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おことわり

おことわり

  

  本書は聖書を神の言葉と信じるプロテスタント信仰を持つ著者により、聖書の知識に則って書かれています。それゆえに著者の信仰が色濃く表れています。また本書はKindleトラクトシリーズとして書きました。トラクトとしては多少長めになりましたが、それでも1時間半ほどで読めるほどの量です。あらかじめご了承ください。

(パブー版として無料で公開するにあたり、Kindleトラクトの説明は削除いたしました。その他の記述はKindle版と同じです。)  

  

 

  本書の聖書引用は、特におことわりしない限り、著作権フリーの口語訳聖書を用いております。また画像についてもフリー素材とその加工したものを用いております。

 


まえがき

まえがき

  

  日本は進化論が世界で一番普及している近代国家です。そして、それには理由があります。

  

  その一方で国民の大多数は進化論に何の疑問も持たず、進化論こそ科学であって他の選択肢は無いとさえ信じ切っています。

  ときどきテレビのバラエティー番組などで、アメリカのクリスチャンが義務教育で進化論だけを教えることに対しての抗議をし、自分の子どもたちをチャーチスクールやホームスクールで教える様子が報道されます。クリスチャンが運営するそれらの、チャーチスクールやホームスクールでは、聖書にのっとった創造論で教育がなされています。

  そんな番組の中で創造論を教えているシーンを見た日本のコメンテーターは、みな同じように驚いて「狂信的だ」とか「危険だ」とかの意見を述べます。

  

  しかし本当に危険なのは、進化論と創造論の戦いが続いている米国ではありません。むしろそれよりも危険なのは「進化論こそ科学である」と信じて疑わない、日本人のほうです。そのことは本書のなかで順次にあらわにしていきたいと思います。

  

  本書は進化論が「神はいない」という大前提で展開されている、キリスト教思想を崩すための"洗脳"であることを指摘し、日本人の読者に創造論と聖書の思想について紹介するものです。

  

  

  本書の構成は以下のようになっています:

  

  第1章 進化論は宗教

  この章では進化論が「神はいない」という前提で展開されていることを述べ、進化論の迷走ぶりをご紹介します。「科学」を信奉していると自称する人々は、創造論を「宗教」だと冷笑し、前近代的だと述べます。本章では彼らの主張もどれほど宗教的で、盲目なのかを指摘します。

  

  第2章 宗教書?聖書の正確さ

  本章では進化論者に非難され冷笑される聖書が、どれほど正確で、時代を超えた新しさに満ちているのかをご紹介いたします。そして「神はいない」という前提に立てば、どうしても説明困難になる様々な事象について、聖書的な観点から説明します。

  

  第3章 どっちを信じる?

  この章では前二章の内容をふまえ、「進化論(無神論)vs創造論(聖書信仰)」という観点から世界を眺めていきます。そして進化論が、やがて来る世の終りの時代の「世界統一宗教」の伏線であることを見ていきます。最後に読者に聖書の神をご紹介し、イエス・キリストを信じ受け入れる祈りについてご説明いたします。本書を読んで納得された方は、その祈りをご自分の祈りとして告白することをお勧めいたします。

  

  付録

  「あとがき」に続いて「付録」を加えました。伝道用のkindle本である「Kindleトラクト」シリーズとして、同じものを付しています。本書を読んで初めてキリストを受け入れた方への、初歩的な信仰指南です。祈りについて、聖書通読について、教会探しについて、などのテーマに沿っての著者の私見です。ご参考にして下さればと思います。

  

  

  まえがきの締めくくりとして、日本にキリスト教信仰が入り込むことを、どれだけ明治政府が防ごうとしていたのかを、お話ししたいと思います。このことだけをふまえても、日本の進化論教育が意図的にまた、計画的に進められたことを納得することができるでしょう。

  

  

  徳川幕府の末期、欧米列強との摩擦を避けるためにいわゆる「踏み絵政策」は廃止され、かつて切支丹(きりしたん)とされた人々の子孫や、旧切支丹村に対する定期的な踏み絵は行われなくなりました。しかし幕府が掲げた切支丹禁制の高札(こうさつ)は明治維新後にも掲げられ続け、キリスト教諸国の批判の的となっていました。

  

  さらに諸外国の非難を浴びた事件には、江戸末期から明治維新直後の混乱の中で4度にわたって行われた、「浦上崩れ」と呼ばれる切支丹への大迫害がありました。この事件はすぐに欧米諸国にも知れ渡り、幕府にも新政府にも抗議の声があがりました。しかし日本は一貫して「これは日本国内の治安問題である」とし、断固とした措置を執り続けていました。

  

  この迫害は江戸期を生き抜いた隠れキリシタンらが、欧米諸国(カトリック・プロテスタントの双方)の訪れにより、自らの存在を表わしたことに対する取り締まりでした。

  

  250年以上も立てられ続けた切支丹禁制の高札が取り外されたのは、1873年(明治6年)2月24日のことで、徳川幕府の瓦解(がかい)より6年もあとのことでした。

  

  新政府による太政官(だじょうかん)布告(ふこく)第68号という法令によって、旧幕府の掲げた高札は取り除かれ、旧切支丹村とその子孫への監視と迫害は終了することになりました。そのいきさつはこうです。

  

  明治新政府は岩倉具視(いわくらともみ)以下約50名、留学生も含めると100名を超す大規模な使節団を欧米に派遣しました。この岩倉使節団の出発は1871年(明治4年)、後に採用される太陽暦の日付で、12月23日に横浜を出航しました。

  

  実はこの6日前の12月17日、この岩倉使節団を行く先々で悩ますことになる伊万里事件が勃発していました。この伊万里事件は現在の佐賀県での切支丹大弾圧で、67名が検挙投獄された事件でした。

  その様子は長崎の外字新聞がいち早く取り上げ、岩倉使節団よりも先に諸外国はこの事件を知ることとなりました。使節団が同事件を知るに至るのは、米国ソルトレークシティーのタウンゼントホテルにおいてでした。しかもホテルのロビーに宿泊客用に置いてあった新聞によって、はじめて知った内容でした。事件勃発から1ヶ月以上も経過した2月4日のことでした。

  

  この岩倉使節団の主な目的は列強諸国への視察でしたが、もうひとつの大きな目的として旧幕府の結んだ不平等条約の改正がありました。しかし時の米国大統領グラントは、岩倉との会見の中で伊万里事件を引き合いに出し、「信教の自由が無い日本とは、いまの条約のままで宗教を保護するほかは無い」と主張しました。

  現代の私たちにとってはこの弁は全くの言いがかりで、不平等条約と伊万里事件は別々に対処されるべき問題だと分ります。岩倉も同じく「切支丹に対する問題は日本の国内問題である」との従来の主張を強く述べました。しかしキリスト教文化圏の中ではその主張は通用せず、新聞は使節団を「キリスト教を弾圧する野蛮な国からの使節」という論調で書き、民衆をあおりました。

  

  続いて訪れたヨーロッパでも、岩倉らを迎える状況は変わることはありませんでした。むしろ悪くなって行ったようです。

  イギリス、フランス、ベルギーの政治家らもまず、キリスト教徒弾圧について話題にします。さらに使節団の馬車がベルギーの首都ブリュッセルに入ると、民衆までもが馬車を取り囲み「クリスチャンを解放せよ」と訴えるほどの状況となっていきました。

  

  ここへ来て岩倉らも、強硬姿勢には無理があると感じ始めたようです。その証拠にベルギーの蔵相との会談において岩倉は「キリスト教徒への待遇は以前よりはだいぶ良くなっているし、これからも善処するつもりである」との趣旨で言い訳をしています。

  使節団に加わっていた伊藤博文(いとうひろふみ)はこの時期、留守政府の大隈(おおくま)重信(しげのぶ)に手紙を書き、「岩倉の強硬な訴えは欧州の現状にあわない」という内容を伝えています。

  

  そしてオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウイーンにおいては、皇帝主催の晩餐会で岩倉のとなりに座っていたエリザベート皇后が、岩倉らを「キリスト教徒の敵」としてほとんど口をきかない態度を取りました。そのとき同席した通訳者が気をつかい、日本の軟化しだした姿勢を皇后に説明し、ふたりの間を取り持つ努力をしなければなりませんでした。

  

  そしてベルリンに来てとうとう岩倉は、約半年後の帰国を待たずに、日本の留守政府に対して切支丹禁制の高札を取り除くように指示を出しました。1873年(明治6年)2月のことでした。

  こうして同年2月24日に太政官布告第68号が発令されました。

  

  しかしその布告の文面には「一般熟知のことにつき取り除く」と述べられていました。つまり、「誰もが知るに至った邪教禁制のゆえに、必要がなくなった高札は取り除く」という意味です。言い換えれば「欧米列強の風当たりが強いことが分ったので高札は取り除くけれども、キリスト教は邪教です」と言うことです。

  

  そしてここからが明治政府の、キリスト教を意識した進化論導入のはじまりです。

  

  そのひとつの象徴的な政策として、当時新進気鋭の米国人進化論学者、エドワード・シルベスター・モースの招聘(しょうへい)があります。

  

  モースはハーバード大学講師やボウディン大学教授を歴任し、日本から帰国した後はアメリカ科学振興協会の代表に就任するなど、動物学者として活躍した人物です。

  

  1877年(明治10年)に、いわゆるお雇い外国人として招かれたモースは、当時設立されたばかりの東京大学理学部生物学科の教授となります。

  大森貝塚の発見者としても有名なモースは、日本の人類学の基礎を固めた人物ともされています。そして日本に進化論を“最新の科学”として導入し、これが根付くための基礎を固めた人物でもあります。

  

  日本では幕末期であった1859年にダーウィンが「種の起源」を出版して以来、欧米では進化論は議論の対象となっていました。しかし日本には議論の余地の無い“事実”として教育されました。日本国民への基礎教育には現在でも、明治政府が注意深く進めた進化論教育が色濃く影響しています。

  

  そしてその進化論は、「神はいない」という大前提により論理展開される、聖書の創造論を強烈に意識した無神論なのです。

  その無神論を信じることは個人の自由ですが日本の場合は、国家がキリスト教思想が入り込むことを防ぐために、進化論を積極的に教育してきた側面があります。それゆえ日本では進化論が選択肢も無く、また議論の余地も無い「科学的事実」としてあつかわれてきました。

  

  前述したアメリカのホームスクールやチャーチスクールでは、子どもたちになぜ自分たちは公共の学校に行かせられていないのかを必ず説明するそうです。すなわち、公共の学校で教えられていることが何か、またどのように聖書の教えと違うのかを、子どもたちにも納得させるそうです。

  

  しかし日本のテレビ番組では、明治以来の教育で進化論を信じ切っているコメンテーターが、その様子を見て「洗脳だ」とか「危険だ」とか口々に述べます。はたして洗脳されているのはアメリカの子どもたちでしょうか、それとも日本の子どもたちでしょうか。

  

  一般的に言って熱心なクリスチャンは「宗教を信じている」と表現されることをいやがります。その理由は、熱心なクリスチャンであればあるほど、神との個人的な関係を意識するようになるからです。しかし進化論者は政治や行政に「宗教」を持ち込むことを徹底的に排除したがるいっぽう、進化論が「宗教」であることに全く気がついていません。

  聖書や創造論を「宗教」として排斥をするのなら、進化論も同様に排斥されるべきでしょう。そのような思いから本書を執筆いたしました。

  

  次章より、日本人が疑うことも無く受け入れさせられてきたその進化論の、非科学的な宗教性についてみていきたいと思います。

  

  

 


第1章 進化論は宗教

  進化論には「神はいない」という大前提があります。「神」について度外視しているのではなく、「神はいない」と信じて論じられているのです。その点で進化論は宗教的です。

  

  進化論に関する良書とされている書籍に、フランシス・ヒッチング著の「キリンの首」があります。著者は「公平中立に進化論を検証した」と同書の前文で述べています。

  

  たとえば最初の生命を誕生させたとされる化学反応が、全くの偶然から起る確率が、「いかなる確率的根拠に照らしても」不可能のひとことで片付けられ得ると述べているあたりは、ヒッチング氏の言うように「公平中立」であるようにも見えます。データと理論の矛盾を公平中立に指摘しているからです。

  

  ところが彼はこのことの結論として「だがとにかく、その不可能に近いことが起きたことは確かなのである」と述べ、無生物から生物が誕生したのだと断言しています(「キリンの首」79-80頁)。

  

  つまり「確率はどうであっても進化論は起こったのである」という結論です。公平中立な科学的態度というよりもむしろ、盲信的信仰の態度です。進化論にはこのような論理の飛躍が、随所に見受けられます。

  

  

 

 

 

  本章ではそのような論理の飛躍、すなわち進化論の宗教的な側面をいくつかご紹介していきます。

  

  進化論がもし本当に「宗教」的ならば、「神はいる」と信じる人々を「宗教だ、盲信だ」と批難することはおかしな話です。しかし世の中ではそれが起こっています。

  

  そして進化論が本当に「宗教」ならば、聖書を信じている人々、すなわち進化論者が批難するところの「宗教」を信じている人々と意見が合わないのは当然のことです。

  

  聖書についてあまり知らないほとんどの日本人は、進化論の以下のような論理の飛躍にも目をつむり、進化論を「盲信」させられています。

  

  まずはごく基本的なことである「突然変異」についてみていきます。

  

  

  突然変異

  

  無生物である原子や化学物質が、自己複製(子どもを産むこと)ができる生物に変わる確率は、ほとんど全くないことは「キリンの首」の著者の言葉のとおりです。

  このことは1861年にフランスの細菌学者であるパスツールが、生物の自然発生を実験によって否定して以来、生物学者の間では常識的なことがらです。

  いままでどのような実験においても、無生物が生物になることは実証されていないのです。

  

  ところが進化論者は「とにかく進化はあった」として、さらなる論理の飛躍に挑戦しています。それが、ひとつの生命体ができてからさらに進化する際に、突然変異によってそれがなされたという説です。

  しかしこれもまた生物学的な事実を無視した非科学的態度です。

  

  生物学者の安藤和子博士は「突然変異には有益なものは一切ない」と述べています(「進化か創造か」ハーベストセミナーDVD)。

  博士によると突然変異はすべて遺伝子の誤伝達で、次の世代には伝わることはありません。また突然変異した個体は次世代を残せないか、あるいは時としてその遺伝子の異常は、つぎの世代には修復されて伝わることさえあるそうです。

  

  いずれにせよ、突然変異によって生物が進化してきた事実は、生物学的には完全に否定されています。

  

  

  熱力学(第一・第二)の法則

  

  進化論は物理学の常識にも目をつむりながら、進化があったと主張しています。

  

  熱力学第一の法則はエネルギー保存の法則とも呼ばれます。

  エネルギーは形を変えることはあっても、消滅したり新たに産み出されることはない、というのがその大まかな意味です。

  物質が燃焼すれば熱や光をだし、燃えかすも残ります。しかしそれら全てをあわせれば、閉じられた系(けい)(エネルギーが逃げない空間)では、すべてのエネルギーの総和は変化しない、という法則です。

  

  熱エネルギー第二の法則はエントロピー増大の法則とも呼ばれます。

  エントロピーとは、乱雑さとか、複雑さを意味します。秩序あるものが無秩序になっていくさまを「エントロピーが増大する」と表現します。

  この法則は「すべての物質的な系は無秩序へ向かう傾向がある」と説明されています。日本のことわざで「覆水盆(ふくすいぼん)に返らず」とありますが、エントロピー増大の法則の説明としてぴったりです。

  エネルギーの総和は保存されますが、地面にこぼれた水のようにもはや元に戻らず、形を変えてしまったエネルギーが増大し続ける、という意味です。

  第一の法則の例で説明すると、「エネルギーの変化(燃焼)によって熱や光などを生じさせた燃えかすは、燃焼前の状態には戻すことができない」という意味になります。

  全宇宙を閉じられた系と考えるとき、物理学的なすべての物の行き着く先は、平均化された温度と再利用できない燃えかすばかりの世界、ということになります。この状態を「宇宙の熱(ねっ)死(し)」と言います。

  このことを数式で証明してしまったある著名な数学者は、証明を完成させてから間もなくして、自死を選択してしまったのだそうです。宇宙には死があると証明してしまい、絶望したからであると言われています。

  (しかし全てを造られた方、神は、全世界を新しくすると聖書のあちこちでそれを宣言しています1。そのことだけを考えてみても、私たち人間の知識はこの限定された世界の、さらにごく一部分でしかないことが分ります。)

  

  熱力学第一と第二の法則は、いまある物質世界が新たな物質を生み出すことがないこと、そしてすでに存在する物質は形を崩し、混沌と無秩序へ向かっていることを述べています。

  

  進化論の論理展開では無生物が生物になり、さらに複雑な生命体へと進化するとされています。つまりアミノ酸が単細胞生物になり子孫を増やし、しだいに多細胞生物になり、さらに複雑な進化を遂げて、遺伝子情報を複雑化して、高度で複雑なことを伝達し続ける、ということです。

  

  この章の冒頭で述べたように、最初の生命が無生物から生じる確率はほとんど皆無です。しかし“ほとんど皆無”の状態の確率から生命が生まれたことを説明するために、進化論者は気の遠くなるような時間を想定して少しでも確率が大きくなったように論を展開します。

  

  「科学的」な態度に忠実に判断するのなら、熱力学第一と第二の法則により、「無から有は生み出せない」ことと、「すべての物は無秩序に向かいつつある」ことははっきりと分るはずです。

  

  物理学の常識から結論的に言えば進化は起こり得ないし、無生物も生物を生み出すようなことはないのです。それでもこの物質世界に生命が溢れているのは、神が創造主であって奇跡によって被造物を出現させたからです。

  

  

  中間種の欠如

  

  進化の途中の生物が、化石においても生きている状態においても、まったく発見されていないことは、進化論者を当惑させています。しかしそれでも「いずれ発見されるであろう」と信じて論じられているあたり、なんども繰り返しますが、進化論はまさに「宗教」的です。

  

  進化論者のあいだでも重大問題とされていることがらに、一つの種が突然出現し、長く進化せずに存在し続け、あるとき突然に消滅してしまうという事象があります。前出の「キリンの首」では、少しずつ変化している証拠がまったく見つかっていないことを、チャールズ・ダーウィン本人の言葉を引用して「もっとも明確で重大な意義」であると指摘しています(11頁)。つまりダーウィン自身も中間種(ちゅうかんしゅ)の欠如は認めていたのです。

  

  かつては「始祖鳥(しそちょう)」が鳥の進化途中の生物であるとされていました。しかしその後の研究により、始祖鳥の化石がでてきた地層よりもさらに古い年代とされる地層から、より完全な鳥の化石が発見されました。いまでは始祖鳥は進化途中の中間種ではなく、絶滅した鳥の一種であるとされています。

  

  

 

 

  「シーラカンス」もいまでは中間種ではないとわかっています。

  シーラカンスは肺魚の一種で、魚が陸上にあがるための進化途中の種であると言われていました。4千万年前に絶滅した中間種とされていたシーラカンスですが、現在もマダガスカル島沖で生息していることが発見され、研究の結果中間種ではないとされました。

  

  

 

  昆虫の中間種に関しては、進化論者をさらに悩ませている事柄があります。それは化石の出土から判断して、飛べる昆虫と飛べない昆虫がほとんど同時に発生していることです。昆虫の化石で見る限り、昆虫には飛べるように進化した形跡が全くありません。

  

  話が昆虫にまで及んだので、ここで昆虫と植物の進化に関する、創造論に立った鋭い指摘をご紹介します。

  

  ラジオ番組の「聖書と福音」の高原(たかはら)剛一(ごういち)朗(ろう)氏は次のように述べています。「進化論者は種子植物の出現を三億五千万年前とします。いっぽう飛ぶことのできる昆虫の出現は二億五千万年前です。すると一億年のあいだ種子植物は一体どうやって子孫を残してきたのでしょうか。」

  

  高原氏はさらに「命は少しずつ変化を積み重ねて今日の姿になったという進化論の説明は、よくよく考えると、つじつまが合わないことだらけなのです」と指摘しています(2012年6月17日放送「花蜂蘭(はなばちらん)から見えてくる神の愛」)。

  

  それでも「進化はあった」と主張するのは、「神はいない」という大前提があるからです。神の創造がないのなら、「進化した」という結論にならざるを得ないのです。

  

  話題を中間種にもどしましょう。これまでのことを復習してまとめるとつぎの一文になります。

  

  進化を示す証拠となる中間種は、一切発見されていません。

  

  では博物館などで見られる、進化の過程を表現した図やはく製は何なのでしょうか。人や動物が少しずつ進化したように見せている、どこにでもある図やはく製です。

  

 

  

 

 

  アメリカの博物館にはよく、馬の進化の過程を表現した模型があります。この進化模型にはとても説得力がありますが、並べられているのは馬の中間種ではありません。ビジュアル的に説明するために、大きさの順で絶滅種を並べただけの模型です。それぞれは現在の馬となんのつながりもない種か、あるいは小さい馬なのです。

  

  高原氏の言葉にもありましたが、進化論の説明にはこのようなつじつまの合わない点や、意図的とも思えるごまかしがたくさん紛れ込んでいます。

  

  しかも歴史の教科書の初めにはいまだに人類の進化が図入りで説明されています。

  

  しかしかつてヒトの中間種とされたネアンデルタール人は、くる病にかかって前かがみになった、現代人とおなじ「ヒト」であると解明されました。

  またジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥスまたは、ホモ・エレクトゥス)は、人の大腿骨とテナガザルの頭蓋骨で、意図的に組み立てて作られた偽物であったことがわかっています。

  

  偽物と言えば進化論者で、反復説を証明しようとして個体発生図の偽物を作ってしまった、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)が有名です。

  

  反復説とは「個体発生は系統発生を繰り返す」と定義されます。もっとわかりやすく一般に流布した俗説で説明すると、「赤ちゃんはお母さんのおなかの中で、人類進化の過程をとおってくる」というものです。

  これはヘッケルがねつ造した図によって一躍世界に広まりましたが、すぐに嘘だとばれました。残念ながら日本ではこの俗説がまだ生きています。しかしながら、まえがきで述べた明治政府の進化論教育のことを考えれば、すぐにばれた嘘が俗説として日本に浸透してしまっている理由も納得できます。

  

  

 

  「崩壊する進化論」の著者の宇佐神(うさがみ)正海(まさみ)氏によると、ジャワ原人を発見した(と発表した)オランダ人医師のドゥ・ボアは、ヘッケルの弟子だったそうです(同書32頁)。

  師匠も弟子も、ねつ造までして進化論を信じさせたかった理由は何だったのでしょうか。立身出世や有名になることが目的だったのでしょうか。どうも私にはそうではないように感じます。

  

  本書では進化論を「神はいない」という前提に立った「宗教」であると、繰り返し述べてきました。それを信じる人々は「科学を信じている」と自称しながら、そのじつ科学的なデータを無視して飛躍した論理展開をしていることも説明してきました。

  

  それらのことを踏まえて考えれば、ヘッケルやドゥ・ボアが嘘まで用いて人々を信じさせたかったのは、究極的には「神はいない」という物の見方であると言えるのではないでしょうか。逆に言えば、「神はいる」という考え方の否定です。

  

  もしそうであるなら、進化論者がそこまでして否定したい創造論のよりどころである「聖書」にはどんなことが書かれているのでしょうか。

  本当に彼らが主張するように「聖書」は「宗教」の書で、前近代的な迷信の書なのでしょうか。

  

  つぎの第2章では、その「聖書」の驚くべき正確さについて、特に「聖書」が「科学」をリードしてきた実際の例を見ていきたいと思います。

  

  

 


第2章 宗教書?聖書の正確さ

  私が高校生だったとき、歴史の先生が聖書の記述の確かさについて、興味深いことを説明していました。(ちなみにその先生はクリスチャンではありません)。その話によると、現在は「ヒッタイト」という国家があったことは歴史上の事実ですが、しかしかつては聖書にのみ記述のある、幻の国とか言い伝えだけの国、と思われていたというのです。

  

  聖書にはヒッタイト人のことを「ヘテ人」と記しています。この聖書の記述がしっかりとした歴史であると証明されたのは、発掘されたオリエントの文献の中にヒッタイトについての記述があったからでした。

  

  また聖書に記載されているエドム人の国の首都ペトラも、現在観光地となっている遺跡が発見されるまでは、聖書の中のおとぎ話と考えられていました。

  

  

 

  この章ではそのような、聖書の記述の正しさが証明された実際の事例を、いくつか挙げてみたいと思います。

  

  

  聖書が科学に先んじていた実例

  

  宇宙はかつて「始まりも終わりもなく、いまある状態がずっと保たれてきた」と考えられてきました。そして科学者たちには「真空」という概念がなく、宇宙はエーテル体という物質が満ちた空間である、と考えられていました。しかし現在はビックバン理論が主流で、宇宙空間は何もない空間であると分っています。

  

  ビックバン理論にも紆余曲折があり議論があるようですが、何もない無から全てが広がったとする考えや、地球が真空の宇宙空間に浮いているということは、聖書にも記述されていることです(ヨブ記26章7節 新改訳聖書):

  

  

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。

  

  

  旧約聖書の原文のヘブライ語では、「張る」という言葉に「ナーター」という単語がつかわれています。この単語には「張る」のほかに「かたむける」という意味もあります。つまり聖書は昔から地が真空に浮かんでいることと、地球の軸が傾いていることを伝えていたのです。(地軸が23.5度かたむいていることは周知のことです。)

  

  もちろんそれを読む人間がそのことを理解したのはずっとのちのことですが、聖書は科学よりも先んじて正確な事実を伝えていたのです。

  

  またドイツのウェーゲナーが1912年にはじめて大陸移動説を発表したとき、学会は彼を嘲笑しました。しかしいまでは大陸が移動したことは常識です。そして現在ではウェーゲナーが想定した、たったひとつの「パンゲア大陸」から、すべての大陸が分かれていったと学会でも考えられています。

  

  実は最初の大陸がひとつであったことも、聖書にはしっかりと記されています。

  

  創世記1章9節には神の天地創造の一場面として、つぎのような記述があります:

  

  

神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。

  

  

  この「地」は海に現れた大陸のことです。そしてその「地」は単数形で書かれています。聖書は創造の初めに、大陸がひとつであったことを伝えているのです。

  

  また人の知識がまだ、水の循環システムについて理解していないとき、聖書はすでにそれをつぎのように語っています:

  

  

伝道者の書1章7節

 

川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

 

 

ヨブ記36章27節から29節

 

:27 彼(神)は水のしたたりを引きあげ、/その霧をしたたらせて雨とされる。

:28 空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。

:29 だれか雲の広がるわけと、/その幕屋のとどろくわけとを/悟ることができようか。

  

  

  科学者たちが水の循環について説明するずっとまえに、聖書はそのことをすでに述べていたのです。

  

  聖書が科学に先んじている例はさらにあります。

  

  「新・科学の説明が聖書に近づいた」の著者である久保有政(くぼありまさ)氏によると、日本人が発見した大型船舶の安定性と強度に関する黄金比率は、旧約聖書に登場するノアの箱舟の寸法の比率とまったく同じだったそうです(同書192頁-193頁)。

  その比率は長さ・幅・高さが30・5・3で、研究したチームの責任者の名前をとり、「真藤(しんとう)比」とか「黄金比」などと呼ばれています。しかし創世記6章15節に記されているノアの箱舟の比率は、日本人が研究するずっと前から30・5・3でした。

  ノアの箱舟はメートル法になおすと、長さ132メートル・幅22メートル・高さ13メートルの巨大な浮かぶ箱でした。(現在の船の形ではなく、文字通り箱形です。)

  

  

 

  ノアは神に言われたとおりに箱舟を作りましたが、そこには安全性と強度を保つための最高の知恵が初めから存在していたのです。聖書は昔からそれを伝えていました。

  

  

  聖書の記述をもとに科学を進歩させた人たち

  

  聖書の正しさを初めから確信して、科学を進歩させた人々もいます。カール・リンネとマシュー・モーリーはその代表でしょう。

  

  カール・リンネは18世紀スウェーデンの博物学者で、「分類学の父」とも呼ばれています。

  彼は創世記1章にある天地創造の話のなかで、神が「その種類にしたがって」動植物を生じさせたという記述に啓発されました。そして必ず動植物には系統だった種類があるはずだと信じ、分類をはじめました。

  進化論的な考え方がすすんでしまった現代では、この分類を進化論的に分類したものと思いがちですが、分類学は聖書に啓発されて発達したのでした。

  

  マシュー・モーリーは「海洋学の父」と呼ばれ、19世紀に活躍し海流を発見した人物です。

  彼はアメリカ海軍の士官でしたが、詩篇8篇8節に「海路」という言葉があることで海の道の存在を確信します。そして潮の流れや海上風のデータを集め、海流についてまとめました。

  モーリーは海に生きる者として、聖書の以下の聖句から特に励ましを受け取っていたと伝えられています:

  

  

詩篇107篇23節24節

 

舟で海にくだり、大海で商売をする者は、

主のみわざを見、また深い所でそのくすしきみわざを見た。

  

  

  マシュー・モーリーは軍人でしたが、神を信じ聖書の正しさを確信したことで海流を発見し、創造主のくすしきみわざを見ることができました。

  

  聖書の正しさを信じて科学を進歩させた人々がいるいっぽうで、教会が聖書の正しさに気付かずに、天動説のような誤った教理を確立した時代もありました。

  

  しかしこのような時代にあっても、コペルニクスやガリレオ、またケプラーといった熱心なクリスチャンによって地動説が唱えられました。

  宇佐神氏によるとガリレオは「自分は聖書に反したことは、何一つ言っていない。教会がまちがった科学と結託してその考えを教理にしてしまった」と主張したと伝えられています(「崩壊する進化論」212頁)。

  

  残念ながら進化論的な科学者の宣伝によって、聖書は地動説を唱える前近代的な書物というようなイメージが広まっているようです。しかしすでに述べたように、聖書は地球が何もない宇宙空間に浮かんでいることや、北と南をつらぬく地軸に傾きがあることなど、人の理解を超越したことを昔から述べていました。

  

  ガリレオの時代のように、人の理解がようやく追いついて聖書の正しさが後から分るようなことは、歴史上しばしば起こったことです。そしてそれはいまも起こっています。

  

  

  近代科学が聖書の正しさを追認?

  

  創造論学者のヘンリー・モリス氏によると、18世紀のプロテスタントによる大覚醒運動は地質学にもおよび、「洪水地質学」が主流になるほどの影響を与えたそうです。この学説は化石が含まれるすべての岩石層が、ノアの時代の洪水によって造られたとするものです。

  現在は、19世紀後半以降の進化論的斉一説(せいいつせつ)が主流となっています。モリス氏によればこれは科学の進歩ではなく、異教的な考え方に「逆戻り」する理論です(「科学は聖書を否定するか」114頁)。

  

  進化論的斉一説とは、「万物は悠久(ゆうきゅう)の昔から、進化によって徐々に現れてきた」とする説です。

  この考え方によるとすべての地層は、気の遠くなるほどの昔から、徐々に積み重ねられてきたことになります。そしてこの考え方に従って、悠久の昔から降り積もった地層を計算すれば、地球の堆積(たいせき)層はおよそ160kmの厚さにならなければおかしいのです。しかし実際はその百分の一の1.6kmしかありません。

  

  またこの考え方では死んでしまった動植物がまったく腐敗もせずに原型をとどめ、化石として現在に発掘されることの説明がつきませんでした。

  

  そしてダーウィンが頭を悩ませた、「カンブリア爆発」とよばれる現象の説明がありませんでした。「カンブリア爆発」とは、先(せん)カンブリア紀とよばれる地層にはほとんど化石がなく、その次のカンブリア紀の地層になると一気に化石が現れることにより名付けられた現象のことです。

  進化論学者たちは、カンブリア紀に入るとなにかの理由で突然進化が大爆発したと考え、それを「カンブリア爆発」と呼ぶのです。その「なにかの理由」についてはダーウィンの時代から謎でした。

  

  しかし最近、化石の生成メカニズムが解明されてきました。

  それによると化石とは、動植物が一瞬にして泥土に埋められ、空気から完全に遮断されることからつくられます。

  このことが解明されてくると、創造論の説明がさらに正確になります。

  

  その説明をまとめるとこうなります。

  

  堆積層はすべてノアの時代の全世界を完全に覆った洪水によってつくられました。そして、地層の下に植物や昆虫の化石があり、上にいくにしたがって爬虫類、ほ乳類などが発見される理由は、進化の過程をしめす順序ではなくて、洪水から逃げ続けた行動力の順です。つまり全世界を40日40夜の雨が降り、低い地域から水没していくとき、植物や昆虫がまず泥の中に埋まります2。そして逃げた順に高い所へ避難しますが、それでも最後は水におおわれて流されて行き、ついには泥に埋められてしまいます。こうして地層は一気に形成され、下の方には行動力の少ない生き物が、上の方には行動力の多い生き物が堆積し、化石となったのです。

  

  この説明にしたがえば堆積層がどうして世界中に1.6kmほどしかないのか、また堆積層の下のいわゆる「先カンブリア紀」の地層が、他の地層と違いなぜギザギザなのか、またそこからはなぜほとんど化石が出土しないのかも説明がつきます。

  

  

 

  先カンブリア紀の地層とはノアの時代の地層であり、そしてカンブリア爆発は進化の大爆発ではなく、全世界的な大洪水の発生の証明となる、植物や小さい生き物の生き埋めによる化石なのです。

  そしてノアが歩いた地層の上に泥水が堆積すれば、先カンブリア紀の地層がギザギザで、それ以外の地層が自然に堆積した沈殿物による、均衡な線であることの説明がつきます。

  

  近年シベリアの凍土からつぎつぎと発見されている冷凍マンモスの研究も、聖書の記述を無視すれば理解できないことで満ちています。

  

  ベレゾフカ河畔のマンモスとして有名な冷凍マンモスは、胃の中に消化もされずに腐敗もしていない、原型をとどめた食物が残っていたばかりか、口の中にはキンポウゲの食べかけを残したまま冷凍されていました。このことはマンモスが瞬時に冷凍状態におちいったことを物語っており、氷河期が徐々に訪れたとする従来の説では説明がつきません。

  加えることにマンモスが皮脂腺(ひしせん)のない動物であること、つまり温帯性の動物であることもわかってきました。

  

  温帯性の動物であったマンモスが、現在では極寒の地とされるシベリアで生活をし、しかも瞬時に凍らせられる何かが起こったのです。

  

  とても不思議なことですが、しかしこのことも聖書の記述を考慮すれば見えてくることがあります。

  

  聖書には神が天地を創造されたとき、大空が上の水と下の水の間にあるようにされたと書かれています3。そしてノアの洪水が起きる際には、「大いなる淵(ふち)の源(みなもと)は、ことごとく破れ、天の窓が開けて」雨が降り、洪水となったと記されています4。

  これらの記述から創造論に立つ科学者たちは、ノアの洪水の前には地上は宇宙空間の水(あるいは水蒸気層)に守られて、全地球的に温帯であったと考えています。

  

  

 

  その「上の水」の守りが突然亡くなったのがノアの洪水です。そして地上は短期間に水で覆われたばかりではなく、場所によってはシベリアのマンモスのように、洪水の水よりも先に、熱帯植物園の天蓋が一瞬に取り払われたように突然冷え、一挙に冷凍されるほどのシベリアの寒波に見舞われたと解釈しています。

  

  また洪水以前の世界が全地球的な温帯であるなら、北極や南極にサンゴの化石や石炭層が発見されていることも説明できます。

  

  創造論者のそのような解釈を裏づける証拠はほかにもあります。

  

  琥珀(こはく)は装身具としても人気ですが、実は太古の樹木のヤニが化石となった物です。それゆえに琥珀に閉じ込められた空気を分析すれば、太古の地球について知ることが可能となります。

  

  

 

  アメリカの地質学者のランディスは、琥珀にとじ込められた気泡を分析た結果、酸素濃度が約30%もあったことが分りました。現在の地球の空気の酸素濃度は約21%です。この結果から前出の久保有政氏は、創造論に立った見解としてつぎのように述べています:

  

 

(ノアの洪水が起こる前の)当時は全世界が暖かく、どこにおいても植物が繁茂(はんも)していたので、大気中の酸素濃度がこのように高かったのである。これらの事実は、上空の水蒸気層という考えによってよく説明されるのである。水蒸気層は、実によく「知的にデザイン」されたものだったのだ。(「天地創造の謎とサムシンググレート」179-180頁)

  

  

  温暖で酸素濃度も高く、いまよりも有害な宇宙線が少なければ、トンボなどの古生代の生物が巨大であったこともうなずけます。

  

  ちなみに古生代のトンボは全長1メートルにも及ぶものがあったと分っていますが、進化論的な科学では理解できない不思議な点があります。

  それは古生代の巨大なトンボは、現在の気圧下では空を飛べないと結論づけられてしまうことです。同じように空を飛ぶ恐竜とされるプテラノドンも、その体の構造からは現在の気圧では飛べないことになってしまいます。

  しかし気圧がいまの2倍もあるのなら話は別で、創造論者は洪水前の気圧は「上の水」の影響で、いまの2倍以上あったものと解釈しています。

  しかしながら進化論ではこのような不可解な点には説明がなく、まるで触れないようにしている感さえあります。

  

  

 

  脱線ついでに巨人についても触れてみます。

  

  あまり表立って報道されたりはしませんが、巨人の骨や足跡の化石は、実は世界各地で発見されています。(ネットで検索すれば確認できます。)ときどきメディアで取り扱われても宇宙人あつかいされ、面白おかしいキワモノ的な内容にされてしまっています。

  しかしこれらの巨人も洪水前の人類か、あるいは洪水後に環境が変わって行くしばらくの間の人類であると解釈できます。また同時に、ノアの洪水以前には堕落した天使と人間の間にできたネフィリムと呼ばれる巨人が存在しました5。

  

  聖書の登場人物たちの寿命も、洪水の前後で長さが激変しています。トンボが現在のサイズになったことと同じで、人類にも環境の激変による影響があったものと想像できます。すなわち守られていた環境がなくなったための寿命の短縮と、その環境に適応するための体の大きさの変化です。

  

  これは筆者である私の想像ですが、進化論者はひょっとしたらこれら不可解な点に目を向けないのではなく、わかっていてわざと触れないのかも知れません。

  あるいは進化論者の中には確信犯的な反聖書主義者がいるのかも知れません。つまり少しでも聖書や神の存在を認めるようなものは排除するという、ある種の狂信性から進化論を推し進めているのかも知れません。

  

  そのことを裏づけられるかも知れない出来事として、本章の最後に以下のことを取り上げますが、読者の皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。

  

  進化論的斉一説が地層を、悠久の時間をかけて徐々に堆積してできたものと説明していることは、すでにふれたことですが、その説をくつがえす出来事が1980年5月18日にアメリカで起こりました。それはセントヘレンズ山の噴火です。

  

  セントヘレンズ山の噴火の予兆はすでに、噴火の数か月まえから観測されていました。それゆえに行政は住民の避難をあらかじめ勧告し、学者らは噴火の記録をとる準備をしていました。

  衆人環視の中で噴火したセントヘレンズ山は、山頂から北斜面に向かって400メートルほどが崩壊し、周囲590平方キロメートルに噴石を積もらせました。その堆積物の高さは平均45メートル、最大180メートルにもなりました。

  土砂の流入により形が変わってしまったスピリット湖の湖底には、この災害で形成された泥炭が見つかりました。このことにより泥炭の蓄積と石炭の形成が、進化論的地質学者の意見に反し長時間もかからず、たった一度の大激変でじゅうぶんだったと分りました。

  

  

 

  またこの噴火によって形作られた渓谷は、現在は国立火山記念公園となっており、「小グランドキャニオン」とも呼ばれるほどの見事な渓谷で観光客を呼んでいるそうです。

  創造論に立つ宣教団体の「アンサーズ・イン・ジェネシス」の日本語サイトは、このセントヘレンズ山噴火を紹介してつぎのように解説しています(http://bit.ly/2wii2px):

  

  

セントヘレンズ山の噴火は、数ヶ月のうちに地域一帯の景観を大きく変貌させただけでなく、地層、峡谷、石炭の形成には「何千万年」もの年月が必要だという考えにも大きな風穴を開けました。セントヘレンズ山の噴火によって、それらの形成には長い時間を要しないことが証明されたからです。

  

  

  地層や石炭の形成がいままで信じられていたような悠久の時間を必要としなかったことも驚きですが、この災害から40年近くたったいまも、このとき観測されたデータがほとんどの人々に伝えられていないことも不思議です。

  

  読者の皆さんは意図的な情報隠蔽を感じませんか?6

  

  たとえ私が感じたように意図的に事実を伏せて進化論を熱狂的に推進するような人々がいなかったとしても、「神はいない」という視点からは見えてこない事実もあると思います。

  

  そういう意味から言えば、この世の中に「中立的な立場」などはあり得ません。つまり、この世はふたつの側に分かれます。すなわち神を信じない側か信じる側かの、ふたつです。

  

  第1章の冒頭で述べたように進化論は科学というよりも宗教です。そして、キリスト者として私はこう指摘されることは好みませんが、進化論者が言うようにキリスト教も宗教です7。もしそうなら、「神はいない」という宗教と、「神はいる」という宗教が混ざり合うことはあり得ません。

  

  そして読者の皆さんも、そのどちらかを選びつつあるのです。いやむしろ、知らない間に“選ばされている”といった方が良いかもしれません。

  

  つぎの章では、このふたつの選択肢の影響について、見ていきたいと思います。そして本書の最も大切なテーマである、救い主である神、イエス・キリストについてご説明いたします。

  

  

 


第3章 どっちを信じる?

第3章 どっちを信じる?

  

  明治維新以来、日本においては進化論が見事なまでに浸透してきました。そしてこれまでに本書で述べてきたように、その進化論の土台には「神はいない」という信仰があります。

  日本の神々は仏教ともいつしか融合してしまっています。そして日本人の信仰は、つまるところ先祖供養の信仰、あるいは先祖崇拝であると言えるでしょう。端的に言えば、日本の神々は、創造主である神ではなく人間です。だからこそ進化論を何も違和感なく受け入れることができたのでしょう。

  

  いまの日本ではほとんど、いわゆる大きな宗教的対立がありません。それは宗教に寛容であるからとも言われています。クリスマスを祝い、大晦日(おおみそか)にはお寺に出かけて除夜の鐘をたたき、その足で神社にお参りに行く。このようなことを何の違和感もなく、毎年恒例の楽しみにしている人々もいると聞きます。年末の一週間からお正月までは、日本人がいかに外来の宗教を寛容に受け入れてきたかの象徴である、などとも表現されます。

  

  しかし本当に宗教に寛容なために、色々な宗教を受け入れているのでしょうか。

  

  奇妙なことに聖書には、いずれ世界中の宗教が統一されることが預言されています。それは「世の終わり」と呼ばれる神の裁きの時代でのことです。その時代には聖書の神を信じる人々が、世界統一宗教の人々に迫害され殺されると預言されています8。つまり現在ある世界中の宗教は、ニューエイジ的な汎神論(はんしんろん)や宇宙論も含めて、聖書を完全に信じる人々をのぞいて、全て融合されていくということです。

  

  世界統一宗教と聞けば読者の皆さんは、なにか突拍子のない話に聞こえるかも知れません。しかしいま現在、もうすでに宗教統合の動きは始まっています。

  ここでは深くは掘り下げませんが、エキュメニカル運動というムーブメントがそれです。

  

  このムーブメントではカトリックを中心に、プロテスタントの一部、仏教、イスラム教、ヒンズー教やその他の宗教、そしてニューエイジ的な思想を信じる人々が参加しています。そして宗教の融和と世界平和を訴えて、世界各地で異宗教合同の礼拝集会を行っています。それに反対するのは、プロテスタントのごく一部の、“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”のみです。

  

  ここで注目していただきたいのは、世界はいずれ“聖書をすべて神の言葉と信じる人々”と、聖書を部分的にだけでも信じる人をも含めた、“それ以外の人々”に分かれるということです。

  本書のテーマに沿った表現をすれば、“創造論を信じる”か、“進化論を信じる”かの、ふたつのグループです。(残念ながらカトリックはすでに進化論を受け入れ、プロテスタントの一部もその方向に向かいつつあります。)

  

  そしてその動きがすでに始まっているのなら、世界はもう“神の創造を信じる”か、“進化による偶然を信じるか”の二者択一を私たちに迫っていると言えるでしょう。このムーブメントは今後、いよいよ活発になってくるはずです。そして「宗教の融和」や「世界平和」の訴えには、本当の神を知らない多くの人々が同意することになるのでしょう。

  

  日本人が宗教に寛容なのは、「創造主である神」という概念を知らないからなのではないでしょうか。

  

  さらに言えば、日本人は一方的に進化論を受け入れてしまっているので、世界統一宗教を受け入れやすい精神的土台が、誰かによっていつの間にか、頭に植えつけられてしまったのではないでしょうか。

  

  どちらを選ぶかは自分で選ぶべきことで、ひとりひとりの自由意志によらなければなりません。しかしどんな選択肢があるのかを知らなければ、選ぶことさえできないでしょう。

  

  本章ではその二つの選択肢である進化論と創造論の違いを下記のように定義して解説していきたいと思います。

  すなわち「人が自分を偶然の産物であると信じること」と、「神によって造られた者であると信じること」のふたつです。

  

  

  優生学と唯物史観

  

  第1章の終わりでご紹介したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルの「お腹の赤ちゃんは成長段階で進化の過程を繰り返す」という考え方は、人工中絶をする女性の罪悪感を軽減するのに大いに役立ったと伝えられています。それはつまり、「はやめに堕胎をすれば、人間を殺すことにはならない」という考え方です。(しかし胎児が進化の過程を反復するのではないことはすでに述べました。)

  

  ヘッケルの進化論的思想は、のちに登場するナチスの優生学(ゆうせいがく)に大きな影響を与えました。

  優生学とは20世紀初頭に支持された応用生物科学で、「自然淘汰(とうた)」や「適者生存」などの進化論的考え方によって、人類を積極的に改良しようとする思想です。

  

  現在では人種偏見の観点からタブー視されていますが、当時は善意で進められた経緯があります。たとえばナチスがおこなった精神障害者の安楽死や、ユダヤ人問題の最終的解決(処刑)は有名です。

  

  戦後間もなくの日本でも、優生学の影響を強く受けた法律がつくられたことがあります。「らい予防法」がその代表例です9。

  この法律によりハンセン氏病の患者に対する隔離や結婚の禁止など、非人道的な政策が、(無知ではあったとしても)善意により実行されました。

  現在この病気は遺伝病ではないこと、また大人には伝染せず、子どもも接触しただけではうつらないことが分かっています。国家が公式に患者らに謝罪をしたのは2001年のことです。

  

  無知であったにしても善意から行われていたことが、優生学の恐ろしいところです。

  またナチスの思想とか、人種の優越性とか聞けば極右的な狂信思想に思えますが、進化論的思想は左翼思想にも影響を及ぼしています。それが19世紀にカール・マルクスがとなえた唯物史観(ゆいぶつしかん)です。

  

  唯物史観も優生学とおなじく、進化論的な考え方が土台になった思想です。「唯(ただ)物だけ」という意味で「唯物」です。つまり「神はいない」という考え方が土台になっています。この思想をもとにマルクスは、共産主義理論を展開しました。

  

  恐怖政治を行ったスターリンも、文化大革命で自国民を大量に粛正した毛沢東も、カンボジアの大虐殺を行ったポルポトも、その思想のもとは唯物史観であり、共産主義思想でした。

  

  ナチズムには優生学が根本思想としてあったように、共産主義には唯物史観があり、結局どちらも専制独裁政治で弱者を淘汰するという、同じような結果を生み出しています。それは土台が同じだからです。彼らは確信的に、時として善意をもって社会を変えようとして、恐ろしい結果をもたらしたのです。

  

  キリスト者が魔女狩りや異端審問、さらには十字軍遠征のような、ひどいことをしたのも事実です。しかしそれは、そもそも聖書の内容から離反した行動です。人間の「罪」がそのような愚かな形で現れたゆえでした。「神はいない」と信じる者たちが確信的に恐ろしいことをしてしまうのと、根本的な動機が全く違います。

  

  思想的に右か左かが問題ではありません。また極端ではなく中道がよいのでもありません。問題の根源は、「神はいない」とする土台そのものなのです。

 

 

  もし?という仮定

  

  聖書は神の存在が大前提で書かれています。つまり聖書には「神の存在についての議論」がないのです。

  いっぽう進化論は逆に、「もし神がいたら?」という発想がまったくありません。つまり「神はいない」ということが大前提なのです。

  

  それゆえに創造論と進化論は、そもそも話しがまったくかみあわない考え方なのです。

  しかしながらここで、わざとお互いに大きく妥協をした極端な仮定で、どちらの思想が人の役に立つのかをシミュレーションしてみたいと思います。

  すなわち、創造論が正しかった場合の仮定と、その反対の進化論が正しかった場合の仮定です。

  

  ここでふたりの青年に登場してもらいましょう。創造論を信じる青年A君と、進化論を信じる青年B君です。このふたりがそれぞれ、お互いの考え方が正しかった場合を仮定して見てみましょう。

  

      進化論が正しかった場合

  

  まずは進化論が正しかった場合です。つまり、神は存在せずに、全世界は偶然からできていた場合です。

  

  青年A君はそれでも神を信じて生きます。彼の行動の規範は神です。きっとB君には馬鹿にされ、笑われるでしょうが、彼は生涯「神は存在する」という勘違いの中で過ごし、死にいたります。

  死後の世界はどうでしょうか。偶然から生じた人間に、死後の世界はありません。したがってA君は後悔することも、残念に思うこともありません。

  

  いっぽう進化論を信じるB君は、神を信じずに生きます。彼の行動の規範は自分です。自分が好きなことを自分中心に、もちろん他人に迷惑にならない程度に、なんでもします。

  あるいは彼は、自分が気に入った倫理道徳を受け入れ、その規範にしたがって生きるかも知れません。その場合の倫理道徳も、当然彼の思想、つまり「神はいない」という考えと同じものを選びます。いずれにせよ、取捨選択するのは自分自身です。失敗しても、自分の問題です。

  B君の死後も、A君の死後とまったく同じです。死んだあとに「ほらやっぱり神はいなかった」ということもなく、ただ自分も偶然の産物として消滅するのです。

  彼にとっては生きている間がすべてでした。死んだあとに彼の仲間が悲しんでも、彼には分りません。そしてその仲間もいつかは死に、世界は科学者たちの言うように、いつか「宇宙の死(熱死)」を迎えて誰もいなくなります。ただそれだけです。

  

      創造論が正しかった場合

  

  つぎに創造論が正しかった場合です。すなわち全能の神が存在する場合です。

  A君はこの場合もとうぜん自分の信仰を守ります。そして地上で祈りという形で、神と交わり続けます。

  「宇宙の死」という概念が世間を悩ませたとしても、彼には神にある希望があります。聖書に書いてあるごとくに、神が世界を新しくすると、彼は信じています10。

  良いこともあり、悪いこともあり、ときには失敗したりしながらも、とにかく彼は信仰を守り通して死にます。

  死後の世界はどうでしょうか。彼の人生には苦しいこともあったりしたでしょうが、神が彼に報いてくれます。なぜなら彼は聖書の神を信じ続けたからです。

  

  いっぽうB君はどうでしょうか。ここでも彼はおなじように生きます。ときとして良いこともするでしょう。しかしいずれにせよ、彼は神を信じず、偶然の産物として世界をとらえ、そのなかで死を迎えるのです。

  さて死後です。彼は死んで「無」になると信じていました。しかしそうではありませんでした。彼の目の前には、彼の信じていなかった世界が展開しています。そのとき彼は自分が間違っていたことに気付きます。

  そして彼は、自分が信じていなかった聖書の言葉のとおりに、神を信じていない人々が行く場所に連れて行かれてしまいます。そこで泣いて歯ぎしりをしても、もはや手遅れです。

  その場所は、彼が読まなかった聖書には「うじがつきず、火も消えることがない」場所と書いてあります(マルコ9章49節)。

  彼はその記述の正しさを文字通り、肌で感じることになるのです。しかも永遠に、死ぬこともできずに・・・。

  

  

  土台の問題

  

  前項のふたりの青年の仮定は、おもに彼らの死後についてフォーカスしたものでした。それでも「神はいない」という前提で生きることの危うさは、感じることができたと思います。

  

  死後についてだけではなく、進化論の考え方では色々とおかしなこともおこり得ます。

  

  創造論に立てば神が基準です。つまり聖書が基準となります。

  進化論では人の倫理観が基準となります。そしてこの基準では規制できないこともあります。だれにも迷惑をかけず、当事者たちに合意があるような場合です。自殺や安楽死、そして売春や不倫などの性的な乱れ、ドラッグや飲酒などによる堕落がこれに当たるでしょう。

  

  これらのことがらも、いまのところ規制されていることもあります。しかしだれにも迷惑をかけず、むしろ逆に経済効果さえあるのなら、これらのことがらも徐々にですが確実に、問題のないことになってしまうのでしょう。

  人の判断は時代によって変わるものです。米国でときどき問題にされる、安楽死を施す医者は、患者本人も同意をし、医者も善意からおこなっています。そのうちに人々には問題意識もなくなり、安楽死ビジネスが普通におこなわれるようになるのかも知れません。

  

  神なしの人間の倫理観などは、基準として不動なものではないのです。

  

  

 

  他にも「神はいない」という土台の弊害はまだまだあります。たとえば「適者生存」や「自然淘汰」という概念があります。

  これによれば、優秀なものが世界を支配するエリート層となり、弱いものは自己責任で滅んでいくことになります。弱者救済も、強いものが社会不適合の弱いものに、高い位置から情けをかける構図です。

  

  このような社会ではエリートが社会を指導する際に、無神論者であるにもかかわらず「神に選ばれし者」という優越的なエリート意識を持つ危険さえあります。事実、聖書の終末預言ではそのような危険な人物が、全世界の頂点に君臨するようになると記されています。

  

  本章のはじめにふれた世の終わりの時代には、反キリストと呼ばれる、世界的なリーダーが出現します。彼はキリストの再来とまで言われて世界中の人々に迎えられますが、そのうちに「自分は神だと宣言する」と預言されています(第2テサロニケ2章4節)11。

  

  この預言は世の終わりと呼ばれる特別な時期のことですが、土台が悪ければその上にたつ人々の行動に悪影響を及ぼすという意味で、象徴的な出来事であると言えるでしょう。

  

  付け加えることに、世の終わりで反キリストに逆らう人々が、反キリストを信じる人々に「首を切られる」と預言されていることも、人間中心主義の象徴的な記述であると言えるでしょう(黙示録20章4節)12。

  

  かつてギロチンという処刑の道具が存在していたことを知っている読者も多いと思います。でもこのフランス革命時に発明されたギロチン、日本語で断頭台が、フランス革命の標語でもある「自由・平等・友愛」の象徴として用いられていたと知る方は、そんなに多くはないかも知れません。

  

  フランス革命は王権神授説(おうけんしんじゅせつ)が常識だった時代に起きた、人間中心主義の革命です。神が王様に与えたという支配権を、人民に取り返すという意味で「自由・平等・友愛」です。(日本語では「友愛」を「博愛」と誤訳したことから、人と人のつながりのイメージが薄まって伝わりましたが、フランス革命は人間中心主義の革命でした。)

  ギロチンはどんな身分の高い人でも、あるいは身分も低く、さらにどんなに悪いことをした犯罪者であっても、おなじように一瞬にして命を絶つことができるという点で、「自由・平等・友愛」の象徴なのだそうです。

  

  

 

  現代の私たちにとってはブラックジョークのような話しですが、当時は本気でギロチンの発明を人々は賞賛しました。その証拠にこの発明品はヨーロッパ各国に受け入れられ、数十年前まで実際に処刑用に使われていました。

  

  フランス革命では共和国政府による恐怖政治で、処刑される人々がおおぜいでました。その恐怖政治も「自由・平等・友愛」の名のもとに、人間中心主義として確信的に行われました。言うなれば、人間中心主義の極みが恐怖政治を産み、ギロチンを産んだのです。

  

  世の終わりの時代に宗教が統一されることの背景にも人間中心主義があり、進化論的な考え方があります。

  そしてその時代に世界に君臨するリーダーが、自分こそ「選ばれし者」として神がかる背景にも、進化論的な土台があります。

  さらに、その時代に神を信じる人々を、反キリストを信じる人々が「首を切る」という形で殺すことにも、確信的な人間中心主義が土台としてあります。

  

  こうして見ると、進化論が単なるひとつの考え方ではなく、「神はいない」という土台のもとに人の行動さえも支配する、恐ろしい洗脳であることがわかるでしょう。

  

  「神はいない」という土台の上に立つのであれば、進化論も、人間中心主義も、神なしでのどのような善行も、その行き着く先は同じです。

  

  あなたがもし進化論的な立場で、あなた自身を偶然の産物として考えるのなら、あなたの人生も偶然の成り行きのもので、生きる価値のない無意味なものになってしまうでしょう。しかし創造論的な立場で、あなたの人生に神の存在を認めると、そこからあなたの存在の回復が始まります。

  

  次項では創造論にのっとったあなたの存在意義について説明します。もしまだあなたが神との和解を受け入れる祈り、イエス・キリストを信じ受け入れる祈りをしていないのでしたら、次の項を読んで、そのあとに付した祈りを、自分の祈りとして祈ってください。

  

  

  人は神の似姿:創造論の土台

  

  聖書には神についての議論がないことはすでに述べました。つまり聖書は、永遠の世界をつかさどる神の存在が大前提なのです。しかしその神が、物質世界を創造したいきさつとその理由については、しっかりと記されています。

  

  神が全宇宙を創り、地球を創り、動植物を創り、私たち人間を創った理由は、自分の愛を表現するためです。

  神の愛は完全なる愛です。その表現対象として、全世界を創りました。そしてその世界を神とともに管理するようにと、人間を神の似姿に創造しました。人の心に愛があるのは、神とつながって世界を神とともに、愛によって支配するためでした。

  これが人間が存在する理由です。そしてこの理由はあなたが存在する理由でもあります。

  

  ところが人は神から離れ、自分勝手に生きることを選んでしまいました。これを罪といいます。

  

  罪とは日本人の感覚では、犯罪とか法律に反することを想像しがちですが、神から離れたことを聖書は罪といいます。この罪のゆえに世界は汚(けが)され、呪いを受けたものとなってしまいました。13全世界が滅びに向かっているのは、人間の罪のゆえなのです。

  罪の影響は人間の体にも「死」という結果をもたらしました。また人の愛が歪み、神の完全なる愛とは似ても似つかない、自分中心の愛になりました。神を無視したどんな善行も、すべてが歪んだ結末になってしまうのは、人間の愛が不完全なものとなってしまったからです。

  自然災害も、人的災いも、すべてが人間の罪に由来します。全世界のすべての不幸は、人が神から離れたことに由来するのです。

  

  しかし神の愛は変わりません。たとえ人が神を忘れても、神は人を忘れません。このことはあなた個人についても当てはまります。あなたが神から離れ、神を知らないと思っていても、神はあなたから離れず、あなたのすべてを知っています。

  それゆえに神はあなたと和解する方法を提示されました。それがイエス・キリストによる罪の身代わりです。14

  

  イエスは神であるのに人間として来られ、まったく罪を犯さずに十字架につきました。それはイエスが天の父なる神の前で、罪のいけにえとなるためでした。それゆえに神はイエスを死からよみがえらせました。いまはイエスは天にあり、地上には信じる者に与えられる聖霊なる神が存在しています。15

  

  世の中はいま滅びに向かっています。人間社会の腐敗や環境の悪化など、滅びの兆候はすでに色々なところに現れているでしょう。本書のなかでも述べたように、全宇宙は必ずエネルギー的な死である熱死(宇宙の死)を迎えます。神を認めない人々でさえ、この物質世界の終わりを認めているのです。

  

  そして聖書の預言によれば、熱の死を迎えるまでもなく世の終わりの時代がやってきます。このとき、地上には「神はいない」という人々による世界統一宗教が生まれ、反キリストによる世界統一政府が横暴の限りをつくします。

  しかしイエス・キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神を体に宿すキリスト者には、つぎの聖書の約束が実現します。これは携挙(けいきょ)と呼ばれる現象です(第一テサロニケの手紙4章16節から18節):

  

  

:16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、

:17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主(しゅ)と共にいるであろう。

:18 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

  

  

  この携挙が起こった衝撃は、全世界に大混乱をもたらし、そこから終わりの時代が始まります。

  その大混乱の様子を、聖書はつぎのように預言しています(第一テサロニケの手紙5章1節から3節):

  

  

:1 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。

:2 あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。

:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。

  

  

  キリストを信じ受け入れ、聖霊なる神との交わりを保つものには「突如として滅び」は襲いません。その約束は、続く9節にはつぎのように宣言されています:

  

  

神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救(すくい)を得るように定められたのである。

  

  

  神の怒りの時代が世の終わりの時代です。そのとき地上には、神との交わりを持たなかった者たちが残されることになります16。

  

  神の怒りの時代は突然訪れます。また人の死も予期せぬ時にやって来るものです。しかし神との交わりがあなたにしっかりとした土台を与えているのなら、あなたは揺るがされることはありません。

  

  イエス・キリストを信じ受け入れ、あなたも神の救いを受け取って下さい。心からお願いします。

  

  つぎの祈りのことばを自分の祈りとして祈るのであれば、あなたも神との和解を受け入れ救いを受け取ることができます。

  すでにキリスト者である方々は、下記の祈りを捧げる未信者の方のためにひとことお祈りくだされば、筆者として(同労者として)嬉しく思います。

  

  

      キリストを受け入れる祈り

                                            

                                    天の父なる神様、

                    あなたを受け入れずにいた罪をおゆるし下さい。

                                            

                  イエス・キリストが私の罪のために死んで下さったこと、

                              私が生きるためによみがえり、

                  聖霊なる神を送って下さったことを信じ受け入れます。

                                            

                                    聖霊なる神様、

                                どうぞ私にお入り下さい。

                                            

                この祈りを主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン。

  

  

  この祈りを終えたあなたは、神との和解が成立した人、すなわちキリスト者です。続けて祈りを深めることをお勧めします。またキリスト者との交わりに参加することをお勧めします。ご参考までに「付録」の章を設けましたので、祈りについて、教会探しについてなどの一助としていただけたらと思います。

  

  

 



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