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堕ちる天使 #3

 

 

 

 

 

生け花は母親の趣味だった、と言った。

 

フィリピン人の、その。

 

 

理沙の乱れた息はなかなかおさまらない。呼吸器自体が壊れて、破綻して仕舞ったようなその、荒れた、暴力的で、その肉体そのもを内側からへし折ってしまいそうな息遣いを、見るでもなく私は見て、終には不意に。

 

見た?

 

そして、私は涙を流したのだった。

 

咲いていた花

 

想わず、悲しいわけでもなくて。むしろ、泣きじゃくりさえしながら、私は彼女をただ見やって、バスタブの中で身を丸め、あの、やわらかい逆光の中で。

 

色彩のない空間への裏切りと鮮明な

破壊行為そのものとしての

 

窓越しの逆光。そして、理沙をクラブから連れ出したときに、気にも留めてくれない黒人のセキュリティたちのまえ、あの、十分近いながいキスの後で。

気付いた?

 

開いたままの眼が、理沙の男が私たちを見留めたのには気付いていた。その、小柄な私がまっすぐに立ったら見あげなければならない理沙の男は、一瞬だけ

 

いつか立てたその花の

 

不快げに私をひきはなそうとしたが、理沙が

 

微香に

 

目を閉じたままなのには気づいていた。何を見ていたのだろうか?その、閉じられた昏い眼差しの中で。

男は私の首にすがった理沙の腕をつかんで、二度三度試みた後に聞こえよがしの舌打ちだけを残して立ち去って仕舞うのだったが、その、長すぎた口付けのあとで、私にとっては結局は、眼を開けたままのそれは、接近した彼女の閉じられたまぶたのこまかなふるえを捉えたにすぎず、…こっち。

 

そう言ったのは彼女だった。飢えた眼差しをくれた理沙。

 

何に?

 

最初のみじかく、鮮明なキスの後、駄々をこねるように暴れて見せて、私を押しのけて、そして一瞬だけ目を伏せた後に、手首をつかんだ華奢な手のひらで、クラブの外に私を連れ出そうとしたのも、あるいは刹那のためらいにすぎない短い逡巡の後に、それを請けがった私が彼女を無理やり羽交い絞めにしたようにして、彼女を

 

抱擁に

 

連れ出して仕舞うのを許したの。…こっち、という、その若干低めのアルトを耳に確認しきらない内に、むしろ奪い去って仕舞うように理沙は私の手を引くのだった。

 

確認しあうことに

 

円山町の坂を上がって、道玄坂の上に。連れ込まれた彼女の部屋の中で、私は彼女に衣服を剥ぎ取られるに任せるのだし、いずれにしても、そうなる以外に、

 

なにを?…すでに

 

選択の余地などもはやあってはならなかった。私たちは、破壊的で、壊滅的なまでに愛し合わなければならなかった。例えば、すでに私たちが愛し合っていることを、もはや

 

確認されて仕舞ったにすぎないものを

 

なすすべもなく追認してやらんがために、ただそれだけのために、その、気の抜けた、すでに飽き果てられた、どうしようもない、くだらない、ときには子どこを生産する以外には何の役にもたたない、何の意味さえもない、それ、そして、私たちは愛し合う。

愛し合う私たちは愛し合って、むさぼるように、やがては朝。

その、逆光の光に瞬き、開いた眼をふたたび閉じる。

眠ってはいなかった。まだ。私は目を閉じていた。まだ。もう、朝であることには気付いた。体が、そしてまぶたはすでに、そこに朝が隠しようもなく存在していることを感じてはいたのだった。カーテンさえ閉じられはしなかった窓から、野放図に侵入するしかない午前の光の、その、正確な時間などわかりはしない。

髪の毛の先で私の鼻をくすぐって、からだの上にのっかった理沙は声を立てて笑ったが、そしてまぶたを開いた私は聴く。その耳元に、彼女の低い、鼻にかかった笑い声。

見ていた。私は、覆いかぶさった彼女の、逆光の中の昏い、微笑んだ顔の、そして、あざやかに匂っていたことに気付く。皮膚が。あるいはその絶え間のない息遣いが。それら、彼女が散らした体臭が、その、鼻先に、終には胸に、おおいかぶせられた髪の毛の、かたくななまでの芳香とともになんども鼻に衝いてふれる。「…お母さん。」

 

おかーさん、と、その理沙の喉が立てた音だけを耳に幾度か繰り返させて、背後に立てられた笑い声の尽きた先に、発されたその声。活けられたばかりの花が匂った。聞いた。理沙の声を、耳の中を指の腹でしっかりと撫で付けるようなアルトの、絹の音色。

まま、と、不意に繰り返して、振り向き見た私を見ようともせずに、おかーさま、その、ママ。無為に過ごされているにすぎない、理沙の、活けられた花の、色彩が浮かび上がらせた形態にだけ注がれた眼差しは、りー、ざ。何を捉えていたのだろう?

その時には。

だれ?

りー、ざ。

おかあさん?

りーざ、さん。「りー、」と、

りー、

「…ざ」繰り返した私の「りー、…」

「…ざ。」唇の動きを、理沙は理由もなく諦めたような眼差しに、ただ見つめていた。理沙、という彼女が名乗った名前の必然性が、なんとなくわかったような気がした。

 

「お母さんの趣味が、生け花だったんだよ。」言って、そして、殺された母親。十二歳のときに、と言った。十六歳で、フィリピンで理沙を、あるいは Lisa を?生んでから、二十歳すぎた頃にその日本人やくざのお目に留まって、日本につれてこられて、そして広島のフィリピンパブで、田舎のお金持ちたちを食い物にしてやりながらも、二十八歳のときに真鍋悠太という名の当時45歳だった独身男に絞殺、遺棄されて仕舞うその。

発覚後に、撮り貯めされた十本近いリーザとの行為のVHSヴィデオは押収されて、その販売用のダビング・テープは段ボール箱2箱ぶんくらいだった。

真鍋の実家は岡山市にあったから、会社のある福山市内の独身者用アパートを借りて住み込んでいた。

真鍋は独身で、女っけもなければ奥手だったが、そんな事件を起こすようには思えなかったと、その、地方の戸建て分譲会社の同僚や、学校時代の同窓生は語った。

店で口説いて連れ出して、両者承諾の上で何度も行為に及び、リーザは真鍋を、馬鹿な客だと同僚に言って、無邪気に笑い噂し立てていたらしい。

面白いほどにお金をくれるのだ、と。ろくに、お金持ちでさえないくせに。

明日の自分の金にも不自由するくせに。

真鍋の言うところに寄れば、真鍋以外の男にも肌を許したことをリーザがほのめかした瞬間に、想わず激高して仕舞ったらしかった。

首を絞めて殺した、そのあと、リーザが復活しないために、もう一度ビニール紐で、遺体の喉の骨が複雑骨折を起こしていたほどに何度も締めた。

リーザはキリスト教徒だったから、復活するかも知れないと想った。そう語った。

離れて遺棄するのは忍び難かったので、アパート近くの、福山城の中の茂みを深夜掘り起こして、埋めた。

発見されたとき、死体は死後二週間立っていた。土は、まだその肉体を十分には土に返していなかった。

掘り起こされたその遺体は解剖にかけられた。彼女の身寄りは、理沙しかなかった。

店の従業員がそれを拒否したため、遺体確認は子供がしたと、テレビのニュースが言っていた記憶が在る。だから、それは、理沙に違いなかった。

記憶の中にかろうじて忘れられないままに残っていた。

子供の頃、当時の報道番組で毎日繰り返し放送されていた、その《福山市フィリピン人バラバラ事件》の詳細は。

なんとなくの記憶に過ぎないにはしても。

 

涙の向こうに、ふるえて、その形態を乱して仕舞う理沙の形姿を、私の濡れた眼差しが追った。やがては諦めたようにバスタブから身を出して、私は理沙の前にひざまづく。そして、はっきりとは見定められないその、目の前で、白くくらんであざやかに乱れるむちゃくちゃな形態としてしか見出され獲ないその、ただ、愛しいものの残像は、そこに相変わらず荒く、乱れ、苦しく息遣っているばかりで、理沙の眼は見開いて剝き出されたままに、突き上げられた顎が上向かせるがままの、その、うつろな視界をふるわせ続けているに違いない。

顎先がのけぞり、咳き込む。下唇が痙攣する。

私は彼女を羽交い絞めして抱きかかえ、キスをくれた。長い長い、そして、為すすべもなく痙攣してばかりで、何のまともな反応さえも示そうとはしない理沙に。私は。

 

くれた。

涙を。涙にくれて。

私は。

くれる。

 

その。

 

涙。

あるいは、滂沱の。

ながれるがままに。

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

フエの、床の上にそのまま横たわった身体に、開け放たれたシャッターを通過したそれ、朝の光が触れて、やわらかい陰影の中に空間はそのもろもろの形態を穿たれる。

あるいはただ、空虚な拡がりの中に。

視界の中に、まったき、取り返しもつかない、消去しようもない存在そのものとして。

何度も通り過ぎたバイクは、だれもこちらに目線を合わせようとはしない。あるいは、合わせているのかもしれない。それに、私たちが気付くことが出来なかっただけで。

いくつかの、バイクの騒音。エンジンの。そして。

低速に、かったるくまわる車輪の音響。

コンクリートの上に砂埃りが立つ。

いずれにしても、目を閉じるとさえなくフエは向こうの狭い通りにそのまま目線を投げ棄てて、にも拘らず、彼女がかならずしも何かを見ているわけではないことなど、私はすでに、気付いていた。

見る。庭先に、その道路をまでも、散った庭先のブーゲンビリアのむささきがかった紅が、ただ色彩として乱れて静かに、日の光にだけ当っていた。

その光に、時にはきらめきさせられさせしながら。

まばたき、あざやかな…と。なんという、…

 

…鮮やかな、と。私は想う、

フエの頭を、見向きもしないままに探り当てて、終ったあとで、何も言わなくなって仕舞った彼女の額に、指の腹を当てた。

 

 

 

 

 

…いずれにしても。

 

そう想った。

理沙が血を吐いたときに。浴槽の中、転寝を始めた理沙の頭を、取り立てて意味があるわけでもなく撫ぜてやり、そして、やわらかくて、執拗な眠気が眼球の奥のほうの至近距離から進入してきて、あとは為すすべもなくてひとり、目舞う。

なにが、目舞ったでもなくて、そのにぶくて甘い感覚に対する抵抗力が終に奪われようとした瞬間に、不意に屠殺された動物のような唸り声を喉に立てて、理沙が吐いた血は私の胸元から、やがて腹部に、たれ堕ちて下腹部を濡らし、吐く。

血を吐いて、理沙は身を曲げ、不意にのけぞって、えづき、両眼を剥く。

反対側にひっくり返りそうになって、あるいは、そして髪の毛は乱れた。

死んだら?

私はつぶやく。頭の中で。死ぬしかないよ。

…違う?

指は震えている。

…もう。

指。

彼女の、細い。

フエの指先は

行き場所などない。

そしてかすかなふるえを見せながら

すでに、ここが終着点だから。あるいは、…。

床の御影石の上を掻いた

…違う?

そのときに、私が

それを過ぎた場所。

たてた笑い声を彼女はたぶん

…だろ?

聴く

あるいは。…大丈夫?

 

…と。「大丈夫?」とだけ口に中で私が…ねぇ。ささやきかけたとき、その「お前、ほんとに…」呟きを耳にした私は、私が「だいじょうぶ?」久しぶりに声を発したような気がした。まともな、人間らしい声を?

 

だい、じょ、…ぶ。

理沙は、そして。

…じゃ、ない。…かな?笑う。

彼女も、声を立てて笑った。

 

「死んじゃうかな?」

「いつ?」

まばたかれるしかない

「死んだら、」

その

「お前、」

「…ね。」

直視されずに

「いつ、」

いつも

「わたし、死んだら、さ。」

だって

「死ぬの?」

直視できないから

「誰が、するんだろ?」

まぶしくて

「いつ、」

斜めに

「葬式。」

若干の

「死にたい?」

その

「誰が私の葬式…ってか」

傾きの中に

「雨の日?」

「墓、」

見留められた

「晴れの日?」

光は

「つくるの?」

そして

「台風?」

ふれていたのは

「死体の始末するの?…ねぇ」

皮膚

「いつがいい?」

私たちの

「山の中に棄てちゃうと犯罪だよね?」

曝した

「俺、」

あるいは

「やばくない?」

空間の中に

「雨の日がいい」

曝された

「死にたくない」

与えられる

「…春。」

温度

「なんか、」

その

「桜とか、」

感じ取られた質感に

「死にたくない。」

想い出されたのは

「咲く前。」

いつかの夢

「生きてる限り、死ななきゃいけないんだけどさ」

浅い眠りの

「まだ、」

その中で

「やばいよ、」

朝に

「寒い頃」

崩壊していく

「やばい。」

その

「冬の終わり」

知覚されなかった

「死んだら。」

空間の中に

「雨の中で」

下から上に

「まじで、」

吹き上げられていく

「…朝。…朝がいい。」

静かな

「…ね。」

上昇

「今、死ねない」

音もなく

「まじで、」

無数の花々が

「春じゃないから。春はもう、」

ただ、散乱する

「行き場所なくなっちゃうよ。」

色彩の

「終っちゃったから」

氾濫として

「…ね?」…違う?

 

いつでも。

 

いつでも、理沙は留保なきまでに、ただ単に綺麗な笑顔として笑い顔を曝して見せるので、いつも、彼女が本当に笑っているのだとしか想えなくなる。

花々は

あるいは、本当に笑っていたのだとしても。

無際限なその空間の中にただ

 

上昇していくばかりで美しいとも、あるいは綺麗とも

 

想わないままの私はそれを

 

見つめるしかない

激しい嘔吐のために、目に涙を一杯にためて、ときには想わずこぼして仕舞いさえしながらも、華奢な体を骨格ごと揺らしながら声を立てて笑う。日差しが差す。昼間しか会わない。

夜と早朝はいつも、他の男のそれをくわえこみに出勤するのだから。

店がはねたらときに外で待ち合わせて、渋谷のクラブを回ってみる。

時間が過ぎて行く。

渋谷。…早朝が好きだった。夜の時間の留保なき終焉の、あまりにも明晰な兆しが路面から始まって、いつか大気中を満たしてさえいた。その息吹きなど希薄なままに。

もう終ったものは取り返すことが出来ない。悔恨?

そんな感情さえ追いつかない、時間など流れている気さえしない単に停滞した、白んだ気配に満たされて、私たちは笑うしかなかった。理沙と、私と、ときに松田泰隆や、北浦茂史や、彼らとつるんだ時間の終わりの、味気ない、…のではなくて。

笑うしかないから、私たちは笑うのだった。時には精一杯にも。かならずしも何もおかしくもないままに。

 

出会ったばかりの頃、その春の昼下がりに、不意に理沙は起き出して、化粧ポーチをひっくり返した騒音が私を目醒めさせたのだった。不審な、そして揺らいでさわぐ不安感が私の喉もとを襲って、…壊れるの?瞬き、それを背中で察したに違いない理沙の振り向いて微笑んだ、…壊すの?笑っている、と、そう言うしかない笑顔は私を不意に半分だけ癒しきって仕舞う。

どうして

とはいえ、そう。

君は私を癒して仕舞うのだろう

もう、完全に壊れきっているのに?

君の悲惨を、そして惨状を

半分の癒しきれない騒がしさを取り残して仕舞ったままに。そして、

ただ見せ付けるだけなのに

まだ、何も壊れてさえいなかったのに。私は笑ってやるのだった。彼女のために。

その、不意のいたずら心のために。

困り果てて、ふてくされたような顔をして、どうせ途中までしかしないくせに、いつも逢えばかさねるほかない肌と肌の、そのせいで理沙も私も裸のままだったが、光。窓越しに差し込む、大学にはもうほとんど通いもしないままに、入り浸った渋谷の高層の建物の中の、それは上空だったからなのか、まだ、なににもべたべたと触れられてはいない静かで、どこかで凛としたたたずまいさえ曝していた光、その、空間にあふれるしかない光、空気も含めて、ふれ獲るすべてのものに素手でふれて、冴えた、その。

たとえ、夏であったとしても光は冴える。澱みすらしない、そして春の、まだ桜さえ沖縄で咲き始めたばかりの、その浅い春が、醒めない冷気をいまだに持って、大気は私たちの皮膚にもふれた。為すすべもないあたりさわりのない自然さな素振りをしか持たずに。瞬く。

花。匂う。花々が。理沙は、いずれにしてもやがて終には片っ端から枯らして仕舞うには違いなくとも、どこからか買い込んで来ては部屋のいたるところを埋め尽くしてみせずには置かないそれら、花々の匂い、そして、みずからの微笑みに飽きたに違いない理沙が、フロアに胡坐をかいて座って、化粧品の山をまさぐり、理沙は探した。何を探しているというあてがあるわけでもないことには、お互いにもう気付いていた。

過ごされあうお互いの時間。その交錯。それでも、私たちが存在していることそれ自体に対する違和感が消えなかった。その只中で、にもかかわらず指先に触れたピンク色のリップを取って、何も見ずに唇にぬってみせた理沙を見る。

私を捉えたままの眼差しは、揺らぎさえもしなかった。

絶えないのは私の微笑み。耐えがたいほどに、愛すべきもの。美しい、いわば社会そのものの汚物。理沙。穢い廃棄物。くそ以下の残骸。あるいは私も?かならずしも、あるいはまさに、私こそは。

不意に私が声を立てて笑ったので、理沙は、そしてふたたび私の眼差しははっきりと合わさったその焦点の中にくっきりと理沙の姿を捉えるのだが、日差し。斜めに差して、おどろくほど褐色に染まりきった肌のおうとつに淡いだけの翳りを刻む。

何が?と。

何がおかしいの?

その問いかけを吐く余地さえ与えないままに、理沙も笑いながらリップで、その体にでたらめな線を引いた。

もう一本の赤いリップと。かさねあわせさえしながら。

指先に挟まれたそれらが、肌に色彩を与え、色彩。人種の問題?何の無理もなく褐色の、…いずれにしても、太陽の光そのものを、他のいかなる存在よりもいっぱいに吸収して、みずからの破綻すれすれまでに自分の、本来、黒くはなかったはずの皮膚を染めきらないではいられないような、むしろ色彩に飢えたような貪欲な褐色に、瞬き、意図もないままに引かれていく口紅の線のなぞった色彩が、私は、その息づいた皮膚の上に息吹くのを、見る。

…ほら。

理沙が言う。ベッドまで這ってきて、彼女の匂い。横たわった私に嗅ぎ取られた、かすかな。混濁した、その、「…ね?」聞く。

じゃない?…

耳元の、彼女の、嗅ぐ。匂う。

香り。

匂われたもの。花々の、そして人より豊かな髪の毛の、肌の、体臭、それら、まざりあって、漂って、鼻を撃ち、…ほら。

そう言って、覆いかぶさった理沙は私の唇に、そしてやがてはからだ中に線を引くのに、…ね?私は任せた。

笑う。くすぐったくて、優しい抵抗を私は曝して、戯れられる時間の濫費。

君と居ると、時間などすぐに経って仕舞うのはなぜだろう?そう、私は想って、指を伸ばせば。それ。指先がふれたのは、理沙の唇。好き?

見えますか?

言った。

匂いたち

「…ね?」

散乱して

なにが?

見えますか?…眼差しに

「好き?」と、理沙が言って、何が、と、そう問い返すしかない私に理沙は

見えているものが

ふてくされた顔を曝して見せるが、すぐに笑みに崩れて仕舞い、

その

「…わたし」

眼差しが

「お前?」

ときに

「好き?」

ひそめられた

「好き。」

気配を

「嘘。」

嗅いで

甲高い、理沙のわざと立てた笑い声を聞く。なんで、と、理沙は「なんで、あんた、嘘しか言わないの?」口走った。私の腹部に、「…ねぇ、むしろ」でたらめな曲線を描いて、「あんた、死んだら?」口づけた。

理沙の指先がつまんだそれに当てられたリップが、それにピンクと、赤の色彩を与えた。体内に入り込むしか能のないもの。それが、リップの先の油じみた、湿ったなまぬるい触感を感じて、声を立てて笑い、私は馬乗りになった理沙の首に手のひらを当てる。

綺麗でいたい。理沙は言う。誰よりも、なによりも、と、彼女はくちずさむように言って、瞬き、短いキスを額にくれて、温度。感じられた、「誰よりも穢いから。」体温。「わたし、さ。」知ってるでしょ?

「誰よりも穢いから、」彼女の「だから、」発熱したような「誰よりも綺麗でないと駄目なの。」あたたかな体温が肌に触れる。

自分の体温など、誰も自分では感じられない。自分の体臭でさえも。そこに息づいてさえいるのに。

そんなことは、もう知っているはずなのに、むしろ私はそれにおびえて。

高校のとき、恵子という名の、もはや苗字も忘れためがねをかけた女が言った。いい匂いがする、と。

どこに?

何が?

皮膚から?…だれの?

見えますか?

「…あんた。」

体温も体臭もまるで嗅ぎ取られない自分の肉体は、いわばまるで、死体としてしか自分自身にとっては認知されない気さえした。

綺麗?

やがてはひざを立てて、理沙は立ち上がって、ベッドの上の、その理沙のからだを下から見上げれば、逆光の、柔らかい陰影が彼女の形態を浮かび上がらせた。…ね。

またぐられた、眼差しの向こうに、いつもよりも遠く。あるいは昏く。

綺麗?と理沙は言った。「…どう?」むちゃくちゃに引かれた赤いラインが、彼女が息遣うたびに皮膚の上にこまやかに踊る。

ふるえる。

ゆらぐ。

きざむ。痙攣を。

かすかに。

わななく。

 

 

 

 

 


堕ちる天使 #4

 

 

 

 

 

母親が死んだ後の、一応の後見人になっていたのは、そのフィリピン・パブの経営者だったが、理沙は結局は彼の慰み者になっていただけだった。あてがわれた店の寮には週に二三度、様子見と当座の食事と当座の小遣いと、その見返りを求めに男は来たし、その、北見俊介という50近い離婚歴のある男が理沙に教えたのは、軽度の《合法ドラッグ》と、男に抱かれるすべだった。

十三歳の理沙が魅力的だったのかどうかは知らないし、単に北見という男の趣好に過ぎなかったのか、あるいは、何らかの見返りくらいはもらってしかるべきだと想われた、その見返りとして奪い獲るものが少女にはそれしかなかったのか、そんな事はわからない。

中学校には殆ど通わなかったし、そこで彼女が教わったのは同級生に廻されたときの身の処し方に過ぎない。要するに、すべてを冗談のように、受け入れてやるしかない。店に出て自分で稼ぐには見かけが幼すぎれば、どこでもかしこでも、だれかの慰み者にでもなっているほかない。

いずれにしても、唐突な家出は繰り返されて、教師の理不尽な懲罰と北見の折檻は苛烈なものになって行き、過呼吸と嘔吐の発作に襲われながら、十六歳になったときに、本気の家出をして東京に出てきた、と言った。

歌舞伎町を皮切りに、複数の風俗街で働いて、それから渋谷にながれて、薬と街に壊されて、そして、私の皮膚に口紅をぬって遊ぶようになった。…笑っちゃう。

言った。

「…ね。」…何度も堕したから、もうボロボロのはずなのに、相変わらず妊娠を繰り返すのだと、理沙は言った。生命力。強靭なそれ。

壊れないんだよ。言った。しつこいくらいに。下腹部をなぜて。…ぶっ壊れないの。腐りかけてるはずなのに。

死のうにも、なかなか死に切れないもの。

人体。

途方もない時間と労力をかけなければ、死に絶えてはくれないもの。どうしようもない、ただ、いたたまれない屈辱を、私は感じた。

 

死んで仕舞ったように、理沙は身を横たえたのだった。仰向けに。遊びつかれ、はしゃぎ飽きて仕舞った後で。口紅を落としさえせずに。

彼女の傍らにひじをついて、私の肌と並べると、それは意図しないままにも、白と黒の鮮やかな対比をつくっていたはずだった。自分の視界がかろうじて捕らえた、自分の腕の白さが、そして、彼女の腹部に這わされる指先の、その、白さがピンクの線に穢された褐色のうえに、私は見惚れてやった。

理沙のため、愛しい彼女ために。あるいは、それは見惚れるほどに綺麗だった。事実として。…荒稼ぎをして、ほとんど使い切りもできないままに、ほかにしようがないから口座の中に溜まっていくしかない金銭の束。

かならずしも、もはや金に困っているとは言獲ない。店に行って、男たちのそれを、口にかそこにかくわえ込んでやらなければ生きていけないわけではない。

私だって、理沙の金に縋らなければ生きていけないわけではない。私を愛するしか生きがいのない、押し付けがましい家畜のようなあの母親は、私をただただ甘えさえ、金を出せといえばいくらでも出した。父親は眼を背け、いずれにしても、金なら不自由はなかった。いかんともなれば、だれかを殺して奪って仕舞え。理沙は仕事をやめなかった。私は彼女の仕事をやめさせなかった。

時間を気にし始めるにはまだ早かった。

午後3時半過ぎ。

もうすぐ、今日も陽が暮れて行って、裸になるために店に行く。くだらないスタッフに愛想を言われて、数をこなしていく。潤んだ目で、不意に、「…わたしみたいなの、穢ないって想うよね。」そう言ったら、「ガイジンだし…」男は食いついてくる、と言った。

その一面において本気の甘い言葉がかけられて、それを方耳に聴いて、あるいは倦み、若干ほだされて、いずれにせよその狭い空間に肌を寄せた自分たちを哀れみながら、そして理沙は男の頬に口付ける。ためらいがちに、臆病で、想いきれもしないままに。何も誓われはしない、誓いの口付けのようなもの。「…口がいいですか?…ね。それとも、」…なか?

 

「結構、いいんだよ。わたしの。」媚びて笑う。活けられた花。

想いあぐねたように、かさなったままの私の体を払いのけて、立ち上がって、そのままバルコニーに出たときその理沙の曝された素肌を、その春にまだ若干遠いはずの冴えた、ただ冴えきるしかない上空の大気は、風のかたまりになってふれて行ったはずだった。

ハンズで買った青いバケツ一杯に張られた水の中に、無造作になげこまれた花々を、手に触れるものを気まぐれに抜取ったにすぎないようにして選んで、背を向けて一瞬立たずに、眼差しにふれたのは空の、靡いた雲の断片の色彩と褐色の、これみよがしに美しい曲線。振り向いた理沙は、かすかに白い穢れを散乱させた窓ガラスの向こう、私に微笑をくれた。

ここにいます

だれも、見ているものなど

わたしは

いない。

見出さない。私以外にはだれも。そこに、裸の、体中に口紅を塗りたくった頭のおかしな女が、綺麗に、美しい花を持ってたたずんでいたとしても。笑って仕舞うほどに、どうしようもなく不在だった。それを見留め獲る眼差しなどは。その、光に貪欲すぎる褐色のあざやかな肌をじかに、容赦もなく、音さえ立てない暮れ始めの執拗な日の光の色彩がしずかに灼いていっているのだとしても。

色褪せさえさせられずに、光はむしろ、みずからの孕んだ色彩をだけ、それみずからがふれた肌に与え、息づかせるしかなくて。

だれも見ない。…だれも。

そこで、私たちが愛し合っても。

だれも。憎みあっても。

見留めるものなど。

罵りあったとしても。

あるいは殺しあったとしても。

なにも。

命を与え、生み出す歓呼の声も、誰かを扼殺し果てる叫び声さえも、あるいは、誰かに壊される恐怖の悲鳴さえも、大気は終に地に触れ獲ない上空の強すぎる風に、まるごと流し去って仕舞うほかないに違いない。

不意に、窓の向こうで声を立てて笑うので、私は想わず立ち上がったのだった。強制されたわけでもなくに。室内にまではそのわなないているはずの声は聴こえず、私は室内の、どうしようもない無音を聴くしかない。

細かな雑音に塗れた、静寂にもなり獲ないその、単なる、言葉として言えばいわゆる無音。

理沙が手を振った。誰も掃除しない窓のガラスはかすかにこまかなよごれの白濁をだけ点在させ、穢れたみずからを曝した。

理沙は、背を向けて、ルーフ・バルコニーの向こうの端にまでゆっくりと歩き、彼女の向こうに、斜めに、代々木公園をさえたくわえたその渋谷の風景が、ただ、広がる。突然都市に出現する緑の、管理されきった廃墟。風は、理沙の髪の毛を乱すしかない。そよがせて。

ゆらぎ、ふるえ、乱れて、さわぎ、ざわめきたって、ときに絡み合いさえもして、とはいえもつれ合うこともないままに、髪。その群れ。黒く、長く、光って、解け、乱れ、ゆらいで、ながれて空間の中にそよぐ。光の白の反射が泳ぐ。髪の毛、その、美しく匂って、散乱するばかりの華奢な夥しい束なりを、私は眼で追うしかなくて、ただ、愛している、と。

結局のところはそうつぶやくしかなければ、そう言って仕舞い、そうつぶやかれて仕舞えば、あとに為すべきことなど、あるいは為し獲ることなどほかに、何もありはしないのだった。

…愛。出会って、愛していると、そうつぶやきあった、あるいはそれ以前の、その言葉に墜落するその以前にさえ、見詰め合ってなにかがかさなって、お互いの直感そのものとして了解されて仕舞ったその瞬間には、あの、いずれにせよ留保もない完全なる一致の瞬間。結局は、すでに、すべては終っていたに違いなかった。

燃え尽きて、焼き尽くされて、燃え尽きるがままにまかせるしかなかった、だから、いまや、燃えカスの中で、必死にかさなり合い、かさねあおうとして、抱き合い、単なる哺乳類の自然として一つになりあおうとするように出来ているにも拘らずに、完全な一致など見ることのない、でたらめな肉体のかぶさりあいにすぎない無様なその行為に、何かの一致を夢見もした。

見事になにも、そんなものからは獲られもしなかったにもかかわらず。繰り返された何度もの行為の中で。新しい肉体が、その、何かと一致することさえ出来ない固有の、その特異性にだけ倦むしかないそれ、子供をでも生産する以外には、結局はなんの役にもたたない能なしの、愛しあうふたりにだけ許された行為。愛。すでに、始まったときには終って仕舞ったものとしてしか、経験されない、絶望的な、無慈悲な、その、理沙が髪を掻き上げて髪は、指先に小さく踊った。

向こうのベランダの手すりに背を持たれて、理沙は私を見つめた。その、私からは穢れた窓ガラスの断絶の向こうに。彼女からは、あるいは窓に斜めにあたった鮮やかな、色彩もない反射光の向こうに。理沙の眼差しは反射光のせいで、私のすがたさえ捉えてはいないに違いなかった。

左手に花をいっぱいにつかんだままに、理沙の指先がその、みずからのからだの形態をなぞってみせて、そして、私を促すように、…ね?

…と。

ね?

首を傾げて見せた彼女の指先が、開いた太ももに、自分のそれを確認するのを、私の眼差しは確認する。

胸が苦しいほどにいとおしく、そして、為すすべもない、眼の前の理沙。その存在。

…ね?…と、その、声さえたてなかった唇は、かすかにだけ開かれた。私の眼差しに追い詰められて。その眼差しに見留められていたただ中に、理沙は自分をなぞった。私の指さきだってそのやわらかに潤ませた触感をなどは知っている、そこを。

肌に風が触れて、そして、それ以外ではない。街の臭気さえもはや届きはしない、その身のすべてを曝された上空の光。

瞬く。

理沙は、見て、微笑む。窓の向こう、眼差しの正面に、私の指先も、私のそれに触れて、そして、同じようにそうするのを。反射した白濁の向こうに、その気配をだけ。

窓の外。美しい、とても美しい存在を、私は見つめて、私は存在を見つめられながら、私たちは見つめあう。

終末。…終ることさえ、もはや通り過ぎて仕舞ったに違いないその先で。その先の、無際限な時間の中で。生まれ変ったら何になる?

そう言ったとき、理沙は言った。

花。…すぐに咲いて枯れてくやつ。

例えば?

月見草とか?…いいんじゃん?桜なんかより、もっと儚いよ。一時間も、もたないからね。

笑う。

ふれる。

なぞる。

見る。

撫ぜる。

動かす。

見つめる。

つかむ。

ふるわせる。

息遣う。

そして、私は手を伸ばして窓ガラスに触れて、その向こうの彼女の形態を、ガラスの上に撫ぜた。

 

何も言わないままに。

フエは、まるでこのまま死んで仕舞おうとするかのように、脱力し果てた、疲れきってもいない身体を日差しに曝すしかないが、私は…ほら、と不意に言う。

…ブーゲンビリア。

庭先の、その。

その花の、英語名も、ベトナム語も知らない。

ベトナム、この国のあらゆる場所に、咲き誇るしか能がないがまでにどこにでも、咲き乱れているあの花の、その名前。

何語なのだろう?ぶーげんびりあ、…それは。

むらさきがかった紅。花びら。すでに堕ちて地にふれて仕舞った、その。

コンクリートの上に、乱れ散乱してときには風に揺らぎさえして。

それら。

 

背後で、たぶん荷物を届けに来たのかも知れない宅配便の鳴らしたにらしい呼び出しベルが鳴って、私はそれから遁れるように、不意に、バルコニーへのドアの外に駆け出るのだった。唐突に侵略する私の体を、瞬間、荒れた上空の風が撃った。風は、強すぎはしないものの、弱々しくはない。その、力を失わない群れた微風が、ときにいきなりの厚い突風に煽られる。

理沙は瞬いて、笑た。指先は、そしてその理沙のかたちを、…笑う。押し広げて見せて、微笑み、笑った。私たちだけは。遠くから私に、キスを投げた。…ね?

声もなく、理沙の唇のふるえだけが、そう言ったに違いない。

ほら。

声を立てて戯れに、逃げ出す理沙を追いかけて、私はルーフ・バルコニーを走る。追い掛け回し、嬌声を上げて逃げ、危ういところで逃げ出して理沙は、やがてふたたび私は笑った。

理沙と同じように、そして、いつか息が荒れれば、体内も温度を持って、皮膚が汗ばんでいたことを自覚する。彼女が逃げやすいように、逃げる余地を作ってやりながら、追いかける私は息を弾ませていた。

心臓は鼓動した。血管の中に、そして理沙の血液も、すでに躍動していたには違いなかった。その瞬間には感じられてはいなかったその鼓動を、彼女の胸に耳を当てて、想うがままに聴いてみたい衝動に駆られた。

足の裏に、砂をかぶったコンクリートのざらついた触感が。そして、私たちに蹴られたコンクリートが残した、足の裏の触感。

ふれる。

指先に一瞬ふれて仕舞った彼女の肩の皮膚の触感を、私の指先は追い求めてややあって懐かしむ。抱きしめなければならない。抱きしめて、そして、口付ける。

理沙の腕の中に花が音を立ててゆれ、いとおしむように抱きかかえたまま、逃げ場所がないわけでもない理沙が、不意に手すりの向こうに飛び出したときに、…飛んじゃう?

想った。

ときに下から

飛びたいの?

突き上げるように吹く

笑い声。

突風の中に

飛べもしないくせに。

どんな低空にさえ

何を見たの?

ルーフの尽きるすれすれにまで走っていって、

飛びたてもしなかったくせに

君は

急に振り向いて、両手を広げて見せる理沙は、振り返り見た瞬間によろめいて堕ちそうになる。

ほら

…ね?

悲鳴を立てた、その声が風に流れた。笑った。私はゆっくりと、彼女に接近して、じっと。

そっと

じっと、だよ

じっと、してて。

そうっと

…ね?

じっと。

そっと

いい?ほら

…ね?

そっと

じっと

そう大袈裟な手振りの意思表示を曝した無言の私に笑いかけた瞬間の、理沙を不意の突風がよろめかせたが、終に私が彼女を抱きしめた瞬間に、足を踏み外しそうになって、私たちはかさなり合った声を上げた。悲鳴だったのか、笑い声に過ぎなかったのか。

喚声、…というしなかない、不確かな、あるふたつの生き物の立てた音響。

抱きしめた瞬間に、私の皮膚が一気に感じた取ったのは彼女の、まったき存在。体温と、かすかにぬれた触感と、べたつく、そして体臭は風が洗い流してもはや鮮明には嗅ぎ取れもしないものの、それら。

ふれあった皮膚の前面にだけふれ、そして私は包まれた気さえした。しっかりと。腕の中に包み込んだ腕が、つかみとるように、そして、瞬間、すでに包み込まれている。誰に?

 

…何に?

 

理沙が、ややあって、ながいながい私たちの口付けの最中に、諦めたように投げ捨てて仕舞ったその片手いっぱいの花が、ゆっくりと堕ちていくのを、私は眼差しの片隅に確認した。

 

 

 

 

 

堕ちる天使

 

 

モーリス・ラヴェルの《イ短調のプレリュード》をばかり、いつも繰り返し聴いていた理沙が不意に、「これ、…さ。」

言ったとき、向こうを向いて、ベッドの上、ひざを抱えてすわっていた彼女のその背中に、私はたぶん見惚れてさえいたのだった。

「パパさんが好きだったんだよ」

それはあの北見という男のことには違いなく、私はフローリングに、ひじを付いて横たわったままに、いつかその伸ばされた指先が、彼女の前に流された髪の毛の、その向こうへと流れ堕ちていくやさしい曲線に触れようとする。

「なんか、しょうもない。

あいつ

…わたしみたいな、…いたいけないガキだよ。

まじで、…でも

そんな、身よりもない、

じゃない?

だいたい外国人でさ、…国籍もない。

わかる?

そんな十二、三の女の子に手だしするしかないような、そんな、

くずだよね

能無しの

正真正銘…

犯罪者。…打ってたから。いっつも。

でも、

あいつも。血管に。だから、

笑う。

すげぇ、

まじで、笑えるんだけど

やせてんだけど、そんなやつ。

あいつさ

あんなヤツ、ずっと

私にだけは打たないの

聞いてるの。こればっか。」

打たなきゃ、普通、

 

あいつ、

 

もう、ぜんっぜん…

「…ね?」

やらないのに

…と。

「好きだったのかな?」…あいつ。つぶやく。はしゃぐように。

「お前も、好きなの?」…んー、と。

そう口籠って、すねたような媚を作り、不意に、声を立てて笑った。「聴き馴れちゃった。」…だから、聴いてんの。

「…そっか。」…でも、…ね?

「綺麗な曲でしょ?」髪の毛にふれようとしていた、私の指先はその至近距離に停滞したままだった。

その停滞に、意味らしい意味などなくて。

指先に、すれすれの、触れられてはいないその先の、その、あざやかに色づいた触感があった。

肩越しの、くすんだ龍が遠い向こうをただ、眺め遣る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.08.13.-08.14.

Seno-Lê Ma 

 

 

 

 

 

《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

 

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel

 

 

 

 

《雨の中の風景》連作:Ⅰ

 

 

…underworldisrainy

http://p.booklog.jp/book/124235/read 

 

 

 

 

 《雨の中の風景》連作:ⅠⅡⅢ

 

 

 

ラルゴのスケルツォ

 http://p.booklog.jp/book/124483/read

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


堕ちる天使


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著者 : Seno Le Ma
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