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8.

 

 連れ帰ったぜんじろうを、聡子はジャムの空き瓶に移し替えた。息ができるよう、蓋はしなかった。声が聞こえるからといって呼吸をしている証明にはならないが、密閉はかわいそうな気がした。

 

 テーブルの上に置いた瓶の中を、腕に顎を載せて眺めた。麻酔が切れ始めた右手から消毒薬の臭いがする。痛むが後悔は感じない。

 

 聡子は、埃の成り立ちについて考えていた。スタンドに立つ臨職の衣服や申請書から出る繊維、来庁者が纏って入ってくるいろいろな付着物。食べ物もあるだろうし、土砂もあるだろう。ペットの毛も。空気を含んで舞い上がり、ベルトコンベアの静電気に吸い寄せられ、空気を失って機械の末端に積もり重なる。様々な要素が合わさって灰色というわけか。そこにどんないたずらが施されて埃が減らず口を叩くのか。

 

左手で、少しだけ瓶を振ってみた。

 

「おいおい。船酔いするじゃないか、サトちゃん」

 

 いつも通りのぜんじろうが悲鳴を上げた。

 

「あ、生きてる」

 

「吹けば飛んでく人生を、今回はサトちゃんに助けられた。名誉の負傷まで負わせて」

 

 下げられる頭が欲しいよ。嘆きつつ、すまないとごめんを聡子に向かって繰り返した。

 

「ねぇ、黒葛原さん、知ってるよね」

 

「あぁ、つーちゃん」

 

聡子はぶっと噴いた。

 

「今日明日じゃないけど、ここに来るって。ぜんじろうさんに会いに。話がしたいって」

 

「嫁入り前の娘が簡単に男を家に上げたりして。お母さんが泣くぞ」

 

 病院で、携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。訪問されてもお粗末過ぎる、食べて寝るだけのワンルームには招けない。連絡があれば近所の公園で待ち合わせするつもりだった。

 

 黒葛原の話が出たところで、聡子は急に空腹を覚えた。手はこんな具合だし、コンビニ弁当で済ませようと立ち上がった。

 

日暮れに気づいて灯りをつけたとき、ぜんじろうは、「眩しい」と唸った。日陰者に世間は明るすぎる。

 

自分を卑下しちゃダメだよ。窘めながら、聡子は半間の押入れから小さな箱を見つけ出し、空気穴を数か所開けてジャムの瓶に被せてやった。それから夕食を買いに出かけた。かつ丼が食べたくなっていた。

 


9.

 

 新年度のスタートと同時に、黒葛原は市民係に戻ってきた。

 

朝、湯飲みを並べていると書類棚の向こうからぬっと現れ、「どう?」決まって聡子の怪我した右手を指す。聡子の返事も毎回同じだ。「大丈夫ですよ」すると鼻孔を広げてほんの少し笑いを見せ、待合所へ向かう。朝刊の一面と三面だけをざっくり眺めてから帰って来て、分厚いバインダーを開いて思案をしている。

 

サトちゃんと同じ、とぜんじろうが評したとおり、愛想がいいとは言えないが、窓口を担当している時間、特に高齢の来庁者には笑顔も披露している。あれは筋肉を総動員して相当頑張っているのだと思うと、聡子はおかしくてならない。

 

 にやついているところを、同僚から脇腹を突かれた。目の前を、課長と連れ立って、書類を抱えた黒葛原が通り過ぎた。

 

前の年、立て続けに選挙が行われた。宛所不明で戻ってきた投票所入場券が多かったことから、住民実態調査が始まった。

 

男性職員が交代で課長に同行し、該当者名簿を一軒一軒訪ねる。不在であれば近所を訪ねて様子を聴き、居住の実態があるようなら管轄の支所へ電話をという文書を郵便受けに入れて帰る。昨年末から開始され、繁忙期の休止を経て、新年度から再開されていた。

 

昼休憩に入る前だった。外勤先から黒葛原が、聡子へ初めてのメールを送ってきた。件名は「お疲れ様」。本文は、ぜんじろうに会いたい、というものだった。短い文章に、緊急を要するものを感じ、聡子はアパートに近い公園を指定して返事を送った。

 


10.

 

ベニカナメが萌えて赤を強くする頃には、日中はもう夏の日差しが降りそそぐ。一日調査に出ていた黒葛原は、もともと浅黒い顔にさらに日焼けを重ねて現れた。午後六時、明かりはまだ十分に残っているが、遊具や砂場に子どもの姿は見えない。コンクリのベンチの下に野良のサビ猫が伏しているだけだ。

 

「つーちゃん、久しぶりだな」

 

 瓶を包んだハンカチを解くと、ぜんじろうはすぐに声を上げた。

 

「近頃うちのサトちゃんが世話になっているそうで」

 

 応じて黒葛原も「こちらこそ」と頭を下げる。つられて聡子は「どうも、すみません」なぜか謝ってしまった。

 

 ジャム瓶を間に座った。瓶の上空で、黒葛原が買ってきたドーナツと聡子が用意していたコンビニコーヒーが交換される。生身の人間は大変だね。俺なんて飲まず食わずでお気楽だ。ぜんじろうの悪態も、しかし楽しそうに聞こえる。

 

「つーちゃん、俺に会いに来てただろう」

 

 今日の埃は綺麗な丸だ。黒葛原に会えたことが嬉しくて、瓶の中を飛び跳ねているように見えた。

 

「それなのに、サトちゃんが朝早くから仕事しているものだから、声をかけにくかったんだよな。サトちゃん、頑張りすぎなんだよ。なんでもかんでも背負いすぎ」

 

 それで、誰かを探すようなそぶりを見せたのか。聡子が探るような目を向けると黒葛原は咳込み、ドーナツを危うく落としかけた。

 

「お邪魔でしたね、私」

 

「いや、早く着いた分、車で仮眠できたから」

 

 コーヒーでドーナツを流しこんだ。そして、しばらく会話が途切れた。新しい制服の中学生たちが騒ぎながら通り過ぎると野良猫が起き上がり、伸びをした。そこでぜんじろうが口を開いた。

 

「で、つーちゃん。聞きたいことって何」

 

 黒葛原は膝に散った砂糖を払い除けて、咳払いをした。

 

支所管内ではJR塩屋駅の改築工事を中心に、大がかりな区画整理が進められている。線路の高架化にともない道路は広く直線になり、多くの住宅や病院が移転して小ぎれいなニュータウンを形成しつつある。

 

 区画整理の対象区域から一区画外れた路地沿いの家を、黒葛原と課長が調査のために訪ねたのは今日の午後だった。

 

 応対に出てきた女性は、世帯主の妹と名乗った。世帯主の四元氏は、先週亡くなっていた。長らくの入院で表札も外していたため、投票所入場券が届かなかったようだ。葬儀の後も残って家の整理をしているという妹は、怒気を隠さなかった。

 

―支所に土蔵があるでしょう。

 

あの辺り一帯は実家の敷地だった。支所が増改築したとき土地のほとんどをただ同然で提供したのに、代わりにもらったのは、塩田の跡で水が多く土地も痩せている、こんな不便な場所だった。道路向こうは区画整理に入っているが、うちは外れている。区画整理に入っていれば新しい家も建てられた。遺産はこのぼろ家だけ。交通費と看病で破産寸前だ。どうしてうちばかりが損をするのか。

 

眉間の陰を深くして、彼女は嘆いた。

 

「せめて、下の兄がしっかりしていたなら。あのアホが」

 

 四元家の次男・善治郎は、多摩川六郷橋に近い河川敷に張ったテントの中で亡くなっていた。

 


11.

 

 黒葛原は訊ねた。

 

「善治郎さん、言っていたでしょう。家族がどうしているか知りたいって。でも岩井さんには土蔵の近くに埋めて欲しいと。家族のことを気にしていたのに、今はこの世から消えたいと思っている。この差は何だろう」

 

 瓶の中で、埃が丸を崩したように聡子には思われた。顔を持つなら今は、眉が下がり視線は虚ろに落ちているのかもしれない。

 

「責めているわけじゃありません。友だちとして、心境の変化が気になるんです」

 

 大きな手が瓶に触れた。日は西の山向こうでまだ踏ん張っているが、すぐにも夜に追われるだろう。野良猫も消えていた。

 

「つーちゃん、今日、俺に関わりのあった誰かに会っただろう」

 

「分かるんですか」

 

「あんたは立場上、仕事で知ったことを話すのはご法度だ。でも、俺は埃だよ。誰かが持ってきたもの連れてきたものを寄せ集める。あんたが今日連れてきたのは、線香の煙だ。あまり上等じゃないな。昔ならいざ知らず、俺の今の実家に老舗の線香を買う余裕なんてないだろうさ」

 

 四元家は、米・塩・酒を商って繁昌していた。

 

善治郎の父には、長男誕生の後子どもが育たず、間を置いてようやく生まれた善治郎は甘やかされた。年の離れた兄が家を継ぐ頃、善治郎は兄の片腕になれる学問をと強いられ、反発して家出した。

 

「これという目標も野心も、何もなかった。ただ言われたままに生きるのが嫌でさ。親の通帳と印鑑を盗んで夜行に乗った」

 

炭鉱、ダムの建設現場や自動車工場など、あちこちを渡り歩き、流れ着いた多摩川沿いに棲みついた。

 

一度だけ、幼馴染に手紙を書いた。届いた返事から、兄が子を成さないまま若死にしたこと、弟が跡を継いだが家業は傾いたこと、妹は県外へ嫁いだことなどを知った。父母も家も、もうなかった。土蔵だけが残った。

 

「帰ろうと思わなかったの?」

 

 聡子の問に返事はなかった。宵が足元から這い上がってくる。そろそろ、と黒葛原が先に立ちあがり、そして、声を落とした。

 

「弟さんは先週亡くなったそうです。今日、家の整理に残っていらした妹さんにお会いしました。善治郎さんについては、警察から報せがあったそうで、ご存知でした」

 

 雪のちらつく夜だった。

 

酒を飲んで喧嘩して殴り殴られ、自分のテントに這って帰り、重ねて飲んだ。毛布も被らず寝込んでしまい、夜中、凍えてそのままこと切れたらしい。

 

次に気付いたときには、もう埃になっていて、もう故郷に戻っていた。なにせ死んだのは羽田空港の近くだ。ふわふわ、誰かに何かにくっついて帰って来たに違いない。

 

「行きは夜行で帰りは飛行機。しかも無料で。どうだ、サトちゃん。出世したもんだよな」

 

「ばか」聡子は本気で怒った。

 

「それより、質問に答えてないよ、まだ。ご家族のことはもういいの? 本気で土蔵の近くに埋めて欲しいの?」

 

「もういいんだ」

 

 弟の死を知ったせいか。違う。

 

 妹に罵倒される兄だからか。違う。

 

「あの土蔵、今年度の取壊しが決まったようだ。課長と係長が話しているのを聞いた。これ、つーちゃんは初耳かい?」

 

聡子と黒葛原は顔を見合わせ、それから瓶を見た。埃はより一層形を崩し、溜息にさえ吹き飛ばされそうに、頼りなく萎んでいた。

 


12.

 

 ごみ袋の口を閉じ、壁に貼ったチェックシートに量を書きこむ。袋にはまだ入る余裕があったが、気温が上がれば臭いも強まる。臭いと騒ぐ輩に限ってごみ出しなどしたことはない。主婦の朝がどれだけ大変かを言外に匂わせながら時間ぎりぎりになって走りこんでくる同僚たちに、聡子は呆れてもいた。新しい袋をごみ箱にセットしながら、これも女同士のマウンティングってやつなんだろうか、と思った。思うそばから、馬鹿らしいと蹴散らす。蹴散らした後の隙間に、そういう気の強いところが駄目なのだという誰かの言葉が這入りこんできて頭の中で再生を繰り返し、聡子を苛立たせた。これは自分の仕事と思い直し、袋を下げて通路に出る。出会い頭に黒葛原とぶつかった。

 

「おはよう。今日、大丈夫?」

 

「おはようございます。大丈夫です」

 

 互いに片手をあげて「それでは」と黒葛原は事務所内へ、聡子はゴミ出しに向かった。

 

土蔵の件を、彼が調べて来た。

 

管内の人口は近年増加し、塩屋支所の業務も増えて本館は手狭になっている。一方で、地区の祭りに使用する道具や踊り連の衣装などを二階に保管している土蔵は老朽化が著しい。維持には費用が必要だ。数年に渡った検討の結果、土蔵は取り壊し、支所四階の文書保管庫の移転も含めて新しい倉庫を建設する計画が決まったという。夕方、例の公園で、善治郎の頼み事を叶えるための話し合いを行うことにしていた。

 

 東側通用口のドアノブに手をかけたとき、聡子は立ち止った。ガラス面に映し出された女を凝視した。ごみ袋を下げた不景気で不幸そうな仏頂面がこちらを見ている。そういうところが、そんなところが。だが、自動再生に構ってはいられない。目を閉じてドアを押し、光を頼りに表へ出た。あの老婦人が、土蔵に寄り添い、支えるように立っていた。片手を壁に当てて、肩を抱いているようにも見える。聡子を見て、「まぁ、久しぶり。今日はきっといい日になりそう」

 

微笑んだが、前のようなはつらつとした力を感じられない。しばらく会わない間に線がいっそう細くなっている。コンテナに袋を入れながら、聡子は訊ねた。

 

「体調が優れないのでは」

 

「検査入院でね。ちょっと痩せたからかしら。検査なんてしなくたって」

 

 壁を撫でた。撫でながら「もういいのに」と語りかけたのを、聡子は聞き逃さなかった。

 

「お住まいは、ご近所ですか」

 

「すぐ近所。昔はあの辺りで父が診療所を」

 

 通り沿いに支所と並ぶ定食屋を指した。

 

「この土蔵は大きなおうちの庭にあったの。毎日よく遊んだものよ、ここの四元さんの子どもたちと」

 

 聡子は飛び跳ねる心臓を押さえた。

 

「役場を広げるためにこの辺りを削り取って。残ったのはこれだけ」

 

 善治郎の話をしてみようか。と思った。でもどう説明すれば。幼馴染は埃に生まれ変わりました、とでも?

 

「その四元さんのご家族とは今も」

 

「残念ながら。ずいぶん前に手紙をもらったきり。お返事を出したけれど、やり取りは続かなくて」

 

 善治郎が家族の消息を訊ねたという、あの手紙に違いない。指定席の低い石積みに腰を下ろし、彼女は汕頭(すわとう)レースの日傘を開いて語った。

 

手紙の宛所を旅行ついでに訪ねてみたが、実際は会社のものだった。確かめたところ、差出人はすでに退職していた。住まいを教えてもらい、同行の夫に案内を頼んだが、メモの住所を見て止められた。なぜ夫が止めたのか、亡くなった今ではもう、確かめることもできない。

 

 日傘を通して入る日が、削げた頬に繊細な模様を描いている。清明の空を飛行機雲が伸びて行った。

 



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