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6.

 

 石塀通りと支所通りが交差する角で、聡子は立ち尽くした。左から右から、道路は支所の来客用駐車場へ入ろうとする車で埋まっている。今年度最後の日だ。しかも金曜日。開庁まで一時間はあるというのに、正面玄関の前にはすでに人の列もできている。

 

 いきなり、後ろから人影が覆った。福祉係のあの男だった。彼は聡子に軽く目礼し、通り過ぎた。車列を眺めようともせず、踵で地を割りつま先で圧すように支所に向かっている。背中を追いかけるように、聡子も急いだ。

 

 事務所に入ると荷物置き場にバッグを放り込み、右手にポット二本、左手にごみ袋を下げて走った。やかんに水が溜まるのを待つ間にごみ出しに向かう。

 

植え込みの先、いつもの場所にいつもの老婦人が、今日は日傘をさして座っていた。遠くから挨拶の声をかけると、彼女は笑顔で手を振った。やかんの水が気になり、聡子は一礼だけ返して給湯室へ戻った。ガスの火を確認してから市民係に戻る途中、さっきの男が難しい顔をして、机に広げた書類の上に被さっているのが見えた。こっそり、柱に貼られた座席表で彼の名前を確かめる。黒葛原》やっぱり、どう読むのかわからない。

 

聡子は駆け足で市民係へ戻り、仕事にとりかかった。今年度も末の末というのに、他の臨職たちはまだ現れる気配すらない。コピー用紙を補充し、待合所の筆記用具や押印用の朱肉のチェックなどの始業準備に立ち動く間、排出口は無言のままだった。

 

 埃なんかに、と吐き棄ててしまった。

 

ぜんじろうのものの言い方が悪いだとか、文句を言えた義理ではない。聡子はなんとか謝りたかった。

 

だが今日は、と予想していたとおり、開庁と同時に一時間待ち二時間待ちのサインは消えず、電話は鳴り続いた。対応に間に合わず切れ、また鳴ったかと思えば、電話口でいきなり怒鳴りつけられる。スタンドの作業にも課長が応援に入るほどだった。臨時窓口は開かれたまま、列が途切れることはなかった。

 

 一人が係長の補助につき、聡子が待合所に出て、印鑑登録証明書だけをご希望の方は臨時窓口へと案内に回っているときだ。

 

「何時間待たすっとや。わいどま(お前たち)、すっ気があっとか」

 

 大声が響いた。カウンターをはさんで、ネクタイを掴まれ拳を向けられている係長が見えた。隣の戸籍係窓口に居た若い夫婦は、蒼ざめて逃げ腰になっている。警備員が走ってくる。「こん税金泥棒が」

 

 客は係長を突き飛ばすと手当たり次第に窓口のものを投げ始めた。書類はもちろん、文具や備え付けの老眼鏡まで。プラスチックの案内用プレートが割れて飛び散った。モノと人と空気が同調して騒ぐなか、窓口の職員が叫んだ。

 

「詰まってる。止めて。誰か止めてください、ベルトコンベア」

 

 聡子はカウンターの中へ走り、ベルトコンベアのスイッチを切った。次いでモーターの箱に手を突っ込んだ。だが完全には止まっていなかった。鋭い痛みが手の甲に来た。こぶしを引き抜いたとき、聡子の手は血まみれだった。スタンドにいた臨職たちが悲鳴を上げた。

 

 早く病院へ、という声に応えたものがいた。「ついでがありますから、自分が」

 

手に何かが巻かれた。見覚えのあるスポーツタオルに血が滲むのが見えた。

 


7.

 

―頼んだよ、黒葛原君―。

 

つづらはら、と課長は呼んだ。ふぅん、そう呼ぶんだ。聡子は会計に立つ背中をぼんやり見ていた。

 

男はときどきこちらを振り向いて、看護師と話をしている。やがて戻ってきて上背を屈め、痛みでしかめっ面の聡子を覗き込んだ。「大丈夫、じゃないね」

 

「大丈夫です。すみませんでした。ご用事があったのでは」

 

「君が手の処置をしてもらってる間に済ませてきた」

 

 支所の管内を公用で何軒か回ったと答えた。出かけようと市民係前を通りがかったとき、騒ぎに出くわしたと話した。

 

「すみません。タオルを汚してしまって」

 

 左手で差し出された痛み止めを受け取り、聡子は頭を下げた。ぐるぐる巻きの右手は麻酔が効いていてどんより重い。黒葛原も隣に座った。

 

「大した怪我じゃなくて良かった」

 

 だが聡子は頭を横に振った。モーターに手を突っ込んだのは自分の失態だ。

 

 ベルトコンベアのスイッチを切ったとき、とっさに、緊急メンテナンスを考えた。メンテナンスで箱が開けられたら、そこいらじゅう清掃されてぜんじろうが消えてしまう。埃を救おうとして手を突っ込みましただなんて言えやしない。

 

「無茶をしたね」

 

彼は聡子に、看護師から預かったと、ビニール袋をぶら下げて見せた。袋の中には一塊の埃が入っていた。紙屑の、糸くずの、塵あくたの、機械油を帯びた不格好な灰色だった。

 

「それなんだけど」

 

 黒葛原はビニール袋の中身をじっと見ている。外科の処置室で血まみれのこぶしを開いたとき現れたそれを、捨てないでと聡子は看護師に頼んだ。きっとおかしな女だと思われただろう。だが、

 

「もしかして、ぜんじろうさん?」

 

 神妙に聞いてきた。

 

「君も、彼と話ができる人なの?」

 

 ビニール袋の中で、埃はちらりと光ったように見えた。聡子は答えた。「できます」

 

 ほとんど初対面だった相手と急に距離が縮んだ瞬間を感じた。君も、と言うのなら、

 

「ぜんじろうさんと話の出来る他の人って」

 

 そうに違いない。「あなたなんですね」

 

 彼が「出会った」のは、一昨年のやはり繁忙期、臨時開庁の日曜日だった。当日彼は会計係を任されていた。来庁者は少なく、眠気と闘っていたところに、「なぁ」と声がかかった。暇つぶしにしり取りでもしようやと誘われた。

 

「したんですか、しり取り」

 

「したよ。“しりとり”から始まって、腹が減っていたせいか“かつどん”で負けた」

 

 暇つぶしの相手が埃だと知ってさすがに驚いたが、言葉を交わすうちに気味の悪さが薄れていったそうだ。やがてぜんじろうは聡子に語ったと同じく、叶えてもらいたい願い事があることを打ち明けてきた。

 

―家族がどうしているか知りたい―。

 

 戸籍や住民票で調べられるよね、と。

 

「僕らは職務上、住基台帳を見ることが出来るけれども、断った」

 

 不特定多数の個人情報を、興味本位で閲覧する道具ではないのだ。

 

「断った後はどんな様子でしたか」

 

「変わりなかった。ぜんじろうさん、なかなか物知りでね。楽しかった」

 

 だが彼は、ぜんじろうと話せる機会を失った。福祉係に病気入院するものが出たため、急きょ市民係から派遣されたのだ。

 

「家に連れて帰るの?」

 

「頼まれごとをされているので」

 

 聡子がぜんじろうから委ねられた頼みごとを話すと、黒葛原は書類を見ていたときと同じ渋面で腕を組んだ。袋の中身をにらむようにしばらく考えていたが、やがて、ポケットから携帯電話を取り出し、真面目な面持ちで聡子に差し出した。

 


8.

 

 連れ帰ったぜんじろうを、聡子はジャムの空き瓶に移し替えた。息ができるよう、蓋はしなかった。声が聞こえるからといって呼吸をしている証明にはならないが、密閉はかわいそうな気がした。

 

 テーブルの上に置いた瓶の中を、腕に顎を載せて眺めた。麻酔が切れ始めた右手から消毒薬の臭いがする。痛むが後悔は感じない。

 

 聡子は、埃の成り立ちについて考えていた。スタンドに立つ臨職の衣服や申請書から出る繊維、来庁者が纏って入ってくるいろいろな付着物。食べ物もあるだろうし、土砂もあるだろう。ペットの毛も。空気を含んで舞い上がり、ベルトコンベアの静電気に吸い寄せられ、空気を失って機械の末端に積もり重なる。様々な要素が合わさって灰色というわけか。そこにどんないたずらが施されて埃が減らず口を叩くのか。

 

左手で、少しだけ瓶を振ってみた。

 

「おいおい。船酔いするじゃないか、サトちゃん」

 

 いつも通りのぜんじろうが悲鳴を上げた。

 

「あ、生きてる」

 

「吹けば飛んでく人生を、今回はサトちゃんに助けられた。名誉の負傷まで負わせて」

 

 下げられる頭が欲しいよ。嘆きつつ、すまないとごめんを聡子に向かって繰り返した。

 

「ねぇ、黒葛原さん、知ってるよね」

 

「あぁ、つーちゃん」

 

聡子はぶっと噴いた。

 

「今日明日じゃないけど、ここに来るって。ぜんじろうさんに会いに。話がしたいって」

 

「嫁入り前の娘が簡単に男を家に上げたりして。お母さんが泣くぞ」

 

 病院で、携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。訪問されてもお粗末過ぎる、食べて寝るだけのワンルームには招けない。連絡があれば近所の公園で待ち合わせするつもりだった。

 

 黒葛原の話が出たところで、聡子は急に空腹を覚えた。手はこんな具合だし、コンビニ弁当で済ませようと立ち上がった。

 

日暮れに気づいて灯りをつけたとき、ぜんじろうは、「眩しい」と唸った。日陰者に世間は明るすぎる。

 

自分を卑下しちゃダメだよ。窘めながら、聡子は半間の押入れから小さな箱を見つけ出し、空気穴を数か所開けてジャムの瓶に被せてやった。それから夕食を買いに出かけた。かつ丼が食べたくなっていた。

 


9.

 

 新年度のスタートと同時に、黒葛原は市民係に戻ってきた。

 

朝、湯飲みを並べていると書類棚の向こうからぬっと現れ、「どう?」決まって聡子の怪我した右手を指す。聡子の返事も毎回同じだ。「大丈夫ですよ」すると鼻孔を広げてほんの少し笑いを見せ、待合所へ向かう。朝刊の一面と三面だけをざっくり眺めてから帰って来て、分厚いバインダーを開いて思案をしている。

 

サトちゃんと同じ、とぜんじろうが評したとおり、愛想がいいとは言えないが、窓口を担当している時間、特に高齢の来庁者には笑顔も披露している。あれは筋肉を総動員して相当頑張っているのだと思うと、聡子はおかしくてならない。

 

 にやついているところを、同僚から脇腹を突かれた。目の前を、課長と連れ立って、書類を抱えた黒葛原が通り過ぎた。

 

前の年、立て続けに選挙が行われた。宛所不明で戻ってきた投票所入場券が多かったことから、住民実態調査が始まった。

 

男性職員が交代で課長に同行し、該当者名簿を一軒一軒訪ねる。不在であれば近所を訪ねて様子を聴き、居住の実態があるようなら管轄の支所へ電話をという文書を郵便受けに入れて帰る。昨年末から開始され、繁忙期の休止を経て、新年度から再開されていた。

 

昼休憩に入る前だった。外勤先から黒葛原が、聡子へ初めてのメールを送ってきた。件名は「お疲れ様」。本文は、ぜんじろうに会いたい、というものだった。短い文章に、緊急を要するものを感じ、聡子はアパートに近い公園を指定して返事を送った。

 


10.

 

ベニカナメが萌えて赤を強くする頃には、日中はもう夏の日差しが降りそそぐ。一日調査に出ていた黒葛原は、もともと浅黒い顔にさらに日焼けを重ねて現れた。午後六時、明かりはまだ十分に残っているが、遊具や砂場に子どもの姿は見えない。コンクリのベンチの下に野良のサビ猫が伏しているだけだ。

 

「つーちゃん、久しぶりだな」

 

 瓶を包んだハンカチを解くと、ぜんじろうはすぐに声を上げた。

 

「近頃うちのサトちゃんが世話になっているそうで」

 

 応じて黒葛原も「こちらこそ」と頭を下げる。つられて聡子は「どうも、すみません」なぜか謝ってしまった。

 

 ジャム瓶を間に座った。瓶の上空で、黒葛原が買ってきたドーナツと聡子が用意していたコンビニコーヒーが交換される。生身の人間は大変だね。俺なんて飲まず食わずでお気楽だ。ぜんじろうの悪態も、しかし楽しそうに聞こえる。

 

「つーちゃん、俺に会いに来てただろう」

 

 今日の埃は綺麗な丸だ。黒葛原に会えたことが嬉しくて、瓶の中を飛び跳ねているように見えた。

 

「それなのに、サトちゃんが朝早くから仕事しているものだから、声をかけにくかったんだよな。サトちゃん、頑張りすぎなんだよ。なんでもかんでも背負いすぎ」

 

 それで、誰かを探すようなそぶりを見せたのか。聡子が探るような目を向けると黒葛原は咳込み、ドーナツを危うく落としかけた。

 

「お邪魔でしたね、私」

 

「いや、早く着いた分、車で仮眠できたから」

 

 コーヒーでドーナツを流しこんだ。そして、しばらく会話が途切れた。新しい制服の中学生たちが騒ぎながら通り過ぎると野良猫が起き上がり、伸びをした。そこでぜんじろうが口を開いた。

 

「で、つーちゃん。聞きたいことって何」

 

 黒葛原は膝に散った砂糖を払い除けて、咳払いをした。

 

支所管内ではJR塩屋駅の改築工事を中心に、大がかりな区画整理が進められている。線路の高架化にともない道路は広く直線になり、多くの住宅や病院が移転して小ぎれいなニュータウンを形成しつつある。

 

 区画整理の対象区域から一区画外れた路地沿いの家を、黒葛原と課長が調査のために訪ねたのは今日の午後だった。

 

 応対に出てきた女性は、世帯主の妹と名乗った。世帯主の四元氏は、先週亡くなっていた。長らくの入院で表札も外していたため、投票所入場券が届かなかったようだ。葬儀の後も残って家の整理をしているという妹は、怒気を隠さなかった。

 

―支所に土蔵があるでしょう。

 

あの辺り一帯は実家の敷地だった。支所が増改築したとき土地のほとんどをただ同然で提供したのに、代わりにもらったのは、塩田の跡で水が多く土地も痩せている、こんな不便な場所だった。道路向こうは区画整理に入っているが、うちは外れている。区画整理に入っていれば新しい家も建てられた。遺産はこのぼろ家だけ。交通費と看病で破産寸前だ。どうしてうちばかりが損をするのか。

 

眉間の陰を深くして、彼女は嘆いた。

 

「せめて、下の兄がしっかりしていたなら。あのアホが」

 

 四元家の次男・善治郎は、多摩川六郷橋に近い河川敷に張ったテントの中で亡くなっていた。

 



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