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序章 直筆のスケジュール表

 

 取材をはじめてから数カ月後、バイクレースやイベントの企画事務所を巣鴨に持つ三井晃を訪ねたときのことだった。話しはじめてから1時間ほどがたったころ、思ってもいなかったものが目の前に現れた。

 それは、三井との話がこんな調子で進んでいたときだった。

「三井さんは、石川さんにどんな援助をされたんですか」

「俺が供給したのはハンドルとかステップといった部品だね。それからアルミを使ってコンテナもオリジナルのものを作ってやったよ。ヨーロッパに荷物を運ぶわけだから、とにかく岩男の要望は、荷物を軽くしたいということだったんだ。輸送費がかさまないようにね」

「じゃあ、石川さんとの打ち合わせなどは何回もやったと」

「やったね。ただいつ出荷なのかもわからなくてね、もう出発間際までバタバタだったよ」

 そう言ったあと、三井は、背後の棚から大きな茶封筒を引き出した。中から取り出されたのはA4判ほどの書類だった。白地の表紙に黒く大きく印刷された文字が読み取れた。

 

《IWAO ISHIKAWA

 Racing Team》

 

 三井は書類をテーブルの上に置きながら言った。

「岩男の企画書だよ」

 それは、石川岩男が1983年の世界グランプリ・ロードレース・シリーズに挑戦する際、スポンサー獲得のために作成した企画書だった。バイク部品の製作販売会社『ヨシモト』の社長でもある三井は、石川がロードレースにデビューした当時から部品供給のスポンサード契約を結んでいた。石川が世界GPに挑戦するときも、『ヨシモト』はスポンサーとなっているから、三井がこの企画書を手にしたのは当然と言える。

「見たことある?」

「いえ……。これ、実際に作ったのは小川明さんですね、コピーライターをしていた。先日お会いしたんですが、小川さんもいまは持っていないということだったものですから」

「俺は、いまでも、取ってあるんだよな」

 三井はそう言うと、企画書をこちらに差し出した。

 表紙を開くと、レーシングマシンにまたがりサーキットを疾走する石川の写真と、世界GPに挑戦する抱負がリードとして掲載されていた。次にめくると、《企画主旨》《世界GPロードレース》《ライダー石川岩男》と説明記事が続いていた。注目したのは《出場予定レース》の一覧表だった。数えると、世界GPをはじめヨーロッパ選手権やインターレースを含め、18戦への出場を予定していたことがわかった。

 そして、次へとページをめくったときに目を奪われたのが、挟み込まれていた手書きによる2枚のレポート用紙だった。

 紙面には、「月日」「国名」「入/出」「場所」「道路」の5項目を設けた一覧表が書かれていた。1枚を2段組としている表の1行目には《3月14日 オランダ 入 AMSTERDAM》とあり、それ以降、道路名を挟みながら、ヨーロッパの国々で出入国を何回も繰り返すことが記されていた。

 これは石川の転戦スケジュールの一覧表ではないのか。質問しようと顔を上げると、三井がうなずきながら言った。

「年間の移動経路の予定表だよ。転戦がはじまってから、部品の供給とか、何かアクシデントが起こったときに、岩男がどこにいるのか知っている必要があったから。それ、岩男の直筆だよ」

 レポート用紙は薄茶に変色していたが、几帳面に書かれた文字が色濃く並んでいた。

 

《3月14日 オランダ 入 AMSTERDAM》

《A2》

《3月27日 オランダ   UTRECHT》

《A27》

《3月27日 オランダ 出 BREDA》

《A1》

《3月27日 ベルギー 入 ANTWERPEN》

《A14》

《3月27日 ベルギー 出 GENT》

《A14/A1》

《3月27日 フランス 入 PARIS》

《A10/A11》

《3月27日 フランス   LE MANS》

 

 どの国の、どの都市を、どのルートを使って何月何日に通過し、どこに何日間滞在するのか、そして次はどこに移動するのか。ヨーロッパの国名や都市名が全面に詰まっている。それが、筆圧のある楷書で記され、2枚目の《10月3日 日本 入 成田》まで続いているのである。

 スケジュール表と地図とを照らし合わせれば、その移動距離はいったいどれほどになるのか。想像すると、石川が世界挑戦に踏み切った決意の大きさを改めて感じさせられた。

 

 1983年のシーズン、スズキワークスチームのライダーだった石川岩男は、スズキとの契約を継続することなくプライベートライダーとして世界GPに挑戦した。最高峰の500㏄クラスを選んでの参戦だった。チームは長年のコンビであるメカニックの周郷弘貴と妻の実恵子をヘルパーにした3人。マシンは市販レーサーのスズキRGB500だった。スポンサーを探し、資金を集め、チームを作り、渡欧する。準備作業が難関だったと三井も言ったが、ヨーロッパでの転戦はその比ではない。

 3月に開幕する世界GPは、ヨーロッパの国々において一カ国一開催で全12戦が行われる。このシリーズ戦を通してライダーはポイントを競い合うのである。その間、ワゴン車にマシンを積み、牽引するキャンピングトレーラーでの生活を続け、国境をまたぐたびに通貨や言語の変化に対応しなければならない。限られた資金は節約に節約を強いられる。日常生活のすべてをレースのために送らなければならないのだ。

 取材を続ける中で、まだいくつかの疑問が釈然としないまま残っていた。石川は、なぜスズキとの契約をせずプライベートライダーになったのか、なぜワークスチームが熾烈な戦いを展開する500㏄クラスを選んだのか、ワークスマシンよりも性能の劣る市販レーサーで勝てると思ったのか……。

 しかし、それらは結局、石川はなぜ不利な条件を引き受けてもなおよしとすることができたのか、という疑問に束ねられていく。

 質問を続けようとしていると、三井がひとりごとのように言った。

「スケジュール表、こんなに細かく作ってさ……」

 目はまたレポート用紙に吸い込まれた。転戦は、アムステルダムからベルギーを通過し、石川が練習走行中の事故で亡くなる、ル・マンへの移動でスタートしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


第1章 疾走

 

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 1978年のMFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)全日本ロードレース選手権シリーズは、3月5日に開催された『鈴鹿BIG2&4レース』が第1戦だった。レースファンにとっては、待ちに待ったシーズンの開幕だった。今年はいったい誰がチャンピオンに輝くのか。観客は期待を込めて鈴鹿サーキットにやってきていた。

 しかし、その年、国際A級に昇格したばかりの無名のライダーが、他を圧倒するレースを展開することなど誰も想像してはいなかった。ゼッケン《86》という大きな番号をつけたマシンが、疾風のような走りを見せるのだ。

 石川岩男は、76年のノービス250㏄クラスでデビューし、77年にはジュニアへ上がり350㏄クラスにコンバート。78年のシーズンには早くも国際A級へ昇格し、350ccクラスにエントリーしていた。その開幕レースの予選から、石川は卓越のライディングで周囲を驚かすことになる。

 TZ750に乗る杉本五十洋も、スズキのワークスマシンRGAを駆る河崎裕之も思ったようにタイムを伸ばせない中、石川は快調に飛ばし、周回を重ねるごとに自己ベストタイムを記録していった。メカニックの周郷も、石川が目前を通過する度に、期待を込めてストップウォッチのボタンを押した。

 昨シーズンまで鈴鹿でのベストラップは2分27秒02だったが、この日はそれを大幅に塗り替える2分23秒68。しかも唯一の23秒台を叩き出し、あっさりとポールポジションを獲得した。

 この石川の走りに周囲は驚いた。並みいる750㏄マシンを尻目にするタイムは、本命と目されていた国際A級たちに「事件」と映った。

「でも、俺はそんなに驚かなかったけどね。岩男と、まぁこんなもんだねって感じで話してたよ。ある程度タイムの予測はついていたし。メカニックやってると、わかるんだよね」

 決勝でも、石川の走りは抜群だった。ポールポジションから好スタートを切り、2番手で第1コーナーに進入。トップは、やはり今シーズンから国際A級に昇格した大塚茂春だった。石川はテイル・トゥ・ノーズで大塚を追う。2台のTZ350が絡み合うようにしてコーナーを抜けていく。

「トップを行く大塚茂春、ヘアピンで転倒!」

 アナウンサーの声がグランドスタンドに響き渡った。

 3周目、それまで2番手につけていた石川がトップでメインスタンド前を通過。その後方から猛追しているのは、TZ750に乗る上野真一、KR750の岸本悟、そしてRGAの河崎裕之。当時は、排気量で分別しない混走レースだったから、350ccでトップを走る石川に観客はひときわ注目した。その後も石川は、パワーで勝る大排気量マシンと抜きつ抜かれつのレースを展開。グランドスタンドには、その度に大きな歓声が沸いた。

 17周で競われた決勝は、RGAに乗る河崎が優勝し、石川は総合で3位に入る。もちろんクラス優勝を果たし、国際A級のデビュー戦で鮮やかに勝利を収めた。

 石川は、4月2日の第2戦筑波大会、4月22日の第3戦鈴鹿大会と勝ち続けた。特に第3戦の鈴鹿では、大排気量マシンと対等に戦い総合で2位に入っている。これで国際A級350㏄クラス3連勝。まるで、彗星のように現れたルーキーは、一躍レース界のスター選手になっていく。

 

          2

 

《ボクがバイクに関心を持ち始めたのは、中学2年生の時だった。もちろん免許証もバイクもなかったので、ポンコツ自転車を引っ張り出して、それをバイクの代わりに乗り回した。

 当時、ボクのメインスタジアムは、江戸川の河原だった。いま思えば、実にこっけいなことだが、モトクロスの人達の仲間に入って、恥も外聞もなく、ガンガンではなくガタガタと走った。

 みんなに、邪魔だといっては怒鳴られ、危ないからといっては怒られた。よろめいては何度もひっくり返った。ボクは負けん気が強かったのか、また起き上がっては、はるか後方から前方の彼らを目指して走りまくった。そんな生意気なボクではあったけれど、モトクロスをやっている人がとてもカッコよく見えた。はるか雲の上の人のようにも思えた。

 仲間はつぎつぎと4輪に興味を持ち始めていったが、しかし、なぜかボクは4輪にはまったく関心が湧いてこなかった。自転車をカブの代わりにしてぶっ飛ばすのが、たまらなく好きで、年がら年中、そればかりやっていた。近所に水元公園があって、河原ばかりでは飽き足らず、そこでも走りまくった。

 1人で「バリバリ」とか「ダダダッ」とかいっては、気分を出しながら走った。真面目な顔をしてやっていた。》

 自著『石川岩男のたのしいツーリング入門』の「はしがき」からの抜粋である。擬音を発しながら自転車を走らせる少年。これが「レーシングライダー・石川岩男」の起点だった。

 

 石川岩男は、1955年(昭和30年)12月25日、東京都葛飾区金町で印刷業を営む家に五人兄姉の末っ子として生まれている。本名は石川岩夫。「岩男」は、81年にスズキワークス入りする折に、姓名判断から変えたものである。

 彼がレースをはじめたきっかけは、16歳になってすぐに取得した自動二輪の免許を、スピード違反を繰り返し6カ月で取り消しにしてしまったことだった。免許は欠格期間のあと再取得。しかし、問題はオートバイを思う存分に走らせる場所だった。アクセルをひねれば反則キップを頂戴することは目に見えていた。

 石川は高校2年生のとき、江戸川区船堀に本拠を置く『大月レーシング』というモトクロスチームに加入する。

 チームが練習場としていたのは浦安の埋め立て地だった。「ベイエリア」などと呼ばれる以前、ここには荒涼とした地が広がっていた。モトクロッサーを走らせるには絶好の場所だった。石川がこの練習場に通うようになるとチーム内に噂が流れた。それは、「変な高校生が入ってきたんだってな」「リヤカー引いてやってくるらしいぞ」というものだった。

 この噂に興味を示したひとりが、石川と同じ金町から通ってきていた金城進一だった。彼は石川より三つ年上で、家は自転車とオートバイの販売店『金城サイクル』を経営していた。

「岩男は90㏄のモトクロッサーをリヤカーに積んで、自転車で引っ張ってきてたんですよ。金町から浦安っていったら、そりゃ1時間以上はかかるんじゃないんですか。変なやつがいるもんだって思いましたよ。それからですね、近所ということもあって、あいつと付き合うようになったのは」

 スピード違反を繰り返し取得後6カ月での免許取り消し、チームメイトから奇異の目で見られたリヤカーでの練習場通い。これら嘲笑を誘う振る舞いを、自転車モトクロスと同様に、石川はまじめな顔をしてやっていたに違いない。

 高校を卒業した石川は、レースを続けるために家業を手伝うことになる。大学に上がればレース資金を稼ぐ時間がなくなる。本格的にレースに取り組むには、金銭的にも時間的にも、自宅で働くことのほうが好都合だった。石川はレース資金を蓄えたのち、モトクロスの数倍のスピードで競われるロードレースに転向する。新たに加入したのは『チームIVY』というロードレースのチームだった。

 ひと足早くチームのメンバーになっていた金城が言う。

「『チームIVY』っていうのは、『大月レーシング』の先輩が作ったチームなんです。私もそこに移ってロードをやっていた。そしたら岩男がうちの店にやってきてロードをやるって言う。おまえになんか無理だよって言ったんですよ。ロードは金もかかるし、マシンの整備も難しいぞって。でもあいつ、デビュー戦で優勝しちゃったんですよ。その次のレースでもトロフィーもらってきた。こいつ、スゲーやつじゃないかって思いましたね。翌年、先輩たちが引退して、メンバーは私と岩男のほかに酒井清孝、周郷弘貴の4人でした。もう岩男の速さは群を抜いてましたよ。あっという間にチャンピオンになっちゃったんですからね」

 

          3

 

 デビュー3年目、国際A級に駆け足で昇格してきた石川は、金城が言うように、周囲を呆気に取るほどの早さで全日本タイトルを獲得した。それも、350㏄クラス全8戦をすべて制した全勝優勝だった。

 これは、1967年に発足した全日本ロードレース選手権はじまって以来の快挙だった。77年までにノービスも含め延べ127人のチャンピオンが誕生していたが、全勝優勝は誰ひとりとして成し遂げたものはいなかった。

 しかし、石川の活躍は、単に勝ち続けたというばかりではなかった。当時行われていた750㏄から350㏄までの混走レースで大排気量マシンを追走。ストレートで引き離されながらもコーナリングで差をつめる。柔よく剛を制するかのようなライディングは、見ているものをワクワクとさせた。

 この石川の登場をジャーナリストたちが放っておくはずがなかった。全勝優勝が期待されたシーズン終盤からシーズンオフ、オートバイ雑誌は石川にスポットを当て見出しを躍らせている。

 

《いまめっぽう速いウワサの男》(『ミスターバイク』78年8月号)

《ヨーロッパは遠くない》(『モーターサイクリスト』78年10月号)

《国内の目玉――石川岩男》(『モトライダー』79年2月号)

 

 他を圧倒する速さ、身長171㎝体重58㎏の均整のとれた体型、柔和な顔立ち、そういった要素を交えた石川をスター性の高いライダーとしてクローズアップ。記事はいずれも、77年に350㏄クラスで、日本人初の世界チャンピオンに輝いた片山敬済のあと、「世界」を狙えるホープとして締めくくられている。

 石川の登場は日本レース界にとって明るい話題だった。

 国内のバイクを取り巻く情勢は悪化していた。「暴走族」が社会問題となり、それは「三ない運動」や「2輪交通規制」を全国的にさせた。メーカーにとって、若者たちをターゲットにしたスポーツモデルの市場拡大は難しかった。何よりも、バイクレースが反社会的と見なされた。

 メーカーは国内レースに対して消極的な姿勢を取った。そして、以前よりも増して、欧米への輸出台数の確保に躍起になった。海外において、企業イメージと自社製品の優秀性をアピールする手段のひとつに世界GPでの活躍があった。メーカーは外国人ライダーを重用し、世界チャンピオン獲得に全力投球だった。

 世界GPにおいて日本製マシンの性能が際立つ一方、優勝賞金が10万円にも満たない中で開催されていた全日本選手権では、日本人ライダーが育ちにくい状況だった。

 片山敬済が世界GPに挑戦するようになってから、国内レースはスター不在の状況が続いていた。だから、レース関係者にとって、レースファンにとって、ニューヒーローの登場は待ち望まれていたことだった。若きタイトルホルダーの存在は「国内の目玉」になった。

 ジャーナリストたちは、世界チャンピオンの名前を冠し、石川の可能性を表した。

「片山二世」

 石川は、そう呼ばれた。

 


第2章 迷走

 

          1

 

「日本チャンピオンを取った翌年、ほんとうはすぐにでもグランプリに行きたかったんだよ。だけど、あのときは気持ちの準備もできてなかったし、金もなかった。だから岩男と話したんだ、79年もチャンピオン取ろうっぜって。連続でチャンピオン取ればスポンサーも付くだろうし、そしたら80年は世界に行けるっぞってね」

 77年のシーズン後半から石川のメカニックとなっていた周郷弘貴も、全勝優勝での日本タイトル獲得で世界GPを目標にするようになった。

 周郷は1951年(昭和26年)に生まれているから石川より4歳年上である。家は千葉県市川市で青果店を営んでいた。彼が石川のメカニックを務めるようになるのは、ロードレース2年目の77年シーズンの途中からである。きっかけは、筑波のレース中での怪我だった。

「77年はノービス250㏄クラスで走ってたんだけど、転倒して足の靭帯を傷めちゃって、いつ復帰できるのかもわからない状態だったんだ。そんな時に、岩男から頼まれてね。それで、メカニックをやることになったんだよ」

 ふたつ返事であったかのように言う周郷だが、内心は穏やかではなかった。

 レースをはじめたきっかけは、彼の兄が頻繁に買ってきたオートバイ雑誌だった。誌面を疾走するオートバイの姿を見てレースに憧れを抱いた。小学校の時には、早くも作文に「レースをやりたい」と書いたというから、その思い入れはかなり大きかった。

 レーシングライダーに憧れて、走りたいからこそレースをやっているのだ。レースをはじめるために1年間の貯蓄も続けた。いくら復帰のめどが立たないといっても、裏方を引き受けるには抵抗があった。

 一方、石川にとっても勇気のいる申し出だった。先輩に対して、自分のメカニックになってくれとは、やたらと口にできることではなかった。しかし、メカニックをやってくれるなら誰でもいいとういうわけにはいかない。時速200㎞以上のスピードにも達するレースで、自分のマシンを預けるとすれば、それは信頼できる人間でなければならなかった。

「いつもは冗談ばかり言って、ほんとにおかしなやつだったんだ。だけど、あのときは、えらい真剣な顔してたな。本気でレースやりたいからって」

 そのとき、周郷は、サーキットで予選を前にした石川の姿を思い起こしたという。

 マシンを整備し、コースに出て行ったかと思うとピットに帰ってくる。キャブレターをいじる。コースに出て行く。ピットに戻る。プラグの焼けぐあいを見ると、今度はサスペンションをいじりはじめる。コースに出て行く。ピットに戻る。首を傾げながらまたサスペンションに手をやる。またコースに出て行く。

 石川はセッティングを執拗に繰り返した。適当なところで切り上げるということがない。はたから見ていてもそれは大変な作業だった。

 セッティングとは、コースレイアウト、標高、高低差、気象条件、そして乗り手のライディングなどに対し、マシンの各部を適切な状態に調整することである。

 それは、ガソリンとオイルの混合比率の決定、燃料と空気の混合気比率を決めるキャブレターの調整、二次減速比を決めるスプロケットの歯数の選定、コースレイアウトに見合ったギヤの入れ替え、天候と路面コンディションに合わせたタイヤ選定、中でも最重要項目はサスペンションの調整であった。

 それらすべての要素を決勝レースまでに、理想的には公式予選までに最適な状態に組み合わせなければならない。

「岩男は手を抜かないんだよ、いつも一生懸命でさ。それに、あいつの走りはビッカビカだったからね。レベルが違ってた。メカニックになったのは怪我のこともあったけど、岩男を見てたらさ、俺にライダーとしての才能がないことがわかったんだ。もう心残りはなかったよ」

 

 石川のレースを間近にするようになった周郷は、その速く走ることに対しての貪欲さに目を見張ることになる。

 石川は毎日のトレーニングを欠かさなかった。江戸川の河川敷のロードワーク、区立体育館でのウエイトトレーニングとスイミング。基礎体力と筋力の強化にも手を抜かなかった。

 そして、マシンに関しては完璧主義者だったという。全日本選手権が近づいてくると、金城の店で、あるいは王子にある『ヨシモト』の工場で、マシンの整備とモディファイに精力的だった。

 三井の石川評も、やはり「マシンに関しての探求心は旺盛だった」という表現でまとめられる。レース経験の豊富な彼が、セッティングやモディファイに関してアドバイスしても、石川は決して鵜呑みにはしなかった。必ずこう質問してきたというのだ。「それは、なぜですか」と。

「岩男からはいろいろ注文が出てさ、いろいろなパーツを開発したよ。ある時は、ギャチェンジのパターンを変えたいっていうから、ピロボールを使ってパーツを作ったし、ステンレスメッシュのブレーキホースも作ったよ。難題を持ち込まれて、ホトホト困ったこともあったけど、普段は礼儀正しい奴だったし、レースにはもう一所懸命だったしね。だから、こっちも何とかしてやりたいって思っちゃう。それに、岩男のライダーとしてのセンスは凄かったよ」

 周郷と打ち合わせの上で、石川に内密のまま、三井が考案したステップやハンドルの試作品をマシンに装着することがあった。練習走行などを利用してテストするのである。

「そんな時、必ずといっていいほど岩男は1周でピットインしてくる。どうしたのって聞くと、変えたでしょって言われちゃってね。もう、すぐバレちゃう。だってさ、5㎜の寸法差だって岩男は見破るんだからね」

 レーシングライダーは自分が想定した走行ラインを限界の速度で駆け抜けて行く。ラインからはずれることは転倒につながる。前後のタイヤの接地面積はそれぞれハガキ半分にも満たない。つまりレースとは、平均時速が150㎞にも達する中で行われる綱渡りのようなものだ。コーナリングでは、ライダーは下半身の力でバランスを取り、マシンを限界までバンクさせていく。

 石川は、天性のライディング感覚でマシンを絶妙にコントロールする。このとき、マシンは、石川の身体そのものにならなければならない。だからこそ、セッティングやパーツにこだわる必要があった。そして、常にメカニズムの原理を把握しようとした。それが、彼の速さの源泉だった。

 レースが近づいてくると、石川は周郷に細かく注文を出した。石川の希望どおりにやろうとすると、結局はエンジンをバラし、新しい部品で組み上げることになる。石川にはごまかしが利かなかった。石川は家業の印刷屋で働き、周郷は自動車屋に勤めていたから、夜からはじめる作業は徹夜になることも度々だった。

「でも、大変だとは思わなかったよ。岩男がスターティング・グリッドにつくまでが俺のレースだから。あいつは、それにちゃんと応えてくれたからね」

 78年のシーズンはそうやって勝ち続け、あっさりと日本タイトルを獲得した。そして連覇することで、世界GPへの階段を一気に駆け上がろうとした。

 

          2

 

 石川は79年のシーズン、全8戦で競われる350㏄クラスで三度もの転倒を喫することになる。ランキングは3位。自滅としかいいようのない負け方だった。石川の連覇を予想していたジャーナリストたちは、敗因がどこにあるのか首を傾げた。彼らは、「2年目のジンクス」と型通りのくくり方をするしかなかった。

 この年から、石川のマシンをモディファイすることになった富樫広樹が言う。

「岩男は、79年に新型TZに乗り換えているんだよ。79年式のTZ350からリヤサスペンション特性が180度変わっちゃってね、岩男はトラクションをかけて走るタイプだったから、マシンとの相性が悪かったんだ」

 富樫は、『トガシエンジニアリング』というチューニングショップを五反田に構え、レーシングマシンの改造とレース部品の製造を行なっていた。『チームIVY』の先輩に富樫を紹介してもらった石川は、マシン改造とレースアドバイザーを彼に依頼したのである。富樫はこのとき28歳、若き精鋭のマシンコンストラクターだった。

 トラクションとは、タイヤからサスペンションを経由して伝わる駆動力のことである。これはライダーにとって、タイヤが路面をグリップしていることを確認する信号となる。「トラクションをかけて走る」と富樫が言う石川の走法は、リヤサスペンションから発生する反発力の微妙な強弱を体感しながらアクセルワークしていくものである。特にコーナリングでは、コース幅をいっぱいに使うアウト・イン・アウトのラインでマシンを大きく寝かし込んでいくものだったから、リヤサスペンションから伝わる信号はより明確なものが必要だった。

 79年式TZのリヤサスペンションは、スプリングが深く沈み込まなければ反発力を発生させない特性になっていた。これには、路面のギャップをスムーズに吸収し、ライダーへの負担を少なくさせようとする意図があった。

 しかし、この特性は、スプリングの反発力を常に頼りにする石川にとって、コーナーでどこまでがマシンをバンクさせられる限界か察知しにくくなる。それはラップタイムを遅らせるばかりでなく、転倒の原因になった。

 思うに任せない石川の状態を前にして、富樫はなんとか歯止めをかけなければならないと思った。しかしどうすればいいのか。マシンを変えるのか、乗り方を変えるのか。彼は迷った。

 富樫にとって、79年式を従来までのTZと同様のマシン特性にモディファイすることは十分に可能だった。一方で、新型マシンの傾向を無視することもできない。レーシングマシンのトレンドがどの方向に進むのか、この時点で見極めるのは難しかったのだ。

「78年までのマシン特性で岩男を走らせたら、あいつを時代から取り残すことになるかもしれない。岩男には才能があったし、世界GPも目指していた。その芽を摘み取ることになるじゃない。だから、とりあえず新型マシンのメリットを追究しようってことにしたんだ」

 富樫の意見を聞き入れ、石川は相性の悪いマシンのセッティングに取り組んだ。79年のシーズンは、試行錯誤の繰り返しだった。

 

 80年のシーズン、石川は750㏄クラスにコンバートした。マシンにはヤマハTZ500を選んだ。その理由は、FIM(国際モーターサイクル連盟)が打ち出したレギュレーション変更と密接にかかわっていた。

 50㏄から500㏄までの6クラスが設定されていた世界GPの中で、中間排気量として人気低迷の350㏄クラスの廃止が発表になったのである(同クラスは82年に廃止となっている)。石川は、250㏄クラスではなく、最高峰の500㏄クラスに照準を定めた。

 この年の石川のランキングは7位。車格もパワーもアップした500㏄は石川には乗りこなせない。そう見るジャーナリストは多かった。

 富樫が反論する。

「岩男が500を持て余していたとは思わないよ。雨の日のレースでさ、あいつはタイヤがボロボロになるまで積極的に走っていたんだからね。TZ500も79年式の350と同様のマシンだったんだ。排気量が大きくなればマシン特性は顕著になっていく。俺も明確な方針を持ってアドバイスできなかった。あいつの走りが衰えたわけじゃないんだよ。そういう事情があって、岩男は結果を出せなかったんだ」

 しかし、500㏄クラスを選び、結果を出せなかったことは、世界GPへの道程を大きく迂回させることになる。

 


第3章 開発ライダー

 

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 80年のシーズンオフ、スズキワークスチームの総監督を務めていた横内悦男は、翌年に向けてのチーム編成会議に苦々しい思いで臨んでいた。

 スズキは、イギリス人ライダーのバリー・シーンを擁し、世界GP500㏄クラスで、76年、77年とライダーチャンピオンとメーカーチャンピオンの二冠を連覇したが、その後の3年間は、ヤマハYZRとケニー・ロバーツの前に敗れ続けていた。

 横内は、「打倒ケニー」のために次々とマシンを開発していった。RG500からRGA500、そしてRGB500へ。81年のシーズンは、数々の改良を重ねた集大成RGΓ(ガンマ)をデビューさせる予定になっていた。

「ですからね、81年のシーズンは絶対に勝たなければならなかった。ライダーチャンピオンの奪回ですよ。Γだってそのために作ったんです。マシンを早く熟成させて、とにかく、負けは許されない状況でしたからね」

 それまで、スズキは国内ロード部門で河崎裕之と岩崎勝というふたりのライダーと契約を交わしていた。河崎はGPライダーからも開発能力の高さを信頼されるほどのキャリヤの持ち主だった。しかし、その時すでに34歳。横内は、河崎を後継する開発ライダー育成の必要性を強く感じていた。

「河崎の後釜が欲しいなと思ったんですよ。若手で誰かいないかなと。そしたら、スタッフから『石川岩男』という名前が出てきた。もちろん、石川のことは知っていましたよ。生きのいい走りっぷりを何度も見ていましたからね」

 横内の記憶に、350㏄に跨がり500㏄を追い回す、78年の石川のライディングが鮮明に残っていた。

「年齢を確かめたら、まだ25歳で伸び盛り。それで、スカウトの話しを進めたんです」

 

 スズキから意向を打診された石川は、ワークス入りを即決したわけではなかった。いや、迷っていた。これまで、資金難ではあったが、プライベーターとして自由にレースを続けてきた。ワークスと契約すれば、それも開発ライダーになってしまえば自分のレースができなくなる。彼は開発ライダーに、「組織の歯車」という印象を強く抱いていた。

 スズキ入りに迷う石川から、相談を受けたひとりが『ライダースクラブ』編集長の根本健だった。

「岩男は、プライベーターにこだわっていたけど、グランプリに行ったら要するに最後は結果なんですよ。世界チャンピオンを取るっていうね。ワークスマシンに乗らなけりゃ勝てるわけない。ワークスマシンに乗るためには、やっぱりワークスライダーでいる必要があるんですよ」

 81年は、ホンダがグランプリに復帰し、スズキはヤマハからチャンピオンを奪回しようと躍起になっている。石川が目標にする世界GP500㏄クラスは、日本メーカーが巨費を投じたワークスマシンで熾烈さを極めていくことは必至だった。

 グランプリで勝つためには、根本が言ったように、やはりワークスマシンに乗る必要があった。

 一方、石川の気持ちがスズキ入りに傾いていることから、周郷はメカニックを辞めようと考えていた。

「ワークスチームには、スタッフとして優秀なメカニックが揃っているし、俺みたいなのがノコノコついて行ってもしょうがないからさ。でも、岩男が、どうしても一緒に入ってくれって言うもんでね」

「メカニックをやって欲しい」と依頼してから4年間、常に二人三脚でコンビを組んできた周郷と簡単に離れるわけにはいかない。石川にとって、自分のマシンを託すことができるのは周郷をおいてほかにいなかった。

 

 石川は、グランプリに参戦するためのワンステップとして、スズキワークス入りの意志を固める。最新鋭のワークスマシンに乗ることは、間接的ではあっても目標の世界GPに触れることになる。そして、スズキに自分の実力を認めさせれば、いずれ世界に打って出るときに大きなブレーンとなるはずだ。彼は、グランプリへの照準をそう定めた。

 80年のシーズンオフ、スズキとの話し合いがスムーズに進んだ石川は、年内に契約書への署名捺印を済ませている。契約期間は2年。契約金と年俸は、横内のことばを借りれば、80年の初任給が11万4500円だった「大卒男子の年収の何倍にもなる金額」だったという。

 スズキワークスチームは、その後、水谷勝と契約を交わし、年明けに酒井清孝と市販レーサーRGB500のマシン貸与を契約。81年は多彩な布陣で臨むこととなった。グランプリでは、ランディ・マモラ、グレアム・クロスビー、マルコ・ルッキネリ、ウィル・ハートックの4人。全日本選手権では、河崎裕之、岩崎勝、水谷勝、酒井清孝、そして石川岩男の5人である。

 

          2

 

 スズキのレース体制は、海外レースと開発を担う『2輪設計部レーサーグループ』と、全日本選手権でチャンピオンを狙う『2輪企画部』に分かれていた。グランプリを戦うチームは、スズキが直接運営しイギリスに本拠を置く『GBスズキ』と、イタリア人ロベルト・ガリーナが起こしスズキとはマシン貸与契約を結んでいる『チームガリーナ』との2チームがあった。

 石川が所属した『レーサーグループ』の仕事は、まずシーズンオフのテストランで、RGΓを熟成させヨーロッパに送り込むことだった。『スズキ竜洋テストコース』での開発テストは1日約8時間。土曜日の走行が終了すると、メカニックたちは翌日に備えマシンを整備する。そして日曜日の朝からまたテストが開始される。

 スタッフはライダーと周郷などの契約メカニックも含め十数人。シーズンオフの開発テストは、海外チームのマネージャーの岡本満が現場監督を担っていた。

「開発テストって言っても、地味な作業の繰り返しでね。ライダーはコースを周回し、ピットに戻ってメカニックに乗り味を説明する。メカニックはライダーのことばをメモし、それに応じて、部品やセッティングを変える。それで、またライダーが走る。そうやってデータを集めるわけさ」

 岡本は、石川が竜洋にやってきた初日のことを、いまでも忘れることができないという。

「石川に言ったのは、カッコよく説明しようとするなってことだね。マシンの状態を感じたまま言えばいいって。それから周郷には、ライダーが言ったことをアレンジしないでメモしろと。そしたらさ、ピットに戻った石川が、『なんかパシャパシャする』って言うじゃん。だからちょっと待てと、おまえ『パシャパシャ』ってのはどういうことだって。あれには面食らったよ」

 話をよく聞けば、それはコーナリング中のマシンの挙動を示しているようだった。例えば、「フレームが剛性不足でよじれる」ということばが一般的とすれば、石川の場合は、それが「グニャグニャする」という表現になった。

 とにかく、石川のコメントは他のライダーと異質だった。彼のことばからマシンの症状を把握するのに時間を要さなければならなかった。

「〝石川用語〟と言うのか、難しいライダーだなと思ったよ」

 もちろんスズキ側も、最初の年はマシンに慣れさせることを第一義とし、石川に1年目から開発を任せようとは考えていなかった。ワークスマシンには、ありとあらゆる部品が用意されている。長さと仕様の異なったサスペンション、混合気が通過する口径が異なるキャブレター、仕様の異なるエンジン、キャスター角も変えることがあり、フレームさえ変わることもある。これを最適のマッチングに組み合わせていかなければならない。

 これまで、市販レーサーのセッティングしか経験のないライダーに、いきなりGPマシンの開発を任せるなど考えられなかった。

「ただ、81年はライダーチャンピオンを取ることが至上命令だったわけ。もうチーム内はピリピリしていたよ。横内さんからも、『絶対に勝たなきゃならんぞ』と言われていてね。石川が入って来たのは、そんな時期だったんだね」

 

 横内が設計したRGΓは、車両重量が110㎏以下まで軽量化され、エンジンは推定125馬力を誇り、最高速度は280kmにも達する最新鋭のマシンだった。そのほかにも、フルブレーキング時の急激なフロントフォークの沈み込みを制御するアンチノーズダイブ機構や、初期作動はソフトに、ボトム付近でハードにと、バネ特性を2次曲線的に変化させたリヤのフルフローターサスペンションなど、画期的な技術が組み込まれていた。

 岡本が言う。

「難しかったのは16インチだったね。コーナリング性能をアップさせようと、フロントホイールに16インチを履かせたマシンのセッティングに苦労したんだ」

 フロントホイールの16インチが実戦で注目されたのは、『チームガリーナ』が、80年のグランプリでスズキRGB500に採用したのが最初だった。

 従来からフロントホイールは18インチが主流となっていたが、ケニー・ロバーツの出現により王座から引きずり降ろされたスズキ陣営が、巻き返しの一策として16インチの採用に踏み切ったのである。

 卓越の速さを見せるケニー・ロバーツに勝つには、アウト・イン・アウトというセオリーどおりのコーナリングでは不可能に近かった。ならばロバーツの内側をなんとか走れないものか。ケニーと同速度でコーナーに進入し、その内側をクイックなコーナリングで駆け抜ける。軽く、速く、小回りの効くマシン。それがRGΓの開発コンセプトだった。

 ホイールを小径化すれば、接地面形状において縦方向は短縮される。またホイールの回転時には慣性力が働くが、そこから生まれるジャイロ効果も軽減することができる。つまりハンドリングを軽くすることができる。

 しかし、16インチは「クイックなコーナリング」を実現させる要素ではあったが、直進安定性の低下や前輪の切れ込みといったデメリットも抱えていた。これまで18インチのマシンを開発してきた岡本にとって、16インチはまるで雲をつかむような話だった。どういうキャスター角がいいのか、トレールはどうなるのか、エンジン仕様はどうなるのか……。

「とにかく、テストランを繰り返してデータを集めるしかないわけ。でもね、河崎が16インチを嫌ってさ。最初のテストで転倒してしまって、それからは、『あんなものはダメだ』って言って乗りたがらなくなってね」

 しかし、岡本は海外からの要望にも応えなければならない。河崎としても、「転倒したからテストしない」といった単純な理由で16インチを敬遠したわけではなかった。彼は、18インチを熟成させた方が「勝てるマシン」への早道と考えた。

 これ以後、16インチと18インチの2タイプを開発しなければならなくなった岡本と、開発ライダーの責任者の河崎との間に、緊張関係が生まれていく。

「最終的なチェックは河崎に任せるとしても、データを集めるテスト走行は誰が行うのか。それで、石川を16インチに乗せることになったわけ。1年目は、乗り慣れた18インチの方が良かっただろうけど、チーム事情からそうなったんだね。石川には、気の毒だったなと思うよ」

 

 3月になって全日本選手権が開幕すると、石川はリタイヤを連発した。

 開発ライダーは、竜洋でも全日本選手権でも、限られた時間の中でテストを繰り返す。世界グランプリ開幕後は、海外チームから実戦で生じたあらゆる問題点が送られてくる。今度はそれを再テストし、データをグランプリチームに送り返さなければならない。

 これまで、三井や富樫とのつき合いの中で、石川はマシンの原理を勉強してきたつもりだった。しかし、ワークスというところはテストの内容もスケールも、桁が違っていた。

 テストが1クール終わると、スタッフたちはセッティングを大幅に変える。走り出すと、マシンはまったく別物に変身している。ピットに戻りマシンの状態を説明する。しかし、石川がどうしても腑に落ちなかったのは、部品交換やセッティング変更がどのような症状に結びついていくのか、ということだった。「なぜ」「どうして」という疑問が脳裡で駆け巡った。

 根本が、当時の石川の様子を回想する。

「悩んでいたんじゃないかな、岩男は。あるとき編集部に顔を見せて、マシンの工学的なことを知りたいんだって言ってきた。ワークスマシンていうのはアライメントからすべて大幅にいじりますからね、実際にマシンをこういじったらこうなるっていうのは、それこそ百戦錬磨じゃなければなかなか理解できるもんじゃない。だからマシンに乗っていても状態がわからなかったと思いますよ。いざレースってときに悩みが膨張してしまう。しかも、セッティングだなんだって、仕事が多過ぎちゃってね」

 サーキットで、石川と顔を合わせることがしばしばだった三井は、こんなボヤきを聞いたことがあるという。

「岩男がよく言っていたのは、『このセットでいく』って決められてしまうってことだったね。それでレースをやらなければならないって。いままで自由奔放にレースをやってきた岩男を型にはめようったってさ、そりゃ無理な話だよ。そんなことしたら伸びるものも伸びなくなっちゃうよ」

 石川は、富樫の家にも顔を出すようになる。開発ライダーは、企業秘密であるワークスマシンのことを外部に漏らすことは許されない。しかし、彼の抱えた問題は、ひとりでは裁き切れなくなっていた。

 相談を持ちかけられた富樫にしても、的確な話しができるはずはなかった。なにしろ彼は現物に触れたこともない。だから、質問されても、断定的なアドバイスを与えることはできなかった。

「本来なら、スズキ入りした岩男から離れるべきことかもしれない。でもね、それまでチームメイト同様の付き合いをしてきた仲だったし、マシンに対する考え方が少なからず影響を与えているとすれば、見て見ぬふりはできなかったんだ。あいつは、ストレスを溜めていたんですよ。だから、想像の中からだけでも、マシンのことを話してやりたかったんだ」

 周郷も、石川の様子に気づいていたが、しかしどうしてやることもできなかった。彼の1カ月の残業は200時間にも及ぶ。毎週のように休日返上だった。石川を少しでもいいコンデションで走らせようと、周郷も修練の日々を送っていた。

「岩男は、竜洋に金町から通っていたけど、俺はスズキの独身寮に入ったんだ。3畳の部屋で狭かったけど、でも、ただ寝るだけの部屋になってたからね。仕事はもう、メチャクチャ忙しかったよ」

 石川も周郷も必死だった。ワークスマシンに携わり技術を習得していく。それが、グランプリへの最初のジャンピングボードだった。

 

          3

 

 81年のグランプリにおいて、スズキはヤマハとケニー・ロバーツから4年ぶりにライダーチャンピオンを奪回した。栄冠を手にしたのは「チームガリーナ」のマルコ・ルッキネリだった。2位には「GBスズキ」のランディ・マモラが入った。メーカーチャンピオンにおいても6年連続の獲得となった。

 シーズンオフに入り、竜洋では連覇に向けてのテストランが忙しく行われた。遠州灘からの冷たい潮風が、防風林の隙間を縫うようにしてコースに吹き込んだ。岡本の指揮の下で、開発テストは12月31日まで続けられた。

 詰まったスケジュールの中で、石川は何百周と竜洋を走った。レースをはじめてから、これほどの時間を走り込んだ経験はなかった。マシンは、やはりフロントに16インチを装着したRGΓだった。

 82年のシーズンは、『チームガリーナ』だけでなく『GBスズキ』もフロントに16インチを採用することが決定されていた。

 しかし、岡本にとって、16インチはまだ不安を抱くに十分な要素をはらんでいた。各部のディメンジョンが確定しないまま大晦日を迎えなければならなかった。走行テストの責任者である河崎は、依然として16インチを歓迎していなかったが、年内のテスト最終日になり、「かなり良くなったな」といって納得の表情を見せた。しかし、18インチを支持する河崎のことばを、岡本は全面的に信用することはできなかった。

「こっちとしては半信半疑なわけ。でも、海外チームと契約した期日は迫っているし、スッキリしない気持ちでシャシーを送らざるを得なくってね」

 年明け、海外レースの緒戦は3月7日、グランプリの前哨戦ともいわれている『デイトナ200マイル』だった。岡本は、テストを兼ねてデイトナビーチ近くにあるサーキットに3台のRGΓを持ち込んだ。1台は81年型18インチ、残りの2台は、このシーズンに向けて開発してきたディメンジョンの異なる16インチだった。

 ライダーのランディ・マモラは2台の16インチを乗り比べ、「1台はどうしようもない。もう1台の方はまあまあだね」と岡本に伝えている。

 岡本はデイトナ終了後、世界グランプリ第1戦の開催地、アルゼンチンのブエノスアイレスサーキットに入った。『GBスズキ』のライダー、バージニオ・フェラーリに2台の16インチをテストさせた。マモラが言った「まあまあ」の状態を、他のライダーに乗せることによって確認したかった。

「そしたらフェラーリがね、1台はコーナーでもの凄く振られるけど、もう1台の方なら走れるよって。ふたりが及第点を出した方は、石川が1年間テストして、そのデータを基にしたマシンだったわけさ」

 

 年明けからも走り込みを続けた石川は、3月14日の全日本選手権第1戦鈴鹿大会で3位に入り幸先のいいスタートを切る。2分19秒60の平凡なタイムで7番グリッドからのスタートだったが、決勝では2分15秒60の自己ベストを記録している。これは従来の記録を1秒も短縮したタイムだった。

 1年間乗り込んだ経験の上に、大晦日まで続いた走り込みで、石川は本来の走りを取り戻しかけていた。

 鈴鹿でのテスト中に鎖骨骨折し3月28日の第2戦筑波大会は不出場。4月25日の第3戦鈴鹿大会では転倒リタイヤ。5月16日の第4戦菅生大会は不出場。6月13日の第5戦鈴鹿大会はマシントラブルでリタイヤ。不運が重なり結果を出せずにいたが、内容は昨シーズンと明らかな違いを見せていた。

 第3戦の予選では2分15秒69で2番グリッドを獲得し、第5戦では梅雨時のコンディションの中2分17秒20でフロントロウに並んでいる。スズキワークス2年目の石川は、精一杯の走り込みの中から、RGΓを自分のものにしてきていた。

 しかし、チームの中でひときわ目立っていたのは、石川と同期でスズキ入りした水谷勝だった。開発ライダーではなかった彼は、開幕から5連勝を続けていた。石川は、第6戦の筑波で、絶好調の水谷とデッドヒートを展開するが0・5秒の僅差で2位。6連勝の水谷は、ここで早くも全日本チャンピオンを決めている。

 4年前の自分の姿を彷彿とさせるチームメイトの栄冠を、石川は、いったいどんな思いで見ていたのか。

 

          4

 

 横内は、どうしたものかと思案していた。『レーサーグループ』から彼のところに持ち込まれたのは、「石川がイギリスに遠征したいって言ってるんですが……」という難題だった。

 石川は、8月1日にシルバーストーンで開催される世界グランプリにスポット参戦したい旨をチームに打診していた。しかし、横内にとって、それは好ましい行動ではなかった。

「当たり前ですよ。開発ライダーとして契約しているんですから、グランプリに行くのは予定外です。そんなこと許すわけにはいきませんし、予算だって組めるわけはないんです」

 そして、もうひとつ横内の表情を険しくさせたのは、石川の成績が期待に背いていることだった。

 GPマシンで全日本選手権に臨んでいた石川は、しかし市販レーサーに跨がる水谷の前を走れないレースに終始していた。横内は不満だった。いくらテスト車両といえども、石川が跨がっているのはGPマシンである。市販マシンの後塵を拝するなど考えられないことだった。

「石川が、イギリスで、いったいどれだけの成績を残せるのか。スズキのワークスライダーが走る以上、不甲斐ない成績では困るんです。世界GPの目標は、ライダーチャンピオンとメーカーチャンピオンの2冠の連覇。ヘタをすれば、企業イメージにも影響しますからね」

 しかし、石川にとっては絶好のチャンスだった。全日本選手権のスケジュールは、8月8日の第7戦まで1カ月以上の間隔があり、終盤戦に入るグランプリに対応し、開発スケジュールにもやや余裕があった。日程から考えて、イギリスGPに参戦することは不可能ではないと判断できた。

 何よりも、石川は刺激を欲していた。慣れない開発という仕事で鬱々とし続けてきた彼は、競争するためだけのレースに参加したかった。

 2年目に入り、RGΓにも乗れてきている確かな手応えも感じていた。そして、レーシングライダーとしての力をスズキにアピールしなければならないと考えた。そもそもスズキに入ったのはグランプリへのワンステップにほかならなかった。イギリスGPへの遠征は、83年に向けてのデモンストレーションでもあった。

「岩男も俺も、イギリスに行ったら、あわよくば……、という感じはあったんだ」

 もちろん、周郷もイギリスに遠征する計画だった。あわよくば、ポイント獲得。彼は石川と行動をともにすることを当然と考えていた。

 しかし、横内は承諾しかねた。

「スズキとしては行かせられない。当然ですよ。そうしたら、休暇を取って自費で行くって言うんだね。そこまで言うなら仕方がないかと。まあ、開発も手につかない、全日本でも気合が入らない、ストレスが溜まって事故にでもなったら大変だしね。リフレッシュするために行きなさいと。それで、休暇を認めたんです」

 石川は、休暇届が受理されたことを受けて、7月7日のエントリー締め切り直前に申し込み用紙をオーガナイザーに送っている。周郷とともに自費を投じての渡欧は、決勝レースの5日前にパドック入りする慌ただしさだった。

 結果は、予選24位、決勝は完走28台中の16位。イギリス遠征は、実力を発揮できないままで終わった。

 


第4章 決断

 

          1

 

 82年のシーズンオフに入った9月下旬、スズキチームは、浜松の本社で翌年に向けての体制を話し合った。その結果は、石川にとって厳しいものだった。

 83年は、水谷勝をGPマシンのRGΓに乗せ、石川岩男には市販マシンのRGB500を与える――。

 これは82年のシーズン、7連勝で日本タイトルを獲得した水谷と、表彰台に二度という石川の成績を反映したものだった。つまり、GPマシンを与えられる水谷がエースライダーであり、市販レーサーの石川はセカンドライダーである、という格付けが明確に打ち出された内容だった。

 石川はこのチーム人事の内示の直後から、世界GP挑戦に向けて行動を起こしている。もちろん、最初から「プライベート参戦」を宣言したわけではなかった。彼にとっての理想は、やはりワークスチームの一員としての遠征であった。しかし、石川の思惑は横内から時期尚早として即断されてしまう。

「イギリスでは16位だった。周回遅れだね。それじゃいくら頑張ったって10位がやっとだ。スズキの看板をしょわせるわけにはいきませんよ」

 ワークスチームの目標はチャンピオンであり、優勝する見込みのないライダーをグランプリに送り込むことなど許されるはずはなかった。予算は組めない。統括する立場としては当然の見解だった。

 横内と同様に、「時期尚早」と伝えたのが根本健だった。石川が『ライダースクラブ』編集部を訪れた時、彼はこう言って聞かせたという。

「もう少し態勢を整えてから行った方がいいんじゃないかって言ったんですよ」

 年間10戦以上にも渡り、しかもそれぞれ異なったサーキットでレースをしなければならない世界GPは、全日本選手権とは比較にならない難しさがあった。練習走行の時間も少ない、結果的にセッティングにも不確定要素を残すことになる。スズキでの成績を考えれば、いまのままでは勝つことは難しいと思った。

「でもね、直接的な表現で岩男にブレーキをかけることはできませんでした。レースをやるからには、誰だって世界GPを走りたいんですよ。わたしも世界GPを走ってましたから、岩男の気持ちは手に取るように理解できた。それに、プライドを傷つけることはできない。そんなことしたら、逆効果になると思ったんです」

 銀座の広告代理店でコピーライターをしていた小川明を、石川が訪ねたのは10月に入ってからのことだった。近くの喫茶店に席を移すと、石川は世界GPへのプライベート参戦の話を切り出した。そして、企画書の製作を小川に依頼してきた。

  企画書は、世界GP挑戦の計画を文書化したものであり、スポンサー獲得に不可欠のものである。世界GPの宣伝効果や自己PRを主要とし、レースに認識のないものが読んでもスポンサードのメリットを理解させる内容でなければならない。

 これは、元レース仲間であり、コピーライターの小川を見込んでの依頼だった。

「でも、もう10月になってましたから。準備するには遅過ぎるんですよ。あと2カ月早ければ何とかなったのにって言ったんですけどね」

 小川は、この時期がスポンサー探しには遅過ぎることを石川に説明した。企業というのは9月で翌年の予算を決めてしまう。いまから探そうとしても大口を見つけることは難しい、と。それでも石川は引き下がらなかった。「お願いします」の一点張りだったという。

 引き受けるか否かは別として、小川は「プライベート参戦」を口にする石川が気になった。2年間在籍したスズキからは、それでも多少なりとも援助があるはずだと思ったのだ。

「マシンは貸してもらえるのか、部品の供給は受けられるのか。石川君に聞いたんですけれどもね……」

 横内に即断された石川に、色よい返事ができるはずはなかった。

 小川はスズキから援助が得られない場合の予算を考えた。世界GPにフルエントリーするためにはマシンが2台必要になる。部品も1シーズン戦えるだけの量を購入しなければならない。市販レーサー2台、フロントフォークやサスペンションなどの改造部品、ハンドルバーやガソリンタンクなどの交換部品、オイルやガソリン、そしてシリンダーやピストンなどの消耗部品、これらを合わせると1500万円にはなるだろう。他には、マシンと部品の輸送費、メンバーの渡欧費、転戦するための移動費、そして食事などの生活費、これらが約1000万円。合計で2500万円……。

「無理だって言ったんですよ。そんなに集められるわけがないって。でも、石川君は無理は承知してるって言ってました。気持ちが高まってきて、いましかチャンスがないんだ、だからどうしても世界GPに行きたいんだって。ぼくもレースやっててヨーロッパで走るのが夢だったし、石川君に押し切られた感じで、企画書の制作を引き受けることになったんです」

 

 岡本満が、石川からGP参戦の意向を聞かされたのは、9月26日の最終戦西ドイツGPを終え帰国してから数日後のことだった。

 ライダーチャンピオンの連覇に成功し、岡本は舞阪にある自宅で半年ぶりの休暇を味わっていた。そんなとき、石川から電話が入った。相談に乗ってほしいという依頼に、岡本は気さくに応じた。

 その夜、岡本宅にやってきた石川は、世界GP500㏄クラスに挑戦したいと打ち明けた。そして、スズキからマシンと部品の供給を受けたい、そのスポンサード契約を結ぶ仲介役をお願いしたいと頭を下げた。

 しかし、岡本は、まだ早いと思った。石川では勝てない、と。岡本は、石川の話をさえぎった。

「もう1年スズキにいたらどうだと言ったわけ。来年、全日本選手権で頑張って、それからでも遅くはないだろってね。でもなんとかして行きたいって言う。だから問いただしたわけ、おまえ格下げが気に入らんのか、屈辱を撥ね除けるためにGPに行くのかって。そしたら黙ってる。GPはそんなに甘くないぞと。もう1年スズキにいろと。でも、どうしても行きたいんだって言うんだね」

 ふたりの話し合いは、日を改めても平行線をたどった。「行く」「いや待て」が数日間にわたって繰り返された。

 岡本は一考した。石川はチーム人事の格下げに反発しているに違いない。ならばマシンをRGB500からRGΓに変更すれば、石川の熱も下がるのではないか。マシン変更は横内の承諾をもらわなくてはならない。

「横内さんを説得するのは、こりゃ大変なことだと。でもね、それで石川がスズキに残るっていうなら、それがいちばんいいと思ったからね、横内さんの自宅に談判しに行ったわけ」

 チーム内の厳しい事情を背負いながら、石川は黙々と走ってきた。ライダーチャンピオンの連覇には、石川のテストランも十分に貢献している。岡本は、石川の努力を認めていた。

 しかし、今度は横内が頑として首を縦に振らなかった。

「最速マシンは自分の手で勝ち取るもんだと言ったんですよ。待遇に人情を挟んだらチームを統括していくことなんてできなくなる。ライダーには成績順でいいマシンを与える。当然のことですよ」

 岡本の記憶によれば、この直談判は11月を過ぎても続いたという。舞坂の自宅で石川と待ち合わせ、浜松にある横内宅に向かう。話し合いは午後8時あたりからはじまり、11時を過ぎても終わらないことが度々だった。毎日のように押しかけてくる岡本の勢いに負けてか、そのころになると横内の態度も軟化。ついにマシン変更の許可が降りる。

「よかったと思ったよ。これで石川もスズキにいるだろうってね。翌シーズンの全日本でチャンピオンにでもなれば、世界GPの話しだって現実的になってくるわけだから」

 しかし、一件落着と胸をなで下ろしていた岡本の前に、石川がまた姿を見せた。

「やっぱり世界GPに行くって言うんだね。金はどうするんだって聞いたら、なんとか集めますって言う。できるのかおまえ、そんなことって言ったら、ええ、なんとかしますって。もう頑固一徹でさ。そうなったら、こっちとしては打つ手がないわけ。もう、どうにも止められんかったよ」

 

 石川は、なぜこの時期に世界GPへのプロジェクトをスタートさせたのか。

 その始動が遅いことから計画的だったとは思えない。計画するとすれば、2年契約の区切りとなる82年のシーズンなのだから、石川は早くから準備していたはずだ。遅くとも、イギリス遠征からの帰国後、すぐに始動すべきだった。

 後手に回りながらも世界挑戦に着手したのは、やはりチーム人事への反発が理由だったからか。もちろん、〝格下げ〟を石川は快く思わなかっただろう。

 しかし、この時期、実恵子との結婚を考えていた石川にとって、スズキから離れることは経済的基盤を失うことでもあった。83年は、RGΓで全日本選手権を走ってもよかったのだ。

 

          2

 

 実恵子の悩みの種は石川の怪我だった。79年の1月からはじまった交際が進んでいくうちに、その思いは深まるばかりだった。石川はレースを終えると、順位を知らせるために、必ず実恵子に電話をしてきた。彼女は、石川の元気な声を聞くまでは気が気ではなかった。

 石川との交際が、母との間で話題になると、母はしばしばこう言ったという。「岩男君はいい子なんだけど、仕事が危ないから心配ね」と。82年の夏あたりから結婚が話題に上るようになると、石川に会いに出かけようとする実恵子の背中に、「あなた、それでいいの?」という母の声が響くようになった。

 母が心配してくれる気持ちは十分に理解していたが、レーシングライダーを仕事にしているからというだけで、石川から離れることはできなかった。石川と知り合ったころを考えると、自分がそんな気持ちになるなど思ってもいなかった。

 

 石川との交際のきっかけは78年の秋、実恵子がオートバイ雑誌に投稿したことだった。連勝中の石川は、そのころ誌面でクローズアップされていた。その記事を見た彼女は、石川が同じ葛飾区に住んでいることを知り、親近感から「私もバイクに興味があります」といった内容の手紙を編集部に出した。その年の12月、実恵子の自宅に、石川から電話が入った。

「喫茶店で待ち合わせしたんですが、第一印象があまりよくなかったので、その後は会わなかったんですね。岩男君がカーリーヘアだったから、暴走族みたいに見えてしまって。かかわってはいけないかしらって思ってしまったんです。そのあと、お正月に大宮に住む親戚の家に出かけようとしているところに岩男君から電話があって、ぼくも王子に用事があるから車で送ってあげるよって。それがお付き合いのはじまりでした」

 車中での石川は、レースの話に終始した。中でも、将来は世界選手権に出るのが目標なんだ、それが夢だ、と熱心に語ったという。まだオートバイに興味を持ちはじめたばかりの実恵子にはチンプンカンプンの話でしかなかった。それでも、自分の仕事に目標と意欲を持ち、レースに真剣に取り組んでいる様子から、その印象は「まじめでいい人なのね」というものに変わった。

「デートといっても、どこか遠くに遊びにいくということはなかったんですね。私も勤めてましたから休みは日曜日、レースも週末から日曜日に開催されますから。だから、オートバイにふたり乗りして近くを走ったり、近所の喫茶店でお茶を飲んだりという感じでした」

 ただ、筑波サーキットには何度か応援に行ったことがあった。ピットで忙しく立ち回る石川と周郷を見て、何か手伝おうとしたが、石川は絶対に手を出させなかった。それは、女の出る幕じゃないといった断固たる態度だったという。

「とにかく、レースに関しては厳格な人でした。私なんか入り込む余地はなかったですね」

 ならばレース以外のときはどんな人だったのか。尋ねると、実恵子はこんなエピソードを話してくれた。

 自動二輪の免許取得を希望していたが、石川の反対から教習所通いをしないでいた。それならと思い、普通免許で乗れるスクーターで走り回ったことがあった。それを知った石川は、「やっぱり危ないからやめたほうがいいよ」と真剣な表情を見せた。免許の更新で試験場を訪れたとき献血をしたことがあった。それを話すと、「献血なんかやめろ」とかなり強い口調で諌められた。日頃から貧血気味の自分を心配してくれてのことばだった。

 厳しいが、それ以上にやさしい人だった、と実恵子は言いたかったのだ。

「スズキに入ってからの岩男君には、逞しくて素敵な人だなって、人間的に凄く大きくなったなって感じました。仕事のことはあまり話さない人だったんで詳しいことはわかりませんが、いろいろと苦労していたと思います。それからですね、ずっといっしょにいたいなって思うようになったのは」

 石川への思いが深まるにつれて、彼女の心配は一層大きなものになっていく。スズキに入ってからは、全日本選手権のほかにテストランが加わった。それでも、骨折ぐらいなら……と思えるようになっていった。命に別条がなければ、と。

 石川はイギリスからの帰国後、「もう世界GPにいく時期かな」と言うようになったという。そして、「そのときは君もいっしょに行くんだよ」と実恵子に言っている。しかし、彼女は、気持ちをある程度固めていながら、父親に石川の職業をなかなか言い出せないでいた。この時点ではまだ、将来に向けてのしっかりとした方針は決まっていなかった。

「ちょうどその時期だったんですね」と実恵子は言う。「レースで、岩男君のお友だちが亡くなる事故が起こったんです」

 

          3

 

 富樫は、82年の全日本選手権250㏄クラスに『トガシエンジニアリング』を結成し参戦していた。これまでコンストラクターとしてレースを続けてきてはいたが、レーシングチームとして『トガシエンジニアリング』を始動させたのは初めてのことだった。この年には工場も五反田から西馬込に移転させ臨戦体制を整えた。

 マシンにはヤマハTZ250を選び、ライダーには若菜博と石出和之を擁していた。彼らは79年から『チームIVY』に所属し、若菜は350㏄クラス、石出は125㏄クラスに参戦していた国際A級ライダーだった。

『トガシエンジニアリング』の滑り出しは好調だった。彼らの緒戦である第2戦で若菜と石出が1、2フィッニッシュを飾り、第3戦では若菜が3位に入った。マシンの仕上がりも順調で、ふたりのライダーも快走を見せた。しかし、第4戦の菅生で若菜は練習走行と決勝で転倒。レースからの引退を余儀なくされてしまう。

 ライダーをひとり失ってしまった富樫だったが、石出の走りは絶好調だった。第5戦鈴鹿大会、第6戦筑波大会と彼は連勝。第7戦筑波大会でも2位に入り、ポイントランキングでトップをいく福田照男への急追を開始した。

 国際A級250㏄クラスのチャンピオンの行方は混沌としていた。ポイントで13点離されていた石出だったが、残り2戦には逆転の可能性が十分に含まれていた。

 

 全日本選手権第8戦が行われる8月29日、西日本に抜けた台風14号が、熱帯性低気圧に変わり北上した影響で、菅生サーキットの上空はどんよりとしていた。250㏄クラス決勝がはじまる10時40分あたりになると、上空からは雨が落ちてきた。

 石出は、前日の予選で1分7秒92を叩き出しポールポジションを獲得。2位につける平塚庄司を1秒近く引き離すほど、マシンもライダーも好調を維持していた。

 小雨がパラつきはじめてはいたが路面状態はドライ。高速レイアウト、しかも短距離の菅生で20周を競うことから、レース終了までは25分とかからない。グリッドに並んだ17台のマシンはスリックタイヤを履いていた。

 スタートで石出は出遅れてしまった。最後尾からスタートした池田直にも抜かれ12番手で第1コーナーに進入。福田照男の出足もよくなかったが、それでもオープニングラップで2位に浮上、2周目の第1コーナーで早くもトップに立つ。石出もなんとか7位まで順位を上げるが厳しい展開に変わりはない。安定した走りを見せ1位をいく福田の後方で、池田と石出の猛追がはじまる。池田は3周目のシケインまでに4位、ストレートで3位、6周目のストレートでは2位に浮上する。石出も福田からやや離されているものの4位とポジションを上げる。9周目のホームストレッチで池田はとうとう福田の脇をかすめるようにしてパッシング。石出も前走車の転倒で3位になる。トップに立った池田はペースアップ。14周目には福田との差を5秒に広げ独走態勢を確立する。シリーズポイントで優位に立っている福田は、2位キープの堅実な走りに徹する。

 レースは終盤。そのころ、パラつく程度だった雨足が強くなり、路面状態はドライから序々にウエットに変わっていく。

 池田はペースを落とした。ラップは1分6秒台から1分7秒台へ。福田はさらにペースダウン。しかし、石出はペースを落とさなかった。石出のラップは福田を1秒弱上回る。6秒の差は16周目には3秒に縮まった。石出は福田の背後にいっきに迫った。

 ゴールまで残り3周。霧も発生し標高のある1、2、3コーナーの路面は完全なウエット状態だった。

 18周目に入った池田がその第2コーナーで転倒。脇を福田、石出が走り去る。福田と石出の差は2秒、そしてジリジリと縮まっていく。射程距離だ。19周目、石出は勝負に出る。

 石出は、福田に襲いかかるように第1コーナーに突っ込んだ。その時、タイヤが、グリップを失った。

 

《レーサー激突死 二十九日午前十一時ごろ、宮城県柴田郡村田町菅生の「スポーツランド菅生」で、国際A級250㏄オートバイレース中に、葛飾区西水元三丁目、国際A級ライセンスレーサー石出和之さん(二八)運転のオートバイが転倒、石出さんは全身を強く打って約二時間後に死んだ。

 宮城県警大河原署の調べによると、石出さんが出ていたのは二千六百五十五㍍のコースを二十周するレース。十七台のオートバイが出場、二位につけていた石出さんは十九周目に入った第一コーナーのカーブの中間で、スリップするかバランスをくずすかして転倒、約六十㍍滑走して防護さくに激突した。》(『朝日新聞』昭和57年8月30日付)

 

 石出はすぐに仙台市立病院に運ばれたが、午後12時55分に息を引き取った。死因は肺臓破裂。胸部を強打したとき、折れた肋骨がふたつの肺を突き破っていた。

 石川は実恵子を伴い葬儀に出席した。周郷、富樫、三井、金城、小川も参列した。弔問客の中でも、富樫の気の落とし方は誰の目から見ても尋常ではなかったという。自分の作ったマシンに乗ったライダーが、レース中に亡くなった。マシンに不備がなかったとはいえ、富樫の気持ちはどん底の状態だった。しかし、打撃を受けたのは富樫だけではなかった。

「岩男君は、私と初対面のとき、石出さんといっしょに喫茶店にきたんです。ぼくの友人なんだって紹介されました。そのあとも何度か顔を合わせていましたし、私も凄いショックを受けてしまって……」

 石川と石出は、女性との初対面で同伴を頼むほどの仲だった。そして、共に世界GPを走ることを目指していた親友だった。石出の急逝は、石川にとってもショッキングな出来事だった。

 葬儀のあと、富樫はレースを止めると言い出す。それを知った石川は、なぜ止めるのかと富樫に詰め寄った。いままで見せたことのない、険しい表情だったという。

「岩男が血相変えてさ、ライダーが死んだからってレース止めちまうのか、レースに対する気持ちってのはその程度のものだったのかって言ってきたんだよ。俺らは死ぬことなんか怖くない、覚悟してるんだって。いままで何を信用して走ってきたと思ってるんだって言われてね。けっこう、ズキンときたよ」

 それは、石川が自分自身に言い聞かせたことばだったかも知れない。レースがはらんでいる最悪の事態はライダーの死亡である。そのことを承知してはいても、常に死を間近に考えているわけではない。石出の急逝は、最悪の事態をより現実的にさせた。富樫を叱咤することは、自分自身を鼓舞することでもあった。

 世界GPを目標にしながら、それをかなえる前に石出は逝ってしまった。石川は、自分と石出を対峙させたはずだ。

「石出が亡くなってしばらくたってから、岩男がうちの店にひょっこりやってきたことがあったんです。それで、俺やっぱりGP行くよって、言ったんですよね。前々から世界GPに行きたいっていう話は聞いてましたけど、いざってなると、あいつにも不安があった。でも岩男は、あのとき、腹を決めたんじゃないですかね」

 金城の話である。

 石川は、スズキのチーム人事の内示のあと、世界GPへの参戦計画を強引なまでに進めていく。

 

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 慣れないスーツを着込み、アタッシェケースを下げて、石川はスポンサー獲得に乗り出した。とにかく、資金をかき集めることが先決だった。

 スズキとのマシン貸与契約がもの別れに終わった11月、スズキから離れることを表明した石川は、西馬込の『トガシエンジニアリング』を拠点にした。世界挑戦へのプロジェクトに富樫もメンバーとして加わることになったのである。

 周郷もスズキを辞め西馬込に通うようになった。彼は、石川と行動を共にすることをふたつ返事で承諾した。

 石川は、小川に作ってもらった企画書を持ちスポンサー獲得に精力的に動いた。訪問先は20社以上を数えたという。街がクリスマスのムード一色に盛り上がる12月までの間に、石川が獲得したスポンサーは、『アライヘルメット』『ミシュランタイヤ』『コミネオートセンター』『NGK』『大同工業』『オートバックス』『ヨシモト』の7社だった。これによって、ヘルメットや革ツナギなどのレース用品、プラグ、タイヤ、オイルなどの消耗部品、そして資金の一部調達には成功した。

 しかし最も大きな問題は、マシンとそれにかかわる部品の確保だった。マシンは2年間乗り親しんだスズキに決定していた。RGΓが貸与されないことから、必然的に市販レーサーであるRGB500の選択になる。83年式RGB500の価格は290万円。年間に必要な部品も含めて自費購入となれば資金繰りは火の車になる。参戦資金の不足状態は12月も中旬に入るまで変わらなかった。

 このとき、石川が頼ったのは、スズキ・ディーラーの『東京スズキ販売』社長の岩田定雄だった。モータースポーツファンの岩田は、MFJの協議会にも名前を連ねていた。

「いまでも思い出すのは、82年の夏でしたかね、MFJ主催の信州ツーリングに石川君がゲストとして参加したときのことです。彼はとても礼儀正しくて、ことば使いも丁寧で、参加者に笑顔でサインに応じていました。まじめで飾り気のない青年だな、というのが強く印象に残っています」

 新宿区落合にある社屋で面談したとき、マシン貸与をお願いしたいという石川の世界挑戦への熱意を、岩田は痛いほど感じた。しかし、彼は返事を出し渋った。本社のワークスチームから離れたライダーに、傘下のディーラーがスポンサーになることは立場上難しかった。

「本社の横内部長に問い合わせたら、話を聞いてやってくださいということだったんですよ。それで、オートバイは用意してもらえるんですかと聞いたら、それはできますとおっしゃる。まあ、日本人が日本のオートバイに乗って、最高峰の500㏄に挑戦するわけですからね、石川君には頑張ってもらいたいと。それでRGB500を貸与したわけです」

 このマシン貸与契約が結ばれたことによって、石川の準備作業は大きく好転していく。

 

 年が明け、東京スズキからRGB500が搬入されるのと同時に、石川にはもうひとつ予想外のプレゼントが届けられた。スズキワークスチームから部品が送られてきたのである。開発費を割いてまで援助はできないと言っていた横内も、石川のスポンサードに踏み切った。

「せっかくマシンを手にしたのに、部品がなくてレースができないなんて無様なまねだけはさせたくなかったんですよ。世界GPに行くからにはいい成績を収めてほしいですからね。だから、部品は供給しました」

 西馬込に送られてきた大きな箱の中にはRGΓの部品が詰まっていた。それは1台を組み上げてもまだ余りあるほどの量だった。

 マシンが手元に届き、部品も確保できた。『トガシエンジニアリング』は、年明けからいきなり不夜城と化した。

 石川は実恵子との婚姻届を1月19日に提出した。17日には筑波サーキットでテストランを行っている。入籍した翌日には、ワゴン車とキャンピングトレーラーの購入、レンタル工場の契約のため、オランダに一週間出張している。資金調達から渡航の手続きまで、繁雑な事務を石川ひとりが取り仕切った。とにかく、彼のスケジュールには隙がなかった。その行動力にけん引されるように、周囲の士気は高揚していった。

「石出の事故から完全に立ち直ったわけじゃなかったけど、岩男に励まされて、もう一度やってみようって思い直してね。それに、岩男が世界に挑戦するって言ってるんだから、何とか力になってやりたかったんだ。79年、80年、スズキに入ったあとも明確にアドバイスしてやれなかった。あいつのスランプには俺にも責任があるんだよ。だから岩男を、あの78年の石川岩男に戻してやりたいと思ったんだ」

 富樫はマシンのモディファイに躍起になった。新型TZのときは、マシンに石川を馴染ませようとしたために成績は下降線をたどった。富樫のマシンコンストラクターとしての役割は、このRGB500を石川にマッチしたマシンにすることだった。

「作業の中心はリヤサスペンションだった。とにかく、岩男がトラクションを感じやすいようにする必要があったからね」

 周郷は連日、『トガシエンジニアリング』に泊まり込みで作業を続けた。部品の確認と整理、マシンの組み上げ、そして富樫から指示を受けてのモディファイ。毎日の睡眠は2、3時間というハードスケジュールだった。

「俺は、とにかく岩男を走ることだけに専念させてやりたかった。思いっ切り走らせてやりたかったんだ。そのためには壊れないマシンを作らなきゃならない。岩男が安心してアクセルを開けられるマシンにね」

 実恵子も会社を辞め渡欧への準備に忙しく動いた。彼女の役割は、食品類や洗剤などをできるだけ安く大量に買い込むことだった。『トガシエンジニアリング』にも打ち合わせに出かけた。また、料理の本を購入しメニューの研究もした。

「結局、父も母も岩男君の人柄を気に入ってくれて結婚を許してくれました。でも、炊事とか洗濯とか、単なるお手伝いだけだったら、私はヨーロッパに行かなかったと思います。タイムを計ったり、サインボードを出したり、やってほしいことがあるんだって言われたから行くことにしたんです。私は、岩男君といっしょに、チームの一員として仕事をしたかったんですね」

 石川はオランダからの帰国後、昼は輸送会社を探すために都内を奔走し、夜は資金の計算と転戦スケジュールを考える毎日だった。時間的にも、資金繰りからも、世界GP第1戦南アフリカGPは割愛せざるを得なかった。

 限られた資金を有効に使うためには、転戦経路から無駄を省かなければならない。この計画を成功させるために、転戦スケジュールの予定表は、綿密に作る必要があったのだ。

 

《3月14日 オランダ 入 AMSTERDAM》

《A2》

《3月27日 オランダ   UTRECHT》

《A27》

《3月27日 オランダ 出 BREDA》

《A1》

《3月27日 ベルギー 入 ANTWERPEN》

《A14》

《3月27日 ベルギー  出 GENT》

《A14/A1》

《3月27日 フランス 入 PARIS》

《A10/A11》

《3月27日 フランス   LE MANS》

 

 石川、周郷、実恵子の3人は、3月14日にアムステルダムに到着した。レンタルした工場で、荷物の整理やマシンの組み上げに12日間を費やした。彼らがル・マン市にあるブガッティ・サーキットに到着したのは、3月27日の深夜だった。28日は翌日からはじまる練習走行のためにマシンの整備に費やした。

 3月29日、世界GP第2戦フランスGPの練習走行に、石川は臨んだ。

 

 

 



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