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はじめに

神学の完成

 

 本当に、すっかり参ってしまった。これが正直な気持ちである。


 2018年の夏から連載を始めた『再臨のキリストによる聖遺物』から『シュライン』にかけて、私には、自分のすべきことの筋道がハッキリと見えていた。そして実際に、その筋道を実直に辿っていた。なのに......


 なのに急に、思いもしなかった所から「運命の矢」が降ってきた。その矢は「キリストの神学」を完成させるためのラストピースであり、その降下によって、確かに「キリストの神学」は急転直下に完成を迎えることになった。私は現代における洗礼者ヨハネ(Ⅽ・G・ユング)が描いた「再臨のキリストの青写真」を、実物の建築として完成させた。


 いったい何を建築材にすることによってか? それは罪である。恐ろしい「罪」を建築の材料にすることによってである。


 さきのGW170817は、黄金によって象徴された「神のモニュメント」だった。そして、今回私にもたらされたのは「罪人のモニュメント」だった。


 この二つのモニュメントが出揃うことによって、ユングが思い描いた「キリストの神学」が、まさにモニュメンタルに完成を迎えることになった。


 ユングは、かつて次のように言った。
 
 神もまた人間になろうとし、そのために暗闇をもった被造物たる人間を・原罪によって汚され堕天使から神の科学と技術を教えられた自然のままの人間を・聖霊によって選んだのである。受肉をさらに進めるための誕生の場としては、罪びとこそふさわしいし、それだからこそ選ばれたのである。この世から超然としており、生への貢物を拒否する罪なき人々はそれにふさわしくない、なぜならこの人々の中には「暗い神」の居場所がないからである。

 

   ユング『ヨブへの答え』より

 

 上のような意味において、たしかに私という存在を通して「キリストの神学」が完成した。すなわち「神の人間化」の全き完遂である。


 いや、いきなり、こんな話をしても、読者を混乱させるばかりだろう。


 それは重々解っている。だから私は、この重大事を説明するために、目下『罪人のモニュメント』という作品を執筆しているのだ。その書において、私の言う「キリストの神学」の完成についての全てが語られることになる。

 

 


布石として、つなぎとして

 

 しかし、その『罪人のモニュメント』の完成には、どうしても今しばらく時間がかかる。また、実際に配信されれば、この作品が、私という存在の翳りを深めることは間違いない。つまり『罪人のモニュメント』が上梓されれば、そのとき私は、他の誰にもまして、暗くて汚いものとなるのである。


 そこで、まず、その発表の準備として、ずっと以前の、まだしも決定的な罪に塗れていなかった時期の作品を配信することにした。それによって、私の作品ライブラリーの「暗さ」を少しでも薄めたいと思ったのである。そして、きっとその役割を果たしてくれるだろうと期待しているのが、この『アルベド・シリーズ』なのである。


 もともとのタイトルは『アルベド――自己形成の過程』。創作の時期は20代の後半で、30代の初めには、紙の書籍として出版をしている。いちおう本として書店に流通した訳だ。


 ところが、そうして書店に流通して一か月した頃、突如として出版社が倒産。当然『アルベド』も絶版の憂き目に遭い、あっという間に「幻の作品」のようなものになってしまった。現在手元に30冊ほどの在庫が残っているが、この在庫が、私が確認できる『アルベド』のほとんど全てである。


 今回、その在庫のなかから一冊を取り出し、1ページずつ破いては、その文章を、スキャナーでパソコン内に取り込んでいった。つまり印刷された文字を、少しずつデジタルデータ化していったのである。


 正直、ここのところ気が滅入るような出来事ばかりが続いたが、この「スキャナーでの文章取り込み、デジタル文書への変換」という機械的な作業は、私の体を定期的に、オートマチックに動かしてくれた。


 これは本当にありがたいことだった。気分がローになれば活動性もローになるのが人間の性であり、これを機械的な作業によって、ある程度克服できたことは、無駄な時間を過ごさずに済んだという意味で、実に幸いなことだったと思う。

 

 


序説と混在的一者

 

 さて、この『1・序説と混在的一者』は、原著『アルベド・自己形成の過程』の冒頭部分を抜粋したものである。


 そこから推定できるように、今回私は、もともと一冊だった『アルベド』を、いくつかに分割して、それぞれを独立作品化する形で連載を行なうことにした。それが、

 

1・序説と混在的一者
2・教育の段階
3・自我の確立
4・アルベド侵入の起点

 

 の四つである。今回連載するのは、もちろん『1・序説と混在的一者』だ。これは、これまでの作品がそうであったように、無料で読者に提供する。


 しかし『2・教育の段階』からは、公開設定を「有料」にするつもりだ。むろん、変に高額にするつもりは毛頭ない。ただ『アルベド』は、もともと書店で1260円で流通させた経歴をもつ作品なので、それを配信するならば、少しでも料金を取った方が自然かなと思ったのである。それによって閲覧数が減ってでもである。

 

※この有料設定は取り消しました。パブーが閉店するからです。どうか無料にて『2・教育の段階』をお楽しみください。

 

 


充実性と不備とその対応

 

 この『アルベド』という作品が、まだ20代の青年によって書かれたものであるという事実は、少なからず読者を驚かせるだろう。


 というより、久しぶりにこの作品に接した自分が、まず驚いたのである。なぜなら、かつての自分が、すでに40代の自分と同じぐらいの「視座の高さ」を持っていたからである。


 当時の私は、結婚をしていなかったし、当然子供もいなかった。すでに、将来妻になる人と出会ってはいたが、だからといって、自分が家庭を持つことなど想定だにもしていなかった。


 それでいて『アルベド』では、子供の教育などについて多くを語っており、その内容は、壮年となり父親となった今の私が読んでも、まったく違和感や誤りがなかった。その点で、当時に賜られた「聖霊からの助力」を痛感せずにはいられない。この場を借りて、当時に私を助けてくれていた聖霊に感謝をしておこう。


 ただし、それだからといって『アルベド』に一切の不備がないという訳ではない。それはそうだろう。なにしろ20年も前の作品なのだから仕方ない。


 そこで、明白と感じられる不備については、それを埋めるために、折りにふれて『第二福音書・ヘルメスの杖、上』からの転載を行なうことにした。なぜなら第二福音書は、10数年の空白を挟んで生まれ変わった『アルベド』に他ならないからである。つまり、この二つの作品は、同じ親(同じ主題)のもとに生まれた双子の兄弟なのである。よって互換変換が可能な箇所がたくさんある訳だ。


 もっとも、第二福音書は、『アルベド・シリーズ』のダイジェスト版、という意味合いが強いのであるが。

 

 では、そろそろ20年前の文章へと移行することにしよう。


第1章 アルベドとは何か

 錬金術の用語としてのアルベド

 

 アルベドとは何か。


 本書を手に取ってくださった、そのほとんどの方が抱く疑問であろう。


 これについて、私からは、次の三つの回答を示すことができる。


 一つ目は「錬金術の用語である」ということ。


 二つ目は「神秘体験である」ということ。


 そして三つ目は「ゲーテが語ったところの"永遠に女性的なるもの"ある」ということである。


 もちろん、こればかりの言葉では、アルベドについて何も解明されたことにはならない。だから却って、これらの回答を発点にして「アルべドとは何か」について本腰を入れた究明を行っていくことにしよう。


 ただし、二つ目と三つ目の解答は、それぞれシリーズ第四巻、第五巻()におけるメインテーマとなるので、論述の機会をそちらに廻し、本書『自己形成の過程』では「錬金術の用語としてのアルベド」についてだけ触れることにしたい。

 

※ 原著を執筆した当時の構想であり、実際には書かれていない。

 

 

 

化学的思想

 

 それでは、まず錬金術そのものを全体的に概観しておくことにしよう。アルベドが錬金術の用語である以上、そもそも錬金術とは何かを知らなければ、アルベドについて何の説明をすることもできないからだ。ただし、錬金術の詳しい説明が本書の目的ではないから、ここではあくまでもアルベドの語意が表面的に伝わる程度の、かなり大まかな説明をするに留めたいと思う。


 そういうことで極めて簡略的に言うとすると、錬金術とは三、四世紀にエシブトで成立し、中世の頃にヨーロッパに流入してきた"化学的思想"である。


 その内容は、貴重なる金、黄金を、採掘でなしに、実験室における化学合成によって作り出そうとするもので、いわば「化合により、金ならざるものから金を精製するための体系」なのである。


 その精製の手順は、まず容器のなかに硫黄と水銀を入れて加然し、そうしてできた化合物を、今度は溶解し、次に蒸留するといったもので、さらには、こういった作業を何度も繰り返すというものである。


 そして、こうした繰り返し作業のなかで、まず容器のなかの物質が黒くなり、つぎに白くなり、最終的には赤くなることによって、結果、金が得られるというのである。

 

 つまり「黒 → 白 → 赤」という色彩の変化が現れるのであり、かつ、その最終的に赤くなった物質こそが金に等しいということだ(赤い黄金というのは奇妙だし不合理であるが、錬金術師たちが求めていたのは物質的な金ではなかった。このことは少しあとで述べることになる)。


 そして錬金術の用語として、この最切に黒くなることを「ニグレド」といい、白くなることを「アルベド」と、そして最終的に赤くなることを「ルベド」という。


 これを分かりやすく図示すると、次のようになるだろう。

 

黒=ニグレド(黒化)

白=アルベド(白化)
↓ 
赤=ルベド(赤化)

 

 


物質的な敗北

 

 そして、以上の説明から分かるように、本書で考察の対象となるアルベドとは、すなわち、黒かった物質が白く変化する過程のこと、あるいは、その白くなった状態そのもののことである。


 これが「アルベドとは錬金術の用語である」ということの、より詳細な意味である。かかるアルベドをして「白化」と呼ぶこともある。


 ただし「ニグレド → アルベド → ルベド」という、こうした作業過程のなかで、実際に金を精製できた錬金術師がいたわけではない。それも当然のことで、金は元素であり、元素は合成され得ないからこそ元素なのである。ゆえに錬金術師たちの化学合成的な手法によって金を精製することは不可能であり、彼らの努力はしょせん徒労に終わらざるを得ない宿命のもとにあった。


 こうした事情のもと、ついには錬金術そのものが廃れ、やがては歴史の闇のなかに消えていってしまった。人々は、いつまで経っても成果を挙げられないくせに、尊大に、かつ怪しげに営まれる錬金術よりも、より明確な成果を見せてくれる自然科学のほうを重宝するようになったのである。黄金を創り出すという物質的な目的において、錬金術は明らかに意義喪失という敗北を喫したのである。


 現代においてすら、錬金術師たちの努力を不毛とする見方は残っており、個人的なことであるが、私の学生時代の教科書(『環境・空間・構成』)には、錬金術について「膨大な愚行と錯誤の繰り返し」と述べている箇所があった。

 

 


錬金術の心的意義

 

 しかし、この歴史の闇のなかに消えてしまっていた錬金術を、独白の光を当てることによって再び歴史上に浮かび上がらせた人物がいた。有名な深層心理学者、カール・グスタフ・ユングである。


 彼が錬金術に対して放った"独自の光"とは心理学者としての視点だった。そして、その眼差しは、物質的な敗北を喫していた錬金術のなかに、輝かしい勝利に満ちた"心的価値"を見いだしたのである。換言すれば、錬金術のなかには、物質的な成果とは比べものにならないほど豊かな精神的財産が宿っていたということだ。


 つまりユングは、過去の錬金術師たちの多くが、実は、物質としての金ではなく、黄金のように高い価値がある、精神的なに"何か"を求めていたのだということに気づいたのである。それがどういうことなのか、湯浅泰雄氏は、端的に次のように代弁してくれている。


「主観的には、彼ら〔錬金術師たち〕は、最高の物質〔である金〕を得て神の造化の秘密を知ろうとしていたのだが、心理学的に見れば、東洋の瞑想者が人間完成の道として悟りを追求していたのと同じ道を歩んでいたのである」(湯浅泰雄『ユングとヨーロッパ精神』より)


 つまり「黄金=悟り」であり、錬金術師たちは、この悟りをこそ必死になって求めていたということだ。ユング自身もまた、これとまったく同じように考えていた。


 そして、このような解釈を裏づけるかのように、確かに錬金術師たちは、自分たちが求めている黄金をして、それを「哲学者の金」とか「卑金属ならざる金」などと呼んでいた。物質的な金などは卑金属にすぎず、目分たちが求めているのは、そんなものより、もっとずっと高尚なもの(悟り)だと言っているのである。


 同様にユングには、錬金作業(化学合成)の材料となる硫黄や水銀といったものも、実際には比喩や寓意に近いものであることが分かってきた。


 それどころか、錬金術における物質的な用語には、そのすべてにわたって、背後に何らかの心理的な意味を見つけ出せるという「錬金術=心理学の先駆形態」という仮説の樹立にまで、ユングの思索は進んでいったのである。


 このような仮説は、複雑な深層心理学を体系づけようとしていたユングにとって、またとない財産、支柱となった。錬金術を参考にすることによって、それまで体系的には整理できなかったことを、見事に整理できるようになったからである。長年にわたって積み頃ねられた先人(錬金術師)たちの叡知がそれを可能にさせたのである。


 そして、錬金術のほうもまた、ユングによって、その存在意義を新たに更新してもらえた。すなわち、物質的な敗北は、いまや心理的な勝利として更新されたのである。かくしてユングは"意義をもった錬金術"を、その膨大な著作のなかで次々に紹介していった。

 

 


ニグレド・アルベド・ルベド

 

 ユング的な視点から推察する限り、錬金術師たちが最終的な目的として欲しがっていたもの、すなわちルベド(赤化)に等しい「哲学者の金」とか「卑金属ならざる金」というものは、実は「神性、キリスト、世界の根本原理」といった宗教的、哲学的真理だったとしか思えない。確かにこれらを悟得できたならば「われ悟りたり」と言ってもまったくオーバーではないだろう。


 そして、これと同じように"用語を心理学的に解釈する"というフィルターを通して錬金術を見ると「ニグレド → アルベド → ルベド」という変化は、次に示すような意味を持つことが分かってきた。

 

 

 ニグレド、黒化(腐敗物、闇の状態)


 この段階はメランコリー(憂鬱)の状態であり、無意識のなかの悪やエロスのどろどろした暗黒の世界へ降りていった休験である。

 

 

 アルペド、白化(銀、月の状態)


 沐浴や洗礼によって心が洗われ、清らかになった感じに対応している。

 

 

 ルベド、赤化(金、太陽の状態)


 「黒化」における現世的な世界や闇の世界の体験と、「白化」における霊的な再生の体験とが結合して第三の新しい、より高い 〔悟りの〕境地が実現したことを意味している(以上、林道義『ユング』からの抜粋)

 

 


浄化作用という本性

 

 本書の主題となるのは、こうした意味における"アルベド"であり、まさしく「泳浴や洗礼によって心が洗われ清らかになった感じ」のことである。


 そして、そのように"清らか"になるためには、あるいは"洗われる"感じを受けるためには、私たちは、まずその前提として、自分の汚れ(心の汚れ)を明瞭に意識する必要がある。自分が汚れていると感じるからこそ、その汚れが洗われるということ、それによって清らかになるということが強い意味を持ってくるからだ。


 よって、アルベドの前には、必ずニグレドが配置されることになり、そのニグレドに対する浄化作用としてアルベドが発現することになる。


 ただし、このニグレド(心の汚れ)のことを、一般に考えられている罪悪、客観的事実としての犯罪と思ってはならない。すなわち、


「何か悪いことをして心を汚さなければ、アルベドを体験することができないのだから、アルベドの体験を目指す自分は、堂々と犯罪を犯しても構わないのだ」


 などと思い違いをしてはならないのである。


 確かに一般的な罪悪も、客観的な犯罪も、ニグレド(黒化、腐敗)のニュアンスを含んではいる。しかし、それは"アルベドの前提として絶対不可欠なニグレド"とは本質的に別のものであり、ここで必要とされているニグレドは、目己形成によって心境を著しく高めた者だけが味わえる、ある特殊な意味を持った"汚れ、腐敗"なのである。


 これについてはシリーズ第二巻において詳しく説明することになる()が、とにかく、アルベドを体験するために、進んで犯罪に手を汚すようなことは何人もしてはならない、ということだけは先行して言明しておきたいと思う。

 

※ これに対応する文章を現時点で探すとすれば、それは第二福音書の「座標8,9 恩寵の原理」である。

 

 


三つのシリーズ

 

 ニグレドに対する浄化作用としてのアルベド、これが本シリーズで描かれるものの核心である。この核心を不動のものとして据え、その上で核心に至るまでの過程を描いたり、また別の観点からその過程や核心を眺めたりするのが本シリーズ、すなわち『アルベド・シリーズ』の内容だと言えるだろう。


 ちなみに私は、シリーズの第二期(第二巻ではない)として「ニグレド(黒化)』を、第三期として『ルベド(赤化)』を予定しており、前者では主に悪の発生源について、後者では主に、神の創造と、神の似姿としての人間の本質について究明していくつもりである。


 かかる『ニグレド』も『ルベド』も、どうにか本一冊でまとまればと願っているが、最終的にどのような規模になるかは、実際にそれらを執筆してみないことには、ちょっと分からない。


 だいたい、この『アルベド』のシリーズにしてからが、当初は本一冊にまとめる予定だったものが、結局は本五冊分(もっと増えるかもしれない)に膨らんでしまった代物なのである。それと同じようなことが『ニグレド』や『ルベド』で起こったとしても、なんら不思議はないだろう。


 いずれにしても、私の思惑がすべて形になったとすれば、ここに第一期『アルベド』、第二期『ニグレド』、第三期『ルベド』という作品シリーズが並ぶことになる。


 これらが合計で何冊の本になるかは見当もつかないが、これを完結することができたならば、私も随分と気が楽になるのではないだろうか()。

 

※ 以上の計画はそのままの形では実現していないが、そのダイジェスト版としては、第二、第三福音書(『ヘルメスの杖、上、下』)として結実している。

 


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奥付



【2018-12-01】アルベド1 序説と混在的一者


http://p.booklog.jp/book/124859


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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