閉じる


<<最初から読む

4 / 17ページ

4.

 

 中学校を右に眺めながら坂道を下る。普段は通学の生徒でいっぱいの歩道も、今は春休みで空っぽだ。大きな交差点をさらに下り、葬祭場の角を折れて川沿いの裏道を行く。

 

聡子はいつも以上に早く、アパートを出てきた。資源ごみの日だったせいもあるが、埃男のぜんじろうともっと話ができるのではと考えた。彼は、頼みがあると言った。聡子を温かいとも。不景気は余計だったが。

 

「仏頂面で悪うござんしたね」

 

 駐車場に車を入れながら、聡子は吐き棄てた。埃にすら分かる不幸を鼻先にぶら下げている姿を世間がどう見ているのかと思うと、苦い感情がこみあげてきて、ドアをつい手荒く閉めた。隣に停めた車の中で、音に反応して人が動いた。

 

 寝ていたようだ。顔半分をタオルで覆っているが、体のつくりは確かに例の福祉係だ。彼はもぞと動き、タオルを少しずらして腕時計を見た。目を合わせないよう、聡子は車の影に身を引いた。彼が再びタオルを被ぶるのを確かめてから、急ぎ足で支所に向かった。

 

 いつもと同じ段取りで湯を沸かし、湯飲みを用意する。カバーをたたむ。プリンターに用紙を補充する。そしてごみ出しだ。

 

 ごみは出す前に大まかに計量する決まりだ。袋に入るものは満杯に対して何分目と量を、段ボールや個人情報を含まない紙類は紐をかけて厚みを測る。聡子は右手に段ボール、左手に缶ビンペットボトルの入った袋を下げて廊下に出た。まだ暗い廊下を、先に行くものがあった。床に足跡を刻むように歩き、彼は柱を曲がって福祉係に入って行った。スポーツメーカーのロゴ入りタオルを首から下げて。

 

「あら、今朝も早いのね。本当に感心ね」

 

 昨日の老婦人が今日も、定食屋との境に腰かけていた。掌で合図するのに一礼して、土蔵の堅い扉を開く。冷えて沈んだ空気に入るのは毎回いい気分じゃない。聡子は手早く袋を棚下に押し込み、紙類を棚上に積んだ。

 

 事務所に戻っても、まだ他の臨職は来ていない。岩井さんが早いから私たち主婦は助かるわぁ、なんて、

 

「本気で思ってるもんか、あいつら」

 

 ぜんじろうの第一声だった。

 

「私も思っちゃいないよ」

 

聡子は窓口から鉛筆を集めてきて、排出口のそばで削り始めた。調べた結果、スピーカーや怪しい機械は存在しないことから、誰かのいたずら説は省くことにした。

 

「まぁ、奴らが遅いから俺はサトちゃんと話ができるんだけどな」

 

 声が背伸びをしている。

 

「名前があるんだから、人間なのよね?」

 

 なかなか鋭いじゃないか。ぜんじろうは楽しそうだ。得体の知れない相手だが、会話を重ねてみると禍々しさや暗さがない。近頃では出勤が楽しみさえになってきた。

 

 いっそ泥になりたいと思っている自分が居るのだから、埃になってしまった人間もいるかもしれない。いつそうなってしまったのか、今の気分はどうか、聞いてみたかった。

 

だが出勤の人々に阻まれて、会話はそこで終わってしまった。あと数日で年度が替わる。上半期のメンテナンスまでに、ぜんじろうの頼みとやらを聞いてやれるだろうかと、案内係の腕章を着けながら聡子は思った。

 


5.

 

「埋めてくれないか」

 

 ぜんじろうの頼みとやらはいきなり来た。聡子は排出口に背を向けて、弁当代のつり銭袋を折っていた。体の向きを変えて聞き返すと、今度はゆっくり、「土蔵の近くに埋めてくれ」と。

 

雷鳴が鳴り響き、頭上の灯りが瞬いた。 

 

朝からの雨が、昼には桜も見納めの嵐になった。さすがに来庁者も少なく、待合所のテレビで放送される春のセンバツだけが景気いい。臨職たちは余裕のあるうちにと指示を受け、書類保存庫の整理に駆り出されてしまい、係内には聡子と他一名だけが残された。その他一名もさっきから、パソコンの陰に隠れてスマホいじりを止めようとしない。聡子は排出口近くまで椅子を移動させた。

 

「頼みと言うより、命令みたい」

 

次の機会には、頼みとは何かと訊ねようと思っていたところに、いきなりこれだ。結論から話すのは確かに合理的かもしれないが。

 

 アイドルの動画でも観ているだろう同僚が、いきなりこちらへ来ないよう願いながら、聡子はさらに一歩椅子を近づけた。

 

「命令に聞こえたなら謝る。ダメだな俺は。昔っからこうでね。ごめんよ」

 

「お坊ちゃま育ちだったんでしょう」

 

「まぁ、そんなとこだ」

 

ぜんじろうは確かに、実体のあるヒトとして生きていたのだ。

 

ディスプレイの陰で、頭がリズムを取って揺れている。彼女が座っている住民基本台帳閲覧のパソコンで、彼の名前を叩いてみようか。思いつき、立ちかけてまた座り、聡子は折りかけの釣り銭袋をもてあそんだ。そして、

 

「ぜんじろうさんて、どんな字を書くの」

 

周りをはばかりながら問いかけてみた。

 

「俺のことを調べても無駄だよ」

 

 何を考えてるか、お見通しだよ。言われて聡子はうつむいた。

 

「それより、あんたこそ調べたいことがあるんじゃないか、あの機械でさ」

 

ぜんじろうの声は嘲りを含んでいた。

 

「いたずらに使うものじゃない」

 

「ハサミは使いよう、ってな」

 

何度も開いたり折ったりしたせいで、紙はくたくたになってしまった。聡子たち臨職はいろいろなものを作る。釣り銭入れだったり、飲み会の会費を集める封筒だったり、メモ用紙も。

 

窓口を訪れる市民から苦情が出ないよう、とにかく手を動かせと言われて作りためた袋やメモ帳が、机の引き出しに何年分も待機している。それでも後から後から作り続ける。自分が折った袋にいつ出番がやってくるか、なんてことは考えても意味がない。不毛を飼いならせない者には、臨職なんて勤まらないと聡子は思っている。だから自分には向いていないと分かっているが、勤めた以上は期間満了まで全うしたい。雇用保険も無駄になる。

 

「埃なんかに何がわかるのよ」

 

 ちょうど倉庫整理を終えた臨職たちがにぎやかに帰ってきて、もうぜんじろうは喋らなかった。三塁打でも出たか、大歓声が起こったと同時に、またひときわ大きな雷が轟いた。

 


6.

 

 石塀通りと支所通りが交差する角で、聡子は立ち尽くした。左から右から、道路は支所の来客用駐車場へ入ろうとする車で埋まっている。今年度最後の日だ。しかも金曜日。開庁まで一時間はあるというのに、正面玄関の前にはすでに人の列もできている。

 

 いきなり、後ろから人影が覆った。福祉係のあの男だった。彼は聡子に軽く目礼し、通り過ぎた。車列を眺めようともせず、踵で地を割りつま先で圧すように支所に向かっている。背中を追いかけるように、聡子も急いだ。

 

 事務所に入ると荷物置き場にバッグを放り込み、右手にポット二本、左手にごみ袋を下げて走った。やかんに水が溜まるのを待つ間にごみ出しに向かう。

 

植え込みの先、いつもの場所にいつもの老婦人が、今日は日傘をさして座っていた。遠くから挨拶の声をかけると、彼女は笑顔で手を振った。やかんの水が気になり、聡子は一礼だけ返して給湯室へ戻った。ガスの火を確認してから市民係に戻る途中、さっきの男が難しい顔をして、机に広げた書類の上に被さっているのが見えた。こっそり、柱に貼られた座席表で彼の名前を確かめる。黒葛原》やっぱり、どう読むのかわからない。

 

聡子は駆け足で市民係へ戻り、仕事にとりかかった。今年度も末の末というのに、他の臨職たちはまだ現れる気配すらない。コピー用紙を補充し、待合所の筆記用具や押印用の朱肉のチェックなどの始業準備に立ち動く間、排出口は無言のままだった。

 

 埃なんかに、と吐き棄ててしまった。

 

ぜんじろうのものの言い方が悪いだとか、文句を言えた義理ではない。聡子はなんとか謝りたかった。

 

だが今日は、と予想していたとおり、開庁と同時に一時間待ち二時間待ちのサインは消えず、電話は鳴り続いた。対応に間に合わず切れ、また鳴ったかと思えば、電話口でいきなり怒鳴りつけられる。スタンドの作業にも課長が応援に入るほどだった。臨時窓口は開かれたまま、列が途切れることはなかった。

 

 一人が係長の補助につき、聡子が待合所に出て、印鑑登録証明書だけをご希望の方は臨時窓口へと案内に回っているときだ。

 

「何時間待たすっとや。わいどま(お前たち)、すっ気があっとか」

 

 大声が響いた。カウンターをはさんで、ネクタイを掴まれ拳を向けられている係長が見えた。隣の戸籍係窓口に居た若い夫婦は、蒼ざめて逃げ腰になっている。警備員が走ってくる。「こん税金泥棒が」

 

 客は係長を突き飛ばすと手当たり次第に窓口のものを投げ始めた。書類はもちろん、文具や備え付けの老眼鏡まで。プラスチックの案内用プレートが割れて飛び散った。モノと人と空気が同調して騒ぐなか、窓口の職員が叫んだ。

 

「詰まってる。止めて。誰か止めてください、ベルトコンベア」

 

 聡子はカウンターの中へ走り、ベルトコンベアのスイッチを切った。次いでモーターの箱に手を突っ込んだ。だが完全には止まっていなかった。鋭い痛みが手の甲に来た。こぶしを引き抜いたとき、聡子の手は血まみれだった。スタンドにいた臨職たちが悲鳴を上げた。

 

 早く病院へ、という声に応えたものがいた。「ついでがありますから、自分が」

 

手に何かが巻かれた。見覚えのあるスポーツタオルに血が滲むのが見えた。

 


7.

 

―頼んだよ、黒葛原君―。

 

つづらはら、と課長は呼んだ。ふぅん、そう呼ぶんだ。聡子は会計に立つ背中をぼんやり見ていた。

 

男はときどきこちらを振り向いて、看護師と話をしている。やがて戻ってきて上背を屈め、痛みでしかめっ面の聡子を覗き込んだ。「大丈夫、じゃないね」

 

「大丈夫です。すみませんでした。ご用事があったのでは」

 

「君が手の処置をしてもらってる間に済ませてきた」

 

 支所の管内を公用で何軒か回ったと答えた。出かけようと市民係前を通りがかったとき、騒ぎに出くわしたと話した。

 

「すみません。タオルを汚してしまって」

 

 左手で差し出された痛み止めを受け取り、聡子は頭を下げた。ぐるぐる巻きの右手は麻酔が効いていてどんより重い。黒葛原も隣に座った。

 

「大した怪我じゃなくて良かった」

 

 だが聡子は頭を横に振った。モーターに手を突っ込んだのは自分の失態だ。

 

 ベルトコンベアのスイッチを切ったとき、とっさに、緊急メンテナンスを考えた。メンテナンスで箱が開けられたら、そこいらじゅう清掃されてぜんじろうが消えてしまう。埃を救おうとして手を突っ込みましただなんて言えやしない。

 

「無茶をしたね」

 

彼は聡子に、看護師から預かったと、ビニール袋をぶら下げて見せた。袋の中には一塊の埃が入っていた。紙屑の、糸くずの、塵あくたの、機械油を帯びた不格好な灰色だった。

 

「それなんだけど」

 

 黒葛原はビニール袋の中身をじっと見ている。外科の処置室で血まみれのこぶしを開いたとき現れたそれを、捨てないでと聡子は看護師に頼んだ。きっとおかしな女だと思われただろう。だが、

 

「もしかして、ぜんじろうさん?」

 

 神妙に聞いてきた。

 

「君も、彼と話ができる人なの?」

 

 ビニール袋の中で、埃はちらりと光ったように見えた。聡子は答えた。「できます」

 

 ほとんど初対面だった相手と急に距離が縮んだ瞬間を感じた。君も、と言うのなら、

 

「ぜんじろうさんと話の出来る他の人って」

 

 そうに違いない。「あなたなんですね」

 

 彼が「出会った」のは、一昨年のやはり繁忙期、臨時開庁の日曜日だった。当日彼は会計係を任されていた。来庁者は少なく、眠気と闘っていたところに、「なぁ」と声がかかった。暇つぶしにしり取りでもしようやと誘われた。

 

「したんですか、しり取り」

 

「したよ。“しりとり”から始まって、腹が減っていたせいか“かつどん”で負けた」

 

 暇つぶしの相手が埃だと知ってさすがに驚いたが、言葉を交わすうちに気味の悪さが薄れていったそうだ。やがてぜんじろうは聡子に語ったと同じく、叶えてもらいたい願い事があることを打ち明けてきた。

 

―家族がどうしているか知りたい―。

 

 戸籍や住民票で調べられるよね、と。

 

「僕らは職務上、住基台帳を見ることが出来るけれども、断った」

 

 不特定多数の個人情報を、興味本位で閲覧する道具ではないのだ。

 

「断った後はどんな様子でしたか」

 

「変わりなかった。ぜんじろうさん、なかなか物知りでね。楽しかった」

 

 だが彼は、ぜんじろうと話せる機会を失った。福祉係に病気入院するものが出たため、急きょ市民係から派遣されたのだ。

 

「家に連れて帰るの?」

 

「頼まれごとをされているので」

 

 聡子がぜんじろうから委ねられた頼みごとを話すと、黒葛原は書類を見ていたときと同じ渋面で腕を組んだ。袋の中身をにらむようにしばらく考えていたが、やがて、ポケットから携帯電話を取り出し、真面目な面持ちで聡子に差し出した。

 


8.

 

 連れ帰ったぜんじろうを、聡子はジャムの空き瓶に移し替えた。息ができるよう、蓋はしなかった。声が聞こえるからといって呼吸をしている証明にはならないが、密閉はかわいそうな気がした。

 

 テーブルの上に置いた瓶の中を、腕に顎を載せて眺めた。麻酔が切れ始めた右手から消毒薬の臭いがする。痛むが後悔は感じない。

 

 聡子は、埃の成り立ちについて考えていた。スタンドに立つ臨職の衣服や申請書から出る繊維、来庁者が纏って入ってくるいろいろな付着物。食べ物もあるだろうし、土砂もあるだろう。ペットの毛も。空気を含んで舞い上がり、ベルトコンベアの静電気に吸い寄せられ、空気を失って機械の末端に積もり重なる。様々な要素が合わさって灰色というわけか。そこにどんないたずらが施されて埃が減らず口を叩くのか。

 

左手で、少しだけ瓶を振ってみた。

 

「おいおい。船酔いするじゃないか、サトちゃん」

 

 いつも通りのぜんじろうが悲鳴を上げた。

 

「あ、生きてる」

 

「吹けば飛んでく人生を、今回はサトちゃんに助けられた。名誉の負傷まで負わせて」

 

 下げられる頭が欲しいよ。嘆きつつ、すまないとごめんを聡子に向かって繰り返した。

 

「ねぇ、黒葛原さん、知ってるよね」

 

「あぁ、つーちゃん」

 

聡子はぶっと噴いた。

 

「今日明日じゃないけど、ここに来るって。ぜんじろうさんに会いに。話がしたいって」

 

「嫁入り前の娘が簡単に男を家に上げたりして。お母さんが泣くぞ」

 

 病院で、携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。訪問されてもお粗末過ぎる、食べて寝るだけのワンルームには招けない。連絡があれば近所の公園で待ち合わせするつもりだった。

 

 黒葛原の話が出たところで、聡子は急に空腹を覚えた。手はこんな具合だし、コンビニ弁当で済ませようと立ち上がった。

 

日暮れに気づいて灯りをつけたとき、ぜんじろうは、「眩しい」と唸った。日陰者に世間は明るすぎる。

 

自分を卑下しちゃダメだよ。窘めながら、聡子は半間の押入れから小さな箱を見つけ出し、空気穴を数か所開けてジャムの瓶に被せてやった。それから夕食を買いに出かけた。かつ丼が食べたくなっていた。

 



読者登録

求堂 咲さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について