目次
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まえがき
地球の王~獣人ビッグフット、全能神ゼウス、宇宙人、天狗、巨石建造(ピラミッド派、マウンド派)の種族、ダヴィデ王、善神デーヴァ
ギュゲスの一族~ローマ執政官、ペルシア皇帝、アレキサンダー大王、秦始皇帝、セレウコス朝、プトレマイオス朝、匈奴、ローマ皇帝
ユリウス・カエサルの一族〜初代ローマ皇帝アウグストゥス、諸葛氏、高句麗、ブルガリア帝国、リトアニア大公国、明、李氏朝鮮、マイソール王国、太平天国、サムスン・グループ
イエス・キリストの一族~クレオパトラ7世、洗礼者ヨハネ、イエス・キリスト、十二使徒、初代ローマ教皇ペトロ、ブリトン王国、ベネディクト会、カンタベリー大主教、ジャン・カルヴァン、ブルボン朝フランス王国
マホメットの一族~イスラム帝国、シーア派イマーム、アッバース朝、セルジューク・トルコ帝国、ハプスブルグ家、エステ家、オーストリア=ハンガリー帝国、バアス党
アラリックの一族~西ゴート王国、南朝宋、シャルルマーニュ大帝、イングランド王国、キエフ公国、ポーランド王国、ノルマンディー公国、モンゴル帝国、カーカティヤ朝、甲賀忍者、エチオピア帝国、チムール帝国
シャルルマーニュ大帝の一族~ビザンツ帝国、後蜀、ロタリンギア王国、ハンガリー王国、カスティーリャ王国、セルビア王国、チェコ共和国、ハンガリー共和国
オスマン1世の一族~北元、イヴァン雷帝、シク教国、スペイン無敵艦隊、ロシア帝国、サルディーニャ王国、ハプスブルグ朝オーストリア帝国、リンカーン大統領、宰相ビスマルク、怪僧ラスプーチン
ソロモン1世の一族~ズールー帝国、ケニア共和国、チャック・ベリー、アース・ウィンド&ファイア、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ、エディ・マーフィー
イヴァン1世の一族~フス派、ボヘミア王国、雑賀衆、鈴木孫一、ロシア正教会モスクワ総主教、ヘーチマン国家、アフガニスタン王国、救済同盟、ナロードニキ運動、スタジオ・ジブリ、押井守
ヴィスコンティ家の一族~ヴィスコンティ家、クリストファー・コロンブス、アメリゴ・ベスブッチ、ヴァスコ・ダ・ガマ、イエズス会、フランシスコ・ザビエル、ローマ教皇フランシス
フリードリヒ1世の一族~サファヴィー朝、グリュックスブルグ朝デンマーク王国、プロイセン帝国、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、レーニン、チェ・ゲバラ、ホメイニ師、メドベージェフ首相
イヴァン大帝の一族~チューダー朝イングランド王国、宗教革命、ブルボン朝フランス王国、西郷氏、東郷氏、清教徒革命、ジャン=ジャック・ルソー、フランス革命、サウジアラビア王国
バーブルの一族~ムガール帝国、ムハンマド・アリー朝、エジプト共和国、チャールズ・チャップリン、サルバドール・ダリ、ハロルド・ピンター、ボブ・ディラン、デヴィッド・ボウイ、プリンス
マクシミリアン1世(ハプスブルグ家)の一族~バイエルン王国、交響曲の父ハイドン、サド侯爵、文豪ゲーテ、楽聖モーツァルト、KKK、ヘミングウェイ、太宰治、三島由紀夫、ピンク・フロイド、トランプ大統領
オリバー・クロムウェルの一族~大英帝国、アメリカ合衆国、エドガー・アラン・ポー、デ・キリコ、ロベール・ブレッソン、オーソン・ウェルズ、ザ・ビートルズ、モンティ・パイソン、レッド・ツェッペリン
宇佐美定満の一族~蘆名盛氏、柴田勝家、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家光、伊達政宗、水戸光圀、乾隆帝、阮朝ベトナム帝国
蘆名盛氏の一族~高山右近、千利休、黒田官兵衛、有馬晴信、宮本武蔵、天草四郎、鄭成功、ヌルハチ、愛新覚羅家
ピヨートル大帝の一族~ナポレオン皇帝、モルモン教、ザンジバル帝国、ルーズベルト大統領、ケネディ大統領、ザ・ドアーズ、プーチン大統領、ウィキリークス、ニルヴァーナ、Qアノン
乾隆帝の一族~マイソール王国、宝暦事件、トンブリー朝タイ王国、詩聖タゴール、マハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルー
嘉慶帝の一族~道光帝、曽国藩、胡林翼、李鴻章、西郷隆盛、吉田松陰、西太后、大本教、中江兆民、ジャン・コクトー、ミケランジェロ・アントニオーニ、ジェームズ・ディーン、つげ義春
曽国藩の一族~東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎、袁世凱、黄金栄、蒋介石、小津安二郎、手塚治虫、ジャン・クロード=カリエル、ヴェルナー・ヘルツォーク
胡林翼の一族~山口春吉、北一輝、大杉栄、鄧小平、ルイス・ブニュエル、サルトル、マルグリット・デュラス、池田大作、キューブリック、ゲンズブール、宮崎駿、セックス・ピストルズ、マイケル・ジャクソン
李鴻章の一族~勝海舟、福沢諭吉、坂本龍馬、張嘯林、杜月笙、黒澤明、田中角栄、習近平国家主席、マーティン・ルーサー・キングJr、ドゥテルテ大統領、マルコムX、青島幸男、橋本龍太郎
同治帝の一族~西太后、犬養毅、頭山満、義和団の乱、幸徳秋水、文鮮明、大山倍達、田岡一雄、高畑勲、安孫子素雄、梶原一騎、アントニオ猪木、鳥山明、高田延彦、秋元康
光緒帝の一族~孫文、夏目漱石、張作霖、甘粕正彦、橋本忍、毛沢東、徳田球一、金日成、小沢一郎、金丸信、藤本弘、金正日、赤塚不二夫、ジャッキー・チェン、金正恩委員長
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アラリックの一族~西ゴート王国、南朝宋、シャルルマーニュ大帝、イングランド王国、キエフ公国、ポーランド王国、ノルマンディー公国、モンゴル帝国、カーカティヤ朝、甲賀忍者、エチオピア帝国、チムール帝国

 

劉備玄徳の子孫

 

劉裕(363~422) 南朝宋初代皇帝 在位420~422

アラリック1世(370~410) 西ゴート王国初代王 在位395~410

 

その名は彼が成した410年のローマ略奪で最も知られている。ローマ略奪は、ローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退を決定づける事件であった。 wikiより

 

※インド・サカ王朝最後の王ルドラセーナ3世は、西ゴート族に合流し、アラリックを生んだ。アラリックは西ゴート族を率いて西ゴート王国を建設した。

 

少帝 (406~424) 南朝宋第2代皇帝 在位422~424※画像なし

アタウルフ(375~414) 西ゴート王国第2代王 在位410~415※画像なし

シゲリック(?~415) 西ゴート王国第3代王 在位415

ワリア(?~418) 西ゴート王国第4代王 在位415~418

 

文帝(407~453) 南朝宋第3代皇帝 在位424~453

テオドリック1世(?~451) 西ゴート王国第5代王 在位418~451

 

孝武帝(430~464) 南朝宋第4代皇帝 在位453~464※画像なし

テオドリック2世(?~466) 西ゴート王国第7代王 在位453~466

 

エウリック(440~484) 西ゴート王国第8代王 在位466~484

前廃帝(449~466) 南朝宋第5代皇帝 在位464~466

明帝(439~472) 南朝宋第6代皇帝 在位466~472

後廃帝(463~477) 南朝宋第7代皇帝 在位472~477

順帝(469~479) 南朝宋第8代皇帝 在位477~479

 

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レケスウィント(610~672) 西ゴート王国第29代王 在位649~672

キルデリク2世(653~675) メロヴィング朝フランク王 在位673~676※画像なし
テウデリク3世(654~691) メロヴィング朝フランク王 在位679~690

 

※西ゴート王国最後の王ロデリックは、キルデリク2世とテウデリク3世を生んだ。実質的には2人は同一人物である。キルデリク2世は22歳で死んだことにし、テウデリク3世を称してフランク王の座をキープし続け、38歳まで生きた。

 

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アギラ2世(695~714) 西ゴート王国第35代王 在位711~714※画像なし

テウデリク4世(711~737) メロヴィング朝フランク王 在位721~737
キルデリク3世(717~754) メロヴィング朝フランク王 在位743~751

 

※西ゴート王国王アギラ2世は、キルデリク3世とテウデリク4世に変身してフランク王国を統治した。実質的に、3人は同一人物である。アギラ2世は19歳で死んだことにし、テウデリク4世を、次いでキルデリク3世を称してフランク王の座をキープし続け、59歳まで生きた。

 

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キルデリク3世の子

 

テウデリク(生没年不詳)

ピャスト(740~861) ポーランド王国初代王
シャルルマーニュ大帝(742~814) カロリング朝フランク王国初代皇帝

 

年代記によると、息子シェモヴィトの7歳の誕生日に二人の異邦人がピャストを訪れ、シェモヴィトの誕生日を祝いたいと申し出た。ピャストはこれを受け入れ、共に息子の誕生日を祝った。返礼として異邦人たちは呪文を唱え、その結果ピャストの家の蔵は食べ物で満ち溢れるようになり、飢えとは無縁になったという。 この不思議な光景を見た仲間たちがポピエル亡き後の支配者の座にピャストを選んだという。wikiより

 

768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。

 

※フランク王キルデリク3世は、シャルルマーニュ大帝とポーランドに伝説的な君主ピャストを生んだ。シャルルマーニュ大帝は西ヨーロッパを整理して完全な統治下に置いた。その後、シャルルマーニュ大帝は自分が死んだことにして、引き続いてポーランドに移り、ピャストとしてポーランドを整理、完全な統治下に置いた。

 

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シャルルマーニュの子

 

ピピン(769~811)

エクバード(769~839) イングランド王国初代王 在位802~839

 

※シャルルマーニュ大帝の子はウェセックス王国に侵入し、エクバードとしてウェセックス王に即位し、イングランドを統一した。イングランド王国の初代王である。

 

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エクバードの子

 

エゼルウルフ(?~858) イングランド王 在位839~858
リューリク(830~879) リューリク朝初代キエフ大公
オレグ(?~922) キエフ第2代大公
ロロ(846~933) 初代ノルマンディー公

 

エゼルウルフはその治世の間に、カロリング朝式の政策を進め、硬軟両方の手段を用いてウェセックスの勢力範囲を拡げた。エゼルウルフのなしたことでしばしば言及されるのは、従属国を直接統治に切り替えたこと(中央集権化)、土地政策の転換、851年の対ヴァイキング海戦勝利、そして巡礼と聖別で王の威信を高めたことである。以下、分野別に解説を進める。858年に死を迎えたが、息子らの相続争いに巻き込まれ、不遇な晩年を過ごした。 リューリクwikiより

 

862年にラドガ(現在のロシア連邦・スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。リューリクの後裔は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで、公、大公、ツァーリなど支配者として君臨した(リューリク朝)。後世に同名の君主があるため、リューリク1世とも呼ばれる。wikiより

 

10世紀初めルーシの一部または全部を支配したヴァリャーグの公(または王)。オレグwikiより

 

ノルウェー人、デンマーク人の指導者で、間もなくノルマンディーとして知られるようになったヴァイキングの公国の創始者。恵まれた体格が災いして、馬に乗ると馬を乗り潰してしまうので、いつも徒歩で移動し、「徒歩王」ロロ(Rollon le Marcheur)と渾名された。ロロwikiより

 

※イングランド王エゼルウルフは、リューリクでもあり、オレグでもあり、ロロでもあった。彼は、庶子の異母兄弟を動員して影武者部隊を作ることで世界各地に出没した。エゼルウルフは858年に死んだことにし、その後の21年間をリューリクとして生きた。そして、その後の43年間をオレグとして生き、更に、オレグは最後の11年間をロロとして生きた。ロロの死んだ日が、エゼルウルフが起用した最後の影武者が死んだ日である。イングランド王が、東ヨーロッパと西ヨーロッパの全ヴァイキングを統治していた。オレグやロロの名の由来はリューリクである。これこそが真の帝王である。

 

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エゼルウルフの子

 

アルフレッド大王(849~899) イングランド王 在位871~899
ボンドチャル・ムンカグ(850~900) ボルジギン家の祖

 

イングランド七王国のウェセックス王。兄エゼルレッド王の死後、王位を継いだ。妃はエアルフスウィス(Ealhswith)(エアルスウィス、Ealswith)。約100年続いたデーン人(北欧ヴァイキング)の侵攻を食い止め、衰退したイングランドのキリスト教文化を復興し、古英語での読み書きを習慣化した王として知られる。

アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリスの歴史において大王と称される君主である。また、海上で敵を迎え撃ち、上陸を阻止するための海軍力の適正運用を行った初めての君主として、しばしば英国海軍の父と称される。アルフレッド大王wikiより

 

※アルフレッド大王とボルジギン家の祖であるボンドチャルの生没年は1年違いである。これは興味深いことだが、ということで、2人は間違いなく同一人物である。

 

エドワード長兄王(877~924) イングランド王 在位899~924

ギヨーム1世(?~942) 第2代ノルマンディー公 在位925~942※画像なし

イーゴリ1世(877~945) リューリク朝初代キエフ大公 在位913~945

 

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アルフレッド大王曾孫

 

エドウィ(940~959) イングランド王 在位955~959

ヤロポルク1世(945~980) リューリク朝第3代キエフ大公 在位973~979※画像なし

ミェシュコ1世(935~992) ピャスト朝ポーランド王国初代ポーランド公 在位963~992

 

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カジミェシュ1世(1016~1058) ピャスト朝ポーランド王国第6代ポーランド公 在位1039~1058

イジャスラフ1世(1024~1978) リューリク朝第8代キエフ大公 在位1054~1068※画像なし
コンスタンティノス10世(1006~1067) ドゥーカス朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位1059~1067※画像なし

 

東ローマ帝国ドゥーカス王朝の初代皇帝(在位:1059年 - 1067年)。アンドロニコス・ドゥーカスの子。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス10世ドゥカス」となる。 wikiより

 

※カジミェシュ1世は、父の庶子(異母兄弟)や自分の庶子を投入してポーランド、ビザンツに影武者を設置した。カジミェシュ1世は、異国の地でビザンツ皇帝コンスタンティノス10世として生き、ビザンツ帝国を統治していた。

 

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ヤロスラフ1世(978~1054) リューリク朝第6代キエフ大公 在位1017、1019~1054

ベータ1世(?~?) カーカティヤ朝初代王 在位1000~1030※画像なし

プローラ1世(?~1075) カーカティヤ朝第2代王 在位1030~1075※画像なし

 

※ヤロスラフ1世は、父の庶子(異母兄弟)や自分の庶子を投入してロシア、インドに影武者を設置した。ヤロスラフ1世は、キエフを支配しながらカーカティヤ朝をインドに建国した。

 

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ボンドチャルの子

 

カイドゥ(1040~1100)※画像なし

ヴワディスワフ1世ヘルマン(1043~1102) ピャスト朝ポーランド王国第8代ポーランド公 在位1079~1102


バイ・シンコル・ドクシン(?~?) カイドゥの子

 


トンビナイ・セチェン(1080~1130) ドクシンの子※画像なし

ボレスワフ3世クシヴォウスティ(1085~1138) ピャスト朝ポーランド王国第10代ポーランド公 在位1102~1138

 


カブル・カーン(1100~1147) セチェンの子

ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ(1105~1159) ピャスト朝ポーランド王国第11代ポーランド公 在位1138~1146

 

チンギス・ハーンの曽祖父に当たる『元朝秘史』ではカブル・カハン(合不合罕、Qabul Qahan)、『集史』ではカブル・ハン(Qabul Khān)、『元史』では葛不律寒と表記される。また、金代に記録される熬羅孛極烈もまたカブル・カンの別名であると見られている。カブル・カンの子孫はモンゴル古伝承にちなんで、キヤン(Qiyan、乞顔)という氏族名を名乗って多くの氏族集団をつくり、結束してキヤト(Qiyad、乞牙)(キヤンの複数形)と称した。 カブル・カーンwikiより


バルタン・バートル(?~?) カブルの子

 

「あまねきモンゴル」最初のカンとして即位したカブル・カンの息子として生まれ、兄弟にはサム・カチュラらがいた。カブル・カンの死後カン位を継承したのは族父にあたるアンバガイ・カン(カブル・カンの又従兄弟)及びバルタンの弟クトラ・カンであったため、バルタン・バアトルの事跡については殆ど記録に残っていない。バルタン・バートルwikiより

 


イェスゲイ(1134~1171) バートルの子

ウラジーミル3世(1132~1173) リューリク朝第24代キエフ大公 在位1171※画像なし

ボレスワフ4世(1120~1173) ピャスト朝ポーランド王国第12代ポーランド公 在位1146~1173

 

12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏系キヤト氏の首長のひとり。モンゴル帝国を築いたチンギス・カンの父であり、キヤト・ボルジギン氏の祖である。バアトルという称号を帯び、イェスゲイ・バアトル (Yesügei Ba'atur) の名で知られている。イェスゲイwikiより

 

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イェスゲイの子

 

チンギス・ハーン(1162~1227) モンゴル帝国初代皇帝 在位1206~1227

ムスチスラフ3世(?~1223) リューリク朝第39代キエフ大公 在位1214~1223※画像なし

ヴワディスワフ3世ラスコノギ(1165~1231) ピャスト朝ポーランド王国第16代ポーランド公 在位1202~1206

 

大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 wikiより

 

※チンギスの祖先アルフレッド大王は、イングランドを離れて遠くツングースに移住し、チュクチ族と暮らしていた。チンギスの名の由来はツングースである。ツングース=ツングス=チンギスとなる。不世出の覇王と考えられていたチンギスも、キエフ大公やポーランド王を演じていたようだ。

 

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チンギス孫

 

オルダ(1206~1251)※画像なし

モンケ(1209~1259)※画像なし

アレクサンドル・ネフスキー(1220~1263) リューリク朝第48代キエフ大公 在位1249~1263

 

元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。 wikiより

 

※モンケはトルイの子とされているが、トルイはサトゥルヌスの系統である。モンケは、実際にはチンギスの孫ので、ジョチの子オルダである可能性が高い。

 

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ルドラマ・デーヴィー(?~1296) カーカティヤ第8代王 在位1262~1296

六角泰綱(1213~1276) 六角氏の祖

 

佐々木泰綱(ささき やすつな)は、鎌倉時代中期の武将・御家人、近江国守護。六角氏の祖ともいわれており、六角泰綱ともいわれる。 wikiより

 

※カーカティヤ朝最後の王ガナパティデーヴァの子ルドラマ・デーヴィーは、日本に移住し、六角氏を生んだ。六角氏の由来はリューリクとカーカティヤの組み合わせである。リューリク+カーカティヤ=リクカーカ=六角となる。六角氏はカウティリヤの「実利論」を踏襲し、甲賀忍者を育成した。甲賀の由来はカーカティヤである。

 

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モンケの子

 

アスタイ(?~1282)※画像なし

アヤチ(?~1324) クビライの子※画像なし
イクノ・アムラク(?~1285) エチオピア帝国ソロモン朝初代皇帝 在位1270~1285
オスマン1世(1258~1326) オスマントルコ帝国初代皇帝 在位1299~1326
イヴァン1世(?~1340) モスクワ大公 在位1325~1340

 

『集史』によると、アヤチの母親はモンゴル帝国建国の功臣であるボロクルの娘フシュチン(هوشیجینHūshījīn)であったという。フシュチンはクビライの妃(ハトゥン)たちの中では比較的身分が低く、フシュチンより生まれたアヤチとココチュはクビライの諸子の中でも扱いの低い存在であった。

アヤチの生年は不明であるが、至元9年(1272年)にはクビライより馬を下賜されたことが記録されている。しかし他の兄弟(嫡出の3子、フゲチとアウルクチ)が次々と王号を与えられ各地の統治に携わるのに対し、アヤチは10年近く何の王号も与えられておらずその事蹟は不明である。アヤチwikiより

 

エチオピアを支配したソロモン朝の創始者で、一時中断するものの1975年まで続くエチオピア帝国の初代皇帝(在位:1270年 - 1285年)。その先祖をたどるとアクスム王国の最後の王デイルナードに繋がるとされている。 イクノ・アムラクwikiより

 

1299年、カラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒルを占領した。ここで首都となるべき町を手に入れたオスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン帝国を築き上げたのである。

1301年、オスマン1世は領土拡大のためビザンツ帝国との戦い、コユンヒサルの戦いでこれを破り、帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げた。 オスマン1世wikiより

 

イヴァン・カリタはキプチャク・ハン国に忠誠を誓い、キプチャク・ハン国の徴税人となってモスクワを裕福にした。彼が「カリター」とあだ名されるのはこの事実による。その財産を使って周辺の諸公国内部に所領を増やし、その結果、それらの公国は実質的にモスクワの支配下に入った(ベロオーゼロ公国、ガーリチ公国、ウグリチ公国、コストロマー公国)。また、キプチャク・ハンの同意を得て、息子セミョーンに大公位を相続させて以来、モスクワは北東ルーシ地方の諸公国のなかで領袖的地位を得た。イヴァン1世wikiより

 

※モンケの子アスタイはフビライの子アヤチに変身し、対立を機にモンゴルを離れた。彼は、エチオピア帝国を築き、オスマントルコ帝国を築き、モスクワ大公を務めて82歳で死去した。こういう場合、実際には庶子を登用した影武者の死んだ日が含まれている。イヴァン1世の死んだ日が、アヤチが起用した最後の影武者が死んだ日である。これこそが真の皇帝である。

 

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アヤチの子

 

チンキム(1243~1286)※画像なし

レシェク2世(1241~1288) ピャスト朝ポーランド王国第24代ポーランド公 在位1279~1288

 


ダルマバラ(1264~1292) チンキムの子※画像なし

プシェミスウ2世(1257~1296) ピャスト朝ポーランド王国第26代ポーランド公 在位1295~1296

 


カイシャン(1281~1311) ダルマバラの子

ヴァーツラフ3世(1289~1306) ピャスト朝ポーランド王国第28代ポーランド公 在位1305~1306

 


コシラ(1300~1329) カイシャンの子

カジミェシュ3世(1310~1370) ピャスト朝ポーランド王国第30代ポーランド公 在位1333~1370

 

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コシラの子

 

トゴン・テムル(1320~1370) モンゴル帝国皇帝 在位1333~1370
チムール(1336~1405) チムール帝国初代皇帝 在位1370~1405
メフメト1世(?~1421) オスマントルコ皇帝 在位1405~1421

 

父・コシラが暗殺計画を逃れるため中央アジアに滞在した際に、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。カルルクは本来チンギス・ハーン王家姻族ではないため、モンゴル王族としては母の出自はあまりよくない。 wikiより

 

中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)で建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。 wikiより

 

第4代皇帝バヤズィト1世の子。「典雅王(チェレビー)」の別名で知られる。分裂した帝国を再統一し、短い治世の中で国家の再建に注力した皇帝として評価されている。 wikiより

 

※トゴン・テムルは北走したとされているが、チムール帝国を築き、オスマントルコ皇帝を務めて101歳で死去した。こういう場合、実際には庶子を登用した影武者の死んだ年が没年とされている。メフメト1世の死んだ日が、トゴン・テムルが起用した最後の影武者が死んだ日である。

 

 

 


シャルルマーニュ大帝の一族~ビザンツ帝国、後蜀、ロタリンギア王国、ハンガリー王国、カスティーリャ王国、セルビア王国、チェコ共和国、ハンガリー共和国

 

キルデリク3世の子

 

テウデリク(生没年不詳)

ピャスト(740~861) ポーランド王国初代王
シャルルマーニュ大帝(742~814) カロリング朝フランク王国初代皇帝

 

年代記によると、息子シェモヴィトの7歳の誕生日に二人の異邦人がピャストを訪れ、シェモヴィトの誕生日を祝いたいと申し出た。ピャストはこれを受け入れ、共に息子の誕生日を祝った。返礼として異邦人たちは呪文を唱え、その結果ピャストの家の蔵は食べ物で満ち溢れるようになり、飢えとは無縁になったという。 この不思議な光景を見た仲間たちがポピエル亡き後の支配者の座にピャストを選んだという。wikiより

 

768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。

 

※フランク王キルデリク3世は、シャルルマーニュ大帝とポーランドに伝説的な君主ピャストを生んだ。シャルルマーニュ大帝は西ヨーロッパを整理して完全な統治下に置いた。その後、シャルルマーニュ大帝は自分が死んだことにして、引き続いてポーランドに移り、ピャストとしてポーランドを整理、完全な統治下に置いた。

 

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シャルルマーニュの子

 

ピピン(769~811)※画像なし

ニケフォロス1世(760~811) ニケフォロス朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位802~811

エクバード(769~839) イングランド王国初代王 在位802~839※画像なし

 

ニケフォロスは、イスラームの史書には古代末期にアラビア半島北部にあった帝国の衛星国・ガッサン朝の王家の子孫であると記載されているが、真偽は不明である。先帝であるエイレーネーの代には税務長官であったが、802年10月31日のクーデターの中心人物として、エイレーネーを退位に追い込んで即位した。このクーデターには彼のほかにも司法長官や近衛部隊長官(ドメスティコス・トーン・スコローン)、さらにはエイレーネーの一族すら参加していた。翌803年、ニケフォロス1世の即位に反対するバルダネス・トゥルコスが反乱を起こすが、彼はすぐに投降したため、大きな混乱にはならなかった。ニケフォロス1世wikiより

 

※シャルルマーニュ大帝の子はウェセックス王国に侵入し、エクバードとしてウェセックス王に即位し、イングランドを統一した。イングランド王国の初代王である。

 

カール(771~811)

ミカエル2世(770~829) アモリア朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位820~829※画像なし

 

小アジア半島内陸部の中心都市アモリオンの出身。彼が異端のアティンガノス派の信者であったとする史料もあるが真偽は不明。若い頃にレオーン5世やスラブ人トマスなどと共に、テマ・アナトリコンの長官バルダネス・トゥルコに仕えていたため、レオーンとは親友の仲にあった。また彼はアナトリコンの長官(バルダネス・トゥルコスなのかは不明)の娘を妻としている。レオーン5世が皇帝になると、彼は近衛部隊長官(ドメスティコス・トーン・エクスクビトーン)に任命される。しかし次第に両者の仲は険悪になり、820年12月にミカエルは逮捕された。だが時期が丁度クリスマスであり、ミカエルの処刑が1日延期されたため、この機会を利用してミカエルの支持者たちがレオーン5世を暗殺し、ミカエルが即位した。wikiより

 

テウデリク(807)※画像なし
パシレイオス1世(811~886) マケドニア朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位867~886

 

アルメニア系農民の子から皇帝にまで上り詰めた。彼に始まるマケドニア王朝は10世紀から11世紀初頭にかけて、東ローマ帝国の最盛期をもたらした。wikiより

 

※女は帝王の子を所望するものだ。ということで、シャルルマーニュの庶子たちはビザンツに移り、ニケフォロス、アモリア、マケドニアと代々、ビザンツ帝国を統治した。

 

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シャルルマーニュ大帝の孫

 

ロタール1世(818~855) 東フランク王

 

795年にカール大帝の息子ルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ1世)と最初の妻エルマンガルド・ド・エスベイの間の長男として生まれた。即ちカール大帝の孫にあたる。祖父カール大帝は、この5年後にあたる800年、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授かった(「カールの戴冠」)。 ロタール1世wikiより

 

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ロタール1世の子

 

ロタール2世(835~869)

 

855年、父ロタール1世は死に際し、自らの領地と皇帝位を三人の息子に分割することを決めた。次男であったロタールはアーヘンを含むフリースラントから北部ブルグント(ジュラ山脈以北)に至るロタリンギアの地を与えられることとなった。ロタール2世wikiより

 

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ロタール1世の子

 

シャルル(845~863) プロヴァンス王 在位855~863※画像なし

ルイ2世(846~879) 西フランク王 在位877~879

 

シャルル3世(879~929) 西フランク王 在位893~923※シャルルの子

孟知祥(874~934) 後蜀初代皇帝※画像なし

 

邢州龍岡に孟道の子として生まれる。父や叔父と共に後唐の荘宗の下で武将として転戦した。後唐が前蜀を滅ぼすと、荘宗より西川節度使に封じられ、成都の地で勢力を蓄えた。

その強勢を警戒した明宗は孟知祥に対する抑制を強めてゆく。これに反発した孟知祥は長興元年(930年)に後唐に対して挙兵するに及び、長興2年(932年)には蜀の地より後唐勢力を駆逐、翌年には懐柔策に転向した明宗より蜀王に封じられた。 wikiより

 

ルイ4世(920~954) 西フランク王 在位936~954
孟チョウ(919~965) 後蜀皇帝

 

十国後蜀の第2代(最後)の皇帝。高祖孟知祥の第五子。後世の史家からは後主と呼ばれている。孟チョウwikiより

 

※フランスを離れたウーゴは、中国に移り、孟氏を築いた。孟(メン)の名の由来はシャルルマーニュである。シャルルマーニュ=マーニュ=メン(孟)となる。

 

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ルイ4世(孟チョウ)の子

 

ロテール(941~986)

孟玄テツ(?~?)

 

シャルル(945~953)
孟玄カク(?~?)

 

ルイ(948~954)
孟玄宝(?~?)

 

※孟チョウの子たちは、中国を離れてハンガリーに移り、イシュトヴァーン1世を生んだ。イシュトヴァーン1世はアールパード朝ハンガリー王国を築いた。

 

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シャルル(孟玄カク)の子

 

オトン(970~1012) 下ロートリンゲン公 在位991~1012 ※画像なし

イシュトヴァーン1世(969~1038) アールパード朝ハンガリー王国初代王 在位1000~1038

 

大首長・ハンガリー国王として997年 - 1038年)は、ハンガリー王国の初代国王。幼名はヴァイク(Vajk)。ハンガリーのキリスト教化に貢献し、カトリック教会では聖人として列聖されている。8月20日は、彼の記念日としてハンガリーの祝日に定められている。聖王とも呼ばれる。 イシュトヴァーン1世wikiより

 

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アンドラーシュ1世(1015~1060) ハンガリー王 在位1046~1060
フェルナンド1世(1017~1065) カスティーリャ王国初代王 在位1035~1037

 

15年間の亡命生活後、異教徒のハンガリー人らが起こした大規模反乱の最中に王位に就いた。しかし、かれは王国のキリスト教化を強力に進め、神聖ローマ帝国に対するハンガリー王国の独立性を保つのに務めた。自身の嫡子シャロモンを後継にしようとしたことが、実の弟ベーラ(のちのベーラ1世)が武力を持って甥から王位を奪うべく反乱を起こすきっかけとなった。アンドラーシュ1世wikiより

 

カスティーリャ伯(在位:1035年 - 1037年)、後に初代カスティーリャ王(在位:1037年 - 1065年)、およびレオン王(在位:1037年 - 1065年)。1056年に「全ヒスパニアの皇帝」として戴冠した。「大王」(El Magno)と呼ばれる。 フェルナンド1世wikiより

 

※ハンガリー王アンドラーシュ1世は、フェルナンド1世としてカスティーリャ王国を築き、ハンガリー王国とスペインを同時に統治した。もちろん、庶子を投入した影武者部隊を起用していることで可能なことである。

 

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ペーラ2世(1108~1141) ハンガリー王 在位1131~1141※画像なし
ステファン・ネマニャ(1113~1200) セルビア王国初代王 1113~1200

 

彼は幼少時代に、男系年長者相続制の適用を恐れた伯父カールマーン1世によって両目を潰されていたことから、即位後盲目王とも呼ばれた。幼年時代を別々の修道院を転々として育てられた。従弟イシュトヴァーン2世に子供がなかったため、最も近親の男性として後継者に選ばれ、宮廷へ迎えられた。イシュトヴァーンの死後に即位。しかし、その治世の間断続的に、諸外国の軍事支援を受けたボリス・コンラド(カールマーン1世の子であると主張していた)との対立に悩まされることになった。ペーラ2世wikiより

 

1168年、兄を殺してセルビア侯として即位する。その後セルビアの諸部族を統一、宗主であった東ローマ帝国との長い戦いに勝利し、1171年には独立の君主、セルビア王ステファン1世として即位しネマニッチ朝を開いた。しかし、この時点では「王」は自称であり、国際的には「侯」の扱いを脱しなかった。 ステファン・ネマニャwikiより

 

※ハンガリー王ペーラ2世は、ステファン・ネマニャとしてセルビア王国を築き、ハンガリー王国とセルビアを同時に統治した。もちろん、庶子を投入した影武者部隊を起用していることで可能なことである。

 

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ステファン・ネマニャの子

 

サワ(1174~1236) セルビア大主教
テオドロス1世(1175~1222) ラスカリス朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位1205~1222

 

東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の建国者で、その初代皇帝。 テオドロス1世wikiより

 

※セルビア大主教サワは、チェオドロス1世としてラスカリス朝ビザンツ皇帝に即位した。彼は、大主教を務めながら、一方ではビザンツ皇帝を務めた。もちろん、庶子を投入した影武者部隊を起用していることで可能なことである。

 

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ステファン・ウロシュ1世(1223~1277) セルビア王 在位1243~1276
ミカエル8世(1225~1282) パレオロゴス朝ビザンツ帝国初代皇帝 在位1258~1282

 

1243年の春に起きた内乱によって兄のステファン・ヴラディスラヴがセルビア王位を退き、彼が王位に就いた。退位したヴラディスラヴとは良好な関係を維持し続け、ウロシュ1世が出した特免状にはヴラディスラヴの名も見られる。ステファン・ウロシュ1世の治世初期、バルカン半島におけるセルビアの仇敵であるエピロス専制侯国とブルガリア帝国の衰退が同時に起き、この天佑によってセルビアはバルカン半島での影響力を高めていく。 ステファン・ウロシュ1世wikiより

 

後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世wikiより

 

※ステファンは、ミカエル8世としてビザンツ皇帝に即位し、セルビアとビザンツ帝国を同時に統治した。もちろん、庶子を投入した影武者部隊を起用していることで可能なことである。

 

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シャルルマーニュ大帝の一族の子孫

 

イオン・イリエスク(1930) ルーマニア第2代、第4代大統領

 

シュミット・パール(1942) ハンガリー共和国第4第大統領

 

ミロシュ・ゼマン(1944) チェコ第3代大統領

 

ケヴェール・ラースロー(1959) ハンガリー共和国大統領代行

 

アーデル・ヤーノシュ(1959) ハンガリー共和国第5第大統領

 

※ハンガリー政府はハンガリー国内の遺伝子組み換えとうもろこしの畑を焼き尽くし、まともなとうもろこしを栽培し、冷凍食品として輸出していた。日本では業務スーパーで売られていた(現在では撤去されている)。しかし、これを不服としたイギリス政府(西本願寺門主文如と法如の一族)が「有毒な細菌に汚染されたハンガリーの冷凍食品を食べたせいでイギリス国民が死んだ」とウソをつき、世界的にハンガリー冷凍食品を輸出禁止にした。本願寺は、どうしても安全なものを人類に食べさせたくないのだ。

 

 

 


オスマン1世の一族~北元、イヴァン雷帝、シク教国、スペイン無敵艦隊、ロシア帝国、サルディーニャ王国、ハプスブルグ朝オーストリア帝国、リンカーン大統領、宰相ビスマルク、怪僧ラスプーチン

 

 

アスタイ(?~1282)※画像なし

アヤチ(?~1324) クビライの子※画像なし
イクノ・アムラク(?~1285) エチオピア帝国ソロモン朝初代皇帝 在位1270~1285
オスマン1世(1258~1326) オスマントルコ帝国初代皇帝 在位1299~1326
イヴァン1世(?~1340) モスクワ大公 在位1325~1340

 

『集史』によると、アヤチの母親はモンゴル帝国建国の功臣であるボロクルの娘フシュチン(هوشیجینHūshījīn)であったという。フシュチンはクビライの妃(ハトゥン)たちの中では比較的身分が低く、フシュチンより生まれたアヤチとココチュはクビライの諸子の中でも扱いの低い存在であった。

アヤチの生年は不明であるが、至元9年(1272年)にはクビライより馬を下賜されたことが記録されている。しかし他の兄弟(嫡出の3子、フゲチとアウルクチ)が次々と王号を与えられ各地の統治に携わるのに対し、アヤチは10年近く何の王号も与えられておらずその事蹟は不明である。アヤチwikiより

 

エチオピアを支配したソロモン朝の創始者で、一時中断するものの1975年まで続くエチオピア帝国の初代皇帝(在位:1270年 - 1285年)。その先祖をたどるとアクスム王国の最後の王デイルナードに繋がるとされている。 イクノ・アムラクwikiより

 

1299年、カラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒルを占領した。ここで首都となるべき町を手に入れたオスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン帝国を築き上げたのである。

1301年、オスマン1世は領土拡大のためビザンツ帝国との戦い、コユンヒサルの戦いでこれを破り、帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げた。 オスマン1世wikiより

 

イヴァン・カリタはキプチャク・ハン国に忠誠を誓い、キプチャク・ハン国の徴税人となってモスクワを裕福にした。彼が「カリター」とあだ名されるのはこの事実による。その財産を使って周辺の諸公国内部に所領を増やし、その結果、それらの公国は実質的にモスクワの支配下に入った(ベロオーゼロ公国、ガーリチ公国、ウグリチ公国、コストロマー公国)。また、キプチャク・ハンの同意を得て、息子セミョーンに大公位を相続させて以来、モスクワは北東ルーシ地方の諸公国のなかで領袖的地位を得た。イヴァン1世wikiより

 

※モンケの子アスタイはフビライの子アヤチに変身し、対立を機にモンゴルを離れた。彼は、エチオピア帝国を築き、オスマントルコ帝国を築き、モスクワ大公を務めて82歳で死去した。こういう場合、実際には庶子を登用した影武者の死んだ日が含まれている。イヴァン1世の死んだ日が、アヤチが起用した最後の影武者が死んだ日である。これこそが真の皇帝である。

 

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バヤズィト1世(1360~1403) オスマントルコ皇帝 在位1299~1326
イェスデル(1359~1392) 北元初代皇帝 在位1388~1391※画像なし

 

1360年にオスマン皇帝ムラト1世とバルカン半島の奴隷出身の妃ギュルチチェク・ハトゥンの子として産まれ、幼少時代を第二宮廷のあったアナトリア半島のブルサで過ごしている。 王子時代より戦場で活躍し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、彼がムラト1世の後継者に指名される。ムラトが取り決めた政略結婚によりゲルミヤン侯国の王女と結婚、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤなどの都市がオスマンに譲渡された。 バヤズィト1世wikiより

 

チンギス・カンの孫で、兄クビライと帝位を争ったアリクブケの後裔。アリクブケが分与されたウルスを引き継ぎ、モンゴル高原の西部に勢力を持っていた。 イェスデルwikiより

 

※オスマントルコ皇帝バヤズィト1世はイェスデルとして北元皇帝を務めた。イェスデルの由来はイシュタル。オリエントから来たことをアピールしている。

 

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オスマントルコ皇帝ムラト1世の子

 

Savci Bey(1362~1385) ※画像なし
ヴワディスワフ2世ヤギェヴォ(1362~1434) ヤギェヴォ朝ポーランド王国初代王 在位1377~1392

 

 ヨガイラは中世リトアニア最後の異教の君主であった。クレヴォ合同の結果、ポーランド国王になった後に新たに形成されたポーランド・リトアニア合同はドイツ騎士団勢力の台頭に直面することとなった。1410年のタンネンベルクの戦いでの合同の勝利は、第一次トルンの和約により、ポーランドとリトアニアの国境線を確固たるするものとなり、ヨーロッパに重要な戦力としてのポーランド=リトアニア合同の出現を印象付けた。ヴワディスワフ2世ヤギェウォの統治はポーランドの国境を拡張させ、大概はポーランド黄金時代の幕開けと見做されている。 ヴワディスワフ2世ヤギェヴォwikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子Savciは23歳で死んだことにし、トルコからポーランドに移り、ヴワディスワフ2世ヤギェヴォとしてヤギエヴォ朝を開いた。

 

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オスマントルコ皇帝ムラト1世の子

 

Yakub Celebi(?~1389)※画像なし
フリードリヒ1世(1371~1440) ホーエンツォレルン家、ブランデンブルク選帝侯

 

ホーエンツォレルン家の人物で、最初は1398年からニュルンベルク城伯としてフリードリヒ6世・フォン・ニュルンベルクを、1415年にブランデンブルク選帝侯を兼ね、表記の名を名乗った。さらに、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯およびブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯をも兼ねた。 wikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子Yakubは10代で死んだことにしてホーエンツォレルン家に迎えられ、フリードリヒ1世としてブランデンブルク候を演じた。

 

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オスマントルコ皇帝バヤズィト1世の子

 

Sehzade Kasim Celebi(?~?)※画像なし
イヴァン3世(1440~1505) モスクワ大公 在位1462~1505

 

ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。 wikiより

 

※生没年が不詳のオスマントルコ皇帝の子Kasimは、じつはイヴァン3世としてモスクワ大公に即位し、イワン大帝と呼ばれた。

 

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セリム1世(1470~1520) オスマントルコ皇帝 在位1512~1520
グル・ナーナク(1469~1539) シク教教祖

 

父バヤズィト2世からトラブゾン知事に任命され、東方に目を光らせていたセリムは父の消極性に不満を持っていた。当初は3番目の子で上の兄コルクト・アフメトがいたため継承順位はもっとも下だったが、1511年にサファヴィー朝に同調したシャー・クルの反乱を契機として、兄達が反乱にてこずっている隙を付いてクーデターを仕掛けた。1度目は失敗してクリミア半島へ追放されたが、翌1512年にイェニチェリに擁立され兄達を排除、父を退位させて皇帝に即位したセリム1世は、父が即位時にしたのと同じように、即位後の内紛を避けるために兄弟達とその子らを次々と殺した。父もその後すぐに歿しているが、セリム1世の暗殺も疑われている。 セリム1世wikiより

 

ラーホール(現在のパキスタンの都市、インドとの国境近く)近郊のタールワンディー村で、ヒンドゥー教徒の両親の元に生まれた。 その後シク教の開祖となり、インドのパンジャーブ地方で布教活動を行った。 彼は第2代グルに息子を選ばずに、信仰心のあついアンガドを指名した。息子はすねて独立してウダーシー派を結成した。 グル・ナーナクwikiより

 

※オスマントルコ皇帝セリム1世はグル・ナーナクとしてシク教を築き、オスマントルコ帝国を統治しながらシク教を布教した。その後、彼はムガール帝国皇帝バーブルを生んだ。

 

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オスマントルコ皇帝バヤズィト2世の子

 

Sehzade Sehinsah(1474~1511)
王直(?~1560)

 

徽州歙県(きしゅう きゅうけん、現在の安徽省黄山市)に生まれる。任侠の徒であったと言われ、青年の時に塩商を手がけるが失敗。明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任を得る。1548年、密貿易を取り締まった朱紈らが双嶼を攻撃すると逃れて海賊集団を組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となった。王直 wikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子Sehzadeは福建に渡って王直として福建海賊を統治した。

 

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オスマントルコ皇帝セリム1世の子

 

Uveys Pasha(1498~1548)※画像なし
カール5世(1500~1558) ハプスブルグ朝神聖ローマ皇帝 在位1519~1556

 

ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。カール5世wikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子Uveysはトルコからドイツに送り込まれ、ハプスブルグ家に迎えられた。彼は長じてカール5世となり、神聖ローマ皇帝として「日の沈まない国」を実現した。パシャはトルコ語で高官を意味するが、由来は不明と言われている。パシャの由来は中国語ピシャ(陛下)である。

 

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セリム2世(1524~1574) オスマントルコ皇帝 在位1566~1574
アルバロ・デ・バサン(1526~1588) スペイン無敵艦隊の父

松浦隆信(1529~1599) 松浦氏第25代当主

 

軍事活動への関心を持たずに大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンであり、もっぱら放蕩と飲酒に耽っていた。そのため、「酒飲み」「酔っ払い」(Sarhoş Selim)の渾名で呼ばれる。 父のスレイマン1世と比較して不肖・凡庸と評されるが、一方で大宰相を中心とした官人による統治システムに適した人物とも評価される。また、詩人としての一面も持ち合わせていた。セリム2世wikiより

 

「スペイン海軍の父」と称されるスペインの軍人・貴族。海軍提督として知られ、サンティアゴ騎士団員でもあった。アルバロ・デ・バサンwikiより

 

一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、北松浦半島を制圧した。 隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々合戦をしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。 松浦隆信wikiより

 

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ムラト3世(1546~1595) オスマントルコ皇帝 在位1574~1595

松浦鎮信(1549~1614) 松浦氏第26代当主

アロンソ・ペレス・デ・グスマン(1550~1615) スペイン無敵艦隊指揮官 バサンの子

 

スペインの軍人で、無敵艦隊の総司令官である。第7代メディナ=シドニア公。妻はエーボリ公とアナ・デ・メンドーサの娘アナ。子に第8代公爵フアン・マヌエル・ペレス・デ・グスマン。ポルトガル王ジョアン4世妃ルイサは孫娘に当たる。 アロンソ・ペレス・デ・グスマンwikiより

 

※オスマントルコ皇帝セリム2世は、スペインに潜入してアルバロ・デ・バサンを演じ、スペイン艦隊の父と呼ばれた。息子のアロンソはスペイン無敵艦隊を指揮したが、同族のフランシス・ドレイク率いるイギリス艦隊に敗れた。

 

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オスマントルコ皇帝スレイマン1世の子

 

ジハンギル(1531~1553)※画像なし
ルイス・フロイス(1532~1597) イエズス会

 

ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。 ルイス・フロイスwikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子ジハンギルは22歳で死んだことにし、その後はルイス・フロイスとして生きた。イエズス会士として来日したフロイスは日本の家族と協力し、邪教である仏教の根絶を目指した。彼らは、特に浄土真宗が有害だという認識はなく、信長の動向から仏教全般を敵視していたようだが、フロイスは日本を正しく「悪魔が支配する国」と称した。

 

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ムスタファ1世(1592~1639) オスマントルコ皇帝 在位1617~1623
ミハイル・ロマノフ(1596~1645) ロマノフ朝初代皇帝 在位1613~1645

 

兄の治世中、1603年から1617年の14年もの間幽閉された。1617年に兄が亡くなったため一旦は皇帝に即位したが、翌1618年、精神病のために退位させられることとなった。次に即位した甥のオスマン2世が殺害されたため1622年に再び皇帝となるが、まもなく2度目の退位を強制され、1623年にオスマン2世の弟ムラト4世が即位、47歳で死去するまで16年間の幽閉生活を送らされた。ムスタファ1世wikiより

 

父がボリス・ゴドゥノフに失脚させられ、母と共にコストロマのイパチェフ修道院に隠棲していた。1610年ヴァシーリー4世の退位後、ロシアではツァーリ不在の動乱時代における「空位期間」に陥ったが、1612年国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻した。その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国会議にてミハイルはツァーリに選出され、これにより動乱時代は終結した。ミハイル・ロマノフwikiより

 

※オスマントルコ皇帝ムスタファ1世は、イヴァン大帝の一族に迎えられ、ミハイル・ロマノフとしてロシア帝国の皇帝を務め、ロシア帝国を生んだ。

 

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ムスタファ2世(1664~1703) オスマントルコ皇帝 在位1695~1703
ヴィットリオ・アメデーオ2世(1666~1732) サヴォイア家初代サルディーニャ王

グル・ゴービンド・シング(1666~1708) シク教グル第10代グル

 

1695年に死んだ叔父のアフメト2世の後を継いで即位した。大トルコ戦争でオスマン帝国へのオーストリアの進出を阻止しようとして1697年にハンガリーの再征服に乗り出した。しかし、プリンツ・オイゲンにゼンタの戦いで大敗北を喫し、和平の道へと進むことになった。1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィアにモレアを、ポーランドにポドリアを割譲した。また、1700年にロシアともコンスタンティノープル条約を締結、1696年にピョートル1世が奪った黒海沿岸のアゾフを譲っている。ムスタファ2世wikiより

 

スペイン継承戦争では初めフランス側だったが、1703年に密かに同盟に連絡を取っていたことがフランスに発覚すると同盟に復帰、1706年にオイゲンと共に包囲されたトリノを解放した(トリノの戦い)。以後は終戦までオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンと共にサヴォイアのフランス軍と交戦、スペイン継承戦争終結後、ユトレヒト条約により1713年にシチリア王国を手に入れシチリア王となったが、1720年には四国同盟戦争の際に結ばれたハーグ条約により神聖ローマ帝国のカール6世にシチリア王国を割譲し、その代償として神聖ローマ帝国からサルデーニャ島を割譲された。だが神聖ローマ帝国からサルデーニャ王の称号を認められ、サルデーニャ王国を成立させた。 ヴィットリオ・アメデーオ2世wikiより

 

※オスマントルコ皇帝ムスタファ2世は、ヴィットリオ・アメデーオ2世としてサルディーニャ王に即位し、オスマントルコ帝国とサルディーニャ王国を同時に統治した。もちろん、庶子を投入した影武者部隊を起用していることで可能なことである。

 

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ムスタファ3世(1717~1774) オスマントルコ皇帝 在位1757~1774

アラウンバヤー(1714~1760) コンバウン朝初代王 在位1752~1760

 

コンバウン王朝の創設者(在位:1752年2月29日 - 1760年5月11日)。あるイギリス人の報告によれば当時としては大柄な180cm近くの体を持ち、天然痘の痕が顔中に残っていたといい、加えて、1760年アユタヤ(現在のタイ王国)遠征時の道中で地元の住民に加えた残虐行為がかさなり、タイ族のみならずビルマ人や配下の官吏までおびえ上がらせたという。 アラウンバヤーwikiより

 

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オスマントルコ皇帝ムスタファ3世の子

 

Sehzade Sultan Mehmed(1767~1772)※画像なし
フランツ1世(1708~1765) ハプスブルグ家オーストリア初代皇帝 在位1745~1765

 

その後ナポレオン戦争に巻き込まれ、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗し、フランツ2世は「ローマ皇帝」の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編し、オーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した。 フランツ1世wikiより

 

※ムスタファ3世はMehmedを死んだことにして同じ血筋のオーストリア人家庭に養子に出し、帝王学を叩き込んで未来の王として育てた。Mehmedはフランツ1世としてオーストリア帝国初代皇帝に即位した。

 

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オスマントルコ皇帝アブデュルハミト1世の子

 

Sehzade Sultan Abdulaziz(1779~1779)※画像なし
ランジート・シング(1780~1839) シク教国初代指導者

 

彼は「パンジャーブの虎(Lion of Punjab)」と呼ばれ、パンジャーブ地方のシク教徒の勢力を結集したのち、19世紀初頭にシク王国を創始し、シク教徒の間に統一的な国家成立させた。また、その領土を北西インド一帯に広め、巧みな外交戦略でイギリスの植民地支配を寄せ付けなかった英雄である。 ランジート・シングwikiより

 

※オスマントルコ皇帝アブデュルハミド1世は、オスマントルコ皇帝の子Abdulazizを早世したことにしてランジート・シングとして育てた。ランジートはシク教国を築き、大英帝国と交戦した。

 

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オスマントルコ皇帝メフメト2世の子

 

Sehzade Ahmed(1814~1815)※画像なし
オットー・フォン・ビスマルク(1815~1898) プロシア帝国宰相

 

プロイセン及びドイツの政治家、貴族。プロイセン王国首相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国首相(在職1871年-1890年)を歴任した。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相(独: Eiserne Kanzler)」の異名を取る。 オットー・フォン・ビスマルクwikiより

 

※オスマントルコ皇帝メフメト2世はオスマントルコ皇帝の子Ahmedを早世したことにして同じ血筋のドイツ人家庭に養子に出し、帝王学を叩き込んで未来の指導者として育てた。プロシア帝国もオーストリア帝国もオスマントルコ帝国の支配下にあったので、邪教が支配するヨーロッパを解放するために第一次世界大戦を始めた。

 

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オスマントルコ皇帝ムスタファ4世の子

 

Emine Sultan(1808~1808)※画像なし

カラク・シング(1801~1840) 第2代シク教国君主
アブラハム・リンカーン(1809~1865) 第16代アメリカ大統領

 

奴隷制の拡張に反対するリンカーンの大統領当選は南部諸州の反発を招き、アメリカ合衆国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦をよく指揮して、勝利へ導いた。しかし、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、アメリカ合衆国首都・ワシントンにあるフォード劇場において、観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れた。これにより、リンカーンは、アメリカ史上で初めて暗殺された大統領となった。アブラハム・リンカーン wikiより

 

※オスマントルコ皇帝ムスタファ4世はオスマントルコ皇帝の子Emineを死んだことにして同じ血筋のアメリカ人家庭に養子に出し、帝王学を叩き込んで未来の大統領として育てた。Emineは長じてアブラハム・リンカーンとなった。オスマントルコ帝国の血筋を優性遺伝子ブリーダーから聞いて知っていた本願寺は、リンカーンを暗殺した。

 

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オスマントルコ皇帝マフムト2世の子

 

Sehzade Ahmed(1822~1823)※画像なし

ナウ・ニハール・シング(1821~1840) 第3代シク教国君主
ユリシーズ・グラント(1822~1885) 第18代アメリカ大統領

 

南北戦争時の北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の一人である。身長6フィート(約183cm)。

軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。 ユリシーズ・グラントwikiより

 

※オスマントルコ皇帝マフムト2世はオスマントルコ皇帝の子Ahmedを死んだことにして、同じ血を引くアメリカ人に養子に出した。Ahmedは後の62年間をユリシーズ・グラントとして生きた。互いにオスマン王家出身なのでリンカーンとは親しかった。wikiでは「歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちのひとり」と呼ばれているが本願寺による汚名だろう。

 

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オスマントルコ皇帝アブデュルハミト2世の子

 

Sehzade Mehmed Selim(1870~1937)※画像なし

フレデリック・ドゥリープ・シング(1868~1926)※画像なし
グレゴリー・ラスプーチン(1869~1916)

 

奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評は極めて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。 グレゴリー・ラスプーチンwikiより

 

※ピタゴラス(孫武)、アリストテレス(カウティリヤ)、諸葛孔明などが培ってきた諜報・工作術を継承してきたオスマントルコ家が、ロマノフ家を救うため、満を持してロシアに送り出した名うての諜報員がラスプーチンだったと考えられる。ラスプーチンは暗殺されたことになっているが、実際には影武者が死に、本人はシク教国で10年暮らした後、本国に帰還してオスマントルコ皇帝の子Sehzade Mehmed Selimとして最後の11年を生きた。

 

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メフメト5世(1844~1918) オスマントルコ皇帝 在位1909~1918

 

1908年の青年トルコ党の蜂起によって翌1909年、兄・アブデュルハミト2世が廃されてサロニカに幽閉された後、その後釜として擁立された。このような経緯からメフメト5世は主導権がない傀儡皇帝であり、青年トルコ党はメフメト5世のもとで立憲君主制の確立を目指そうとする。 メフメト5世wikiより

 

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オスマントルコ皇帝メフメト5世の子

 

Sehzade Mahmud Necmeddin(1878~1913)※画像なし
ヨシフ・スターリン(1878~1953) ソビエト連邦書記長
レフ・トロツキー(1879~1940)

 

メキシコに亡命したトロツキーは第四インターナショナルを結成し、官僚制に反対し続けたが、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺された。トロツキーおよびその継承者の思想を、トロツキズムと呼ぶが、この語自体は、対立者によって1905年の早い時期に作られた造語である。その意味するものも、1905年革命、その後のロシア社会民主労働党内での対立、1917年革命、スターリン派による権力掌握、といった時期によって変化してきた。 レフ・トロツキーwikiより

 

ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与。1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。 ヨシフ・スターリンwikiより

 

※オスマントルコ皇帝の子Necmeddinは、スターリンとトロツキーを同時進行で演じていたが、当初は、主にトロツキーとして活動した。その後、トロツキーが死んだことにしてスターリンとして活動を始めると、ウクライナ粛清により、ウクライナに潜伏していた本願寺の家族をあぶり出し、皆殺しにした。

 

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オスマントルコ皇帝メフメト5世の孫

 

レジェップ・タイイップ・エルドアン(1954) トルコ共和国大統領

 

トルコで初めて直接選挙で大統領が選ばれることとなった2014年の大統領選挙に立候補、8月10日に行われた第1回投票で過半数の票を獲得し当選した。同月28日、大統領に就任。首相にはエルドアンに従順なアフメト・ダウトオール外相が就任し、エルドアンが引き続き政治の実権を握る。 レジェップ・タイイップ・エルドアンwikiより

 

 

 


ソロモン1世の一族~ズールー帝国、ケニア共和国、チャック・ベリー、アース・ウィンド&ファイア、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ、エディ・マーフィー

 

アヤチの子

 

エブゲン(?~?)
ソロモン1世(?~1294) エチオピア皇帝 在位1285~1294

 

アムラクの死後、2代目皇帝としてソロモン1が即位したが、その治世は不安定であったとされる。その後、後継者争いが勃発して国は乱れたが、アムラクの孫のアムダ・セヨン1世が帝位に就くことで政治的混乱は収束した。ソロモン1世wikiより

 

※アヤチの子、エブゲンがソロモン1世としてエチオピア皇帝に即位した。ソロモンの由来は古代モンゴルを支配したソロモン王である。ソロモンを名乗ることでモンゴルから来たことを暗に示している。

 

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アヤチの子

 

ブヤン・テムル(?~1377)
アムダ・セヨン1世(?~?) エチオピア皇帝 在位1314~1344

 

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Egwale Seyon(17??~1818) エチオピア皇帝 在位1801~1818※画像なし
シャカ・ズールー(1787~1828) ズールー帝国初代王 在位1816~1828

 

南部アフリカの一部族であったズールー族を南アフリカの大半の部分を支配する一大国家へと導いた指導者である。彼の軍事力と戦略、敵を殲滅し生存者を部族に同化させていく力量は、ズールー族の中でも抜きん出たものがあった。 シャカ・ズールーwikiより

 

※エチオピア皇帝Egwaleは、皇帝を務めながらシャカとしてズールー王国を統治し、大英帝国とズールー戦争を戦った。ズールー族は、近代兵器を装備した大英帝国軍に槍で立ち向かったが、力のある彼らは大英帝国軍をてこずらせた。

 

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メネリク2世(1844~1913) エチオピア皇帝

 

ショアの王(ネグ)のハイレ・マラコトの子として生まれ、王位を継承。エチオピア中興の祖である皇帝テオドロス2世がショアを攻撃した際に捕虜とされたが、かえってテオドロスに可愛がられ、このことが自身に大きな影響を与えた。後にヨハンネス4世の跡を継いで皇帝に即位した。

第一次エチオピア戦争においてイタリア王国を破り、列強にエチオピアの独立を承認させた。これは、当時のアフリカ大陸の諸王国の中で唯一独立を保つことが出来た事例として有名となった。 wikiより

 

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アレメイエヒュ(1861~1879) テオドロス2世の子

ハブテ・ギヨルギス・ディナグデ(1851~1927) エチオピア初代首相※画像なし

 

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メネリク2世の子

 

Wossen Seged(生没年不詳)

アレクサンダー・バスタマンテ(1884~1977) ジャマイカ初代首相

 

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ハイレ・セラシェ1世(1892~1975) エチオピア帝国最後の皇帝

マコネン・エンデルカチュー(1890~1963) エチオピア第4代首相※画像なし

 

ザウディトゥの死後、1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位し、同年11月2日に戴冠式が行われた。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定した。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。

1934年の「ワルワル事件」を経て1935年10月3日にファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発した。翌1936年3月のマイチァウの戦いでイタリア軍は毒ガスを用いて帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させる。その後、皇帝ハイレ・セラシエ1世は5月2日に鉄道でジブチに向かい、ジブチを経由してイギリスのロンドンに亡命した。その間首都アディスアベバは5月5日に陥落した。

1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国した。 wikiより

 

※さすがにオスマントルコ皇帝の一族だけあり、西本願寺門主大谷光尊の血を継ぐムッソリーニを退けている。

 

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エチオピア皇帝メネリク2世の外孫

 

イヤス5世(1895~1935) エチオピア皇帝
ジョモ・ケニヤッタ(1893~1978) ケニア共和国初代大統領

ノーマン・マンリー(1893~1969) ジャマイカ第2代首相※画像なし

 

メネリク2世の外孫で生前には可愛がられ、1907年には後継者として指名される。1913年に皇帝に即位するがキリスト教の儀式を行うことを拒み戴冠せず、父のミカエルを王に任命してエチオピア北部の実力者にした。熱心なイスラム教徒だったためエチオピア正教会を圧迫し、外交面では第一次世界大戦でイギリスおよびイタリアと敵対していたオスマン帝国と同盟し、ソマリアで反乱を起こしていたサイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンに協力しようとした。 イヤス5世wikiより

 

1952年にマウマウ団の乱に関係したとされ、またその一味であったとされ逮捕された。裁判官や通訳者などが不当にケニヤッタを扱ったとされる裁判は5ヶ月に及び、結果として7年間の重度労役処分とされたが、ケニア北西の辺境地ロドワーに移送され保護監察下での執行猶予処置とされた。現在の研究でも、彼とマウマウとの関係はあったとされているが、他の説を唱える研究もある。結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった。

1963年にケニアが独立すると初代首相となり、1年後に大統領制に移行するとそのまま大統領となった。大統領としてのケニヤッタは一貫して西側寄りの資本主義体制を堅持し、外資を積極導入し西側寄りの政策を取った。このためケニア経済は発展し、東アフリカの地域大国となっていった。一方で国内では独裁政治を行い、1969年には完全に与党ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)による一党制を敷くこととなった。また、自らの出身民族であり、ケニア最大民族でもあるキクユ人の優遇を行い、後の民族対立の発端となった。ジョモ・ケニヤッタwikiより

 

※エチオピア皇帝イヤス5世は、ジョモ・ケニヤッタとしてケニアを独立に導いた。その後、イヤス5世は40歳で死んだことにし、最後の43年間をジョモ・ケニヤッタとして生きた。初老のケニヤッタは、メネリク2世の初老時とそっくりである。上記の通り、才能のある人間、良い人間は、本願寺が掌握する国家機関やインフラ面で不遇を強いられている。

 

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ハイレ・セラシェ1世の子

 

Mekonnen Haile Selassie(1924~1957)

チャック・ベリー(1926~2017)

 

Sahle Selassie(1932~1962)

サム・クック(1931~1964)

リトル・リチャード(1932)

 

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ハイレ・セラシェ1世の孫

 

Paul Wossen Seged(生没年不詳)※画像なし

ウィルソン・ピケット(1941~2006)

モーリス・ホワイト(1941~2016) アース・ウィンド&ファイア

リチャード・プライアー(1940~2005)

 

Mikael(生没年不詳)※画像なし

ピーター・トッシュ(1944~1987)

 

ジャマイカのレゲエミュージシャン。同国のバンド、ウェイラーズの一員として活躍した後、ソロ・ミュージシャンとしても成功を収めた。また、ラスタファリ運動の先駆者としても知られる。 wikiより

 

Dawit(生没年不詳)※画像なし

ボブ・マーリー(1945~1981)

 

ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリ運動の思想を背景としており、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。 wikiより

 

Beede Mariam(生没年不詳)※画像なし

バニー・ウェイラー(1947)

 

レゲエ音楽家、ラスタマン。ボブ・マーリー、ピーター・トッシュらと活躍したザ・ウェイラーズのオリジナルメンバーである。 wikiより

 

※ハイレ・セラシェ1世は、チャーチル率いるイギリス軍がムッソリーニを退けたおかげで、イギリスに親近感を持ったと考えられる。彼はイギリス領のジャマイカに子を儲けた。その子供たちがレゲエを始めた。レゲエは世界中のミュージシャンに影響を与えた。本願寺はマーリーがエチオピア皇帝の血を継いでいることを優性遺伝子ブリーダーに聞いて知ったため、これ以上勢力伸張することを阻止するためにマーリーやトッシュを暗殺した。

 

Ermias Sahle Selassie(1960)

ウフル・ケニヤッタ(1961) ケニア第4代大統領

エディー・マーフィー(1961)

 

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ジギー・マーリー(1968) ジギー・マーリー&ザ・メロディメイカーズ

ガーネット・シルク(1966~1994)

 

※ガーネット・シルクはどちらかといえばピーター・トッシュに似ている。ガーネットはマーリーの影武者として生まれた可能性がある。なぜか殺害されてしまった。

 

 

 


イヴァン1世の一族~フス派、ボヘミア王国、雑賀衆、鈴木孫一、ロシア正教会モスクワ総主教、ヘーチマン国家、アフガニスタン王国、救済同盟、ナロードニキ運動、スタジオ・ジブリ、押井守

 

 

アスタイ(?~1282)※画像なし

アヤチ(?~1324) クビライの子※画像なし
イクノ・アムラク(?~1285) エチオピア帝国ソロモン朝初代皇帝 在位1270~1285
オスマン1世(1258~1326) オスマントルコ帝国初代皇帝 在位1299~1326
イヴァン1世(?~1340) モスクワ大公 在位1325~1340

 

『集史』によると、アヤチの母親はモンゴル帝国建国の功臣であるボロクルの娘フシュチン(هوشیجینHūshījīn)であったという。フシュチンはクビライの妃(ハトゥン)たちの中では比較的身分が低く、フシュチンより生まれたアヤチとココチュはクビライの諸子の中でも扱いの低い存在であった。

アヤチの生年は不明であるが、至元9年(1272年)にはクビライより馬を下賜されたことが記録されている。しかし他の兄弟(嫡出の3子、フゲチとアウルクチ)が次々と王号を与えられ各地の統治に携わるのに対し、アヤチは10年近く何の王号も与えられておらずその事蹟は不明である。アヤチwikiより

 

エチオピアを支配したソロモン朝の創始者で、一時中断するものの1975年まで続くエチオピア帝国の初代皇帝(在位:1270年 - 1285年)。その先祖をたどるとアクスム王国の最後の王デイルナードに繋がるとされている。 イクノ・アムラクwikiより

 

1299年、カラ・スーの河谷を占領したのち、イェニシェヒルを占領した。ここで首都となるべき町を手に入れたオスマンはルーム・セルジューク朝から独立を宣言してオスマン帝国を築き上げたのである。

1301年、オスマン1世は領土拡大のためビザンツ帝国との戦い、コユンヒサルの戦いでこれを破り、帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げた。 オスマン1世wikiより

 

イヴァン・カリタはキプチャク・ハン国に忠誠を誓い、キプチャク・ハン国の徴税人となってモスクワを裕福にした。彼が「カリター」とあだ名されるのはこの事実による。その財産を使って周辺の諸公国内部に所領を増やし、その結果、それらの公国は実質的にモスクワの支配下に入った(ベロオーゼロ公国、ガーリチ公国、ウグリチ公国、コストロマー公国)。また、キプチャク・ハンの同意を得て、息子セミョーンに大公位を相続させて以来、モスクワは北東ルーシ地方の諸公国のなかで領袖的地位を得た。イヴァン1世wikiより

 

※モンケの子アスタイはフビライの子アヤチに変身し、対立を機にモンゴルを離れた。彼は、エチオピア帝国を築き、オスマントルコ帝国を築き、モスクワ大公を務めて82歳で死去した。こういう場合、実際には庶子を登用した影武者の死んだ日が含まれている。イヴァン1世の死んだ日が、アヤチが起用した最後の影武者が死んだ日である。これこそが真の皇帝である。

 

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ドミートリー・ドンスコイ(1350~1389) モスクワ大公 在位1359~1389

 

ヴァシーリー1世(1371~1425) モスクワ大公 在位1389~1425
ヤン・フス(1369~1415)
ヤン・ジシュカ(1374~1424)

 

モスクワ大公。ドミトリイ・ドンスコイと公妃エフドキヤの長男。息子には ヴァシーリー2世がいる。弟には、後に一時的にモスクワ大公位に就くガーリチ公ユーリー、そしてモジャイスク公アンドレイ、ドミトロフ公ピョートル、コンスタンチンがいる。 ヴァシーリー1世wikiより

 

チェコ出身の宗教思想家、宗教改革者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。 ヤン・フスwikiより

 

1420年、迫害を逃れてきたフス派の民衆をボヘミア南部の山中に集めて城塞都市ターボルを建設し、フス派の中でも急進派といわれたターボル派を結成した。ジシュカが作り出したターボル派の軍は、信仰に基づく厳格な軍紀とマスケット銃や戦車などの新兵器によって無類の強さを発揮し、ジギスムントの神聖ローマ帝国軍やフス派撲滅のための十字軍も、ジシュカの前に何度も大敗を喫した。ヤン・ジシュカ wikiより

 

※ヴァーシーリー1世は邪教カトリックから民衆を解放するためヤン・フスとなり、フス派を築いた。フスの由来はヴァーシーリーである。ヴァーシーリー1世は庶子を投入した影武者部隊を指揮し、ロシアは影武者に一任して、自分は邪教が率いる十字軍と戦った。やがて影武者が処刑されると、フスはヤン・ジシュカを名乗り、フス戦争を指揮する。

 

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ヴァシーリー1世の子

 

ヴァシーリー2世(1415~1462) モスクワ大公 在位1425~1462

イジー・ス・ポジェブラト(1420~1471) フス派のボヘミア王

 

イジーはボヘミアの貴族ヴィクトリン・ス・クンシュタート・ア・ポジェブラトの息子として生まれた。父はフス戦争を起こしたフス派のうち、穏健派であるウトラキストの指導者の1人だった。14歳の時、イジーはフス派内の急進派であるターボル派の没落を招いたリパニーの戦いに参加した。成人したイジーはフス派の指導者の1人として、神聖ローマ皇帝ジギスムントからボヘミア、ハンガリー、ローマ王位を引き継いだ婿のアルブレヒト2世の率いるオーストリアの軍勢に勝利した。イジーはすぐにフス派内で頭角をあらわし、プタテク・ス・ピルクシュテインの死後はその頭領となった。 wikiより

 

フレデリック(1453~1458) イジー・ス・ポジェブラト子※画像なし

ウラースロー2世(1456~1516) ボヘミア王 在位1471~1516

 

ヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世と王妃エルジュビェタ(エリーザベト)の長男ヴワディスワフとして生まれる。ヤン1世、アレクサンデル、ジグムント1世の3代のポーランド王はいずれも弟である。 wikiより

 

イヴァン4世(1467~1500) ヴァシーリー2世孫※画像なし
ヤン1世(1459~1501) ポーランド王 在位1492~1501

アレクサンデル(1461~1506) ポーランド王 在位1501~1506

 

ヤン・オルブラフトはポーランド王太子として、コペルズティンの戦い(1487年)でタタールに対し華々しい勝利を収めた。1490年、ハンガリーの貴族階級はラコーシュの議会においてヤンをハンガリー王と宣言したが、この決定は兄のボヘミア王ウラースロー2世によって退けられ、ウラースロー2世がハンガリー王に即位した。ヤン1世wikiより

 


ジグムント1世(1467~1548) ポーランド王 在位1506~1548

 

カジミェシュ4世と、ローマ王アルブレヒト2世の娘エリーザベトの間に生まれ、兄のヤン1世、アレクサンデルに続いてポーランド王位に就いた。長兄ウラースロー2世は母親の血統からハンガリー王及びボヘミア王となった。wikiより

 

※ヤン・フスの子孫が、フス派の王としてボヘミア王国、ポーランド王国を統治した。

 

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ボヘミア王ウラースロー2世の子

 

ラヨシュ2世(1506~1526) ハンガリー王 在位1516~1526
鈴木孫一(1534~1589) 雑賀衆

イオフ(?~1607) 初代モスクワ総主教 在位1589~1605

 

1516年、父の後を受けてハンガリーとボヘミアの王として即位する。しかし若年のために国内の統率が困難となり、それが災いして1526年、オスマン帝国のスレイマン1世(大帝)が率いるオスマン軍との戦い(モハーチの戦い)で、20歳の若さで敗死した。これによりハンガリーの大部分は、オスマン帝国に奪われた(オスマン帝国領ハンガリー)。野心家であったといわれるが、多くは成し遂げられることはなかった。ラヨシュ2世wikiより

 

石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、豊臣秀吉に鉄砲大将として仕え、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる。戦後、浪人を経て水戸藩に仕官した。鈴木孫一wikiより

 

※ラヨシュ2世は、ヤノシュを連れて日本にまで逃亡し、1534年に到着した。彼は、日本到着の年を鈴木孫一生誕年と定めた。孫一らは雑賀衆を結成して銃器を得意とした戦法で本願寺に味方した。鈴木の由来はジシュカである。鈴木孫一らが邪教に味方したのは、孫一の正体であるラヨシュ2世がスレイマン1世に敗北したことが原因だろう。孫一は、織田信長がスレイマン1世(宇佐美定満)の子だということを知っていたのだ。

その後、孫一は1589年に55歳で死んだことにし、ロシア帝国に向かった(ラヨシュ2世から数えると83歳となる)。同年、孫一はイオフに変身し、ロシア帝国で初代モスクワ総主教に就任した。ラヨシュ2世から数えると、彼は101歳まで生きたことになる。

 

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ラヨシュ2世の子

 

ヤノシュ・ワス(1521~1580) 
土橋守重(?~1582) 雑賀衆

 

本能寺の変が発生すると、織田氏の支援を受けられなくなった鈴木氏は長宗我部氏・根来衆らの支援を受けた土橋勢に反撃されて紀伊を追われ、小牧・長久手の戦いを経て、天正13年(1585年)の秀吉による紀州征伐まで土橋氏が雑賀衆の主導権を握ることとなる。wikiより

 

※土橋の名の由来は、ジシュカとフスの組み合わせである。ジシュカ+フス=ジシュ+フシ=ツチ+ハシ=土橋となる。

 

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鈴木重次(1598~1664) 鈴木孫一次男※画像なし

ボフダン・フメリニツキー(1595~1657) ウクライナ・コサック最高指導者初代ヘーチマン

 

クィルィーロ・ロズモーウシクィイ(1728~1803) ウクライナ・コサック最高指導者第21代ヘーチマン

アフマド・シャー・ドゥッラーニー(1722~1772) ドゥッラーニー朝初代君主 在位1747~1772

 

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ティムール・シャーの子

 

マフムード・シャー(1769~1829) ドゥッラーニー朝第4代君主 在位1801~1803※画像なし

イヴァン・ペステル(1765~1843)※画像なし

イヴァン・コトリャレーウシキー(1769~1838) ウクライナ作家

 

シュジャー・シャー(1785~1842) ドゥッラーニー朝第5代君主 在位1803~1809

ミヒャエル・ルーニン(1787~1845) 救済同盟デカブリスト

セルゲイ・ペトロヴィッチ・トルベツコイ(1790~1860) 救済同盟デカブリスト

パーヴェル・ペステリ(1793~1826) 救済同盟デカブリスト

ドースト・モハマド・ハーン(1793~1863) バーラクザイ朝初代アミール

コンドラチイ・ルイレーエフ(1795~1826) 救済同盟デカブリスト※画像なし

セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル(1796~1826) 救済同盟デカブリスト

ニキータ・ムラヴィヨフ(1796~1843) 救済同盟デカブリスト

ピョートル・カホフスキー(1797~1826) 救済同盟デカブリスト※画像なし

イヴァン・プーシキン(1798~1859) 救済同盟デカブリスト

ミハイル・パヴロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン(1801~1826) 救済同盟デカブリスト※画像なし

 

※デカブリストは、西本願寺門主寂如の一族に汚染されたロシア帝国を奪還するために結成された。

 

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ドースト・モハマド・ハーンの子(名前不詳の息子27人)

 

ムハンマド・アフザル・ハーン(1811~1867) バーラクザイ朝第4代アミール

ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809~1865) 無政府主義思想

ミハイル・バクーニン(1814~1876) アナーキスト

カール・マルクス(1818~1883) 共産主義思想

イヴァン・ツルゲーネフ(1818~1883) 作家

 

シール・アリー・ハーン(1825~1879) バーラクザイ朝第3代アミール

ニコライ・チェルヌイシェフスキー(1828~1889) ナロードニキ指導者

レフ・トルストイ(1828~1910) 作家

フリードリヒ・エンゲルス(1820~1895) 労働運動指導者

ピョートル・ラヴロフ(1823~1900) ナロードニキ理論家

フョードル・ドストエフスキー(1821~1881) 作家

 

名前不詳の息子27人のうちのひとり

モデスト・ムソルグスキー(1839~1881) 作曲家

ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893) 作曲家

ニコライ・ミハイロフスキー(1842~1904) ナロードニキ理論家

鈴木岩治郎(1837~1894) 鈴木商店創業者

 

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シール・アリー・ハーンの子

 

ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン(1849~1923) バーラクザイ朝第6代アミール

セルゲイ・ネチャーエフ(1847~1882) 人民の裁き指導者

パーヴェル・アクセリロード(1850~1928) 社会主義者

ニコライ・チャイコフスキー(1851~1926) チャイコフスキー団指導者

マルク・ナタンソン(1851~1919) 土地と自由指導者

 

※ナロードニキ運動は、西本願寺門主寂如の一族に汚染されたロシア帝国を奪還するために結成された。ナロードニキ運動がロシア革命成功の下地を準備した。

 

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ティーホン(1865~1925) モスクワ総主教

アントン・チェーホフ(1860~1904) 作家

久原房之助(1869~1965) 久原財閥創業者

 

※西本願寺門主寂如の一族が運営するロシア帝国によってモスクワ総主教の座は一時廃止されたが、ティーホン総主教の時代に再開された。久原はティーホンの影武者として生まれたが、日本に移住して久原財閥を起こした。久原(くばら)の由来はカブールである。

 

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ムハンマド・ダーウード(1909~1978) アフガニスタン共和国初代大統領

ファビアン・ドロン(1904~1977) アラン・ドロン父

 

※東本願寺門主巧如の一族に属するザーヒル・シャーによって家族が惨殺された。悲劇の英雄。彼は影武者用に多くの庶子を儲けていた。また、ファビアン・ドロンとしてフランスに行き、俳優アラン・ドロンを儲けている。

 

アラン・ドロン(1935) 俳優

吉田竜夫(1932~1977) タツノコ・プロダクション社長

 

※ドロンの由来はドゥッラーニーである。つまり、ドロンはアフガニスタン出身と考えられる。ダウードは、ファビアン・ドロンとして日本人女性にも遺伝子を所望されたようだ。優性遺伝子ブリーダーによって吉田竜夫兄弟が生まれている。

 

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ムハンマド・ダーウードの子

 

Khalid Daoud Khan(1947~1978)

鈴木敏夫(1948) スタジオ・ジブリ社長

 

Muhammad Umar Daoud Khan(?~1978)
押井守(1951) 映画監督

 

※世界で最初に銃器を戦争に使用したフス派の子孫だけあり、長編アニメ映画「功殻機動隊」などの押井作品にも武器、戦略、戦法、謀略の知識が活かされている。押井はポーランドで実写映画「アヴァロン」を撮ったが、ポーランドと関係が深いのはフス派の血が彼を故郷に誘うのだろう。押井はマジを嫌う人で、「イノセンス」など、マジな映画を作ったあとは、「立喰師列伝」など、シラケ気分全開の映画を製作する。

 

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ムハンマド・ダーウードの孫

 

Ariane Heila Khanum Ghazi(1961)

ハーミド・カルザイ(1957) 初代アフガニスタン・イスラム共和国大統領

 

Hila Khanum(1961~1978)

土橋安騎夫(1960) レベッカ

石川光久(1958) プロダクション・アイジー代表取締役社長

 

※ダウードの孫の影武者として生まれたと考えられる。レベッカは、あからさまに80年代最先端の洋楽(イギリスのニューウェイブ、プリンスやマドンナ、クール&ザ・ギャングなどの80年代ファンク)の影響下にあったが、洋楽と邦楽の垣根を易々と壊した。その先駆だった。

 

Hawa Khanum Ghazi(1963)

今敏(1963~2010) 映画監督

 

※ダウードの孫の影武者として生まれたと考えられる。頭の良い人だが、癌は存在しないことを知らず、本願寺勢力に殺された。TVアニメ作品「妄想代理人」では、集団ストーカーを再現していた。

 

Waygal Daoud Khan(1975~1978)

石井朋彦(1977) プロダクション・アイジー所属

 

 

 



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