目次
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まえがき 悪の足跡の追求
タナトスの一族~カニバリズム、人身御供、クロノス、アトランティス王国、最終戦争ラグナロク、タングート、西夏、狼男、チャガタイ・ハン国、タウングー朝、ズールー帝国、アフリカ独立運動、ボコ・ハラム
ティールタンカラの一族~アーリア人、仏教、継体天皇、中臣鎌足、藤原不比等、白河天皇、鳥羽天皇、マリ帝国、ジェノヴァ共和国、ルクセンブルク公国、リヒテンシュタイン公国、モナコ公国、アシャンティ帝国
デウスの一族~ジャイナ教、河伯、サータヴァーハナ朝、フン族、アッティラ帝王、稲荷神社、九頭龍、風水、足利尊氏、後醍醐天皇、シャーマニズム、クエーカー教、住友財閥、三井財閥
ダーナ神族の一族~ディオニュソス、デニエン人、猿田彦、契丹、デーン人、鬼、酒呑童子、ハーバード大学、ジョージ・ワシントン大統領、アメリカ連合国、統一イタリア王国、カナダ、ニュージーランド、阿含宗
アブラハムの一族~シュメール文明、エフライム族、バアル、アフラマズダー、ゾロアスター教、マケドニア王国、聖徳太子、ピサ共和国、奥州藤原氏、フランシスコ・ピサロ、ヴァーサ朝、フィンランド共和国
預言者ナタンの一族~ラピタ文化、ダン族、ソロモン王、ミディアン人、ストーンヘンジ、アテーナイ王国、ヒクソス、アマルナ宗教改革、マフディー国家
アッシュール・ダン1世の一族~魔神アスラ、タニス、北イスラエル王国、アルメニア王国、グノーシス主義、コプト教、聖コルンバ、アルシング議会
ガリアのドルイド司祭(東本願寺)の一族~アテネ民主制、ローマ執政官、ソピテース、デマゴーグ、ヘロデ大王、ローマ帝国、フィリキ・エテリア、青年トルコ革命
聖ドナトゥスの一族~渤海王、ブワイ朝、テンプル騎士団、ジンバブエ王国、ダホメー王国、ハイチ帝国、黒人地位向上協会、バハーイー教
ローマ教皇レオ1世の一族~ランゴバルト王国、メロヴィング朝、マズダク教、ウイグル可汗、浄土教、曹洞宗、ノルマン人、カルマル同盟、出雲大社、コーザ・ノストラ、オーストラリア、バチカン市国委員会
クリュニー大主教ベルノの一族~ナバラ王国、フランク・ローマ皇帝、カペー朝フランス王、民衆十字軍、土肥実平、長宗我部氏、三菱財閥、ルワンダ大虐殺
クリュニー大主教アイマールの一族~キエフ大公国、シトー会、北条時政、聖フランチェスコ会
クリュニー大主教ヒューの一族~ヒメネス朝ナバラ王、バルセロナ朝アラゴン王、ブルゴーニュ朝カスティーリャ王、ハフス朝、バルバロス・ハイレッディン、チュニジア、アルジェリア
カペー朝ルイ7世の一族~メリナ王国、カンボジア王国、カリブ族、ゴーストダンス、マウマウ団、ドラヴィダ進歩党、カーゴカルト、パプアニューギニア、クメール・ルージュ
カペー朝フィリップ2世の一族~ドイツ騎士団、白蓮教、小西行長と弥助、マラッカ王国、ブルネイ帝国、スハルト大統領、バラク・オバマ大統領、フアン・グアイド
親鸞の一族~浄土真宗、時宗、一向宗、世界初の精神病院ベドラム、ブルゴーニュ朝ポルトガル、コンキスタドール、メキシコ帝国、麻薬カルテル
如信の一族~魔女狩り解禁、異端審問、伊勢大社、カペー朝フランス王、ボルボン朝スペイン王
覚如の一族~紅巾の乱、華僑、百年戦争、殺人集団タギー、琉球王国、アチェ王国、黎朝ベトナム帝国、白蓮教、シンガポール、日清食品、社会民主党、全能神
善如の一族~倭寇、恭愍王、足利義満、日野富子、三浦倭館、東林党、魏忠賢、フランシス・ドレイク、バッカニア海賊
綽如の一族~ヴァロワ=ブルゴーニュ公、ブルボン公、能登守、ケベック解放戦線
巧如の一族~ジル・ド・レ、ヴァロワ朝フランス、マルタ騎士団、マラーター族、ハウサ諸王国、ソコト帝国
存如の一族~応仁の乱、アラゴン王国、アヴィス朝ポルトガル
蓮如の一族~スイス連邦参事会、魔女狩り、パッツィ家、ロレーヌ公、一向一揆
実如の一族~毛利元就、オルデンブルク朝デンマーク、モロッコ王国、フランコ将軍、パレスチナ解放機構、トントンマクート、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、統一協会
証如の一族~明智光秀、魔女狩り、戦国時代、オランダ王国、イギリス東インド会社
顕如の一族~万暦の三征、魔女狩り、オランダ東インド会社、スチュアート朝、老論派、バプティスト教会、メソジスト教会
教如の一族~織田信雄、江戸時代の天皇、カメハメハ大王、トンガ王国、サモア独立国、フィジー共和国、エチオピア連邦民主共和国
宣如の一族~ハプスブルグ家、ブルボン家、プファルツ朝スウェーデン王、フルベ聖戦、イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構
琢如の一族~英蘭戦争、マラーター王国、ベンガル太守、アワミ連盟、バングラデシュ、ジャマート=ウル=ムジャーヒディーン
常如の一族~後金時代、李氏朝鮮末期、琉球第二尚氏王統、東学党、ゴ・ディン・ジエム、大韓民団、株式会社ロッテ
一如の一族~名誉革命、ジャコバイト、オラニエ=ナッサウ王家、南アフリカ連邦、オレンジ革命
真如の一族~イエズス会弾圧、ムガール皇帝、マラーター同盟、タタ財閥、デカン・ムジャヒディーン
従如の一族~田沼意次、徳川家重、松平定信、井伊直弼、水野忠邦、徳川慶喜
乗如の一族~フランス革命、ベトナム植民地、ブラジル帝国、YMCA、セブンスデー・アドベンチスト教会、国際赤十字社、花粉症、AIDS
達如の一族~復古神道、尊皇攘夷、天理教、金光教、神社本庁、日本社会党、講談社、日本会議
大谷光勝の一族~丙寅教獄、明治維新、ビアフラ共和国、ソンミ村虐殺、コリン・パウエル、コンドリーザ・ライス、トニー・ブレア
大谷光榮の一族~アドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラー、軍産複合体、パフラヴィー朝皇帝、アウグスト・ピノチェト、立憲民主党
大谷光演の一族~重慶爆撃、CTスキャン、ダライ・ラマ14世、ディズニー・カンパニー、スティーブン・スピルバーグ、ジャニーズ、タイム・ワーナー社、YOUTUBE
ヘンリー・キッシンジャーの一族~ビル・クリントン、湾岸症候群、ジョン・ベネ殺害事件、レバノン空爆、ロシアの人喰いズマガリエフ、フェイスブック
大谷光暢の一族~ラビア・カーディル、地下鉄サリン事件、天安門事件、オウム地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇聖斗、雨傘革命
大谷暢顕の一族~放送局アナウンサー、櫻井よしこ、神戸連続児童殺傷事件、学級崩壊、大阪池田小児童殺害事件、てるくはのる事件
大谷暢裕の一族~根本匠、2014香港反中デモ、2014香港反政府デモ、2019逃亡犯条例改正案撤回デモ
大宛のドルイド司祭(西本願寺)の一族~大宛、クシャーナ朝、鳩摩羅什、曇鸞、浄土宗、隋、ウマイヤ朝イスラム帝国、北宋、舜天王統、ブギス族、ジョホール朝、林本源、中国仏教協会、台湾
王安石の一族~南宋皇帝、今川国氏、デリー・スルターン朝、曹洞宗、総持寺祖院初代門主
今川国氏の一族~アステカ人身御供、ヴラド・ツェペシュ、見付天神の人身御供、エリザベート・バートリ、モルダヴィア公、ルーマニア王国、モルドバ共和国
准如の一族~小早川秀秋、ドン・コサック、古儀式派、ノーベル賞、ベルナドッテ朝スウェーデン王
良如の一族~生類憐みの令、火付盗賊改、子供を殺すための法律「ブラック法」、MI6長官
寂如の一族~女帝エカチェリーナ、秘密結社イルミナティ、ナチス帝国、特高警察、モサド、中央情報局、アメリカ連邦捜査局
住如の一族~黒住教、ビン=ラディン・グループ、アルカーイダ、ソマリランド大統領、GOOGLE
湛如の一族~ジュンガル帝国、チャックリー家、タイ王国首相、モンゴル人民革命党、霊友会、世界救世教、祟教真光、日本相撲協会
法如の一族~アヘン戦争、ロスチャイルド財閥、ロックフェラー財閥、スカル&ボーンズ、第一次世界大戦、ホスピス、北大西洋条約機構、ベルギー首相職
文如の一族~ウクライナ東方カトリック教会、薩摩戦争、切り裂きジャック、インディアン虐殺、国際連合
本如の一族~ウクライナ東方カトリック教会、東トルキスタン、ムスリム同胞団、ユーゴスラビア紛争、チェチェン紛争、南オセチア紛争、ウクライナ政変
広如の一族~伊藤博文、大隈重信、山縣有朋、新渡戸稲造、白洲次郎、東条英機、日産コンツェルン、731部隊、ベトナム戦争
デヴィッド・ロックフェラーの一族~ジョージ・ソロス、CNN、モンサント社、遺伝子組み換え作物、成長ホルモン、コソボ爆撃、コロンバイン高校銃撃
大谷光尊の一族~イギリス王室、ファシスト党、ディープ・ステート、ウィリアム・ハイレンズ、イスラム国、ウクライナ21、ライブドア
大谷光瑞の一族~ジョージ・H・W・ブッシュ、湾岸戦争、冷戦終結、法輪功、国境なき記者団、自動運転技術テロ、オール電化テロ
大谷光照の一族~ジョージ・W・ブッシュ、除草剤ラウンドアップ、連続殺人犯テッド・バンディ、世界同時多発テロ、キャラバン
大谷光真の一族~悪魔ビル・ゲイツ、マイクロソフト社、上祐史裕、プログラム自動ダウンロードテロ、異常行動テロ
大谷光淳の一族~2ちゃんねる、仙台女児連続暴行事件犯人、2019逃亡犯条例改正案撤回デモ、Qアーミージャパン
ユダヤ人(1731)の一族~ハザール帝国、カバラ神秘主義、ホフユーデン、人体自然発火事件、クーン・ローブ商会、シオニズム運動、精神医学、モサド、ドイツキリスト教民主同盟
ユダヤ人(1908)の一族~ヒヴァ・ハン国、ガージャール朝、アドルフ・ヒトラー、ツングース大爆発、ロケット、マンハッタン計画、原子爆弾、水素爆弾、レーザー、コンピューター
第一次、第二次、第三次世界大戦の一族
タナトス一族の趣味~世界の拷問
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大宛のドルイド司祭(西本願寺)の一族~大宛、クシャーナ朝、鳩摩羅什、曇鸞、浄土宗、隋、ウマイヤ朝イスラム帝国、北宋、舜天王統、ブギス族、ジョホール朝、林本源、中国仏教協会、台湾

ウェル・サクレムの時代(BC390)

 

ルキウス・フリウス・メダリヌス(?~?) ローマ執政官 任期BC413

アウルス・コルネリウス・コッサス(?~?) ローマ執政官 任期BC413

カイウス・フリウス・パシルス(?~?) ローマ執政官 任期BC412

クィンタス・ファビウス・アンバスタス・ヴィブラヌス(?~?) ローマ執政官 任期BC421

スプリウス・ナウティウス・ルティルス(?~?) ローマ執政官 任期BC411

マルクス・パピリウス・ムギッラヌス(?~?) ローマ執政官 任期BC411

マニウス・アエミリウス・マメルキヌス(?~?) ローマ執政官 任期BC410

カイウス・ヴァレリウス・ポティトゥス・ウォルスス(?~?) ローマ執政官 任期BC410

クナエウス・コルネリウス・コッスス(?~?) ローマ執政官 任期BC409

ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス(?~?) ローマ執政官 任期BC393

パブリウス・コルネリウス・マルギネンシス(?~?) ローマ執政官 任期BC397

マルクス・マンリウス・カピトリヌス(?~BC384) ローマ執政官 任期BC392

 

※ガリアでは、ドルイド僧に変身したローマ執政官が粗暴なケルト人を飼いならし、ローマに台頭しつつあった執政武官を排除しようと考えていた。ローマ人武官は強い、そして自分たちは弱い。なので自ら武官に手出しできない。そのため、ローマ執政官は自分たちの手足の代わりとして屈強なケルト戦士を掌握することに決めた。ドルイドの名の由来はデルポイとアテネの組み合わせである。つまり、自分たちは「アテーナイから来た聖地デルポイの神官だ」というアピールだろう。デルポイ+アテネ=デルアテ=ドルイドとなる。

その第一弾が、ローマに対する「聖なる移住(ウェルサクレム)」として結実するが、上記に記したローマ執政官たちが凶暴なケルト人を操って「聖なる移住」を指揮した。これは、大谷の祖であるドルイド司祭による「一向一揆」の原型である。「数で優れた者を圧倒する」という戦法が、既に古代ローマ相手に実施されていたのだ。多数の弱者を指揮して少数の強者を数で圧倒する。

これは、確かに自然の摂理に適った賢い方法ではあるが、強者が多数である時、この方法は機能しない。ドルイド教が指揮した「ウェル・サクレム」は、それを教えてくれる。ローマには優れた強者が大勢いたのだ。この時、ドルイド教は「強い敵と戦う前には、強者たちを弱体化しなければならない」ということを学んだ(そして、その研究と実践は「魔女狩り」として中世ヨーロッパで、近代になってからはアメリカ合衆国、日本で発揮されることになる)。

 

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毋寡(前漢の時代BC206~AD8) 大宛王

昧蔡(前漢の時代BC206~AD8) 大宛王

蝉封(前漢の時代BC206~AD8) 大宛王

 

延留(後漢の時代25~220) 大宛王

橋塞提(後漢の時代25~220) 大宛王

延留(後漢の時代25~220) 大宛王

 

藍庾(西晋の時代265~316) 大宛王

摩之(西晋の時代265~316) 大宛王

 

昭武阿利柒(隋の時代581~618) 大宛王

 

契苾(唐の時代618~907) 大宛王

阿瑟那鼠匿(唐の時代618~907) 大宛王

阿了参(唐の時代618~907) 大宛王

遏波之(唐の時代618~907) 大宛王

阿悉爛達干(唐の時代618~907) 大宛王

 

竇忠節(唐の時代618~907) 大宛王

竇薛裕(唐の時代618~907) 大宛王

 

※「ウェル・サクレム」の時代、一部のドルイド司祭はミディアン(大宛)の地に戻ってきた。ガリアに残ったドルイド祭司は東本願寺の原型となり、大宛に帰ってきたドルイド司祭が西本願寺の原型を成している。超古代にタナトスがガイアに流された流刑地ミディアンで、ドルイド司祭は世界侵略・人類家畜化の計画を練り、暖めていた。大宛のドルイド祭司は、仏教でインドと東アジアを征服する計画を立て、クシャーナ朝を簒奪した。

 

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カニシカ1世(?~?) クシャーナ王 在位144~164 大宛のドルイド教司祭


ヴァーシシカ(?~?) クシャーナ王 在位2世紀半ば
フヴィシカ(?~?) クシャーナ王 在位2世紀後半

 

ヴァースデーヴァ(?~?) クシャーナ王 在位3世紀前半※画像なし
迦葉摩騰(後漢時代25~220) 大宛のドルイド教司祭

 

カニシカ2世(?~?) クシャーナ王 在位3世紀前半※画像なし
竺法蘭(後漢時代25~220) 大宛のドルイド教司祭

 

龍樹/ナーガールジュナ(150~250) 中観派開祖 大宛のドルイド教司祭


※大宛のドルイド教司祭は、カニシカ1世を称してクシャーナ朝を簒奪し、侵略の道具として使用する目的で仏教を保護した。一方、一部のドルイド教司祭はインドに赴き、龍樹/ナーガールジュナを称して中観派の開祖となった。その後、クシャーナ朝が滅ぶと、クシャーナ朝を共同統治していたヴァースデーヴァとカニシカ2世は中国に向かった。ヴァースデーヴァは迦葉摩騰を称し、カニシカ2世は竺法蘭を称して中国を仏教で侵略しようと画策した。

 

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仏図澄/フォトゥデング(232~348) 亀慈生 大宛のドルイド教司祭

アコゥアス(?~?) マニ教宣教師


竺法護/ダルマラクサ(239~316) 中央アジア生 大宛のドルイド教司祭

マル・アムモ(?~?) マニ教宣教師

 


鳩摩羅什(344~413) 四大翻訳家 亀慈生 大宛のドルイド教司祭

アガピウス(4世紀~5世紀) キリスト教哲学者・マニ教研究者※画像なし


仏陀跋陀羅(359~429) 華厳経 インド生
曇無讖(385~433) 涅槃経 インド生
真諦(499~569) 四大翻訳家 インド生
不空金剛(705~774) 四大翻訳家 インド生


※亀慈やインドに生まれたことにした大宛のドルイド司祭たちはその後、中国に集合した。ドルイド司祭たちは、どうでもいいことしか書かれていない仏教経典を中国全土に広めようと、迷惑なことに翻訳を開始した。優れた王は、生まれながらに優れているものだ。しかし、仏教は修行を必要とする。修行を必要とするということは優れていない。修行する僧たちは自分たちが偽物であるということを主張しているに過ぎない。尤も、厳しい修行を積んでいると豪語する僧は、人が見ている前でしか修行をしない。見続けようとするとうまいいいわけをする。「ここから先は神が見ることを望まない(或いは好まない、喜ばない、祟りがある)」とかw 僧とは、人が見ていなければじつに自堕落なものだ。

また、初期の仏図澄、竺法護、鳩摩羅什は仏教の伝道師でありながら、同時にマニ教の宣教師だった可能性もある。ガリアのドルイド司祭たちは、キリスト教でヨーロッパを支配し、大宛のドルイド司祭たちは仏教で東アジアを征服し、マニ教でオリエント地方を支配し、世界を掌握し、人類を家畜化しようとしていたのだ。イスラム教の登場はマニ教のしばらく後だったため、大宛のドルイド司祭たちは、まず、マニ教でイランを何とかしようとしていたようだ。

 

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竺道潜(286~374)
道安(312~385)
支遁(314~366)
僧叡(東晋時代317~420) 四哲
慧遠(334~416) 地論宗
道生 (355~434) 四哲
道融(後秦時代384~417) 四哲
僧肇(後秦時代384~417) 四哲
曇曜(南北朝時代439~589)
曇延(南北朝時代439~589)

 


曇鸞(476~542) 浄土教

蕭衍/高祖武帝(464~549) 梁初代皇帝 在位502~549


※中国に移った大宛のドルイド教司祭の残党は、農民などの下層中国人を仏教信者として大量に獲得しようと動いた。しかし、中国の偉人はことあるごとに廃仏毀釈を実行した。そのため、仏教は中国に根付かなかった。そのため、曇鸞は蕭衍に化けて梁を築いた。そして、高祖武帝は仏教を国教とする。

現在、中国仏教と白蓮教は連合し「法輪功」として活動している。中国共産党首脳部は優れた人々で構成されているが、10億近い中国の庶民層は、インフラを牛耳る法輪功の陰謀に苦しんでいるようだ。大谷が指揮する法輪功の陰謀は、深刻なイジメ問題として顕在化している。
一昔前の日本がそうだったように、中国は受験戦争、進学問題、イジメ問題で揺れている。法輪功は中国簒奪を狙い、優れた子供たちを狙っているのだ。子供を支配することは、ゆくゆくは国を支配することに繋がる。大谷は常に根っこからじわじわと、気づかれないように敵を蝕んでいく。数十年経って世代交代が起きる頃、中国も現在の日本のように優れた人材が不足し、安倍のようなできそこないが幅を効かすようになる可能性がある。法輪功の首領は、ディープステートの核を成した西本願寺門主大谷光瑞の子である。

 

太宗簡文帝(503~551) 梁第2代皇帝 在位549~551
廃帝豫章王(?~552) 梁第3代皇帝 在位551
世祖元帝(508~555) 梁第4代皇帝 在位552~554
敬帝(543~558) 梁第5代皇帝 在位554~555
閔帝(548~578) 梁第6代皇帝 在位555~557

 


永嘉王(?~?) 南梁初代皇帝 在位557~560※画像なし
中宗宣帝(519~562) 後梁初代皇帝 在位554~562※画像なし
陳霸先/高祖武帝(503~559) 陳初代皇帝 在位557~559

 


世祖明帝(542~589) 後梁第2代皇帝 在位562~585
世祖文帝(522~566) 陳第2代皇帝 在位559~566※画像なし

 


廃帝臨海王(554~570) 陳第3代皇帝 在位566~568
高州宣帝(530~582) 陳第4代皇帝 在位568~582 ※画像なし


※北周で仏教弾圧が起きると、13年後に西梁が、15年後に陳が滅亡した。実際には北周に滅ぼされたが核は隋を築くことになる。

 

後主(?~?) 後梁第3代皇帝 在位585~587※画像なし
後主(553~604) 陳第5代皇帝 在位582~589※画像なし
楊堅/文帝(541~604) 隋初代皇帝 在位581~604


※隋は早速、仏像の破壊を禁止した。できそこないは偶像崇拝を強制するのが基本である。一流の職人が作った優れたモノがないと、ノッかれない。素晴らしい仏像であれ、豪華な寺社建築であれ、そういうものにノッかれなければ自分はできそこないのままなのだ。

 

煬帝(569~618) 隋第2代皇帝 在位604~618


恭帝侑(605~618) 煬帝の子
ムアーウィヤ1世(603~680) ウマイヤ朝初代カリフ

 

※隋が滅んで煬帝の家族が殺されると、恭帝侑は死んだことにして脱走し、オリエント地方に落ち延び、ムアーウィヤ1世となってウマイヤ朝を開くことになる。この時に征服本能が爆発したウマイヤ朝は勢力図をこれまでよりも拡大する。

 

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ムアーウィヤ2世(664~684) ウマイヤ朝初代カリフ
ヤズィード3世(706~744) ウマイヤ朝第12代カリフ
マルワーン2世(691~750) ウマイヤ朝第14代カリフ


※アッバース朝に成敗された形でイベリア半島に落ち延び、後ウマイヤ朝を開いた。この時にイベリア半島のイスラム時代が始まる。

 

アブド・アッラフマーン1世(731~788) コルドバ初代アミール
アブド・アッラフマーン2世(792~852) コルドバ第4代アミール

 

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ムハンマド1世(823~886) コルドバ第5代アミール

黄巣(835~884) 斉皇帝

 

ムンジル(842~888) コルドバ第6代アミール

王仙芝(?~878)

王潮(846~898) ビン王国初代王兄

 

※グラナダ王国の5代アミールと6代アミールが隋の時代の栄華を取り戻そうと中国侵略の第一弾を企図した。それが王と黄の塩の密売人の蜂起、「黄巣の乱」である。彼らはアラビア人の顔をしていた。このときの戦争で中国の国土はひどく崩壊し、カニバリズムが横行したという。一方、福建にはビン王国(中国語読み:ミン)を築いている。

 

アブド・アッラーフ(?~912) コルドバ第7代アミール 在位888~912※画像無し

王審知(862~925) ビン王国初代王 在位909~925

 

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アブド・アッラフマーン3世(889~961) 後ウマイヤ朝初代カリフ

王延政(?~951) ビン王国第7代皇帝 在位943~945

 


ハカム2世(915~961) 後ウマイヤ朝第9代カリフ※画像なし
趙匡胤(927~976) 北宋初代皇帝

 

※趙匡胤の正体はハカム2世であり、実際にはアラブ人であるため肖像画を見て分かるように、顔が黒い。北宋の建国は、隋の時代の栄華を取り戻そうと企図した中国侵略の第二弾だった。

 


ムハンマド3世(976~1025) 後ウマイヤ朝第15代カリフ

趙徳昌(968~1022) 北宋第3代皇帝 在位997~1022

 

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ヒシャーム3世(973~1031) 後ウマイヤ朝第16代カリフ

Sri Deva(?~?) シュリーヴィジャヤ王 在位1028?

 

※この時代、キリスト教勢力に押されていた彼らは後ウマイヤ朝統治を諦め、イベリア半島を脱出してスマトラ島に移住し、シュリーヴィジャヤ王国を簒奪した。これを機に波状的にイスラム教がインドネシアに伝えられた。

 

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Srimat Trailokyaraja Maulibhusana Warmadewa(?~?) シュリーヴィジャヤ王 在位1183?

舜天(1166~1237) 舜天王統初代中山王

 

Tribhuwanaraja(?~?) シュリーヴィジャヤ王 在位1286?

英祖(1229~1299) 英祖王統初代中山王

Simpurusiang(?~1520) ルウ王国初代王 在位1264~1293

 

※この時代、シュリーヴィジャヤ王は沖縄に進出し、舜天王統、英祖王統、察度王統、怕尼芝王統、大里王統、第一尚氏王統、第二尚氏王統を築き、沖縄を統治していた(1187~1477)。また、同時期にスラウェシ島を拠点に据えてブギス族としてルウ、ボネ、ワジョなどの国を築き、王族自らが海賊となり、東南アジア全域~オーストラリア北部にまで遠征していた。沖縄の怕尼芝王統の名は、彼らがバヌアツにも進出していたことを示している。

 

西威(1328~1349) 英祖王統第5代中山王 在位1336~1349

Manurunge Ri Matajang(?~1365) ボネ王国初代王 在位1330~1365

 

尚宣威王(1430~1477) 琉球王国第二尚氏王統第2代国王 在位1477

La Palewo to Palippu (?~1481) ワジョ王国初代王 在位1474~1481

 

※ルウ王国の王統は1965年まで続き、ワジョ王国の王統は1957年まで続き、ボネ王国の王統は1951年まで続いた。

 

ナジブ・ラザク(1953) マレーシア首相

 

※ラザクはブギス族の出身である。彼の首相時代にマレーシア機失踪事件が起きた。彼が指導していたと考えられるが、93歳で返り咲いたマハティール首相によって腐敗容疑で逮捕された。

 

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林爽文(1756~1788) 天地会

マフムード・シャー3世(1756~1811) ジョホール朝第15代スルターン

蔡牽(1761~1809) 海賊

林平侯(1766~1844) 林本源家祖

 

アブドゥル・ラーマン・ムアッザム・シャー(1780~1832) ジョホール朝第16代スルターン

 

※ブギス族は台湾に移住して林本源を築き、同時に中国~台湾で海賊を働いている。ブギス族は、18世紀にはマレー半島に起こったリアウ朝、ジョホール朝、スランゴール朝といった諸王朝を立ち上げている。

 

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林維源(1840~1905) 板橋林家4代族長※画像無し

虚雲(1840~1959) 禅宗僧侶

 

林資鏗(1878~1925) 霧峰林家第7代当主※画像無し

円瑛(1878~1953) 中国仏教協会初代会長

 

林献堂(1881~1956) 台湾民族運動指導者・霧峰林家

 

林熊徴(1888~1946) 華南銀行設立

 

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林岡(1918~2010) 霧峰林家※画像無し

李登輝(1923) 台湾8代、9代総統

 

蒋経国の死後、その後継者として中華民国の歴史上初めての民選総統となった。中華民国総統、中国国民党主席に就任し、中華民国の本土化を推進した。中華民国が掲げ続けてきた「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという「中華民国在台湾」を主張、その後さらにこの国のことを「中華民国台湾」と呼ぶようになった。北京政府との内戦状態の一方的終結宣言は、内戦を理由に存在し続けてきた治安法「動員戡乱時条款」を廃止させ、政治の民主化を推進させた。

総統職と国民党主席を退任した後は、「台湾」と名前の付いた初めての政党台湾団結連盟を自ら中心となって結成し、台湾独立運動・泛緑連盟に影響を与え続けている。 wikiより

 

Lee Hsien-wen(1950~1982) 李登輝の子※画像無し

陳水扁(1950) 台湾10~11代総

 

Annie Lee(1954) 李登輝の子※画像無し

蔡英文(1956) 台湾14代総統

 

※現在、台湾(林本源の一族)は香港デモ(東本願寺の一族、西本願寺の一族)に呼応し、協力関係にある。林本源の一族は、過去に隋、北宋など、中国全土を支配下に置いていた。そのため、先祖の栄光を再び掌握せんと、今でも中国を支配する夢を見ているのだろう。ただ、彼らは台湾や香港を死守するのに手一杯のようだ。陳水扁、蔡英文は李登輝の子と考えられる。

 

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林明弘(1964) 霧峰林家第9代当主

学誠(1966) 中国仏教協第6代会長

唐登杰(1964) 福建省省長※画像無し

 

 

 


王安石の一族~南宋皇帝、今川国氏、デリー・スルターン朝、曹洞宗、総持寺祖院初代門主

 

トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ(?~?) 天山ウイグル王国第3代カガン 在位983頃 (大宛のドルイド司祭)
ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ(?~?) 天山ウイグル王国カガン 在位996頃
キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ポギュ・テングリ・ケニミズ(?~?) 天山ウイグル王国カガン 在位1007~?
キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ポルミシュ・ウルグ・クトゥ・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥルグ・キョル・ビルゲ・テングリ(?~?) 天山ウイグル王国カガン 在位?~1019
キュン・アイ・テングリレルテ・クトゥ・ポルミシュ・プヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・ウチュンチ・アルスラン・ビルゲ(?~?) 天山ウイグル王国カガン 在位?
テングリ・ポギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(?~?) 天山ウイグル王国カガン 在位?~1067

 

※天山ウイグルを離れ、フランスでクリュニー会を築いたベルノの代わりに、大宛のドルイド司祭が天山ウイグル王国第3代カガンが天山ウイグルを引き継いだ。基本的にウイグルの王はみな大宛のドルイド司祭であり神官を兼任していた。

 

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王安石(1021~1086) 新法 大宛のドルイド司祭
アヌーシュ・テギーン(?~?) ホラズム・シャー朝初代君主 在位1077~1097※画像なし

 

蔡京(1047~1126) 新法 大宛のドルイド司祭
クトゥブッディーン・ムハンマド(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1097~1127※画像なし

 

アトスズ(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1127~1156
イル・アルスラン(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1156~1172
ジャラールッディーン・スルターン・シャー(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1172~1193
アラーウッディーン・テキシュ(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1172~1200

 

ジャラールッディーン・メングベルディー(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1220~1231※画像なし
理宗(1205~1264) 南宋5代皇帝 在位1224~1264


※天山ウイグルを出撃した大宛のドルイド司祭は中国に侵入し、王安石を称した。王安石は「新法」と呼ばれる悪法を敷き、仲間を有利な状況に置き、敵を不利な状況に置いた。実際には悪法であるが、「新法」と呼ぶことで新法を批判するものを悪者呼ばわりし、公的に排除した。昔で言えば田沼意次、現在でいえば安倍政権やディープステートなどの手口と同じである。
新法を巡り、司馬氏などの正しい中国人たちが立ち上がり新法を廃している。しかし、しつこいタナトスが必死に抵抗することで「新法・旧法の争い」がおきた。王安石は、更にホラズム・シャー朝を開いた。王安石は法律を司ることで中国を支配し、一方で初代王アヌーシュ・デギーンを称してコラサン~イラン・イラクを掌握した。

 

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蔡京の子

 

蔡攸(1077~1126) 蔡京の子※画像なし
哲宗(1077~1100) 北宋皇帝 在位1085~1100

 

微宗(1082~1135) 北宋皇帝 在位1100~1126

 


欽宗(1100~1161) 北宋皇帝 在位1126~1127

 

※蔡京の子である蔡攸は、哲宗として南宋皇帝に即位した。生年が同じであることから2人は同一人物と考えてよい。蔡攸は、哲宗を23歳で死んだことにし、その後の26年を蔡攸として50歳まで生きた。蔡攸は宰相として南宋初代皇帝の高宗に仕えたが、蔡攸が実質的に南宋を支配していた。

 

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高宗(1107~1187) 南宋初代皇帝 在位1127~1162

 


孝宗(1127~1194) 南宋2代皇帝 在位1162~1189

 


光宗(1147~1200) 南宋3代皇帝 在位1189~1194

 

寧宗(1168~1224) 南宋4代皇帝 在位1194~1224
アラーウッディーン・ムハンマド(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1200~1220※画像なし
クトゥブッディーン・アイバク(?~?) デリー・スルターン朝初代君主 在位1206~1210※画像なし

 

ジャラールッディーン・メングベルディー(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1220~1231※画像なし
理宗(1205~1264) 南宋5代皇帝 在位1224~1264

 

度宗(1240~1274) 南宋6代皇帝 在位1264~1274
今川国氏(1243~1282) 今川家初代当主※画像なし

 

恭帝(1271~1323) 南宋7代皇帝 在位1274~1276
衛王(1271~1279) 南宋9代皇帝 在位1278~1279
今川基氏(1259~1323) 今川家当主※画像なし

 

端宗(1269~1278) 南宋8代皇帝 在位1276~1278
榮山紹瑾(1268~1325) 総持寺祖院初代門主※画像なし


※南宋はウイグル人の系統が支配していたが、4代皇帝のとき、寧宗がアラーウッディーン・ムハンマドとして南宋と同時にホラズム・シャー朝を統治した。その後、アラーウッディーン・ムハンマドはじきじきにインドに進出し、初代王クトゥブッディーン・アイバクとして奴隷王朝(デリー・スルタン朝)を築いた。また、モンゴル軍によってホラズム・シャー朝が滅ぶと、マスカットに避難していた最後の王ジャラールッディーン・メングベルディーは中国に逃亡し、理宗として南宋5代皇帝の座に就いている。
6代皇帝の度宗は、武将として知られる「今川氏」を生むことになる。度宗は死んだことにして正体を隠し、恭帝(衛王)、端宗をサポートした。1276年、5歳の皇帝恭帝はモンゴル軍に降伏すると、2年後に度宗の導きにより衛王として7歳で9代皇帝の座についている。しかし、1279年の「崖山の戦い」で南宋軍が敗北すると、観念した度宗と思しき陸秀夫は、幼帝を抱いて入水したという。だが、実際には度宗と衛王は死んだことにして日本に逃れた。
日本に上陸した度宗は今川国氏を称し、衛王は今川基氏を称した。「今川氏」の誕生である。今川の名の由来は澳門の古名アマカオである。アマカオ=アマガオ=今川となる。南宋が滅亡した「崖山の戦い」の崖山とは澳門のことである。また、死んだことにして潜伏していた8代皇帝端宗(10歳)も度宗らと共に日本に逃れて榮山紹瑾を名乗り、総持寺祖院初代門主となった。


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寧宗(1168~1224) 南宋4代皇帝 在位1194~1224
アラーウッディーン・ムハンマド(?~?) ホラズム・シャー君主 在位1200~1220※画像なし
クトゥブッディーン・アイバク(?~?) デリー・スルターン朝初代君主 在位1206~1210※画像なし

 

アーラーム・シャー(?~?) デリー・スルターン朝君主 在位1210~1211
シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ デリー・スルターン朝君主 在位1210~1236
ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー デリー・スルターン朝君主 在位1236
ラズィーヤ デリー・スルターン朝君主 在位1236~1240
ムイズッディーン・バフラーム・シャー デリー・スルターン朝君主 在位1240~1242
アラー・ウッディーン・マスウード・シャー デリー・スルターン朝君主 在位1242~1246
ナーシルッディーン・マフムード・シャー デリー・スルターン朝君主 在位1246~1266
ギヤースッディーン・バルバン デリー・スルターン朝君主 在位1266~1287
ムイズッディーン・カイクバード デリー・スルターン朝君主 在位1287~1290
シャムスッディーン・カユーマルス デリー・スルターン朝君主 在位1290

 

ジャラールッディーン・フィールーズ・シャー(?~?) ハルジー朝初代君主 在位1290~1296
アラーウッディーン・ムハンマド・シャー(?~?) ハルジー朝君主 在位1296~1316
ルクヌッディーン・イブラーヒム(?~?) ハルジー朝君主 在位1296
クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー(?~?) ハルジー朝君主 在位1316~1320
シハーブッディーン・ウマル(?~?) ハルジー朝君主 在位1316


※寧宗が築いたデリー・スルターン朝は、途中でハルジー朝に変わり、100年続いた。ハルジー朝が滅ぶと王族は日本に渡り、家族である今川氏と共にメキシコに渡り、「メシカ族」を称した。メシカの名の由来はマスカットである。マスカット=マスカ=メシコとなる。また、メシコの名はアステカ殺人神官の日本拠点となった見付、益城などの地名の由来にもなった。
今川国氏(度宗)はモンゴル軍に敗北した。父である理宗(ジャラールッディーン・メングベルディー)も、同様にモンゴル軍にホラズムを追われてマスカットに避難していた。そのため、両者はチンギス・ハーンに対する怨恨からマスカットを冠したと考えられる。彼らはアステカ帝国の人身御供の神官として子供たちを虐殺し、食べていたが、チンギスに対する復讐の一環もあったのだろうか?

 

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ヨスン・テムル(?~?) ウイグル王 在位?~?
バルチュク・アルト・テギン(?~?) ウイグル王 在位1229~1241
ケスメズ(?~?) ウイグル王 在位1241~1246

 

サランディ・テギン(?~?) ウイグル王(大宛のドルイド司祭) 在位1246~1253※画像なし
道元(1200~1253) 曹洞宗開祖 永平寺初代

 

オグルンチ・テギン(?~?) ウイグル王(大宛のドルイド司祭) 在位1253~1257
マムラク・テギン(?~?) ウイグル王 在位1257~1265

 

ホスハル・テギン(?~?) ウイグル王(大宛のドルイド司祭) 在位1265~1280
狐雲懐奘(1198~1280) 永平寺二代

 

ネグリル・テギン(?~?) ウイグル王 在位1280~1318
テムル・ブカ(?~?) ウイグル王 在位1318~1330
センギ(?~?) ウイグル王 在位1330~1332
タイピンドゥ(?~?) ウイグル王 在位1332~1352
オルク・テムル(?~?) ウイグル王 在位?~?
サンガ(?~?) ウイグル王 在位?~?
スス・テギン(?~?) ウイグル王 在位?~?
ドル・テギン(?~?) ウイグル王 在位?~?
バヤン・ブカ・テギン(?~?) ウイグル王 在位?~?

 

エセン・ブカ(?~?) ウイグル王(大宛のドルイド司祭) 在位?~?
梅山聞本(?~1417) 総持寺十一世門主


※基本的にウイグルの王はみな大宛のドルイド司祭であり神官を兼任していた。覇王チンギスの登場により、ウイグル王サランディ・テギンが故地を離れて日本に逃亡した。テギンは道元として曹洞宗の改組となった。道元の名の由来はテギンである。テギン=テーギン=道元となる。次いで、ウイグル王ホスハル・テギンが日本に逃亡し、狐雲懐奘として道元と後を継いでいる。最後のウイグル王エセン・ブカは、オイラート、タタールと明との戦争に巻き込まれたため、日本に逃亡し、梅山聞本として総持寺十一世門主の座に就いている。

 

江川辰三(生年不詳) 曹洞宗大本山総持寺貫首

 

 

 


今川国氏の一族~アステカ人身御供、ヴラド・ツェペシュ、見付天神の人身御供、エリザベート・バートリ、モルダヴィア公、ルーマニア王国、モルドバ共和国

今川国氏(1243~1282) 今川家初代当主
今川基氏(1259~1323) 今川家当主
今川範国(1295~1384) 今川家当主

 

※著名な武家でありながら今川氏当主代々の肖像画は存在しない。顔を晒すことに躊躇していた理由は何だろうか? 

 

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今川範国の子

 

今川範氏(1316~1365) 今川家当主
今川貞世(1326~1420)
今川氏兼(1329~1398)
今川仲秋(?~?)

 

※※14世紀初頭、ハルジー朝の残党が日本に来ると、今川範国の子息たちは、彼らと共に太平洋を渡ってメキシコに移り、アステカ帝国で人身御供の殺人神官として残虐行為に耽ることになる。貞世、氏兼は日本に帰還したが、仲秋はアステカ帝国で殺人神官として暮らした。今川氏は、親鸞の名を由来に当地に「シナロア」を築いた。親鸞(キナルア)=シナルア=シナロアとなる。また、ハルジー朝の残党はマドゥライを由来に「マドラ」を築いた。
現在、シナロアは「麻薬カルテル」の本拠地として機能している。アステカ帝国当時、凶暴な人喰い部族として、人肉食の儀礼などでスペイン人を恐怖に陥れたシナロアの部族は、エルナン・コルテスの侵攻時も一向一揆もどきを指揮して頑強に抵抗し、AD1584年には征服者ペドロ・デ・モントヤを殺害し、勝利を収めている。

 

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今川範氏の子

 

今川泰範(1334~1409) 今川家当主
今川氏家(?~?)

 

※アステカの殺人神官の正体は今川氏である。そのため、アステカの神々の名は日本語由来のものが多い。日本語由来のアステカの神々:ウェウェコヨトル(上上子よ獲る)、エエカトル(ええか獲る)、オメテオトル(お前、手を獲る)、コアトリクエ(子は獲り喰え)、ショロトル(少量獲る)、センテオトル(千、手を獲る)、チコメコアトル(シコメ、子は獲る)、チャルチウィトリクエ(CHURCH上、獲り喰え)、テペヨロトル(てっぺん、夜獲る)、トラソルテオトル(獲れ、それ、手を獲る)、ウイシュトシワトル(WISHED死は獲る)、イツパパロトル(EATS、PEOPLE獲る)他。

偶然と思われる向きもあると思うが、これは偶然ではない。例えばセンテオトル。これは千の手を獲る意味であるが、人食い人種は人間の掌が好物なのだ。アステカの人食いの神々の名が日本語由来の証拠である。

 

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今川泰範の子

 

 

今川範政(1364~1433) 今川家当主
如仲天ぎん(1365~1437) 可睡斎創建

尼子高久(1363~1391) 尼子氏初代当主

 

※アステカ帝国に赴き、殺人神官として人身御供を指揮していた今川範政は、アステカから日本に戻ると如仲天ぎんを称し、家族である曹洞宗の導きにより可睡斎を創建した。更に、尼子高久を称して尼子氏の祖となった。尼子の由来は今川と同じで、澳門の古名アマカオである。

 

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今川泰範の子

 

今川泰国(?~?)※画像なし
今川範信(?~?)※画像なし
トマス・アランデル(1353~1414) カンタベリー大主教

 

イギリス:ジョン・ウィクリフ処刑(1384)
イギリス:血の法典(1400)
イギリス:異端者焚殺令、ロラード派弾圧(1401)

 

※生没年が不明な今川泰国と今川範信は、どちらもアステカ帝国で殺人神官として人身御供を開催していたと考えられる。そのどちらかがイギリスに進出し、トマス・アランデルとなった。イギリスに侵入した彼は、アステカ帝国で起きていたことをそのままイギリスに持ち込んだ。それが「血の法典時代」である。例として、6歳の子がインクを盗んだだけで、死刑にされていた時代がイギリスにはあったのだ。目的はどう考えても懲罰ではなく「子供を殺すこと」である。この血の法典時代のイギリスで、1960年から1990年代まで、現代アメリカを脅かしてきた連続殺人鬼の卵が育てられた。連続殺人鬼の代表といえばアルバート・フィッシュであるが、彼らは、アステカ帝国の系譜を継ぐ者だ。
人喰い人種の血が目覚めたのか、人を殺したくて仕方がないアランデルは、大勢の人々、特に児童をたくさん殺すことができるよう、自分に都合がいい法律を制定した。これにより、非常に多くの何の罪も無い人々が処刑された「血の法典時代」がイギリスにはじまる。アランデルは、ダンスター家、ボーフォート家、聖公会(クリュニー会)の援助を得て、自分の血統を議会、役所、警察、病院などインフラ全般に送り込み、どんなウソでも自在につける環境を得た。つまり、彼らは政府と同等の発言力を誇った。これにより、非常識な法律を成立させることができた。
その後、トマス・アランデルの子孫はイギリスを離れてアステカ帝国に帰還し、ウィツィロポチトリやテスカトリポカなどの英語由来の殺戮神を生んでいる。イギリス時代から医者の姿で殺人をしていたようで、ドクターを由来にした「テクトリ」が語尾に付く死神のシリーズも生んでいる。パテカトル(PAY、DOCTOR)、テクシステカトル(タギー、死す、DOCTOR)、トナカテクトリ(ドニキ、DOCTOR)、シウテクトリ(死を、DOCTOR)、ヤカテクトリ(ダヤク、DOCTOR)、トラウイスカルパンテクートリ(TILL WE SKULL PAIN DOCTOR)などである。テクトリ・シリーズ以外には、イツパパロトル(EATS、PEOPLE、獲る)、ウィツィロポチトリ(WIZ LOP CHARTER=瞬時に切り裂く魔神)、テスカトリポカ(DEATH CATER BOGGY=死を要求する鬼神)がある。

 

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今川範政の子

 

今川範忠(1408~1461) 今川家当主
今川範豊(?~?)
今川範満(?~?)
小鹿範頼(?~?)

 

※アステカの神々、とりわけテオトルシリーズは、上記のように日本語が由来であり、英語由来の言葉も混合していることがあった。生贄の儀式は、基本的に「人身御供の種族」である今川家が仕切った。ここに、生贄の儀式の年間スケジュールを紹介する。毎年2月には、「水が止まること」「木々を立てること」と呼ばれた祭が開かれ、山上で子供が生贄に処された。毎年3月には、祭礼「皮剥ぎ」が開催された。この祭典では、今川家の司祭が、剥いだ生贄の皮を20日間被り続けた。ということで、この祭典は、AD1950年代に起きたエド・ゲインの事件を容易に想起させる。
毎年4月には祭礼「大徹夜会」が開催され、パンティトランで子供が生贄にされた。毎年5月には、祭礼「乾燥」が開催され、一年間テスカトリポカに扮していた「神の体現者」が生贄に処された。毎年6月には祭礼「王の小祝宴」が開催され、祝宴の神、草木の神、塩の女神に生贄が捧げられた。毎年7月には、祭礼「王の大祝宴」が開催され、生贄が捧げられた。毎年8月には祭礼「死者の小祝宴」「花の誕生」が開催され、ウィツィロポチトリに生贄が捧げられた。毎年8月には祭礼「死者の大祝宴」「ショコトルの実の大落下」が開催され、火に生贄が捧げられた。火に生贄を捧げるこの祭典は、今川家の先祖がガリアで少年少女をまとめて焼き殺したウィッカーマン、カルタゴで幼児をまとめて焼き殺した儀式を再現したものだろう。
毎年11月には祭礼「貴重な羽」が開催され、捕虜が鹿のように縛られて生贄に処された。このように、ほぼ毎月、「人身御供の種族」である今川家が生贄の祭典を催した。その度に、殺人を生業とする今川家によって生贄は惨殺され、ハイエナのように犠牲者の亡骸を味わっていた。今川家は、生贄を切り刻み、生皮を羽織って踊り狂い、人肉、特に子供肉を貪り食べた。これらのことは、現在でもアステカ人の子孫がアメリカ合衆国、イギリス、ウクライナで行っている。今川家の意向により、基本的には、明日のアステカを担う将来有望な優れた者が生贄に処された。反乱防止のために、リーダーの芽を小さいうちに摘むのは、家畜管理の基本である。

 

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今川範忠の子

 

今川義忠(1436~1476) 今川家当主※画像なし

ヴラド・ツェペシュ(1431~1476) ワラキア公

北条早雲(1432~1519) 後北条氏初代当主

 

東欧:ヴラド・ツェペシュ事件(1462)

 

※下記に記したソウニー・ビーン本体は、父である今川義忠(ヴラド・ツェペシュ)のもとに逃亡し、父と共に近隣住民やトルコ人の捕虜を串刺しにし、残虐の限りを尽くした。串刺し公の異名をとったヴラド・ツェペシュはドラキュラの語源となった。また、ヴラド・ツェペシュは逮捕監禁されたことにして、影武者を身代わりにして遠く、日本にまで逃亡を試み、北条早雲に変身して関東を治めた。歴史上、早雲は正体不明といわれているが、彼の正体は、日本に逃げてきた串刺し公ヴラド・ツェペシュ(今川義忠)である。

 

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今川範忠の子

 

今川範勝(?~?)※画像なし
今川範慶(?~?)※画像なし
ソウニー・ビーン(15世紀) 人喰い山賊

 

※今川範勝、或いは兄弟の範慶のどちらかがソウニー・ビーンとなり、どちらかがダヤン・ハーンを儲けた。2人はアステカ帝国で殺人神官を務めたが、範慶(仮定)はメキシコからイギリスに移り、ソウニー・ビーンを儲けた。ソウニー・ビーンは家族総出で人間狩りを行ったが、ある時、犠牲者を逃がしてしまった。犠牲者は早速軍に通報すると軍が動いたため、ビーンと庶子を投入した影武者部隊を含む本体はワラキアに逃亡した。だが、捕獲されたビーンの子息47人は、男は四肢を切断されたまま放置され、女は生きたまま焼かれた。

 

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第2代当主尼子持久の曾孫(山中幸満の子)

 

山中勝重(1467~1533) ※画像なし

ダヤン・ハーン(1464~1524) 北元第20代ハーン 在位1479~1516

 

蒙古:ダヤン・ハーン、出現(1482)
蒙古:ダヤン・ハーン、オルドスに侵入(1501)

 

※第2代当主尼子持久の曾孫山中勝重は北元に赴き、ダヤン・ハーンに化け、タタールを統治した。しかし、しばらくして、アステカ帝国にエルナン・コルテスが出現した。この一報を耳にしたダヤン・ハーンは、とる物もとりあえずメキシコに帰還した。AD1520年、コルテスを同じ血が流れている家族と認識しなかったダヤン・ハーンは、コルテスの留守中を見計らい、信者に命じて祭典に興じるアルバラードたち一行120人に嫌がらせをした。
これに激怒したアルバラードたちは、祭典中のアステカ人を虐殺した。これにより、スペイン人の皆殺しの口実を得たダヤン・ハーンは、得意の一揆を指揮して民衆の暴動を扇動した。翌日、戻ってきたコルテスは、皇帝に民衆の説得を打診したが、ダヤン・ハーンの一揆軍は、止めに入った皇帝モクテスマ2世もろとも、スペイン人1000名を皆殺しにした。この時、コルテスたちはトラスカラに逃げ、迫ってきた追っ手をなんとか撃破している。AD1521年、コルテスは5万人のスペイン兵と共に、再びアステカ帝国の地を踏んだ。3ヶ月以上の攻防の末、テノチティトランを陥落したコルテスは、皇帝クアウテモックを捕らえ、AD1525年に処刑した。もちろん、ダヤン・ハーンはうまく逃亡し、一族を率いて太平洋を横断し、遠江国に避難したと考えられる。

 

ゲレト・タイジ(1515~?) ダヤン・ハーンの八男

 

ダヤン・ハーンとその側室ジャライルのスミル・ハトンの間の息子として生まれた。同母兄弟にはチャハルのタタルを統治したウバサンチャ・チン・タイジがいる。 ゲレト・タイジはダヤン・ハーンの十一子の中で唯一子供がなく、そのため独自の遊牧集団を形成することなく亡くなった1482年。 ダヤン・ハーンの諸子の中で唯一子供がおらず、分封を受けなかった。wikiより

 

※ゲレト・タイジは上記のように独自の集団を形成せずに死んだ。或いは子どもがおらず分封を受けなかったとあるが、彼は実際には死んだことにしてボルネオ島に移住し、ダヤク族の祖となった。

 

ダヤク族 (16世紀~) 

 

※首狩り族であり、人食い人種としても知られている。彼らは敵の首級を保存するための首堂などを建設していた。実際にはダヤン・ハーンの子孫となる。ダヤクの由来はダーユァンキ(大宛の人)である。ダーユアンキ=ダユアンキ=ダヤクとなる。上の民族衣装はアステカっぽくもある。

AD1998年、ダヤク族はポソ地区で1000人を殺害し、AD1999年にはボルネオ島でマドゥラ族を虐殺した。更に、AD2001年にもボルネオ島でマドゥラ族118人を虐殺している。この「ポソ宗教戦争」により、ダヤク族は殺人の快楽と食欲の両方を満たした。

 

マラス(1981年~) 

 

※1981年にマハティールが首相に就任した際、一部ダヤク族はマレーシア(ボルネオ側)から中米に移住した。彼らはギャング団となり、家族であるドミニコ会の下で間接支配の形で人民や信者を管理した。現在、彼らは西本願寺独自の指示でキャラバンと呼ばれる移民を率いてアメリカ国境に侵入を試みている。マラスの名の由来はマレーシアである。マレーシア=マレーシ=マラスとなる。

 

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今川義忠の子

 

今川氏親(1471~1526) 今川家当主
今川心範(?~?)

 

※今川氏親と弟の今川心範は、すぐにメキシコに赴き、アステカ帝国で殺戮の神々に生贄を捧げる殺人神官として活動したと考えられる。氏親はメキシコで生まれた子息を連れて日本に帰還しているが、生没年が不詳の心範はアステカに残ったと考えられる。氏親が殺人神官を勤めていた時代に、メキシコはスペイン人に征服された。これを機に、今川家の一行は、太平洋を渡って現静岡県西部に帰還し、家族である今川氏のところに身を寄せた。今川氏輝、今川義元はアステカで生まれたメキシコ人である。氏親、氏輝、義元の親子は現磐田市に「見付」の名を残した。見付の名の由来はメシコ(メキシコ)である。現に、静岡県西部にはアステカ人やマヤ人の顔をした人が多い。
氏輝と義元は、見付天神を拠点にアステカから続く生贄の風習を存続させた。「ケツァルコアトル(毛猿、子は獲る)」を由来に「猿神」に扮したアステカ人は、毎年秋に農民から人身御供を要求した。さもなければ、猿神は農作物を荒らし、子女をさらって農民たちを困らせたという。今川家の人々は、猿のかぶりものをし、正体を隠して儀式を行ったのだ。「見付天神」も該当しているが、アステカ人やマヤの人身御供の教団が日本各地に建立した神社は、どれも山頂部に建てられた。それはさも、アステカ・マヤのピラミッドの再現のようである。どれも、ピラミッドに似た長い階段が特徴である。

 

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今川義忠の子

 

今川氏親(1471~1526) 今川家当主※画像なし
ファン・ディエゴ(1474~1548)

 

メキシコ:グアダルーペの聖母(1531)

 

※今川氏親は55歳で死んだことにし、日本を離れてスペイン植民地下のメキシコに戻り、ファン・ディエゴとして登場した。彼は、グアダルーペに聖母を見たとウソをついた。グアダルーペの聖母は、白人列強に縄張りを荒らされた今川氏親が、下層民を振るい立たせて、スペイン人に対して一揆を企てようとした果ての苦肉の策だった。このグアダルーペの聖母は、後に、メキシコ独立運動を指揮したミゲル・イダルゴに継承されている。氏親は、メキシコを取り戻すために、最後の22年間をファン・ディエゴとして生きた。

 

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今川義忠の子

 

正親町三条実望室(?~?)

養珠院殿(?~1527) 北条氏綱正室

 

北条氏康(1515~1571) 後北条氏第3代当主※養珠院殿の子

尼子晴久(1514~1561) 尼子氏第5代当主

 

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北条氏康の子

 

北条氏政(1538~1590) 後北条氏第4代当主

尼子義久(1540~1610) 尼子氏第6代当主※画像なし

 

上杉景虎(1554~1579) 北条氏康の子※画像なし

ナーダシュディ・フェレンツ2世(1555~1604) エリザベート・バートリの夫

Ieremia Movilă(1555~1606) モルダヴィア公、モビレシュティ家祖

 

優秀な武人で、敵に対する極めて残酷な処罰方法を好んだため、「黒騎士(erős fekete bég)」の異名で呼ばれた。バートリ・エルジェーベト伯爵夫人の夫である。 wikiより

 

※北条氏康(今川義忠の孫)の子である北条新九郎と上杉景虎、そして品川高久/准如(今川義元の子)と園光院(今川義元の孫)がトランシルヴァニアに旅立った。景虎はナーダシュディ・フェレンツ2世となり、エリザベートになった園光院と結婚した。景虎は1579年まで日本で景虎として上杉家を滅ぼすために家督争いを起こし、上杉家を分裂させた。その後、79年に死んだことにしてトランシルヴァニアに戻り、次はオスマン・トルコ帝国軍との戦いに明け暮れた。

 

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今川氏親の子

 

今川義元(1519~1560) 今川家当主
象耳泉奘(1518~1588) 見付天神神職※画像なし

 

今川氏豊(1522~?)

 

※僧侶になった今川家の子息は見付神社で人身御供の神官として儀式を取り仕切っていたと考えられる。象耳泉奘は意中の少女の家に白羽の矢を立て、生贄と称して拉致し、身近に置いた。そして、美人の遺伝子を取り込むために子を産ませた。第一印象で悪党に見えないのは悪党の本願である。だが時には、アステカ時代を思い出して過酷な拷問の末に被害者を惨殺し、肉を食べる目的で生贄を所望したこともあるだろう。象耳泉奘の正体は今川義元だった可能性も高い。表の顔と裏の顔があったのだ。ということは、義元は死んだ後も、見付天神の人身御供の殺人神官として28年間生き続けたのだ。

 

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今川氏親の子

 

今川氏輝(1513~1536) 今川家当主※画像なし
アルタン・ハーン(1507~1582)※画像なし
フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1507~1582) アルバ公爵

 

蒙古:アルタン・ハーン、山西大虐殺(1542)
蒙古:アルタン・ハーン、北京を包囲(1550)
蒙古:アルタン・ハーン、カラコルムを占領(1552)
蒙古:アルタン・ハーン、遼東半島に侵入(1563)
オランダ:アルバ公、血の審判所設立(1567)
蒙古:アルタン・ハーン、チベット遠征(1569)

 

※今川氏輝は子息を残さなかったが、それは彼がメキシコに戻っていた証拠だろう。その後、メキシコを発った今川氏輝は、ダヤン・ハーンの縄張りを奪還するべく、モンゴルに侵入してアルタン・ハーンを称した。アルタン・ハーンは、1542年に山西省に侵攻した際、男女20万人を虐殺し8万軒を焼き払ったといわれている。ダライ・ラマはこの系統に属している。アルタンハーン本人は、その後、ヨーロッパに進出してフェルナンド・アルバレス・デ・トレドを称した。トレドはカール5世のためにプロテスタントを処刑し、ネーデルラント総督になると血の審判所を設けて多くの新教徒を処刑した。アルタン・ハーンとフェルナンド・アルバレス・デ・トレドの生没年が全く同じなのは興味深い。一方、アルタン・ハーンの残党は日本に帰還し、今川氏の下(遠江戸国)へと身を寄せた。現に、静岡県西部にはモンゴル人ぽい顔の人は多い。

 

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今川氏親の子

 

今川彦五郎(?~1536)
玄広恵探(1517~1536) 見付天神神職

 

※僧侶になった今川家の子息は見付神社で人身御供の神官として儀式を取り仕切っていたと考えられる。玄広恵探は意中の少女の家に白羽の矢を立て、生贄と称して拉致し、身近に置いた。そして、美人の遺伝子を取り込むために子を産ませた。第一印象で悪党に見えないのは悪党の本願である。だが時には、アステカ時代を思い出して過酷な拷問の末に被害者を惨殺し、肉を食べる目的で生贄を所望したこともあるだろう。玄広恵探の正体は彦五郎だった可能性も高い。表の顔と裏の顔があったのだ。

 

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今川氏親の子

 

瑞渓院(?~1590)

 

北条新九郎(1537~1552) 北条氏康と瑞渓院の子※画像なし

ステファン・バートリ(1533~1586) ポーランド王在位1575~1586

 

※北条氏康(今川義忠の孫)の子である北条新九郎と上杉景虎、そして品川高久/准如(今川義元の子)と園光院(今川義元の孫)がトランシルヴァニアに旅立った。あとで准如の子である小早川秀秋も馳せ参じる。この移住により東欧は悲惨な目に合う。

 

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今川義元の子

 

今川氏真(1538~1615) 今川家当主
一月長得(?~1625) 見付天神神職※画像なし

 

※僧侶になった今川家の子息は見付神社で人身御供の神官として儀式を取り仕切っていたと考えられる。一月長得は意中の少女の家に白羽の矢を立て、生贄と称して拉致し、身近に置いた。そして、美人の遺伝子を取り込むために子を産ませた。第一印象で悪党に見えないのは悪党の本願である。だが時には、アステカ時代を思い出して過酷な拷問の末に被害者を惨殺し、肉を食べる目的で生贄を所望したこともあるだろう。一月長得の正体は今川氏真だった可能性も高い。表の顔と裏の顔があったのだ。
今川氏は、正体を隠すために猿の扮装をし、代々、見付神社で人身御供の儀式を開催していたが、一月長得の時代に修験者(天狗)の集団に襲撃され、余りの恐ろしさに、それ以後は人身御供の儀式は行わなくなった。見付天神の伝説によると、生贄を求めた猿神は信濃に住む「犬の早太郎」に成敗されたとされている。この犬の早太郎は、修験者であったと考えられる。「犬」とは天狗のことを指しているのは間違いがない。そして、天狗は山伏、修験者の別名である。ということで、犬の早太郎の正体は、戸隠山修験、或いは秋葉山修験に属する優れた修験者である。

 

嶺松院(?~1612) 武田信玄の子義信の妻

 

園光院(?~?)※画像なし

エリザベート・バートリ(1560~1614)

 

永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると武田・今川間の関係は険悪になり、永禄10年(1567年)には武田家において義信が謀反の罪により自害させられる義信事件が発生している。母の嶺松院は翌永禄11年(1569)春に今川氏真の要請により駿河へ引き取られ、今川氏の滅亡後まで存命したという。園光院は母と共に駿河に引き取られたともいうが、その後の事跡は不明。 wikiより

 

※園光院は生没年不詳だが、1560年生まれと推測できる。彼女は11歳の時に伯父である氏真に引き取られた。その後、北条氏康(今川義忠の孫)の子である北条新九郎と上杉景虎、そして品川高久/准如(今川義元の子)と園光院(今川義元の孫)がトランシルヴァニアに旅立った。園光院はエリザベート・バートリとなり、ナーダシュディ・フェレンツ2世となった上杉景虎と結婚した。当初、エリザベートはタナトスの一族にハメられた哀れな被害者だと考えていたが、こうして精査してみるとエリザベートは真の加害者であり、変態殺人鬼であり、加えて大谷の一族だったことがわかった。

エリザベートが狂気に走ったのは血筋もあるが、幼少期に見付神社で生贄の神官をしていた今川氏真の仕事ぶりを見て影響されたのではないかと考えられる。伯父が生贄を切り裂き、陵辱し、惨殺するさまを見て幼いながらに歓喜し、肉が破れ、血に塗れた被害者の断末魔に酔いしれたことがフラッシュバックしたのだろう。エリザベートの残虐行為は、見付神社で実際に人身御供の儀式と殺人行為が行われていた証明である。

 

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Moise Movilă(1596~1661) モルダヴィア公、モビレシュティ家最後の大公※画像無し

George Ghica(1600~1664) モルダヴィア公、ギカ家祖

 

グリゴーレ3世(1724~1777) ギカ家、モルダヴィア公

 

グリゴーレ4世(1755~1834) ギカ家、ワラキア公

Ioan Sturdza(1762~1842) モルダヴィア公、シュトゥルツァ家祖※画像無し

 

Grigore Alexandru Ghica(1803~1857) モルダヴィア公、ギカ家最後の大公

エドゥアルト・フォン・ザクセン=アルテンブルク(1804~1852) バイエルン軍人

 

Louis de Saxe-Altenbourg(1939~1844) エドゥアルト・フォン・ザクセンの子※画像無し

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(1835~1905) 

 

フェルディナンド1世(1865~1927) 第2代ルーマニア王※レオポルトの子

 

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ルーマニア王フェルディナンド1世の子

 

カルロ2世(1893~1953) 第4代ルーマニア王

イオン・インキュレット(1884~1940) モルダヴィア民主共和国初代大統領

 

マリア(1900~1961) ユーゴスラビア王妃

Maria Manjaru(?~?) ヴァシレ・ルプ高校団教師

 

ミルチャ(1913~1917) ルーマニア王子※画像無し

フィレモン・ボディウ(1910~1950) アルマータ・ネアグラ(黒軍)指導者

 

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ルーマニア王フェルディナンド1世の孫

 

ペータル2世(1923~1970) ユーゴスラビア王※ユーゴスラヴィア王妃マリアの子

Vasile Bătrânac(1925) ステファンの射手指導者

Ion Bacalu(1924) ヴァシレ・ルプ高校団メンバー

Pavel Boguş(1924) ヴァシレ・ルプ高校団メンバー

Eugen Braşoveanu(1924) ヴァシレ・ルプ高校団メンバー

Serghei Buiuc(1924) ヴァシレ・ルプ高校団メンバー

 

※高校団のメンバーは、全員がフェルディナンド一族の庶子だと考えられる。

 

ドミニク(1937) ルーマニア王女イレアナの子※画像無し

Gheorghe Ghimpu(1937~2000) 国民愛国戦線指導者

ミルチャ・スネグル(1940) モルドバ共和国初代大統領

ウラジーミル・ヴォローニン(1941) モルドバ共和国第3代大統領

ミルチャ・ドルク(1941) モルドバ共和国初代首相※画像無し

 

 

 


准如の一族~小早川秀秋、ドン・コサック、古儀式派、ノーベル賞、ベルナドッテ朝スウェーデン王

  

品川高久(1576~1639) 上野藩藩主※画像なし
准如(1577~1630)
スチェパン・ラージン(1630~1671) ドン・コサック首長

 

ロシア:モスクワ民衆の暴動(1662)
ロシア:スチェパン・ラージンの乱(1670)

 

※見付天神の人身御供が終焉を迎えたのはいつか?それは、准如が生まれたAD1577年よりも数年前と推定される。つまり、見付天神の生贄の儀式は、AD1520年代から約50年ほど続いたのだ。本願寺で教如を生んだ女が優性遺伝子ブリーダーによって今川氏真の子を産んだ。この時に誕生したのが准如である。時折りしも、顕如が織田信長相手に一向一揆を仕掛けていた真っ最中である。だが、准如は、本願寺の教如と対立し、本願寺は西本願寺と東本願寺に分離する。大谷は「東本願寺」を称し、アステカ人は「西本願寺」を称した。
准如は、西本願寺門主を演じながら、同時に今川氏真の子、品川高久として遠江国から上野藩(現・群馬)に移り、上野藩の藩主を務めた。だが、彼は群馬でも見付天神と同じように人身御供の儀式を開催した。群馬だけでなく、猿神に生贄を捧げる風習が民話として残っている地域には、アステカ人が必ず進出していたと考えられる。猿神と白刃の矢のセットで、必ず小高い山をピラミッドに見立て、長い階段を配し、山頂に神社が建てられているだろう。
また、准如は53歳で死んだことにし、日本を離れ、スチェパン・ラージンを演じた。もちろん、庶子を投入した影武者部隊も準備していた。「スチェパン・ラージンの乱」の時、准如は96歳だったが、准如は指揮者として隠れ、表では庶子が影武者を演じていた。影武者が古儀式派と組んでロシア帝国に対して蜂起したわけだが、蜂起は失敗し、影武者は八つ裂きの刑に処された。

 

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品川高久(准如)の子

 

品川高寛(1616~1697)※画像なし

細川光尚(1619~1650) 肥後藩藩主

セバスティアン・ミカエリス(17C) ドミニコ会士※画像なし
マシュー・ホプキンス(1620~1647) 魔女狩り将軍

 

※マシュー・ホプキンスは、魔女狩り将軍を称して300人もの無実の人々を魔女に仕立て上げて処刑、多額の利益を上げた。マシュー・ホプキンスはセバスティアン・ミカエリスと同一人物だった可能性も高い。また、ホプキンスは、27歳で死んだことにして日本に戻り、細川光尚として肥後藩藩主を務めた。彼は、この時にアステカ人を受け入れ、上下益城郡を築いた。益城の由来はメシコ(メキシコ)である。

 

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品川高久(准如)の兄弟

 

今川範以(1570~1608)

松倉重政(1527~1630) 大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主
澄存(?~?) 見付天神神職

 

イギリス:ロンドン、人間狩り(1590)

 

※澄存の頃には、既に人身御供の儀式は開催されていなかっただろう。澄存の正体は今川範以であり、今川範以は松倉重政という顔も持っていた。松倉は、キリシタンに蓑踊り、俵責め、瓢箪責め、雲仙地獄などの凄惨な拷問を加えていたことで知られている。彼にとって拷問は悦びであった。

見付天神で人身御供の儀式を断念した今川範以は、庶子の異母兄弟を投入した影武者部隊と共に日本を離れ、イギリスに侵入した。この時、今川範以は異母兄弟たちにロンドンで人間狩りをすることを命じた。これはタナトスの大人の儀式である。殺人を楽しむことができなければ一人前のタナトスとはいえないのだ。

 

西尾安信(?~?)※画像なし

小早川秀秋(1582~1602) 慶長の役総大将
偽ドミトリー1世(1582~1606) モスクワ大公
偽ピヨートル(?~1607) モスクワ大公※画像なし
偽ドミトリー2世(?~1610) モスクワ大公※画像なし
偽ドミトリー3世(?~1612) モスクワ大公※画像なし

ボリス・モロゾフ(1590~1661)※画像なし

 

ロシア:大飢饉、疫病、動乱時代(1601)

トランシルヴァニア:父准如のいとこであるエリザベート・バートリの下に身を寄せる(1604)
ロシア:偽ドミトリー即位(1605)
ロシア:ボロトニコフ、農民暴動を指揮(1607)
ロシア:偽ドミトリー2世即位(1607)

トランシルヴァニア:エリザベート・バートリ伯爵夫人逮捕(1610)
ロシア:偽ドミトリー3世即位(1611)

ロシア:ミハイル・ロマノフ暗殺、アレクセイ即位(1645)

ロシア:ロシア人民蜂起、ボリス・モロゾフ追放(1648)

 

※稀代の卑怯者として知られる小早川秀秋は准如の子である。彼は、関ヶ原の戦いが終わると、死んだことにして、庶子を投入した影武者部隊と共に工作員としてロシアに向かった。1604年、トランシルヴァニアに居を据えた彼らは、家族であるエリザベート・バートリ伯爵夫人の保護を受け、夫人の趣味を手伝い、近隣の少女を誘拐して残虐な趣味に興じた。一方で、トランシルヴァニアを基地にロシアに出撃した小早川は、偽ドミトリーと偽ピヨートルを演じた。だが、この作戦は偽物扱いされたに留まった。
しかし、偽ドミトリーらを死んだことにした小早川秀秋は、宰相ボリス・モロゾフに変身し、80代まで生きたと考えられる。そして、ミハイル・ロマノフの妃であるエヴドキヤ・ストレシニョヴァがモロゾフの遺伝子を所望したことによって、モロゾフはアレクセイを儲けている。尚、彼女は優性遺伝子ブリーダーによって他の男の子どもも生み、併せて3男7女を儲けたが、そのうち6人が若くして死んだ。カッコウの雛のようにアレクセイは他の異父兄弟を殺したのだろう。

そして、父であるモロゾフがミハイル・ロマノフを暗殺すると、息子であるアレクセイをモスクワ大公の座に据えた。

一方、アレクセイは36歳の時に古儀式派の教祖となる女性フィオドシア・モロゾヴァを演じた。モロゾヴァとモロゾフの名が同じことに留意したい。モロゾヴァがモロゾフの子だということを意味している。アレクセイが古儀式派の首領であったため、アレクセイは古儀式派を弾圧するニーコン大主教を追放している。更にその後、正しいロシア人に嫌われたモロゾフは、民衆の蜂起によってロシアを追放されている。

モロゾフは79歳で死んだことにし、アレクセイは47歳で死んだことにすると、古儀式派を率いてロシア国内に潜伏し家族であるサルトゥイコヴァ伯夫人の保護を受けた。彼らはこの時にもエリザベートと同じことをした。

 

アレクセイ(1629~1676) モスクワ大公 小早川秀秋の子

フィオドシア・モロゾヴァ(1632~1675) 古儀式派教祖

 

フェオドシア(1662~1713) アレクセイ七女※画像なし

プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァ(1664~1723) イヴァン5世の妃

 

※フェオドシアは11歳で死んだことにし、潜伏した後、プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァとして再登場した。プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァはイヴァン5世と結婚したが、これはフェオドシアが弟と結婚したいうことでもあった。

 

アンナ・レオポルドヴナ(1718~1746) イヴァン5世とプラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァの孫

 

ダリヤ・サルトゥイコヴァ(1730~1801)

 

※ダリヤはロシア帝国の貴族でシリアルキラーとして知られている。彼女は、拷問によって100人以上の農奴を殺害し、その犠牲者の多くが女性ないし少女だったという。農奴を肉体的に痛めつけることに快楽を見出していた。大谷の子だから可能なことである。因みにダリヤは、アンナ・レオポルドヴナが12歳の時の子である。父親は不明だが、イヴァン5世かもしれない。

 

イヴァン6世(1740~1764) ロシア皇帝

 

※イヴァン6世は24歳で死んだことにしてロシアを離れるとツングースに逃れた。ここでイヴァン6世(准如の一族)の残党は「エヴェンキ族」「エヴェン族」と自称した。エヴェンの由来はイヴァンであり、エヴェンキの由来はイヴァンの人(イヴァンキ)である。事実、エヴェンキ族はロシア人と同じ暮らしを送る人々として知られている。

 

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イヴァン6世の子孫

 

海蘭察(1740~1793) エヴェンキ出身の武将

ヤコフ・サンニコフ(1749~1825)※画像なし

ペダル・アンカル(1749~1824) 初代ノルウェー首相※画像なし

エルンスト・ハインリヒ・フォン・シメルマン(1747~1831) 第10代デンマーク枢密院議長

 

乾隆帝の参賛大臣を務めた。清・ジュンガル戦争、清・ネパール戦争などで活躍した。彼は清の正規軍が敵の不正規戦に対処しきれない現実のなか、エヴェンキ族で構成された部隊を率いて、部隊を指揮した。 wikiより

 

※海蘭察は1793年に死んだことにして中国を去り、ロシアに移ってヤコフ・サンニコフとして1800年にストルボヴォイ島を発見、海図に記載した。1805年にはファデエフスキイ島を発見した。1808年から1810年にはマトヴェイ・ゲデンシュトロムが率いる探検隊に参加した。1810年にサンニコフはノヴァヤ・シビリ島を横断しファデエフスキイ島をした。

 

ヤコフ・サンニコフの子(生没年不明)※画像なし

イマニュエル・ノーベル(1801~1872)

オスカル1世(1799~1859) ベルナドッテ朝第2代スウェーデン王※画像なし

フレデリック・デュー(1796~1873) 第4代ノルウェー首相※画像なし

ペーター・ゲオルグ・バン(1797~1861) 第4代デンマーク首相

 

※探検家ヤコフ・サンニコフ(海蘭察)の子は、イマニュエル・ノーベルとしてスウェーデンで生きたためヤコブ・サンニコフの子としての情報は皆無である。ダシナマイト、ノーベル賞で知られるアルフレッド・ノーベルを儲けている。

 

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オスカル1世の子

 

アウグスト(1831~1873) オスカル1世第4王子※画像なし

ルドヴィク・ノーベル(1831~1888) ブラノーベル社

ハンス・ゲオルグ・ヤコプ・スタン(1830~1907) 第4代ノルウェー首相※画像なし

オスカル2世(1829~1907) ベルナドッテ朝第4代スウェーデン王

 

※ルドヴィクは兄ロバートと共にロシア(アゼルバイジャン)に石油会社ブラノーベルを起業したが、ロシア革命のときに没収された。

 

アルフレッド・ノーベル(1833~1896) ダイナマイト発明、ボフォース社・アクゾノーベル社創立

 

エミル・オスカー・ノーベル(1843~1864) 

ヤコフ・サンニコフ(1844~1908)

クリスチャン・ルンデバーグ(1842~1911) 第10代スウェーデン首相

 

※上記の冒険家ヤコフ・サンニンコフの孫。フリチョフ・ナンセンらの探検を支援した商人・慈善家として知られる。 エミル・オスカー・ノーベルとは同一人物と考えられる。エミル・オスカー・ノーベルは自分を21歳で死んだことにしてその後はヤコフ・サンニコフとして生きた。

 

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オスカル2世の子

 

グスタフ5世(1858~1950) ベルナドッテ朝第5代スウェーデン王

カール・ヤルマール・ブランティング(1860~1925) 第16代スウェーデン首相

フリチョフ・ナンセン(1861~1930) ノルウェーの科学者・探検家

 

第一次世界大戦後は国際連盟の難民高等弁務官に就任し、ソ連政府との交渉、45万人以上の捕虜の交換帰国プロジェクトを成功させ、戦争難民のために「ナンセン・パスポート」と後に呼ばれた証明書を発行した(その他、ウクライナの大飢饉に苦しむウクライナ人をカナダに移住させる等)。1915年にはノルウェー防衛協会(Norges forsvarsforening)の初代会長に就任し、1930年まで会長職を務めた。1922年に戦争難民の帰国および飢餓難民救済活動の功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞した。彼の業績は国際連合難民高等弁務官事務所に継承され、彼は難民の父と呼ばれている。1925年、右翼組織「祖国」(Fedrelandslaget)の創設メンバーとして公の前で演説を行っている 。wikiより

 

※ヤコフ・サンニコフ(エミル・オスカー・ノーベル)の子と考えられる。ノーベル平和賞を受賞しているため、彼は悪であることがわかる。それを証明するようにウクライナ大飢饉に苦しむウクライナ人をカナダに移住させている。

 

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オスカル2世の孫

 

グスタフ・エドゥアルド・ベルナドッテ(1930)※画像なし

トルビョルン・フェルディン(1926~2016) 第27代スウェーデン首相

スヴャトスラフ・フョードロフ(1927~2000) オリガルヒ、眼科ミクロヒルルギア研究所

アルノルド・リューテル(1928) エストニア第3代大統領

 

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グスタフ5世の孫

 

カリン・エリザベス・ストラエル(1958)※画像なし

ダリア・グリバウスカイテ(1956) リトアニア大統領

 

※先祖の初代ギリシア大統領イオアニス・カポディストリアスに似ている。メルケル首相、メイ首相とは優性遺伝子ブリーダーによって生まれた大谷に属する家族であり、旧知の仲だ。第三次世界大戦では悪の主人公となるだろう。

 

フリードリヒ・ヤン・レナルト・カウツ(1962)※画像なし

ミハイル・ホドルコフスキー(1963) オリガルヒ・ユコス社社長

 

ビヨルン・ヴィルヘルム(1975)※画像なし

アルセニー・ヤツェニュク(1974) ポロシェンコ政権、人民戦線党

 

※ヤツェニュクは、先祖である小早川秀秋の顔に良く似ている。

 

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グスタフ6世アドルフの子

 

カール16世グスタフ(1946) ベルナドッテ朝第7代スウェーデン王

 

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グスタフ6世アドルフの孫

 

クリスチャン・カール・ヘニング・ベルナドッテ(1949) ※画像なし

カール・ビルト(1949) 第30代スウェーデン首相

ヨーラン・ペーション(1949) 第31代スウェーデン首相

ヴァギト・アレクペロフ(1950) ルクオイル社長

 

※クリスチャン・カール・ヘニング・ベルナドッテはビルトとペーションを演じてスウェーデン首相に就任し、アレクペロフに変身してルクオイル社長として活動した。

 

 

 


良如の一族~生類憐みの令、火付盗賊改、子供を殺すための法律「ブラック法」、MI6長官

良如(1612~1662)
呉三桂(1612~1678)
保科正之(1611~1673)
ウィリアム・ランポート(1611~1659) メキシコ独立運動※画像なし

 

中国:三藩の乱(1673)

 

※良如は、徳川家の動向を間近で観察するため、保科正之として潜入していた。保科は、徳川家綱として生まれた東本願寺の常如の幼少期を大事に面倒をみた。また、良如は中国に侵入して呉三桂となるが、おもしろいことに大事に育てた常如(家綱)と組んで三藩の乱を指揮した。また、良如は故地であるメキシコにも進出し、ウィリアム・ランポートとして小規模なメキシコ独立運動を指揮した。呉三桂が66歳で死ぬまで、良如は4人の人物を演じていたことになる。

 

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保科正之(良如)の子

 

保科幸松(生没年不詳)

中山直守/中山勘解由(1633~1687) 火付盗賊改方

 

※異母兄弟である綱吉の生類憐みの令の発想につながるが、火付盗賊改方とは敵の汚名を着せて速やかに排除する術である。このため、平和だったと謳われる江戸時代は、じつはヨーロッパの魔女狩りと同じように暗澹で悲惨な状況下にあった。本願寺は、あらゆる人間の本能に罪の名を着せることで、どんな人物をも悪党に変えることが出来た。浄土真宗信徒以外の庶民にとっては非常に生き苦しい時代だった。

 

中山直房(1657~1706) 中山直守の子、火付盗賊改方

 

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保科正之(良如)の子

 

保科正経(1647~1681)

徳川綱吉(1646~1709) 征夷大将軍
隆光(1649~1724) 新義真言宗

林鳳岡(1645~1732) 儒学者※画像なし

 

日本:生類憐みの令(1687)
イギリス:ブラック法(1709)
イギリス:ロンドン、人間狩り(1712)
ベンガル:ブラックホール事件(1717)

 

※綱吉は当初、保科正之の子保科正経として生まれた。綱吉は正経を演じながら、隆光や林鳳岡なども演じた。危険が迫ったら潜伏できるようにいろんな人物を用意するのだ。狡猾な大谷の子、綱吉は生類憐みの令のような悪法をキメるにあたり、隆光という存在しない人物が「自分に悪法を勧めた」と設定することで「生類憐みの令の発想は自分の意志ではない」とし、批判や非難を事前に回避している。魔女狩りと生類憐みの令の骨子が酷似していることがわかる。生類憐みの令は動物愛護が目的ではない。敵を殺すのが目的であった。悪(タナトス)の敵とは善人である。金を盗ると善人は怒る。しかも他人から盗っても善人は横から首を突っ込んできて怒る。許せない。そこで、常々、悪は善人を殺したい、日本から撲滅したいと考えていた。だが、普通に善人を殺せば人殺しになってしまう。人殺しは処罰されなければならない。しかし、人殺しでなければ処罰されることはない。
人を殺して喜ばれるのは悪人を殺した時である。悪人を殺せば正義の味方となるのだ。ということは、善人が悪であれば善人の殺害も可能となる。しかし、善人は待っていてもなかなか悪に手を染めない。そこで隆光は考えた。善人でもすること(畑を荒らす猿、猪、鹿、人を咬む野良犬など害獣を殺すこと)を禁止事項に設定した法律を定めれば、一瞬で善人を悪に変えることが出来る。それが「生類憐れみの令」の正体である。生類憐みの令は、善人を悪人に変換する装置であった。現代人は、よく生類憐みの令を引っ張り出しては無能な政策だとバカにする。だが、その実態は人権を軽視した非常に恐ろしいものだった。善を蹂躙し、高貴な精神を踏みにじり、悪を正当化するのだ。
善人が確実に悪に手を染める(動物を傷つける)ように隆光が属す新義真言宗だけでなく、浄土真宗・曹洞宗の信者も自腹でタナトスの教団連合に手を貸した。例として、いち信者が標的の前に犬を放ち「泥棒犬だ!捕まえてくれ!」と呼びかける。すると善人は犬を捕まえる。しかし、そこに憤懣やる方ない飼い主が出現して、善人を捕まえ「ウチの犬を捕まえて殺そうとした」とお上に陳情する(2人の人物は信者であり、敵を殺すために一芝居打つのだ)。すると生類憐みの令が起動し、捕縛された善人は有罪を受けるために出廷し、そのまま打ち首になる。この時、殺人は起きていない。犬を殺そうとした悪人が処罰されただけのことである(タナトスの教団は当時から日本国のインフラを完全支配しているため、信者がどんな下手な芝居を打っても、どんなに辻褄が合わないウソをついても、それは「真実」でしかない)。こうして、この時期に多くの善人が殺され、日本の善人人口は著しく激減した。

 

中山勘解由が敵を排除するために始めた火付盗賊改方は、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていた。そして当然なことだが、誤認逮捕等の冤罪も多かった。人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所の同心・与力からも嫌われていた。

これにより1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は廃止され、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)の管轄になる。だが、赤穂事件があった1702年(元禄15年)、つまり、生類憐みの令を作った徳川綱吉の時代に、盗賊改が復活し、博打改が加わる。翌年、火付改が復活した。人々の本能を弾圧し、自分の思い通りに人々を支配下に置くためである。

 

その後、綱吉は死んだことにして日本を逃れてイギリスに渡った。隆光は、血の法典を発展させ、悪名高い「ブラック法」を設けた。これは生類憐みの令と全く同じものである。目的は殺人であるが、生類憐みの令が敵を殺すことを目的にしていたことに対し、ブラック法は主に子供を殺すことが目的だった。

死刑に該当する罪状は50、例として、小間物商の帳簿を偽造した10歳の少年が詐欺罪で処刑された他、7歳の少女が放火犯として処刑された記録が残っている。この他にも、多くの児童が万引きなどで処刑されているが、17世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスは世界一子供を処刑する国として悪名を馳せた。その裏には、生類憐みの令や火付け盗賊改め方などで江戸庶民を苦しめた徳川綱吉の一族がいたのだ。

ブラック法は、明らかに子供の殺人が目的であり、罪状もすべて単なる濡れ衣であった。可能性としては、子供の肉を得るのが目的だった。イングランドは凄惨な魔女狩りから逃れたが、血の法典時代によって、多くの優秀な児童が汚名を着せられて排除された。綱吉の分身である新義真言宗の僧侶隆光は、「MI6」の前身を形成した。MI6とは弥勒(みろく)のことである。
また、綱吉は影武者用に庶子を大勢同行させていたが、庶子たちにロンドンで人間狩りをすることを命じた。これはタナトスの大人になる儀式である。楽しみながら殺人もできないようでは一人前のタナトスとは言えないのだ。綱吉の庶子たちは「モホーク団」と呼ばれた。彼らは、娼婦や老婆などの女性を襲い、猫が鼠を弄ぶように、遊び感覚で殺人のやり方と心構えを会得した。

その後、軍に所属してインドに配置された数人はベンガルとブルボン朝の連合を攻撃するためにイギリス人123人を狭い牢獄に押し込めて窒息死させた。「ブラックホール事件」と呼ばれるが、イギリス軍は「リメンバー・ブラックホール」を合言葉にベンガルに侵略戦争を仕掛けた。第三者の目で見ると、イギリス軍は同じ同胞を惨たらしく殺害した悪党を成敗したに過ぎない。これが大谷のやり方である。

 

保科正純(生没年不詳)※画像なし

山田浅右衛門(1657~1716) 死刑執行人※画像なし

エヴリン・ピアポント(1655~1726) 初代キングストン=アポン=ハル公爵・ウォルポール内閣・王璽尚書

 

※生没年が不詳の保科正純は死刑執行人として知られる山田浅右衛門の祖となった。その後、保科正純は兄弟である綱吉と共にイギリスに渡ったと考えられる。そのため、情報がない。彼はエヴリン・ピアポントを称し、子供を殺すことを目的として「ブラック法」を1723年に制定した。

 

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徳川綱吉の子

 

徳川綱教(1665~1705) 鶴姫と結婚※画像なし

トマス・パーカー(1666~1732) 初代マクルズフィールド伯爵・ウォルポール内閣大法官

 

※綱吉の娘鶴姫の婿とされているが綱吉の実子だと考えられる。綱教は死んだことにしてイギリスに渡った綱吉と行動を共にし、イギリスではトマス・パーカーを称した。子供を殺すことを目的として「ブラック法」を1723年に制定した。

 

徳川徳松(1679~1683)

 

尊統法親王(1696~1711) 有栖川宮幸仁親王皇子

 

※養子とされているが、昔はよその女に生ませた子を養子として迎え入れることは多かった。つまり、綱吉は自力で或いは優性遺伝子ブリーダーによって尊統法親王を儲けた。

 

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●偏諱を受けた人物(偏諱とは主君の一字「吉」を戴くことだが、この場合、実際にはみな綱吉の子だと考えられる)

 

※偏諱とは主君の一字「吉」を戴くことだが、この場合、実際にはみな綱吉の子だと考えられる。更に、綱吉は1709年に死んだことにしてイングランドに渡るが、綱吉と近い年に死んだとされている者(松平吉品、柳沢吉保、松平吉透、毛利吉広、黒田吉之、徳川吉孚、徳川吉通、細川吉利)は、自分の子息を連れて、父である綱吉とともにイングランドに渡り、ロンドンで人間狩りに従事した。 他の者は少し遅れてから死んだとされている年にイギリスに渡ったと考えられる。

 

松平吉品(1640~1711) 越前松平家。福井藩第7代藩主。松平昌親より改名

 

柳沢吉保(1659~1714) 綱吉寵臣。幕府側用人。川越藩主、甲府藩初代藩主

 

越智吉忠(1663~1724) 甥(兄・綱重の子)、家宣の実弟、のちの松平清武

 

鍋島吉茂(1664~1730) 佐賀藩第4代藩主

 

毛利吉就(1668~1694) 長州藩第5代藩主※画像なし

松平吉透(1668~1705) 越前松平家。松江藩第4第藩主※画像なし

ヘンリー・ボイル(1669~1725) 初代カールトン男爵・ウォルポール内閣枢密院議長

 

※松平吉透は毛利吉就でもあったが、彼は綱吉と共にイングランドに渡り、ヘンリー・ボイルを称して、子供を殺すことを目的として「ブラック法」を1723年に制定した。

 

毛利吉広(1673~1707) 長州藩第4代藩主、吉就の実弟

島津吉貴(1675~1747) 薩摩藩第4代藩主

 

毛利吉元(1677~1731) 長州藩第5代藩主、吉広の養嗣子

池田吉政(1678~1695) 岡山藩世子※画像なし

 

伊達吉村(1680~1752) 仙台藩第5代藩主

松平吉邦(1681~1722) 越前松平家。吉品養子。のち福井藩第8代藩主※画像なし

浅野吉長(1681~1752) 広島藩第5代藩主※画像なし

黒田吉之(1682~1710) 福岡藩世子※画像なし

 

徳川吉宗(1684~1751) 紀州徳川家藩主、第8代将軍

 

※吉宗の時代、1718年(享保3年)には、盗賊改と火付改は、「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立、加役から専任制になった。博打改は火付盗賊改ができた年に、町奉行の下に移管されている。大谷はどうしても人々を殺す法律を制定したがるということが分かるだろう。誰にも勝てないゆえに。誰にも好かれないゆえに。

誰にも勝てない誰にも好かれない大谷のような人間が好き勝手するには、邪魔者を排除する法律がどうしても必要なわけだ。法律があれば、例え大谷のように無力で無能な人間でも問答無用で邪魔者を排除できる。

 

上杉吉憲(1684~1722) 米沢藩第5代藩主

徳川吉孚(1685~1709) 水戸徳川家世子※画像なし

 

池田吉泰(1687~1739) 鳥取藩第3代藩主

柳沢吉里(1687~1745) 吉保の嫡子。甲府藩第2代藩主、大和郡山藩初代藩主

徳川吉通(1689~1713) 尾張徳川家。尾張藩第4代藩主

細川吉利(1689~1706) 熊本藩世子

二条吉忠(1689~1727) 二条家当主

前田吉徳(1690~1745) 加賀藩第5代藩主

 

蜂須賀吉武(1692~1725) 徳島藩世子

トマス・ペラム=ホールズ(1693~1768) 初代ニューカッスル公爵・第4代イギリス首相

 

※特に、蜂須賀吉武は1725年に死んだことにしてイギリスに渡り、トマス・ペラム=ホールズとして1754年にイギリス首相に就任している。蜂須賀吉武は首相に就任することで、その権威を以て家族が実施していたロンドンの人間狩りの犯罪を隠蔽した。

 

徳川宗尹(1721~1765) 吉宗の子

ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1720~1764) 第4代デヴォンシャー公爵・第5代イギリス首相

ジェフリー・アムハースト(1717~1797) イギリス軍将軍

 

※徳川宗尹はイギリスに渡り、ウィリアム・キャヴェンディッシュを演じた。生没年が1年違いなのが興味深い。また、キャヴェンディッシュはアムハースト将軍としてアメリカ植民地にも赴いた。アムハースト将軍は、インディアンは根絶されなければならないという発想を持っていた。彼は、幾つかのインディアン集落と平和協定を結んだが、天然痘の菌を染み込ませた布団、ハンカチを配布し、インディアンの集落を死滅させた。44歳で死んだことになっている徳川宗尹(キャヴェンディッシュ)は、結局、アムハースト将軍としてイギリスで80歳まで生きた。

 

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前田吉徳の子

 

前田重煕(1729~1753) 前田吉徳の子※画像なし

チャールズ・ワトソン=ウェントワース(1730~1782) 第2代ロッキンガム侯・第9代イギリス首相

 

前田重靖(1735~1753) 前田吉徳の子

ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク(1738~1809) 第3代ポートランド公爵・イギリス首相

 

前田治脩(1745~1810) 前田吉徳の子

長谷川宣以(1745~1795) 旗本、火付盗賊改役

 

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池田治道(1768~1798) 池田吉泰の曾孫

アーサー・ウェルズリー(1769~1852) 初代ウェリントン公爵・イギリス首相

 

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前田斉敬(1778~1795) 前田吉徳の孫※画像なし

ウィリアム・ラム(1779~1848) 第2代メルバーン子爵・イギリス首相

 

前田斉広(1782~1824) 前田吉徳の孫※画像なし

ロバート・ピール(1788~1850) イギリス首相

 

ディルク・スティッケル(1897~1979) ロバート・ピールの孫(NATO第3代事務総長)

 

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前田利命(1800~1805) 前田吉徳の曾孫※画像なし

エドワード・スミス=スタンリー(1799~1869) 第14代ダービー伯爵・イギリス首相

 

前田斉泰(1811~1884)

ウィリアム・グラッドストーン(1809~1898) イギリス首相

 

※前田斉泰とグラッドストーンは良く似ている。異母兄弟だろう。

 

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ハーバート・グラッドストーン(1854~1930) ウィリアム・グラッドストーンの子

ハーバート・ヘンリー・アスキス(1852~1928) イギリス首相

マンスフィールド・スミス=カミング(1859~1923) MI6初代長官

 

※ハーバート・ヘンリー・アスキス首相が秘密情報部(MI6)の創設を提唱し、影武者であるマンスフィールド・スミス=カミングがMI6初代長官に就任した。カミングは影武者だけにアスキスに良く似ているが、スパイという職務は影武者に相応しい仕事である。ハーバート・グラッドストーンは他の2人と似ていないが、3人ともジョン・グラッドストーンの子に間違いない。おもしろいことに、ハーバート・グラッドストーンよりも、アスキスの方がジョン・グラッドストーンに似ている。アスキスの由来はASS KISSだと考えられる。実に大谷らしい。

 

レイモンド・アスキス(1878~1916) ハーバート・ヘンリー・アスキスの子

ヒュー・シンクレア(1873~1939) MI6第2代長官

 

シリル・アスキス(1890~1954) ハーバート・ヘンリー・アスキスの子

スチュアート・メンジーズ(1890~1968) MI6第3代長官

 

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ハーバート・ヘンリー・アスキスの孫

 

エリザベス・シャーロット・ルーシー・アスキス(1897~1945)

ポール=アンリ・スパーク(1899~1972) NATO第2代事務総長

 

※スパークはエリザベスの影武者として生まれた異母兄弟である。幼少時は女子の格好をして影武者として働いた。その後、エリザベスが無事に成人するとスパークは影武者から独立した。

 

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ハーバート・ヘンリー・アスキスの曾孫

 

エドワード・ボナム・カーター(1960) ジュピター・ファンド・マネジメント副会長※画像なし

アレックス・ヤンガー(1963) MI6長官

アンドリュー・ウィッティー(1964) グラクソ・スミス・クライン製薬社長

 

※ヤンガー、ウィッティーはカーターの影武者として生まれた異母兄弟と考えられる。どちらもウソをつくための権威。ヤンガーはスクリパリ事件を指揮し、ロシア政府を攻撃している。

 

 

 



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