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scherzo; largo #1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラルゴのスケルツォ

Scherzo; Largo

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:

 

 

 

 

 

Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、不意に。

あくまでも不意に、想い出したように口付けと抱擁を、耐え難いほどに、追いつめられて、いつか必死にせがみ始めた理沙のその、言葉もないままの真意など知りもしないままに、

光。

眼差しが捉えた日差しのその、やがて彼女が飛び降りて仕舞う午後の深い時間には、光、

見上げられた

それ、

眼差しが

窓越しの午後の、温度を持ったそれが

捉えたもの

斜めに当ったのが、ただまばゆいばかりにさえ想われて、例えば母、あの、美紗子という名の女。あるいは、私が十二歳だったときには三十七歳だったはずの、いかがわしいほどに女づいて(私にはそう見えた。)豊満な彼女が、(彼女が他人の)結局は(眼差しの中で)なにか(どう想われていたかなど、)報われたことなど(私は)あったのだろうか?(知らない。)と。美紗子は私にふれた。色づいた肉体に、私を求めた眼差しをふわせさえして。私は、ただの一度であっても、と、惑った。私は、彼女に求められつづけていた私の、ほら。

その時に、これ。私の十二歳の眼差しが、その向こうに捉えた美紗子は、これがあなたが欲しがったもの。

これ?

微笑み、美紗子。ときには憎悪に顔をゆがめて。

彼女の指先に

あるいはもはや正確には、本人にさえ記憶されてはいないはずのね?

そっと

言葉の群れをを吐き出しさえして、でしょう?

ふれられたもの

あるいはうつむき、

初めて、吐き出された

あるいは見あげ、ほら。

その

あるいは息遣い、ここに、

欲しかったの?

あるのよ、と、それら、その、散乱。無数の、もはや。ただ散乱するしかない記憶らしきものの容赦もない散乱。散らかって、散らばり、整理さえつかない、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃな、収拾の付かない、

あなたが

単なる断片の群れ。何らの明確な集合でさえあり獲ない破綻した、

ね?

にもかかわらず集まっていく、無造作な、それら、彼女の、無数の、

欲しかったものは

姿の。その、

それ?

それら、みもふたもない散乱。はたして彼女は報われたことなどあったのだろうか?想い惑うというほどでさえなく、理沙の髪の毛の、顔に覆いかぶさったのにまかせて私は、吸い込む。あざやかな、腐った無機物の臭気に近い匂い。為すすべもなく私はその匂いたった空気を、フエ。…Hoa  花。…Huệ 百合の。Trần Thị Huệチャン・ティ・フエ、彼女が私の妻になったその日のベトナムでの結婚式。中部の亜熱帯の町、ダナン。ベトナム人の彼女の親族だけを集めた、ベトナム風に派手で、雑で、雑多で、雑然として、ただざわつくばかりの祝いの声が、私の周囲に群れを成して鳴り響き、その結婚式に、7月。雨が降った日の次の日。その日に降りそそいだ、長い夏の短い一日の、昼間の日差し。人々の、籠って混濁する音声の塊の中で、昼間、式の最中に、やがて二人だけになった控え室で、不意に爪先立ったフエは

何も言わないままに

微笑んだ。絶望し、

眼差しに、

諦めたように。しずかに、むしろ私に、

想いあぐねた表情をだけ、

彼女を愛することのその許可を今、この瞬間に

ただ

与えて仕舞ったのだと言いたげに。

すべてを失って仕舞ったかのように曝して

逃げ場所のない喜び。フエの眼差しが曝した複雑な微笑みは、私が手にした幸福に対する祝福にほかならなかった。

おめでとうございます

あなたは、終に、永遠の幸福を手にしたのよ、と。

おめでとう

ね?

おめじぇとごじゃいまっ

フエ自身に対する、人々の無数の月並みな祝福の只中で。そのとき、すでに失われていたのは言葉。むしろ私の。そして、私は言葉を失った。

フエのその、言葉をさえ失った、戸惑いを曝すしかない眼差しを眼の前にして。

あるいは、眼の前に曝されたその微笑みを破壊して、むしろ彼女そのものをさえ壊して仕舞いたいと、その、不意に襲ったしずかで明晰な衝動に、私はおびえていた。

血まみれで、涙さえ流せずに、表情さえ失ったままに、

ねぇ。

Anh à…

生まれてきたことそれ自体を後悔しているに違いない

いとしい人(笑う。)

Vui không ?

フエの表情が、眼の前の、

幸せですか?

Anh yêu à…

その微笑にかぶるしかなかった。

幸せだよ。

私はつぶやく。微笑む。やがて何度目かに、なんども振り向かれた彼女のその眼差しにあった私は微笑んでいて、無数に撮影されたふたりの画像のいずれもの中でさえも、そして彼女が確認した私の、幸福にこぼれた微笑み。ただ、やさしく、端整で、眼にふれるものすべてをいつくしむような美しい異国の男の微笑。なんども振り返って、その都度に、私に背を向けていた視界の、眼差しに私が存在しなかった短いあいだの、救いがたい長い悲しみを紛らわしながら、私に慰めを与えようとしたように、不意に笑まれたフエの眼差しの中に。ね。

でしょ?額に彼女のキスをもらったときに、愛してる?

誰を?

わたしを、と。

Là ai ?

彼女は言った。言葉もない無言のうちに、あなたは、わたしを愛しています、と、その、フエの気配はそれが、彼女にもはや躊躇さえなく確信されてあることをだけ曝す。うすく浮かべられた、そして、唐突にはにかんで崩れていった微笑みは、いとおしく、ただ愛する以外にすべがなく、私に見つめられていた。手も施しようもない事実として、私たちは幸せだったに違いなく、指先が這い始める瞬間のその触感をは忘れはしない。もはや覚えてなどいないはずなのに、執拗に。

どうしても私は忘れることだけはできなかったのだった。それ、母の。美紗子の、その。彼女の心をふるわせる私への愛とそれに支配された肉体の触感。私はその肌触りをを覚えているとは言獲ない。正しくは、何度も想起された記憶の中で、作り変えられて、記憶されなおして、ならば、記憶とはいったいなんなのか。想起するということと、記憶が存在するということそのものとを、留保もなき差異が引き裂くしかないのだという事実の留保なき存在の前に、ならば、結局のところそれら想起に一体、なんの意味があったというのだろう?そう訝る隙さえ与えはしない記憶の、想起されざるを獲ずに乱れ散るしかない、想起されたそれらのさまざまな散乱のなかで。這う。美紗子の指先が、私の腹部から這って上がってまだ子供の胸のやわらかい、やせた、虚弱で平坦な、にも拘らずかろうじて生き物らしい曲線を維持してはいたそれに。(温度さえ、)ためらいがちいに。(覚えている気がした。)

不意に、撫ぜ上がっていく指先は喉もとのくびれの唐突な複雑さにさらわれそうになって、戸惑い、すぐに想いなおされた指先は私の顎を、迷いながらもゆっくりと、上昇していくそのときには、くすぐったいって、と、不意に言って仕舞った私の、「やめて。」

立てられた笑い声を、私は聴いた。

私の耳に。美紗子とともに。彼女の微笑に「くすぐったいって。」無視されるに過ぎない言葉の(音声の。)「ん。」響きは(単なる、)空間の中、(音声の。)あの、白いクロスが白く埋め尽くした白いだけの、私の部屋だった部屋の空間の拡がり。薄暗い、夜の。

もはや、クロスの白さをも、光は曝しはしない。空間に響きながら、耳にふれたのは声。ん?と、鼻先でだけささやくような息を美紗子も立てたのだった。

至近距離に、私が不意に瞬いたその瞬間に。不意打ちのように。

例えば、声を立てて笑って仕舞った私のその些細な仕草が、彼女を傷つけたことなどあったのだろうか?一度でも。

一度たりとも

微笑まれた、目の前のフエに口付けて遣れば、フエは得意げに、額を突き出してみせて、あの結婚式の日に、

疑われはしない。将来の

もっとよ、というその無言の仕草を、ここにも。眼差しを、ここにも。気配をね?

破綻の予感?

くれるが、その結婚式には、日本から来たものは誰もいなかった。まだ女のそれのようにやわらかかった唇に

そんなものは

到達した指先はやっと、不意の口付け。その自分の指先にむしろ口付けしようとしたかのように、美紗子の、

時にあわてて新郎が、掻き消した以外には

唐突に、あのとき美紗子の唇は私の唇に覆いかぶさって、仰向けの皮膚の全面に感じられていたのは美沙子の皮膚の、肥満しかかった

彼の頭の名から。

豊満な触感でしかない。かすかに、鮮明に汗ばんで、発熱したそれ。息遣い、丸みを帯びた美沙子の指先は口付け合う唇と唇の間でもみくちゃにされながら、

好き?

なぶられるように。

舌はふれた。挟み込まれた一本の指先に。あるいは、なんども、私の唇、美紗子の、舌、唇と、それら、そして

愛してる?

肉付きのいい美沙子の指に。彼女の皮膚の味がした。もはや憎しみをさえ感じられなかったのは何故なのか。いずれにしても、

どこが、

美紗子は私を傷つけたのだろうか?あるいは、他に女を作ったわけでもないくせに、殆ど家に寄り付かなくなかったあの

好き?

無能そのものに想えた父親、清武という名の彼とともに、傷つけることなど出来たのだろうか?(彼を、)私を。(犯していたのは)ときには涙をさえ流させたのは(アルコール。)もちろんだとしても、(垂れ流されるほどに)大声で、(浴びるほどの)泣き叫びさえもしながらも、(大量の)傷付いていたのだろうか?私は、そして、

無能な男たち

清武が美紗子を顧みなくなったのが先だったのか、それとも美紗子が私にふれたのが

望んだわけでさえなくて

先だったのか。知ってはいたはずだった。存命だった祖母、最終的には養老院で娘方の孫に看取られながら、もはや

壊すことしか知らない

まともな記憶さえもなく朽ちるように死んでいったらしいあの、(月並みな、)それは5年前の(老衰と言う)死。あるいは、

無能な

その(死因。)娘、(だれでもがそう、)清武の妹さえも?(無造作に判断するに違いない、その)花。理沙が活けて見せたそれは、花。

知っていることと気付いたこととは差異するとばかりに私たちは放置されて、美紗子の。花。はな。匂いたち、美紗子の抱擁。匂って。夜と、朝の。花々は。繰り返される、毎日の。生き生きとした、とはいえ断ち切られている以上はもはや花は、

それらの

明らかに、そしてもはや私の部屋のベッドでしか眠りにつけなくなった美沙子の、匂う。

匂い。咲き誇る

花は。死に絶えているはずの、いまだに、花。その固有の生存を生きつづけているその、断ち切られた花々の

活けられた

生の倒錯。切断面から水を吸い込めるだけ吸い込みながら。匂った。美沙子の、髪の毛の、そして

花の

その匂いにだけは、人体に於いてはいかなる固有性も、特異性も、差異性もなく、髪の毛だけは必ず完全に同じ匂いをたてる。家禽たちの獣毛の匂いの明らかな多様性とは違って。理沙に活けられた花を、理沙は私に微笑みかけて仕舞いながら、振り向いて見せようとしたときに、服くらい着ればよかったのに。理沙は。発汗をかすかにひそませた素肌の褐色。その、私の、不意の想いには気付かずに、理沙が崩れるように声を立てて笑った。

見て。

いっぱいに、その、褐色の肌にいっぱいに、

綺麗?

雪の日の冷気のせいで、何も身につけていないが故に

どう?

鳥肌を立てて仕舞うのならば。かすかな震えさえ、ときに

感じる?

曝して仕舞って。見たのは、雪の色彩だった。そうとでも、色彩、

息吹を

そうとでも。と、でも、言うほかない、理沙と花の向こうに、大きく開かれた窓の

花々の色彩の

ガラスの向こうには、昼日中にもかかわらず降り止まない雪の大粒の、

この

寒い。凍えそうなほどに、外は。だから、と、その気もなく私は、こっちに来て。そして、抱きしめて。そう想い、つぶやきはしないままに、来て。眼差しのうちに、

ほら

抱きしめて、理沙が、あげる。微笑む。君を、

ね?

抱きしめてあげる。唐突な想い付きのせいで、服さえ着ないままに花を活けはじめた理沙は、冬の気温の中に、自分の皮膚の全面に鳥肌立てて明確な意図さえもはやなく、彼女の褐色の肌と花の白の色彩を曝してみせた気まぐれな理沙を、

聴こえたのは

私の眼差しのうちに見出された君を、と、好きにすればいいと、あげる。だから、抱きしめて、

息遣い

あなたの好きにすればいいと、あげる。そう想ったわけでもなく、私は美紗子にすべてを

君の

くれてやるのだった。あなたに、と。すべてを、あなたに。まばたく。あげよう。光に。何の抗いもないままに、朝の。すべてを?

朝の光に。いつも、一人っ子だった私を腕に抱きかかえて眠る癖がいつのまにか美紗子に付いたのは、結局は、ほとんど日常の容赦もない慣性のなせる業に過ぎなかったのかも知れない。私が自分の部屋の必要性を主張したときに見せた、私の眼差しの中に捉えられて、見つめられた美沙子があきらかに、見出していた留保ない何かの崩壊と破綻のまったき息吹きの存在に、そして鮮明ないたたまれなさ。

眼の前に曝された、おびえ、のような表情が私から言葉を奪った。殲滅。

された、言葉の破綻した残骸。

私は目をそらして、うつむき、むしろ逆に恥辱をさえ感じさせられたのは十一歳の頃だった。与えられた、もと父の妹、雛子のものだったはずの(三回も)そこの壁際に、(結婚した、あの)据え置かれた軋む(小柄な)ベッド。(かわいくもない)どうしても(女。)修理できなかったあのノイズ。軋む。夜に、初めての一人寝の今晩だけはと言って、寄り添って添い寝し始めた美紗子は、何かにすでに気付いていたような、想わせぶりなやさしいいたわりの眼差しをくれて、

知っている

背中から抱きしめられた私のそれに手を触れて、

私は

その仕方を教えてくれた。自分を愛する

すべて

その、すべ。ほら。戸惑いよりも先に、羞恥心と、

すでに

愛していいのよ。美紗子への明確な裏切りの感情にさえ

知って仕舞ったから

苛まれていながら、恥ずかしがらないで。なぜ、

怖くない

もっと。そんな感情の必要があったのか、自分を。いずれにしても初めてのそれで愛していいのよ。やがて美紗子が指を、あっけない初めての射精に穢して仕舞ったときには、鼻でたったかすかな、満足げな、やさしい気遣いにあふれた思いやりにただ満ちた、消えて行きそうなふるえ。笑い声の、その音声と気配を、頭の後ろに私は聴いた。空気の。感じた。ふるえた。嗅いだ。なにを?

匂う。見苦しいほどに豊満な美沙子の肉体が、とても大きなものに感じられた。とてつもなく大きくて、許せないほどに肥大化し、そして強靭で、執拗で、容認し難いがまでに健康で、老いさらばえたとしても、時間さえをも裏切って、決して衰えなど見せはしないだろうところの、そんな。肉体の息遣い。それはもはや、そのときには明確な実感だったに他ならないものの、美紗子は一度も、何ものによってさえも、傷付きはしなかったばかりか私は彼女のために、初めての射精の後の疲労の中にも、私自身をただ恥じるしかなくて、美紗子に振りむいてしがみつければ私を満たしたのはその体のあざやかな触感、埋め尽くす。鮮明に私の皮膚の触覚のすべてを。確認する。

私は、それ、体臭。確認された、そこに存在する彼女の存在。戯れに、無意味なんーという長い引き伸ばされた音声を立てたのが、それは彼女への裏切りへの悔恨に

私を

いたたまれなくなった、ぶよぶよした醜い(私はそう想った。)昏い感情の(否定し難く。)塊りに終に持ち堪えられなくなって仕舞ったからだと、

恥じ入らせるばかりだった

美紗子は果たして察することなどできたのだろうか?いずれにしても。どう?

その

聴く。

音声

どう?、と、理沙が言ったので、声。私は彼女を見つめた。その、いとしくて仕方がないやわらかに翳った崩れ落ちるピアノの音階のようなアルト。ささやかれて、聴き取られた、あるいは。

そして。

いずれにしても。

その。「なにが?」と、意図しないままに若干だけ、鼻にかかって仕舞った甘えた私の声を、私が完璧に吐きおわって仕舞う前に、花。

理沙は言った。

「私の綺麗?と、「花」

やや低めの、はな。アルトの声が耳の中に響いて、

はな

うなづいた私を、理沙は見ていたに違いない。

いつのまにか微笑まれていた、見つめたものにすでに許しを与えていた眼差しの向こうで。

「きれい。」

言う。わずかな、距離。

「きれー?」

、れー

手を伸ばしても、とどきはしないが、言葉。わずかな。

れ。れー

「きれー」

れい。き

言った。

れー

ね?「好き?」それらの言葉。

なにが、と、それは私の想っただけの、なにが?「花、」言わなかった。私は。なにも。「好き?」聴いた。その、理沙の声を。いとしの。美紗子は、愛する。満足したように、射精。あのとき、美紗子は起き上がって、愛した。ティッシュペーパーで指先を拭き取り、いとしの理沙。丁寧に処理して見せて、「だいじょうぶ。」言った。理沙のタトゥー。私は何が大丈夫なのかもわからないままに、いずれにしても母が私に許しを与えたことだけは事実だった。否定しようもなく、そして、だいじょうぶ?そう言った。ふたたび。初めて、フエを抱いたとき、フエはその気もなく、やさしい、

媚びるような、諭すような、あくまでも意図された拒絶を曝してみせながら、私の体の匂いを

愛していますか?

嗅いだ。そうして、

私を

確認しなければ存在など確認しおおせはしないのだと、そう訴えていさえいるかのような彼女の、閉じられたまぶたが、その下に、不安げにうごめかされている眼球の震えをそのままなぞって描き、嗅ぐ。頭を撫ぜてやれば、首筋に押し付けられたままのフエの鼻は、なんども。嗅いだ。彼女の唇の触感がある。首筋には。部屋が欲しいと言った時に美紗子が認知した、美紗子。彼女にとっては明確なただひとつの理由だったものは、実際には私には一切意識などされないままだったにもかかわらず、私にとっては、例えばそれは、小学校の友人が自分の部屋くらいはちゃんと持っているという事実が、あの空き部屋を私にくれとせがませた、それだけがその理由のすべてに他ならなかったにしても、美紗子は教えてくれたのだった。私が自分の性器を自分でつかんで、うな垂れているしかないかわいそうな、自分自身に追い詰められた少年でこそあることを。その年齢にもなれば、そうした欲望に突き動かされて仕舞うものなのだと彼女は諭し、それはどうしても仕方のないことなのだ、と、恥ずかしくないよ。

だいじょうぶ

彼女が私の体を望んでいたのか、望んでもいなかったのか、そんなことはおそらくは彼女自身にも知り獲はしなかったものの、美紗子は私にそれを許可して、

なにも

容認して、そのすべをさえ与えて、つぎに彼女が与えなければならなくなるものへの逡巡と葛藤に、あるいはおびえていたのだろうか?美紗子は。

なにもかも

明らかに。

再びベッドにもぐりこみ、悲しみに耐えながら、すがるように私を抱きしめた彼女の眼差しはかすかにゆれたが、戸惑わされなければならないのは私のほうだった。美紗子を、

すべては

傷つけて仕舞ったう、って、仕舞う、のかも知れない予感に、私はおびえた。すくなくとも彼女を苦しめたには違いないのだろう実感が悔恨としていつか鮮明に芽生えて、私は罰せられたも同じことだった。彼女に。そう想うより

光の中に

他にてだてはなく、私は気付かされていたのだった。彼女に。彼女を求めていたことに。明らかに。彼女が明示したもの。自分が求めていたもの。飢えて。それに。飽くなくも飢えて、それを。渇望し、そして。焦がれて、どうしても、

たとえば、朝の

と。否定し難く。ここにあるのよ、と、痛々しいまでに私を羽交い絞めにして抱きしめる美沙子の腕と、足が、あるいは息づいて生々しい肉体の触感は、ただ、私に知らせてやまない。夢。求めていたのよ。思い出すことが出来る。

光の中に

あなたは。ある程度には鮮明に、あなたは。その、夢みられた夢。理沙があなたが。死んで仕舞うことになる日の朝早くの、求めていたもの。たぶんまだ6時前のどこか、無意味に醒めて仕舞った眠りの持続のやわらかな途絶えのなかに、まどろみながら生起し始める意識の中で、夢。夢を見た。零度。

凍えるほどに、寒いには違いなかった。

零度の。

夢の中の。温度。夢の中には、感じられた、その。そして、それが夢であることをは自覚されていて、目醒め始めた意識がその夢を中断して仕舞いそうになるのを、私は。

いけない、と。

必死になって私はそれを維持し続けようと懸命に、そうやって集まり始めた意識を必死に再び拡散させて仕舞おうと、意識的にかさねられるその矛盾した努力に笑って仕舞いそうにさえなりながら、見つめられたのは雪。

降る。

見える?

その色彩。

なにが?

白?

夢でさえなかったなら、その伸ばした指先に触れた雪の、一瞬に水滴に崩壊して仕舞う前の冷たい温度を確実に、感じとってあげられるのに、と。その、

感じられないままに

鮮明すぎる涙さえ伴えない悲しさに、

鮮明な

体中が引き裂かれて仕舞いそうだった。

純白であるはずの

どこまでも視野の彼方にまで無際限に拡がるしかない、

色彩

在り獲ない無限に続く水平の永遠の視野の果てしない向こうにまでも、永遠。雪はただ降り続け、どんなに、と。永遠に。

どれほど、僕は、永遠の。こうして待っていたのだろう、と雪は、想う。どれほどまでの永遠の長さの中に、つぶやく。舞っていたのだろう。ここだよ、と。ここで。孤独に。誰も返り見るものさえないのに。ここ。

雪は。

どこに?

ここにいるよ、と、つぶやいた私の背中に、不意に予兆さえなくふれてみせたのは、

夢の中に?

十二歳くらいの、どこかで見たことのある見覚えもない少女だった。

私の見開かれた視界を埋め尽くして、一度たりとも出逢ったことのないその少女は、明らかに私には懐かしく、確信されたのはもう、出逢って仕舞った以上あとには引き返せないに違いないという、そんな絶望の鮮度。

降る。

雪は。そして降ったのだった。それは、降り続けて、音もなく。まばたき、少女は微笑んで、まだ、かならずしも美しいとは言いきれない、その褐色の肌の幼い少女は微笑むしかない。 

彼女が幼すぎたから、なのだろうか。むしろ匂うほどに綺麗ではあっても、にわかにはその美しさを確信することが出来なかったのは。

まるで異国の、美感覚を共有しないどこかの少女のように。

少女が瞬くたびに、心が息遣いの音を立てて震えた。

かならずしも同じ価値観を共有しているわけではない、同じ空気を吸い込みはしない、いわば他人の、その、異国の?

ゆがんだ、視界の不意の屈折にしか想えないほど、止まりようのない震え。どこかで、

屈辱的なで、さえ、ある?

逢った。どこかで。

彼女に。

私は。何も起こらないのだし、何も起こしようもない、ただ見つめあうだけの時間の経過は、夢の中で本当に流れていたのだろうか、それをさえ疑った。

すでに、夢の中でさえも。

 

 

 

 


scherzo; largo #2

 

 

 

 

 

流れゆく、そう感じられ、時間。認識されていただけなのだろうか?時間など流れ始める前にもかかわらず。それとも。

とは言え、終には、ゆっくりと墜落して果てたように醒められた夢の、開かれた眼差しが捉えていた天上の白いクロスへの光のおぼろげで鮮やかな反射に残り続けたその名残りを、いつか。私が、やがていつか、ふたたび理沙と出会うことは確信されていた。その時には。生まれ変わったその理沙と。いつか。

雪の日に。降り止まない雪の中で。

必ず。

雪はその時、しずかに音を立てるた、の、だろうか?未来なのか、過去なのか、いつかは知らないいつか?

たぶん、もはやすべて忘れ去られて仕舞った記憶のすべてが、きっと。結局は再び出会われた私たちをいつかきっと。かならずしもそうとはもはや認識させなどしないだろうにもかかわらず。もはや理沙では在り獲ない、きざまれた差異だけに晒されるほかなくとも。理沙に、何とかしていますぐ教えてやりたかったが、その時あの、壊れかけの理沙はまだ店から帰ってきてもいなかったのだった。男たちに吐きだされるそれを、何本分も処理してやりながら。壊れかけのているて仕舞った?ていた、その、理沙は。愛しい人。つぶやく。なに?と、美紗子が言って私は振り向いたが、いると想ったそこに美紗子はいなかった。戸惑いの眼差しは、私が曝して仕舞っていたもの。そしてその、視界のややはずれた先のキッチンの壁際に立って美紗子は目玉焼きを焼き、匂う。油の。焼け付く、卵の。

匂い。

鼻の中に、べたついてざらつく。

嗅いだ。

中学生のときに、少女たちの明らかにときめいて色めき立った眼差しが、すでにずっと私を捉えていたことに気付いたときに、私は私が美しいことに気付かされた。無理やり背後から骨をたたき斬られたようなその認識はあざやかに見出されて、頭の中にすでに了解されて仕舞って鳴り響けば、穢いもの。私に認識されていた、穢らしい私。清武が、そう言ったから?あるいは、いずれにしても、何も言わなかった。決して、醜い、とは。清武は、事実しては。私はただ、明確な無言の暗示として、清武のその穢いものを見るような眼差しをむさぼるように消費した。

本当に彼の子供だったのだろうか?いまだに、いつか芽生えたその確信が妄想だったのか

僕は

そうではなかったのか、

だれ?

私は知らない。明らかに、まったく似たところのない完全な他人に過ぎない容姿と、血液型と。なんで、と、十四歳の春の突端に、その桜さえ咲かないまだ、いまだに半ばだけの淡い春の到来。同級生たちの声。眼差し。無言の兆し。瞬いた眼差しの先の由香が言った。なんで、「ね。」鼻先から笑いかけた吐息が漏らされて、「カノジョ、つくんないの?」何でもなく言って、吐き出されたふれるような吐息。聴き取られたその言葉の向こうに、好き、と、あなたが。認識されていた。好きです。と、た易く。彼女がつぶやきはしなかったその、明確な言葉。由香の願望。性急に、おしつけがましく、同時に腰が引けていて、ためらわれた、その言葉。その無数のヴァリエーション。ひそかに伺うように。隠し通されながら明示され、群がる言葉。無際限に。

それらは聴こえはしなかった。

なぜ、俺が?と、お前問い返したのは、「好きなの?」心の中だけだったが、なに?聞き返した由香に、微笑むばかりで首を一度振った。

「へんな、ヤツ」誰が?

ねぇ、「あんた。」誰が、

繰り返した。由香は、「あんた、女、いっぱい作れそうなのに、作んないね。」欲しいの?

由香の、はにかむだけのそらされた眼差し。

俺が?

想う。

欲しいの?

僕が?

なんで?

俺を?

欲しがってるの?

見つめればいいのに、と、由香のかすかに斜にそらされたその視界の縁に、はっきりと私を捉えて放さない、どうしようもなくいたたまれない眼差しを私は笑った。「なに?」いたずらのようなもの。あるいは。私は不意に想いたって由香の右の頬にキスをくれたが、ざわつく教室の中。

そこは。

束なる四方の音声の群れ。チャイムはまだ鳴らない。昼休みの、その。そしてみんなそこにいたから、唐突な、想いつきの私のキスは誰の目にも目に留まらざるを獲ない。一瞬の、空気の戸惑いと、その瞬間だけの時間の不意の感覚的な消滅の後に、誰かの囃し立てた声がそれら、無言のためらいを決壊させて、沸き起こったのは喚声。わめき声とささやき声が束になって、(非難じみてさえいた、)少女たちのいくつかの鮮明な嫉妬と、(それら。)失望と、反転した強烈な憎悪さえ含まされて、(声。)すでに私は笑っていた。(笑い声の群れ。)いかなる感情を選択するべきなのか、混濁した感情の束を持て余した由香はひきつめた息を吐いて私をひっぱたいたが、由香が眼差しに曝した失望と容赦ない軽蔑。穢れたものを見たような。そのとき飛び出して行った由香はその日の午後を早退した。まるで彼女が犠牲者だったかのように見えた。どう想ったのだろう?彼女は。夢のように?

私に焦がれた果ての真昼に醒めながら見た?夢。

笑うしかない自分勝手な夢。

救いようのない勘違いと、勘違いにすぎないことなどすでに知っているにもかかわらず、それをあえて気付かなかったことにした、愛するものに愛されない女の曝す意図的な愚鈍。もはや自分で自分を嘲笑わなければならないような。

教師に呼び出された私は、あげよう。こっぴどくしかられたものだったが、君に。次の日からの何事もなかったような私の普通の振る舞いに、欲しいなら。

あげよう。君に。すべてを。望むものの。それを。あなたがすべてを。望むなら。結局は、もはや単なる嗜虐そのものとして私を食い散らかして仕舞うか、屈辱に塗れて諦めてあなたが滅びて仕舞うしか、そのすべなどないというのなら、その両方を。

由香は、どんな夢のように想っていたのだろうか。もう二度と、まともに私に目線をくれなくなって、その視界の端に、執り憑かれたように私の気配を、姿の断片を、ただ捉え続けているしかなかった由香は。抱きしめた。その日も美紗子を。私は気付いていた。由香に口付けをくれた瞬間に、ふと、母親のその行為が私へのまったき暴力に他ならないことを、不意に認識して仕舞った私は、由香のために浮かべた微笑の向こうに、失心しそうな意識の白濁を共存させて、その、直視した光源がくらませて仕舞った逆光のような白濁。

明らかに、私は傷付けられ、他者の自分勝手な欲望に蹂躙された少年だった。隠しようもなく。何の明瞭な傷さえ持ってはいなかったとしても。憎しみ。

認識する。

憎む。

私は傷付いている。

嫌悪。

私は。

唾棄すべき、その。

辱められて。

灼けつくような。

認識した。

殺して仕舞え。

なにを?

私は。

死ねばいい。

なにが?

知った。

激怒。

自分の姿を。

怒りの透明な。

私は美しい。

怒りの、その発熱の、光?

止め処もない欲望の対象。

白濁した光。

誰の欲望の?

憤怒。

彼女の。

抱く。彼女たちの。無言で、眼差しを絡み合わせることもなく、その意味の、私にだけひめられたいつもとは違った気配の中に、彼女を抱いた私を、その夜に、美紗子はどう想ったのだろう?欲しいの?

僕が?「好き?」

好き。

理沙の眼差しがそうつぶやいたので、バスタブの中に抱きしめたまま、額に口付けた。

たぶん。知ってる?花を活ける理沙の後姿に私はささやきかけた。つぶやく。頭の中でだけ、僕たちは。

知ってる?

逢うよ。きっと、もう一度、なんども生まれ変わって、そしてそのたびに愛し合うに違いない。もはや、それは理沙ではなくて、理沙ではありえないから、理沙を愛しているなどとは言い獲ないにもかかわらず、なんどもなんども生まれ変わって、僕たちは愛し合う。永遠に?

永遠、すくなくとも無限に。

魂になど、たぶん何の価値もないから、失われて仕舞うにすぎない記憶は最早なんの同一性さえをも維持できないままに、愛する。愛し合う。愛した。なんども繰り返し、僕たちは生まれ変わって。

愛し合っていた。私たちは。

私は愛した。

君を。

それが誰であるかはもはや、無意味でさえあった。繰り返し、ずっと、私は、そして細めらた眼差しが、ガラスの向こうの雪を見る。

雪を。

見たい?

言われたフエは、声を立てて笑い、うなづき、熱帯。

熱帯の町に、雪は降らない。おそらくは、

雪、見たい?

Em muốn nhìn tuyệt không ?

絶対に。地球が、破綻でもしない限りは、絶対に。北の高山の雲の上の町以外には。

大陸の南の果て。ベトナム、世界の中の田舎者たち。私たちと同じように、あるいは生まれてから死ぬまでアメリカ英語しか話さないアメリカ人たち、フランス人たち、中国の、韓国の、あるいはその他すべての無数の単なるローカルにすぎない人々の群れと同じように、基本的には自分たち流儀の、他人には不可解なマナー以外のなにも知らず、自分たちが外国人たちの眼差しにさえ鈍感でいることに気付きもしない人々の群れ。だから、結果的に、意図もないままに世界の(あるいはそうつぶやかれた眼差しの)中の無作法者でしかない彼ら。美紗子は言った。穢いよ。

日本にいるベトナム人、みんな悪いよ。

60歳の美紗子はそう言って、疑いの眼差しをフエに向けたが、そのスマホの無料通話の画面の向こうで、フエは媚態を一杯に撒き散らし、微笑む自分に向けられた眼差しの冷たさには気付かない。

あるいは意図的に。

「そんなことないよ」

かもね。

本当よ」

たぶんね。

「反対?」結婚に。

あなたは反対しているんですか?

まさか」何度目かで、息子を失う。例えば、二十歳のとき、初めて、そして一度だけ私に殴られたときに、美紗子は私をすでに失っていたに違いなかった。それ以前にもなんども。乳離れのときに?初めてのひとりでの入浴のときにも?大学の休みに短い帰郷をして、抱かれた後の倦怠のなかに、身を起こそうとしてついた美紗子のよろめいた手が私の二の腕を踏みつけたときに、不意に炸裂したあざやかで、強烈な憎悪。一瞬の、鮮明すぎるそれは何故だったのだろう。我を忘れて彼女に殴りかかり、拳に骨の触感を残しながら、聴き取られていたのは息をつめた瞬間の、美沙子の引き攣った息音。ベッドになぎ倒して首を絞めさえした私に、私を制止するすべはなかった。息絶えかかって疲れ果てて、失神する寸前に、やがては脱力するしかない美沙子の四肢と眼差しの開かれた瞳孔が、私にくれた容赦のない絶望。それは私の暴力を無慈悲にぶった切って中断させた。

知ってる?

空間に残った息遣いの音声を聞き、美紗子。その、

花々の色彩

かさなり合わないそれら。息遣い。音。

春の野に咲いていた

混濁した、それら、

花々の

聴く。

色彩の鮮度

聴こうとした。私は。

音。窓の、外。

わたしは花

窓の外に降る、雪が立てているかもしれない音を。

あなたが愛した

澄まして。

かわいらしい花

聴こえはしない。

耳を。

わたしは雪

まさか。聴こえは。

あなたが降らした

澄ます。

真っ白な雪

気付いた。

耳を、澄ます。

私は夢

堕ちていく、手ざわりさえない速度の中で。

あなたが夢見た

気付く。

いつか出逢う夢

速度。

あの、疾走し、その速度が光の直線にして仕舞ったすれ違う光源の、これら、群れ。

気付いていたのは、自分が堕ちていくことを、すでに認識していた事実だった。

速度の中で、視界は最早残像をしか捉えない。

わからなかった。

風景が上昇していたのか。

それとも。

堕ちる。

私のほうが、堕ちているのか。いずれにしても。

疾走。

その容赦もない速度。

遠む、夢見ていた意識の中で、やがて、むすばれそうになる何度目かの意識の覚醒を拒否しようとした。

もっと、と、それを望んだわけではなくて。

見えますか?

光沢の線分の群れが眼差しを埋め尽くし、いよいよ増加して行くそれ。光の束。

なにが

それらは、やがて眼差しのすべてを白濁させずには置かないのだろうか?

見えますか?

まだ、

いま

降っているのだろうか?

 

理沙の花の向こうに。

 

雪。

 

窓の外の。

 

寒い?

 

問いかけようとした、その。

 

だれに?

 

声。

 

私に?

 

理沙に。ねぇ?

 

「好き?」

 

光。

 

やわやかな拒絶。

 

集中しかかる、ふたたび、その

 

しようとする。

 

抵抗、試みられる、それ

 

拒絶、しようと。

 

もっと。

 

そう望んだわけでも。

 

かならずしも。

 

見た。

 

そうではなくて。

 

光を。

 

直線。

 

埋め尽くしく、そうと

 

尽く、そう、と、

 

する。

 

その。

 

光は

 

まどろんで、拡散して仕舞おうとする意識に抗おうとしながらも私はただただ抵抗しようもなくかたまりあって集中して行こうとしその鮮度をいよいよ高めていくばかりの、

 

意識。

 

目覚める、た、ことに。

 

花。

 

目覚めたことに、

 

花の。

 

気付いたとき、私は。

 

「好き?」

 

私は自分が、不意に、夢を見ていたことに気付いていた。隠しようもなく。疑いもなく。微笑む理沙を見つめながら、見つめられたまま、夜、よく眠れなかった次の日の昼の、一瞬落ち込んで仕舞った睡魔の空隙のなかに垣間見られた、その。

夢。

花。だろう。

と。

そう想った。愛し合うだろうと。そうするしかないかのように、ただ私に微笑みをくれ、かすかに斜に傾いた横顔を私に曝した理沙は、私と、愛して、私は、愛する、私を、し。

愛。し、

し、合う。愛し、合い、う、だろう、と。

そうに違いない。

そうするより他に、すべなど何もないのだから。

なんども。

途中で、ふたりのやさしく、いつくしみあう、暴力的で、どちらにとっても屈辱的でしかない家禽じみた愛の行為を投げ棄てるようにやめて仕舞ったりもしながら。

なにも果たされはしないままに、だから、一日に何度も、不意にかさねられた唇か、ふれあった皮膚にふたたび想い出されてはふたたび、求められたわけでもなくやりなおされて。

結局は最後にまでいたることなどなくて。

死。

かならずしも互いの肉体をなど求めあっているわけではなくとも、結局はその感情の、痛ましいほどの切実さの、どうしようもない切迫の、表現あるいは堪能の、それに身を曝すことの実現は結局、肉体にしか頼れない。

死。死?

むしろ。それ、不死なるもの。

私は不意に想った。

理沙の指先が、彼女の活け上がったばかりの花々の、白い花弁の細長いひだひだのその白の先端に、いつか、ふれようとしながらも。

むしろ不死。

死が、生の経験し獲ないまったく生とは差異する絶対的に他なる何かであるというならば。

花の匂い。

色彩が匂う。誰も、

花々。

死をなど経験することが出来ないのならば、生はその本質において、絶対に死に獲はしない。生の限界とは、

咲き誇る

むしろ不死にすぎない。

それ自身の留保なき限界として、生は永遠に

花々の色彩が

不死にすぎないのであって、だから、いまだかつて、誰も死んだことなどなかったのだった。

歎いた

まったき不可能性。

それは単なる、その。

それは

あるいは。

死。

やさしい雨の中に

それは不可能だったに過ぎない。

誰も、ね?

見出された

死に獲もせずに、「好き?」

花が。

いつか

好き?

雪が。

わたしたちが

好き?

僕が。

見た

好き?

君が。

風景

好き?

海。

好き?

空。

好き?

あふれかえった、

好き?

色彩。

好き?

すべて。

好き?

君の。

僕を見て。

君が、僕を。

見て。

見たいなら。

僕を。

君は。

見て。

そうしたい?

見る。

したいなら。

ほら。

見て、ほら。

見えるのは、雪。

君の肌の褐色の、向こうには降り続ける雪。

散乱。

空間の中には、雪のしずかな散乱と墜落。

身を乗り出して、屈みこんだ理沙が涙を唇でぬぐってくれたとき、私は自分が涙を流してさえいたことに、気付かされた。やさしい理沙の心遣いに。花。

いつか、君が活けた花のその花びらを、口に咥えて噛み千切ってあげる。

そう想って、意味もなく、私は理沙の唇によせる。

唇を。目立って美しい私の奇矯な振る舞いに、家畜たち。クラスメートたちが媚びるように囃し立ててみせたその気まぐれなお遊びも沈静化して仕舞って、もはや誰も想い出しもしなくなったその一ヶ月もたったころに、不意に目線を感じた私が振り向いた授業中の、午前の、晴れていたのかも知れないおぼろげな陽光の記憶の。その光が斜めに差していた教室の細部さえ想い出せない記憶のいわば未完成のタブローの中に、由香がめずらしくまっすぐに私を見つめていた眼差しには、そしてそれ。私が、結局は忘れないまま記憶に残したそれ。反芻され続けたわけでさえもなくて。由香の眼差しには強烈な憎しみがあった。「殺していい?」自虐的で、執拗で、殺して仕舞いたいというよりは、彼を自死に追い込むことによって、自分自身を破壊に追い込んで仕舞おうと、その倒錯した欲望に静かに、物も言わずに、何の解決策さえ示さないままに。停滞しきって。

彼女の眼差しに、私が不意に微笑んで、小さく、ひそかに、手を振ってやるかわりに、やる気もなく立てた二本の指を振ってやったのは、その、あざやかに感じられていた彼女への軽蔑と嫌悪感と哀れみと、それら複合したごちゃごちゃの感情から、悔恨をだけはすっきりと欠落させて仕舞った私の心の気配のせい。

空白として、埋められることもない空間を残したままに、すっぽりと内包した散漫な感情。あたりさわりもなく、とるにたりないかにさえ感じられた、私の。なぜ?

なぜ、だったのだろう?それは。暴力性?

破壊すること。

やさしい、口付けによって。

不意の。

唐突な。

意図されない、とはいえ、彼女を傷つけるつもりはなかったなどとは言獲ない。彼女が、傷付くに違いなく、傷つけられた彼女のその、いうなれば心が曝すに違いない傷は、いかにしても癒し獲ないことなど知っていた。そもそも、それを望んでさえいたのかもしれない。意図されもしないままに。確かに私は望んでいた。目の前で由香が、もっとも残酷な公開処刑に処されることそれ事態を。彼女への、直接的な憎しみなどないもないままに。どうでもいい女。存在価値さえない女。不意に、なにかに堕ち込むように、ふれた感情。唐突なキス。たとえば、天使が通ったあとの一瞬の空間の隙間に。ただ、どこかでやさしくやわらかい風にさらわれた感情にだけ、私の唇は揺れ動かされて。知っていただろうか?美紗子は。

私に捧げられる無数の眼差し。

女たちのそれら。

好き

どこでつつましく、おとしく内側に折りたたまれて、これみよがしに渇望したもの。

あなたが

わたしに、ふれてください。そう誘惑しながらも殻に閉じこもる倒錯的な甲殻類。

好き

女、と、あるいは、当時の、私の周囲に散乱していた少女といわれる年代の、いずれにしてもそれら、女の群れ。無数の、私の視界にかさなりあう一様な媚びた、潤んだ、飢えた、自分勝手で穢らしい欲望しか曝さない眼差しの表情。何の差異もなく。

発情した。彼女たちは、羞恥した。

自分自身を?

私を愛して仕舞った憐憫とともに。

自虐として軽蔑する。

煽情。そして、ほら。

愛して。媚びて、ね?煽り、誘い、そして。

色づく。でしょう?

求められる、言葉もなくからっぽの了解。

ね?

うん。

開き始める瞳孔の捉えるもの。

黒眼の震え。言葉の喪失。

一瞬の、不意に失心に堕ち込んだような憑かれた凝視。

戸惑いの装い。え?

「なに?」

無数の、多彩な、一様に無差異なそれら。

「どうしたの?なんで、

いとしい私に選ばれてある無根拠な

わたしのこと、見てるの?」

確信。

テーブルの上にコピー用紙を一枚広げて、理沙がそのちいさなビニール袋の口をあけると、指先で震わされて、ビニールの中に整えられる白く美しい粉。華奢な指先で、とん、とん、とん、と。やめろ、と言われれば、理沙はやめたのだろうか?

用意される、きちんと消毒された注射器。たぶん、殆ど無菌のはずの、そして生き残った無数の雑菌に塗れているに違いないもの。ほら、と。

言った、彼女。理沙の不意に振り向かれた横顔に日差しが差す。いつもの昼下がりの。美紗子は犠牲者だったのだろう。漏らされる微笑の。たぶん、その音声。たぶん美紗子は、そして。聴く。欲望?理沙の。美紗子が自分の欲望に突き動かされたとは言獲ない。声。彼女の。ましてや。理沙の立てた声。想い?美沙子の私への。つらなる。そうかもしれないけれど。つらなって、その。とはいえそれ以上に、声。理沙の音声。美紗子は何かに傷付いて、声に。何かのまったきその。声になる前の。見出されたのは風景。崩壊の風景。そのなかで美紗子は。子供?あるいは未だに死んではいない子供のように、そして、美紗子は私を抱く。崩壊した、瓦礫の山の中にたたずんで。なぜなら。死児として?だって、ね?「ん?」

何もかもが、もう終って仕舞って、完璧な滅亡を曝してさえいて、それでも生き残っているのなら、美紗子は何かをしなければならず、何かを愛さなければならなかった。の、だろう。か?

どう?

「気持ち、どう?いい?」ね?

どう?「なに、」ね。

「お前、さ」いま、ね。「なに、」ん、っと「見てるの?」んーーー。

ね?

どう?

「あんた。」あ(わ)たしの、と、理沙はろれつの回り始めなくなった声を立てて、「あんた」ね?

わたしのあなた。

彼女の指の腹を、私は舐めた。行為が中断されたばかりの身体は、理沙のそれをも含めて、かすかに汗ばんでいて、匂う。

匂い。

私たちの体が立てた、私には終に嗅ぎ取られない私のそれをも含めた、そしてかすかにぬれた(汗に?)指先に粉を付着させて、理沙の鼻先に近付けてやると、彼女は舌をゆっくりと出して、照らし出す。舌の唾液の湿りを。日の光は。やさしく。白く。

舌から遠ざかった指先には目もくれないままに、私を見つめている理沙の微笑みは、私に見つめられて一切、ぶれもしない。愛すべき存在。美しいもの。ただただ。

ひたすら。

ただただ。

どうしようもなく。

ただただ。

むしろ。

ただただ。

ベッドに背を凭れて、身を脱力して投げだすしかない彼女の足を開脚させて、聴く。

頭の上で息遣われる、その。湿った粘膜に唾液をぬってやれば、瞬いた理沙の眼差しは表情もないままに微笑む。

理沙の好きなモーリス・ラヴェルを流してやればよかったのだろうか?端整な顔立ちのフランス生まれのバスク人。たぶん、本当に愛しているわけではなくて、彼女に曝された、その曲への無様に、自分勝手な固着や固執などおそらくは、彼女の固有の過去のその残像にすぎない単なる習性にすぎなかったに違いないにも関わらず。あの。

短い断章。

ソロ、(かさなりあう音の孤立)ただ、一台だけのピアノと、差し出されたただの十本の指先のためだけの。

口を開いて、無造作に突き出された理沙の舌が、ゆっくりと、かすかなふるえを刻んでいるのを見た。なにを。

どうして?

見てるの?

美しいの?

何を。その、私だけを見つめた眼差しは。

あなたは。すでに

そっと、舌にはふれて仕舞わないような繊細な注意を持って、私のつき立てられた

壊れて仕舞って、たぶん

曲がった指先の曲線の、その先端が理沙の唇に触れると、何も

ここには

反応を示さない理沙は目の前に

もう

生きている。

いないはずなのに

明らかに。彼女は。

感じたのだろうか。理沙は、指先の。私のそれの、その、かすかなふるえ、そして、何のきっかけも明確にはないままに、理沙の唇は不意に私の指先を咥えた。

子供のように、大人の理沙はしゃぶりついてみせて、むさぼってみせて、その、戯れの煽情。

渇望。

ほら。

もっと。

ほら。

見て。

想う。

なにを?

風景。

君の見た、その。

見て。

もっと。

ほら。

風景。

君の。

なにを?

風景。

もっと。

見せて。

もっと、と。もっとしますか?と、フエの眼差しがつぶやく。

あなたは、私が欲しくて仕方ないはずです。もっと欲しいんですか?なぜなら、あなたは。

ほら

愛しているから?

飢える

もっと。

愛するわたしに

音。

愛しているから。焦がれるほどに。永遠に、だから。

ピアノの。

欲しいんでしょう?と、うつろな、疲れ果てた、私を見上げる眼差しを曝す、そのフエの眼差しはもはや、なにかのまったき犠牲者のように。床の上にあお向けた彼女の腹部のやわらかな曲線は、差されていたのだった。ガレージ、ふたつめの居間のシャッターの網目を通り抜けた、か細い温度のある光に。

ふれられた

私の

光。素肌が、無造作にふれた、

指先に

ふれた彼女の腹部の汗ばんだ触感と、その体温と、感じましたか?

想う。

あなたは。

見つめ。

感じましたか?

わたしの。

フエを。

ほら。

あなたも。

ながら。

感じて。

わたしの。

みつめながら。

あなたも。

温度。

私を。

ね?

私が。

感じましたか?

体温。

想った。

匂い。

私は。

ね?

不意に。

いわば

生き物の生きてあることの留保もなき痕跡の群れ。触感、何度も

存在証明

見た気がした。その息づいた皮膚の表情。ゆっくりと上下して、呼吸し、それがまさに生きていることを飽くなく表現して止まない、それら息遣い。音響。時間の中に散乱する。

響く。生存。

肉体がかたちづくって、かたちづくられた、棲息。

住まい、住まわれ、住まわしめて、ぐじゃぐじゃの。静まり返った音響空間の無際限な拡がりの中に。

何度も。その光の反射のやわらかささえ。いつだったのだろう?知っていた。すでに。いつの?と、その。それ。「愛してる?」その女が、ベッドの上に身を横たえて、息づく静かな呼吸を聞く。女。名前、その名前は理沙。

そんな事は知っている。り、さ。

私との、り。

さ。終ったあとのまどろみの中に、ひとりだけ注射を打って、声を立てて振り向いて見さえしながら、いたずらな表情を作って媚びてくれて、そして、笑う。くすくす。ふふ。ffff

nnnn声を立てて。深く、もっと。

もっと深いまどろみの中に入り込んでみる、その褐色の鮮やかな色彩。あお向けられた肉体が曝した、その。愛しい皮膚。色彩。

色付く。

彼女の腹部をやわらかく波打たせつづけた、彼女の静かな呼吸を、見た。たしかに、十九歳の私は。聴く。

その、呼吸の音。理沙の、二十一歳くらいの?その最期の年の。

その時。たしか、理沙が注射を打った後で、まどろんで、その、時々。

ほんの時々だけ瞬きをするまぶたに、私は口付けてやるのだった。彼女をなにも傷付けないようないように、そしてもはや、理沙はすでに死んでいたようにさえ見えた。その、うつろな表情は。

窓越しの陽光が差す。斜めに。午後の。

いつかの午後。まだ。彼女がそこから、飛び降りはしない前の、その、何ヶ月か前の。彼女が生きていることは明らかに、その身体のすべてに刻印され、何の主張もないままに明示されていさえしたが、ふれた唇に、その体温と、うすく眠そうな涙をにじませたまぶたの、ぬれた触感だけがあった。

髪の毛をなでてやっても何の反応も示そうとはしない彼女は、生き生きとしていて、そして、もう死んで仕舞ったものとしか想えない。どうしても。

私は知っていた。

理沙が何も気付いていないのではなくて、むしろその感性のすべては、私の、この私。彼女が愛しているには違いなく、それにもはや疑いようもなかった私の息吹に。

気配。そそがれる。

捉える。

息遣いを。ふたりの。

私たちの。

ふいに漏らされた声、に、なる、その前の、ある、生き物の音声。

例えば。ん、とか。

 

そんな。

 

 

 

 

 


scherzo; largo #3

 

 

 

 

 

それら。

ふとした挙動の一つ一つ、その群れを完全に感じ取って、理解した気にさえなって、もてあそぶように理沙の内側に享受されて、私は知っていた。

彼女がすべて、なにもかも鮮明に感じ取っていることをは。

ただ、言葉を発さないだけで。

なぜ

あえて、何の反応も示そうとはしなかっただけで。

だまってるの?

理沙がよく聞いていたイ短調の

なぜ

プレリュード、その、モーリス・ラヴェルの

いきてるの?

それをかけてやれば、窓の向こうに見えた陽光に、不意に

なぜ?

私のまぶたは瞬く。

春先の大気、その、桜さえ沖縄で咲き始めたばかりに過ぎないその渋谷の高層階の部屋の中は、いつか私の皮膚に鳥肌をさえ立てさせていた。理沙の褐色のそれとは似ても似つかない、白い、私の皮膚を。

近くの、松涛のちいさな公園に桜を見に行ったことがあった。去年の春に。「好き?」理沙と。そして、ねぇ。そう言った理沙に、「好き?」

私は微笑をくれて、お前は?

彼女は一瞬、顔をしかめるよりむしろ、声を立てて笑いさえして、嫌い、と。「嫌い」なんか、ね。「なんか、やっぱ、嫌い」

桜?」

なんで?と。その、言葉には出さなかった、単なる私の気配にも、「てか、ね?」

つぶやく。

彼女は、

「みんな、好きだからじゃん?」飽きも「ね。」せずに。さ。」

笑う。大袈裟な声を立てて。

抱きしめてやればよかったのだろうか?暴力的なまでに。性急に。

唐突に。

奪い去るように。

蹂躙して仕舞ったかのように。

取り返しようもなく穢されて、もはや私の占有物以外では在り獲ないほどの鮮度で。

その時に。後ろから、そっと、彼女を。抱きしめてやれば?いまだに肌寒かったその大気は、比較的薄着で出てきて仕舞った彼女の皮膚をその布地の下でかさつかせ、理沙の素肌は鳥肌立って仕舞っていたのだろうか?

想う。いつから。あるいは、いつまで、私は彼女を愛し続けたのだろう?愛。

と、その、愛、という、それ、その言葉で結局は表現されて仕舞うところの、夥しい行為の、時間の、会話の、感覚の、皮膚感覚の、気配の、感情の、それらの無際限なまでの拡がりが、とは言え、それがあえなくも終って仕舞ったときには、それはもはや、いかにしても存在などし獲ないのであって、例えば、この、命というもの。

生、それが、自分とはまったき彼岸の差異としてしか死をは認識できないならば、結局は生が死を自らのうちに体験など出来なかったに等しいように、ならば。

永遠

愛の存在がなくなることが愛の終わりであるなら、愛は、それ自体としては終ることなどできなかったことになる。

に、いだかれて

その限りにおいて、永遠の。単なるそれ自身の、絶望的な限界として永遠であったのでしか在り獲なかったとしても、

永遠に

その。

ずっと。

ずっと、ずーっと。

ずうっと。

ずっと。とわ、

ずっと。

とわ、

に。

いつ?

永遠

いつから、私たちは破綻し始めたのだろう?

ずっと前から、出逢われる前からすでに進行し続けていた彼女の破綻を、生きる。共に。花が舞う。理沙の、嫌いな桜の花が。はかなさの欠片らさえなく無数に。夥しく。

埋め尽くすように。

野太く、地表から屹立したただただ強靭なその樹木の前に立って、その花々の舞って、散って、堕ちるのを、見るともなく見あげた理沙の髪の毛に付着した桜の花びらの一輪だけを、私は指先につかんで棄ててやれば、見た。

私は、振り返った理沙が、何も言わずに微笑みをくれるのを。そして、一分と、三十秒程度しか続かない、短すぎるそのラヴェルの前奏曲が終ったときには、空間は静寂を覚醒させる。

部屋の中の壁、その白いクロスのかすかな毛羽立ち。ふれた日差しのきらめきだち。

かすかな。

静寂、と。そう呼ばれるものが、ありますよ。ここに。と。「ね?」つぶやいた。空間が。

実際には、さまざまなこまやかな物音、あるいはそれらノイズに低く彩られているに過ぎないにもかかわらず。

静寂。首を折り曲げて、理沙の唇に口付けたときに、彼女はかすかにだけ下唇を動かして、そのささやかな動きが、いつか、いっぱいにたまって、あふれそうになっていた涙をこぼれさせた。その時に。いずれにしても、何度繰り返すのだろう。

同じようなキス。

本質的に愛、と、仮定的に

同じような涙

そう呼ぶしかなかったそれにたいして。本質的にすべてのものに対して留保なく無効であるに過ぎない、その。

なんど、見つめあい、時には何度ともなく罵りあうのだろうか?

抱きしめあって、そして、それら、どうしようもなく破損した、辱められた、唾棄すべき、その、愛、と呼ばれるそれそのものとは明らかな差異を刻むしかない、それらの行為。

事象。

ただ軽蔑すべき、無能で破綻したそれら、現実の集積。

不安がらなくていい、と。私はそう想うのだった。

言葉にだしさえもせずに、だいじょうぶ。

だよ。」

繰り返す。それだけを。あるいは、そのヴァリエーションを。

不安がらないで、と、涙をぬぐってやりながら、私などそこに存在してさえおらず、むしろ私という存在がかつて存在したことなど一度もなかったと、その冷たい認識を、拒絶も何もなくただ素直に曝したような、フエの、その表情の、あるいは沈黙。

ホア、あの、失われたばかりの私たちの子供の死体と同じような、そして、それとはまったく差異する生き生きと、生々しい生の実在をただ刻む呆然としたフエの、仰向けの、息遣い。

腹部が波打ち、こぼされる涙、どうしてなのか、それを。どうして、あんな日、子供が奪われた日にまで、お互いにそれを望まれ、求められ、渇望されたわけでもなくて愛し合って仕舞ったのか、その行為の終わった後にまで、泣き止まないフエの涙は、いつかれることになるのだろう?

明日の朝には?

あるいは、永遠の尽き果てた、その先の果ての尽きたその先には?添い寝してやる私にかすかに生成し始めたまどろみが、ゆっくりと空間をやわらかく、何の刺激もなく、その、照明の消された通風孔からの夜の光だけが照らし出したに過ぎない、雑然とした空間の淡さの中に。ただ、残像のように眼差しは、すべての形態を捉えて。

何もかもが、目を凝らさなければ見えない空間の明るさの中に沈黙するしかないのなら、結局は、目を凝らすことをやめて仕舞えば、あとはただ、やさしい、やわらかい、もはや忘れかけの映像の、単なる痕跡に等しいものに過ぎない存在の、その眼差しに忘れられかかった息吹きの痕跡だけが残る。指先に痛みがあった。風景。決定的に崩壊した身体が、もはやその名残りをだけ、私にかろうじて感じさせた。

その風景。

そこはどこですか?

気付かれ、見出されていく、崩壊した風景。

君が壊れた場所は

誰もいない、崩れかかったビル群の廃墟に、雪が降る。

どこですか?

春に違いない。

私が壊れた、その

私が知っているのは、今が。

鮮明な

まさに、今が春に他ならないことで、氷河期を迎えた世界に、静かに。

いつかの記憶

渋谷かどこかの廃墟。

ほとんど

あるいは、渋谷とか、新宿とか、そんなようなどこかの街。

想いだされもしない

雪に、指先をさしだして、その温度を確認しようとしたのだが、

どこですか

私には指先などなかった。

空中に

たぶん。

雪が生まれた、その

なにもかも、たぶん。

場所は

腐って仕舞って?

あの、水滴が

あるいは、風化して仕舞って?

凍り付いて、結晶を

腕も。

曝す

最早存在などしなかった。

その

どこにも。

場所は

肩も。

どこですか?

首も。

紛れ込んだ場所

足も。

君が

腹部も、胸も。

息をひそめて

唇も。

不意に

鼻も。

微笑みをくれながら

そして、眼差しさえも、もはや朽ちているに違いない。

紛れ込んだ場所。私を

なにも、見てなどいないのだから。

連れて

雪が降る。

やがて舞い上がった大気がなにもない空中に

それに、私は触れる事はできないのだった。

その衝動の痕跡を残して

もはや、存在などしてはいない私は。

誰ですか?

ただ、痛みとして。

ふれたのは

たんに、癒されようもない痛みとして、私は。

君に。私の指先を

たぶん、この世界が物理学的な崩壊を迎えて仕舞ったその後でさえも、目覚め続けているに違いないのだった。

装って

痛みは。

 

ただの。その。

 

最早、私でさえもなく。

 

私のものでさえもない、その。

 

痛み。

 

痛い。

 

君は?

 

痛い?

 

痛い。

 

私は。

 

痛み。

 

どう?すれば、

 

どうすれば。

 

涙を流せばいいのだろうか?

 

そうすれば、流された涙は結局は虚空の中に、やがては雪に変わるのだろうかと、雪。

 

雪が降った。

 

見渡す限りの向こうにまで雪は降り積もって、そしてすべてを埋め尽くして、やだて仕舞ったに違いない。

 

その、純白の中に、そして私は目醒めかけの意識の白濁を次第に、開きかけた眼差しの中の、あの夜の空間のやさしい暗さに染めさせて仕舞うのだが、それに私は、為すすべもなくて。

フエを、揺り動かしたりはしない。

彼女は眠っているに違いない。と、私は不意にそう想ったのだった。なにかの僥倖のように、突然降ってきた鋭利で逃れがたい認識そのものとして、彼女は。

眠っていたに違いない。黒眼を不断に、かすかにだけ震わせて、留められない涙を止める意志さえ持たずに、ただ、こぼれさせながら、彼女はもう。

すでに。

フエに、見た夢の印象を何とかして伝えてみたい衝動があったが、その、夢の鮮度はみるみる、無様な意識が想い出そうとすればするほどに、色褪せていくしかない。

ちいさな、為すすべもなく決定的な、その崩壊に手をふれる事さえもできない、その。とどめようとすればする程に。

破滅。鮮やか過ぎる、音も気配もない、単なる。

やさしく。

眠っていたに違いない。彼女も。

しずかに、何の反応も見せない理沙は、眼差しを不意に愛おしげに見開いて、一瞬だけ、そして、たぶん何も直視してはいないままに、彼女は、眠っていた。

一瞬だけ、慮るようにかさねあわされた私の唇を咥えようとした、その唇が次第に力を失って、その条件反射に過ぎなかったかのようなわずかな反応の名残りを唇は、言葉さえないままに愉しむ。

やがては離されるに違いない唇を、息をひそめて無意味にかさねたまま、何の欲望があったわけでもなかった。

何を求めたわけでも。

唇に、理沙の、彼女の唇の触感があって、当然のように、私の唇は私の唇自体の触感をは捉えない。体がかさねあわされるときに、感じられざるを獲ないその。感。

じ、られ、

ざる。

を。

ざるを

を、獲。なかった、を、獲、その。唇も、肉体。

そのもの。肉体も、そのもの、それ。

それさえも、あるいは、かさねねあわされるたびに感じられるしかない、そこに、あなたの存在をしか感じられないどうしようもない孤独感にさえ、そして私の存在をは決して感じ取ろうとはしない肉体の限界の痛さ。

かさねあわされたものの、その事実など実感をだに抱かれないままに、放置された私の肉体の。

魂の?

瞬く。そのたびに、涙がこぼれるのは知っている。

ただ、眠そうな理沙の。

眠って仕舞ったに違いない。

フエは。

泣きつかれて?

開かれた、何をも捉えない眼差しに、かけられるべき言葉さえなかったので、添い寝に身を横たえて、彼女も眠って仕舞ったに違いない。

そのフエの寝息さえ立ててはいないからだに添う。

やがていつか、眠りがその夜、私に訪れたには違いないが、いつ?

その、明確な記憶さえないままに、柔らかな朝の光が目にふれた瞬間に、終には目覚めた私が、すでに目をあけていたことにようやく気付く。

私は夜を過ごしたに違いなかった。

明けて仕舞った夜。

数時間で、常に明けてゆくしかない、それ。

長い夜?

意識されない、その時間。だから、そこに長さなど存在しない。まったく。

一瞬でさえなかったのだった。

だから。

雪が降る日に

存在さえ出来なかったその長さは、私にはすでに

私は

喪失されていた。

君を

瞬かれた眼差しは、向かいの

抱きしめる

壁の高い位置にある通風孔を、その、漏れこむ光の光が教えたのは、朝。

雨が降る日に

白ずんだ、かすかな、

私は

白濁。かすかに。

君を

白濁したかすむ光の色彩を、

抱きしめる

一つの気配にすぎないものとして鮮明に知覚すれば、雨?

風の吹く日に

と。

私は

そう想って、雨。

君を

それが、降って、雨?

抱きしめる

雨が降っているのだろうか。

雲の舞う日に

想いあぐねる私はいまだまどろみながら、となりにフエがいないことには気付いていた。

首の内側に痛みがあった。いつものように。

いつからだったのか、目覚めるたびに、かすかにそこに存在して、肉体が完全に目覚めていくままに、やがて馴れられたのか、消滅するのか、それとも忘れ去られて仕舞うのか、いずれにせよ感じられなくなっていく、その。

痛み。鈍い、首に。

手を突いて、ゆっくりと上半身を起こせば、朝が来て、私が再び目覚めた事実だけがふたたび留保なく自覚された。

振り向かなくてもすでに知っている、傍らのフエの不在を振り向いて確認すれば、探すべきなのだろうか?

想いあぐねて、私は自分の指と指とを無意味にかさねあわせた。昨日、ホアを失ったフエに、珍しく口付けられなかった胸の前で。

眼差しが空間を泳ぎだしもせずに、ただ、停滞した。

誰が悪いというわけでもなかったはずだった。ホアが死んだという、その残酷な事実に対しては。そして、その、あのちいさな愛すべき生命体の、可愛そうな死も。もはや、なにも、何のとがめだてもされるべきではなかった。

向けられるべき感情の対象を完全に失って仕舞った、とはいえ。

その、誰にもむけられえはしない灼けつくような憎悪が、歯の生え際の柔らかい部分に、執拗に目醒め続けていた。

噛み切ることさえ出来ない、その鮮やかな息吹きが。憎悪が、無理やり押し広げられた口の中から差し込まれて、喉を、内臓を内側から引き裂きながら、図太い鉄柱のように、そして、温度もなく発熱する。

感じられるのは、その。

憎しみ?

感じられた。じ、られ、て、いた。もはや。今、すべてを。

何千回破壊しても、満足することなどありえはしない。すべてを。私は憎んだ。今。憎しみの、すべてを。感じる。留保なきその鮮度。

眼もそらし獲ない憎しみの鮮明さを。

自分では起き上がる力さえないようにも感じられながら、私は誰の力添えも必要とせずに立ち上がるが、はぐられた蚊帳の色彩。その白い蚊帳がかすかな震えを持ちながら私の素肌にふれた。ためらいがちにふれて、堕ちる。

白い網目のゆらぎ。

そのまま、木製の古びたドアを開けても、その、いまだにシャッターさえ開けられていない向こうは暗い。

夜の名残りなどどこにもない、明らかに夜にあった暗さとは異質の、単にあるべき光の届いていないだけの無様な暗さ。

眼差しが確認したのは、それだけ。

彼女の名前を呼ぼうとした。

その日、あの、やがてはフエに殺されて仕舞う父親が昨日、帰って来なかったのは、単に、彼がいたたまれなかったからに違いない。

事実、病院の中からさえ、心をではなく肉体そのもを破壊されて仕舞ったかのように泣きじゃくるしかなかったフエから、逃げるようにどこかへ行って仕舞ったのだから。遠巻きに目で確認して、慰めもせずに。

一人だけ、私の許可さえも取らずに大袈裟に、ひととおり自分勝手に歎き悲しんで見せて。大声で、喚き散らすように、泣き叫んで。

その、すべてが嘘っぽく見えた心からの涙を、あの男が流すだけ流してどこかへ行って仕舞ったきり帰ってこなかったのは、彼のバイクがないことが明示していた。

私と妻のバイクに、ふと手のひらでふれて見ながら、そこに感じられたのはシートの、ビニールの粗い触感。

誰も不在のシャワールームには、濡れた形跡さえもない。

フエの父親の物置き部屋は、南京錠が外側からかけられていて、ふれた指先に、錆びかけたそれの重量と、ざらついた触感をだけ残す。あるいは、錆びの匂いさえも。

その隣の、彼と息子との共有の部屋には鍵さえかけられないままに、彼らのいくつもの衣類や、そこでの生活の痕跡をこれ見よがしなほどに残されて、そして、だれもいない。

すべては放置されたままに、そして、閉じられた木窓の隙間からの漏れ光の強烈な線が暗く照らしだす。

もう一度、ふたつめの居間に彷徨ってみて、猫が立ち止まって、私に目線を投げて、短いひと鳴きで挨拶をくれて、そして、やがては目をそらす。

こんにちは

いまだに、美しく瀟洒な猫の野生を失わない、

きみは、だれ?

単なる

わたしは

紛れ込んだ家猫。

わたし

彼女は白い。

私の存在そのものに飽きたように、音もなく、そして顔を背けたままにゆっくりと立ち去っていく。キッチンの方に。

猫を追って入ったキッチンには、その、猫の姿さえもない。

誰も。

気配も。

その痕跡も。

ひとつめの居間は、誰も使わなくなったので、もはや単なるヴォイド空間にすぎない。少し前、壁際の椅子の下で猫が子供を産んだ。

黒と、三毛と、三毛ベースの白と、白ベースの三毛と、白。遺伝子によってあざやかに巧まれた配分。

かつて、結果としてフエが追い出して仕舞った彼女の親族夫婦たちの、そして、彼らの子供の部屋だった部屋も二つ。

その向こうにはがらんとした土間。

たぶん、70年代の自家発電装置、のようなものが、ほこりをかぶっている。最近まで、稼動していた。

フエが不在の、ただ空っぽの空間だけをさらした、仏間。

アン・チャイ、菜食日には、野菜は食わない。

どうして?言った。いつか。日本だって仏教国だのに、どうして菜食日がないの?

フエは。

英語で?

ベトナム語で?

まさか、日本語ではない。

忘れた。

中央の、巨大な据え置きの仏壇。ずっとかけられっぱなしのi –pod が、男声の、きまぐれにつぶやくような念仏を唱え続ける。

聴き取れないほどの微弱音で。

広い仏間に飾られた観音像の装飾された電飾が、床の緑色のタイルに色彩の、その安っぽくけばけばしい模様を描く。

ゆっくりと回転させながら。仏の品位、というものを感じない。

すべての鍵は内側から閉まっているのだから、彼女は家屋の内部にいなければならないはずだったが、その気配さえ存在しない以上、彼女は此処には存在しないのだった。

もはや?

確実に。

私たちの寝室に、子供のなきがらを残して?

病院から連れ帰られて、子供用ベッドの上に。ちいさな遺体。

ふたたび、ふたつめの居間に戻って、私は水を飲んだ。

グラスに水をそそげば、透明なグラスのガラスは、その、色彩のないものの翳りを、ある種の色彩として刻む。

あくまで無色なままに。

無色透明、とまでは言い切れずに。

そして、明示されたのは、グラスの中の疑いようもない水の存在。

一気に飲み干された水は私の喉を潤すのだが、いずれにしても、彼女を探さなければならないのだった。フエを。

私は。

目を開いたまま涙を流して、そして、その時何の確証もいかなる正当性もなくただ私に、眠って仕舞ったに違いないと、そう確信されていた、あの、彼女。

フエ。ひそかに、その鼻から吐かれつづける息が、その音を静かに刻んでいて、私は聴いていたのだった。

私は。それを。

例えば理沙は。

彼女も。

私の心臓の鼓動を。戯れに私の胸に耳を当てて見せて、理沙には確かに聴こえていたに違いなかった。

私の、心臓の。

フエ。

鼓動。

彼女も。

音。

不意に、理沙が声を立てて笑ったので、私は戸惑いながら理沙の頭を撫ぜてやったそのころ、理沙はまだあれほどまでには壊れていなかった。秋?

あるいは、もともとすでに壊れきっていて、もとから廃墟に等しいものに過ぎなかったのかもしれない。

廃墟は、陽の当り方でさまざまな風景を描くに違いない。

私をも含めて。

何に、いつ、壊されたというのではなくて、気付けばすでに留保もなく壊されていた私は、確かに生き続けていた。

いずれにせよ命は否定しようもなく継続し、心臓は鼓動をきざみつづけていたのだから。

だれもが。

誰も。

私が確信していたのは、誰も。

結局は、誰も私を、いつでも、壊しはしなかった。壊し獲は。あの、美佐子さえも。しなかった。どうしても。

彼女がふれ獲たのは、私のその廃墟に過ぎない残骸に過ぎない。意味さえもてないその愛撫。彼女が曝させた、その、彼女の指先がふれたものは、残骸。

すでに剥き出しになっていた廃墟の、生き生きとしたその。

鼓動する、生々しい、私の素肌。

残骸。

脈打つ。肉体。

同じように。理沙と。フエ。彼女は、いない。

目線のどこにも発見できないままに、暗がり、その光が喪失されてある暗がりの中に、私は自分を捨て置いて、誰も。

だれもいないし、誰も。

壊せなどしなかったし、傷?

そんなもの、ついたことさえあったのだろうか?

私に。フエ、そして、理沙。結局は、彼女を傷つけ獲たものなどいない気がした。明確な実感そのものとして。なにものによっても、傷付けられない。咬む。私はその実感をだけ、咬んで、撫ぜた。

比喩ではなく、奥歯を。

撫ぜ続ける手を、その、自分の頭を髪の毛の上から撫ぜ続けている私の手のひらの触感を、理沙は目を閉じたままに感じ取っているに違いないのだった。

私に見つめられ続けながら。

何も言わないままに、耳を澄まし、痛い。

単に、痛み、それだけが。

傷さえない場所に、たんなる痛みだけが存在していて、覚醒し、息づいて、いかなる消去をも跳ね除けて、そこにいる。

明確な場所さえ持たないそこに。救けを。

私が、亡き、子どもの沈黙したなきがら以外にはだれもいないその日の古びた家屋の中で求めていたのは、救済を。

私に。

たすけてくれと、私は想った。

救済を。いま、まさに。

声に出して、訴えて仕舞いたいほどに。

ただ、救済を。

私が救われなければならないのは事実だった。いますぐに。救済され、誰かは救済する必要性があった。何をすれば、というわけではなくて、その空っぽで意味もない、もはや言葉としての存在価値も失ったそれ。

救済。

私は求めて、そして眼差しはフエを探し出そうとして、救い。首を、ふと。私の想いをすくいとったように首をもたげて眼差しをくれた理沙は、私のからだの上で、そして、すべて、何の遠慮もなく私に預けられていた重量が、所詮は重力の産物に過ぎないならば、それは彼女の固有の体重とはいえない。

重さによって、明らかにそこに理沙は自分の存在を刻んでみせながら、なに?と。

なに?

私のその言葉さえ待たずに、不意に鼻にだけ笑い声を立てた理沙は、後れて、「なに?」

見えるものは

聴く。

なに?

私の言葉を。

聴こえるものは

かすかに、喉の奥に引っかかった、その。

深い水の

なんでもない。

その中に浮かんで

そう言った理沙の眼差しには、意図されないままのいたずらな表情が浮かんで、どう?

なに?

私は言った。

それは

「何が?」

感じられたものは

どう?と、その言葉を言った瞬間に、私は、何が、と、その言葉を理沙が発するよりも早く自分に発して仕舞っていたので、かさねて、二重に響くしかなかった、それ。

ほんの数秒間、答えもなく想いあぐねた私の、「幸せ?」と、そのつぶやかれた声は理沙を笑わせた。

そうするしかないように、はっきりと声を立てて、崩壊。

私たちは壊れている。

ずっと、私たちは、そして、おかしくて仕方ないかのような理沙の笑い声につられた私の笑い声は、理沙の耳には届いたのだろうか?我が儘なほどに、自分だけで笑っている気になっている理沙には。

なんだよ、と、笑いに乱れた、私の発したその、不安定な発声。

あやふやで、乱れた、そんな、それ。

聴く。

「なんだよ」

繰り返して、幸せ、私は笑う。

馬鹿。

幸せ?

理沙は言った。

馬鹿。

笑い声の狭間に、そして、掻き消えることなく、

幸せ。

しずかに広がり、拡散していって、やがては

馬鹿。

空間に消えうせて仕舞うそれらの音声の群れ。

かさなり合いもしないままの。

声。ね、と。

私の。

理沙の。

ん?

声。

ね?

私の理沙の。

ん。

その、声。

F…

理沙だけが立てた、ん?声。

っ、

重なりあいかけてすれ違う、そのこっちに木魂した、声。

っんん

私の。

っっ

私だけ。

あー

だけが私。ん。声。

ん、

私だけが立てた、その。

ぁあ

群れを成して、重なり合いもしない声の。

んぁ

単独のままの、波紋なす声のそれら、群れ。

あ、っ

完全に、すべて聴き取られることさえもなく放置されて、投げ棄てられて捨て置かれて、その拡がりの。

空間の、その拡がりの中にいつか果てていく、その。

やがて崩れ去って仕舞ったように沈黙に堕ちるしかなかった、散乱する笑い声のあとの再びの、あるがままの沈黙。そのなかで、理沙さえも私に目線をくれさえもせずに投げ棄てた眼差しのうちに、あんたは?

言ったその、彼女の声を、私は不意に想い出したようにして聞いた。

何度も、もうすでに繰り返し、理沙に聴かされ続けていた気さえもして、それ、初めて聴く彼女のその音声を、耳の中に回想する。

「あんたは?」幸せ。と、口に出されないままに棄てられた言葉は、すでに、私には聴き取られて仕舞っていた。

答えようがない私は答えを返そうともせずに、完結しない疑問形が投げ棄てられたままの、その、うつろで、執拗な空間への滞在に、結局は耐えられなくなった私は理沙をひっくり返して下に敷き、無理やり奪ったようなキスをくれる。

愛、が、

彼女の唇に。

あるいは

触れる、唇は、その無反応なままのフエのそれの、

私たちを

その、かすかな

強姦する

痙攣をだけ感じていたのだった。眠りに落ちる前の、その、まだ目の前にフエがいて、そして涙を流し続けていたときには。

たぶん、愛していると、かさねられる時間の最後には人々が、だれもそうは言わなくなって仕舞うのは、結局は、相手に飽きて仕舞ったわけではなくて、その言葉そのものがもつ空虚さに気付いて仕舞うからではないのか。

褪せて仕舞った、のではなく。

美紗子は一瞬にして不安げな眼差しにその両目の色彩を曇らせた後で、何も言わずに私を見つめたまま、朝食の目玉焼きをテーブルの私の目の前に置いて、あいかわらず彼女は口を閉ざしたままだった。

何を言ったわけでもなかったが、彼女が不意に感じとったに違いない私の何かの心の動きを、美佐子はただ不安としてのみ消費して、十四歳の私にその不安に抗するすべはない。

背後の窓から陽光が、おだやかに差していたはずだった。

午前の、あきらかに朝のそれに過ぎない光はただ、かすかな冷たさを持って、外は冬だったに違いない。

ガラスを夥しい結露がぬらして、ときそれが線を引く。みち連れにされて一緒に墜落し、ひとつの曲がったでたらめな線分になって、そして。流れ落ちるそれら水滴。

室内に付けらた暖房が、私の苦手だったその不自然な暖気は肌を煽って、私は頬をかすかに上気させていたはずだ。

目を合わせたまま離そうともしない、美紗子のその沈黙に、私は耐え難さを感じながらも、十四歳の?

あるいは。

十三。

13.

その私はいますぐ学校に行く気にもなれないので、いたたまれなさの中に、気付かない振りをしてただ時間をやり過ごそうとする。

傍らに立ち尽くしたようにして、何を?と。

美紗子。何を

見ていいよ

考えているの?と、問いかけているに違いに美紗子の眼差しのすべてに対して、何を?と。

見たいなら

問いかけたい私の心の動揺には、美紗子は気付くことなどあったのだろうか?

嗅いでいいよ

むしろ、美紗子は加害者でさえ在り獲ずに、明らかに被害者に過ぎないことをは、私はすでに知っていた。私には、結局は

嗅ぎたいなら

誰も彼もが被害者に過ぎず、そして、彼らに対する断罪はいかにしても不可能だった。

いいよ

由香は、その事に気付いていただろうか?

ふれたいなら

もはや、心の震えも、わずかのおびえも、

ふれれば

おののきも、

そっと

ためらいも、

しっかりと

逡巡も、

なすりつけるように

葛藤さえなくして、ただ

なじるように

私への懐疑と憎しみに酷似した、要するに単なる執着にまみれた、私を見つめるか、決して見つめようとはしないか、その狭間にただただかさなって揺れるしかないその存在。

言えばいいのに、と想った。

私に。例えばひざまづいて、好きです、と。愛しています。ですから、私を愛してください。せめて、哀れんで、なにか、施してください。

ください。

お願いします。

わたしに。

賜ってください。

いのちを。

ください。

すべを。

せめて、すべてを。

なんとか生きていく、その、すべを。

結局のところは、彼女が望んでいることはそれ以外にはなくて、あるいは私にも?例えば理沙に対して。

理沙は、私に。

お願いです、と、ひざまづきさえせずに、あなたの望みをかなえるために、と、その在りもしないふたりの誰にも隠された真実を構築して、それに酔いしれさえして、浸りこんですらいた美紗子は、留保なく容赦もない嘘つきに過ぎなかった。

彼女自身には気付かれさえしないままに、美紗子の塗り込めた嘘が、そして由香がそらした眼差しのそこには彼女が見つめるべきものは何もない。

 

 

 

 

 


scherzo; largo #4

 

 

 

 

 

由香は、何も見つめ獲ない空白の中に、そこには決していない私の存在の、その息吹きを執拗に感じ取る。眼の付いてなどいない、その背後の、あるいは横面の、皮膚、あるいは髪の毛の毛先、産毛の毛先で。ねぇ。

と、そう言ったのは、十四歳の放課後の、その智子という名の少女だった。

智子と、たしか、夕華という名前の少女と、そしてもうひとりの、名前などとっくに忘れられて仕舞った、小柄で妙に丸っこい、はしゃぐしか能のない少女の、その集団に呼び出されればすぐさまに取り囲まれて仕舞って、挌技場の後ろの、山の斜面にはぬれた質感がある。

その大気には。周囲の全体には。雨。その残骸。つまりは。

目覚めた朝からずっと午前中を通して降り続いた雨が、昼下がりに上がって仕舞って空一面を、青空へと崩壊させていた空には、雲の名残りの息吹きさえもないままに、大気の潤いだけがその日に雨が降っていたことを名残らせたのだった。

かろうじて。

彼女たちの背後に、横を向いて、いじけたわけでもなくて、かすかな棘さえも曝せずに、ただただ被害者としての姿だけ見せつけた由香は何も言わないままに、そこに鮮明に匂い立てた自分の存在さえもを消して仕舞おうとしていて、

「どう、想ってる?」

そう言った、智子。

苗字は忘れた。確か、原田、とか。原、とか。あるいは、青木、とか。いずれにしてもそれはいまや旧姓になって仕舞っていたに違いない。彼女が、男にありつけてさえいれば。

地味な、背が高いだけの細身の少女。華奢とは言獲ない。骨の太さが、透けて見えた。

由香とは殆ど、付き合いもないはずのその少女たちは、「ね?」

言った瞬間に、私に名前を忘れられた少女が自分で鼻さきにちいさな笑い声を立てて、と、私は微笑む。

何を?

そう答えた私に、責めるような眼差しをくれたのは夕華だったが、「最低」さいっ、てえー。と、その

さいっ

音声を。

聴く。

ぇえー

私の眼差しは、夕華をは捉えないままに。

ちゃんと、やさしくしたげなよ、と、名前の忘れられた少女が、吐き棄てるように言って、そして笑った。

誰も助けてくれないから、と。

由香はそう想っていたに違いなかった。誰も。

見えますか?

友達も、だれも、結局は誰もたすけてはくれないと。

わたしが

いま、この瞬間にも。むしろ

あなたは

自分自身に対する屈折した屈辱に

見えますか?

塗れて。

あなたが傷つけた

その痛さが、私には手に取るようにわかり、それはいつかの

わたしが

私の実感に他ならなかったようにさえ思われたが、笑う。

声を立てて笑う笑う私に、智子が聴き取れないほどの舌打ちをくれて、「ねぇ、」なんでさぁ。

聴こえますか?

何?

わたしの声が

言って、彼女を正面から見つめた私に視線からは、

泣き叫ぶしかない

智子は目をそらした。その瞬間、私は彼女がいだいていた私への気持ちに気付いた。嫉妬と、

わたしの

自己破壊欲に近い、追い詰められた憎しみの手前のどこかで透明な、しらけた感情にみたされて、智子はその関係がいますぐに綺麗に破綻することだけを期待し、確信し、求めながら、

声帯さえ

私と由香とをくっつけて仕舞おうとしていた。

掻き切られた

その不意の呼び出しは、

わたしの

由香が求めたのではなくて、智子が、むしろ強制したものなのかもしれなかった。話、つけちゃいなよ。と、たとえば。

そのときには、まだしも他よりはかわいらしく、どこか大人びて想われた由香の顔や身体の佇まいは、いま、そのままに今の私の眼差しにふれたなら、私にどんな印象を残すのだろう?

泥臭いだけの、田舎の単なる糞餓鬼、なのだろうか?

持て余したように、夕華がイラついた気配を撒き散らした瞬間に、「ふたりで話させてよ」と私は言ったが、そもそも、そのふたりには何ら、関係などありはしなかった。

ただの戯れが、不意に交錯して仕舞った瞬間があったに過ぎず、たぶん、由香はそれがそうであることを、認めようとはしていないのだった。その行為が、たとえいきなりの僥倖のようにでも、為されて仕舞えば偶然は必然でなければならない。

由香は何も言わずに、向こうのほうだけを、かすかに瞳孔を開かせた眼差しに捉え続けていたが、明らかに、ふたりだけにするのを拒絶したがっている智子は、むしろ何も言わずに、ややあって、いいよ。

「けど、さ」何を見ていたのだろう?

由香の眼差しは、その、そらされ放置された眼差しで、濡れた草の山際の斜面の、「なにを、ね?」その水分の停滞し続ける潤いの気配を?「なに、はなすの?」立ち去り際に振り向いて、言った智子には焦燥があった。なぜ?

私は想う。

どんなに求めても、自分のものにはならないのに、そんな事自分でも十分に分かってさえいるはずなのに、なぜ、求めあぐねて焦燥するの?

容赦もないほどに。

好き

むしろ、死んじゃえよ、と、想った私は、つぶやく。「ありがと」

お願い

微笑んで。

好き

なにが?智子が言った。眼差し。泣くにさえ至らない、その。あるいは留保なき絶望。

大好き

「いろいろしてくれて、ありがとって」

死ぬほど

悲しみの執拗さに、顔さえもしかめず無表情を曝して、一瞬私をだけ見つめた後に立ち去る智子は

好き

何をするのだろう?

お願い

やがて一人になったときに。

好き

私を想いながら?

結果として自分が、穢らしい同級生にくれて遣って仕舞うことになったのかも知れない私の、次の日に自分が見出さなければならないかもしれない十数時間後の睦まじい未来におびえながら。いいのに。と。

壊れて仕舞えばいいのに、と、私はその静かな、無言の、何事もない、灼けつくような焦燥にだけ駆られた少女の後姿に、すでに壊れているなら。

好き

壊れて仕舞えばいいのに。

大好き

想う。なぜ。と、私は自分自身に戸惑いながら、フォークをはねつけて、不意に立ち上がって、そして食卓を出て行こうとする私を、美紗子は無言のままに咎めた。

手もつけられていない目玉焼きが冷めかかって、もはや湯気さえ立てないで、匂う。

油の。あるいは焼けたやわらかいたんぱく質の臭気。どうしたの?と、そう言っているに違いないのに、美沙子の私を見つめる眼差しはただ私を見つめるばかりで、その、咎めだてる表情には、何かを訴えかける色彩さえもない。

振り向いて、美紗子を見つめても、その、何の反応をも示さない眼差しに、戸惑う。

私は。

いらない、と、言おうとした。

ふたたび指先が目玉焼きの、その平皿の縁にふれて、数ミリだけ動かしたが、それは拒否の意を伝える用をは足したのか?

それとも、まったく無意味だったのか。

いきなり、彼女を見つめなおした私を、美紗子はひっぱたいたのだった。「何がしたいの?」

言った私に、由香は反応を示さない。

あえて、ではなくて、目の前の、自分の体を震わせることさえできない被害者は、反応を示し獲るいかなる可能性さえもはや、なにも持ってはいないのだった。

ひざまづけばいいのに。

やめて」

どうしても欲しいなら。

なに?そう、振り向きもせずに、一瞬、髪の毛先にさえ痙攣の気配を曝しながら、接近しようとしてもいなかった私を必死に押し留めようとするに由香に、「なに?」

こないで。

由香は言った。

「なんで?」

こないで。

何が欲しいの?言ったとき、私は侮蔑じみた笑い顔を、彼女に曝していたに違いなかった。「頭、おかしいの?」

聴く。私は笑う。

「狂ってんの?」

由香は。

「クサ喰ってる?」

聴く。

「頭、腐ってる?」

声を、私の。

「なに、勘違いしてんの?」

無数の、その。

「お前、ただのぶすじゃん。」

私の、矢継ぎ早の。

「俺がお前なんかに靡くわけないから。」

かけられる声。

違う?」

罵倒。

「くそじゃん」

罵詈。

「くさいよお前」

声を立てて。

「自分でもわかってるでしょ?」

私は最早、声を立てて笑っていた。

「むしろ、死んだら?お前、」

由香が示さなかった、その、そして。

「生きる資格ない。」

由香は何の反応も示さずに。

「無理でしょ?」

聴く。

「女やめたほうがいいよ。」

彼女が聴いていることは知っている。

「うざいから。」

ひざまづけばいいのに。

「穢いし。」

ひざまづいて。

「もう俺のこと見ないで」

そして、乞い願えば?

「いっつも、さ。」

せめて、あなたの。

「もの欲しそうな、さ」

せめて。

「発情してんの?お前。」

あなたの家畜くらいにはなりたいのだと。

「馬鹿なの?」

せめて。

「ちゃんとさ、

虐待される家畜ぐらいには。

「自分の顔見てみなよ」

願い、と、ひざまづいて。

「死んで。本当に」

そして、当然のこととして。

「頭おかしいから」

結局は何も与えられずに。

「存在してる価値、あるの?自分で、」

ひざまづいたままに。

「自分、分からない?お前、」

壊れて仕舞えばいいのに。

「人生すでに失敗だからね。」

壊れて。

「百万回くらい死んだほうがいいよ。」

不意に振り向いた由香は、いきなり大量の涙を流す。膨大な。表情のないままに。まぶたのかすかなわななきさえもなく。悲しみも。なにも。

屈辱も。

怒りも。

絶望も。

悲嘆も。

落胆も。

悔恨も。

詠嘆も。

苦痛も。

葛藤も。

逡巡も。

何も。

わずかにも。

一切の感情のない、ただ表情を欠落させた単なる透明な、あるいはみずからが透かせた肌の色にだけくすんだその水を、滂沱の。

唇さえ震わせずに。

瞳孔を相変わらずあからさまに開かせたままで。

何も言わない。

それに、何の意味を付与できるわけでもないままに、美しい、と、私はただ、そう想った。美しい。

もう

持て余す。

なすすべもないと

私は。その美しさを。

想う

留保もなく。持て余しているもの。

私は

私が。

立ち尽くして

それは単純に、フエのいなくなったくらい空間。心象風景として、ではなくて、何の比喩も含まずに、単純に暗い空間の中に、たたずむしかなく、持て余しているばかりの、なに?

何を?

何を私は持て余していたのだろう?

時間をか。

空間をか。

事実をか。

あるいは、私自身の物理的な孤独を、と、そう言って仕舞うべきだったのか、いずれにしても、鮮明に持て余されていた、それら。

居間の、過剰な飾り彫りが彩った木製の椅子に座ってみ、不意に想い立ってシャワーを浴びて、からだに生ぬるい水流を打ち付けて、這うように濡らした水滴を、やがてはバスタオルに拭きとれば、ベッドルームに帰って、ちゃんと服を着る前に、もはや涙さえも。

そんな、涙さえも流しようもない打ち棄てられた、不安と呼ばれる感情になる以前の、ただむしろ悲しみとしか言いようのない、にもかかわらず何をも切り裂きもしないうすらべったい感情の散乱に満たされて、不意に。

そのまま、正面広間の巨大な木の扉の傍らのちいさな木製の窓を開いてみたのは、少しでも空間に光を与えてやるためだった。

何かを見たかったのではない。

何も見獲なかったのではない。

暗さに馴れて仕舞った眼は、眩みながらも結局はすべての形態を、色彩を、完璧に捉えてさえいたし、あるいはそんな視覚など必要ないままに、空間に、今が朝であることを知らしめる光があふれていることは容赦もなく知覚された。

まばたき、窓を開いたそこには、ピンク色のいつもの寝巻きを着たままのフエが、たたずんでいた。

何事もなく、正面の広大な庭の、すみの鉢植えの花々に水を遣っているのだった。待ち望んでいた、そして、捜し求めていたに違いなかったフエの姿は、私の心に何の感情も与えなかった。

私はただ、数秒間見つめ、ややあって振り返ったフエが短い一瞬だけ私を、離れたその窓越しに確認して、微笑をくれた、その、フエ。まるで何事もなく。

昨日起こったこと自体、なにも存在しはしなかったような、単にありふれた普通の微笑みをくれてそのまま、彼女が作業に戻って仕舞うのを私は眼で追って。

何もなかった。感情など。私には。

喜びも、なにも、かたちをなさない感情以前の何ものかをさえも持たないままに、私はただ、微笑み、やがては声を立てて笑った。その笑い声はフエには聴き取られなかったに違いない。その、ふたりの微妙に遠い距離のせいで。

それなりの時間を贅沢にかけて、入念に水を遣って、その前にしゃがみこんで、その指先に花弁をふれさせてみ、フエはその花々の何かを確認しながらも、背中を向けた彼女の丸まった形態そのものに朝の光が上から覆いかぶさって、見る。

私は、照り返す、ピンクの粗い布地の、そして束なった彼女のおびただしい髪の黒の繁殖に点在する、もはや洪水を起こしたような光沢の氾濫。

彼女が家屋の外に出て仕舞ったあとに、木製のドアは音もたてないままに堕ちて仕舞ったに違いない。

いつものように。いつもの、不在の逃亡者の完全犯罪。かつて、くしゃみをしたこともない逃亡者のための。

朝の、いつもなら休日の日課だった、その長い長い水遣りの仕事を終らせた彼女が、明確な表情さえもなく、窓越しに私に近づいて、そして私を見つめた彼女が目にしたのは、ただ、無表情に、当たり前のように涙を流している私だった。

その、鉄格子のはめ込まれた、木戸の開け放たれた窓の向こうに。

どうして?

Tai sao ?

フエはつぶやくように言って、その音声は明確に私の耳にふれたものの、私はいかなる感情をも芽生えさえ獲ない。私が確認するのは彼女が眼の前にいた事実にすぎず、鉄格子の間から伸ばされた指先が、私の頬の、涙にふれようとして届かない。

何の意味もなかった。

あふれ、流れ出る涙には。

何の感情をさえも表現できないそれは、そして、フエはしずかに案じる眼差しをくれて、何事もなく、もう、と。

もう忘れて仕舞ったの?

私は想う。

子供が死んで仕舞ったことをさえ。あなたは。と、そう想っているのかもしれない、私の、感情の、あるいは夥しいつらなりあった喚声の群れそのものの、ただ、からっぽの空白は、想った。

私は、想う。初めて私は嘘偽りも泣く、本当の涙を流している実感に、ただ、心が震えた。

何の感興も呼び起こしはし獲ないままの、その単なる震えが心臓と喉元にある。唇さえも、わななきはしない。

 

美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十年前に、七年ぶりに実家に戻ったのは、仕事でベトナムに行くからだった。はっきりとそう意識したわけでも、その明確なあてがあったわけでもなく、日本になどもう戻ってこない気がした。いずれにせよ、当分の長い間の渡越になるはずだった。

もともとは、ベトナム進出するという縫製企業の工場と販売店建設ための、現地コンサルが私の仕事だった。日本に飽きていたし、あの東北の地震のあとに繰り返された、一連の日本人の去勢されて、善意を押し売りにした雰囲気から、逃げ出したかった。日本の政治にも、文化的状況にも一切の魅力など、あるいは違和感や嫌悪感さえも、もはや感じなくなっていた。とか、そういった理由はすべて、後付けであることには自分でも気付いている。なぜだったのだろう?頼まれてもいないのに、なかば亡命するように日本を棄てて仕舞ったのは。

確かに、あの地震と原発事故以降、変わることなど出来ない日常のルーティンの中で、何とかしてそれ以前と以降の違いを、必死になって自分の中に造ろうとしているようにさえ想われた、震災直後の日本人たちには軽蔑しか感じなかった。倫理のように喧伝された絆というフレーズに、ではなくて、それをさかんに消費しながら何を変えられるわけでもない日本の、日本人の、自己憐憫的な、そしてだれもそれに気付かないでいる当たり障りのない風景自体が、いたたまれなかった。

それは、私にとっては、あまりにも孤立していて、いじましすぎていて、どうしようもなくいたたまれない風景だった。

地震から、ではなくて、日本人から逃げ出したかった。帰ってこないですむ口実さえ作れるなら、そのまま海の向こうの流れ者になって仕舞いたかった。

右傾化とは言え、本気で軍拡に走るわけでもなく、本気で天皇を担ぎ出すわけでもなく、富国強兵を目指すわけでもなく、単なる自己憐憫に陥った、自分たちの正当性と優越性を信じ込もうとするばかりの実質のない馬鹿騒ぎにも、飽き飽きするしかなかった。

国を棄てる理由など、後付けで、いくらでも考え出せるには違いない。だから、異国の地で、私が出逢った日本人に説明する口実は、いつも適当で、いつも最後にはつじつまが合わなくなり、結局はだれをも納得させられなかった。慰めと不審が入り混じった眼差しを誘っただけだ。

あのとき実家に帰ったのは、両親に会う必要があったからではない。マンションを引き払った後の住民票をとりあえずどこかに移転させる必要があった。

それだけに過ぎない。

父親が脳梗塞で倒れたことは知っていた。

大学を出た年に、ちょうどかぶって倒産した父親の会社借財の後始末が、結局は親族の殆どを敵に回すことになって、彼らがいつのまにか孤立無援になって仕舞っていることも知っていた。

数えるほどの何度か、帰ったときに私が確認し獲たのは、彼らの完全に和解した、お互いにささえあって二人だけで生きている、うつくしくもけなげないかにも夫婦らしい夫婦の姿だった。まるで、生まれて初めて、彼らはやっと、本当に夫婦として結ばれたかのように。

あるいは、再び。あるいは終に。あるいは、いずれにしても。

そこにもはや私の入る隙はなかったし、入りたいとも想ってはいなかった。喪失感さえもない。結局は、大学進学で親元を離れて仕舞ったあと、彼らを全く顧みなくなった私は、ひょっとしたら、彼らに傷つけられたことを自覚し、彼らを容赦もなく嫌悪していたのかも知れなかった。

もはや、そんな感情の生々しさなど、離れ離れになって仕舞った自由の故に、まったく無効になって仕舞っていたにすぎないその時に、むしろリアルにその感情の、かつて存在していたに違い事実が目の前にちらつくのだった。想い出され、ようやくすべての必然と意味が納得できたように。

彼らは、私を破滅させた。ぼろぼろにして、魂を切り刻んだ。私は、彼らを憎悪していた。だから、彼らを棄てて仕舞ったのに、違いない。

そうとしか解釈できないが、それが本当かどうか、私はわからない。すべてはすでに終って、単に無効で、無意味な事実にすぎなかった。いずれにしても、最早母親に求められることもない私の肉体は、魂は、存在は、結局は私に、やにさがってしっぽを降るしかない馬鹿な女たちの群れのために、きまぐれに濫費されるしかなかった。

ときに、稀には、心からの愛をも彼女たちの誰かに捧げて仕舞いながらも。そんな私に対して、くそだよ、と、だれかが言xってくれたならば、その通りだと、笑って承認をくれてやったに違いない。かならずしも、荒んでいたわけではないが。

広島。その外れの岡山との県境の町に、そのときの実家はあるはずだった。

すべてを失った両親は、借家から借家へ、引っ越しを繰り返していたので、実家とはいえ、帰郷のたびにいつでもそこは初めて訪れる場所にすぎない。実家がどこなのか、行って、探さなければ全くわからない。

福山駅で新幹線を降りて、そして、駅を出る。地上に降り立つ。臭気のない空気に、記憶がある。当たり障りのない、いかにも日本的な、くすんで色あせたような光の色彩にも。

行き惑う。

あまりにも久しぶりに来た町なので、懐かしく、同時に見馴れない。懐かしさが執拗に覆い尽くして、眼差しの全部に漂い続けるのだが、明確な記憶の鮮度などもはや何もありもしないそこは、ただ、奇妙な、他人事の質感をだけ残すにすぎない。

一瞬、すれ違った、腰を曲げて、誰も乗っていない車椅子を引いて歩く老婆に、道を聞こうとして口籠る。日差しがその耳たぶに斜めに刺して、干からびたような、渇いたその肌。

日に灼けないままに、褐色にくすんだ、それ。

あからさまに、かさついて。

いくつのシミの色彩を無防備に曝し。

匂ったのは、干草のような、日差しに乾いた衣類が立てた干からびて、どこか毛羽立った昏い匂いだった。彼女に聴いたところで。

老婆の肩をたたこうとしていた腕は行き処をなくして、終には停滞し、ただ、無意味だ。と。

知っているわけがない。誰も。何を?

私の実家の所在地など。そんな事は当たり前だ。どこに、そんな人間がいる?いきなり、すみません。僕の実家、知ってますか?そんな人間なんて。

 

だれにも、知られてはいないのだろう。なにも。

なにもかも。

 

私はタクシーを止める。

 

運転手に教えた住所はなかなか見つからなかった。時々ドライヴァーは振り返って、なんらかの手がかりを求めるのだが、なにか、ないですか?

目印とか。

行ったこともない場所に、そんな手がかりの記憶などあるわけもない。私は苦笑いでもするしかない。「ご実家、なんでしょ?」

変わっちゃったから。ここらへんも。」笑う。

ドライヴァーさえも。人が減っただけで、そして外国人が増えただけで、変わりようもない田舎町。途中でドライヴァーは自分からメーターを止めて、場所をカーナビにもういちど確認し、最終的には広い道路だけが拡がったその周辺の、点在した人気もない家屋に訪ねこんで道を聴いたりした。「ここまできたら、ね。もう、運命共同体だからね。」ドライヴァーは声を立てて笑った。何度も車を止め、同じような道を行き来する。

途中、生まれ故郷の町を通り過ぎた。何の感興もわかない。感興をわかせるには、あまりにもそこを離れすぎていたか、あるいは、記憶もないままに感興をわかせるほどの長い時間を離れていたわけでもなかったか。奇妙なほど、昔そこに住んでいたことがある、あくまでも他人の町でしかない。

すぐ側にまで接近しあった低い山つらなりの際に生まれたその町は、いくつかのよく整備された道路を走らせ、疎らではあっても家屋を点在させて、田んぼなのか畑なのか、生産性があるのかないのかよくわからない、とりあえずの耕地を曝す。いずれにしても、そこに人々が住んでいる以上は言うまでもなく立派に一つの町を形成しているのだし、そして、そこに町内会もあれば市役所もあるに違いことは、その雰囲気がかろうじて伝えるのだが、奇妙なほどに、外に人がいない。息吹きさえもが感じられない。

むしろ空気が見えない毒素に汚染されてでもいて、外出禁止令でも下されているかのように。だれも。戒厳令でもしかれているかのように、無人の。ときに、本当に珍しくすれ違うのは車で、日差しを浴びたフロントグラスはその、きらびやかにさえ見えた反射光によって、中の人間の姿などかき消して仕舞う。だから、そこに人間が乗っていることをは、視覚には終に明示されない。

外気にふれている、日差しが明るく照らし出したそこに、人々は誰も姿を顕さない。

人のいいらしいその50代のドライヴァーは、当時三十歳を少し超えた程度だった私に、媚びいるような眼差しをなんどもくれて、てれくさそうに話しかけ、侘び、諂い、とはいえ、私たちの迷子状態が、このドライバーのせいでないことなどは、誰の目にも明らかだった。

干からびそうな河が流れて、その向こうには田んぼが広がり、山道をときに上昇し、下降し、広大な更地かつては住宅があったかもしれないその、なにもない土地が広がっては、とはいえ、家屋は途絶えることなくまばらな点在を曝す。

険しい獣道と言うわけではない、整備されきった地方の町の公道なのだが、あまりにも空気が希薄すぎて、どこに何があって、どこに誰がいるのかわからない。

もちろん、気付いている。そこに入りこめんで生活すれば、そこが明確な情報にあふれた、むしろ最強音で轟音を鳴らす記号の膨大な群れに埋め尽くされた騒音都市に他ならないことなど。

経験的には。とはいえ、眼差しはただ、何の情報も曝そうとはしない希薄さだけをしか捉えない。

はじめて行くにすぎないそこは、かならずしも私の実家とは言獲なかったし、そして、なにもそこで生まれ育った経験があるわけでもなかった私にとっては、しかし、いずれにせよそんな風景の代わり映えしないヴァリエーションのひとつの中に生まれてきた私に、私はいつか哀れみを感じるしかなかった。その町に、ではなくて。

私にとっては、見ず知らずの風景であっても、誰か他の人にとっては、私の生まれ育ったあの町も、この町も、同じように区別が出来ないほどに《同じ町》に過ぎないはずだった。

何の差異もありはしない。

そして、父は笑っていた。久しぶりに会った彼は。どこまでも、痴呆的なまでに人のよさそうな、そして、半身不随で運動しなくなったからだ、と母は言ったが、太ってパンパンに膨らんだその、実年齢より老いさらばえた60前の男。やっと、辿り着いた実家の、私には、なにがどこにあるのかも分からない他人の家屋の中で。

皮膚が、肥満のためにか、何のためにか、びっくりするほど瑞々しかった。それに比べれば、かたわらの母など、干からびた《ひもの》に過ぎない。

ダイエットさせてるのよ、いま。

母が言う。すると、父。

つぶやく。

笑う。彼が、何を言っているのかはわからない。ああーと。うん

あん。

ああー

あーあああなあーん

あなーゅう

んああー

彼は、話す。声を耐えて笑いながら、ひたすらに。

いつくしんで、いつくしんでもいつくしみたりない、その、とはいえ、十分に満ち足りてさえもいる妻の眼差しに見つめられながら、父は。不意に想い立って、自分勝手に、そんな事は不可能なくせに、自分だけで起き上がろうとしさえして。

数ミリの頭部の上昇で力つきて。

ふたたび、彼は枕にうもれた。子供じみたアニメ柄のバスタオルでぐるぐる巻きにされたやわらかなそれ。音も立てずに。

頑張って、と、笑いながら母は言った。むしろ、父がすでにその数ミリに力尽きて仕舞っていたのを確認した後に、ゆっくりと、ただ、やさしく、「がんばって、ね。」ねぇ、と、私に確認し、何かを促す声を立てるが、眼差しは私をは捉えない。「ね。」

父は聴こえているはずの声には何の反応も示さずに、私を見ながら、そして声もなく顔だけで笑い、眼差しの先には、私の慮るようなひそめられた微笑が捉えられていたに違いない。報われているのだろうか?

想った。

彼らは、もはや留保なく。あるいは、報われて仕舞ったのだろうか?為すすべもないほどに、彼ら、痛みを、時に身体的な暴力をさえともなって、かつて、お互いの周囲に神経質な蜘蛛の巣状の棘を張り巡らして、執拗にお互いの存在を確認しあっていた、単に為すすべもなく、私を含めたあらゆるものに対して破壊的であったにすぎない彼らは、そんな過去の、未だに私にとっては鮮明な記憶でさえあった、(とは言え、もはや)その記憶。(そんなものは今ここには存在しないと、)それ自体が偽造されたものに過ぎないとばかりに、(彼らの眼差しは明示した。)やさしさ。

ただ、やさしさのうちに、すべて、報われて仕舞ったのだろうか?なにに、報われたのか、何の定かな手がかりさえないままに、あるいは、微笑みが空間を満たす。私たちが占有した空間を。

 

しかし。そして空は。

 

朱に染まった空は、それは、ただ、いま、空間に夜明けの時間が訪れていることを明示だけして、何も語りかけはしない。目覚められた眼差しが捉えた、その、正面に見えた壁の通風窓の、小さな枠の向こうに見えるちいさな空の、雲を東から斜めに色彩に穢した、その。明けの空。

傍らの、笑うしかないほどに複雑に、身を曲げて寝息をたてるフエには眼差しを与えずに、皮膚。

褐色の皮膚は、そこで未だに暗いままの室内の明度に染まっているに違いなかった。すべてを曝し出して。毎日、愛し合う。どうせ、途中でやめて仕舞うのに。

毎晩。毎夜。

その結果を求めているわけでもなくて、あの、ホアが死んで仕舞った後にも、なぜ、それをしなければならないのか、その必然さえ感じられないままに、惰性にまかせたとさえも言い切れずに、かさねられあって、力尽きもせずに、その寸前で飽き果てた疲労感の中に、やがては眠りについてしまう。

服を着て、外に出て、だれもいないことは知っている。そこにはただ、自分のそれ以外には人の気配さえない空間が広がって、今のただっ広い空間のどこかに猫が鳴く。

野生を失わない家猫の。

あの、子供を生んだ真っ白い、その。

猫の姿を探すが、見当たらない彼女を、数秒間、その声がしたはずのバイクの翳の下に探してみるが、不意に反対側の背後から、足元をすり抜けていくしなやかな彼女には、私の鈍感さへの嘲笑さえもない。

シャッターを開けて日差しを差し込ませ、背後に彼女の長い、泣き声を何度か聞いた。私には、その声は哀切に、切実で危機的な何かを訴えているようにしか聴こえない。おはよう、元気?気まぐれにそう行ってみだけなのかもしれない。バイクを出せば、裏庭の脇にたたずむ彼女の子供6ヶ月くらいのその、雌雄も知らない、黒猫が私に泣き声をくれながら親しんで接近しようとして、不意に、私の顔を見留めれば警戒する。想いあぐねて、壁にからだをななめにこすってその身体をみずから愛撫してみながら再びの、憑かれたようなためらいがちの接近を見せたが、不意に立てられた耳と、まん丸な眼差しが、おびえと警戒を曝して、踏み出しかかった足の先を一瞬奇妙な方向に着地させた。

私を捉えつづけた眼差しはすでに私を通り越して、聴覚が捉えた何かを鮮明に見出す。飼いならされないままに、人間と共生した猫の、複雑な英知の戯れがその、私にいまだに雌雄さえ知られないままの小動物の内部を引き裂いて、私の眼の前に自分勝手に自分の肉体を戯れさせていれば、私はただ微笑んでやるしかない。

バイクを走らせる。

午前6時。日曜日の。まだ早い。路上には殆ど誰もいなければ、まだ、無人の都市にすぎないその空間の、走らされる6車線の広すぎる道路沿いに乱立した低いビルの群れの、自然な青陰に染まった躯体を、東の空が投げつけたオレンジ色の朝の色彩が目的もない単なる暴力として、その青暗さの先端だけをきらめく鮮明な朱に破壊する。片っ端からビル群の首の先だけちょん切って回ったような、その、朝日の無差別破壊。

 

その夜、実家で、結局はどこにも行かずに母と、父と、単にテレビを見ながらすごし、とはいえ、かならずしもだれに見られているわけでもないテレビの、眼差しに聴こえただけの音声は、もちろん、なにか聴きとられているわけでもない。外国語のように聴こえる音声の群れ。

それでもときに、薄い笑い声を立てもする母の、そのかすれた笑い声が耳に残る。

狭い十数畳程度の居間に介護ベッドが添えつけられていて、父は一日中そこに寝転がり、母親はその脇に蒲団を敷いて寝ているようだった。ときに、その介護ベッドに入り込んで寝ている、と言った。寒い日なんか、ね。

お父さん、ほら、暖かいから。

暖かくは11月のその日、いちいち自分の蒲団をそこに敷いて見せたのは、久しぶりに見る息子の前での意図的な他人行儀のせめてもの分別、と言うものだったのだろうか?こんな肌寒い日には、父のベッドにもぐりこんで寝ているのに違いない。となりに私の蒲団も敷いてくれたあとで、二階に、お前の部屋もある、と言った。

お前が帰ってきたときに取っておいた部屋があるけれども、そこで寝るか?

拒絶も、同意も、何をも下す必然もない私が当然の戸惑いをただ曝していると、不意に申し訳なさそうな顔をして、もしそこで寝たいなら、と、言う。

一時間くらい後にしてくれ。

どうして?

いま、荷物部屋になっていて、片付けなければならない。

私は声を立てて笑い、しかれた蒲団の上に横たわった。

 

父親は、二時間以上も前にもう寝ていた。

一日に何時間、寝ているのだろう?無為が、もはやゆっくりと彼の知性と呼ばれるもの、その、脳細胞の活動を、痴呆と呼ばれる状態へとゆっくり、図らずも頭の中を水で薄めていくように近付けていることが、手に取るようにわかった。

母に悪気があるわけではない。そんな意図さえそもそもない。私からの仕送りもないのだから、結局は自分でなんらかの仕事をしなければならず、喫茶店でバイトしているのだと言った。

他人より安い老人給で、スイーツを作る。地方の若者向けのスイーツには、私などより遥かに詳しかった。

その、しわとシミに塗れた手で。

忙しいのよ。」

50歳半ばの。

「週末なんかもう、」

老醜?確かに。

「匂いだけでお腹いっぱいよ。」

薄暗いだけの空間に、眠気さもが訪れず、母はすでに寝入っていた。結局のとこは、久しぶりの再会の想い出話に値する、当たり障りのないものは殆ど枯渇していたので、殆どなにも会話などされることさえなくて、時間の中に、ただ身体的に接近して、同じ空間に生息して、そして力尽きたように眠る。

十八歳に至るまでの、膨大な時間の共有があったはずなのだが、口に出して語られ獲る記憶など、殆ど想いつかないのだった。あるいは、痛みだけを伴った、あまりにも希薄な共生だったのかも知れない。至近距離で、肌と肌さえ、粘膜と粘膜さえふれあわさりながらも。

それでも、不意に、私は想った。彼女は、最終的に許されるべきだと。私は未だに、彼女たちに許しを与えてはいなかった。そんな気がした。

私にすでに棄てられて、そして、彼らは今もなお棄てられつづけているままなのだった。体をゆっくりとひっくり返し、耳に、父の、大袈裟で無骨な介護ベッドの上のいびきを聞く。

身体のどこかの機能が、明らかに破綻しているかのような、その。とっくに寝息を立てている母親の、無造作にはだけた毛布の中に入って、彼女を抱いた。

やがては目を覚まして、取り戻されていく意識の明度の気配の中に、彼女は私を抱きしめはじめる。

やわらかく。

あなたが望んだものだろう?

やさしく。

いつくしむように。何かを許そうとしたかのように。

彼女の腕が私を抱きしめ、想う。私は。焦がれ、望んでいたはずのものだろう?これが。あの頃には与えられなかった、そして与えられていると意図的に錯覚していたに過ぎないものだろう?

指先がお互いの身体の、時間の中の劣化をなぞり、匂う。劣化した体臭。

彼女だけは、嗅ぎ取っているに違いない。私の、そしてその私の体臭を嗅ぎ取らない私の嗅覚は、他人の体臭だけを嗅ぐ。

劣化だけを曝す、私の体臭。

空間に漂うもろもろの異物の立てた微かな匂いさえをも含めて。蒲団、カーペット、テーブル、菓子、テレビ、その他家電、それら、異物の無数のかすかな匂いの群れの集積。

違いが、わかるだろうか?想った。かつて、与えられたものと、今、まったき許しとして与えられているものとの明確な違いを?

やがて、私がその体内に与えたものが、なにかの気まぐれで受胎させることでもあったとしたら?

その、ありえないに違い妄想じみた感覚に、微笑みながら目を閉じたままの彼女を撫ぜた。

何も言わないまま、その手のひらの愛撫を受け入れながら、彼女は息遣う。息をひそめて。

かつて、何が起こっていたというのだろう、と、想った。その、行為の間中。

私たちは、何をしていたのだろう?

そこに傷などあったのだろうか?

痛ましさや、葛藤。

逡巡。

戸惑い。

苦しみ。

懊悩。

あるいは怒り、激怒、憤怒、そして、何が?

結局はそれは犯罪でさえ在り獲なかったに違い、と、空白に似た実感の、その明晰さにだけ、満たされたのだった。

私はかつて何も見なかった気がした。何もない、廃墟のような空間に、ただ一人で、でさえもなくて、つねに誰かと戯れながら、その廃墟以前の荒廃した、むしろ未生成の空白のなかに、目醒めていて、そして。

母は下から、私の頭を撫ぜた。

彼女は、私の、たぶんあの頃と同じ、と、彼女にはそう認識されたに違いない子供じみた行為を受け入れ、そして、彼女は私に許しを与えてくれたに違いないなかった。

なんの罪が?

そこに。かつて、許されるべき何の罪があったのだろう?あるいは、そこに、いずれにしても愛と言うものがあったのだったならば?

愛?

あるいは。すくなくともその一形態の。

愛。いつか、愛は私たちを留保なく破壊した。

 

何を捉えているのか。

私は想う。

私の体の下に、閉ざされるしかなかった眼差しは。

そのまぶたの下で。

 

微笑んで見下ろした彼女の眼差しを、見上げた。確か、十二歳の私は。どちらが、飽き足らなくなったのか。彼女の手のひらが施したその、彼女によって通過儀礼とされた自慰の数日後には。もう、そうするしかないと想ったのは、どちらだったのか?美紗子は追い詰められた表情をさえ曝して、そして、同じその眼差しが私を哀れんで見下したような煽情を曝す。しなさい。無言のままに、つぶやく。お前の求めているものを、その手につかみなさい。聴いた。お前の、息遣い。求めているものを。

あげよう、と、犠牲に臥そうとする、その、眼差しが煽情する。つかみなさい、ここに、目の前にある、その、匂う。お前の欲したもの、獲ればいい。感じられたのは、それを。他人の体温。発熱した、その。壊れて仕舞え、死んで仕舞えと、明確な憎悪が渦巻いて、この目の前の穢らしいもの。破壊を。もっと、無慈悲なまでの、と、望んでいたのは美沙子の、取り返しようもない死をさえこえた完璧な破壊だったにもかかわらず、絡みつく腕に絡め取られながらも、壊れて仕舞え。頭の中につぶやき続けながら下から腰を動かし続ける十二歳のときの、いつかの夜の、不意に眼差しが捉えた暗やみの中にかろうじて確認される天上クロスのその色彩。

白。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.08.15.-8.19.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:Ⅰ

 

 

 

…underworldisrainy

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《雨の中の風景》連作:Ⅱ

 

 

堕ちる天使

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《雨の中の風景》連作:

 

 

 

堕ちる天使

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奥付


scherzo; largo


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