生児のときは無論のこと、乳児期においても、主休は母親と自分か別のものであることが分からない。いわば母親と自分とを混在させているのである。


 実際に巷の母子関係を見てみればよく分かるだろう。乳児は、自分の欲求を叶えんとして母親にサインを送り、そのサインによって母親が自分の手足になってくれないと、それを理不尽なことだと思って泣きわめく。母親には母親の勝手があるだろうに、そんなことは一切意に介さない。


 となれば乳児は、母親の人格を認めず、母親の自由を認めず、あくまでもその存在を自分の一部だと思っていることになる。また、そのように思わなければ生きていけない不自由さ、弱さが乳児のかような態度を正当化しているとも言えるだろう。


 そして右のような識別のレベルだから、乳児としての主体の意識性は相当低いものにならざるを得ない。ほとんど無意識と言っていいぐらいだ。


 そして、意識(識別能力)がないということは、そのまま自分がないということに等しい。なにしろ"他人"というものを認められる"自分"がいないのだから。


 つまり「他人と自分」は、一方が必ずもう一方を要求するような対概念であり、他人がいないのならば、その対概念である自分もまたいないも同然なのである。そして、かかる意味において「自分かいない」ことこそ、私たちが乳児期の記憶を持っていない所以なのである。

 

 


そこにいるもの

 

 さて、そのように自分も他人もいないとするならば、主体が乳児であるとき、そこには一体誰がいるのだろうか。それこそが「混在的一者」である。母親と混在することによってそれと一者化している主体、このような存在だけが、女性が母であるとき、主体が乳児であるときには唯一存在しているのである。


 そして、その混在の融合性、一者としての結合性はあまりにも強烈に過ぎ、母子を分離独立させて描写しようとすれば、どうしてもこの状態の本質が逃げていってしまう。


 それだからこそ私は、この場面の主体を描くにあたって“母性という女性性”に触れざるを得ないのであり、そしてまた『女性の本質』という論述スペースがある以上、混在的一者について詳述するには、そのスペースこそ最適であると確信せざるを得ないのである。

 

 

 

 


補遺 座標1 混在的一者(第二福音書から)

人間の神化のスタート地点

 

 ヘルメスの杖という梯子登り、「人間の神化」の始まり()は、人間の肉体的な誕生である。人間が生まれないことには、その神化も生じようがないからだ。

 

 そんなことは当たり前だなどと言ってと馬鹿にすることなかれ。この誕生の場面には、実に大きな神秘が隠されているのだ。端的に言って、この場面はアルベドの雛型なのである。

 

※ ヘルメスの杖という梯子登り、や「人間の神化」は、ここでは自己形成の過程とイコールである。つまり、これを「自己形成の過程の始まりは」と読み替えて構わない。


 この誕生の場面を、私は「混在的一者」と呼んでいるが、その呼び名には「何かと何かが混ざり合うようにくっついているので、ならば、それを一つのものとして扱うのが妥当だろう」という思いが込められている。


 化学的な錬金術でも、作業の始まりは、まずカオス(混沌)状態にある物質を手に入れることである。必要な材料を混ぜて熱し、ドロドロのペーストを作ることが、錬金術のスタート地点なのである。


 錬金術におけるカオスの材料は、たいがい硫黄と水銀であるが、私の「混在的一者」において混ざり合っているのは、母親と子供の意識である。そして、特別な指定がないかぎり、読者には、その子供を男の子だと思っていただきたい。つまり「母‐息子」のペアだ。


 また、私は、その男の子のことを「主体」と呼ぶ。主体は、この論述全体の主人公名であり、それは第三福音書の終わりまで続く。


 抽象的な名称にふさわしく、ときに自由に、ときに曖昧に「主体」という主語を使うことになるだろうが、基本的には、主体は本章で生まれた男の子であると考えていただきたい。

 

 


妊婦

 

 一口に「混在的一者」と言っているが、その内容は、主に二つの要素に分けることが出来る。もっとも、要素というよりは、二つの場面とか、二つの時期と言ったほうが適切かもしれないが。


 まず第一の場面が「妊婦」である。妊婦のなかで「母‐息子」のペアは、確かに「一つのもの」「一人の人」として成立している。考えてみれば当たり前のことだが、不思議と私たちは、この事実に気をとめない。だが気づいてみれば、その子宮のなかに胎児を収めた母親は、どう見ても、二人でありながら一人なのである。


 実際に、妊婦であった時期の妻に向かって、


「ママは、今ひとり? それとも二人?」


 と尋ねたことがある。そのときの答えは「分らない、どっちだろう」だった。つまり、どちらでもないし、どちらでもあるのだろう。


 ただし「母‐息子」のペアが妊婦状態にあるとき、胎児(息子)の人格はまったく成立していない。だから、そんな「妊婦状態の一者性」を図式的に表せば、子供の微弱な人格を、母親の人格が、まるっきり呑み込んでしまっているような形になる。子供の人格は、母親の人格によって、完全に覆われているのだ。


 であれば、この場面における一者性とは「母‐息子」の合一だとしても、その存在感のほとんどは母親のほうが担っていることになる。つまり「母も息子も、適材適所によって、同等の存在感を表出している(=総合)」という訳ではないのだ。


 母と息子は、せいぜい"混在"によって一つに結びついているだけである。それだから私は、この段階を「混在的一者」と呼ぶのである。

 

 


天と地のシンメトリー 

 

 そのように混在に過ぎないとしても、妊婦にあっては、肉体的に、たしかに「自他一体」が実現されている。自分と他人(母と息子)が一つになっている。


 そして、それは天なるアルベド(座標9)で実現される、霊的な自他一体の、地なる対応物となっているのだ。アルベドにおいては「全にして一」「無限」という形で、自他一体が実現されることになる。


 その詳しい内容については、とうぜん後段に回すが、妊婦とアルベドが、天と地に対応物として配置されている事については、今の段階でも注目しておいてよい。


 もっと正確に言えば「自我の確立段階を折り目にして、妊婦とアルベドが、上下にシンメトリーを描いている」ということだ。どうか、いま座標図を見て、その上下対象のフォルムを確かめてほしい。

 


 

 そうすれば次の事が分かるだろう。かのヘルメス・トリスメギストスが遺したという、錬金術の根本経典『エメラルド板』には、


「一なるものの奇跡を成し遂げるにあたっては、下にあるものは上にあるものの如く、上にあるものは下にあるものの如し」


 と書かれているが、まさしく、ここに経典どおりのことが行われているという事が。

 

 


妊婦の外在化

 

 混在的一者の"第二の場面"は、主体(母親から生まれた息子)が、生後およそ10か月を迎えるまでの期間である。人類学者のアシュレー・モンタギューは、それを「体外妊娠期間」と呼んだが、実に言いえて妙である。


 この期間は、妊婦の状態が、体の外側で再現されている状態だと考えてよい。子供は胎内でなく、すでに母親の外側にいるけれども、それを心理的に見れば、両者はいまだに妊婦のごとく一者化している、ということである。


 これは、ある意味、きわめて人間的な状態だ。
 動物は、生まれるとすぐに四つ足で立ち上がろうとするし、生まれてから一時間もすれば、実際に立ち上がってしまう。それは、天敵からわが身を守るための本能的行動に他ならない。


 というのも、肉食動物が、生まれたばかりの草食動物を襲うのは常套手段だし、そうだとしたら、立って走って逃げないかぎり、仔は今日の命でさえ守れないからだ。もちろん肉食動物だって、生まれたばかりの時には、ほかの動物の恰好の餌食になるほど弱いのだから、事情としては、草食動物となんら変わらない。


 しかし人間だけは事情が異なる。
 人間の赤ちゃんは、生まれてすぐに立ち上がろうとなどしないし、四つ足で歩ける(ハイハイ)ようになるまで、およそ10か月の日にちがかかる。


 これは人間が社会的存在であり、そのコミュニティ(生活共同体)が、動物的な天敵の脅威から逃れているからこそ成り立つことだろう。もし身近に天敵がいたなら、生後10か月未満の赤ン坊など、即座にその天敵の餌になっているはずだ。


 ところが人間の赤ちゃんは、そうした危険などつゆ知らず、平和裏のうちに、この10か月間を、完全なる母親の保護下で過ごす。いわば胎外にあっても「いまだ子宮に包まれているかのような保護感」を味わうのである。なにしろそれは、動物の「生まれてから歩くまでの一時間」を、10か月分に引っぱり伸ばした期間なのだから。


 すなわち、生まれたばかりの動物から、まだ羊膜が取れきっていない状態のように、生後10か月未満の赤ン坊は、いわば"生まれきっていない"状態なのだ。それは、胎児であることを、胎外で再現しているようなものに過ぎないのである。

 

 


性格をつくる期間

 

 ただし、この頃には――生まれきっていない、赤ン坊であったとしても――主体には、すでに意識の芽生えがあり、母親との一体感を記憶することが出来る。もっとも、その記憶は、フワフワと生まれては消えていく泡沫のようなものであって"思い出"になるほど永続するものではないが。


 そう、その期間の思い出の持主は、主に母親であって彼ではない。むしろ、この頃の記憶が作りだすのは、思い出ではなく、彼の"性格"だろう。


 この期間の母子一体感に充分な密着度がないと、主体は、自分が存在しているという事実を肯定しづらくなる。なぜなら、主体の存在を支える最初の基盤は「母親から愛された記憶」に他ならないからだ。それだけに、母子一体感において痩せた記憶しか持っていない主体は、つねに不安と寂しさを抱えているような卑屈な性格をつくることになる。


 卑屈とは、自分を守ることにばかり必死で、他人を愛するだけの余裕を持っていない、小さな人間を指す言葉である。心に支えがなくて、すぐに転がってしまいそうなハラハラ感が、他者を顧みる余裕のない、卑しい心象を作りだしているのだと言えよう。


 それを鑑みると、前出の人類学者、アシュレー・モンタギューが語った、


「人は愛されることによってのみ愛することを学ぶ」という言葉は、とても大切な真実を含んでいると思う。あるいは発達心理学を説いた、E・H・エリクソンの、


「与えられるものを得ること、そして自分がして欲しいと願うことを、自分のために誰かにしてもらうことを通して、乳児は同時に、将来自分が"与える者"になるために必要な適応の基盤を培うのである」という言葉のほうが直截的だろうか。


 いずれにしても、この期間、母親は「子供の欲求をそのまま叶える」という手段によって、主体の心と出来るかぎり密着しなければならない。


 乳が欲しければ与え、オムツが重ければ取り換え、眠ければ抱っこしなければならない。これはエリクソンが語った「基本的信頼」と同じことだ。この期間だけは、母親は可能な限り、子供が欲しがっているものを、そのまま与えなければならない。


 乳幼児は遠慮を知らないので大変だが、それでも唯一、この単純なやりとりだけが、母と子を一つに結びつけるのだからである。そして、それによって生まれた密着感が、主体をして"愛されていること"を実感させるのである。

 

 


雪の日の風呂

 

 四、五歳ぐらいまで通用する話だが、譬えると、この「外在化された妊婦」の時期は、雪の日の風呂のようなものなのだ。


 この時期、実世間の大変さを教えようとするあまり、子供に「甘えるな」とばかり、厳しい躾を与えたり、疎遠にしたり、と、母子の間に妙な距離感を作りだしてしまう母親がいる。理性的でありたい、道理に則りたいという「知的で良き母」のタイプだ。


 しかし、これを雪の日の風呂に当てはめると、彼女がやっていることは、寒い外気温に慣れさせようとして、子供が入っている風呂の温度を、なるべく外気温のそれに近づけていることに等しい。きっと、この母親は、


「さすがに水には出来ないけれど、外気に慣れさせるには、ぎりぎりまでぬるくしたほうがいいのだろう。この子は、結局外に行かなければならないんだから」


 とでも言うのだろう。けれども、そんなぬるい風呂に入れられた日には、子供は外気に触れたとたんに風邪をひいてしまう。ちっとも体が温まっていないのだから当然だ。


 それに対して、世間が厳しいからこそ、その人生初発の時期を、甘い密着性、濃厚な一体感で満たしてあげようとする母親は、雪の日の風呂で「外気が寒いからこそ、子供を熱めのお湯に浸けてあげよう」と考える者に等しい。


 そのような風呂で十分に体を温めた子供は、たとえ雪が降っていようとも、しばらくの間、平気で外を駆け回ることが出来るだろう。体の芯に、まだ余熱が残っているからである。肌は冷たくなっても、決して風邪をひくところまでは行かない。


 つまり母親との一体感の記憶によって、子供は世間(保育園や小学校でさえ、彼にとっては世間だ)の荒波を超えていくだけの強さを、身に付けられるのである。

 

 


本能が実現可能にする困難

 

 ところで、母親が子供の欲求を叶えることを、私は少し「難しい」ことのように印象づけてしまったかもしれない。子供が欲しがるものを「与えなければならない」という言い方をしてしまったからだ。これでは読者には、苦労してでも義務を果たしなさい、といった調子に聞こえてしまうだろう。


 たしかに眠い時にミルクを用意したり、腕が疲れているのに抱っこをし続けるのは大変なことである。おまけに、何をどうやっても子供が泣き止まない夜もある。


 しかし、多くの場面において、この時期、母親が子供の欲求を叶えてあげることは容易である。男には不思議に見えることだが、彼女の母性本能が、その困難な課題を自然にクリアさせてしまうからだ。


 彼女は湧き上がってくる母性に突き上げられて、ほとんど自動的に、子供が求めてくれば乳房を出し、あるいは粉ミルクを混ぜる。お尻を気持ち悪がって泣けばオムツを取り換え、理不尽なことを言っても、笑ってそれを許してしまう。その子供が、彼女の子供である限りにおいて、その存在そのものを受容しきってしまう。


 それもそうだ。だって我が子が可愛いのだから。可愛くて仕方がないのだから。可愛くて可愛くて、その子が求めるものを、与えずにはいられないのだから。我が子を可愛いと思った時点で、彼女の母性本能は、すでに機能しはじめている。


 その母性本能による全受容こそが、母子一体感の本質であり、母と子を混在させる最大の力である。子供は何の力もないが、その無力さこそが、母性本能に支配された母親にとっては、たまらない魅力である。母親は「子供を守らなければならない」と思うのではない。ただ守りたくてたまらなくなるのである。


 妊婦では、肉体が無力な主体を包み込む。外在化された妊婦では、母性本能が無力な主体を包み込む。ここに混在的一者の、もっとも基本的な構造が表れている。

 

 


おわりに

  本書『アルベド① 序説と混在的一者』の叙述はここで終わる。たった三回の連載で完結してしまったのだから、実に短い作品ではあっただろう。

 

 次には『アルベド② 教育の段階』を配信する予定だが、これは①と比べれば、はるかに長い作品である。そして内容的にも読みごたえがある。

 

 ただし、すでに予告してあるとおり、②以降の『アルベド』は有料設定にするつもりだ。価格は、連載一回分の配信で70円とする。この程度であれば、べつに読者の負担にもならないだろう。

 

 

 ※上記の有料設定は取り消しました。パブーが閉店するのに、今さら有料もないでしょう。一人でも多くの読者が、この「アルベド・シリーズ」に目を通して下さることを。

 

 

 


奥付



【2018-12-15】アルベド1 序説と混在的一者


http://p.booklog.jp/book/124979


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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