目次
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まえがき
新まえがき 2019.12.20
地球の王チュクウ~神統記の巨人ギガース、巨人アグリオス、巨人クリュテイオス、巨人グラティオーン、巨人エウリュトス、巨人ブリアレオース、半人半獣の怪物テュポン、鍛冶の祖トバルカイン
全能神ゼウスの一族~英雄ペルセウス、素戔鳴尊、全能神ゼウス、周、サイス朝、孫子、ソクラテス、臨済宗、リトアニア大公国、明、李氏朝鮮、マイソール王国、ロスチャイルド家、太平天国、サムスン・グループ
宇宙人トバルカイン(チュクウ)の一族①~出羽、十和田、イスラエル王国、ダヴィデ朝、テーベ神官都市、太陽神ラー、太陽神アメン、ユダ王国、晋、趙、朴氏、ペグー王朝、能、伊賀忍者、ソ連国家保安委員会
宇宙人トバルカイン(チュクウ)の一族②~拓跋部、北魏、吐蕃、回鶻汗国、ヴァイキング、ノルマンディー公、キエフ公国、甲賀忍者、ヴィジャヤナガル王国、スフォルツァ家ミラノ公、ソビエト社会主義共和国連邦
宇宙人トバルカイン(ルハンガ)の一族③~サハラ砂漠、ソドムとゴモラ、プント王国、インダス文明、パーンダヴァ族、英雄アルジュナ、燕、ローマ帝国、諸葛孔明、サファヴィー朝、シク教国、バアス党
宇宙人トバルカイン(オロクン)の一族④~桃源郷、仙人、ラテン王国、ヒッタイト帝国、シュメール都市国家ウルク、アーリア人、魯、孔子、東胡、天狗、匈奴、アラン人、西ゴート王国、ブルガリア帝国、大元帝国
宇宙人トバルカイン(クウォス)の一族⑤~海の民、エジプト第25王朝、プトレマイオス朝、ハザール帝国、イエス・キリスト、グルジア王国、ジャン=ジャック・ルソー、フランス革命、ノルディック、ケムトレイル
宇宙人エラドの一族~女神エリウ、ラテン王国、シュメール都市国家ウル、アーリア人、衛、老子、道教、セレウコス朝、カッパドキア王国、橘諸兄、小野妹子、ブルガリア帝国、ブニョロ帝国、ウィルタ族
宇宙人マハラエルの一族~戦闘の女神マッハ、フルリ人、ウラルトゥ王国、イリュリア王国、楼蘭、モラヴィア王国、平将門、平清盛、ムラービト朝、ムワッハド朝、フス派、雑賀衆、ヘーチマン国家、スタジオ・ジブリ
宇宙人スバルの一族~天孫氏、ゼブルン族、シュメール都市国家シッパール、プール族、シバ王国、破壊神シヴァ、楚、鮮卑、ヴァンダル王国、シュリーヴィジャヤ王国、シビル汗国、円谷プロダクション
デウカリオンの一族(マウンド派)~ニューグレンジ、モホス文明、フェニキア人、カルタゴ、天孫族、多氏、秦、呉、前漢、新羅、日本武尊、インカ帝国、ジョージ・モンク、フリーメイソン、オナシス財閥
デウカリオンの一族(ピラミッド派)~ギザのピラミッド、ラムセス3世、曹、テオティワカン宗教都市、越、熊襲武尊、後漢皇帝、魔法使いの神殿、クメール王朝、ムハンマド・アリー朝、チャーリー・チャップリン
ブルガリア皇帝イヴァン・アセン3世の一族~ソロモン1世、エチオピア帝国、クリミア・ハン国、ハルハ部、ケニア共和国、チャック・ベリー、アース・ウィンド&ファイア、ボブ・マーリー、エディ・マーフィー
ブルガリア皇帝イヴァイロの一族~ヴィスコンティ家、メディチ家、クリストファー・コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、イエズス会、フランシスコ・ザビエル、トスカーナ大候国、ローマ教皇フランシスコ
ブルガリア皇帝ゲオルギ2世の一族~オスマントルコ帝国、北元、スペイン無敵艦隊、ロシア帝国、サルディーニャ王国、リンカーン大統領、宰相ビスマルク、怪僧ラスプーチン、エルドアン大統領
オスマントルコ皇帝ムラト2世の一族~イヴァン大帝、チューダー朝イングランド王国、宗教革命、エリザベス女王、清教徒革命、第一次サウード王国、第二次サウード王国、サウジアラビア王国
オスマントルコ皇帝メフメト2世の一族~マクシミリアン1世、バイエルン王国、交響曲の父ハイドン、サド侯爵、文豪ゲーテ、楽聖モーツァルト、ヘミングウェイ、三島由紀夫、シド・バレット、トランプ大統領
オスマントルコ皇帝スレイマン1世の一族①~宇佐美定満、蘆名盛氏、柴田勝家、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光、伊達政宗、水戸光圀、乾隆帝
オスマントルコ皇帝スレイマン1世の一族②~蘆名盛氏、高山右近、千利休、黒田官兵衛、有馬晴信、宮本武蔵、天草四郎、鄭成功、ヌルハチ、愛新覚羅家
オスマントルコ皇帝オスマン2世の一族~オリバー・クロムウェル、大英帝国、アメリカ合衆国、エドガー・アラン・ポー、オーソン・ウェルズ、ザ・ビートルズ、モンティ・パイソン、レッド・ツェッペリン
オスマントルコ皇帝アフメト3世の一族~ピヨートル大帝、ナポレオン皇帝、モルモン教、ルーズベルト大統領、ケネディ大統領、ザ・ドアーズ、プーチン大統領、ウィキリークス、Qアノン
オスマントルコ皇帝ムスタファ3世の一族~乾隆帝、マイソール王国、宝暦事件、トンブリー朝タイ王国、詩聖タゴール、マハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルー
オスマントルコ皇帝セリム3世の一族~道光帝、曽国藩、胡林翼、李鴻章、西郷隆盛、吉田松陰、西太后、大本教、中江兆民、ジャン・コクトー、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジェームズ・ディーン、つげ義春
オスマントルコ皇帝マフムト2世の一族①~曽国藩、東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎、袁世凱、黄金栄、蒋介石、小津安二郎、手塚治虫、ジャン・クロード=カリエル、ヴェルナー・ヘルツォーク
オスマントルコ皇帝マフムト2世の一族②~胡林翼、山口春吉、北一輝、大杉栄、鄧小平、ルイス・ブニュエル、サルトル、池田大作、キューブリック、宮崎駿、セックス・ピストルズ、マイケル・ジャクソン
オスマントルコ皇帝マフムト2世の一族③~李鴻章、勝海舟、福沢諭吉、坂本龍馬、張嘯林、杜月笙、黒澤明、田中角栄、習近平国家主席、マーティン・ルーサー・キングJr、ドゥテルテ大統領、橋本龍太郎
オスマントルコ皇帝アブデュルメジト1世の一族~犬養毅、頭山満、義和団の乱、幸徳秋水、文鮮明、大山倍達、田岡一雄、高畑勲、安孫子素雄、梶原一騎、アントニオ猪木、鳥山明、高田延彦、秋元康
オスマントルコ皇帝メフメト5世の一族~孫文、夏目漱石、張作霖、橋本忍、毛沢東、徳田球一、金日成、小沢一郎、金丸信、藤本弘、赤塚不二夫、ジャッキー・チェン、金正恩委員長
特別篇 宇宙人とぼく
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オスマントルコ皇帝ムラト2世の一族~イヴァン大帝、チューダー朝イングランド王国、宗教革命、エリザベス女王、清教徒革命、第一次サウード王国、第二次サウード王国、サウジアラビア王国

 

オスマントルコ皇帝ムラト2世の子

 

Orhan Çelebi(?~1453)

イヴァン3世(1440~1505) モスクワ大公 在位1462~1505

 

ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。イヴァン3世wikiより

 

※生没年が不詳のオスマントルコ皇帝の子Kasimは、じつはイヴァン3世としてモスクワ大公に即位し、イワン大帝と呼ばれた。

 

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モスクワ大公イヴァン3世の子

 

イヴァン・マラドイ(1458~1490)※画像なし

ヘンリー7世(1457~1509) チューダー朝初代イングランド王 在位1485~1509

 

イヴァン・マラドイは1468年のカザン・ハン国の統治者イブラーヒーム(İbrahim Xan)に対する遠征、1471年のノヴゴロド遠征に参加している。1476年と1478年に父イヴァン3世が首都モスクワを離れた際には、その君主代行を務めている。

1485年、父イヴァン3世が母親の実家トヴェリ公爵家を取り潰すと、イヴァン・マラドイは母方の血統を根拠にトヴェリ公となった。これと前後して、イヴァンは重い関節炎に苦しむようになった。レビという医者が彼を治療したが甲斐無く、1490年にイヴァンは32歳で死去した。イヴァン・マラドイwikiより

 

イングランド王ウィリアム1世(征服王)とフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダ(アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫)の四男。ロベール2世、ウィリアム2世の弟。子にマティルダ等。後にプランタジネット朝を開くヘンリー2世は外孫に当たる。ヘンリー1世wikiより

 

※イヴァン大帝の子イヴァン・マラドイは、工作員として30代の頃にイングランドに潜入し、チューダー家に接近してヘンリー1世となった。1485年、ヘンリー1世はチューダー朝の初代王となった。その2年後、イヴァンはロシアで自分を死んだことにし、ヘンリー1世としてイングランドを統治した。

 

ユーリー・イヴァノヴィチ(1480~1536)  ドミトロフ公※画像なし
マルティン・ルター(1483~1546) ルター派教祖
フリードリヒ・ツヴィングリ(1484~1541) 改革派教祖
トマス・クロムウェル(1485~1540) 聖公会教祖

 

ルターは宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。ルターwikiより

 

スイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分においてルターと意見を異にしていた。彼らはマールブルク会談で多くの論点について合意したが、聖餐論で一致することができなかった。カトリック諸州との内戦の中で戦死した。47歳だった。 ツヴィングリwikiより

 

教皇庁からの独立に伴い、クロムウェルは国王に、イングランドにおける教会の頂点に立つことを進言する。1534年に議会を通過させた首長令(国王至上法)によって、イングランド国教会はローマ・カトリック教会から離脱し、国王ヘンリー8世は「信仰の擁護者」として国教会の長となった。国王の傀儡となったカンタベリー大司教トマス・クランマーもまた王の婚姻無効を認めた。トマス・クロムウェルwikiより

 

※ユーリーは庶子の異母兄弟数十人を投入して影武者部隊を作り、故郷であるロシアを後にした。ドミトリーは、タナトスの邪教から民衆を解放するため、ヨーロッパ各地でプロテスタント運動を起こした。マルティン・ルター、フリードリヒ・ツヴィングリ、トマス・クロムウェルは同一人物である。その証拠に3人とも生没年がかすっているし、何よりも奇妙なことに3人とも同じような帽子を被っている。

トマス・クロムウェルは気の毒にも、理不尽な理由によって家族であるはずのヘンリー8世に処刑されたのだが、実際にはルター派に集中したいルターが、クロムウェルを一足先に死んだことにしたのだと考えられる。

 

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チューダー朝初代イングランド王ヘンリー7世の子

 

スレイマン1世(1494~1566) オスマントルコ帝国第10代皇帝 在位1520~1566

ヘンリー8世(1491~1547) チューダー朝イングランド王 在位1509~1547
トマス・クランマー(1489~1556) カンタベリー大主教

ウィリアム・ウォルシンガム(?~1534) フランシス・ウォルシンガム父※画像なし

ジョン・カリー(1491~1552) フランシス・ウォルシンガム養父※画像なし

グスタフ1世(1496~1560) ヴァーサ朝初代スウェーデン王 在位1523~1560

西郷純久(148?~?) 西郷氏の祖※画像なし

少弐資元(1489~1536) 少弐氏16代当主※画像なし

 

絶頂期においては、魅力的で教養があり老練な王だと同時代人から見られ、ブリテンの王位についた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者であると描かれている。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動した。薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望した。そのため6度結婚し、イングランドにおける宗教改革を招いた。次第に肥満して健康を害し、1547年に薨去した。晩年には好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている。ヘンリー8世wikiより

 

大司教ウィリアム・ウォーアムが1532年に死去し、国王ヘンリー8世はその後継者を探し始めた。国王の右腕だったトマス・クロムウェルは当時ケンブリッジ大学の教授だったトマス・クランマーを就任させるべきだと進言し、その翌年クランマーはカンタベリー大司教に就任した。1548年に聖公会祈祷書を完成させた。キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を承認した。ちなみに、『ユートピア』の著者として知られるトマス・モアは国王の離婚を痛烈に批判し、この時期に処刑されている。トマス・クランマーwikiより

 

※ヘンリー8世は56歳で死んだことにし、トマス・クランマーとしてカンタベリー大主教の座に就き、プロテスタントの普及に努めた。その後、9年間生きたが、娘であるメアリーに処刑された。しかし、処刑されたのは影武者であり、本体は日本に落ち延び、西郷氏を儲けた。西郷の由来は西(肥前)のチューダー(郷)である。チューダーを「サト」と呼び「郷」を当て字したものだ。西郷隆盛は、愛新覚羅の一族に属している。

 

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チューダー朝第2代イングランド王ヘンリー8世(ウィリアム・ウォルシンガム)の子

 

エリザベス1世(1533~1603) チューダー朝イングランド女王 在位1558~1603
フランシス・ウォルシンガム(1532~1590) スパイマスター

龍造寺隆信(1529~1584) 肥前国戦国大名

 

エリザベスはウィリアム・セシルをはじめとする有能な顧問団を得て統治を開始し、最初の仕事として、父の政策を踏襲し「国王至上法」を発令し、「礼拝統一法」によってイングランド国教会を国家の主柱として位置づけた。 エリザベスは結婚することを期待され、議会や廷臣たちに懇願されたが、結婚しなかった。この理由は多くの議論の的になっている。年を経るとともにエリザベスは処女であることで有名になり、当時の肖像画・演劇・文学によって称えられ崇拝された。 エリザベス1世wikiより

 

エリザベス女王は1570年にローマ教皇に破門され、以降イエズス会士などカトリック宣教師がイングランドに潜入してきて反エリザベス謀議を行うようになった。先のリドルフィ陰謀事件もカトリックによって起こされた事件であった。1580年代になると教皇は一層反エリザベス姿勢を強め、エリザベスを暗殺した者には祝福を与えるとまで宣言し、カトリックのエリザベス暗殺謀議も一層増加した。

これに対抗してウォルシンガムは国内外に情報網・監視網を張り巡らせ、秘密警察業務にあたった。多くの反エリザベス陰謀がウォルシンガムの組織によって摘発された。彼の秘密諜報活動の予算は増額され続け、ヨーロッパの主要都市ほぼ全てにウォルシンガムのスパイが放たれた。こうした大規模諜報活動のおかげでエリザベスは20回以上も暗殺計画から助かっている。 フランシス・ウォルシンガムwikiより

 

※敵が多いヘンリー8世は、息子を娘として育てた。息子ならすぐに殺される可能性もあるが、娘なら生き延びる可能性が高かった。思春期になると、身代わりの庶子の娘をエリザベスとして徴用した。エリザベス役から解放されたフランシスは、身代わりのエリザベスの補佐をしながら、スパイマスター、ウォルシンガムとして生きた。

しかし、途中でエリザベスが敵に討ち取られた。エリザベスが殺害されたことが公になるとマズイので、フランシスは自身がエリザベス1世を演じ、イングランド女王に即位した。エリザベス女王が不自然なまでに身体をドレスで覆い隠し、結婚もせず、処女と呼ばれたのはウォルシンガムが女王を演じていたのが原因である。

 

エドワード6世(1537~1553) チューダー朝第3代イングランド王 在位1547
クリストファー・ハットン(1540~1591)

 

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは、父の死に伴い9歳で即位した。ヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう遺言を書いていたが、エドワードの母方の伯父であるエドワード・シーモアが握りつぶした。エドワード・シーモアはエドワード6世の即位直前にサマセット公位を創設し、自ら護国卿(摂政)となってイングランドの事実上の支配者となった。 エドワード6世wikiより

 

※敵が多いエドワード6世は16歳で死んだことにし、その後はクリストファー・ハットンとして生き、姉(兄?)であるエリザベス女王を終生サポートした。

 

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ジョン・カリー(ヘンリー8世)の玄孫

 

エリザベス・カリー(1576~1635) ジョージ・カリーの子

東郷重虎(1574~1621) 東郷氏の祖

 

※エリザベスには影武者がいたが、エリザベスが無事に成人すると、その影武者は独立して日本に移住し、東郷氏を儲けた。東郷の由来は東(薩摩)のチューダー(郷)である。西郷と同じようにチューダーを「サト」と呼び、「郷」を当て字している。東郷氏からは東郷平八郎が輩出されているが、彼は西郷隆盛と同じで愛新覚羅の一族に属している。

 

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龍造寺隆信(フランシス・ウォルシンガム)の孫

 

龍造寺高房(1586~1607) 肥前国佐賀藩主

ロバート・デヴロー(1591~1646) 第3代エセックス伯

 

一人息子に先立たれていたため、彼の死とともにエセックス伯爵位は廃絶した。ヘレフォード子爵位は遠縁で初代ヘレフォード子爵ウォルター・デヴァルーの末息子の家系であるウォルター・デヴァルーによって継承された。議会招集令状により創設された爵位であるフェラーズ男爵とバウチャー男爵は、男子なき場合に姉妹間に優劣がない女系継承が可能だが、彼の姉は2人あったため、継承者が決まらず、停止(abeyance)となった。しかしフェラーズ男爵位は1677年になってロバート・シャーリーが継承者に確定した。 wikiより

 

ロバート・デヴロー(1632~1637) 第3代エセックス伯の子※画像なし
ジョン・ロック(1632~1704) 英国哲学者
サウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムクリン(1640~1725) サウード家の祖※画像なし

 

哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論』などにおける彼の自由主義的な政治思想は名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約や抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。 ジョン・ロックwikiより

 

※スパイマスターと呼ばれ、エリザベス女王を演じたウォルシンガムの曾孫ロバートは、5歳で早世したことにされ、ジョン・ロックとして育った。その後、ジョン・ロックはイングランドを離れてアラビア半島に移り、サウード家の祖となった。サウードの由来はチューダーである。チューダー=シューダ=サウードとなる。

 

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サウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムクリン(ジョン・ロック)の子

 

ムハンマド・ビン・サウード(?~1765) 第一次サウード王国※画像なし

トマス・ペラム・ホールズ(1693~1768) ホイッグ党

ヘンリー・ペラム(1694~1754) ホイッグ党

 

ホイッグ党に所属し、ロバート・ウォルポールや弟ヘンリー・ペラムの政権の閣僚を務めた後、2期にわたって首相(在職:1754年3月16日 - 1756年11月16日、1757年7月2日 - 1762年5月26日)を務めた。首相在任中はフレンチ・インディアン戦争や七年戦争などフランスとの戦争に追われた。トマス・ペラム・ホールズ wikiより

 

1717年からホイッグ党の庶民院議員となり、ロバート・ウォルポール政権で閣僚職を務めた。1742年のウォルポール失脚後、反ウォルポール派の第2代カートレット男爵ジョン・カートレットとの権力闘争に勝利して1743年8月から首相を務め、ウォルポール後のホイッグ政治を主導した。分裂しかけていたホイッグ党の結束を維持し、野党トーリー党からの登用も行うなどして議会の信任を保ち続け、長期政権を築いた。1748年にはアーヘンの和約を締結してオーストリア継承戦争を終結させた。ヘンリー・ペラムwikiより

 

※ムハンマド・ビン・サウードはジョン・ロックの子であるが、サウードはイングランドに帰還し、トマス・ペラム・ホールズ、ヘンリー・ペラム兄弟に化けて、邪教に支配されたイギリス人を解放すべく、ホイッグ党を設立し、真の民主主義を目指した。

 

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サウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムクリンの子

 

ムハンマド・イブン=サウード(1697~1765) 第一次サウード王国初代王 在位1725~1765


トゥルキー・ビン・アブドゥッラー(1755~1834) 第二次サウード王国初代王 在位1824~1834

 

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トゥルキー・ビン・アブドゥッラーの子

 


アブドゥル・アズイーズ・イブン・サウード(1876~1953) サウジアラビア王国初代王 在位1932~1953

 

※当時サウジアラビアでは厳格なワッハーブ派を国教としていたこともあり、イスラム教の刑罰に基づき泥棒は右手首を切り落とすという厳罰をとっていた。アメリカ人はこの厳罰を止めるように度々諫言するが、「罪を償わせるために何年も牢屋に入れるのと、いましめのために手首を斬って釈放するのと、果たしてどちらが個人の自由を尊重しているのか?」と答えて、刑法を改めることはなかった。

 

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サウジアラビア王国初代王イブン・サウードの子

 

サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ(1902~1964) サウジアラビア王国第2代王 在位1953~1964

 

※サウードはベドウィンに人気があった。また、外国語を全然話せないことを誇りとしていたという。しかし、後に堕落してハレムとキャデラックの趣味にふけったという。

 

ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ(1913~1982) サウジアラビア王国第4代王 在位1975~1982

 

サウード家には心臓発作で亡くなる者が多く、旅行中の発作に備え手術室を設置したボーイング747を購入していたが、1982年6月13日、やはりハーリドも心臓発作で没し、ファハドが後を継いだ。 wikiより

 

 

サルマーン・ビン・アブドゥル・アズイーズ(1935) サウジアラビア王国第7代王 在位2015~現在

 

2017年11月、息子のムハンマド王太子が率いる反汚職委員会が、ムトイブ王子(国家警備相)やアルワーリド王子ら王子11人を含む複数の閣僚経験者を逮捕した。表向きは汚職容疑であるがムハンマドが志向する急進的な改革やサルマーンとムハンマドの体制に対する抵抗勢力を潰すためであると観測された。 wikiより

 

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サウジアラビア王国初代王イブン・サウードの孫

 

Faisal bin Musaid(1944~1975) Musa'id bin Abdulaziz Al Saudの子※画像なし

 

※1975年、Faisal bin Musaidは、サウジアラビア王国第3代王ファイサル(西本願寺門主大谷光照の一族)を暗殺した。

 


ムハンマド・ビン・サルマーン(1985) サウジ皇太子※サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズの子

 

2018年10月、ジャーナリストのジャマル・カショギがトルコのイスタンブールにあるサウジアラビア領事館に入館後に行方不明になっている事件に関連し、トルコ政府は「カショギがサウジアラビア領事館の中で殺害されたという証拠を持っている」と述べた。なお、オンラインニュースサイトの「ミドル・イースト・アイ」は、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子のボディガードが実行犯であると報じている。

2018年11月16日、米紙ワシントン・ポストは消息筋の話として、米中央情報局はカショギ殺害事件の黒幕はムハンマド・ビン・サルマン王太子だと結論付けたと報じた。 wikiより

 

※2017年11月、ムハンマドが率いる反汚職委員会が、ムトイブ王子(国家警備相)やアルワーリド王子(1955生)ら王子1人を含む複数の閣僚経験者を逮捕した。カショギ殺人事件は、ムハンマド・ビン・サルマーンに対するCIAの仕返しだと考えられる。

アルワーリド王子はアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ(西本願寺門主大谷光照の一族)の子Mutaib bin Abdullah(1952生)の影武者と考えられる。

 

 

 


オスマントルコ皇帝メフメト2世の一族~マクシミリアン1世、バイエルン王国、交響曲の父ハイドン、サド侯爵、文豪ゲーテ、楽聖モーツァルト、ヘミングウェイ、三島由紀夫、シド・バレット、トランプ大統領

 

オスマントルコ皇帝メフメト2世の子

 

Sultan Cem(1459~1495)

ヘンリー7世(1457~1509) チューダー朝初代イングランド王 在位1485~1509

マクシミリアン1世(1459~1519) ハプスブルグ朝神聖ローマ帝国初代皇帝

 

自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめ、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝(Maximilian der Große)と称される。また武勇に秀でな体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。マクシミリアン1世wikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子ジェム・スルタンは36歳で死んだことにし、ヘンリー7世としてチューダー朝イングランド王に即位し、一方でマクシミリアン1世として神聖ローマ帝国皇帝に即位した。

 

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ハプスブルグ朝マクシミリアン1世の子

 

Maximilian Friedrich von Amberg(1511~1553)※画像なし
フランシスコ・ボルハ(1510~1572) イエズス会

 

フランシスコの総長としての目覚しい働きは、歴史家らをして「イグナチオ・デ・ロヨラ以降で最高の総長」と言わしめる事になった。彼はローマ学院(Collegium Romanum) を創設したが、これが現在のグレゴリアン大学となった。ここで多くの宣教師が養成され、世界各地へと赴いた。さらに彼は歴代のローマ教皇や王達のアドバイザーとなり、修道会全体を強力に指導した。これほどの地位にあっても、彼個人はつましい生活を送り、生前から聖人の誉れが高かった。フランシスコ・ボルハwikiより

 

※ハプスブルグ朝神聖ローマ皇帝の子マクシミリアムは42歳で死んだことにし、最後の19年間をイエズス会士フランシスコ・ボルハとして生きた。

 

Christoph Ferdinand(1522)※画像なし
蜂須賀正勝(1526~1586) 蜂須賀氏の祖

 

天正4年(1576年)の天王寺合戦に参加。秀吉勢の先鋒を務めて、「楼岸(ろうのきし)一番の槍」の手柄を挙げ、中村重友と共に一揆勢の首も多数上げて、秀吉より感状と100石の加増を与えられ、さらに信長からも褒美として定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けた。 蜂須賀正勝wikiより

 

※蜂須賀の名の由来はヴァチカンとシケリアの組み合わせである。ヴァチカン+シケリア=ヴァチシケ=蜂須賀となる。

 

・カール5世(1500~1558) ハプスブルグ朝第4代神聖ローマ皇帝 在位1519~1556

・フェルディナント1世(1503~1564) ハプスブルグ朝第5代神聖ローマ皇帝 在位1556~1564

・マクシミリアン2世(15271~576) ハプスブルグ朝第6代神聖ローマ皇帝 在位1564~1576

 

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ハプスブルグ朝マクシミリアン2世の子

 

フェルディナント(1551~1552)※画像なし
マテオ・リッチ(1552~1610) イエズス会

 

フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。 マテオ・リッチwikiより

 

※ハプスブルグ朝皇帝マクシミリアン2世は、フェルディナントを死んだことにしてイエズス会士マテオ・リッチとして育てた。

 

・ルドルフ2世(1552~1612) ハプスブルグ朝第7代神聖ローマ皇帝 在位1576~1612

・マティアス(1557~1619) ハプスブルグ朝第8代神聖ローマ皇帝 在位1612~1619

・フェルディナント2世(1578~1637) ハプスブルグ朝第9代神聖ローマ皇帝 在位1619~1637

・フェルディナント3世(1608~1657) ハプスブルグ朝第10代神聖ローマ皇帝 在位1637~1657

・フェルディナント4世(1633~1654) ハプスブルグ朝第11代神聖ローマ皇帝 在位1653~1654

・ヨーゼフ1世(1678~1711) ハプスブルグ朝第13代神聖ローマ皇帝 在位1705~1711

・カール6世(1685~1740) ハプスブルグ朝第14代神聖ローマ皇帝 在位1711~1740

 

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フランツ1世(1708~1765) ハプスブルグ=ロートリンゲン朝初代神聖ローマ皇帝 在位1745~65

 

神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1745年 - 1765年)、ロレーヌ(ロートリンゲン)公(フランソワ3世エティエンヌ (François III Étienne)またはフランツ3世シュテファン(Franz III. Stephan)、1729年 - 1737年)、トスカーナ大公(フランチェスコ2世(Francesco II)、在位:1737年 - 1765年)。全名はフランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Stephan von Lothringen)。ハプスブルク=ロートリンゲン朝の最初の皇帝である。マリア・テレジアの夫であり、この婚姻により帝位を継承するが、自身が領していたロレーヌ(ロートリンゲン)公国はフランスへ譲らなければならなかった。2人の間にはヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人(男子5人、女子11人)の子が生まれた。wikiより

 

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ハプスブルグ朝フランツ1世の子

 

マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1737~1740)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809) 作曲家

 

弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツ国歌(ドイツの歌)に用いられている。 ハイドンwikiより

 

※フランツ1世の第一子マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒは、実際には男子として生まれた。女子として育てていたのは敵の目を欺くためである。その後、3歳で死んだことにするとマリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒはフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとして育てられた。ハイドンが5年早く生年を偽っているのは正体を隠すためだろう。ハイドンは、父であるフランツ1世を讃える皇帝賛歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」を作曲している。

 

マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(1740~1741)

マルキ・ド・サド(1740~1814) 貴族

 

※フランツ1世の子として生まれたサド侯爵は、敵の目を欺くために女子マリアとして育てられた。その後、マリアは1歳で死んだことにして潜伏し、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドとしてフランスの裕福な家で育てられた。サド侯爵は、貴族の腐敗と退廃を描いた著作「ソドム120日」「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」などを残している。

 

レオポルト2世(1747~1792) ハプスブルグ=ロートリンゲン朝第3代神聖ローマ皇帝 在位1790~92

 

レオポルト2世自身は進歩的思想の持ち主であったが、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるため、皇帝即位後は農奴制廃止令の撤回、賦役の復活などの反動政策を行った。一方で質素な生活を好み、父から受け継いだ遺産を増殖させることにも成功した。 レオポルト2世wikiより

 

ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ(1750~1762)

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832) 作家

 

※フランツ1世の子として生まれたゲーテは、敵の目を欺くために女子ヨハンナとして育てられた。その後、ヨハンナは12歳で死んだことにして潜伏し、ヨハンとしてフランクフルトの裕福な家で育てられた。ヨハンはその後、名士ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとしてヨーロッパ全土に名を知られた。

 

マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(1756~1801) ケルン大司教

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791) 作曲家
マクシミリアン1世(1756~1825) バイエルン王国初代王

ウィリアム・ブレイク(1757~1827) 詩人

 

バイエルン王マクシミリアン1世はライン同盟に加盟していた王侯のうちで最も重要な一員であり、ナポレオンとの同盟をライプツィヒの戦いの直前まで維持したが、オーストリアに地位と領土が保証されたことで反ナポレオン側に回った。しかし1814年のパリ条約では、旧ヴュルツブルク公国と引き換えにチロルをオーストリアに返還している。ウィーン会議にマクシミリアン1世は自ら出席したが、ここでもオーストリアに対してさらに譲歩しなければならなかった。旧プファルツ選帝侯国の一部(現在のラインラント=プファルツ州南部のプファルツ地方、飛び地となった)を返還される代償に、イン川沿いの地域などを割譲させられたのである。マクシミリアン1世は領土の一体性を維持するために奮闘したが、失望に終わった。 マクシミリアン1世wikiより

 

※写真左上は姉マリー・アントワネットとルイ16世を訪問するマクシミリアン・フランツの図。右上はモーツァルト、右下はウィリアム・ブレイク、左下は初代バイエルン王マクシミリアン1世である。神聖ローマ皇帝の子マクシミリアン・フランツは幼少期はお忍びで楽聖モーツァルトとして演奏、作曲活動を行った。同時に、イギリスにも渡りウィリアム・ブレイクとして活動していた。イギリス不在の際は、庶子の影武者がブレイクを演じた。1781年、モーツァルトはウィーンに移るとフリーの作曲家となり、レッスン、楽譜の出版で生計を立てたが、同年にマクシミリアン・フランツはケルン大司教に就任している。

大司教の仕事が忙しくなると、マクシミリアン・フランツは音楽活動を断念し、1791年にモーツァルトを死んだことにして大司教の仕事に専念した。大司教時代、マクシミリアン・フランツはパトロンとしてベートーヴェンを支援している。マクシミリアン・フランツにとって、音楽に対する情熱は忘れられるものではなかった。

その後、マクシミリアン・フランツは選帝侯として45歳でバイエルンに迎えられた。1801年、ケルン大司教マクシミリアン・フランツは自分を死んだことにし、そのままマクシミリアン1世を名乗ってバイエルン王国初代王に即位した。その後、マクシミリアン2世を死んだことにしたマクシミリアン・フランツは、最後の2年をブレイクとしてイギリスで生きた。まことに数奇な運命である。交響曲の父ハイドン、サド侯爵、文豪ゲーテ、楽聖モーツァルトは神聖ローマ皇帝フランツ1世の子であり、マリー・アントワネット、ヨーゼフ2世、レオポルド2世の兄弟であった。

このように、真の皇帝は一芸にも秀でているものだ。芸術を嗜み詩を謳うことを愛する。それを証明するように、タナトスの一族に芸術家はひとりもいない。真の王は、常に人々を喜ばせている

 

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神聖ローマ皇帝レオポルド2世の子

 

フランツ2世(1768~1835) 最後の神聖ローマ皇帝 在位1792~1806

 

マリア・アンナ(1770~1809) 修道女※画像なし

ルドヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827) 作曲家

 

※レオポルド2世の子として生まれたマリア・アンナは、一生結婚せず、修道女として39歳で死んでいる。しかし、実際にはマリア・アンナは本願寺の目を欺くために女子として育てられた男子であった。ベートーヴェンの正体は神聖ローマ皇帝の子であり、修道女マリア・アンナだった。若い頃、危険が迫るとベートーヴェンは修道女に変身して危機を逃れていた。

その後、作曲に専念するため、1809年に39歳でマリア・アンナを死んだことすると、ベートーヴェンはそれと前後して作曲専門にシフトし、中期を代表する作品を書いた。しかし、本願寺に神聖ローマ皇帝の子としてマークされていたベートーヴェンは、本願寺の指示による小間使いのイヤガラセ、死んだ弟の妻によるイヤガラセ、寝ている間に耳に樹脂を塗りこめられて唖にされるなど、皇帝の子でありながら身体的にも精神的にも苦悩した。

 

アントン・ヴィクトール(1779~1835)※画像なし
ホセ・デ・サンマルティン(1778~1850) アルゼンチン独立運動

 

アルゼンチン出身の軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アルティーガスと並ぶ解放者として称えられている。

1812年、ラ・プラタ連合州として独立していた母国に帰国し、ブエノスアイレスの革命政府に参加する。当時のアルゼンチンは混乱し、正式な独立を宣言できずスペインとの従属関係も続いていた。彼は政治闘争とは距離を置き軍人としての職務に徹していた。サン・マルティンはスペイン軍を打倒し、アルゼンチンだけでなく全ての南アメリカ諸国が独立すべきだと考え、それを実現するにはスペインの南アメリカ支配の拠点であるペルーとりわけリマを解放すべきだと主張した。ホセ・デ・サンマルティンwikiより

 

※神聖ローマ皇帝レオポルト2世の子ヴィクトールはサンマルティンとしてアルゼンチン独立運動を指揮した。そこには常に、ダヴィデの一族として世界を悪から守護する使命があった。その後、ヴィクトールは死んだことにして後の15年間はサンマルティンとして生きた。

 

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ゲーテの子

 

ジュリウス・アウグスト・ウォルター(1789~1830)※画像なし

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824) 詩人

 

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神聖ローマ皇帝フランツ2世の子

 

ヨーゼフ・フランツ・レオポルト(1799~1807)

フランツ・シューベルト(1797~1828)

 

※最後の神聖ローマ皇帝の子ヨーゼフ・フランツ・レオポルトは8歳で早世したが、実際には潜伏しフランツ・シューベルトに名を変えて生き延びていた。フランツをそのまま受け継いでいる形だ。シューベルトはベートーヴェンとは家族であるため、仲が良かった。しかし、本願寺がシューベルトを神聖ローマ皇帝の子としてマークしていたため、シューベルトは31歳で殺害された。

 

アマーリア・テレジア(1807)※画像なし

マクシミリアン2世(1811~1864) バイエルン王

 

1811年11月28日、ルートヴィヒ1世(当時王太子)とその妃であったザクセン=ヒルトブルクハウゼン公フリードリヒの娘テレーゼの間に第一子としてミュンヘンで生まれた。弟にギリシャ国王オソン1世、バイエルン摂政ルイトポルトらがいる。 1832年、シュヴァンシュタイン城を購入、1853年にこの城をホーエンシュヴァンガウ城に改築。1864年3月10日にミュンヘンで死去、当地のテアティナー教会に葬られた。 マクシミリアン2世wikiより

 

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バイエルン王マクシミリアン1世の子

 

オソン1世(1815~1867) ギリシア国王 在位1833~1862

ネイサン・ベドフォード・フォレスト(1821~1877) クー・クラックス・クラン創設

 

「白人至上主義団体」とされるが、正確には北方人種を至上とし(ノルディック・イデオロギーという)、主に黒人、アジア人、近年においてはヒスパニックなどの他の人種の市民権に対し異を唱え、同様に、カトリックや、同性愛者の権利運動やフェミニズムなどに対しても反対の立場を取っている。 KKKwikiより

 

※ネイサン・ベドフォード・フォレストはマクシミリアン1世の子として生まれた。1822年にデンマーク・ウィージーの暴動、1831年にナット・ターナーの乱など、黒人による蜂起が発生した。これらの蜂起はアメリカ侵略を目指すヴードゥー教が指揮していた。そのため、K・K・Kはヴードゥー教の黒人指導者や黒人信者を狩るために結成された。そこには常に、ダヴィデの一族として世界を悪から守護する使命があった。

ヴードゥー教とは無縁の一般の黒人は標的にされなかった。一般の黒人は黒い肌のせいで貧しいが、ヴードゥー教の黒人は、黒い肌を武器に財を成し、黒い肌を盾に、自分たちを攻撃する善の白人指導者をレイシストと呼び、貶め、攻撃している。

 

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アーダルベルト・フォン・バイエルンの子(ルートヴィヒ1世の孫)

 

ルートヴィヒ・フェルディナント(1859~1949) バイエルン王子※画像なし

アルチュール・ランボー(1854~1891) 詩人、奴隷商人

オスカー・ワイルド(1854~1900) 作家

 

※ランボーとワイルドは優性遺伝子ブリーダーによって生まれたバイロンの子と考えられる。ランボーとワイルドは異母兄弟である。詩人であるランボーやワイルドは諜報員として、更にお互いの影武者として暗躍した。ランボーは奴隷商人に化け、諜報員として紅海周辺をうろついた。ワイルドの正体を知っていた本願寺は、ホモ容疑でワイルドを投獄し、破産宣告をして破滅させた。

 

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ルートヴィヒ・フェルディナントの子(ルートヴィヒ1世の曾孫)

 

アーダルベルト・フォン・バイエルン(1886~1970)※画像なし

マイケル・コリンズ(1890~1922) IRA長官

ジョン・ヴェルノー・ブーヴィエ2世(1891~1957)

 

アイルランドの政治・軍事指導者。アイルランド独立運動を指揮し、アイルランド議会の財務大臣、アイルランド共和軍(IRA)の情報部長、アイルランド国軍の司令官、英愛条約交渉においてはアイルランド側の代表の一員などをつとめた。1922年、アイルランド内戦のさなかに暗殺された。一種独特のカリスマ性を持ち、生前から人気の高かったマイケル・コリンズは死後、フィナ・ゲール党およびその支持者たちによって独立運動における「殉教者」として英雄視されるようになる。 マイケル・コリンズwikiより

 

※マイケル・コリンズは、ルートヴィヒ・フェルディナントの子として生まれた。マイケル・コリンズは32歳で亡くなっているが、実は死んだと見せかけて80歳くらいまで生きていたようだ。John Vernou Bouvier2世は、マイケル・コリンズの異母兄弟であり、コリンズの影武者を務めていたと考えられる。

Bouvierは、コリンズの異母兄弟であり、マクシミリアン2世の庶子のひとりとして影武者を務めていたが、コリンスが亡くなった(芝居だが)のを機に解放された。トランプ大統領やボウソナロ大統領はコリンズの子で、ジャクリーヌはコリンズの影武者を演じていたBouvierの子である。

 

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イギリス国王ジョージ5世の子

 

エドワード8世(1894~1972) ウィンザー朝第3代イギリス王 在位1936

 

※母メアリー・オブ・テックは西本願寺門主大谷光尊の妹であり、ウィンザー朝の乗っ取りが目的であった。そのため、正統なイギリス王室の血が濃いエドワード8世は、本願寺の血が濃い弟ジョージ6世とその背後勢力によって追放された。

 

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イザベラ・フォン・バイエルンの子(ルートヴィヒ1世の曾孫)

 

フィリベルト(1895~1990)※画像なし

アントナン・アルトー(1896~1948) 作家、俳優

 

※アルトーは優性遺伝子ブリーダーによって生まれたランボーの子と考えられる。フランスの本願寺はアルトーを徹底的にマークし、大量のカトリック信者に命令して嫌がらせを続けた。それが原因でアルトーは精神病扱いされたが、自分と同じ被害者であるゴッホなどを擁護する著作を発表した。

 

ボナ・マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ(1896~1971)

マレーネ・ディートリヒ(1901~1992) 女優

 

エウジェーニオ(1906~1996)※画像なし

太宰治(1909~1948) 作家

 

※太宰は、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたアルトーの子と考えられる。父であるアルトーと同じように本願寺の徹底的なマークに悩まされた。罪悪感を刺激して精神的な攻撃をする本願寺のため、「生まれてすいません」という言葉を残している。

 

三島由紀夫(1925~1970) 作家、俳優、革命家

 

※三島は、優性遺伝子ブリーダーによって生まれた太宰の子と考えられる。三島は一度だけ太宰に会い、「あなたの文章は嫌いだ」と述べたという。「楯の会」を結成し、日本人の精神的改革を標榜したが本願寺に「無視しろ」と指示された自衛隊員たちに彼の声は届かなかった。頭が良い三島にさえ、本願寺が見えていなかったことは驚きである。

 

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アルフォンス・フォン・バイエルンの子(ルートヴィヒ1世の曾孫)

 

ヨーゼフ・クレメンス(1902~1990)※画像なし

アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961) 作家

 

ヘミングウェイによって創作された独特で、シンプルな文体は、冒険的な生活や一般的なイメージとともに、20世紀の文学界と人々のライフスタイルに多大な影響を与えた。ヘミングウェイは、ほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期に書き上げて、1954年にノーベル文学賞を受賞するに至った。wikiより

 

エリーザベト・マリア・アンナ(1913~2005)※画像なし

ウィリアム・S・バロウズ(1914~1997) ビートニク作家

 

※バロウズは、エリーザベトの影武者として生まれたと考えられる。少年時代は女子の格好をさせられて影武者を務めることもあっただろう。それがゲイになった原因かもしれない。代表作に「ソフトマシーン」「裸のランチ」などがある。

 

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フェルディナント・フォン・バイエルンの子(ルートヴィヒ1世の玄孫)

 

ルイス・アルフォンソ(1906~1983)※画像なし

ハワード・ヒューズ(1905~1976) 実業家、富豪、映画監督

フレッド・トランプ(1905~1999) トランプ大統領父

 

※ヒューズは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたコリンズの子と考えられる。ヒューズは映画監督として「地獄の天使」などの名作を残しているが、監督としてではなく、その謎の死によって一番知られているだろう。彼の死因は精神疾患ではなく、ネバダでの核実験批判である。

 

ドイツ系アメリカ人の不動産開発業者・慈善家である。息子に実業家であり第45代アメリカ合衆国大統領であるドナルド・トランプ、娘にアメリカ合衆国連邦裁判所判事のマリアン・トランプ・バリーがいる。

彼はニューヨーク市クイーンズ区では単世帯向け住宅を、東海岸にある主要な合衆国海軍造船所の近くでは職員が住む長屋や庭付きアパート(テラスハウス)を、ニューヨーク市全体では2万7000を超えるアパートを建設・運営した。フレッド・トランプwikiより 

 

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アーネスト・ヘミングウェイの子

 

ジャック・ヘミングウェイ(1923~2000)※画像なし

サム・ペキンパー(1925~1984) 映画監督

 

※ペキンパーの正体は、ヘミングウェイの子である。代表作には「ワイルドバンチ」「ガルシアの首」「わらの犬」などがある。

 

パトリック・ヘミングウェイ(1928)※画像なし

アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986) 映画監督

 

※タルコフスキーの正体は、ヘミングウェイの子である。代表作には「惑星ソラリス」「鏡」「ノスタルジア」「ストーカー」「サクリファイス」などがある。

 

グレゴリー・ヘミングウェイ(1931~2001)※画像なし

スタン・ブラッケイジ(1933~2003) 映像作家

 

※ブラッケイジの正体は、ヘミングウェイの子である。文明批判の急先鋒として、ブラッケイジはフィルムの特長である「撮影する」という行為をできるだけ拒否し、フィルムに直接ペイントしたり化学反応による偶然性を利用して作品を作った。代表作には「ドッグスターマン」などがある。

 

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ハワード・ヒューズの子(優性遺伝子ブリーダー?)

 


ドナルド・トランプ(1946) アメリカ合衆国第45代大統領 任期2017~現在

 

第45代アメリカ合衆国大統領。シャドー・バンキング隆盛期にアメリカ合衆国で知られた実業家。シティグループから融資を受け、みずから設立したカジノ・ホテル運営会社トランプ・エンターテイメント・リゾーツを経営。1990年代の事業再建にロスチャイルド、ウィルバー・ロス、そしてフィデリティ・インベストメンツを参加させた。 政治家として2000年の大統領選挙に出馬したが一時撤退した。2017年1月20日、第45代アメリカ合衆国大統領に就任。不動産会社トランプ・オーガナイゼーションの会長兼社長も務めている。2018年上半期にドッド・フランク法を緩和した。 wikiより

 


ジャイール・ボウソナロ(1955) 第38代ブラジル大統領 任期2018~現在

 

サンパウロ州グリセーリオ出身。思想は極右とされ、「ブラジルのトランプ」または「ブラジルのドゥテルテ」と呼ばれている。他にトロピカル・トランプ(熱帯のトランプ)の呼び名もある。2018年現在、進歩党(PP)によって選出されたブラジルの下院議員で第7期目を務めている。 wikiより

 

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ジョン・ヴェルノー・ブーヴィエ2世の子(ジャクリーヌ以外は優性遺伝子ブリーダー?)

 

フェデリコ・フェリーニ(1920~1993) 映画監督

 

※フェリーニは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブーヴィエの子と考えられる。監督作には「道」「甘い夜」「サテリコン」「道化師」「フェリーニのローマ」などがある。

 

ジュディ・ガーランド(1922~1969) 女優

シモーヌ・シニョレ(1921~1985) 女優

 

※2人は、優性遺伝子ブリーダーに世って儲けられたブーヴイエとマレーネ・ディートリヒの子と考えられる。ジュディはライザ・ミネリを儲け、シモーヌは優性遺伝子ブリーダーによってロミナ・シュナイダーを儲けている。

 

ジャクリーヌ・ケネディ・オナシス(1929~1994) ジョン・F・ケネディ妻

シャーリー・テンプル(1928~2014) 女優

マリリン・モンロー(1926~1962) 女優

 

1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは43歳であり、ジャクリーンも31歳でファーストレディとなった。しかし、わずか2年10カ月で夫が暗殺されて彼女はホワイトハウスを去った。そして5年後の1968年秋にギリシャの大富豪アリストテレス・オナシスと再婚し世界を驚かせた。ジャクリーヌ・ケネディ・オナシスwikiより

 

※ジャクリーヌはブーヴィエと母の子だが、シャーリーは優性遺伝子ブリーダーによって儲けられたブーヴイエとマレーネ・ディートリヒの子と考えられる。マリリン・モンローはシャーリー・テンプル本人だったと考えられる。シャーリーは結婚と同時に引退同然となるが、じつはマリリンに変身してハリウッドに再登場した。子役時代とは異なるセクシーな役柄に挑戦したかったようだ。ただ、ケネディ大統領が暗殺されると危険を察し、死んだことにしてシャーリーに戻り、88歳まで生きた。

 

シド・バレット(1946~2006) ミュージシャン、元ピンクフロイド

 

※シドは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブーヴィエの子と考えられる。ピンク・フロイドのリーダーとして稀有な才能を発揮したが、本願寺にマークされていたため、精神的な破綻をきたし、早々に引退した。本願寺のイヤガラセにはバンドメンバーのロジャー・ウォータースも加わっていた。彼はピンク・フロイドの楽曲のいくつかで、暗にシドをディスっている。そのためか、ロジャーは80年代後半に他のメンバーに追い出されてしまい、ピンク・フロイドの名前の使用権を巡って裁判沙汰を起こしている。

アルバム「原子心母」の1曲「もしも」が代表的な例である。「もしもぼくがキチガイになってもぼくを苦しめないでおくれ」「もしもぼくが良い人間であるなら友達との間に距離があることがわかるだろう」「もしもぼくがキチガイになってしまっても君はまたぼくを遊び仲間に入れてくれるだろうか」などと歌っている。

 

ペン・ジレット/右(1955) ペン&テラー

 

※ペン・ジレットは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブーヴィエの子と考えられる。ジレットはコメディアンであり、ケネディの子であるテラーと共に「ペン&テラー」を結成した。手品のタネ証しを芸風としている。出演映画にはアーサー・ペン監督による傑作ギャグ映画「死ぬのはオレたちだ!?」がある。また、ジレットは、ケネディの子ジャド・フェアが組んだアヴァンギャルド・ロックバンド「ハーフ・ジャパニーズ」の後援者としても知られている。

ただ、彼が家族であるはずのトランプ大統領を批判しているのが解せないところだ。ジレットの父と考えられるブーヴィエ2世は、トランプ大統領の祖父と考えられるマイケル・コリンズの影武者をやっていた。両者とも、バイエルン王マクシミリアン2世の子孫である。

 

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イングランド国王エドワード8世の子(優性遺伝子ブリーダーによる)

 

ダーク・ボガート(1921~1999) 俳優

 

※ダーク・ボガートは、ハロルド・ピンター脚本、ジョセフ・ロージー監督の「召使」「できごと」に出演し、一連のルキノ・ヴィスコンティ監督の作品「地獄に堕ちた勇者たち」「ベニスに死す」で大きな印象を残した。

 

スティーブ・ハケット(1955) ミュージシャン、元ジェネシス

 

※初期ジェネシスの音楽は貴族的と呼ばれたが、スティーブのギターの貢献大だと考えられる。が、それもそのはず。彼が正統なイギリス王室の血筋だったからだ。

 

 

 


オスマントルコ皇帝スレイマン1世の一族①~宇佐美定満、蘆名盛氏、柴田勝家、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光、伊達政宗、水戸光圀、乾隆帝

 


スレイマン1世(1494~1566) オスマントルコ帝国第10代皇帝 在位1520~1566
宇佐美定満(1489~1564) 上杉謙信家臣

長尾為景(1486~1543) 米沢藩初代藩主、上杉謙信、長尾晴景父※画像なし

 

46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では「壮麗帝(the Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、日本ではしばしばスレイマン大帝と称される。トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法帝(カーヌーニー)」のあだ名で知られている。スレイマン1世wikiより

 

天文17年(1548年)に長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐと定満はこれに従い、景虎と対立した上田長尾家の当主長尾政景に備えて要害に入る。天文18年(1549年)6月、景虎の家臣平子孫太郎に宛てた書状によると、定満は政景側の計略や脅迫を受けており、まだ自身に力が無く、家臣も士気が低下しているため、自分達だけに備えを任せれば後悔するであろうことを訴えている。 宇佐美定満wikiより

 

※スレイマン1世は日本で邪教が蔓延っていることを聞き、この邪教を退治すべく、4人の息子たちとともに日本に向かった。宇佐美の由来はオスマンである。オスマン=オスマ=宇佐美となる。また、定満の由来はスレイマンである。スレイマン=スデイマン=サダマン=定満となる。

 

長尾晴景(1509~1553)※画像なし

織田信秀(1511~1552) 織田信長父※画像なし

大友義鑑(1502~1550) 大友宗麟父※画像なし

蒲生定秀(1508~1579) 

 

※オスマントルコ皇帝スレイマン1世の子である長尾晴景色は、特筆すべきこととしては織田信秀を演じながら織田信長を儲けたことが挙げられる。大友宗麟の正体は異母兄弟のジハンギルだが、ジハンギルは大友義鑑の子である大友宗麟として大友家を継承した。大友の名の由来はオットマン(オスマン)である。オットマン=オットマ=大友となる。

 

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オスマントルコ皇帝スレイマン1世の子

 

メフメト(1521~1543)※画像なし

蘆名盛氏(1521~1580) 蘆名氏第16代当主

有馬義貞(1521~1577) 有馬晴信父※画像なし

木下弥右衛門(?~1543) 豊臣秀吉父※画像なし

高山右近(1522~1615)
千利休(1522~1591) 天下三宗匠

今井宗久(?~1593) 天下三宗匠※画像なし

津田宗及(?~1591) 天下三宗匠※画像なし

古田重定(?~1598) 古田織部父※画像なし

黒田職隆(1524~1585) 黒田孝高父※画像なし

稲葉重通(?~1598) 牧村利貞父※画像なし

 

天文19年(1550年)からは本格的に仙道(中通り)への進出を開始して田村隆顕と戦うが、田村氏を援助する常陸の佐竹氏の妨害もあって容易には進まなかったため、佐竹氏と敵対する相模の北条氏康や、甲斐の武田信玄と同盟して佐竹氏に対抗した。

また、内政面では金山開発に力を入れたり、簗田氏を商人司に起用することで流通支配の強化を図った。永禄4年(1561年)、庶兄・氏方の謀叛を鎮圧する。この年、盛氏は家督を嫡男・盛興に譲って、大沼郡岩崎城に隠居し、剃髪して止々斎と号した。しかし隠居後も政治・軍事の実権を掌握し、引き続き家中の統制にあたった。 蘆名盛氏wikiより

 

※父スレイマン1世と共にトルコから日本にやってきたメフメトは八面六臂の活躍をした。彼は、異母兄弟の庶子を影武者として投入し、たくさんの歴史上の有力人物を演じた。特筆すべきこととしては、メフメトは有馬義貞を演じながら有馬晴信を儲け、黒田職高を演じながら黒田孝高を儲け、木下弥右衛門を演じながら全国統一を果たした豊臣秀吉を儲けている。また、メフメトは千利休や高山右近をも同時に演じていた。

千利休の姓は里見であるが、これはソドムが由来である。利休七哲の瀬田正忠や蒲生氏郷の名もソドムとゴモラに由来している。つまり、彼らは天狗と呼ばれた宇宙人(科学の種族トバルカイン)と交流があったようだ。悪魔(仏教)が横行する日本の民が置かれた惨状を見ていられなかった宇宙人(科学の種族トバルカイン)は、地上に降りて里見氏を名乗り、邪教に対する蜂起の機会を狙っていた。そこにメフメトが現れ、意気投合した彼らは、邪教に対抗する切り札として「茶道」を編み出した。しかし、狡猾な本願寺に正体を見破られた利休は、秀吉の計らいで処刑されたことにされて宇宙人の仲間になったと考えられる。つまり、ケムトレイルを撒くフェイクプレーンには利休の一族が搭乗している。

 

アブドゥラー(1522~1526)※画像なし
柴田勝家(1522~1583)

 

若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。 wikiより

 

※スレイマン1世の子アブドゥラーは柴田勝家を演じ、異母兄弟である織田信秀や、その子である織田信長をサポートした。柴田勝家は本願寺にやられたが、一族郎党が皆殺しにされたことにして故地であるトルコに戻ってシャブタイ派を築き、更にメキシコの革命家サパタを生んでいる。

 

バヤズィト(1525~1561)※画像なし
滝川一益(1525~1586)

 

父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。更に中村一氏は甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。wikiより

 

ジハンギル(1531~1553)※画像なし
上杉謙信(1530~1578)

大友宗麟(1530~1587)

 

海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設のため各地の有力寺社(霊仙寺(現英彦山神宮)、羅漢寺など)を徹底的に攻撃したため、僧兵、国人領主の激しい抵抗を招き、さらに島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。大友宗麟wikiより

 

※オスマントルコ皇帝スレイマン1世の子ジハンギルは上杉謙信と大友宗麟を演じた。2人は同一人物である。キリシタン大名である宗麟は、まさに上杉謙信が死去した年(1578年)に洗礼を受けている点が興味深い。宗麟が自社仏閣を破壊したのも、忌まわしき本願寺の恐ろしさを思い知ったからだろう。九州にキリシタンによる独立国を建設しようと試みた。すべては日本から邪教を追放するための策であった。

 

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織田信秀(長尾晴景)の子

 

織田信長(1534~1582)

蒲生賢秀(1534~1584) ※画像なし

細川幽斎(1534~1610)

 

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。 織田信長wikiより

 

※覇王織田信長はオスマントルコ皇帝スレイマン1世の孫である。奇抜な発想と常人が思いもよらない戦術を駆使した信長は、破竹の勢いで日本全国を進軍した。また、織田信長は祖父スレイマン1世と同様に仏教を邪教と位置づけ、日本の国土から消滅させることを考えていた。しかし、偉大な織田信長は、本願寺門主証如の一族である明智光秀の謀反により討ち取られてしまう。歴史上では確かにそういうことになってはいるが、じつは、織田信長は「本能寺の変」のあとも生き延び、その後を細川幽斎として生きた。つまり、「本能寺の変」のあとも28年も生きていた。さすがに稀代の英雄である。易々と本願寺如きにやられるような器ではない。細川は、本能寺の変直後に剃髪し、幽斎に改名している。死んだことにして潜伏を決めた信長としては、幽斎の「幽」は、幽霊を意味しているのだろう。笑
細川幽斎に収まった信長は戦いに疲れたのか、歌道に精進した。ただ、偉大な信長の力を借りたい小野木重勝や前田茂勝らは細川幽斎の居城を包囲し、幽斎を戦いに引き釣り出そうとした。だが、1600年当時の信長(幽斎)は既に66歳である。老齢もあるが、本願寺の質VS量の戦いに疲れた信長は家族が懇願する帝王の復活を承知しなかったようだ。

それにしても筆者は当初、オスマントルコ皇帝スレイマン大帝の遺伝子を受け継いでいた偉大な信長でさえ、卑怯な本願寺にやられたと信じていた。確かに、実力でなら織田信長が本願寺に負けるはずはない。そしてその通り、今、信長がうまく逃げ出して、細川幽斎として生き延びていたことも知った。ただ、さすがの信長も「忍者を騙す」という顕如、教如の新機軸には、してやられたということになる。戦国時代は見た通りではなく、斯様に深いものである。

 

織田信包(1543~1614) 丹波柏原藩初代藩主

徳川家康(1542~1616) 江戸幕府初代征夷大将軍
服部半蔵正成(1542~1596)

 

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ日本全国を支配する体制を確立。15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代・安土桃山時代)が終結。 家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され264年間続く江戸時代を画した。徳川家康 wikiより

 

徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは彼の事である。だがあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士である。名は弥太郎、官位は石見守。慶長元年11月14日没。法号は専称院殿安誉西念大居士。服部半蔵正成wikiより

 

※徳川家康の正体は、織田信秀の子織田信包だった。つまり、家康は織田信長と兄弟だった。また、服部半蔵も徳川家康と同一人物だったと考えられる。三方ヶ原の戦いで大便を漏らした家康は影武者だったと考えられる。本物は服部半蔵として諜報活動に従事していた。家康を演じていた半蔵だが、慶長元年(1596年)5月8日、家康が秀吉の推挙により内大臣に任ぜられると、これを機に半蔵を死んだことにし、家康一本で生きることにした。

 

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木下弥右衛門(メフメト)の子

 


豊臣秀吉(1537~1598)

大村純忠(1538~1587)

 

尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。

天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 豊臣秀吉wikiより

 

永禄6年(1563年)、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係を持たず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。

また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行っている。しかし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになる。大村純忠 wikiより

 

※足軽の子、農民出身だなどといわれた正体不明の豊臣秀吉の正体は、じつはオスマントルコ皇帝スレイマン1世の孫であり、メフメト(木下弥右衛門)の子である。つまり、秀吉は信長や家康とは親戚(はとこ?)である。しかし、偉大な秀吉も本願寺の謀略に翻弄された。

本願寺勢力は秀吉の名を借りて朝鮮半島、明に出撃したが、秀吉はこれを止めることさえできなかった。秀吉にとっては実に不本意なことだったことだろう。オスマントルコの一族はパンジャブに拠点を持っていたため、秀吉は一時、「羽柴」を称した。羽柴の由来はパンジャブである。秀吉は同時に大村純忠を演じていたようだ。

 

豊臣秀長(1540~1591)※画像なし

島左近(1540~1600)
前田利家(1539~1599)

石田正継(?~1600)※画像なし

 

信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。前田利家wikiより

 

石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であり、『君臣禄を分かつ』の逸話として伝えられている(『常山紀談』)。もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もあるが、それでも破格の待遇であったことには違いがない。屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられた。 島左近wikiより

 

※豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、島右近、前田利家、石田正継などを演じたが、前田利家を演じていた際には、当然の如く兄である秀吉の側に付き、サポートしていた。一方では、豊臣秀長は島右近として石田光成に付いているのだが、石田光成は、秀長が石田正継を演じていた際に儲けた子である。彼は、兄をサポートし、子をサポートする人生を生きた。更に、秀長は僧侶である前田玄以をも演じていた。彼は僧侶でありながらキリシタンに理解を示し、キリシタン弾圧の際にはキリシタンを匿っている。また、彼は仏教の僧侶でありながら、逆に、仏教の僧侶による不行状を非難していた。

 

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蒲生賢秀(織田信長)の子

 

蒲生氏郷(1556~1596) 利休七哲
誠仁親王(1552~1586) 後陽成天皇父

 

元亀元年(1570年)4月、氏郷は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり一千余騎で参陣し、朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され(『隠心帖』)、5,510石の領地が加増された(『蒲生文武記』『氏郷記』)。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年(7月28日に元亀から天正に改元)8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げている。 wikiより

 

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徳川家康の子

 

松平信康(1559~1579)※画像なし

福島正則(1561~1624)

加藤清正(1562~1611)

 

母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。始めの禄高は200石であった。福島正則 wikiより

 

豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。加藤清正wikiより

 

※徳川家康が、子である信康に自害を迫ったことは不条理で理解しがたいこととして良く知られているが、この事件は、実際には敵である本願寺をターゲットにして作られたフェイクニュースだった可能性が高い。つまり、信康は死んだことにして潜伏し、別人として生きていた。彼は父家康の命で自害したことにし、その後の44年間を加藤清正、福島正則として生きたのだ。徳川信康は福島正則時代、加藤清正時代を通して豊臣秀吉に付いたが、加藤清正を演じていた信康が、秀吉が亡くなった後に父である徳川家康の側に付くのは当然のことだった。

 

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細川幽斎(織田信長)の子

 


細川忠興(1563~1646) 利休七哲
小野木重勝(1563~1600)※画像なし
井伊直政(1561~1602) 徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑

 

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。 wikiより

 

※細川幽斎(織田信長)の子である細川忠興は小野木重勝に変身して、豊臣秀長(石田正継)の子である石田光成を頭領に、父である偉大な織田信長を再び指揮者として迎えたいという意向を示していた。まずそのために、彼らは本願寺門主証如の一族である光秀の娘ガラシャを裏切り者のスパイとして見破り、始末した。そして幽斎の居城を包囲し、何とか父信長を戦場に取り戻そうと説得を試みていたようだ。しかし、失敗すると偉大な信長の復活を諦めた忠興は、変わり身でしかなかった小野木と直政を死んだことにし、忠興として生きた。

 

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徳川家康の子

 

徳川頼房(1603~1661) 常陸水戸藩初代藩主※画像なし
徳川家光(1604~1651) 江戸幕府第3代征夷大将軍

 

元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下 を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。徳川家光wikiより

 

※将軍は少年愛者が多かったため、大勢の大奥の女たちは各々が好きな男の子どもを産んだ。支配層は自分の血筋ではなく、家が続くことを願う。そのため、いい女が選んだ男の子供なら何でも良いと考えている。しかし、それが後々に大きな分裂、お家断絶にまで発展することがある。じつは、秀忠は家康の子ではない。一方、秀忠の子と言われている家光は、じつは家康の子である。支配層の家族は非常に複雑に入り組み、絡み合っている。

例えば、家光は同母弟といわれている忠長を自刃に追い込んでいる。これは歴史の分野では謎扱いされている。だが、これは2人が異父兄弟、異母兄弟である証に過ぎない。つまり、2人は徳川を名乗りながらも、実際には全くの赤の他人なのだ。

 

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石田正継(豊臣秀長)の子

 

石田三成(1560~1600)

 

豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。 wikiより

 

※石田三成は豊臣秀長が演じていた石田正継の子であるため、実質、豊臣秀吉の甥である。光成は、本願寺にそそのかされた家康の子信康の影武者が演じていた福島正則、加藤清正と対立しながら、異母兄弟である秀頼を何とか立てようと奔走したが、知らなかったとはいえ、迂闊にも東本願寺門主実如の一族に属する毛利輝元と組んでしまい、仲間を演じていた輝元に誤誘導された上、数で圧倒されたために敗北した。

 

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織田信長の子

 

羽柴秀勝(1569~1586) 織田信長の子

真田幸村(1567~1615)

伊達政宗(1567~1636)

後陽成天皇(1571~1617) 第107代天皇

 

豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなどした。後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。 真田幸村wikiより

 

政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。 伊達政宗wikiより

 

※信長の子である羽柴秀勝は真田幸村や伊達政宗を演じていた。秀勝が伊達正宗を演じていた際は、父の織田信長に良く似て、分かりやすく豪快であった。独眼龍と呼ばれた正宗だが、一方で同時に演じていた真田幸村の肖像画を見て分かるとおり、両目は健在であった。正宗の眼帯は、自分の正体を隠すためのフェイクだった。信長の子である秀勝は後陽成天皇も演じていたが、後陽成天皇は静かに余生を送っている信長(幽斎)を再び戦場に引き釣り出そうとしている光成たちを退け、父である信長を助けるために、両軍に勅命を発して開城させた。

 

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豊臣秀頼(1593~1615) 豊臣秀吉子
後水尾天皇(1596~1680) 第108代天皇

 

※秀吉の子として生まれた秀頼は、22歳で死んだことにして潜伏し、その実、その後の65年間を後水尾天皇として生きた。

 

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徳川頼房(徳川家光)の子

 

若宮(1628) 第三皇子※画像なし
水戸光圀(1628~1700)

 

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。 wikiより

 

※後水尾天皇の子として生まれた若宮は、早世したことにして潜伏して成長し、長じて水戸光圀公となった。

 

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徳川光圀の子

 

松平頼常(1652~1704)
康熙帝(1654~1722) 清皇帝

 

延宝元年(1673年)2月19日、養父・頼重の隠居により高松藩主となった。藩政においては、元禄8年(1695年)に厳しい倹約令を定めて藩財政を立て直したり、元禄9年(1696年)に法令を刷新するなどした。また、元禄16年(1703年)には講堂を建設して儒学者の松下見林を招聘している。宝永元年(1704年)2月に隠居し、養子の頼豊(頼重の孫)に家督を譲るが同年4月3日に死去した。享年53(満51歳没)。 wikiより

 

西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中での文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。またの文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。 wikiより

 

※愛新覚羅家は蘆名盛興が作った家である。ここに徳川家光の血統が加わった。蘆名氏も徳川氏も滝川一益の一族であるため、愛新覚羅家は光圀の一行を喜んで迎え入れた。

 

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康熙帝の子

 

乾隆帝(1711~1799) 清第6代皇帝 在位1735~1796
竹内敬持(1712~1768) 宝暦事件
ハイダル・アリー(1720~1782) マイソール王国皇帝 在位1761~1782

 

雍正帝と側妃の熹貴妃ニオフル氏(孝聖憲皇后、満州正黄旗出身)との間の子(第4子)として生まれる。祖父康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、太子密建を経て即位した。

質素であった祖父、父とは違い派手好みの性格であった。父の死去後、25歳で即位すると父雍正帝の時代に助命された曾静を張熙とともに逮捕し凌遅刑に処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。乾隆帝wikiより

 

1728年(享保13年)頃上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良・玉木正英に師事して、儒学・垂加神道を学んだ。家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、1758年(宝暦8年)の宝暦事件では、中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放された。その後1767年(明和4年)山県大弐らによる明和事件の際、関与を疑われて八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。竹内敬持 wikiより

 

18世紀後半、マイソール王国にヒンドゥー王朝のオデヤ朝に代わるイスラーム政権マイソール・スルターン朝を樹立し、王国を南インド一帯にまたがる大国とした。そのため、インドを植民地化しようとしていたイギリス勢力と衝突し、第一次マイソール戦争、第二次マイソール戦争で激しく争ったが、第二次戦争のさなか死亡した。 ハイダル・アリーwikiより

 

※徳川家光の子孫である乾隆帝は、日本に潜入して竹内敬持を名乗り、天皇制を破壊すべく「宝暦事件」を起こした。これは父の康熙帝(松平頼常)が日本にいた頃から構想を温めていた作戦なのかもしれない。その後、竹内敬持(乾隆帝)は八丈島に流された後、清に帰還した。彼は庶子を投入した影武者部隊を徴用し、日本にいながら同時に清とマイソール王国の皇帝を務めた。

 

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乾隆帝の子

 

嘉慶帝(1760~1820) 清第7代皇帝 在位1796~1820
竹内主計(1763?~1824)

 

乾隆帝の十五男として生まれる。乾隆60年(1795年)、85歳の乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝は太上皇となっても実権は手放さなかったため、嘉慶帝は飾り物の皇帝に甘んじた。

乾隆帝が嘉慶4年(1799年)に崩御すると、嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣和珅を誅殺した。周りの人間全てが和珅のことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは和珅を信任し続けたため、乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、和珅は国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。和珅から没収した財産は、実に国家の歳入の10~15年分に当たったといわれている。 嘉慶帝wikiより

 

八丈島に流罪となった父と別れ、新潟に逃げ平原家の人別に入り名を変えたとされている。以下約100年、菩提寺の火事により資料が焼失してしまった為詳細不明。 『某が天秤を担いで魚を売り歩いていた所へ、3歳位の子供(主計?)を連れた塾生と思われる人から「この子供を頼む」と言われ、子供とかなりの金を預けられ、その足で四ツ郷屋へ走った』とのこと。竹内主計wikiより

 

※竹内敬持(乾隆帝)が八丈島に流された際、平原家に養子に入ったが、それ以降の記録は菩提寺が焼けたために残っていないという。タクシ(チュクチ)を由来に竹内を名乗っていた嘉慶帝は、竹内、武内、武知、武智、武市、高市、田口、出口などの新しい祖となった。その後、彼は本土に帰還して嘉慶帝として中国皇帝を務めた。或いは、庶子が嘉慶帝の影武者を演じ、嘉慶帝自身はずっと日本にいたかもしれない。

 

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伊達政宗の玄孫伊達吉村の子

 


伊達宗村(17??~17??)

 

初め久村(ひさむら)と名乗っていたが、のちに第8代将軍・徳川吉宗から偏諱を受けて宗村と改名し、吉宗の跡を継いで紀伊藩主となっていた徳川宗直の娘・利根姫を正室に迎えた。寛保3年(1743年)、父・吉村から家督を譲られた。父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった。 wikiより

 

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嘉慶帝の子

 

道光帝(1782~1850) 清第8代皇帝 在位1820~1850
武市正恒(?~1849)

 

武勇に優れており、皇子時代、天理教徒の反乱(癸酉の変)時に紫禁城に踏み込んだ反乱軍を自ら討伐している。

嘉慶年間よりイギリスからのアヘン密輸が激増し、国内で中毒患者が増加した。皇族の中にもアヘンが蔓延し、健康面でも風紀面でもその害は甚だしいものがあった。またアヘンの輸入増加により、それまで清の大幅な黒字だった対英貿易が赤字に転落し、国内の銀が国外へ流出することで国内の銀相場は高騰した。当時の清では日本の三貨制度と同様に銀貨と銅銭が混用されていたため、物価体系に混乱を来した。例えば徴税は主に銀で行われていたため、銭貨で見ると実質的な増税となった。wikiより

 

武市家の財力が飛躍的に向上したのは、父・正久の代のときに累代の功績が藩に認められ、「白札」の身分を与えられたことに始まる。また文化年間、仁井田に加え、池、西野地、上野尻に領地を持ち、その総高は五一石余りであったとされ、郷士としては相当程度の富を有していたと考えられる。こうした名家・武市家の総領を父から引き継いだ正恒は、武芸に励んだだけではなく、漢詩や舞踊、絵画に至るまでを習得。身分制度の抑圧との戦い、強烈なエリート意識は、妻テツとの間の長男・武市瑞山(幼名:鹿衛)の後年の人格形成に影響を与えたといえる。 wikiより

 

※道光帝は父や祖父のように日本に潜入した。本国では道光帝を演じることを影武者に指示し、自分は日本で工作活動に従事した。凶悪な白人列強の中国への侵入を防ぐには、まずは日本を〆るべきだと考えたのだろう。道光帝はもちろん、庶子を投入して影武者部隊を指揮していた。時と場合により、影武者が道光帝を演じ、或いは武市正恒を演じた。これにより、同時期に別の場所で活動することができた。

 

 

 


オスマントルコ皇帝スレイマン1世の一族②~蘆名盛氏、高山右近、千利休、黒田官兵衛、有馬晴信、宮本武蔵、天草四郎、鄭成功、ヌルハチ、愛新覚羅家

 

 

メフメト(1521~1543)※画像なし

蘆名盛氏(1521~1580) 蘆名氏第16代当主

タクシ(?~1583) ヌルハチ父※画像なし

有馬義貞(1521~1577) 有馬晴信父※画像なし

木下弥右衛門(?~1543) 豊臣秀吉父※画像なし

高山右近(1522~1615)
千利休(1522~1591) 天下三宗匠

今井宗久(?~1593) 天下三宗匠※画像なし

津田宗及(?~1591) 天下三宗匠※画像なし

古田重定(?~1598) 古田織部父※画像なし

黒田職隆(1524~1585) 黒田孝高父※画像なし

稲葉重通(?~1598) 牧村利貞父※画像なし

 

天文19年(1550年)からは本格的に仙道(中通り)への進出を開始して田村隆顕と戦うが、田村氏を援助する常陸の佐竹氏の妨害もあって容易には進まなかったため、佐竹氏と敵対する相模の北条氏康や、甲斐の武田信玄と同盟して佐竹氏に対抗した。

また、内政面では金山開発に力を入れたり、簗田氏を商人司に起用することで流通支配の強化を図った。永禄4年(1561年)、庶兄・氏方の謀叛を鎮圧する。この年、盛氏は家督を嫡男・盛興に譲って、大沼郡岩崎城に隠居し、剃髪して止々斎と号した。しかし隠居後も政治・軍事の実権を掌握し、引き続き家中の統制にあたった。 蘆名盛氏wikiより

 

右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などがそうである。細川忠興・前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。

友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、畿内に存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。 高山右近wikiより

 

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。千利休wikiより

 

※父スレイマン1世と共にトルコから日本にやってきたメフメトは八面六臂の活躍をした。彼は、異母兄弟の庶子を影武者として投入し、たくさんの歴史上の有力人物を演じた。特筆すべきこととしては、メフメトは有馬義貞を演じながら有馬晴信を儲け、黒田職高を演じながら黒田孝高を儲け、木下弥右衛門を演じながら全国統一を果たした豊臣秀吉を儲けている。また、メフメトは千利休や高山右近をも同時に演じていた。

千利休の姓は里見であるが、これはソドムが由来である。利休七哲の瀬田正忠や蒲生氏郷の名もソドムとゴモラに由来している。つまり、彼らは天狗と呼ばれた宇宙人(科学の種族トバルカイン)と交流があったようだ。悪魔(仏教)が横行する日本の民が置かれた惨状を見ていられなかった宇宙人(科学の種族トバルカイン)は、地上に降りて里見氏を名乗り、邪教に対する蜂起の機会を狙っていた。そこにメフメトが現れ、意気投合した彼らは、邪教に対抗する切り札として「茶道」を編み出した。しかし、狡猾な本願寺に正体を見破られた利休は、秀吉の計らいで処刑されたことにされて宇宙人の仲間になったと考えられる。つまり、ケムトレイルを撒くフェイクプレーンには利休の一族が搭乗している。

 

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千利休(古田重定、黒田職隆、稲葉重通、有馬義貞、蘆名盛氏)の子

 


古田織部/古田重然(1543~1615) 利休七哲

 

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人。千利休とともに茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代から江戸時代前期にもたらした。 wikiより

 


黒田孝高/黒田如水/黒田官兵衛(1546~1604) 利休七哲

牧村利貞(1546~1593) 利休七哲

蘆名盛興(1547~1574)

瀬田正忠(1548~1595) 利休七哲

 

諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。 黒田孝高wikiより

 

織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。天正12年(1584年)、高山右近の勧めを受けてキリシタンとなる。小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定にも参加した。天正18年(1590年)、秀吉より伊勢国内において2万650石を与えられ岩出城主となる。牧村利貞 wikiより

 

父と同様に智勇に優れ、永禄4年(1561年)、家督を譲られて蘆名氏の勢力拡大に奔走した。ただし、この一連の家督相続については、働き盛りの盛氏がまだ15歳の盛興に家督を譲り隠居するなど考え難いと疑問を呈されている。また、この時期の蘆名氏は内憂外患を抱え、盛氏もこの後も蘆名家代表として精力的に活動していることから、隠居は形式だけの口実であったとも考えられる。 蘆名盛興wikiより

 

出自は不明ながら高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに従軍している。秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任。天正15年(1587年)の九州平定、同18年(1590年)の小田原征伐等に従軍。小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に古田重然と共に入り守備についた。また、天正16年(1588年)に後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、芝山宗綱と共に先導役を務めたとされるが、豊臣秀次と親しく、文禄4年(1595年)、秀次の粛清に連座して処刑された。瀬田正忠wikiより

 


有馬晴信(1567~1612)

大村喜前(1569~1616)※画像なし

 

晴信は鍋島直茂の所領となっている旧領三郡を家康に願い出て回復しようとした。これを知った本多正純の家臣であった岡本大八が慶長17年2月28日、晴信に接近した。そのため晴信は、大八に白銀600枚を贈った。しかし、その後、幕府から旧領回復の沙汰がなかったため不審に感じた晴信が正純に詰問したため、幕府は晴信と大八を対決させることとした。晴信は数通の証文を提出し、これに対して大八は全く弁明ができなかった。そして事実を白状したため大八は下獄された。

ところが、大八は3月18日、獄中から、晴信が長崎奉行の長谷川藤広(左兵衛)を殺害しようとする計画を有していると訴えた。そのため幕府は大八を獄から出し、晴信と対決させたところ、大八は晴信の陰謀の詳細を述べた。これに対して、晴信は何ら弁明することができなかったため捕えられた。大八も獄に戻され、江戸に送られ、阿倍川原で火刑に処せられた。そして22日、晴信は甲斐国に流され、5月7日に自害させられた。有馬晴信wikiより

 

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下丹後守。嘉前とも表記される。

喜前もドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンであったが、バテレン追放令を受けて領内から宣教師を追放して、朝鮮出兵以来、領内に禁制を布いていた。彼自身は個人的信仰については明言していなかったが、熱狂的な日蓮宗徒であった肥後の大名加藤清正の薦めもあって、あるいは長崎は没収されて天領とされるがこれがジョアン・ロドリゲスの策謀ではないかと疑ったとか、日本人司祭トマス荒木が宣教師は外国侵略の尖兵だなどと讒言して嫌悪するようになったなど、理由には諸説あるものの、慶長7年(1602年)、ついに公然とキリスト教を捨てて棄教して日蓮宗に改宗した。それに伴って『大村家記』で邪教と名指しされるキリスト教を領内から駆逐すべくキリシタンの厳しい弾圧を始めた。これには妹松東院や純頼(=当時はキリシタン)は反対したが、後には幕府の禁制となったため従うほかなかった。大村喜前wikiより

 

※キリシタン大名として名高い高山右近はスレイマン1世の子メフメトが演じていたが、メフメトの子は軒並みキリシタンとなり、茶道を嗜んだ。黒田如水は本願寺に睨まれ、東本願寺門主証如の一族である荒木村重によって1年間幽閉され、不具となった。また、有馬晴信も本願寺に睨まれ、陰謀によって自害させられた。しかし、晴信の子は「島原の乱」を指揮し、邪教の根絶を試みた。

 

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黒田職隆(蘆名盛氏)の子

 

黒田利高(1554~1596)

ヌルハチ(1559~1626) 愛新覚羅家

 

身体的特徴は「体は大きく骨格は太い、声ははっきり澄んでいて、一度聞くと忘れがたい」と評されている。また、歩き方は堂々とし、動作に威厳があり度胸も据わっていたため、若いうちにリーダーとなっても十分の一族の長として風格を備えていた。カリスマ的な性格であり、部下たちはヌルハチを英明剛毅な人物と畏敬した。

ジェチェン部の遠征に出かけた際に突如800人の大軍が現れ、ヌルハチ軍は狼狽したが、ヌルハチと弟3人で800人の軍勢に突入して20人あまりを倒し、最終的に敵を敗走させた。ヌルハチwikiより

 

※黒田如水の子である利高はヌルハチを演じ、破竹の勢いで中国全土を飲み込み、後金~清の礎を築いた。利高の弟たちも、以下のようにヌルハチの弟として知られる人物を軒並み演じていた。生年が全く同じ、或いは、極近いことに注目したい。

 

黒田利則(1561~1612)
ムルハチ(1561~1620)

 

黒田直之(1564~1609)
シュルハチ(1564~1611)

 

黒田長政(1568~1623) 筑前福岡藩初代藩主

ヤルハチ(1565~1589)

 

黒田熊之助(1582~1597)※画像なし

宮本武蔵(1584~1645)

バヤラ(1582~1624)※画像なし

 

慶長2年(1597年)7月、豊前中津城で留守中、兄、長政の朝鮮出兵(慶長の役)に加われなかったことを嘆き、中津城から抜け出し秘密裏に朝鮮へ渡る途中、船が嵐にあい転覆、16歳で死去した。その時、一緒に船出した家臣の子、母里吉太夫(母里友信嫡男)、加藤吉松(黒田一成弟)、木山紹宅の3人も一緒に溺死した。黒田熊之助wikiより

 

武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。宮本武蔵wikiより

 

※黒田熊之助は15歳で死んだことにし、その後の48年間は宮本武蔵として生きた。宮本武蔵は永らく正体不明とされてきたが、その実、黒田如水の子だったのだ。そして、天下の宮本武蔵を演じていた熊之助は、ヌルハチの弟バヤラとして後金~清の軍隊にも参加した。一方、関ヶ原の戦いのとき、宮本武蔵は黒田如水に従い、東軍として九州で戦ったとされているが、これはじつに興味深いことだ。このとき、武蔵は如水が父であることを認識し、如水は武蔵を子の熊之助と認識していたはずだ。ここに知られざるドラマが隠れている。

 

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有馬晴信の子

 

有馬富蘭/フランシスコ(1605~1612)※画像なし
天草四郎/フランシスコ(?~1638)

鄭芝龍(1604~1661) ※画像なし

 

本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。洗礼名は当初は「ジェロニモ(Geronimo)」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ(Francisco)」に変わっていた。一般には天草四郎時貞という名で知られる。また、後述の通り豊臣秀頼(豊臣秀吉の息子)の落胤であったとする伝説もあるが信憑性は低い。天草四郎wikiより

 

1604年、福建省南安市に生まれる。18歳の時に父が死亡し、母方の叔父を頼りマカオに赴き、黄程の元で経済学を学ぶ。この頃、カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられる。西洋の文献には、Nicholas Iquan(ニコラス・一官)と記されている。

1621年には、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた中国系商人の李旦、または、顔思斉の傘下に加わる。日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市平戸島)に住むうち、平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚。後に、息子の鄭成功が生まれている。 鄭芝龍wikiより

 

有馬於松/マティアス(1607~1612) 有馬晴信の子

 

※死んだことにして中国に逃亡・潜伏していた有馬晴信の忘れ形見である富蘭と於松は、33歳と31歳の時に倭寇、松浦党、福建海賊の助力を得て挙兵。「島原の乱」を指揮し、日本を統べる邪教に挑戦した。富蘭は天草四郎と同一人物である。また、彼は鄭芝龍の本体でもあるようだ。つまり、国姓爺と呼ばれた鄭成功の正体は、島原の乱を指揮した天草四郎(有馬於松)の子なのだ。天草四郎は九州を邪教の手から救うことはできなかったが、台湾をオランダ王国、オランダ東インド会社(東本願寺門主証如と顕如)の魔手から解放している。

 

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鄭芝龍(天草四郎、有馬富蘭)の子(有馬晴信の孫)

 

鄭成功(1624~1662) 洪門首領

 

清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。 鄭成功wikiより

 

 

 


オスマントルコ皇帝オスマン2世の一族~オリバー・クロムウェル、大英帝国、アメリカ合衆国、エドガー・アラン・ポー、オーソン・ウェルズ、ザ・ビートルズ、モンティ・パイソン、レッド・ツェッペリン

 

オスマン2世(1604~1622) オスマントルコ帝国第15代皇帝 在位1618~1622

トーマス・クロムウェル(1594~1653) アルドグラス伯
オリバー・クロムウェル(1599~1658) 共和制イングランド初代護国卿

 

清教徒革命(イングランド内戦)では鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、ニューモデル軍(新模範軍)の副司令官となる。ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。護国卿時代には独裁体制をしいた。 wikiより

 

※トマス・クロムウェルの曾孫エドワードの子として生まれたトーマス・クロムウェルは、同時にオリバー・クロムウェルの名を準備し、邪教を排除する計画を実行した。オリバー・クロムウェルは、ニューモデル・アーミーを組織し、清教徒革命を成功させ、イングランドに共和制を打ち立てた。

 

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オリバー・クロムウェルの子

 

リチャード・クロムウェル(1626~1712)

ジョージ・モンタギュー(1622~1681)※画像なし

アントン・アシュリー・クーパー(1621~1683) ホイッグ党

 

1658年に死去した父の後を継いで第2代護国卿となったが、父ほどの器量や才能がなく、軍人としての経歴もないためニューモデル軍に背かれたことが政権を不安定にした。1659年1月27日に第三議会を召集し支持勢力を当てにしたが、議会の共和主義勢力と組んだ軍から解散要求を出され、圧力に屈し4月22日に議会を解散した。

そして5月7日に軍が共和派と結託しランプ議会を復活させた後、リチャードは政権存続を諦め就任から8ヶ月経った5月25日で護国卿辞任を余儀なくされた。父の晩年から共和政(事実上のオリバー個人独裁)は崩壊しつつあったが、若年かつ凡庸なリチャードが後を継いだことは、クロムウェル政権の崩壊をより促進させる結果となった。リチャード・クロムウェルwikiより

 

ヘンリー・クロムウェル(1628~1674)
エルンスト・アウグスト(1629~1678) ハノーヴァー選帝侯

 

イングランドの軍人、政治家。イングランド共和国の初代護国卿オリバー・クロムウェルとエリザベス・バウチャーの間の四男で、第2代護国卿リチャード・クロムウェルの弟。イングランド共和国時代のアイルランドにおける重要人物である。ヘンリー・クロムウェルwikiより

 

1692年、レオポルト1世に選帝侯位を要求、戦争従軍の功績から要求を認められて9番目の選帝侯に指名され、領土はハノーファー選帝侯領と呼ばれるようになったが、1698年、帝国議会の承認を得る前に68歳で死去した。長男ゲオルク・ルートヴィヒがハノーファーを相続し、1705年にゲオルク・ヴィルヘルム死後のリューネブルクも継承、1714年にイギリス王に即位した。選帝侯の地位が実際に認められたのは選帝侯会議に列席した1708年である。エルンスト・アウグストwikiより

 

※ヘンリーはエルンストとしてハノーヴァー選帝侯に就いた。ハノーヴァー選帝侯は後にイギリスの王室ハノーヴァー朝の前身となった。

 

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リチャード・クロムウェルの子

 

エドワード・クロムウェル(1644~1688)※画像なし

鄭経(1642~1681)
トマス・ウォートン(1648~1715) ホイッグ党

ロバート・ウォルポール(1650~1700)

 

1673年にバッキンガムシャーから下院議員に選出、ホイッグ党に属してイングランド王チャールズ2世の政権を批判して王位排除法案に賛成、続くジェームズ2世のカトリック重視の姿勢も非難、1688年に名誉革命が起こるとジェームズ2世から離反してエクセターでオランダ軍に投降した。トマス・ウォートンwikiより

 

オリバー・クロムウェル(1656~1705)※画像なし
ジョン・サマーズ(1651~1716) ホイッグ党

エドワード・ラッセル(1653~1727) ホイッグ党、初代オーフォード伯爵

 

イギリスの貴族・政治家。弁護士から政治家に転身、イギリスの指導者層にまで上り詰めた。ジョン・サマーズ wikiより

 

海軍に入隊して1671年に中尉となり、1672年に大尉に昇進、同年から1673年の英蘭戦争でイングランド艦隊に乗り込みオランダ海軍と戦い、1676年から1682年までジョン・ナーボローの艦隊に属して地中海の海賊征伐に努めた。しかし、翌1683年に従兄で妻の兄弟のラッセル卿ウィリアム・ラッセルがライハウス陰謀事件で首謀者として処刑されたことを不満として辞職、伯父と共にオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)に接近していった。エドワード・ラッセルwikiより

 

※クロムウェルの子らは、邪教に支配されたイギリス人を解放すべく、ホイッグ党を設立し、真の民主主義を目指した。

 

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ジョージ・モンタギュー(リチャード・クロムウェル)の子

 

チャールズ・モンタギュー(1661~1715) ホイッグ党

ジョージ1世(1660~1727) ハノーヴァー朝初代イギリス王 在位1714~1727

 

政界ではホイッグ党員として台頭、1694年にホイッグ党による内閣が成立するとジャントーの1人として閣僚に加えられ、財務府長官として財政を担当した。就任前の1693年に国債制度を作り、1694年に銀行家ウィリアム・パターソンとともにイングランド銀行を創立、預金に利息を加えて返却する方法を取り顧客からの収入で大同盟戦争の軍資金を調達した。1695年にニュートン及びジョン・ロックとジャントーの一員であるジョン・サマーズと協議して翌1696年に銀貨の質を戻すべく改鋳も行い、イギリス財政確立の役目を果たした。 wikiより

 

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ロバート・ウォルポール(エドワード・クロムウェル)の子(1650)

 

ジェイムズ・スタンホープ(1673~1721) ホイッグ党
チャールズ・タウンシェンド(1674~1738) ホイッグ党
スペンサー・コンプトン(1674~1754) ホイッグ党

チャールズ・スペンサー(1675~1722) ホイッグ党

ロバート・ウォルポール(1676~1745) ホイッグ党 イギリス初代首相

鄭克ソウ(1670~1707) 鄭経の子※画像なし

 

イギリスの軍人・政治家。ホイッグ党に属し、スペイン継承戦争ではスペインに上陸してフランス・スペインと戦い、戦後は政権を率いてイギリスの政治を担った。ジェイムズ・スタンホープwikiより

 

ノーサンプトン伯爵家のヤンガーサンとして生まれ、1698年にホイッグ党の庶民院議員に初当選して政界入りした。ウォルポール内閣で閣僚職や庶民院議長を務めた後、1742年のウォルポール退陣に際して後任の第一大蔵卿(首相)となったが、これは名目上のことであり、第2代カートレット男爵ジョン・カートレットが実権を握っていた。翌1743年に首相在職のまま死去した。 チャールズ・タウンシェンドwikiより

 

マールバラ公夫妻はアン女王と深い信頼関係で結ばれていたためサンダーランドも重要なポストを任され、1705年に神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の即位に伴うウィーンへの特使に任命、翌1706年にイングランドとスコットランド合同の交渉委員の1人に選ばれ合同条約を締結、同年に南部担当国務大臣に任命されスペイン継承戦争でマールバラ公を支え、ホイッグ党の中心人物になりジャントーの一員となった。 スペンサー・コンプトンwikiより

 

1701年にホイッグ党の庶民院議員に当選して政界入り。高い討論力で頭角を現し、ホイッグ党政権(あるいはホイッグ党参加政権)で閣僚職を歴任した。1720年の南海泡沫事件の後処理を指揮。事件後にはホイッグ政権の最大の有力者となり、1721年に第一大蔵卿に就任した。与党を統制して閣議を主宰し、議会の支持を背景に政治を行ったため(責任内閣制)、この時期の彼を最初の「イギリス首相」とするのが一般的である。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが商業国家として躍進する土台を築いた。1733年のタバコ消費税法案の挫折で求心力を落としはじめ、1741年の総選挙で与党の議席を大幅に減らしたため1742年に退陣した。ロバート・ウォルポール wikiより

 

※クーパーの子らは、邪教に支配されたイギリス人を解放すべく、ホイッグ党を設立し、真の民主主義を目指した。

 

ジョージ2世(1683~1760) ハノーヴァー朝第2代イギリス王 在位1727~1760

ガルフリダス・ウォルポール(1683~1726)

サミュエル・アダムスSr(1689~1748)※画像なし

 

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イングランド国王ジョージ2世の子

 

 

フレデリック・ルイス(1707~1751) プリンス・オブ・ウェールズ

ロバート・ウォルポール(1701~1751) オーフォード伯

エドワード・ウォルポール(1706~1784) 政治家
ベンジャミン・フランクリン(1706~1790) 政治家
ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703~1792) ワッハーブ派の教祖※画像なし

鄭安福(生没年不詳) 鄭克ソウの子※画像なし

鄭安禄(生没年不詳) 鄭克ソウの子※画像なし

鄭安康(生没年不詳) 鄭克ソウの子※画像なし

 

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。ベンジャミン・フランクリンwikiより

 

※初代イギリス首相ウォルポールの子であるエドワードは、ベンジャミン・フランクリンだった。フランクリンが印刷業者だったというのは、エドワードが正体を隠すための作り話だったのだ。

 

イブン・アブドゥルワッハーブはムハンマド・イブン・サウードと同盟を結び、その助けを得てディルイーヤ首長国(第一次サウード朝)を樹立した。彼らは同盟して権力を独占した上で二人で分け合い、二人の一族による支配はこんにちのサウジアラビア王国(第三次サウード朝)まで続いている。サウジアラビアにおける「アール・アッ=シャイフ」と呼ばれる宗教的権威のある一族がイブン・アブドゥルワッハーブの子孫であり、同国の聖職者階級養成機関を支配してウラマーを統率している。ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ wikiより

 

※ロバート・ウォルポールはイングランドを離れてアラビア半島に移住し、ヤハウェを由来にワッハーブ派を組織した。ヤハウェ=ヤッハーヴェ=ワッハーブとなる。ワッハーブは、ウォルシンガムの曾孫であるロバート・デヴロー(サウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムクリン)の子、ムハンマド・ビン・サウードと組んで第一次サウード王国を建国した。

 

ジョージ・ウィリアム(1717~1718)※画像なし

ホレス・ウォルポール(1717~1797) ホレイショ・ゲイツ名付け親 

 

ウィリアム・オーガスタス(1721~1765)※画像なし

サミュエル・アダムス(1722~1803)

ジェイムス・マディソンSr(1723~1801)※画像なし

 

アメリカ合衆国の指導者、政治家、著作家、政治哲学者であり、アメリカ合衆国建国の父の一人である。アダムズは、イギリスに対する反抗に植民地人の支持を集める時の主唱者であり、アメリカ独立につなげた。また、アメリカ共和政治の原則を形作る者の一人となり、アメリカ政治文化を育てた。 wikiより

 

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フレデリック・ルイスの子

 

ジョージ3世(1738~1820) ハノーヴァー朝第3代イギリス王 在位1760~1820

フランシス・フランクリン(1732~1736) ベンジャミン・フランクリンの子※画像なし
ジョン・アダムス(1735~1826) アメリカ合衆国第2代大統領 任期1779~1801

パトリック・ヘンリー(1736~1799)

トーマス・ペイン(1737~1809)

トーマス・ジェファーソン(1743~1826) アメリカ合衆国第3代大統領 任期1801~1809

 

アメリカ合衆国の政治家。副大統領(初代、1789年から1797年の2期)、大統領(第2代、1797年-1801年)。アメリカ海軍創設者である。アメリカ合衆国建国の父の中でも最も影響力があった者の一人とされている。ジョン・アダムスwikiより

 

スコットランドから入植したジョン・ヘンリーの息子として、バージニア植民地の農園において誕生した。パトリックは幼い頃から本に慣れ親しむというよりは、むしろバージニア植民地の森や川といった自然に親しんでいた。このようなパトリックにラテン語、ギリシャ語、さらには数学を教え込んだのは、牧師をしていた伯父と教養豊かな父親であった。パトリック・ヘンリーwikiより

 

民主的平和論を説き植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説いた。独立宣言発布直後にペンシルベニア連隊に入隊し、将軍付の秘書・副官となる。ワシントンに紹介されて2年間その下で働き、『危機』(Crisis)と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続けた。1777年4月から1779年1月まで連邦議会外務委員会の書記をつとめ、1779年11月、ペンシルベニア州議会の書記に任命された。トーマス・ペインwikiより

 

アメリカ独立宣言(1776年)の主要な作者であり、アメリカ合衆国の共和制の理想を追求したことで最も影響力のあったアメリカ合衆国建国の父の一人とされている。共和制を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な「自由の帝国」の陰にある力としてアメリカの姿を描いた。首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。

大統領就任中にはルイジアナ買収(1803年)やルイス・クラーク探検隊(1804年 - 1806年)を進めたが、辞任後の米英戦争(1812年 - 1815年)につながるイギリスおよびフランス両国との緊張関係を増すことになった。 トーマス・ジェファーソンwikiより

 

キャロライン・マティルダ(1751~1775)※画像なし
ジェイムズ・マディソン(1751~1836) アメリカ合衆国第4代大統領 任期1809~1817

 

アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第4代アメリカ合衆国大統領(1809年-1817年)。ジョン・ジェイおよびアレクサンダー・ハミルトンと共にザ・フェデラリストを共同執筆し「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされる。対外宣戦布告をした初の大統領であり、また戦災により首都から避難した唯一の大統領でもある。かつて流通していたアメリカ5000ドル紙幣にその肖像を見ることが出来る。 wikiより

 

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イングランド国王ジョージ3世の子

 

ジョージ4世(1762~1830) ハノーヴァー朝第4代イギリス王 在位1820~1830

ウィリアム・テンプル・フランクリン(1762~1823) B・フランクリンの孫※画像なし
ジェイムズ・モンロー(1758~1837) アメリカ合衆国第5代大統領 任期1817~1825

 

1780年から1783年までトーマス・ジェファーソンについて法律を勉強し、1783年から1786には大陸会議(連合会議)の代議員になった。アメリカ合衆国憲法の批准を問うたバージニア会議では、反連邦党代議員として中央政府にあまりに大きな権限を与えすぎると主張して批准に反対した。それでもモンローは新しい連邦政府に積極的に関わり、1790年にはバージニア州からアメリカ合衆国上院議員に選出されて、ジェファーソンの一党(後の民主共和党)に加わった。バージニア州知事(1799年 - 1802年)として行政の経験を積み、フランスにおける外交官として1803年のルイジアナ買収交渉に貢献して国民的な名声を得た。ジェイムズ・モンローwikiより

 

※フランクリンの子らは、邪教に支配されたヨーロッパを離れ、邪教の影響を排した理想国家の創生を目指した。そのためにモンロー大統領は「モンロー教書」を発表し、アメリカ大陸に邪教が侵入できないようにした。現在のトランプ大統領の移民政策と同様だ。

 

エドワード・オーガスタス(1767~1820) ケント公

ウィリアム4世(1765~1837) ハノーヴァー朝第5代イングランド王 在位1830~1837

 

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イングランド国王ウィリアム4世の子

 

ジョージ・オーガスタス(1794~1842) マンスター伯爵※画像なし

大塩平八郎(1793~1837)

 

蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。

跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。大塩平八郎wikiより

 

※大塩は邪教を倒すために密かに蜂起を計画していたが、内部に密通者がいたため、本願寺にバレて蜂起は失敗した。たった1日で制圧された。

 

オーガスタス(1805~1854)※画像なし

エドガー・アラン・ポー(1809~1849) 作家

 

※初めてアメリカ大陸に上陸したイングランド王ウィリアム4世の子オーガスタスとして生まれた。本国イギリスではアイルランドに渡って神父として生き、アメリカではポーとして生きた。ポーは不遇な人生で知られているが、実際には諜報員としてアメリカ国内を暗躍していた可能性もある。ポーの作品に活かされていた視点や語り口は、諜報員でなければ得られないものだ。ポーは40歳で死んだことにして潜伏し、実際には80代まで生きた可能性がある。

 

死産の子(1822)※画像なし

シャルル・ボードレール(1821~1867) 詩人

 

※ボードレールはポーの弟と考えられる。死産したことにしてウィリアム4世はボードレールをフランスに送り、潜伏させて成長させた。写真を見て分かるように同じポーズをとっている(フリーメイソンのポーズ)。ポーは作家としては不遇で、生前に売れた著作は「貝類図鑑」であった(しかも盗作)。しかし、弟であるボードレールが、兄ポーの著作を初めてフランスに紹介した。

 

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ヴィクトリア女王の子

 

エドワード7世(1841~1910) サクス・コバーグ・アンド・ゴータ朝初代イングランド王 在位1901~1910

 

在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。 エドワード7世wikiより

 

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ヴィクトリア女王の孫

 

アレクサンダー・ジョン(1871) ハノーヴァー朝エドワード7世の子※画像なし

ウィンストン・チャーチル(1874~1965) 第61、63代イギリス首相 任期1940~45、1951~55

 

1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退いた。 ウィンストン・チャーチルwikiより

 

※エドワード7世は、アレクサンダーを早世したことにした。その後、アレクサンダーはウィンストン・チャーチルとして生きた。イギリス首相に就任したチャーチルは、ルーズベルト大統領、スターリン書記長と組んで第二次世界大戦を指揮し、本願寺の一族を退けた。チャーチルの名前自体はマヤ発祥であり、マヤの部族ツォツィル族に由来している。

 

レオポルド・アーサー・ルイス(1889~1922) ベアトリスの子※画像なし

ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978) シュルレアリスト

 

※キリコの母は潜伏していたポーの遺伝子を所望し、優性遺伝子ブリーダーによってキリコが誕生した。キリコは、祖父であるイングランド国王ウィリアム4世に良く似ている。30年代のニューヨークを訪れた際、キリコは摩天楼の窓に見える人影を見て「彼らは時間を超えて生きている」と述べた。筆者は、エドワード・ホッパーの画集でこの一言を知り、一瞬でキリコを尊敬した。

 

アラステア・ウィンザー(1914~1943) アーサー・オブ・コノートの子※画像なし

オーソン・ウェルズ(1915~1985) 映画監督、俳優

 

※ウェルズは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたチャーチルの子と考えられる。監督作「市民ケーン」「黒い罠」「審判」で知られている。本願寺(ディープステート)にマークされ、キャリアを邪魔された不遇の人。

 

アレクサンダー(1919~2000) パトリシア・オブ・コノートの子※画像なし

トルーマン・カポーティ(1924~1984) 作家

ロバート・アルトマン(1925~2006) 映画監督

 

※カポーティは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたチャーチルの子と考えられる。20歳の時、短編「ミリアム」でデビュー。アンファンテリブルと呼ばれた。映画「ティファニーで朝食を」の原作で知られている。映画化の際、カポーティはホリー・ゴライトリー役には何が何でもマリリン・モンローだと主張していた。

アルトマンは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたウェルズの子と考えられる。監督作に「ロンググッドバイ」「三人の女」「フール・フォア・ラブ」「ザ・プレイヤー」などがある。アルトマンは、「ザ・プレイヤー」で父ウェルズの「黒い罠」の冒頭を再現した。

 

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ヴィクトリア女王の曾孫

 

アルフォンソ(1907~1938) ヴィクトリア・ユージェニーの子※画像なし

ロベール・ブレッソン(1901~1999) 映画監督

 

※優性遺伝子ブリーダーによって生まれたキリコの子と考えられる。監督作には「スリ」「抵抗」「バルタザールどこへ行く」「やさしい女」「ラルジャン」がある。

 

アイリス(1920~1982) アレクサンダー・マウントバッテンの子※画像なし

ピーター・セラーズ(1925~1980) 俳優

 

※セラーズは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブレッソンの子と考えられる。出演作には「博士の異常な愛情」「マジッククリスチャン」「ピンクパンサーシリーズ」「チャンス」がある。

 

サンドラ(1936~2014) ベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルクの子※画像なし

レナード・コーエン(1934~2016) ミュージシャン

 

※コーエンは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたキリコの子と考えられる。

 

マルコ(1937~2014) ベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルクの子※画像なし

ピーター・クック(1937~1995) 俳優

 

※クックは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブレッソンの子と考えられる。異母兄弟となるセラーズとはしばしば競演している。正統なアダプテーションといえる、ジョナサン・ミラー監督のテレビ映画「不思議の国のアリス」では両者とも本領を発揮していた。

 

マリーノ(1939~1995) ベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルクの子※画像なし

ジョン・レノン(1940~1980) ザ・ビートルズ

グレアム・チャップマン(1941~1989) モンティ・パイソン

 

※ジョンは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたセラーズの子と考えられる。優性遺伝子ブリーダーによる偽装結婚の際、女性側の親族に似ているゲイ男性が選ばれる傾向がある。レノンの父アルフレッドは、ミミ伯母さん(ジョンの母ジュリアの姉)に良く似ている。ということで、父アルフレッドが息子ジョンを省みなかったのは、単に血がつながっていなかったからと考えられる。

イングランド王ウィリアム4世の正統な子孫であるジョンは、エリザベス女王からもらった勲章を返還した。会場のトイレでマリファナもふかしたという。ジョンは、直感でエリザベス女王は正統な王族ではないと感じたのだろう。それは正しかった。

ビートルズの一員として成功してから、ジョンは単独で映画「ヘルプ!」を監督したリチャード・レスター監督の映画「僕の戦争」で名だたるイギリスの俳優たちと競演したが、セラーズとの競演はなかった。だが、同僚のリンゴがジョンの代わりにブリティッシュナンセンスの秘宝「マジック・クリスチャン」でセラーズと競演している。

ただ、映画での競演はなかったが、ジョンとポールが司会したイギリスの音楽特番でジョンはセラーズと競演している。ここで、セラーズはローレンス・オリヴィエの物真似をしながら「ハードデイズ・ナイト」をカバーした。番組中、ジョンが「ぼくがピカデリーであげたマリファナ覚えてる?」と聞くと、セラーズは「あれはホントに効いたな」と答えている。

残念ながら、レノンは東本願寺門主大谷光勝の一族に属するマーク・チャップマンによって射殺された。その後、ジョン・レノンの死を悼む人々が耐えないため、悔しくなったHWブッシュは、レーガン暗殺未遂という茶番を指揮し、チャップマンにそっくりなジョン・ヒンクリーを犯人に起用した。2人とも、南部バプティスト会議議長ジェイムズ・メリットの影武者、或いは本人である。

チャップマンは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたキリコの子と考えられる。モンティ・パイソンのメンバーとして有名だが、暴力的な爆笑映画「イエロービアード」では脚本と主演を手がけた。

 

オリンピア(1943) ベアトリス・デ・ボルボン・イ・バッテンベルクの子※画像なし

ポール・マッカートニー(1942) ザ・ビートルズ

エリック・アイドル(1943) モンティ・パイソン

 

※ポールは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたキリコの子と考えられる。23歳で名曲「イェスタデイ」をモノにした。ビートルズはある意味家族だった。ポールはキリコに良く似ている。ポールにとって、ジョンとジョージは異母兄弟(ブレッソン)の孫だった。エリックは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブレッソンの子と考えられる。

 

ジョヴァンナ・マローネ=チンザノ(1943) マリア・クリスティーナの子※画像なし

ジョージ・ハリソン(1944~2001) ザ・ビートルズ

ジミー・ペイジ(1944) レッド・ツェッペリン

 

※ジョージは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたピーター・クックの子と考えられる。ジョンとジョージは、いとこだった。

ジミーは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブレッソンの子と考えられる。レッド・ツェッペリンを結成し、ロバート・プラント、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズと共にヘヴィロックの礎を築いた。

 

アンナ・サンドラ・マローネ=チンザノ(1948) マリア・クリスティーナの子※画像なし

ポール・ロジャース(1949) フリー、バッドカンパニー、ファーム

 

※ポールは、優性遺伝子ブリーダーによって生まれたブレッソンの子と考えられる。昔から思っていたが、ジミー・ペイジに良く似ている。そういう縁からか、2人は1984年にデビューした「ファーム」というバンドで競演している。

 

 

 



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