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silence for a flower #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

silence for a flower

そして、48の散文。

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

 

 

Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(オリジナル版)

 

 

熱帯の町の、湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。

古い、廃墟のような家屋。明け放たれた観音開きの木製のドアの群れがフロアに静かな翳をうつ。見あげられた空は、何の暗示を兆しもせずに剝き出しの、いわば野生の日差しを投げているばかりだった。

背中に御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残りだけはかろうじていまだに感じられていた。結局は子供をつくる気などないから、途中でやめて仕舞うにすぎないのに、毎日、一日の中でなんども愛し合ってみる。私たち以外にはだれもいなくなって仕舞ったが故に、ただ広く、古いだけで、もはや廃墟にしか見えない家屋。ナム、という名前の電力開発技師の友人は、ここがいい家だと言った。

大袈裟に嘆息してみせながら。「いい家だよ。」

Dệp quá

そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、

Nhà tốt

私の眼差しにとっては単に、いまだ朽ちざる滅びかけの廃墟にしかすぎなくとも。

無様な、雑な、崩れかけの、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、例えば広い仏間の天井組みなどには、確かにいい木が使われているらしいことは、私にもわかった。その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、抗いようもなくいつの間にか私に教えた感性だった。

フエの唇が、そっと、掠め取ろうとしたようにみぞおちにふれた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛の匂いたった湿気がふれあった私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして広いだけの何もない仏間の、床の上に投げ捨てられて、散乱していたのは私たちに脱ぎ棄てられた衣服の群れ。

どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせた。走る彼らの眼差しに通り過ぎた、買収されて放置されたままの広大な更地の真ん中に残った、その何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、そのまた先の日陰の暗がりに、だれがそこでだれと何をしていようとももはや、眼差しを向けてやるすべなど一切ありはしない。

更地に何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、あるいは今のままなのかもしれない。それとも、私たちが正確に言うならば、所有者のフエが、売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのだろうか。世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?

日本を含めた外国か、外国資本のデベロッパーたち。買い上げた土地を喜んで

ほら

投げ棄てるように、

返してやるよ

棄てられた現地の人間たちに

お前らのだろ?

返してやるのだろうか?あるいは、屈辱的な罵詈雑言とともにでも。

きったない糞ども

頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、灼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?

不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。

猫が獲物を終に見出したかのように、そしてフエが跳ね起きて、庭に、素肌を曝したそのままに駆け出すのだが、日曜日の正午。

熱帯の光がじかに彼女の素肌にふれていた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の容赦もない光さえもがその上っ面をしかなぞれはしない、のだろうか?

自分が遠慮もなく、自分の色彩に染め上げて仕舞ったそれをは。行かないで、と。その瞬間私は、不意に、想ったものだった。

なぜ、だった、の、だろう。それは?

そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ。

私だけを置き去りにして。

どうして。

そんな事がなぜ、考えられて仕舞ったのだろう?

あり獲るはずもなかった。愛しい私のそば以外に、彼女に生息できる場所などあり獲はしない。むらさきを感じさせる紅の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、フエが振り向く。

庭は、明度に燃えたたつ日差しがきらめきに染めていた。無残なほどに。無慈悲にさえ、想われたほどに。

撒き散らされたきらめきの散乱。無際限なまでの。

フエが声を立てて笑った。見て、と、その言葉も発されないうちに、花々。鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていたMỹ ミーは、その声に驚いて振り向き、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑った。私の眼差しの中で、ふたりが。花々。

錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立った樹木は茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせて、乱れさせ、空間に撒き、点在させ、ただ、あたりは花々の色彩にちりばめられている。

いつが盛りともよくはわからないその、熱帯の芳醇な花々。

野放図なまでに咲き乱れていて、花。あるいは、野生の樹木は息吹く。だれも手入などしないままに、結局のところ、樹木はいかにしても家畜のように飼育されなどしないのだった。それらは常に、たとえ、誰にどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは慎重な庭師が繊細な手をいれたところでもなんでも、最終的には野生の自己本位な生命に過ぎない。

生まれ、自分勝手に棲息し、自分で空間をうがち、容赦もなく野放図な繁殖をみせ、やがては惨めに朽ちて果てる。

その朽ちた残骸を見返るものなどだれもいない。へし折れて倒れ臥したそれは、たとえば降り止まない雨の中、日差しさえ直射しない日陰の湿地に腐っていくか、晒された日差しに灼かれて、そのまま干からび渇ききっていつか風化して仕舞うのか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えられるただの野生の死。ひたすらの野生のあざやかな崩壊と壊滅と破滅。

なにほどのことでもなく、為すすべももはやありはしない。こっちに来てみなさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を私は目で追って、笑った。家屋のつくった日陰を出れば、あるいは灼熱の?強烈で、鮮明で、明瞭で、どこかであからさまに破壊的な日差しが、私の肌を焼くに違いない。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。

まばたく。

だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと私たちに、哀れみをさえくれるに違いない。曝された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて灼き尽くされて仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事などありえないことを私たちは確信していた。あるいは、それを知っていた。単純に、常識にすぎないものとして。いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを灼き尽くすことなどできはしなかった。肉体は潤う。

ブーゲンビリアの木陰に、むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないふたりが足を上げて樹木を蹴るが、むしろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒にふらついて倒れかかり、女たちの嬌声が上がった。じゃれて、たわむれる。

やがてミーが想い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日陰の青い色彩の中にも。乱れる。

散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエの髪の毛に絡まった花を、ミーは抜き取って丁寧に差しなおしてやり、飾られたフエが微笑む。

花の色彩は、ただ、匂う。

私はうすく目を閉じる。

日差しは照る。

まぶたの上から。

 

 

 

 

 

 

 

眠りに落ちて、やがてはふたたび、堕ちた。

覚醒。

やわらかく、鮮烈な覚醒に。目醒め。

朝の。いつもの。

ためらいがちにでも執拗に

残ったのはただその

終に堕ちて仕舞ったような感覚。

どこに?

どこかに。あるいは、

いずれにしても。

 

 

#0

感じられていたのはノイズ。

こすれあうような。

繊細で、か細く、いまにも壊れそうな。

どうしようもなく、ナイーブで、つつましやかな。

ひそかに、慎重に、ふれわったお互いを決して壊しては仕舞わないように。

そっと。

秘められて。

やさしく、ふっと、指さきだけでふれたのと同じ強度でこすれあった、それ。

何かと、何か。

奇妙な、どこかで聴いたことのある懐かしささえ

記憶を

伴って。聴こえないほどの。

なにも

いつの?

喚起しないままに

そして、それ。その、耳の中に存在するノイズ。いつから?

聴く。

耳を澄ます必要さえもなく、それはそこに存在していた。

音のしたほうの空間に、もはや、あからさますぎて馬鹿馬鹿しく、ふしだらなほどに、無様に打ち棄てられてただそこに、微弱音で存在しているしかない、その、それは不意に。

不意に響いた、重く鋭い金属音が私を終に目覚めさせたのだった。

その瞬間にはすべてがもう、手遅れになって仕舞っていた気がした。為すすべもなく。

どうしようもなく。かつ、何の根拠もないままに。その、鋭く硬い何かが落下して、立ったに違いない音響はむしろ鈍い。実体の鋭さをさえ知覚させて。いずれにしても、それなりの高さからのなにかの落下。

私は瞬く。

急速に、醒めかけの意識のまどろみの中のあざやかな経験の、そのリアルな鮮度はもはや、反芻された記憶としてのぼやけた、味気のない気配を身にまとい始めるしかなかった。

その風化を推し留めるすべは、私にはない。

 

 

#25

ミーはココナッツの木の

庭先で立ち止まると不意に、何をするでもなくそんな

事実などあり獲るはずもないのに、ここに

ありふれたそれを

生まれて

初めて見たかのような眼差しを差し向けたのだった。その

ここでは見馴れずにはいられない樹木に。しなった

高い樹木の灰色の先に覆い被さる

長い長い葉の色彩。緑、ふちを

褐色に枯らせさえして

日差しの中に。朝の。

何時?

8時にもならない、まだ。そしてその朝の光は急激に

その鮮度を失っていった。いつものように。私は

好きだった。朝の、早い時間。

もっと。

夜と、朝の、切れ目を裂かせた、その。

ふたつの

明確な差異の境界線をまたぎさえした、そして

フエが何か、声を立てた。私のからだの

上にまたがって

自分のからだの色づいた褐色の、外側のすべてを

洗いざらい曝してみせながら。

仏間。広い、無意味に広いその

空間の中に。

 

 

#1

目覚めた私のからだの傍らに、静かに立てられていたフエの寝息。眠ること、それ自体が、もはや身体的な苦痛に他ならないのだ、と。

そう言っているとでも解釈しなければ済まされない、フエの、剥き出しの、無言の苦悶。

ベッドの上にまどろむままに、私はただ見つめるしかなかった。

私の体を拒絶するかのように向こうを向いて、複雑に折り曲げられた腕、足、そして、苦しげにねじられてゆがんだ腹部。

たとえば密着されたふたりの、裸の皮膚と皮膚の温度に倦んで。熱帯の、日中ほどではないにしても絡みつくようなぶ厚い暑さの中に、ただ、温度に飽き果てたに違いない、フエの褐色の身体のあきらかな拒否。

容赦もなく。

その肉体自体にとっては、絶望的なまでのその拒絶の明確な根拠が存在しているに違いない、どこかの、なにかへの、明確で鮮明な?

嫌なの。とにかく

あるいは。

拒否。

いずれにせよ、フエのからだは撥ね付けていた。彼女の皮膚のやわらかな産毛の先の光沢までもがただ、明瞭なだけの否定句を撃つ。

その腰を撫ぜてやると、汗ばんでべたついた触感が手のひらに残った。気付いた。その同じべたつきが、もはやあざやかな触感となって私の皮膚にもへばりついて、完全に、いまや私が自分自身の、かならずしも感じ取られてもいない体温にさえ倦んでいたのを。

そんな意識もないままに。

ふたたび、唐突に想い出されたように、そして開け放たれたままのドアの向こう、そのどこかに気配がある。生き物の気配。

彼女の父親が唐突に帰ってきたかのような、そんな波紋のない違和感があった。

 

 

#37

なにが

いま、何が起きてるの?

フエの、戸惑い続ける眼差しがつぶやく

いま

なにが?

ねぇ

 

 

#13

確かに、あの物音が

誰かを起こさなかったわ

けもなかった。フエは起きだして、覗き見したに違い

なかった。と

めてくれればよかったのに、と、私はフエをな

じってやりたい衝動に駆られたが、フエには為

すべもなかった気もして、結

局は、私の眼差しは、明確な表情をさ

作れな

いままに、惑う。

私は。

どうしようもなかった気がす

る。あ

の少年が、悪いという気さえしない。い

ずれにしても、どんな境遇にあるのか知らないが、そうで

しな

ければ生きていけないというのならば、彼の窃

盗にそこまでの非倫理性があるとも、私には終に

は、想えなかったのだった。好きにす

ればいい、とさえ私は想っ

た。持って

行きたければ持って行けばいい。

どうしても必要で、それがなければ私たち自身が

生きてさえいけないと

いうのなら、彼を追

いかけて奪い返すに決

まって

いる。い

かんともなれば、殺

して仕舞うか

も?あるいは間

違いなく、屠殺してでも。フエ

が彼

女の父親を殺して仕

舞ったあの時の

ように?私は、父親殺しのフエを、罰する気などさ

らさらなかった。それが倫理にもとろうがなんだろうが、そ

んな事は知ったことではない。私にとっては、あ

の男に比べればは

るかに愛しいフエのほうが重

要で、そして、あ

の男を彼女の人生そのものから排除しなければならないと、フエが

そう

言うのならば、それはそ

れであって、そ

うなるしかない。私は、終には、すべて容

認して仕舞うに違い

ない。例え、なんど繰り返されたとしても。そ

れが、あるいは、いつか眼の前でなんどめかに繰

り拡げられたとしても。事実、

私は容認したのだった。いささかの葛藤さえもな

く。葛藤。

フエが私を排除しようとしたときに以外、本当の

葛藤など始まりはしない。そんな気がした。な

ら、ど

うするのだろう?

例えばあの少年と、フエが愛するようになって、私を排

除しようとしたならば。葛

藤の、その結論はどうなるのだ

ろう?あ

いは、刃物を向けて襲い掛かるフエを、そ

の、か

よわく、華奢で、か細く

儚いフ

エを、逆に刺し殺して仕舞うのは私にとっ

てはた

易かった。あの貧弱なミーがそ

うしてきたとしても。だから、フエが、私を

殺すことは、その

まま、私が彼女に殺

されることの、承認を彼女に与えた

ことを意

味するに違いなかった。

意に、目舞いと共に、気付く。

私は。

気付いた。ならば、あの男は、なぜ、殺されて仕舞ったのだろう?か弱く、力ないフエに。瞬く。目舞いはしない。目舞いそうな、気がしただけだ。服を着なさいよ、と。

フエがそう言った。いつまでそんな、素っ裸でうろうろしているの?もうと、その眼差しはふるえもせずに

ほら

夜は終わったのよ。そして私を見つめ、微笑みに

ちゃんと

かすかに、あざやかに染めあげられた、フエの、

着なさいよ、もう

その

いい子だから

やさしい眼差し。自分だって、

服くらい

まだ、昨日のままに、ベッドの上に曝された剥き出しの素肌を持て余したままでいるというのに。

飢えていると言うわけでさえないのに。

もはや。

エに従う私を、彼女はベ

ッドに横

わったままに、眺めた。何も言

わないままに。表情さ

えなく。自

分で服を着て、あ

るいは服を脱ぐ、その行為が人の目に触れたとき、否

応なくまとう惨めさ、そ

して無様さは、何

故なのだろう。

エ。彼

女に、老いさらばえたとはいえ、老いさらばえきっているわけではない60代の、健常な男を無傷で殺せるわけがない。長い間、20世紀の後半のすべてを戦争に費やしていた国の、いわば、ほんの十数年前まで戦争の生き残りしか生存してはいなかったこの国の、その60代の男、すくなくとも、曲りなりにでも戦争経験があって、人を一人や二人くらいは?あるいはひょっとしたら何百人でも爆弾一発に屠殺して?いずれにしてもその手の責任で人を殺したことくらいはあるに違いない男を、華奢なフエが、どうしてたやすく殺せて仕舞獲たのだろう?あるいは、かならずしもた易くはなかったとはしても、かすり傷ひとつない無傷のままで。男は、フエに、そのとき承認をくれていたのだろうか。どうぞ。

 

殺してください。

 

 

#26

フエが微笑む。横を向いた眼差しはやがて、庭に

投げ棄てられた。彼女の、その、笑みを

過剰に含んだ

それは。からだに感じられていた彼女の体重。重力にまかせたままに

彼女は私に

身を

あずけっぱなしにして。ミーを、その

眼差しは捉えていたに違いなかった。不意に

家屋に紛れ込んだ猫を見留めた程度の、その、かすかに

表面にだけふれるような

それ。

フエの眼差し。

崩壊する。

すでに崩壊していた。

私の眼差しの中で。私が好きだった、朝の早い時間のあざやかな鮮度。

光の。

 

 

#2

まさか、と、私が不意に感じた在り獲ない違和感そのものに笑いかけて仕舞いながら。娘に殺されて仕舞った彼が戻ってくるはずもないのに。あるいは、であるが故の、その違和感だったのだろうか?ベトナムにも亡霊だとか、なんだとか、そういったものが存在しているのどうか、私は知らない。存在しているには違いない。いずれにせよ、どこででも、どんな形ででも、生きている人間たちはそれらを存在させるのだ。そして、そんな事に私は興味もない。ベトナムでそれらがどんな風に棲息させられていようが、ベトナム人ではない私の知ったことではない。どこからかはわからない。いまだに耳に聴こえ続けていた、ナイーブな音。ふれあいつづけ、戸惑いをひめていることを隠しもしない、息をひそめた、臆病で繊細な微弱音。意識の中に、木魂し続けた、その音響の名残り。

気配。

生き生きとした、なにかの気配。それ。確かに私の意識が捉え続けてはなさない、鉄に、細い糸のこぎりのぎざついた刃を当てたような、こすり合わせ、掻き続けるそれ。みんなには内緒で。ふたりだけの秘密で。ね?

そっと。

私が忍び込むように部屋を出れば、右手の奥の二番目の居間兼ガレージのほうに、存在していたのはその、生きた人の気配。明らかに生きている人間の息遣いがあった。

人の肌の温度を持った、ただただ恥らわれるまでに鮮明なそれ。フエを起こすべきだったろうか?

むしろ、あんなにも苦しそうにしか寝られないのなら、こんなきっかけをでもいいことに、彼女を苦痛そのものにほかならない眠りから覚ましてあげて、フエを。彼女を解放して遣るべきだったのだろうか?

あの、朝から晩まで、休みの日には、まともな家事さえもせずに、むしろ、むさぼるように眠りたがる、フエ。そのフエがもとめて止まないのかも知れない、執拗な苦痛の眠りから?

彼女が曝し続ける苦悩から?

終わりもない苦しみ

眠るたびの。彼女を

苦しいの

救ってやるために。

苦しくて

私は。

仕方ないの

たぶん、午前5時半前。目の前の壁の、二時間早い遅れがちの時計が目の前で、6時数分前を指していたから。日本は、

と、そう、だって。言った。だって

ね?二時間早いんでしょ?

フエは。

まばたく。

日本の東京は、二時間早いのよ。

笑って、彼女は、

知ってた?

私にその高いところに吊るされた時計を苦労して取らせたが、ね?

知ってるよ。

「どうして、東京時間になんか、あわせたいの?」

ねぇ。つぶやく。嫌いなの?

私に、伺うような(あるいは、)眼差しを(むしろ)くれて(いたわるような?)。

何が?

東京が。そこから、来たんでしょ?

あなたは。私は、

好きです。」振り向いてフエに言った。

私は微笑む。見つめられた微笑はしばらく、

嫌いなの?

ややあって、そして

あなたは

頬にキスをくれて、フエは無防備な不意の戸惑いを曝したままに、とはいえ、私は。

好き?

フエが言った。

「好きです。」

すばやく。

しゅきでっ

日本語で。フエの、わずかに知っている日本語の、いくつかのそのひとつ。

「愛します。」その、ふたつめ。

そうと。つぶやく。口付けに、

あぃしまっ

フエは想いあぐねて、

…Anh à

ただ口籠って。

普通、誰もが、外国語は愛の言葉から覚える。ごくごく最初のうちに。

何故だろう?例え手もとの教科書に載ってはいなかったとしても、どこからか探し出して見つけて仕舞う。なぜだろう?

なぜ、フエは、戸惑いの表情をだけ、晒したのだろう?

たかが時計の時間のために?あるいは私がつぶやいた、たかがひとつの、ありふれた動詞に過ぎないその音声に。

 

 

#38

ココナッツに昇るのを諦めた少年は、為すすべもなく

見つめた。向こう、剥げかけた

白ペンキの鉄門、その

錆びついて仕舞ってからいつでも

開けっ放しの

それにもたれかかって両脇の更地の先の、主幹道路を

越えたところに、静かに

流れる

泥色の河。

ハン川。

その静かに流れてさざ浪だった表面が、自在に

映した、空の

反射光の

いっぱいに散った

白の。

散乱。

 

それら

 明滅。

 

いくつもの。

 

それ。

 

あるいは、それらすべてを。

 

無造作な眼差しのうちに。

 

 

#14

どうぞ。私を。

あなたがそれを望むというなら。

と。

そうだったのだろうか?

意図的に、寝込みを殺したのならあんなにも

部屋が乱れていたわけもないのだった。賢い

フエなら、もっとスマートな殺し方が

出来そうなものだった。まるで

でたらめな

乱闘。その

隠しようのない痕跡。あの

憤怒の表情を曝したままに死んだ

男は同時に、自分への

殺害を承認していたのだろうか?許す。と、決定的に。そして、

承認さえなく意図的に寝込みを襲って

殺さなければならないほどの、殺意の

存在は私には、フエには決して

感じられず、その

日にそれが為されなければならなかった必然性も

感じられ獲は

しなかったのだった。何かの

記念日であったわけでもない、ありふれた

一日に過ぎなかったはずの、その

日に。フエは、

いま、起き上がることも、むしろ

息することそれ自体さえもがけだるいのだとさえ

言いたげに、ただ、

ベッドの上に体を折り曲げて

たたずむ。私を

上目に

見つめたままで。投げ棄てるような、眼差しの

もはや悲しんでいるようにさえ見えた淡い

表情をただ

曝して。

 

 

#27

明けを知る朝。

夜の、さまざまな色彩の

グラデーションに引き裂かれながらも、あくまでも

単一の

ものとして統一されてあることを、飽かず

矜持していた色彩が、朝焼けの色彩、紅?

とは、どうやっても言い切れはしないその、

無残なまでの色彩の、鮮やかな

混濁。

それに叩き潰され、

蹂躙され、

破壊され、

惨めな敗北を曝しもはや

維持できない自分の固有の色彩を名残りとして、

だけ、

そこに。

それは露呈させて仕舞う。無残にも。眼差しに映るのは、朝の

その、夜を引き裂いた、いずれにせよ

二つの時間の共存する無造作な破滅。

 

 

 

 

 


silence for a flower #2

 

 

 

 

 

#3

一瞬にして、降って沸く。

彼を眼差しが捉えたその瞬間に。もはやあからさまな殺意しかない、明確すぎる感情。

私を包んで仕舞った歯軋りするような感情の容赦ない冷たい沸騰、ただ、それに自ら戸惑う。

おびえる。

熱狂する。

少しだけ開いたシャッターの傍らに、明け方侵入していたひとりの小柄な盗賊を背後から殴りつけ、そして後ろから腕に首を締め上げて後ろ手に、にもかかわらず彼、その、まだ十八歳ぐらいに過ぎないだろうベトナム人があくまでも躊躇いがちな抵抗を試みようとしたときに。

このまま殺して仕舞えばいいと、そんな猶予もないリアルな欲望と、それを禁じようとする微妙な葛藤?の、ような。

そんな感情の不意の通過が戸惑わせて仕舞ったその隙を、少年は見逃さなかったのだった。

首を抜いて、ガレージの方に逃げて行った少年は、痩せた少女のように華奢なシルエットを曝して、不意に。

何かを想いなおした彼は、そこに立ち止まった。振り向いて、その、午前5時。

朝の光は、まだシャッターの脇の彼をも差さない。まだフエは寝ている。いずれにしても。

起きている人間は私と少年以外には誰もいない。そして生きている人間は、私と、少年と、眠るフエ以外には。

何とかするしかなく、そしてそれはた易いことに想われた。事実、そうだった。彼を殺して仕舞ってそれでよいと言うのなら。飼い馴らされた猫をつかんで首をひねるようなもの。とはいえ、と、意識の浅い部分でとりとめもなく逡巡し続ける私の眼差しの中になぜか、少年は私を見つめて離しはしない。私を振り向き見たまま立ち尽くして、ただおびえた眼差しだけをためらいがならも曝した。少年を私は見つめていた。

ふたつ目の居間兼ガレージのただっ広い空間、暗い。収納された三台のバイクの向こう、シャッターのこちら側。少年の荒くふるえる息遣い。まだ、夜は明けきらない。

すぐそばの、彼が縋るように左手につかんだ半開きのシャッターの、その内側からかけられていた南京錠を鋸で切って入ったに違いなかった。

私を目醒めさせたのは、直接的には南京錠が床に撥ねて立てた、あざやかなまでに破壊的なちいさな音響のせい、そして、目醒めてみれば私は記憶していたのだった。その、差し込まれた鋸の、静かで執拗で恥じらいを秘めたノイズが鳴り続けていた隠しようもない事実を。

まるで遠い、忘れなければならない記憶のような、そんなぎこちない鮮明さをもったその記憶の音響。起きぬけの耳元に、鳴り続けていた鮮明な。想い出そうとしたわけではないそれの、もはや記憶とは言獲ずに響き続けた生き生きとした鮮度。それがなぜか懐かしい。

部屋を出た私が見つけた少年は、その時、バイクのメーターを首を突っ込むようにして確認していた。なぜそんなものが気になったのかは私にはわからない。尻を突き出して突っ立って、逆立ち、毛羽立った彼の短髪が眼差しにふれた。

後頭部を殴りつけた瞬間に少年は息を詰まらせたのだった。同時に鼻水を撒き散らして。少年は驚いたに違いない。不意に素っ裸の男に後ろから殴りつけられたのだから。冗談にもならない。

少年は脆弱だった。私のなすがままに殴りつけられ、蹴り上げられ、とっくに戦意など喪失した、にもかかわらず哀れみを乞いもしないそのうつろな眼差しで、何をも見留め獲ないままに、少年は体をふらつかせているしかなかった。そうだった。確かに。まるで立ったまま、彼はいつのまにか失心していたかのように見えた。にもかかわらず、決してひざだけは床につこうとはしない少年の、それは矜持だったのか。

間違っても美しいところなど存在しない穢らしい顔立ちを、あるいは貧富の問題ではなくて、生まれる前から貧弱で貧しく、朽ちかけていざるを獲なかったような、そんな、惨めで無残で無様なだけの彼の存在そのものを、やせて小さな少女じみたからだ全体で為すすべもなく曝すしかなかったその生きる資格もない少年の。

残された最後の矜持?少年はまさに穢れた劣等民としか想えない。その差別的な言葉にもっとも深刻で、穢らしい差別を加えてさらに腐らせて侮辱したような、そんな意味での、存在論的に穢れた唾棄すべき不可触の劣等民。あわれみ?

 

 

#39

耳を澄ました。

聴こえるもの。私のからだの上の、フエの

彼女が立てた音。

こまやかな。

私のからだのたてた、あるいは

擦れ合う

ココナッツの葉の。

ゆれて、ふれる、その。

ミーの眼差しが捉えているに違いない、ざわめき。

音響

もはや、明確な形態をは

なさない、通り過ぎる無数の

バイクの

音響

それら。

ただ、ただの、ただ、音響。

 

 

#15

寝室から出て、あの少年を閉じ込めた

浴室に戻る。

彼に会いたかったわけではない。そこしか、足を

向ける場所が

なかったのだった。とりあえずは。ドアを

開けた瞬間に、飛び散ったのはその

まま出し

っぱ

なしのシャワーの水

流。噴

き乱れる騒音のわななき。水の。

る、音。水滴。

噴出し、飛び散り、飛散。

飛沫。通

風孔から差し降ろされた早朝の、朝

焼けの色

彩を失ったた

だた

だ透

明な光がか

すかに、流れ出す表面をだけふれて、それは

きらめき果て崩れた。

こまかく。

水流。不断の自己破壊。光。乱

れ、散った、そ

れ。それ

ら、もはや

止め処もなく。

その

乱。おびただしい、そ

の。私

は濡れた。

少年はいじけたように、あるいは、そこ

以外には居場所など在り獲もしないとでも言いたげに、ひざを抱えて壁際に座り込んでいた。体中びしょ濡れになって。いまだに止まらない自分の流した血に穢れながら。私を振り返って、息を殺しながら見上げた眼差しにおびえた家畜の眼差しがあった。最低限の誇りさ

え、も

とか

ら、これっぽ

っちも存在などしないかのように。

棄すべ

き、と。軽

蔑に軽蔑を重ねた上で、そして唾棄すべき、侮辱以外になにも戴冠されるべきではない純粋に穢れた存在。人間の、あるいは存在それ自体のクズ。恥辱。そんな風に、私は想うしかなかった。容赦もなく。私は水を止めた。薄

穢れている、とは言獲ない、む

しろ意外なほどにこざっぱりしたTシャツとシ

ョー

トパン

ツ、濡

れて、色彩を濃く混

濁させて仕舞っているところの、少年が纏ったそ

れ。その清潔さは、この穢い少年の、あるいは矜持のようなものだったのだろうか?決して床にひざをはついたりはしないことと、それと等しく、彼のなにかを支える、その。

矜持。

単にそ

れが、不当な盗難の果てに入手されたものに過ぎなかったとしても。

頭部の血はまだ止まる気配さえない。水びたしだったのだから、傷が閉じる暇さえなかったに違いない。そ

れでも必死に生き残ろ

うとし

ているのか、そ

れともむしろ、こ

のまま死んで仕舞いたいさえと想ってい

るのか、そ

れさえ私にはわか

ない。少

年の眼差しは私をだ

け見つめた。そ

れともその瞬間、彼の頭の中には、私に想いめぐらされたそ、んな問題系など存在しなかっただけなのかもしれない。選択されたのはただ、そこにいること。そのまま、ひざを抱えて。

彼の服を引っ付かんで脱がせるのにさえ、少年は、抵抗などしなかった。剝き出される少女のような華奢な身体。無様なひ弱さ。違和感がある。盗難に盗難を、あるいは人殺しまでして?いずれにしても犯罪に犯罪をかさねて生きてきたはずの、いわば野性の、そして、牙を抜かれた家畜。う

すらべったい、何の凹

凸も

ない身体。

弱な、そして、息

く筋肉さ

えも感

じられはし

ない。放し

飼いの牛の、お

びえた眼差しを思い出す。もう、いじめないでください。と、むしろその傲慢でさえある巨体に面食らって仕舞っている私の眼差しの前にでさえも、ベトナムの田舎の牛はあくまで被害者の眼差しをくれる。草を食むことだけは中断しないままに、向こうに広がっていたのは、山岳の緑。

鋼鉄製の機械仕掛けで出来ているかのような、見事な無骨な巨体を日差しにのうのうと晒しながら。

例えば山際の牧草地くずれの尽きかけた市街地の、その日差しの中に。廃墟のような、点在する家屋。日に灼けた人々。

草を食む。基本的に平らな土地のわずかな隆起。

昼間から、どこかで誰かが酒を飲み、どんなに気取って端整に化粧した女もテーブルの下には容赦なく蟹股を広げてみせる。それでここでは女が何人であるかがわかる。すくなくとも外国人にとっては。同じ国の人間にとってそれは美しい足、あるいはやや太りすぎの足の存在であって無様なふしだらさをは意味されないに違いない。

荒れた市街地。もとからすでに崩壊していたようにさえ見える。

単純に、そこから人間を排除して仕舞えば、見事に絵に描いたような廃墟になって仕舞う町。ベトナム。

大金を積んで渡った日本で、後進国から来た飢えた出稼ぎの愚かな無法者として見出され、見つめられ、侮辱される彼ら。考えてみれば、彼らがベトナム以外で生きていけるはずもない。無理やり、生存領域を、あの貨幣経済の必然が、いつか拡大し、彼らをそうであるべきではないところにまで連れ出して仕舞った。

そんな気がする。他者との共存に、彼らはまだ馴れてはいない。

あるいは、それは、経済市場における滑稽な茶番なのか。日本国による新たな、かつてよりエレガントな殖民地主義と奴隷売買なのか。ベトナム人自身が捲き起こした馬鹿げた失策なのか、不可避だった悲劇なのか?

対向車線に乗り出して、平気で追い越しを駆けるトラック。二車線道路の真ん中を車が走る。バイクの群れ。まるで、映画の中にいるようだ。まるで。

好き勝手にバイクを駆ることが出来る。映画の中の追い詰められたヒーローのように。時には違法になる。機嫌の悪い警官の目に留まって仕舞ったならば。金をつかませるか、日本語で、つまりは意味不明な外国語でまくし立てさえすればいい。好きにしろよ。舌打ちをくれながら、私は放擲される。まるでならず者のように。あるいは、事実、ならず者に過ぎない。彼らの大半と同じように、交通ルールなど一切、もとから守ろうともしてはいないのだから。

人々は言う。ベトナムは美しいと、ベトナム人たちは。口をそろえて。

歩道に無造作に投げ出されたレンガの瓦礫。積み上げられた粗大ごみのような陳列をみせる家電店舗。雑貨屋の主は上半身裸で店の軒先で煙草をすい、飲食店の床は食い棄てられた豚肉の骨と口拭き紙で散乱し、猫か犬が駆け回る。鉄筋がなぜか公園にうずたかく積まれてそのまま雨に打たれ、町の歩道とはそのままゴミ箱にほかならない。荒れた風景。結局のところ、私はだからこそ、ここにいるには違いない。でたらめな廃墟。単なる異国の地。

とはいえ、そこは決して地の果てではなかった。所詮は。

そこにも、結局は人間たちが、彼らの固有の生存環境を確保して、彼ら固有の矜持に倦み、彼ら固有の声の群れ、言語、その音響の連なりで満たしているのだから。

 

 

#28

それは、無慈悲なまでに残酷な色彩だった。目の前に

ただ

拡がった、その。

朝焼け。

夜の、見事に統一された色彩の無慈悲なまでの

崩壊。朝焼け。私が

好きだったそれは、もはや

眼差しの中の地上のどこにもなく、もっと西へ。もっと。

ただ西へ

移動しさえすれば、それは、そして

移動しなければならない。その

色彩を、いま見出すためには。もっと

西に。朝の

鮮度を追い求めて?

永遠に、西へと移動し続けさえすれば

私たちはその鮮度にふれ続けざるを獲ないことになる。

笑いだすだろうか?

フエは。

私がこんなことを言ったならば?

 

 

#4

哀れみ。

そんなものなど必要ない、と、私は、その、シャッターの前に立ち尽くして泣きそうな眼差しをくれている少年をふたたび殴った。もう一度。なんどでも容赦もなく、さらにもう一度、なんどでも破壊してやりたくなたく、なって、なり、もはや、仕方がない。もっと。と。想った。もっと。完璧な、と。私は、理不尽なほどに完成された破壊を。

もっとも、人体に加えられ獲るそれなどたかが知れていた。ただ血まみれにして殺して仕舞う以外に、ほかの展開のしようなどないのだった。訪れるのは、単なるひ弱な人体の死。それ以上に破壊などできようもない。

 

 

#40

少年は、なぜ、そんなものを見てるのだろう?

日差しの中で、私たちに背を

向けた彼が、愛し合う(しかないように、

結局は)私たちから目を

そらしたわけでもなくて(お互いに

飢えているわけでもない、自堕落な?)その

眼差しが捉えていたものはどっちなのだろう?(結局は、

かさねられるもの。事実して)通り過ぎる

主幹道路のバイクの

横向きの

残像か。(愛し合っているから、

私たちは、)ハン川の光の

点在か。(愛し合う。)光。

空の

光を反射させた、泥色の

河のさざ浪を打つ、光の

点在。

 

なぜ?

 

なぜ、そんなものを

 

 

#16

もっと、強烈な光が差せばいい。

血まみれの少年は死んで仕舞うだろうか?

それでもかまわなかった。

深夜、庭のどこか、ココナッツの木の下でも深く掘って、

埋めて仕舞えば誰にも発見などされないに違いない。

あとはただ、

大いなる自然のなすがままに。

昆虫と小動物と細菌たちが、すべてを

綺麗に

跡形もなく処理してくれる。

大通りに面してはいながらその広大さと

茂った樹木のせいで、この敷地の内部は

決して人の目には

ふれない奥地に

過ぎなかった。主幹道路沿いの

奥地。だれにとっても、私たちの

ことなど知ったことではないのかも知れない。美しい

国。人々が言う。美しい国、と。ベトナム

人たちは。にもかかわらず、という

逆説をは決して用いずに。あるいは、日本。あの

殺戮と破壊を繰り返す、血も涙も

容赦も

ない

稀に

見る

暴力的な

然を、美

しく豊

かな母な

然と留

保なく断言している日本人たち、私、たち。彼

も、結局は同じ

事をしているの

もし

れな

い。彼

らと。愚

かなベトナム人たちと、まったく同じ倒錯を。私

たちにとって、母なる自然の母とは鬼子母神の

凄惨さ以外のなにものでもない。ただ

単に生み棄てられて滅ぼされる子どもたち。素っ裸に

剥いた少年を足で転がして、そのとき

床を穢した血。シャワーをひねって

もう一度

洗い流してやった。羞恥を

知った少年は身を

縮めて丸まり溺れそうな

息遣いを立てた。その

唇が床を舐める。流れ

出し続ける水流のせいで、床が

いつまで経ってもきれいになりはしない当然の

必然性に、不意に、気付いた

私は想わず

微笑んだ。おかしくて

仕方ない気がした。少年が、ではなくて、自分の

無意味な行為が。水を

止め、吊るされたままの、フエの

弟が使っていたバスタオルを私は

少年に投げつけた。足で

蹴飛ばして、シャワールームの

外に連れ出す私に

少年は抵抗しない。女のように体中を両手で

隠し、ときに

後ろ向きに洗濯籠や、ベッドや、放り出されたままの

衣類の山に躓き、あるいは

足を取られながら上目の

おびえた眼差しをくれた。ちいさく、ただ

だ丸くまるまって。真っ白い

タオルを血が汚す。すぐに、血は

止まって仕舞うに違いない。

そのまま、皮膚さえ渇いて仕舞えば。

 

 

#29

私が、それを言ったならば。笑う?

 

あるいは。

「行かない?」

フエの

Đi

髪の毛が乱れた。

「どこへ?」

彼女が

Hãy đi

やがて、もがくように乱暴な動きを曝して。

「西へ。」どこでもいい。

どこでも

đi tây

そのたびに乱れる。

どこでもいいから、

からだの上にのった、その

「西へ?」

Go west

フエは、その褐色の皮膚を、もがくようにもはや朝ではない光に曝す。

西へ。」

 

その、一部、ふれあった腹部の周辺をだけ。

「なんで?」

 

息遣い。聴いた。フエの。

「朝が、見たいから。」いつものように。朝を求めて。朝を

終らせないために。その

かすかに開かれたフエの唇は、

鮮やかな崩壊を終らせないためだけに。西へと。ただ

なにもつぶやきはしないままに。閉じられさえしなかった

西へと移動し続けたら?

眼差しは突然見下げられて、捉える。

彼女は

その、鮮明な崩壊と、壊滅を

私を。

求め続けて。フエは

声を立てて笑った。

愛。

ミーが、ココナッツの木によじ登ろうとして、そして、ほんの

2メートル足らずで失敗して仕舞ったときに。

想い出したように。

フエが、声を立てて笑っていた。

 

 

#5

ようやく人一人入れるだけに開かれたシャッターは、まだ、夜のままの外の昏い明るさをしか差し込ませない。そしてほんの数分の後には、急激に、訪れるのは夜の破滅、その日の朝の到来、それ、太陽の、破壊的な光の色彩が染めた鮮やかな、夕暮れのような朝焼け。それが、やがて空を染めあげて仕舞うのを私は知っている。

私は。私だって、いずれにしても。

知っていた。もう少しの時間の先に、確実に、やがては訪れなければならない夜の破綻。そして、にもかかわらず、終にもたらされた朝のあの留保もない鮮度など、ものの三十分もすればどうしようもなく穢く古びて、色褪せた、見苦しさにただ染まって仕舞うしかないことをも。いつものように。

 

 

#41

どうして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見るの?

なぜ?

(そんな)

と。

(どうしようもないものを)

少年にそう言ったら、少年は答えられるだろうか?

あるいは、微笑みながら?

男か女かも、はっきりとは区別できない惨めな

華奢さを曝す

少年。眼差しの先には、たぶん、ただ、泥水の

河の

白く浪立った

それら

ひかりの点在。

 

 

#17

片手に着替えをぶら下げて、何も

気にせずにふらふらと

素肌を曝したフエが

寝室から出てきて、彼女は

目を

留めた。

立ち止まりもせずに、床に

転がされていた素っ裸の貧弱な少年に。私に

微笑みかけ、そして、シャワールームに

消えていく。どうでも

いいことよ。と。眼差しが

つぶやく。どうでもいいから、ね?あなたの

好きにしなさいよ。事実、そうするほかない。少年が、なぜ、逃げて行かないのか、私には理解できなかったが、私に頭を抱えるほどの切迫感もない。逃げていかない。たぶん、このままここに住み続けるつもりなのかも知れない。どこかに盗みを働きに行ったりしながら?

わからない。

ここにいれば、彼は家猫同然の半野生の家畜でいられるわけで、それに何らかの趣味性でない限り、危険を冒す必然性などないのかもしれなかった。

家猫が、終には自分の血まみれの趣味としてしか鼠を狩らなくなるように。

フエの父親のものだったクローゼットを空けて、いくつか衣類を出してやり、少年に放り投げてやった。

バスルームから出てきたフエは、殆ど鼻歌でも歌いそうになりながら、濡れた髪の毛を拭き取って、ねぇ、

Đói chưa

と。

おなかは空きましたか?

Anh...

ソファーに座って、私はパソコンで、意味もなくインターネットを開いていた。グーグルの、そして、なにも検索するべき言葉が見つからない以上、そのままに放置されているしかないその画面。

 

 

#30

見て。と。

私を見下ろすフエの眼差しがそう言う。あの子、

あの、

ね?

それは、華奢な少年。

何やってるの?ねぇ。

ね?と。眼差し、

あの子ったら

フエの、それが。

ね?

言った。

少女と言っても、おかしくはない

笑っちゃう。

殆ど筋肉を感じさせないか細い少年。ミー。

なに、するつもり?

明け方の侵入者。

ばかなの?あいつ

私に傷つけられた、家畜のような盗賊。

笑っちゃう。

フエの笑い声を聴き取った

ねぇ、

ミーが

振り向いて、庭先の光の中でなにかジェスチャーをしたのには

気付いた。私は

彼の事など何も見もしないままに。その

気配。あるいは傍らに微笑んだフエの気配で。匂いたった

髪の毛が乱れ、おおいかぶさって、掻き

散った。空間、または

フエの顔、そして、首、あるいは胸元に。音さえも

立てずに、その、空気の

ふるえだけを残して。

 

 

#6

少年が、今にも泣き出しそうに眼差しの正面に、横顔のまま私を見つめ、その、ひんまげられて、ねじられたような、伏せられもしない眼差し。

伺い、おそれ、おびえ、許しを乞い、訪れる恐怖のときの遅延をだけ、祈るその。

私は殴った。ふたたび。なんどめかに、ふたたび。数度目に、ふたたび。幾度目にも繰り返して、ふたたび。ためらいもなく。

そのまま、シャッターに叩き付けた。

自分の拳ごと。

 

拳の痛みに激怒する。

 

 

#42

私の眼差しの中に、薄く汗ばむフエの、そして

私の

注意を惹こうとしたわけでもなく、雪崩れる

ように

私のうえに

倒れこんだフエが、髪の毛を

覆い被せた。私に。匂う。

その

いつもと同じ、渇きながら湿気た臭気のような

もの。髪の毛の

どこかで生物的で、あるいは明らかに

無機的な、その。くすぐったくて、私が身を

かすかに

捩ったのにフエは気付かなかった振りをした。

 

 

#18

少年は胡坐をか

いて、シャ

ターの向

こう、日

差しのほ

うを見

るでもな

く見てい

た。私のひ

ざの上に座ると、拭き

乱されるフエの

髪の

毛は水滴を

散らす。ね?

Ngọc ゴックさん知っていますか?

だれ?

Gần nhà

近くのあなたも一度お酒を飲んだことあるわよ

Anh uống bia vơi Ngọc

と。横向きの眼差し。濡れた体温。濡れた匂い。かすかに、皮膚が腐って甘ったるく醗酵したようなそれ。

日本人、というだけで、現地に住みついている私のような希少人種を珍しがった現地の人間たちが私を、かわるがわるに酒に誘った。だから、無数の《現地人》たちの、だれがだれなのか私はいつまで経っても、結局は覚えられないままなのだった。

死んだでしょう?

死んだの?

ひどい。

フエが笑う。

...Xấu

声を立てて、やがて正面に振り向き見て、そして覗き込んで、私の額にキスをくれれば、一緒にお葬式に行ったでしょう?

ねぇ……ね?

...vơi em.

わたしと。

with me.

思い出す。忘れていたとは言獲ない。一週間ほど前、確かに葬儀に行った。裏道の、小さないかにも雑然とした牛小屋のような家屋の、雑然として派手派手しいだけの葬儀だった。フエの親戚かだれかの葬式なのだとばかり想っていた。結局は小さな町なのだから、集った十数人は、誰も彼もがどこかで見たことのある顔だった。花々。

純白、とは言獲ない、白を曝したそれら、追悼の花々。

それらは群れて、死んだ70代の男を覆い尽くしていた。

老いさらばえたしわくちゃの日に灼けた女が床に座りこんで、投げ出した足を交互にじたばたさせていた。だれかと目が合うたびに。死と喪失に対する強烈な非議そのものとして。

フエの父の葬儀と、場所以外には殆ど代わり映えのしない葬儀。鳴らされる太鼓と銅鑼。民族楽器の弦が響かせる、いかにも東アジア風に間延びした音楽が、古びたi -pod から垂れ流させれた。近所迷惑をも顧みない最大ボリュームで。ベトナムの葬儀に、静寂と沈黙とつつしみが入り込む余地などない。

 

 

#31

ミーが、止血のために頭に捲いていたバスタオルは、いつか

はずれてすでに

地面に堕ちていた。ひっくり返せば

水滴が

土をこびりつかせて仕舞っているに違いない。血の

赤い色彩を、いまや

黒ずませて曝した、その

基本的には真っ白だったそれ

その、バスタオルは。

 

 

#7

自分でも、想わず鼻白んで仕舞うような、そんな、なぶるような容赦のない暴力。まさに、残酷で、衝動的で、私の喉の奥が発狂した温度を実在させた。

強烈で、際限もなくさえ想わされた喉の発熱は、とげとげしく、ぎざぎざと、抱え込んでぐらぐらと煮込んだように、暴力。

目の前で、私に殴られて、戦意さえとっくに喪失しているにもかかわらず、それでも加えられ続けた拳。

腕。

足。

ひざ。

すね。

身をまげて、体を小さくして、そのかろうじて取った防御の姿勢らしき、おびえた身体の虚弱な湾曲を、いどむがばかりにつかみかかった私の手が壁に投げつけ、少年は叩き付けられた。罅割れるに似た騒音が立った。

少年の跳ね上げた足がテーブルにあたって、そのざわついた硬いだけの音。やや鈍く。

テーブルのうえの Wifi が倒れた音が、平べったく鳴った。

爪が掴みようもない壁を掻く。そして少年の伸ばされた腕が縋るようにふたたびふれたシャッターは、バラバラの薄っぺらい騒音を響かせるしかない。

いつか、少年は鼻血を、鼻水をも含めて、その唇にまで垂れ流していた。ただ、痛ましく、そして悲しくてしかたがないのだと、そう何度も自分につぶやきかけているような眼差しを上目遣いに、やがては、その眼差しは、私を見上げさえしなくなるのだった。

貧しい少年であるに違いない。ベトナム。根拠もない愛国者たちの群れ。みんなが言う。ベトナムは美しい。そう。もう飽きた。

食べ物もおいしいし、景色もきれいだし、人は親切で、優しく、そして美しく、豊かだし、と、そして終にはいたたまれなくなって、「そうですね。」不意に同意をくれた私が、彼らへの気遣いの果てに、いま、日本ではベトナム料理がヘルシーだと言われて、とても人気があるんです。

その私の言葉を聴いた瞬間に彼らの一様に曝す、まるでサイゴンで雪を見て来たたと言ったのを聴いたかのような、そんな、嘲笑うような驚嘆の表情。残念ながら、あなたはまだベトナムを何も知らない。健康的だなんて、そんな。あんなもの。笑うしかない、混乱した愛国心。

自分自身にまで嘘を突き通して仕舞うこともなく、不意に、むしろ唐突な客観性を無防備に曝して仕舞う。彼らにとっては遠い日本で、中国人の次に不評に塗れた、単純に、世界の中での田舎者に他ならない人たち。

たぶん、彼らをそのまま容認して仕舞えるのは、自分勝手な亡命者気取りの海外移住者にすぎない。たとえば私のような。そんな気がした。もっとも、日本人もそんなに代わり映えのするものではない。

いずれにしても、私にこの国へのわずかでもの愛着などあるとは想えない。日本に対しても。確実に、どこでも良かったに過ぎない。日本以外であれば。

日本人たち。あの、高速で発話される、連なりあい途切れ眼のない日本語の音声を、無際限にかさならせる退屈を極めた未来のないささやき声の帝国。

世界でも類を見ないほどに難解な言語に閉ざされた、それら、無防備なささやきの群れ。剝き出しの暴力が、私の身の回りにだけ散乱している気がして、空中に舞い散ってさえいる気がして、終にはいたたまれなくなって目の前に、これ以上は不可能だというほどに、小さく丸まって内股に立った少年がそれでも床にひざをつかずにうつむいて、垂らす。

血の混じった、よだれ、の、ような、その、唾液らしき赤と白と濁った透明の粘液の線。

なぜだろう?もはや室内の空気それ自体に倦んで仕舞った私が、一気にシャッターを引き開けると、その、背骨を手づかみに爪で掻いたような騒音、弱音で、そして見上げられたのは朝焼けの色彩。

ちょうど、眼差しの向こうの凄惨な色彩を曝す東の空に、日本。そこのあるほう。

朱、オレンジ、黄色、むらさき、それら。破滅の色彩。

あの、ここより二時間早い場所。

 

 

#43

人々は目に留めなかったのだろうか?

ミーが食事を求めに行ったときに。

頭を切って、ようやく

かろうじて塞がりかけた頭部の

流血痕を無造作にバスタオルで

くるんだままの、あきらかに

自分の体には

大きすぎるTシャツとショート・パンツを身に

まとったその、自分たちが見慣れない、この

貧弱な少年を。

ミー。あるいは、彼自身が

言ったのかもしれない。

なんでもないよ。

若干、ね。

じゃっかん、だけ、トラブっただけだから。

あるいは。

やー

微笑みさえして。

まじで。

 

やばいよ。

 

 

#19

追悼の花。

葬儀、無数にかざられた花々の色彩。

白、としか、終には言いようがないのだが、黄色からむらさき、赤、青、それらから発する微細なグラデーションを曝しても、結局は白、と、ただそれだけのシンプルな言葉に集約されざるを獲ず、純白の、と、そう言おうとした瞬間に、その瞬間から純白と言う、その言葉が曝したあざやかな虚偽の否定しようもないあからさまさに気付いて仕舞う、そして最終的に、つぶやかれたのはただ、純白、と、すでに偽り以外のなにものでも在り獲なかった言葉にすぎない。

そんな純白の花々にかざられて、埋め尽くされた、そのゴック、と、フエが私に彼の名前を教えた80歳近い老人の葬儀。

この子が

Có lẽ...

きっと、

con này giết

殺したのよ。

ông Ngọc.

彼を。

 

 

#32

ミーという、その、朝のまだ

明けないうちに紛れ込んだひ弱な盗賊は、結局は

飼いならされた子犬のように、もはやそこには

明らかに自分の居場所があることを、無言のうちにも

容赦なく

明かし立てていた。立ち尽くした

その木漏れ日の中に。

否定し獲ない留保なき認識。確信。もはや当たり前の。降って湧いたような、その

彼に

勝手に認識されて仕舞っていた常識の存在を、少年は

無造作に曝していた。

彼は木漏れ日に憩う。

 

 

 

 

 


silence for a flower #3

 

 

 

 

 

#8

朝は焼けた。それら、色彩がお互いに染まりきらないグラデーションを曝した、夜の物静かな、完全で、調和されきった単彩がいつか自己破壊を起こして仕舞ったそれ。

統べられた美しい何かを、不意に内側から突破させたあざやかすぎる現状を刻んだそれ、朝焼け。その不可避の色彩。くだらない。

唾棄すべき、容赦もなく叩き潰してその存在そのものを愚弄しなければならないほどの、そんなただ野放しの暴力だけに駆られる、自分自身のくだらなさ。私はもはや、笑うしかなかった。いまだに激怒とその情熱に顔の筋肉のすべてをわななかさせさえしながらも。

少年が突き出して無様に向けた尻を蹴り飛ばしたら、よろめいた少年は壁に頭をぶつけて、ぐ、と、お、と、で、と、その混ざり合ったノイズを喉に立てた。聴いた。

耳の近くに響いた、変声期前のような、その少女じみた彼の声を。

 

 

#44

美しいといえば、美しい少年。

こんな

亜熱帯の町で、どうすればそうなるのかもわからないほどに

真っ

白い肌を、無造作に陽に曝していた。

Mỹ、漢字で書けば、短く、するどく、《美》、

び、

と。

ミー。

盗賊をして生き残ってきた、その。短く

切りそろえられた髪の毛の下に、大きすぎる目が

見開かれ、卵を真正面から垂直に

ぶった切って、そこにあざやかな顔の

凹凸を無造作にたたきつけたような、はっきりとした、堀の

深くどこかで平坦な顔。例えば、モディリアーニの造型した

人の顔の形態のような。

あれが、世界で最も

美しい、と。

悲しく、詩的で、ただただ静寂をだけ湛えてむしろ

神秘的でさえあって、すべての

情熱の尽きた先の果ての終わりにひとりで

静かに目覚めた

そんな、比類もない造型の一つだと言うのなら、少年の

顔だって、そうだと

言わなければならない。その

少女じみた生得的な線の

細さ。

もっとも、それは

彼が今後、成長の中で急激に失って仕舞うものなのかもしれない。

いずれにしても、

だいじょうぶ

ただ、何も

まじで

ぜんぶ

ないですよ。なにも。問題なんか、

オッケー

まじ

なんにも。

まじ

オッケー

No problem

ふつうに

全然

声。

問題ないから

関係ないし

Không sao

じゃない?

全然

頼まれてもいないのに

ぜんぜん

ふつうに

だいじょうぶ。

ぜんっぜん

オッケー

そうつぶやき続けるその声。

 

だいじょうぶだよ

 

心配、ないよ

 

それら

 

 

ひそひそ声の、連なりあった挙句の

 

最強音

 

 

ような、そんな

 

顔。

 

 

#20

刺し殺したのよ。

たぶんね。

うしろから?

かな?

ぶすっ

あの子。

あの子が、ね。

ぶすっ

ね?

じゃない?

でしょ?

...ngày trơi mưa

フエは、嘆息交じりにそう言った。かるく耳に

He killed

ふれただけで、後は

Mr. Ngọc

転げ堕ちて消え去っていくしかないと、それをむしろ

in once rainy

悔しみもしなかったそれらの音声を、私はただ

morning

聴くしかない。フエがときに、想いだしたように振り払って撒き散らす髪の毛の水滴に、強制的に濡らされて仕舞いながら。

たぶん、たぶんね。

めい、びい

どうして?と、

Tai sao ?

私が言う前に、フエが微笑みながら言ったのは、ゴックの死体は、その日の夕方に発見されたのだ、と。刺し殺されたゴックを、近所の学校から帰ってきた彼の曾孫と、その父親が見つけたのだった。いつかの雨の日。私は覚えてはいない。そんな日の朝の雨のことなど。

ベトナムでは、中学校くらいまで、学校への送り迎えを両親か誰かがバイクでする。甘やかされ放題で、無根拠なまでに自分が愛されてしかるべきものだと確信しているベトナムの子供たち。

どこかでそれからの挫折にあうことなど、たぶん、外国に留学でもしない限りは殆どなく、そのままその鈍い確信とともに生きていく。自分の息子をバイクでつれて帰ったゴックの孫は、居間にそのまま血まみれで倒れている祖父を発見した。

部屋中は派手に荒らされていて、Bún bồ ブン・ボーという牛肉入りの麵を毎朝、家の前で売っていた、そのつり銭をふくむ売上金が持ち去られていた。

朝になれば軒先に運び出される、アルミを組んだ単なる露店の調理台に過ぎないその引き出しの中に、無造作に束ねられていたそれ。

ほかに、いくつかの貴金属と、そして、なぜか、衣類。慎重に選ばれた形跡があった。

この町の周辺の狭い区間で、窃盗は最近多発していたらしかった。犯罪集団による犯行だという噂があった。人が殺されたのは、初めてだった。周辺で多発していた以上、この、古いには違いなくとも周辺で一番広い敷地の家屋に、いつか入ってこないわけもなかった。

フエにはおびえた気配もなく、そして、その少年に、僅かばかりでも認知を与えるそぶりもない。そこにいるのかいないのか、そんなことには気にも留まらない、ようするにどうでもいい存在としてだけ、フエの眼差しは彼を捉えていた。

いつもは集団で深夜に忍び込んで、そしてバイクや家電製品を丸ごと奪ってにかっさらって行くらしかった。実際、十二時を回って仕舞えば、このあたりに人影などなかった。鍵が閉められるにしても、粗いシャッターを内側から南京錠で止めるくらいが関の山なので、たしかに、その気になれば誰でも盗みくらいわけもない。

少年が起こした数少ない単独犯罪の一つが、ゴックの殺害事件と、この日の朝の侵入だったのかもしれない。どうして、単独の犯行など企てたのだろう?腹でも減っていたのだろうか?

…Đói bụng quá

いずれにしても、少年は、その名を名乗りもせずに、いまや、開け放たれたシャッターにもたれかかって裏庭の木立を見ていた。そうするのが当然のように。むしろ、あるいは、毎日、いつもそうしているのだから今日も当然そうしているだけだったようにさえ見えて、少年のたたずまいは中途半端ないかなる違和感をも許さない。

だれも世話をしなくってから裏庭は草が伸び放題になっていた。猫がどこかに二匹住んでいるはずだった。

その少年に、草でも刈らせればいいのだった。勝手に茂る、バナナの群れのせめてもの世話でも。そんな指示をくれてやるのも億劫で、私はポケットから何枚か紙幣を出し、テーブルをこぶしの先で叩いて鳴らすと、悪びれもせずに少年は振り向く。

ん?

少年は微笑んだ。

なに?ねぇ。

え?

何か用なん、

ですか?そんな眼差しで。用などない。テーブルの上に置かれた紙幣を見ると、それでも犬の《待て》の眼差しをくれた。ご主人様。

まだですか?

私が指先ではじいて、それを床に散らしたとき、少年はありもしないしっぽをふって、飛び掛るようにひざまづき、それを拾った。フエは興味さえ示さない。私にただ、好きにしろ、と。

少年は紙幣を数えて、大した金額ではない。一万ドン数枚と、五万ドンと、千ドンだの、二千ドンだのの、半端な、しわだらけの紙幣。あわせて、十万ドンもない。日本円の、500円くらい。それども、ここでは3回か5回くらいは、食事にありつけた。

金額に不満を浮かべることもない。むしろ、本当にいいの?と、にやついた上目遣いを曝したが、喰えよ。なんか。

...Àn đi

私の、彼にとっては聴き取りにくいに違いないベトナム語に、

...Anh đi

顔をしかめながらなんども、同時に、

...Ân lỳ

外国人がベトナム語を話したことへの唐突な喜びを浮かべた。何度か繰り返すと、

...ạn đi

少年はなんとなく了解し、フエは自分の鼻の先だけにふれるような笑い声を立てた。なにがおかしいわけでもなく。

少年は、文字通り満面の笑みをくれたが、すぐさま、一瞬の戸惑いに、その活気だった眼差しを昏らませる。何も言わない。私たちの分も買って来いと言われたのかどうなのか、その真意を測りかねたに違いない。

私は首を振った。行け、と、私は手を降った。少年は、声を立てて笑った。ありがとう。当然のように、何の屈託もなく。

立ちあがりかけた少年に、私は言った。

名前は?

Tên gì ?

振り向いて、少年の言った、…Mỹミー、という、その、普通は女性名に使われることが多い言葉に、違和感があった。とは言え、女性目と男性名の明確な区別などほとんどない国だった。そんなものなのかもしれない。その言葉、つまりは美、の、単にレアな、ひょっとしたら若干の倒錯美をほのめかした気の効いた用法だったのかもしれない。例えば真澄くんや渚くん、のような。

少年は、勝手に私のサンダルを履いて、シャッターの隙間から出て行った。私は無意味にフエの頭を撫ぜてやった。

私たちにはまだ、空腹は訪れない。

 

 

#33

朝と呼ばれるべき必然を失いかけた日差しは、それでもまだ

ミーに、斜めの朝の角度を持って

差す。背後から。

そこは、正面西向きの家屋だから。

走り出せ。

そのまま、走って行って仕舞え、と

想った。私は。その

眼差しの方に。走り続ければ

たとえ周回後れではあっても朝の

私に殴りつけられ、蹴り上げられてその

挙句には容赦もなく

なぶりものにさえされたその

朝。その

あの、時間に回帰することができる。

 

 

#9

そんな必要などなかった。少年を流血させる必然も、壊れる寸前にまで追い込むことも。とはいえ、私は現実としてそうしたのだから、その必要があったには違いない。すくなくともその時の私の衝動にとっては。

まるで大切な腕を守らなければならないように、馬鹿正直に頭から壁にぶつかった少年は、体に腕を仕舞いこんだまま、相変わらず肉の付いていない尻だけを突き出して、そうするほかないのだとでも言うように、頭を打ち付けたばかりの壁に擦り付けていた。肉の付いていない尻を上下にゆらめかせながら。額で、必死になって壁にすがり付いている気なのかも知れなかった。その少年の皮膚感覚が、留保もなくなまなましい認識として私の肌にじかに触れた。その、感覚?あるいは言葉もない想い、のようなもの、気配?

細胞の息遣い。破壊された細胞の群れの。

息吹き。

その、実在が。この少年も、言うのだろうか?ベトナムについて、私が問うたならば。美しくて、すばらしい国だと。

Tシャツの首をつかんで少年を引き剥がしたときに、少年の額が割れて、血が流れていたことに気付いた。

壁の、薄く剥げ罹った緑白色のペンキを血が穢して、そのざらついた粗い表面が黒ずむ。透明感を持った、澱んだ赤い色彩に縁取られて。死にはしない。この程度では。ほうっておけば、皮と皮はくっついて仕舞うに違いない。

少年の、日灼けしない真っ白い皮は。

血が垂れた。緑色の光沢のある床にさえも。

居間の床も緑白色の御影石タイル。光を鈍く表面に、浮かび上がらせるように反射する。ものの、それらは白い単なるおぼろげな反射に過ぎない、あくまで残像、いわば形態の名残りにすぎない、なにをも顕しはしない、私はあの父親の部屋のバスルームに少年を投げ込んだのだった。かつて、あのときフエにそうしたように。

フエが彼を殺して仕舞ったときに。

血まみれのダット。彼女の父親。

惨めったらしい憤怒の顔。シャワーをひねって、丸まったまま立つ少年に噴き出した水流を浴びせた。ノズルに乱れた水流ごとその額を殴りつけてやれば、血は一瞬だけ水の中に乱れる。少年の華奢な背中に投げつけて、ノズルが床に撥ねた音を聴く。背中はのけぞって女のような無様なうめき声が立つ。

 

 

#45

フエの髪の毛にくすぐられて、不意に横にそむけた私の

眼差しはいつか

振り返って私たちを見ていたその

ミーの薄い

微笑みを捉らえた。

私が

捕らえた少年が曝した、私に

捉えられた微笑。

幸せ?

たとえば、不意に振り向かれた一瞬にそう

つぶやいたような。幸せ、

なんですか?

あなたは?

目の前で曝される、あるいは

反道徳的で、

反倫理的で、

反社会的で、

ただただ退廃的なのかもしれない、

その。

目を覆うばかりの。

声もなく絡み合う男と女

剝きだしの肌

汗をにじませて

吹きさらしの日差しの中に

声を潜めて、彼は軽蔑の白い目を

向けなければならないはずだった。彼は

私たちに。彼の

目の前で、朝っぱらから、他人の眼差しの前で野放図に

曝される盛りの付いた犬っころのような?

家禽のような?

穢らしい?

愛の。

 

幸せ?

 

なぜ?

 

愛の

 

行為

 

少年が微笑む

行為に揺れた眼差しの先に

 

 

#21

少年は、なかなか帰ってはこなかった。

どうせ、彼は

時間など持て

余しているのだ

った。ど

こかで時間を潰し

ているに違

いない。好

き放題に濫

費するほ

かないものを

費して。扇風

機を回

て、そ

れに頭を突っ

むようにし

て髪

の毛を乾かし始めたフエが、いきなり

Bèo ?

言ったので、

ねぇ、

私は眉をしかめる。

何?

太った?

Anh à...

つぶやく、声。フエの。私は、

Anh yêu à...

声を立てて笑い、彼女の腹部に触れた。何ヶ月?

How many month ?

曝されるしかめ面に、光が差す。ひどい?

Em xấu ?

ねぇ

詰めるように。

ひどい?

言葉。

わたし。

聞き取られる言葉。それらのつらなり。消費されるその。あるいはむしろ、消費されさえせずに、終には、ときにはただちに忘れ去られていくに違いないそれら、あくまでも刹那的な、そして、どこかで執拗な。

存在

言葉の

絡みつくような

なににも

触れさえもしないくせに

ときに

引っ掻くだけ

引っ掻いて。不意に

私は言った。

どうして?

その言葉をフエは、覗き込むようにして、やがて

Tai sao ?

折り曲げられた彼女の上半身は、夥しい豊かな髪の毛を無造作に垂らすしかない。

Tai sao

せめて、梳くくらいすればいいのに。

Em

殺したの?

giết

私は言った。

Bố ?

お父さんを。

 

どうして?

 

 

#34

フエの眼差しが戸惑った。不意に

唐突に。

想いあぐねて。やがて

下から、彼女を見つめ続ける私の

眼差しは、そして、それにはすでに

もはやなんども飽き果てるほどに

ふれあっていたにも関わらず、そのとき

初めて

想い出したように唐突に、まるで

生まれてからいままで、そんな眼差しに

いちどだって、ふれらたことなど

なかったのだと。そんな

曝される、容赦もない、かすかな

戸惑い。そして、眼差しを

そらすことさえできずに、フエは

私を

見つめ、自分勝手に

腰を動かして、結局は

持て余したように、自分の指先を私の口に押し込んでみる。その、

 

 

#10

噴き上げられた水流が、私ごと少年を濡らし、殴りつけるように空間を水浸しにする。壁にかけられたフエと私のタオルをさえも。

彼女は怒るだろうか。この惨状を確認したら?水浸しの。ドアを閉めて、息をつくでもなくバスルームの外に立ちずさむ。

どうして、と、想う。閉じ込めて仕舞ったのだろう?外から鍵などかからない、だれをも閉じ込めることなどできはしないバスルームに。

いずれにしても、ベトナム風に無意味に高い天井のバスルームには、そのてっぺん近くの幾何学的な通風口のちいさな並列しかないのだから、あるいは、私は少年を閉じ込めて仕舞ったのかもしれない。とはいえ、なぜ。

 

 

#46

そこにいるのか。

なぜ。

ミーが、なぜ、そこにいて微笑んでいるのか、私はその

必然性をその

瞬間忘れていた。私に

不意に戸惑いが

生じて、フエ。

匂われた彼女の髪の毛の匂い。

匂う。

あるいは、汗ばんだ

体臭の。彼女の

それ、

匂い。

なぜ?

 

 

#22

と。

どうして父親を殺したの?

突然に。

言った。

私は。

あんなにも、突然に。

あなたは。

Why ?

私でさえ、あの愚鈍なだけの見下げ果てた父親も、あの穢らしい見るも無残な母親をすら、決して殺しまではしなかったのに。無能で、もはや存在価値のないただの暴力的な糞塗れの家畜ども。

表情さえ変えないフエは、私に、取り立てて何も語らない倦んだ眼差しをただ投げ棄てて、知らない。彼女は

Không biết

微笑む私を見ているに違いない。

ひどいからよ。

彼女は、その両眼で。

Bố xấu

あいつが、ひどいからよ。

彼女がわずかにでも身を動かすたびに、彼女を座らせていた私の左のひざが、その尾骶骨の触感を感じ取った。

骨格の形態としての合理性を極めているはずのそれは、むしろ、でたらめで鈍い角ばった痛みにすぎない。

髪の毛を乾かしきらないうちに、すでにそれに飽きていたフエは、身を捻じ曲げて私の唇にキスをくれた。

まぶたは閉じられない。

 

 

#35

差し込まれる。

口の中に。

指先が。フエの。

右の。

それは二本。

舌に。

歯に。

口蓋に。

ふれる。

それら。

右の。

指。

私の唾液に濡れたに違いない。

もてあそぶ指先。

いつも、右。右利きの彼女は、頑固なまでに。

何をするのにも。

私の頭を撫ぜるのも。

頬にふれるのも。

髪を掻き上げるのも。

眉をなぜるのも。

自分の顔に化粧を

施すのも。

すべて。

 

なぜ?

 

 

#11

口付けようとして、不意に戸惑った。

寝室に戻ってきたときに。寝ていると想ったフエが起きているに違いないことが、たぶん、しかし、明らかに悟られたから。

眠った振りをしているわけでもなくて、ただ、まぶたは閉じられていたに過ぎなかった。嘘は何もなく、ただ、あからさまな擬態だけが曝された。

やわらかく、ただ、ふれあっているにすぎないまぶたの皮膚の、繊細なかさなりあいの気配があって、私がそれに唇を当たとき、フエは開いた。唇の軽い接触と同時に、その両のまぶたを。

ふれあわれたまぶたの、そして、それが奏でていたかすかな気配の、音もない無残な破壊。閉じられてあったことの留保なき破滅。見開かれた眼差し。

まぶたがふるえた微細な動きは私の唇にふれて、私は感じていた。まつげのくすぐるような触感を。至近距離に、唇の触れた先端に、二三度しばたたかれたそれの。

眼差しは、なにをも明確には捉えることなく、空間を眺めたにすぎない。まだ、フエが眠りつづけている気さえした。どうしたの?と。

フエは声には出しもせずに。

なに?不意に首をもたげかけたフエの眼差しが、そのつぶやきの暗示された息吹きだけを曝し、私はただ、言葉に惑った。私が何をしていたのか。彼女の閉じられていた眼差しの向こうでいったい、何が起こっていたのか。それにはながい、ながい、ながい、とてもとてもながくてながい、ながったらしい説明が必要な気がした。くどくどしく、たどたどしくて、だらだらとするばかりのぐちゃぐちゃで、むちゃくちゃの、しどろもどろな説明の果てに、結局は、泥棒を捕まえたんだ、と、私は何の説明をしたことにもならない短い言葉に要約してわからせるほかなく、そして、フエは、そうやって理解するしかすべもない。

言い澱み、無意味に彼女を見つめて私は、そしてフエは、かすかにだけ、ほんのわずかな悲しみを湛えた眼差しをくれた。いいの。もういいわ、と、諦めをだけ、やがては捨て鉢につぶやき棄てたような、そんな、どうしようもないいたたまれなさを伴った、その。

私は彼女の髪の毛を撫ぜた。いつものように。

いつも、キスの後、キスの前、あるいはその行為の最中、あるいは毎日の朝の挨拶のように、あるいは冗談に、そしてときには、フエのおどけた冗談への返答に、なんどもなんども繰り返された、幾度ものいつもの惰性のその。

愛撫、とさえ言獲ない、けれども確実になされた彼女への明確な愛撫。なんで、あんなことをしたの?と。

Tai sao ?

なぜ、というベトナム語が彼女の唇からこぼれた瞬間に、

Why ?

私はその意味を了解した。

なぜ?

ことば。

殆ど、最後まで聴き取られることさえなくすぐさま了解されて仕舞うもの。

たとえ、殆ど理解できない未知の言語であっても。例えば、フエがタガログ語で話し始めたとしても、彼女が口付けのあとにやわらかく開いた瞳孔を曝して、秘められてひそかに、かつ、鮮明に飢えた音色で何か言ったのなら、いずれにしても、私はその言葉の意味をたちどころに捉えて仕舞うのに違いなかった。あるいは、愛している、

Em yêu anh

と。

Ti amo

どうして?

Gihigugma tika

ねぇ、

Saya sayang awak

 

i

 

love

 

you

 

 

#47

少年はいつのまにか、疲れ果てたわけでもなく軒先に

胡坐を組んだ。私たちの

すぐそばの。彼は

行為に耽りこむばかりの私たちにはたいして目

もくれないで。フエの

息遣いには気も

とめないで。その

指先が、

ふと、自分の

塞がりかかった頭部の傷痕を気にした。

出来上がったばかりの

それを。フエにも、

私にも、かならずしも容認されたわけでもなく、とはいえ

そこは彼のまったき居場所に過ぎない。フエの

指先が私の

鼻をいじって、見つめる。彼女は。見下ろされた

眼差しは。居場所など、

そこにいさえすれば発生せざるを

獲ない。存在するものは確保された、あるいは

無理やりにでも空間の

沈黙をうがって、空虚を破壊し、叩き

潰して、そこに

居場所を獲得しているのでない限り、そもそもそこに

存在することなどできもしないのだった。居場所の

なさとはたんなる言葉尻の無意味な

比喩に過ぎず、そんな比喩の

生ぬるさなど、いわば留保なき

動詞としての《ある》には

許されていない。すでに

まったき、それ自体の限界として。

 

 

#23

やがて、戯れるにすぎない唇は、なしくずしに

意味を持った行為へとその

身を持ち崩していく。愛の

行為。

ただ。た

だただ、ひ

たすら、ただ、そ

れ以外の意味をは持ち獲な

い、それら。お

おいかぶさった髪の毛が、匂いを

立てた。乾かされき

らなか

った、そ

の、いまだに潤いを、む

しろ執拗に帯びて放つ

匂い。髪の

毛。フエの。ほとんど

臭気とさえ呼ばなければならないもの。なんども。

なんども繰り返し

嗅ぎ取られ続けていたに違いない

匂い。臭気。まったき

無機物の臭気。ときに

芳香にさえ

擬態しおおせた、それ。鼻腔の

中に、湿気を

好き放題に撒き散らして仕舞うような。戯れに

フエを腕に抱いてやると、首に

回された腕がその高さにおののいたように、暴れてみせる。

おもいわよ

はしゃぐ。

Nặng quá

声を立てる。嬌声?あるいは。そんな、どこか毛羽立った色彩のある音声。たったひとりで、自分勝手にざわめきだった、その。

私は自分勝手に加担した。その嬌声に。

行くあてもなく、気の向くままに歩いて仕舞えば、いつか腕に疲れが目醒めて、仏間の床に座り込む。広い空間。巨大な据付の仏壇の、電飾がけばけばしい光を撒き散らしていた。朝の温度が、次第に暑さを孕んでいく。私はそのまま床に寝転がっって、背中にふれたのは御影石のタイル。それは

ただ単純にかたい。木戸を

順番に引き上げていくフエの、彼女が

立たせるちいさな

騒音の群れを

聞く。樹木が

こすれ、軋る、耳障りなそれ、耳に

触れるままに。耳に

残るのは、音色の

容赦のないかたさ。その

記憶。引きあけられた

木戸は、奥から

順に

光を

差し

込ませて

いく。

次第に。

一杯に。

外気が侵入して終に、解放された空気がそよいだ。その、閉ざされた空間で過ごした一夜に、いつか充満しきっていた停滞から解き放たれて。すべて、扉が開け放たれて仕舞えば日差しは、もはや私のからだの上にさえ、自由に侵入する。

感じられた。

光の温度。

想わず、戸惑う。

何に?

 

 

#36

戸惑うの?

なぜ?

戸惑ったの?

どうして?

と。

なぜ、

私の眼差しに。

いまさらながらに。

いままで、なんども。

なんども、こんなことをするときには、いつでも、なんども、

ふれられてこなければならなかった

それ。

なかば強制のように

あるいは私たちの限界そのもののであるかのように、いつも、

いつでも、ときに

無造作にもふれられ続けていたに過ぎない

その、

それ。

眼差し。

戸惑い、戸惑いをかくしもせずに、私は

そして、咥えてやる。

でたらめに差し込まれるフエの指先を。

かるく咬んで、

その

ためらいながら、おののき、恥じらいにむせて、想い迷う、いじけたような

その動きを。

 

 

#12

どうして?

と。そう、私をななめに見あげて、見つめたフエの眼差しがつぶやいていた。

そんな事は知ってる。とはいえ、私は。

何を?想う。フエが、何に対して、

かならずしも非議の声としてではなくて、単純な

シンプルな?

単なる疑問形として…Tai sao ?その表情を晒すのか、私には

…Tai sao ?

わからない。

どうして?

フエの眼差しはつぶやき続け、瞬く。私は。ねぇ、

なんで、と。

そんな眼差しをくれるの?

なんで?私は、戸惑い、いずれにしても、彼女の

彼女の周囲の間近な空気をだけふるわせたその。

どうして?

フエの眼差しを見つめた。彼女の沈黙を、そっと

Tai sao ?

破らないままに

フエは、歎くような眼差しのうちに

口付けをくれた。

私に。

まぶたを、いつものようには、閉じても見せもしないままに。

 

 

#48

違和感が残る。

鼻に。皮膚にも。

感じ取られる、フエ、のそれ。

いつもの、その。

彼女がそこにいることの、まったき違和感。

執拗なほどに。

下から、彼女の背中を抱きしめて、指先はその

やわらかい、背筋が刻んだ窪みの

曲線の

なめらかな

かたさをふたたび

確認しながらも

 

 

#24

フエが、自分勝手に服を

脱いで行った。想いつくままに、あばずれめいて

想い付きのままに好き放題に、戯れてみせながら。床に

ひとつひとつ放り投げて。少年が

帰って来たに違いない。

フエの背後に気配がして、フエに

何か話しかけ、見えない笑い声を

壁の向こうで不意に立てれば、少年は

庭に出て行く。正面の

庭。広大な敷地に

樹木が茂って、向こうに河が

見えているはずだった。その

見飽きた風景。はしゃいだ

笑い声を立てながら、フエが

私の衣服を剥ぎ取っていくのに、私は

逆らいはしない

 

 

 

 

 

ふれなさい

ほら

暖かさに

温度

わたしの、体温に

抱きしめなさい

むしろ

飢えたように

私に。ただ

私だけを

いま

 

 

光に、匂いがある。

温度だけではなく。渇いた、そして、潤った、どこか破壊的でありながらその、無謀な破壊性を上品に隠し通した、それ。

 

光が、見あげられた上方、天井の組まれた樹木の下、フエの褐色の肌の、腹部にさえもあたった。ふれあっていた、私の腹部にも。

光は、ふれて仕舞った木戸のせいで、ぎざぎざになった翳との境界線を、為すすべもなくあたりに曝した。

無造作に。

フエのうすい胸が息遣い、ゆらぎ、息遣い、曲線はやわらかく、淡く翳った。

からだの上に彼女が動くたびに、光は私たちのふれ合った素肌の上を移行して、ゆらぎ、むしろ、皮膚そのものが、皮膚感覚としていつか、あざやかに感じ取っていたその匂い。

光の。

フエは、その間には、決して声を立てない。

いつも。

鼻からだけ息遣って、その息遣いだけはまるで空間が、ひしゃげたような乱れかたをした。

他のベトナム人たちがどうかは知らない。

彼女以外に、私は知らないから。

床の上に身を投げた。

背中が、緑白色の御影石のタイルの触感を、そしてそれが拒絶するように反射して伝えた私の体温の名残りを、素肌は感じていた。

フエの、ふとものの、そして尾骶骨の骨格の触感が、肌と肉とをとおして明らかに感じられたが、人体。

その骨格と構造。

フエの為すがままに任せる。

けだるさの中でもはや、体内でやわらかくなりかけたそれに、あくまでも気付かない振りをしてフエは、動く。

上方に、何の意味もなくもたげられた私の右腕は、なにかに救いを求めたかのように見えたに違いない。

それを、誰かが見たとしたならば。

そんな人間はだれもいない。

あの、少年を除いては。

指先が、不意にフエの唇にふれたとき、それはいつもの愛撫の手つきに、一瞬で意味を変られて仕舞う。

あるいは、そんな意味を初めて獲得した指先は、それとして初めてフエの唇にふれた。

留保なき愛撫。

ふれる。

ただ突き出され、差し出されているに過ぎない指先に、フエの乱れる上半身が、不意にその顔の何かをふれさせるたびに。

ふたたび、唇にふれようとした指先を、フエは、くわえてようとして、くわえられないままに二三度、唇は空中を咬むように動いた。

 

 

 

 

 

silense for a flower

 

 

熱帯の町の、湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。

明け放たれた観音開きの木製のドアの群れがフロアに静かな翳をうつ。見あげられた空は、何の暗示を兆しもせずに剝き出しの、いわば野生の日差しを投げているばかりだった。背中に御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残りだけはかろうじていまだに感じられていた。

結局は子供をつくる気などないから、途中でやめて仕舞うにすぎないのに、毎日、一日の中でなんども愛し合ってみる。ただ広く、古いだけで、もはや廃墟にしか見えない家屋。ナム、という名前の電力開発技師の友人は、ここがいい家だと言った。

大袈裟に嘆息してみせながら。「いい家だよ。」

Dệp quá

そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、

Nhà tốt

私の眼差しにとっては単に、いまだ朽ちざる滅びかけの廃墟にしかすぎなくとも。

無様な、雑な、崩れかけの、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、例えば広い仏間の天井組みなどには、確かにいい木が使われているらしいことは、私にもすぐにわかる。

フエの唇が、そっと、掠め取ろうとしたようにみぞおちにふれた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛の匂いたった湿気がふれあった私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして広いだけの何もない仏間の、床の上に投げ捨てられて、散乱していたのは私たちに脱ぎ棄てられた衣服の群れ。

どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせた。走る彼らの眼差しに通り過ぎた、買収されて放置されたままの広大な更地の真ん中に残った、その何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、そのまた先の日陰の暗がりに、だれがそこでだれと何をしていようとももはや、眼差しを向けてやるすべなど一切ありはしない。

更地に何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、あるいは今のままなのかもしれない。それとも、私たちが正確に言うならば、所有者のフエが、売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのだろうか。世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?

日本を含めた外国か、外国資本のデベロッパーたち。買い上げた土地を喜んで

ほら

投げ棄てるように、

返してやるよ

棄てられた現地の人間たちに

お前らのだろ?

返してやるのだろうか?あるいは、屈辱的な罵詈雑言とともにでも。

きったない糞ども

頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、灼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?

不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。

猫が獲物を終に見出したかのように、そしてフエが跳ね起きて、庭に、素肌を曝したそのままに駆け出すのだが、日曜日の正午。

熱帯の光がじかに彼女の素肌にふれていた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の容赦もない光さえもがその上っ面をしかなぞれはしない、のだろうか?

自分が遠慮もなく、自分の色彩に染め上げて仕舞ったそれをは。行かないで、と。

その瞬間私は、不意に、想ったものだった。行かないで。

ひとりにしないで。なぜだったのだろう。それは?

そんなはずもないのに。なぜフエが、私を見棄てて庭の先、あの細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中に、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ。

私だけを置き去りにして。

どうして。

そんな事がどうやって、想いつかれて仕舞ったのだろう?

あり獲るはずもなかった。愛しい私のそば以外に、彼女に生息できる場所などあり獲はしなかった。むらさきを感じさせる紅の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、フエが振り向く。

庭は、明度に燃えたたつ日差しがきらめきに染めていた。無残なほどに。無慈悲にさえ、想われたほどに。

撒き散らされたきらめきの散乱。無際限なまでの。

フエが声を立てて笑った。見て、と、その言葉も発されないうちに、花々。錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立った樹木は茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせて、乱れさせ、空間に撒き、点在させ、ただ、あたりは花々の色彩にちりばめられている。

いつが盛りともよくはわからないその、熱帯の芳醇な花々。

野放図なまでに咲き乱れていて、花。そして野生の樹木は息吹く。だれも手入などしないままに、結局のところ、樹木はいかにしても家畜のように飼育されなどしないのだった。それらは常に、たとえ、誰にどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは慎重な庭師が繊細な手をいれたところでもなんでも、最終的には野生の自己本位な生命に過ぎない。

生まれ、自分勝手に棲息し、自分で空間をうがち、容赦もなく野放図な繁殖をみせ、やがては惨めに朽ちて果てる。

その朽ちた残骸を見返るものなどだれもいない。へし折れて倒れ臥したそれは、たとえば降り止まない雨の中、日差しさえ直射しない日陰の湿地に腐っていくか、晒された日差しに灼かれて、そのまま干からび渇ききっていつか風化して仕舞うのか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えられるただの野生の死。ひたすらの野生のあざやかな崩壊と壊滅と破滅。

なにほどのことでもなく、為すすべももはやありはしない。こっちに来てみなさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を私は目で追って、笑った。家屋のつくった日陰を出れば、あるいは灼熱の?強烈で、鮮明で、明瞭で、どこかであからさまに破壊的な日差しが、私の肌を焼くに違いない。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。

まばたく。

だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと私たちに、哀れみをさえくれるに違いない。曝された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて灼き尽くされて仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事などありえないことを私たちは確信していた。あるいは、それを知っていた。単純に、常識にすぎないものとして。いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを灼き尽くすことなどできはしなかった。肉体は潤う。

ブーゲンビリアの木陰に、むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないふたりが足を上げて樹木を蹴るが、むしろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエは、そして汗ばんだ皮膚。彼女の曝した素肌が汗ばむ。嬌声が上がった。フエはじゃれて、たわむれる。

やがて想い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。そのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日陰の青い色彩の中にも。乱れる。

散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエの髪の毛に絡まった花。振り返って、飾られたフエは微笑む。

花の色彩は、ただ、匂う。

私はうすく目を閉じる。

日差しは照る。

まぶたの上から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.08.21.-08.24.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

  

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

  

scherzo; largo

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

http://p.booklog.jp/book/124278/read

 

 

 

 

 

それら花々は恍惚をさえ曝さない

散文

http://p.booklog.jp/book/125047/read 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


silence for a flower #1 a

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

silence for a flower

そして、48の散文。

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

 

 

Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(改訂版)

 

 

熱帯の町の、湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。

明け放たれた観音開きの木製のドアの群れが、フロアに静かな翳をうつ。見あげられた空は、日差しを投げているばかりだった。背中には御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、そのかすかな名残りだけは感じられた。

結局は、子供をつくる気もないから、途中でやめて仕舞うのに、なんども愛し合ってみる。

私たち以外にはもう、だれもいなくなったが故に、ただ広く、古いだけで、そこはまるで廃墟か何かのようにしか見えない。

ナム、という名前の電力開発技師の友人は、ここがいい家だと言った。大袈裟に嘆息してみせながら。そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、私の眼差しにとっては単なに、いまだ朽ちざる廃墟にしかすぎなくとも。

無様な、雑な、崩れかけの、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、例えば仏間の天井組みなどには、確かにいい木が使われているらしいことは、私にもわかった。その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、不可抗力のようにいつの間にか教えた感性だった。

フエの唇が私のみぞおちに触れた。馬乗りになって、私の上に身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛の匂いたった湿気が、私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そしてがらんとして広いだけの仏間の、床の上に投げ捨てられて、散乱していたのは私たちの衣服の群れ。

どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせる。彼らの眼差しに通り過ぎた、買収されて放置されたままの更地の真ん中に残った、その何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、その先の日陰の暗がりに、そこで誰が何をしていようとも眼差しを向けるすべなどない。

家屋を取り囲む更地に、何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、それとも今のままなのかもしれない。あるいは、私たちが正確に言うならば、所有者のフエが、売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのかもしれない。

世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?

外国か、外国資本のデベロッパーたち。買い上げた土地を、喜んで投げ棄てるように、棄てられた現地の人間たちに返してやるのだろうか?あるいは、罵詈雑言と共にでも。

頽廃とおだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、焼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?

不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。

猫が獲物を終に見出したかのように、そして唐突に跳ね起きて庭に、そのまま駆け出すのだが、日曜日の正午。

熱帯の光がじかに彼女の素肌に触れていた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の光など、その上っ面しかなぞれはしない、のだろうか?

光は、自分が容赦もなく、染め上げて仕舞ったそれをは。行かないで、と。

私は一瞬、そう想ったものだった。

なぜ、だった、の、だろう。それは?

そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、剝き出しの土の細く短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ。

私だけを置き去りにして。どうして。

なぜ。

そんな事が、考えられ獲て仕舞ったのだろう?

あり獲るはずもなかった。私のそば以外に、彼女に生息できる場所などあり獲はしない。

むらさきを感じさせる紅の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、フエが振り向く。

庭は、日差しがきらめきに染める。あられもなく氾濫した。光は。

無際限にさえ、想われるほどに。

きらめきの散乱。

フエは声を立てて笑う。見て、と、いまだその言葉も発されないうちに、花々。

鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていたMỹ ミーは驚いて振り向いて、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑う。

花々。

錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら、図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立った樹木は茂った夥しい葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせて、匂い立たせ、乱れさせ、色彩は空間に点在し、ただ、樹木は色彩にちりばめられている。

いつが盛りともよくはわからない、その芳醇な熱帯の花々。

野放図なまでに咲いていて、花。あるいは、野生の樹木。だれも手入などしないままに、結局のところ、樹木は家畜のように飼育などされはしないのだった。それらは常に、たとえ、誰にどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは慎重な庭師が手をいれたところでもなんでも、最終的には野生の生命に過ぎない。

生まれ、自分勝手に棲息し、空間をうがち、野放図な繁殖をみせ、やがては朽ちて果てる。

その朽ちた先を見返るものなどだれもいない。

倒れ臥したそれは降り止まない雨の中、直射しない日陰の湿地に腐っていくか、日差しに灼かれてそのまま渇ききって、いつか風化して仕舞うのか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えるのはただの野生の死。

ひたすらの野生の崩壊と、壊滅と、あるいは破滅。なにほどのことでもなく、為すすべもありはしない。

こっちに来てみなさいよ、と。フエの、はしゃいでみせながら手招きする姿を私は目で追って、笑う。家屋のつくった日陰を出れば、あるいは灼熱の?確実で、強烈な、鮮明で、どこかであからさまに破壊的な日差しが私の肌を灼く。その、フエの褐色の肌を灼いているのと同じ光が。

まばたく。

だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと、私たちに哀れみをさえくれるに違いない。

晒された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて焼き尽くされて仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事がありえないことなど私たちは知ってていた。

いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを焼き尽くすことなどできはしなかった。肉体は潤う。

むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないフエが、ミーをはべらせて足を上げ、樹木を蹴るが、むしろ跳ね返されるのは彼女自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒に、ふらついて倒れ掛かり、ふたりの嬌声が上がる。じゃれて、たわむれる。

やがてミーが想い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日陰の青い色彩の中に。

乱れる。

それら、散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエの髪の毛に絡まった花を、ミーは丁寧に差しなおしてやり、フエは微笑む。

花の色彩は、ただ、匂う。

私はうすく目を閉じる。

日差しは照る。

まぶたの上から。

 

 

 

 

 

 

 

眠りに堕ちて、やがてふたたび堕ちる。

覚醒に。目醒め。

朝の。

その、終にどこかへ堕ちて仕舞ったような崩壊の感覚。

いずれにしても。

 

 

#0

感じられたのはノイズ。

こすれあうような。

そして恥らうほどに、ナイーブな。

ひそかに、慎重に、お互いを壊して仕舞わないように。秘められて。

やさしくふれるのと同じ強度でこすれあった、それ。

音響は、奇妙な、どこかで聴いたことのある懐かしささえ

記憶を

伴って。聴こえないほどの。

なにも

いつの?

喚起しないままに

そして、その、現在のノイズ。耳に聴こえ、いつから?

聴く。耳を澄ます必要もなく、それはそこに存在していた。

音のしたほうの空間に、もはや、あからさますぎてふしだらなほどに、ただ打ち棄てられてそこに響き続けているしかない、その、不意に。

突然たった鋭い金属音が、私を目覚めさせたのだった。

その瞬間にはすべてがもう手遅れになっていた気がしていた。どうしようもなく。何の根拠もないままに。その、鋭い硬い何かが落下して、空間に立てたに違いない音響。それなりの高さからの墜落。

私は瞬く。

急速に、醒めかけの意識のまどろみの中の経験の、そのリアルな鮮度は、記憶としてのぼやけた味気のない気配を身にまとうしかなかった。

風化を推し留めるすべはない。

 

 

#1

目覚めた私のからだの傍らに、静かに立てられたフエの寝息。眠ること、それ自体が、もはや身体的な苦痛に他ならないのだ、と。そう言っているとでも解釈しなければ済まされない、フエの。

剥き出しの、無言の苦悶。私の体を拒絶するかのように向こうを向いて、複雑に折り曲げられた腕、足、そして、苦しげにねじられた腹部。浪打って、息遣った。

フエのからだは何かを拒絶していた。たとえば、密着された裸の皮膚と皮膚の温度に倦んで。熱帯の、日中ほどではないにしても絡みつくようなぶ厚い暑さの中に、ただ、自分の温度に飽き果てたに違いない、フエの褐色の身体のあきらかな拒否が曝されていた。

もはや容赦もなく。

その身体自体にとっては、明確な根拠が存在しているに違いないどこかの、なにかへの、明確で、明瞭で、鮮明な?

嫌なの。とにかく

あるいは、当然の

拒否。

いずれにせよ、フエの体は拒否していた。

その腰を撫ぜると、汗ばんでべたついた触感が手のひらに残った。気付く。その同じべたつきが、もはやあざやかすぎる触感となって私の皮膚にもへばりつき、完全に、私が自分自身の孕みこんだ温度にさえ倦んでいたのを。

そんな意識もないままに。

ふたたび、唐突に想い出されたように、そして開け放たれたままのドアの向こう、そのどこかには気配がある。生き物の気配。

フエの父親が突然帰ってきたかのような、そんな違和感があった。

 

 

#2

まさか、と、その違和感そのものに笑いかけて仕舞いながら。娘に殺されて仕舞った彼が戻ってくるはずもないのに。あるいは、であるが故の、その違和感だったのだろうか?

ベトナムにも亡霊だとか、なんだとか、そういったものが存在しているのどうか、私は知らない。存在しているには違いなかった。いずれにせよ、どこででも、どんな形ででも、生きている人間たちは彼らを存在させるのだ。そして、そんな事に私は興味もなかった。ベトナムで彼らがどんな風に棲息させられていようが、ベトナム人ではない私の知ったことではない。どこからかはわからない。耳に聴こえ続ける、ナイーブな音。記憶の中に木魂し続けた、その音響の名残り。

気配。

生き生きとした、生き物の。それ。鉄に、細いのこぎりのぎざついた刃を当てたような。こすり合わせ、掻き続けるそれ。

息をひそめて。私は、そっと、忍び込むように部屋を出た。右手の奥の、ふたつ目の居間兼ガレージのほうに、存在していたのはその、生きた気配。明らかに生きている人間の息遣いがあった。

なまなましい温度を持った、ただただ明確なそれ。フエを起こすべきだったろうか?

むしろ、あんなにも苦しそうにしか寝られないのなら、こんなきっかけをでもいいことに、彼女を苦痛そのものにほかならない眠りから覚ましてあげて、フエを。彼女を解放して遣るべきだったのだろうか?

あの、朝から晩まで、休みの日には、まともな家事さえもせずに、むしろ、むさぼるように眠りたがる、フエ。そのフエがもとめて止まないのかも知れない、執拗な眠りから?彼女が眠るたびに曝し続ける深い眠りの苦しみから?

苦しいの

救い出してやるために。

苦しくて

私は。

仕方ないの

たぶん、午前5時半前。目の前の壁の、二時間早い遅れがちの時計が目の前で6時数分前を指していたから。日本は、

と、そう、だって。言った。だって

ね?

二時間早いんでしょ?と、フエは。

彼女が言った。

日本の東京は、二時間早いのよ。

笑って、そして、

知ってた?

私にその、壁の高いところに吊るされていた時計を苦労して取らせたが、ね?

知ってるよ。

I know

ねぇ。つぶやく。嫌いなの?

あなた

私に、伺うような(あるいは、)眼差しを(むしろ)くれて(いたわるような?)。

「なんで、日本時間にあわせるの?」

嫌いなの?

ね?

Anh...

東京が。そこから、来たんでしょ?

あなたは。私は、

... Anh ơi

好きです。」振り向いてフエに言った。

私は微笑む。見つめられた微笑はしばらく、

東京が嫌いなの?

ややあって、そして

あなたは

頬にキスをくれて、フエは無防備な不意の戸惑いを曝したままに、とはいえ、私は。

フエが言った。

「好きです。」

すばやく。

しゅきでっ

日本語で。フエの、わずかに知っている日本語の、いくつかのそのひとつ。

「愛します。」その、ふたつめ。

そうと。つぶやく。口付けに、

あぃしまっ

フエは想いあぐねて、

…Anh à

ただ口籠って。

普通、誰もが、外国語は愛の言葉から覚える。ごくごく最初のうちに。

何故だろう?例え手もとの教科書に載っていなかったとしても、どこからか探し出して。なぜだろう?

なぜ、フエは、戸惑いの表情をだけ、晒したのだろう?

たかが時計の時間のために?あるいは私がつぶやいた、たかがひとつの、ありふれた動詞に過ぎないその音声に。

 

 

#3

そのとき、一瞬にして降って沸いたもの。あからさまな殺意の明確な発熱。私を包んで仕舞った、容赦もない歯軋りするような感情の、冷たい沸騰。自らただ、戸惑った。

おびえ、そして熱狂した。

私の眼差しが見出した少年。少しだけ開いたシャッターの傍らに、人知れず明け方侵入したひとりの小柄な盗賊を背後から殴りつけた。後ろから腕に首を締め上げて後ろ手に、にもかかわらず彼、その、まだ十八歳ぐらいに過ぎないだろうベトナム人があくまでも躊躇いがちな抵抗を試みようとした。

このまま殺して仕舞えばいいと、そんな猶予もない鮮明な欲望と、それを禁じようとする微妙な葛藤?の、ような。そんな感情の不意の通過が戸惑わせて仕舞ったその隙を、少年は見逃さなかったのだった。

首を抜いて、ガレージの方に逃げて行った少年は、痩せた少女のように華奢なシルエットを曝して、不意に。何かを想いなおした彼は、そこに立ち止まった。

彼は振り向いて、その、午前5時。朝の光は、まだシャッターの脇の彼をも差さない。まだ、フエは寝ていた。いずれにしても、起きている人間は、私と、少年以外には誰もいない。そして生きている人間は、私と、少年と、眠るフエ以外にはだれも。

何とかするしかなく、そしてそれはた易いことに想われた。事実、そうだった。彼を、殺して仕舞ってそれでよいと言うのなら。飼い馴らされた猫をつかんで首をひねるようなもの。とはいえ、と、意識の浅い部分でとりとめもなく戸惑い続ける私の眼差しの中になぜか、少年は私を見つめて離さない。私を振り向き見たまま立ち尽くして、ただおびえた眼差しだけをためらいがならも曝す。私は少年を見つめる。

ふたつ目の居間兼ガレージの、ただっ広い、収納されたバイクの向こう、シャッターのこちら側に、少年の荒くふるえる息遣い。まだ、夜は明けきらない。すぐ側の、彼が縋るように左手につかんだ半開きのシャッターの、その内側からかけられていた南京錠を鋸で切って入ったに違いなかった。

目醒めたのは、直接的には南京錠が床に撥ねて立てた、鮮やかなまでに破壊的なちいさな音響のせいだったに違いない。そして、目醒めてみれば私は記憶していたのだった。その、差し込まれた鋸の、静かで執拗なノイズが鳴り続けていた隠しようもない事実を。

まるで遠い、忘れなければならない記憶のような、そんなぎこちない鮮明さをもったその記憶。反芻され続け、起きぬけの耳元に響き続けていた、鮮明な。想い出そうとしたわけではないそれの、もはや記憶ではなった鳴り続ける生き生きとした鮮度。

部屋を出た私が見つけ出した少年は、その時、なぜかバイクのメーターを首を突っ込むようにして確認していたものの、なぜ、そんなものが気になったのかは、私にはわからない。こちらに尻を突き出して突っ立って、逆立ち、毛羽立った彼の短髪。後頭部を殴りつけられた瞬間に彼は息を詰まらせたのだった。同時に鼻水を捲き散らして。少年は驚いたに違いなかった。不意に素っ裸の男に、後ろから殴りつけられたのだから。冗談にもならない。

少年は脆弱だった。私のなすがままに殴りつけられ、蹴り上げられ、とっくに戦意など喪失した、その哀れみを乞いもしないうつろな眼差しで何をも見留めないままに、彼は体をふらつかせるしかなかった。

そうだった。確かに。彼は立ったままふらついていた。まるで、いつのまにか失心していたかのように。にもかかわらず、決してひざだけは床につこうとはしない少年の、それは矜持だったのか。

間違っても美しいところなど存在しない、穢らしい顔立ちをあるいは、貧富の問題ではなくて、貧弱で貧しく、朽ちかけたような、そんな、惨めなだけの存在そのものを、やせて小さな少女じみたからだ全体で晒していたその少年の。

まさに、穢れた劣等民としか想えない。その差別的な言葉にもっとも深刻で、穢らしい差別を加えて腐らせたような、そんな意味での、存在論的に穢れた唾棄すべき不可触の劣等民。あわれみ?

 

 

#4

哀れみ。

そんなものなど必要ない、と、私はその、シャッターの前に立ち尽くして、私に泣きそうな眼差しをくれているみすぼらしい少年をふたたび殴った。もう一度。なんどでも容赦もなく。破壊してやりたくなる。たく、なって、もはや、仕方がない。もっと。と。想った。もっと。完璧な、理不尽なほどに完成された遁れようもない完全破壊を。

もっとも、人体に加えられ獲るそれなどたかが知れている。ただ血まみれにして殺して仕舞う以外に、ほかの展開のしようなどないのだった。訪れるのは、単なるひ弱な人体の死。それ以上に、人体の破壊などできようもない。

 

 

#5

ようやく人一人入れるだけに開かれたシャッターは、まだ、夜のままの外の明るさをしか差し込ませはしない。そしてほんの数分の後には、急激に、訪れる夜の破滅、その日の朝の到来、それ、太陽の、破壊的な光の色彩が染めた鮮やかな、夕暮れのような朝焼けが空を染めあげて仕舞うのをは知っている。

私は。私だって、いずれにしても。

知っていた。もう少しの時間の先に、確実に、やがては訪れなければならない夜の破綻。そして、にもかかわらず、終にもたらされた朝の光のあの留保もない鮮度など、ものの三十分もすればどうしようもなく穢く古びて、色褪せた、見苦しさにただ染まって仕舞うしかないことをも。いつものように。

 

 

#6

少年が、今にも泣き出しそうに眼差しの正面に、横顔のまま私を見つめ、その、ひんまげられて、ねじられたような眼差し。

伺い、おそれ、おびえ、許しを乞い、訪れる恐怖のときの遅延をだけ、祈るそれ。

私は殴った。ふたたび。なんどめかに、ふたたび。数度目に、ふたたび。幾度目にも繰り返して、ふたたび。ためらいもなく。

そのまま、シャッターに叩き付ける。

拳ごと。

 

 

#7

自分でも、想わず鼻白んで仕舞うような、そんな、なぶるような容赦のない暴力。まさに、残酷で、衝動的で、喉の奥には発熱した温度。

温度の発熱だけが。

強烈で、際限もなくさえ想わされる情熱を、とげとげしく、ぎざぎざと、抱え込んでぐらぐらと煮込んだような、その。

暴力。眼の前に、私に殴られ、戦意さえとっくに喪失しているにもかかわわらず、それでも加えられ続ける拳。

腕。

足。

ひざ。

すね。

身をまげて、体を小さくして、そのかろうじて取った防御の姿勢らしき、おびえた身体の湾曲を、いどむがばかりにつかみかかった手が、壁に投げつけ叩き付ける。

罅割れるに似た騒音が立った。

少年の跳ね上げた足がテーブルにあたって、そのざわついた硬いだけの音が響く。

やや鈍く。

テーブルの上の Wifi が倒れた音が、平べったく鳴った。

そして少年の伸ばされた腕が縋るようにふたたびふれたシャッターが、バラバラの騒音を響かせるしかない。

いつか、少年は鼻血を、鼻水も含めて、垂れ流して、ただ痛ましく、そして悲しくてしかたがないと、そう何度も自分につぶやいているような眼差しを上目遣いに、やがては、その眼差しは、私を見上げさえしなくなるのだった。少年は歎く。その身の悲しみを。

貧しい少年であるに違いない。ベトナム。根拠もない愛国者たちの群れ。

ベトナム人はみんな言う。ベトナムは美しい。

もう飽きた。

ベトナムは食べ物もおいしいし、景色もきれいだし、人は親切で、優しく、そして美しく、そして終にはいたたまれなくなって、不意に同意をくれた私が彼らの赤裸々な言葉への気遣いの果てに、いま日本では、ベトナム料理がヘルシーだといわれて、とても人気です。

その私の言葉を聴いた瞬間に、彼らの曝す、まるでサイゴンで雪を見たと言ったのを聴いたかのような、そんな、嘲笑うような驚嘆の表情。

あなたはベトナムを何も知らない。健康的だなんて、そんな。あんなもの

笑うしかない、混乱した愛国心。

自分自身にまで嘘を突き通して仕舞うこともなく、不意に、むしろ唐突な客観性を無防備に曝して仕舞う。彼らにとっては遠い日本で、中国人の次に不評に塗れた、単純に、世界の中での田舎者に他ならない人々。

たぶん、彼らをそのまま容認して仕舞えるのは、自分勝手な亡命者気取りの海外移住者にすぎない。たとえば私のような。そんな気がする。そして、日本人もそんなに代わり映えのするものではない。

いずれにしても、私にこの国へのわずかでもの愛着などあるとは想えない。日本に対しても。住むところなど確実に、どこでも良かったに過ぎない。日本以外であれば。

日本人たち。あの、高速で発話される、連なりあい途切れ目のない日本語を無際限にかさならせる、退屈を極めた未来のないささやき声の帝国。

世界でも類を見ないほどに難解な言語に閉ざされた、それら、ささやきの群れ。

暴力が剝き出しで、私の身の回りに散乱している気がして、大気中に舞い散ってさえいる気がして、いたたまれなくなって目の前に、これ以上は不可能だというほどに、小さく丸まって内股に立った少年が、それでも床にひざをつかずにうつむいて、垂らす。

血の混じった、よだれ、の、ような、その、唾液らしき粘液の線。

なぜだろう?

室内の空気それ自体に倦んで仕舞った私が、一気にシャッターを引き開けると、鳴り響いたその、背骨を手づかみに爪で掻くような騒音。見上げられた、朝焼けの色彩。

ちょうど、眼差しの向こうの東の空に、日本。

そこのあるほう。

朱、オレンジ、黄色、むらさき、それら。東の空の破滅の色彩。

あの、ここより二時間早い場所。

 

 

#8

それら、色彩がお互いに染まりきらないグラデーションを曝す、夜の物静かで、完全で、鮮明だった単彩が自己破壊を起こしたそれ。

明瞭な何かを、不意に突破させて仕舞ったあざやかな現状を刻むそれ、朝焼け。

色彩。

くだらない。

唾棄すべき、容赦もなく叩き潰してその存在そのものを愚弄しなければならないほどの、そんなただ野放しの暴力だけを駆る、私のくだらなさを軽蔑した。

もはや、笑うしかない。

少年が突き出して無様に向けた尻を蹴り飛ばしたら、よろめいた少年は壁に頭をぶつけて、ぐ、と、お、と、で、と、その混ざり合ったノイズを喉に立てた。

聴いた。耳の近くに響いた、変声期前のような、その少女じみた彼の声を。

 

 

#9

そんな必要などなかった。とはいえ、私は現実としてそうしたのだから、その必要があったには違いない。その時の私の衝動にとっては。

まるで大切な腕を守らなければならないように、馬鹿正直に頭から壁にぶつかった少年は、体に腕を仕舞いこんだまま、相変わらず肉の付いていない尻だけを突き出して、どうしてもそうするほかないのだとでも言うように、頭を打ち付けた壁にそのまま額を擦り付けていた。ほとんど肉の付いていない貧弱な尻を上下に引き攣かせながら。額で、必死になって壁にすがり付いている気なのかも知れなかった。少年のその感覚が、留保もなく、なまなましい認識として私の肌にじかに触れた。その、想い、のようなもの、気配?

細胞の息遣い。

その少年の、実在そのものの。

この少年も、言うのだろうか?ベトナムについて、私が問うたならば。美しくて、すばらしい国だと。

Tシャツの首をつかんで少年を引き剥がしたときに、少年の額が割れて、血が流れていたことに気付いた。

壁の、薄く剥げ罹った緑白色のペンキを血が穢して、そのざらついた粗い表面が黒ずんでいた。

透明感を持った、澱んだ赤い色彩に縁取られて。死にはしない。この程度では。ほうっておけば、皮と皮はそのうちくっついて仕舞うに違いない。少年の、日灼けしない真っ白い皮は。

血が垂れた。床にも。

居間の床も緑白色の御影石タイル。光を鈍く、表面に浮かび上がらせるように反射する。ものの、白い単なる翳りに過ぎない、あくまで残像に他ならない、いわば形態の名残りの。

私は、フエにそうしたのと同じように、あの父親の部屋のバスルームに、少年を投げ込んだのだった。