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11.

 

 黒葛原は訊ねた。

 

「善治郎さん、言っていたでしょう。家族がどうしているか知りたいって。でも岩井さんには土蔵の近くに埋めて欲しいと。家族のことを気にしていたのに、今はこの世から消えたいと思っている。この差は何だろう」

 

 瓶の中で、埃が丸を崩したように聡子には思われた。顔を持つなら今は、眉が下がり視線は虚ろに落ちているのかもしれない。

 

「責めているわけじゃありません。友だちとして、心境の変化が気になるんです」

 

 大きな手が瓶に触れた。日は西の山向こうでまだ踏ん張っているが、すぐにも夜に追われるだろう。野良猫も消えていた。

 

「つーちゃん、今日、俺に関わりのあった誰かに会っただろう」

 

「分かるんですか」

 

「あんたは立場上、仕事で知ったことを話すのはご法度だ。でも、俺は埃だよ。誰かが持ってきたもの連れてきたものを寄せ集める。あんたが今日連れてきたのは、線香の煙だ。あまり上等じゃないな。昔ならいざ知らず、俺の今の実家に老舗の線香を買う余裕なんてないだろうさ」

 

 四元家は、米・塩・酒を商って繁昌していた。

 

善治郎の父には、長男誕生の後子どもが育たず、間を置いてようやく生まれた善治郎は甘やかされた。年の離れた兄が家を継ぐ頃、善治郎は兄の片腕になれる学問をと強いられ、反発して家出した。

 

「これという目標も野心も、何もなかった。ただ言われたままに生きるのが嫌でさ。親の通帳と印鑑を盗んで夜行に乗った」

 

炭鉱、ダムの建設現場や自動車工場など、あちこちを渡り歩き、流れ着いた多摩川沿いに棲みついた。

 

一度だけ、幼馴染に手紙を書いた。届いた返事から、兄が子を成さないまま若死にしたこと、弟が跡を継いだが家業は傾いたこと、妹は県外へ嫁いだことなどを知った。父母も家も、もうなかった。土蔵だけが残った。

 

「帰ろうと思わなかったの?」

 

 聡子の問に返事はなかった。宵が足元から這い上がってくる。そろそろ、と黒葛原が先に立ちあがり、そして、声を落とした。

 

「弟さんは先週亡くなったそうです。今日、家の整理に残っていらした妹さんにお会いしました。善治郎さんについては、警察から報せがあったそうで、ご存知でした」

 

 雪のちらつく夜だった。

 

酒を飲んで喧嘩して殴り殴られ、自分のテントに這って帰り、重ねて飲んだ。毛布も被らず寝込んでしまい、夜中、凍えてそのままこと切れたらしい。

 

次に気付いたときには、もう埃になっていて、もう故郷に戻っていた。なにせ死んだのは羽田空港の近くだ。ふわふわ、誰かに何かにくっついて帰って来たに違いない。

 

「行きは夜行で帰りは飛行機。しかも無料で。どうだ、サトちゃん。出世したもんだよな」

 

「ばか」聡子は本気で怒った。

 

「それより、質問に答えてないよ、まだ。ご家族のことはもういいの? 本気で土蔵の近くに埋めて欲しいの?」

 

「もういいんだ」

 

 弟の死を知ったせいか。違う。

 

 妹に罵倒される兄だからか。違う。

 

「あの土蔵、今年度の取壊しが決まったようだ。課長と係長が話しているのを聞いた。これ、つーちゃんは初耳かい?」

 

聡子と黒葛原は顔を見合わせ、それから瓶を見た。埃はより一層形を崩し、溜息にさえ吹き飛ばされそうに、頼りなく萎んでいた。

 


12.

 

 ごみ袋の口を閉じ、壁に貼ったチェックシートに量を書きこむ。袋にはまだ入る余裕があったが、気温が上がれば臭いも強まる。臭いと騒ぐ輩に限ってごみ出しなどしたことはない。主婦の朝がどれだけ大変かを言外に匂わせながら時間ぎりぎりになって走りこんでくる同僚たちに、聡子は呆れてもいた。新しい袋をごみ箱にセットしながら、これも女同士のマウンティングってやつなんだろうか、と思った。思うそばから、馬鹿らしいと蹴散らす。蹴散らした後の隙間に、そういう気の強いところが駄目なのだという誰かの言葉が這入りこんできて頭の中で再生を繰り返し、聡子を苛立たせた。これは自分の仕事と思い直し、袋を下げて通路に出る。出会い頭に黒葛原とぶつかった。

 

「おはよう。今日、大丈夫?」

 

「おはようございます。大丈夫です」

 

 互いに片手をあげて「それでは」と黒葛原は事務所内へ、聡子はゴミ出しに向かった。

 

土蔵の件を、彼が調べて来た。

 

管内の人口は近年増加し、塩屋支所の業務も増えて本館は手狭になっている。一方で、地区の祭りに使用する道具や踊り連の衣装などを二階に保管している土蔵は老朽化が著しい。維持には費用が必要だ。数年に渡った検討の結果、土蔵は取り壊し、支所四階の文書保管庫の移転も含めて新しい倉庫を建設する計画が決まったという。夕方、例の公園で、善治郎の頼み事を叶えるための話し合いを行うことにしていた。

 

 東側通用口のドアノブに手をかけたとき、聡子は立ち止った。ガラス面に映し出された女を凝視した。ごみ袋を下げた不景気で不幸そうな仏頂面がこちらを見ている。そういうところが、そんなところが。だが、自動再生に構ってはいられない。目を閉じてドアを押し、光を頼りに表へ出た。あの老婦人が、土蔵に寄り添い、支えるように立っていた。片手を壁に当てて、肩を抱いているようにも見える。聡子を見て、「まぁ、久しぶり。今日はきっといい日になりそう」

 

微笑んだが、前のようなはつらつとした力を感じられない。しばらく会わない間に線がいっそう細くなっている。コンテナに袋を入れながら、聡子は訊ねた。

 

「体調が優れないのでは」

 

「検査入院でね。ちょっと痩せたからかしら。検査なんてしなくたって」

 

 壁を撫でた。撫でながら「もういいのに」と語りかけたのを、聡子は聞き逃さなかった。

 

「お住まいは、ご近所ですか」

 

「すぐ近所。昔はあの辺りで父が診療所を」

 

 通り沿いに支所と並ぶ定食屋を指した。

 

「この土蔵は大きなおうちの庭にあったの。毎日よく遊んだものよ、ここの四元さんの子どもたちと」

 

 聡子は飛び跳ねる心臓を押さえた。

 

「役場を広げるためにこの辺りを削り取って。残ったのはこれだけ」

 

 善治郎の話をしてみようか。と思った。でもどう説明すれば。幼馴染は埃に生まれ変わりました、とでも?

 

「その四元さんのご家族とは今も」

 

「残念ながら。ずいぶん前に手紙をもらったきり。お返事を出したけれど、やり取りは続かなくて」

 

 善治郎が家族の消息を訊ねたという、あの手紙に違いない。指定席の低い石積みに腰を下ろし、彼女は汕頭(すわとう)レースの日傘を開いて語った。

 

手紙の宛所を旅行ついでに訪ねてみたが、実際は会社のものだった。確かめたところ、差出人はすでに退職していた。住まいを教えてもらい、同行の夫に案内を頼んだが、メモの住所を見て止められた。なぜ夫が止めたのか、亡くなった今ではもう、確かめることもできない。

 

 日傘を通して入る日が、削げた頬に繊細な模様を描いている。清明の空を飛行機雲が伸びて行った。

 


13.

 

 瓶を連れて部屋を出る。横断歩道を渡り、自動車工場の角を曲がった先のコンビニで飲み物を買い、聡子は公園へ向かった。

 

 ところどころ塗装の剥げたフェンスの間から首を伸ばすと、夏服の背中が見えた。腕組をしてタオルをかけた首がわずかに傾き揺れている。居眠りをしている隣にやや間を置いて静かに座り、ベンチの上でハンカチを開いた。とたんに、「つーちゃん、お待たせ」

 

 善治郎の声で黒葛原は飛び起きた。近頃聡子は不安だ。善治郎が日に日に萎んでいるように見えてならない。だが、重さを量ろうとしたり、直径にものさしを当てたりしようものなら、善治郎はひどく嫌がる。なのに威勢は張りたがる。

 

「本当に寝てばっかりいやがる。まだ育つつもりかい」

 

「ダメだよ。お疲れなんだから」

 

 善治郎を叱り、どうぞとコーヒーを差し出すと、取りかえっこのように小さな包みが渡された。美味いと評判の焼き菓子だった。

 

 実のところ一日中迷ったが、聡子は今朝の老婦人の話をした。自分からは何も話せなかったことも。善治郎の消息、目下の望み、土蔵が取り壊されること。伝えられるはずがなかった。どんな説明もしようがなかった。聞き終えて善治郎はあっさりしたものだった。

 

「そりゃ、サトちゃんの判断が正しいさ。俺は常識の外の存在なんだから」

 

 ねぇ、と聡子は問いかけた。自分が今日、どんなものを連れてきたか、分かったかを訊ねた。

 

「あいつはさ」善治郎は照れ臭そうだった。

 

「暇さえあればままごと遊びばっかりやっていた。無理やり付き合わされて、俺がお父さんであいつがお母さん。妹と弟は赤ん坊役な。俺の嫁さんになるんだって真顔で言うんだ。望みも叶って、立派な旦那と幸せに来たんだろう。いい婆さんになってる姿も見えるさ。サトちゃんはそういうところを全部持って来て伝えてくれたよ」

 

これでなおさら、思い残すことはない。父母の家もなく、弟は亡くなった。土蔵も消える。自分はもう、暗い箱の片隅に、未練がましく出たり消えたりするのは飽きた。

 

「さっさと埋めてくれ」

 

こぼれた涙が、聡子の膝に大きな染みを広げた。埃に生まれて、誰と交わるでもなく払われて消える。延々と繰り返される孤独はいっそ、地獄のほうがましだと語る善治郎に、何も言えなかった。

 

黒葛原が差し出すタオルを目に当てると、いちにち働いたひとの臭いに包まれた。汗の臭いを不快に感じなかったのは初めてで、切なくて、更に込み上げてきた感傷が聡子を泣かせた。だが感傷は、彼によって破られた。

 

「ちょっと考えたんですが」

 

「なんだい、つーちゃん」

 

「埋める場所とタイミングが問題です」

 

「どういうことだい」

 

「今、これからだって善治郎さんの希望を叶えることは簡単です。でも土蔵はいずれ取り壊される。整地もします。休んでいる場所をパワーショベルが何度もひっくり返すことになる。それで安息の地と言えるだろうか」

 

 聡子は涙の残りを拭うと、顔を上げた。

 

「黒葛原さん、お願いがあります」

 


14.

 

川沿いに長く広がる公園の入り口で、聡子は黒葛原を待っていた。公園では、年に二回立つうちの、春の木市が開催されている。

 

子どもの頃は、両親がよく連れてきてくれた。苗木や苗ものの他に食べ物の屋台も軒を並べ、犬猫や文鳥、金魚、おもちゃを扱う店もあり、聡子は小動物の前に長い時間居座って、親を困らせたものだった。

 

 待ち合わせに指定した噴水を土台に、湾向かいの活火山を仰ぐ銅像を聡子は見上げた。威圧的で近寄りがたい。見上げたまま、善治郎の顔を想像してみた。輪郭から始まり、眉目鼻。よく喋る薄い唇だったかも。

 

「岩井さん」

 

 えっ、と我に返る。逆光の中から人影が見おろしている。紙袋を提げて、黒葛原が立っていた。「お絵描き、ですか」

 

いつの間にか、地面に線を引いて善治郎の顔を探っていた。聡子は裾を払って立った。

 

「お絵描き、です」頭を掻いた。

 

「いちいち珍しい人だな」

 

「珍獣みたいに言わないでください」

 

「ほめているつもりなんだけど」

 

 どこが。責めたかったが、聡子は先を急ぐことにした。大型連休初日で、人出も増えて来つつある。迎えに行くという提案を断ったのは、一緒に居るところをなるべく人に見られないようにと思ったからだ。

 

聡子はうつむいた。量販店のシャツに色褪せ始めたカーディガン。膝の抜けたチノパンに、擦り傷の目立つフラットシューズ。並んで歩きながら、聡子はバッグに下げたお守り袋をそっと中にしまい込んだ。そして訊ねた。

 

「お願いしていたものは」

 

「この通り」紙袋を掲げて見せて、黒葛原は、スコップも持参しましたよと胸を反らせた。「善治郎さんは」

 

 ここに、と言う代わりに聡子はバッグに触れた。善治郎は日に日にやせ細っている。柔らかさがなくなり、堅く萎んだごみ屑に近くなりつつある。言葉少なに押し黙ることが多くなった。急がなくてはならなかった。

 

 左右から重なるテントの下を、並んで歩いた。久しぶりに訪れてみると、商売の趣きも明らかに異なっている。小動物を扱う店が減った代わりに、おしゃれな雑貨やハーブの店が若い女性を集めている。

 

 果樹をそろえた店で、聡子は足を止めた。手入れのあまり必要ない、育てやすいものはないですか。応えて店主がおススメですよと指さしたのは、赤茶けた葉をつけた、細く頼りない、見栄えのしない枝だった。

 

「ザクロ。日当たりさえ良ければ肥料もあまり必要ないし虫にも強い。三~四年で実が成るよ。なんたって子孫繁栄の木だからね。あんたらみたいな若いご夫婦にはぴったりだ」

 

 ほぅ。黒葛原はやたら感心している。頬を赤らめている聡子を見返り、「虫にも強いって」と幼い枝先を撫でた。

 

「これならスコップでも植えられる」

 

 

 

 


15.

 勧められるままにザクロを買って、南へ向かう国道を走った。いいと言うのに、黒葛原はどうしてもと付いてきた。荷物を運ばせておいて、以下無用と放り出されるのは理不尽というのが彼の言い分だった。もっともだ。それに彼には、今日という日を見届ける権利もあった。

 

 一時間に満たない道のりだが、助手席の聡子は緊張し通しだった。職場が同じという他は、埃の声が聞こえるという珍奇な共通項しかない男の車で実家のある町へ向かっている。黙っていると、起伏に乏しい緑に覆われた退屈な景色が眠気を誘う。黒葛原も同じだったのか、その先は数キロ先まで店らしい店もない長い片側一車線の直前で車をコンビニに入れた。

 

 トイレを借りて出てくると、先に飲み物を買っていてくれた黒葛原が「あそこで」と、道路向こうを指さした。長らくこの辺りを通らない間に、展望所が設置されている。光にぼやける山を背景にして、通り過ぎてきた石油コンビナート基地や道の駅が一望できる場所だった。二人はいつものようにジャムの瓶を間に置いてベンチに腰を下ろした。海から吹き寄せる風はもう、夏だ。

 

「眩しい」

 

 善治郎の声はかすれていた。聡子は心持ち体を傾け、瓶の上に影を作ってやった。

 

「サトちゃん、ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

「あんたは本当に心映えがいい。でも、つまらないものを抱えているように感じてならない。それだけが心残りだ」

 

 聡子は唇をかみしめた。他人の前でそんな話題をと、唇を噛んだ。

 

「聞きますよ」黒葛原まで。

 

「お聞かせするような話じゃないです」

 

「俺が持って行ってやるよ。早く身軽になりな。でなきゃ幸せにはなれん」

 

 善治郎の言葉が途切れ始めている。急がなきゃと思う反面、急ぎたくない。海を見た。大小のタンカーが浮く向こう側を、離島行きのジェットフォイルが白い影を引いて飛び去ってゆく。近くにはウィンドサーフィンの群れだ。帆が、空を掻き回すように踊る。善治郎が行く先は、あの青の中であって欲しい。

 

「つまらない話だよ。聞いて損したなんて怒らないで、ちゃんと持って行ってよね」

 

 聡子は去年、花嫁になるはずだった。

 

結婚相手の転勤が決まっていたために、披露宴ぎりぎりまで勤め、仕事を辞めた。ところが直前になって、長年親密にしてきた女が居ると分かった。

 

前夫との子を持つ女とは、結婚はしないが別れたくない。生真面目過ぎてときに窮屈な聡子からの避難場所にしておきたいなどと呆れ果てた言い訳をする男に、式場や新婚旅行、新居のキャンセル料すべてを慰謝料替わりに払わせて縁談はご破算と相成ったが、会社に戻ることはできない。入籍していなかったことだけが救いだった。周囲の腫れもの扱いが嫌になり、聡子は実家を出て移り住んだ。

 

 市民係の臨時職員に就いてすぐだった。朝からスタンド担当だった日の昼近く、市民係から見える階段を元婚約者が下りてくるのを見た。連れの女の膨らんだ腹を見て、聡子は崩れ落ちそうになった。別れた後転勤したはずの男が同じ街に住んでいるのかと思えば、落ち着かなかった。検索用パソコンに名前を打てば、住所も明らかになるだろう。だがそれが何になる。どうしようというのだ。

 

仲人から結局、女の名前や年齢は知らされなかった。被害者の聡子ではなく、加害者ともいうべき彼女のほうが守られたようで、その悔しさが胸を煮る。

 

「済んだことだよ、もう済んだこと」

 

 いつも、諦めの呪文で納得してきた。

 

「だがまぁ、寸でのところで災厄の元が絶てて良かったと思わなきゃな」

 

 善治郎の言葉は、かつて父が慰めたと同じだった。黒葛原は、ベンチの根元に生えた雑草を無言で引き抜いた。

 

「安心しな、俺が全部引き受けた。あとはつーちゃんがなんとかしてくれるさ」

 

 黒葛原と目が合う。逸らそうとしたが、逸らせなかった。

 

 二人は善治郎を、聡子の実家の庭に埋めることに決めていた。黒葛原に頼んで採ってきてもらった土蔵回りの土と一緒に、善治郎の願いを叶えてやろう。葉が生い茂り実を結ぶ木を植えて、彼が生きた目印にしよう。

 

居間から見える場所がいいと思い、久しぶりに電話を入れると、ちょうど、実のなる木を植えたいと考えていたと母が言った。帰ってくることを喜んでくれた。

 

「遅くなるとお母さんが心配する。さっさと片付けておくれよ。塵は塵に、埃は埃に」

 

 



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