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堕ちる天使 #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堕ちる天使

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

 

 

Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眼の前で、砕け散る粉砕音を見る。

鋭く、そしてきらめきの揺らめき。水が水滴になって割れ、飛び散り、窓越しの陽光。斜めに差したそれが与えたきらめきは、やわらかい水とグラスの破片。その、それぞれの差異さえもすでに抹消されて仕舞っている。一瞬の眼差しの中には。

飛び散った。撥ねて、足元に舞った。

水のたっぷり入った、その水面をやわらかく揺らしていたグラスを不意に、叩き付けるようにして落として仕舞った理沙は無数の、水滴を飛び散らせたみずからの下半身とフローリングを、そして、足元に砕けたガラスの破片は、ただ呆然として理沙に見つめられていたにすぎなかった。半開きにされたまままの、口紅さえぬられなかった唇は、ややあって、自分を見つめる私の眼差しに気付いて晒された戸惑い。終には、痛い。

不意に、そう言った。ふとに、やっとそれに気付くことができたかのように、

ね。

もはやなにもつかんではいない自分の両方の手首を胸に押し付けて、

痛い。

引き攣ったこぶしを握って。まだ、ガラスの破片も、なにも、彼女を傷つけてはいなかったというのに。

聴いた。私は

戸惑い、おびえるしかない彼女に、私は何の表情を曝すこともできないまま、途中やめで

唇につぶやかれた、

終ったばかりの、絡み合って汗ばんだ皮膚が感じつづけるべたついた触感、のような

彼女の声を。

もの。皮膚に執拗に張り付いた、その。

なにかがふれているわけでもないくせに、感じ続けられた遁れ難いほどの、その。触感。それが、私をただ倦ませていた。

不意に、おびえ切った、無造作に細かくゆれる感情以前の心の波立ちに、終には自分勝手に苛立ちさえして、そのあげくに、どこかに遁げ出そうとしたのかもしれない理沙が、そのとき、不意に動こうとすれば、待って、と、聴く。叫ぶように

まって?

小声で言った私の、

まって

声を。理沙は。聴く。私は。あきらかに戸惑って、今、目の前にいて、自分を見つめている、ベッドの上の、午後の日差しの中の、裸の男。素肌を曝した、あるいは曝しあった、自分の最愛の、そして、彼が、結局、今、何を言ったのか。なに?

聴く。

まって

舞う。目が。

その。

いとしい、それ。

不意に目舞って、理沙は、その、そして私は彼女が想いつめた、明らかに救いを求める眼差しをだけ曝すのを、ただ、いとおしくしか感じられない。

さっきまでの、そして、いまだに薬物の抜けていなかった彼女の、そのせいで、それを打ってもいない私にとっては、あきらかに異常な、たとえば子供じみたポルノ・フィルムの妄想のような彼女の反応に、しぃにゅー。戸惑いさえしても、ややいぃ。ぬぅいつも繰り返されるそんなややぁんやぃ反応ばかりに、ぁえやぁや感じられる戸惑いさえもがすでに飽きられていても、相変わらず感じられ続けていたのは、戸惑い。

そして、おののき。

恐怖。

僕は花

未来への。

君は花

ほんの一瞬の、その先の。

空は青

痛み。

風は吹く

破綻への。

花は白

悔しさ。

花は咲く

自分をもふくめた、何かへの。

僕は

自分も、と、想った。

彼女と一緒に堕ちて仕舞えばいいのかも知れなかった。その、いかにも壊れた、穢らしい、理沙の声帯と肺と浪打つ胸部が立てる惑溺した家禽の音声の群れの中に。あるいは、そう言って仕舞えば、家禽たちの尊厳への蹂躙にほかならない、そして

待って

堕ちて仕舞えば。その、夢を見るような彼女の潤う眼差しの中に。簡単なことだった。彼女が打とうとした注射器を戯れに奪って、自分の血管にあててみればいい。やがて、と、理沙は言った。結局は、一回目の、最初のキスで、もう最期まで壊されてたことに気付くの。

バスタブの中で、なんどめかに血を吐いた日に。

「待って」いい子だから。

私は言った。理沙は、泣きそうになるのを、明らかに堪えていた。泣いて仕舞うのは、それだけは違うと、かたくなに想っていたらしかった。どこか虚弱な肩から堕ちた線が、奇形じみて突然豊かにふくらみ、やわらかな質感に目醒め果てれば、その性別をもはや否定し難いあざやかさに曝す。その満ち足りた豊かさを不意に裏切って、腹部は静かに、何事もなかったようにくびれていたが、いたたまれない繊細な曲線を描いて、今、その褐色の腹部は、まるで子供のそれのようにだらしなく膨らまされて、心の痙攣につれて、かすかなわななきを見せた。

日差しの中に。

窓の向こうに、私が振り向けば、空が見える。正午をとっくに過ぎた、その。空は青い。そんな事は知っている。

理沙の素足のすぐそこに無数に散らばったガラスの破片と水滴の散乱は、いったいどれがどちらなのか、その一切の区別さえも曝さないままに、そして水溜りの乱れた透明なきらめきは、ただ、震えもせずにしずかにそこに停滞しているほかない。じっと。ね?

いい子だから、じっとしていて。

ね?と。

怪我なんか、しないで。

僕の、

私の

俺の、見てる前で。

そして

ゆっくりと、私はベッドから

君が

自分の足の先の着地するべきところを探した。

見ている前で

フローリングの上に。

花が咲いている

砕けたガラスのその

君の活けた

ちいさなきらめきを

すでに殺されていた花が

踏ん付けて

生き生きと

仕舞わないように。あるいは。

その切断面に新鮮な

理沙の眼差しが、彼女の

水を吸って

左手の向こうの床の上に、置かれたままの花、彼女が活けた花の上に、立ち止まる。戸惑いがちに彷徨ったあとで。

まるで忌避するように破片の散乱から、そして、やがては見つめられていた私からもそらされたその。眼差し。

理沙。彼女は、褐色の皮膚をただ、意味もなく曝したままに、注射を恐れる子供のように、胸に手を当てて、その、かたく緊張させられた腕の仕草の子供じみたいたいけもなさが、無造作に押しつぶした、あからさまに大人の女の胸のかたちを変形させて、つぶし、ゆがめ、笑う。私は、あるいは、いびつかも知れない、眼の前の不似合いな対比に。

そっと。

這うようにしてフローリングの上に、彼女に接近していく私を、理沙の眼差しは捉えなかった。怖がらないで。

言葉にはしない。

だいじょうぶ。

そして。きらめき。

ね?

床の上の散乱。

わかるでしょう?

破片なのか、水滴なのか。

危ないから。

つぶやかれるべき

眼の前のきらめきの点在を、眼差しに

言葉

嗅ぎ取るようにゆっくりとした

言われる前には

緩慢な、それは

すでに

まるで、と、いうよりももはや

了解されてしまうに違いない

単なる戯れに過ぎなかった。

誰にとってももはや、すでに、使い古されているに過ぎない

怖がらないで、と。僕が

つぶやかれなかった言葉の群れ

守って、君を、

わかるでしょう?

俺、守るから、だから、私は、

私のものでさえない言葉

理沙を守るために。けっして

誰のものでさえもなかった、すでに

彼女が傷付いて、そして

誰かがいつかつぶやいたが故に了解され獲るに過ぎない

血を流したりはしないですむように。

本質的に

私は。

固有ではありえない

気付いていた。

言葉の群れ

聴く。失禁した理沙の、その、彼女の太ももが濡らされていく音。

それらが刻んだ私の

生き物の流した水が流れて、

君の

匂う。その音が空間に

その

小さく立つ中に。この、

固有の時間が

壊れて仕舞ったもの。

そしていつかは

なにも、もはや

いつも

自分ではまともにコントロールさえできない、この。

すでに

伸ばされた私の指先が、砕けたグラスの

あるいは

その底の破片に触れる。

私たちを引き裂く

つかんで、握りつぶせば、確実に、

切り裂いて

知っている。私の手のひらが確実に、

押し潰して

血を流して仕舞うだろう事くらいは。

窒息させ

切り裂いてあげれば?

破壊して仕舞う

つかんだ破片で、眼差しの先にふるえているしかない美しく、ただ愛おしいその存在を。壊れた、いよいよ壊れるしかない、その、彼女。理沙を。

終には、救ってやるために?

例えば、首を?心臓を。

突き刺して?

他人の血に染まる。指先が脇にのけた破片は水溜りの中に浸かりこみ、水溜りは静かに波紋を広げているばかりだった。理沙の、彼女の太ももを伝った失禁が、フーリングに散乱した水の停滞を壊して仕舞って、ふたたび呼び覚まされた波紋状のふるえ。

ふるえてるの?

君は、と。つぶやく暇もなく、彼女を腕に抱くと、彼女が絡みけた腕に首を、ふと窒息させて仕舞いそうになりながら、二人でななめに倒れこんだベッドの上に、ベッドは派手に軋んだ。

私は声を立てて笑った。ほら。

ほら。

ね?笑う。理沙はおびえつづけたまま、

なにも

困り果て顔を曝して、

傷付いてないから。

首から腕を放さない。

なにも。

背中はマットレスの柔らかい質感を、そして

ほら。

体重に押しつぶされた屈曲を

傷付いてないから。

あざやかにさえ感じていたはずなのに

なにも。

いまだに。

元のとおりだから。

未だに、彼女のからだは

なかったから。

空中に泳いでさえいるかのように

なにも、なかった。

しがみついて。大丈夫。笑いながら

起こりさえしなかった。

そう言った私を執拗に見つめ、その

なにも。

思いつめて仕舞った眼差しは

ただ、きらめきが。

私の笑顔を捉えた。

ただきらめきが無数に、散乱しただけ。

無言のうちに、息だけ乱して。泣き声でも立てているかのように。流される涙もなく。

 

夢を見た事がある

いつ?

巨大な廃墟群が目の前に拡がる

いつの?

無際限な、と

だれと?

そう想って仕舞うほどに、広大な

どこの?

その廃墟

どこに?

ある、かつての記憶のある都市の

君は?

私はそこに住んでいたに違いない

 

あるいはそこに住んでいるに違いない

 

すくなくともそこに、いつの時代にかは

 

私は

 

たたずむしかない

 

記憶を鮮明に残しながらも、無縁の都市

 

今はまだ

 

廃墟の、そこにただ佇んで

 

夢の中でさえも、私の姿が私に見留められないのは、なぜなのか

 

所詮、夢に過ぎないならば、見えて仕舞えばいいのに

 

自分の姿など

 

堕ちる

 

目の前の、斜めに崩れかかった高層ビルが、ゆっくりと

 

堕ちて行った

 

腐りもせずに風化した鉄筋とコンクリートとその他の構造物

 

遠い先の、未だに至らない記憶の中に、それ

 

かつて見あげるばかりの巨大建築だったはずのそれは

 

いま、眼差しには、かわいらしい

 

ミニチュアのようにしか見えはしないままに

 

だから、音もなく

 

聴こえるわけはない

 

その崩壊と壊滅の轟音など

 

遠いから

 

うんと、遠いから

 

私は瞬きもせずに見るが、可能だろうか?

 

想った

 

夢の中でさえも、瞬いてみることが?

 

その想い付きなど、いまだ鮮明に記憶されながらすでに

 

忘れられて仕舞っていた

 

何の痕跡さえ残さずに

 

曝すのだろうか?

 

ビルが完全に崩れ去った後に、あとに残った空間は

 

かつてそこにあった廃墟の痕跡さえも残さずに

 

ただ

 

もはや何もない喪失を刻んだ空間を

 

たとえば、青

だから、

ふいに視界に顕れた空の青さを

私は、理沙に口付けるしかなかった。

むさぼるように。

おさまらない笑い声を、何とか押し殺そうとしながらも、唇を掻き乱すようにかさねて、唇が感じるのは、もはや何の反応を示そうとはしない理沙の唇。呆然として、そして差し込まれた舌は、やがては結局理沙の唇を舐めた。

いつものように。

半開きのまま、ふるえもせずに放置された、理沙の、その。私の舌は歯にふれる。彼女の。

 

 

 

 


堕ちる天使 #2

 

 

 

 

 

感じられた。

かたい、その触感に、湿った質感があった。

ふれられたものよりも、ふれたもののほうがより大量の水分に潤んでいるに違いないくせに。届かない。

だいじょうぶ?

訴えかける私の眼差しは、理沙にはたぶん届かない。複雑に、執拗に絡み付けられる私の腕が、ときに、彼女の呼吸を困難にさえさせながら。

終らせてあげればよかったの?

眼差しは私の眼差しを捉えてはなさない。覚醒剤を

綺麗に、すぐに

打ってはいないときには理沙は目を閉じる。その

僕の手で

口付けのときには。いつも。けれども、

破壊してあげればよかったの?

打ったときには目を閉じない。彼女はそして、

ただちに、このときに

やわらかく瞳孔の開いた、理沙の眼差し。

最期の抱擁として、その中で

普通ではない家禽の声をあげながら。

完成させてあげればよかったの?

のた打ち回るような。彼女の

壊滅した君のその壊滅を

おびえた眼差しは、いまだに、だれかに救いを求めて止まない

その最後にまで

気配をだけ、ただそれだけを曝して。

手の施しようがないくらいに

救われたのに。もう

もはや 

腕の中に。私の。

終に

もう、

完璧に

私の腕の中に。

 

いつもの長い、長い、長い、長い、そして、長いキス。なんとかして、無理やり時間を埋めようとしたような。濫費されるにすぎない時間の中で、何とかふたりが息をするために。お互いの唇を塞いで。感じ取られる片方だけの体温と、嗅ぎ取られた片方だけの体臭、それらに塗れて。匂う。理沙の髪の毛の匂い。豊かに、黒く、そして肌は汗ばむしかない。接触した皮膚が与える温度が、皮膚にしずかでためらいがちな発汗を与えていく。肌を、離さない限りその事実には気付かれない発汗。

髪を撫ぜた。指先に、手のひらに、それは触れ、撫ぜた。理沙の頭を、感じ取られた頭部の丸さを、あまりにも小さく、壊れやすい、繊細で、頼りないものに感じて仕舞いながらも。

腕の中に。もはや固着して仕舞ったおびえた眼差しをとめて、それをやさしく崩壊させて仕舞うことさえ出来ない理沙のために、やがて、唇を離した後に、私はまぶたを閉じてやった。

彼女の眼差しが、何も見なくてすむように。私の形態をさえ、その視界から奪って仕舞いながら。

唇は、いいまだにそこに私の唇があるかのように開かれて、閉じられない。口を尖らすような、その形態に、そしてあいかわらずの光が差す。午後の。

私は、首に絡んだ理沙の腕を解きほぐそうとした。それでも力ない抵抗を試みて、もう一度私の首に絡まりつこうとするそれを、まるで拷問じみてベッドに押さえつけた。手のひらがつかんだ手首は、それをへし折って仕舞うのは容易でさえあるように想われた。胸に、私は顔をうずめ、甘えるように、そして、聞いた。

耳を当てて、あおむけた理沙の胸の曝した、重力に垂れ下がり、押しつぶされた、それでも残ったあざやかなふくらみの向こうに、感じ取れもする骨格の向こう、静かに、なぜか至近距離に響いて、聴こえるもの。

ただ、心臓の鼓動。聴く。

 

私は、それは午後、その浅い時間。もう、寝なければならないはずだった。夜7時の出勤までのいつかに。

たとえまどろみであっても、どれほどかの間は。

目を閉じたままの理沙は息遣うばかりで、すでに眠っていたのだろうか?すでに、おぼろげなまどろみとしてであっても。

私の冴えた眼差しは、彼女の心臓の音を聴き続けながら、向こうに、壁に、小さく水溜りが反射させた光の透明な屈曲の、色彩のない模様が、じっと見つめなければわからないか弱さで、とはいえ、あきらかにそこに存在しているのを見ていた。もはや揺るぎようもなく静止して。

リズムを刻む。

理沙の、体内の鼓動。

そして、いつも、聴くたびにかすかな乱れがあるような気さえする。

その、乱れに似たいたずらさを持った、正確とは言獲ないリズムが、むしろ彼女のその生存の固有性をだけ感じさせて、私は戸惑う。

どうして?

時間さえも、取り返しようもなく過ぎ去って、失われていくしかない容赦のない実感に、

戸惑ったりしたの?

感じられた微細で、執拗なおびえを忘れられない。あるいは、なんども、想い出した。

ことあるごとに。

私は

つまりは、覚えていた。

不意に、私は想う。

その、壁に描かれた水の、ちいさな停滞した反射の渦は、フローリングの水溜りのそれだったのだろうか?

すこし離れた傍らに活けられた花の、その、一杯にためられた新鮮な水の描いた反射光だったのだろうか?

ブーゲンビリア。

いつか、

紫を秘めた紅の花

夢を見たことが在った。

廃墟の中で、花を育てていたその

子供のときか、いつか。

少年を知っていた

何度か繰り返して、水が撥ねる。なんども繰り返して

その少年が

想い出されたそれは、最早私自身の創作に過ぎない。水が、

理沙であることは

たぶん。もう、その記憶に、あの夢見られたいくつかの

なにも、懐かしさはない

瞬間の、その時にはあった明確な鮮度など、一切、

彼は

存在しない。

理沙ではないから

それは残骸のようなものなのだろうか?醒めた瞬間にから、

似ても似つかない

急激に失われていくその鮮度。堕ちる。

まったく、なにも

水滴が堕ちていることは知っている。その

見渡す限りの

空間、ただ、純白の、たぶん

内側からにぶく、しずかに

発光さえしながらも。何も。

まるで、その鮮度そのものが立ち去ってでも行くかのように、あっという間に、そして

なにも在りはしない空間。ただ

無数に

刻まれた水の波紋の

反射光の群れが、あざやかに

彩る。空間を、ただ、それらだけが。

手を触れることさえできない、容赦のない、未だに覚えられ、あるいは存在し続けているがままに、消滅していく。

音はしているのに、その、水滴の、無数の

水滴が堕ちて、水に

おびただしくも溜まっているに違いない水に、波紋を

無際限なまでに拡げながら

いくつもの、それら。

そうなって仕舞うしかない、夢の。いくつもの夢の、一様な鮮度の、あきらかななまなましさの、変わり映えもしないいつもの喪失。

決して、見られ獲はしなかった水滴の

向こうにまで拡がっているはずの

かさなりあう音。音響。戯れる

光。反射。波紋。雨?

想った。雨が降っていたのだろうか?ただ、その

為すすべもなく。

名残をだけ残して

私はやがて目を閉じるのだった。

少しだけ、悲しい気がした。とはいえ

たぶん、少年は

理沙が私の頭を撫ぜて、そして、彼女は息を乱すこともない。

振り向きもしないだろう

悲しみは私を浸らせない。

何の言葉もないままに、ただ、心臓の音を、そのまま

私を?転生

なぜなら、悲しいとは決して

私に聴き取られて仕舞いながら、私に、その体内の

理沙の転生

想ってなどいなかったから。むしろ

静寂とは程遠い音響の生々しい群れを

なぜ?そんな、まったく

見つめる。ただ、美しいと

その連なり。あるいは混濁を。

意味もない事を?なんど

あるいは、美しいと、そう言えば意味深くなって仕舞い

聴き取られて仕舞いながら、理沙の、頭を撫ぜる手のひらの

生まれ変わっても、失われた記憶が

生産されるいくつもの、比喩や暗喩や、それら。

触感。私に

取り戻されない以上

それらを生産して仕舞うしかない、そんな言葉。

その時、感じられていたもの。汗ばんだ皮膚。

出逢いもしなかったに等しい

そうではなくて、ただ。綺麗?

お互いの肌。

私たちは

きれいだ、と。それへの

シャワーさえ浴びれば。そうすれば、と。

お互いに、なんども

何の抗いも、違和感も、感興も、感情さえもなくて。ただ

想う。全部、綺麗に、

永遠に

きれいだ、と。

洗い流して仕舞えるのに。

肌を

 

かさねあいながらも

 

ほら。

くりかえし

 

壁に反射光が、

ずっと

 

いま、しずかに、泳ぎもせずに

私たちは

 

停滞している。

永遠に

 

それをは、理沙には教えなかった。

 

花。

午前中に活けられた花が、そのまま、午後になっても捨て置かれたままに、フローリングの上にあった。白い、その、私が名前を知らない花、そして、確かいつだったかその名前は理沙が、教えてくれていた。

彼女は

すでに。

微笑み、そして、こんな花の名前も知らないの?

笑った。理沙は、笑って、ね。

好きじゃないの?

どうして、ん?

花。

好きじゃないの?こんなに、

好きじゃないの?

綺麗なのに。

花は… Hoa

いつも、何にも興味なさそうにして。どうせ、

Hoa の事が、好きじゃないの?

忘れるよね。教えてあげても。私が

フエは言った。やがて、ベトナム

名前、教えてあげても、たぶん、

あの、熱帯の国

忘れるでしょ。また。そして、

だれもが、幼児的なほどに、自分の国が

何度目かに教えてくれたその

いい国だと確信し、無根拠に

名前。私が忘れて仕舞った、それ、

野放図なまでに、ベトナム人とは

白い、細長い花弁。百合とは違う、その。

いい人間たちなのだと確信している

二輪のその花の周辺に散らされた霞草の

そんな国。そんな

空間を乱した気配に過ぎなかった霧だつ色彩が、

国の中部の町で。好きじゃないの?

花の周囲の低空を彩りさえせずにただ

Hoa なんで?

静かな沈黙をだけ描いて、空間に

なぜ、そんな事、言うの?

存在している掻き乱れるような緑の

悲しそうじゃだって

活けられた葉の、どこかで沈痛な色彩を

ね。ちっとも

何事もなく邪魔して仕舞う。雪崩れを起こしたように

悲しそうじゃないから

花と、茎と、葉

そんなことないよ

直線的に延びる葉とのたうって気まぐれにくねる細い葉

嘘でしょう

それらはただ

嘘じゃない

崩れ落ちそうな瞬間をだけ

本当に

空間に刻んで

嘘じゃない

静止するしかない。むしろその、すでに切り落とされて、殺されて仕舞っているはずの、それらの瑞々しいがまでの生存。

嘘よ、と、そんな意味のベトナム語だったか、英語だったか

それを口走ったフエは、とはいえ

花にとって、死とは何なのだろう?あるいは、植物にとって。切り落とされてさえ、瑞々しくその存在を、枯れ果て、朽ちて仕舞うまで、生き残らせ続けるというのなら。

つめよるわけでもなくて、のんきに許しを

私への、その許しをだけそっと与えたような、そんな、希薄な

いずれにしても、その、花々に固有の、私にとってはわずかに過ぎない数日の間に。

微笑をくれた

花。

やがてはその放置された時間の果てに朽ちていく花は、結局、いつ死んだのだろう?

ねぇ

いつ死んでいたのだろう?

いつ?あなたは

いつ?

本当の涙を流すの?

 

いまや、想いだされもしない、かつて大量にもつぶやかれ、叫ばれ、ささやかれ、口走られ、聴き取られて棄てられて仕舞ったそれら、停滞した時間をだけ埋めて濫費されたにすぎない言葉の群れは、どこへ消えて行ったのだろう?

 

いま。

放置されたままのフローリングの水溜りはいまだに渇きもしない。

午後の時間が深くなるほどに、そのきらめきを濃くしていくガラスの破片は、もはや、夕方に近い時間の中に、そして、やがては失われた窓の外の光源のために、うす暗く、沈んで仕舞う室内の中で、そのきらめきをなくて、輪郭をさえ、失って仕舞うに違いない。

眼の前に、痛いほど、色彩のない鮮やかなきらめきをだけ曝していたそれらは。

身を起こそうとした理沙が不意によろめいて、私の足の上に背中から倒れこめば、ベッドは軋む。

マットレス、そのスプリングも。そして理沙は一瞬息を詰めて、私は声を立てて笑った。小さく。

聴こえる。耳元にささやかれたかのように。

力尽きたかに私の上に身を横たえて、私の足はその理沙の体重を感じるしかない。皮膚の触覚の上に、もはや断片的にしか感じ取れない、彼女の体の線の形態。

私の皮膚に張り付いた、かすかに汗ばんだ皮膚の触感。

ね?

そう言った。ね。

ほら。

右足の先に、反対に倒れこんだ理沙の、覆いかぶさった髪の毛の触感があった。身をのけぞらせるようにして、向こう、壁のほうを見やっていた理沙の眼差しが、結局は何を捉えているのか、私には終にわからない。

「どうしたの?」

聴いてる?と、ねぇ。そう言いかけて仕舞いそうになるほどに、ね。引き伸ばされた沈黙の後で、肌。

褐色の、曝された素肌が、日の光を間接的に浴びた。

肌。きらめきもせずに、その太陽の光に対しての容赦もない貪欲さだけを感じさせる、あざやかな色彩。

その、褐色。色彩の上に這うタトゥー。私に見つめられるもの。

なんでなんだろ?」

理沙は言った。

なにが?

と、私は、そうは言わなかった。そう、心の中に言われたことは、理沙はすでに気付いていた気がした。

ならば、ささやかれる必然性さえもない。

皮膚は息遣う。

 

 

 

 


堕ちる天使 #3

 

 

 

 

 

呼吸。それにあわせて、ただ、その腹部はふくらんで、しぼみ、いよいよその色彩は、間接的にしか当らない穏かな日陰の色彩に濃く、はっきりと、鮮明に、浮かび上がらせられるほかない。

 

ややあって、彼女を振り落として、立ち上がろうとした私を理沙はもはや引き止めない。体中を虚脱して、立ち上がるすべをさえ知らないように。横たえられて息遣うだけの理沙の身体に、私は眼差しをくれた。

何度も、何度も、くりかえし私に、眼差しによって、見つめられ、そして、その形態をなんども認識されながらも、目を閉じて仕舞えば必ずしも正確には、想い描かれ獲はしないその。

投げ出された腕は、ベッドの上に、反対側にくの字に曲がって静止していた。

私は、グラスの破片を片付けて仕舞おうとしたのだった。理沙のために。彼女の柔らかいはずの足の裏の皮膚を、食い込まれたガラスの先端によって、傷つけられないですむように。

ベッドの脇に立ちずさんで、そらされた眼差しは、大きく一面に開かれた窓の向こうの、渋谷の、その果ての、新宿の、それら、連続していく風景を見る。

はっきりと眼差しは捉えながらも、鮮明に見えているはずの形態と色彩は、結局はそれが明確に何であるのか見い出せずに、樹木群だとか、ビル群だとか、都市だとか、そんな、もはやなにも言っていないに等しい言葉に堕して仕舞うよりほかはない。

 

穢い。

 

理沙は言った。身じろぎさえしないままに。

聴く。私は、彼女の口から吐れる言葉。なんか、

ね。

聴いた。

「穢いんだよ」

なにが?

声にはならなかったはずの、その、私の言葉は彼女に聴き取れ獲ただろうか?

単純に、

「どうしようもなく」ね?

空気のふるえのような、気配のようなものとしてくらいには。

どうしようもなく穢い」んー

美しい。身を横たえて、完全に

ね。「毎日、なんか」うまく、

理沙。何の力さえ入れることさえできなくて

うまく、さ。「時間が、」なんか、うまく「埋まらないから」言えないけど、

身を投げ出して、理沙は。

埋まるけど。」うまく、

美しい。あるいは、綺麗、と?

「結局は。埋まるけど、でも、」

ただただ綺麗だと、そう言えばいいのだろうか?

うまく、は。言獲ない、「けど、ね?」

私は、半ば息をひそめて

「毎日、時間を」

盗み見しようとしたかのように彼女を、

「埋めるために店、」ね?「行くじゃない?」

理沙。その皮膚に息遣われる、あきらかな

じゃん?「で。」てか、

理沙の生存の痕跡。いまも、目覚め続けて、

「シャワー、浴びたい」でも、ね?

冴えきっている、その、存在。目の前に。

「穢いんだよね。」んっ、「結局は」と。

見つめた。私は。そして、彼女の

じゃない?(違う?)「でも、実際遣ってるときは、」

理沙の吐き捨てる、ささやく声を

「そんな風じゃない」ん、(と。)

耳を澄まして聴くが、やがては

だ、よ。「そんな風じゃなくて

そのベッドの脇にひざまづいて。

そう「なんか、情が?」ん?笑っちゃうよ

聴き耳を立てる。耳を

ね。なんか、「入ってみたり、」ねぇ、「さ、」

澄まし。

「微妙に。」ほんとに、

空間に、やわらかく、冴えた

微妙に「でも、」ってか、

痕跡を残して、すぐさま

「はっきりとね、」かな?「やっぱ」

消えていくその、

「感じてるから。」ね?

音声。理沙の

「こころ?」う、「って、」ん「言うの?」

アルト。なんども

なんか、「そういうの。」ん、

聴き取られてきたその音色。無数の

「そういう、」さ。わかるでしょ。

記憶さえもされずに

「けど」さ。

棄てられて仕舞ったそれら

ほら。「なんか、咥えてあげたり」

音色の実在。

「入れさせてあげたり」ご希望どおりに、さ。

わからないのは、ただ

望みにそって、「こすったげたり」さ。

彼女の感情だった。なにを

「チュって」ね?ほら

感じているのか、なにを

「入れてあげたり、さ。」

感情は描こうとしているのか、そして

わかる?「そういうときって」んー

私のそれも同じように、形には

「所詮、さ。」じゃ、ない?

なりもしないままに

やっぱね「ふれあい?」

揺らぎ

「体と体がふれ合うと、」てか笑う「やっぱ」

集中して

んーでも「心も、触れ合うのね」

拡散して

でもでもでも「何のかんの言って」てかでも

聴く。理沙の

ね、妬ける?「笑う。」ね?むしろ

声を。

なんか、ね「笑っちゃうけど、想う。」妬ける?

なんども繰り返された気がした。

実際、「いいヤツじゃんって。」かな?

同じ会話。

「所詮、」って、

なんども、瑞々しい

クラって「本当に、」ふいに

理沙のその声は。

「クラって、」入るの。

すでに、なんども、明日

「心に入るんだよね」すこんっ、

花はどうなって仕舞うだろう?

てか、わっ「心?」

背後のそこに

「みたいな?」心が、

活けられたまま、ただ

入るって、ん言うか。「けどね」でも。

そこに棄て置かれている花は。

すこん、って。「帰るじゃん。」最後。

枯れるのか。あるいは

ね?あとで。の、あとで。「洗ってやるじゃん。」

その色彩。咲き誇られた

「体。」一緒に、さ。

純白を。その

また、「客ので、」

花びらの色彩。それ。

またねって「確かにカスもいるし、カスは」ね?

純白を、その息吹きを、くすませて、

「結局カスなんだけど」

刻み始めるのだろうか?はっきりと

まじで、なんか「なるよ。普通」

すでに刻まれていたに違いない色彩の破滅の

ふ、「ちょっと、さ。」ふうーって。

その明らかな

「いじらしいかなって。」て「でもね」

顕在。

自然に。「擬似恋愛とか」て?「まで」

破滅していく花。破滅の

「そこまで行かないけどさ」どう、しよう、も、なく、

色彩。それら。

さ。「なっちゃうよ」ね「で、」

曝されて仕舞うのだろうか?

「想うの」い。ぃ、いつも。

その

「結局は、ね?」

純白の、あざやかな

でも、さ。「後で、自分の体洗ってるとき」笑う。

鮮度、そして、鮮明さそれ自体の上に

んだけどきたっ、きっ「穢って。」

それ自体にかぶさりさえして

笑っちゃうよ。き、「やばっ」

滅びていく

「穢っ」って、き。

色彩。

ね?「て、なんかね。そう

いつ?

「そう想ったりして」

明日。その

「繰り返す。何回も」

目覚められた朝には?ならば

「一日に」でしょ?

いますぐ棄てて仕舞うべきだったのだろうか?

「もう、あんなのに」でも、「ふれたくないって」

その、花々は

いっつも「匂いあるじゃん」

今、まだ

「嗅ぎたくもないって」っつ、いっつもだよ。いっつ

理沙を、

洗う。「味とか」口の中。も。

悲しませてはいない

も、ね。「もう。も、嫌だって」吐きそう。

まさにその

まじで「でも、」笑うよ。「次、くるじゃん」

今のうちに。

「客。」すぐに、さ。

彼女には隠し通して。

「やっぱ、ふれ合うの。」

天使が

すぐに。「心?」

そらから堕ちてきた天使が、ふいに

「的な?」また。ふ、

持って行って仕舞った、と。

「どう?なんか」

そんな、笑うしかない

どう?「ね?」

嘘でも?

「穢くない?」じゃない?でしょ?「決定的にね?と、そう言った理沙は表情さえ変えない。

私はひざまづいたまま、その、だらしなく、開かれた足を広げて、身をくの字にまげて、理沙をびっくりさせないようにそっと、ゆっくりと、そして、ひそかに、彼女のそれに口付けるのだった。

潤ってもいないそこに。

あるいは、つまりは、許しの口付け。ね。と。

ね。

大丈夫。君は、ね。

ね?

許されたから、と。

ね?

誰に?何の権限があって?誰かを、許すべき権限も、許し獲る権威さえないままに、許すしかなく、許されるしかなく、許しあうしかなく、ならば、明らかに何の意味さえない行為に過ぎないそれを、それらを、そして、私は彼女を許した。

理沙を。

イエス・キリストかなにかであるわけでもない私の

唇に触感がある。味覚。

それはあるいは、許しの

体温と。

口付けなどではありえずに、たんなる

嗅ぎ取られる、生命体の、生き生きとした、生の証明。

いつもの前戯。

匂う。嗅ぎ取られるのだろうか?

ただの

私も。私が決しては感じ取りはしない、私のそれら、痕跡の群れを。何の許可もなく、誰の承認もなく、ただ、撒き散らさざるを獲ないその。

単なる、その

痕跡。

発情したにすぎない男たちがかわるがわる

痕跡どころか、これからも、いのちの崩壊のとき、それをさえ通り抜けて、こまかな分子に解体されて仕舞うまでの、存在の長さを、死との接触を当然の不可能性のうちにさえ通り抜けて、ここに、存在していなければならない痕跡。私は

彼女に与えたと同じ

ここにいいた。理沙と同じ空間の中に。

単なる前戯

為すすべもない。

なにも、結局は許されもしないままに

ただ許しあうしかなかった

私たちは

 

ね。

ほら。と。

不意の甲高い、はしゃぎ声を立てて理沙は上半身を起こすのだが、「ね。」

自分のそれを、指先に開いて見せた。

「ほら」なにが?

「ね?」

ん?「ほら。

笑う。理沙は、声を立てて、微笑んだ私の顔をのぞきこみ、「じゃない?」

ね。と、理沙は言う。

 

私も、笑う?

ね。

笑う。

「笑えない?」なんか、

答えて、ん?と、つぶやかれたその、それ。

私の鼻が立てた声は、何だったのか。

何かを肯定したのか。疑問に伏したのか。

笑い、瞬く。

声を立てて。

聴いた。

私たちの声が、空間に響きさえもせずに、微妙にふれ合って、ただ消え去っていくのを。

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

いつものように、そして時間は消費されていく。

大量にあったとしても、持て余されて濫費されるに過ぎないに違いないそれらは結局のところ、ただそこにあるだけで、終にはきらめきさえもし獲ずに消え去るにまかされるほかないのだが、色彩を濃くしていく午後の光が、いつか私たちを追い詰めていく。

いずれにしても夜が来れば、理沙は彼女の部屋から出て行って、そして、いつもの彼女の《穢い》仕事にふけるしかなく、時間を持て余すいまの私たちは、にもかかわらず時間を濫費するしかない。

追い詰められていく時間の経過の中に、そして、やがてはそんな夜が明けることなど知っているし、とはいえ私たちがどうしようもない、泣き伏したくなるほどのいたたまれなさばかりを感じて仕舞ったのは、なぜなのか。

 

うつむいて、自分のそれを覗き込むようにして、不意に、声を立てて笑い、理沙は、何か企んだ笑みをにじませて、私に眼差しをくれて、何も言わないままに、

なに?

そう言った私には、言葉も返さない。

ね。「笑う。」

なんか、さ。

笑った。

ん?「笑っちゃう」言った。

理沙は。

想う。私は。

明確な意味を結んだ言葉はいつでもいかがわしく、そして、意味さえ結ぼうとしない野放図に濫費された言葉らしきもの、それは

言葉など

単なる息遣われたノイズに過ぎない。

たぶん、そのどちらをも、私は愛することなど出来ないのだった。

明確に意味を持った言葉など

理沙の指先で、気まぐれにいじられる彼女のそれの、その、形態。美しいとは言えず、何度見ても、見飽きこそしても、

まったく無意味だった

見馴れることのないそれ。

私がそれに対する異性だったからなのだろうか。それとも、

ふたつのものが愛し合うさなかには

そんなものなのだろうか?だれにとっても。同じようないびつさを晒しているに違いない唇は、すでに見馴れ尽くされて、ときにピンク色や、赤で、あるいはもっと濃い黒ずみさえ持った色彩によって、意図的に彩られなければならなかったというのに。

それは無様に黒ずんみ、赤い剝き出しの色彩をだけ曝すしかなくて、ね。

と、そう、何かの同意を求めながら理沙は、そして彼女自身、それが何の同意を求めたそれなのか、知りもしないことなど明白であるにもかかわらず、声。

なにか言いかけて、発話されて、あ、と、わ、と、ん、の、その中間にたゆたうしかなかった音声を、鼻に、理沙は発して仕舞った後に、見あげられた上目使いの眼差しの、私のまぶたに唇をくれた。

ほんの数秒だけ。

短く。

伸ばされた指先が私のそれにふれて、いじり、戯れ、理沙は見る。ゆっくりと、それが侵入していくのを。

それが、どんなに過剰な比喩を用いても、一つになるということをは決して意味し獲ないことは、誰でもすでに、気付いて知っている。

たんなる肉の交錯にすぎないそれ。

ただふれ合って、そして、にもかかわらず抱きしめあう腕のようには絡まりあいもしない。あるいは唇と唇のようには。

そうなるようになっているから、そうなるに過ぎないもの。口が言葉を吐くように。口が物を入れて、噛み砕き、舌が味覚を感じ、喉は飲み込んで、胃は消化して、肛門は排泄する。それら、そうなるからそうなるに過ぎないもの。口は息を吸い込めるようになっている。

吐き出せるようにも。

口は異物を嘔吐するようになっている。

異物を飲み込むようにも。

煙を吸い込むようにも、白い薬物を舐めてみるようにも。

咳き込み、そして、あるいは唾を吐き捨てるようになっている。

咥えこむように。やがて、それはそこに入っていく。包み込まれるように。白い肌が不意に一方的につきたてた、黒褐色の毛羽立ったそれが、より濃い黒ずんだ褐色の、つるつるしたほうに。

いつもの。

そして、それが愛の行為だというのなら、なんなのだろう?むなしいとさえ言い獲ない。

私と理沙の、いたずらじみて微笑みあうしかない眼差しの先の、いつも、それ。結ばれること。ひとつになること。理沙が終に声を立てて笑って仕舞ったので、私も、声をさえ立てて。

笑う。理沙の髪の毛を撫ぜた。かすかに目を閉じて、まぶたを閉じたその無防備を装った表情を、理沙は、何気もなく曝した。

眼差しのすみに垣間見られる光の色彩。

斜めに。

青。

細かく言えばきりもないが、ようするに、青。

もうすぐその空の色彩は、ひょっとしたら紅蓮の、破滅的な色彩に染まって、一気にそのあざやかさを失っていくに違いない。

理沙の、不意に伸ばされた指先が、私の腹部を撫ぜた。

 

 

 

 

 

堕ちる天使

 

 

見て。

そう、不意に、何かに気付いて首を上げた理沙が言った。結局のところ、ふたたび、なしくずしに始まったそれがやがては途中で終って仕舞ったそのあとの、二時間近い、長い、ながい時間の浪費の、その尽きかけた時間に。

私の体の上で。私は見た。横に無理してねじられた理沙の、その横顔。

綺麗だよ」

その唇が言った。つぶやくのではなくて、はっきりと。そこにはいない誰かにまで、聴こえることが望まれていたかのように。

はっきりと、あきらかに、そして、私にはわかっていた。理沙が何の説明もくださないうちに、彼女がその眼差し一杯に、捕らえているものの、その色彩。

夕焼ける、もはや紅蓮の空。夕暮れの時間の最期に、燃え上がるように空の一部が曝した、その。

理沙の、窓のほうを向いた横顔が、正面からその窓越しの光に染まっていた。

褐色の肌は赤らんでオレンジ色に染まり、かすかに首を動かすたびに推移する翳との複雑な、ときほぐし難いグラデーションを、私に捉えられたその眼差しの中に曝して仕舞い、振り返って私を見て、何か言いそうになった理沙の頭を羽交い絞めにして、奪うように私は口付けた。

彼女が何か言い出す、その言葉が生れ堕ちる前に破壊して仕舞う、ただ、それだけのために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.08.20.

Seno-Lê Ma

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

 

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:Ⅰ

 

 

 

…underworldisrainy

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《雨の中の風景》連作:Ⅱ

 

 

 

堕ちる天使

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《雨の中の風景》連作:Ⅲ

 

 

 

ラルゴのスケルツォ

http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

 silence for a flower

http://p.booklog.jp/book/124970/read

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


堕ちる天使 2


http://p.booklog.jp/book/124536


著者 : Seno Le Ma
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