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一.福の神、現る

 チュン、チュンとスズメがさえずるよく晴れ上がったある日の朝、春とは名ばかりのまだ冬の気配がわずかに残る早春の頃。
 東京都下のほどほどの都市感に、ほどほどの下町感が残る街に、シャッターを降ろして二〇年近く経つ古びた食堂があった。
 その食堂の一室で四十がらみのおっさんがジャンバー姿のままだらしなくうつ伏せで寝ていた。その傍らには福々しい白猫が一匹、寄り添うように寝ていた。
「おい、起きろ! 起きんか!」
 突然、しわ枯れた声に無理矢理起こされたおっさんこと福住 誠(四十二歳)は、うつ伏せた顔をやっとの思いで上げた。
(んっ? おじいちゃん……?)
 うつ伏せのまま顔を上げた福住の目の前に、貧相で小汚い翁姿の小人が右手に釣り竿を持って偉そうに立っていた。
(ああっ……。いかん。やっぱり飲み過ぎた。死んだお爺ちゃんにそっくりな小人の幻覚まで見るなんて……)
 それほどまでに、この身の丈がわずか十センチ足らずの貧相で小汚い小人は福住の亡き祖父と瓜二つだった。
福住は昨夜、酔い潰れるまで飲んだくれて普段着のまま寝入ってしまった。
 そんな二日酔いで締まりのない顔をしている福住を、小人はキッと見据えて吠えた。
「ワシは福の神じゃ!」
(えっ? 何それ……?)
 福住は一瞬、呆気に取られて目をしばたいたが、何かの悪い夢だと思い、また寝ることにした。
「いい加減にしろ! 今、何時だと思っとるんじゃ!」
 この自称「福の神」の怒声と共に福住の頭に釣り竿が鋭く唸りを上げて振り下ろされた。
ヒュン! ビシッ!
「痛っ!」
 鞭でしばかれたような強烈な痛さに飛び起きた福住は両手で頭を抱えて、今自分の身に何が起こっているのか分からず、目を白黒させて顔を左右に振るばかり。
 酔い潰れた福住に寄り添って寝ていた真っ赤な首輪が映える福々しい白猫のミィーちゃんは、いきなり飛び起きた飼主に驚いて部屋の隅で身構えていた。
「どこを見ておるんじゃ! ここじゃ! ここ!」
 声のする方に目をやると、畳の上で自称「福の神」と名乗る例の小人が、福住を見上げて睨み付けていた。
(なっ、なんだ、この小人は?)
 福住が改めて目をしばたかせていると、まるで御伽噺に出てくるような翁姿の小人が眉を寄せて偉そうに、すぐ目の前の畳の上で立っていた。
 しかし、その装束は元の色が判らないほど薄汚れている上に、所々ほつれている。頭に被っている風折烏帽子のようなものも、形がかなり崩れている。
 無数の深いシワが刻まれたその顔は頬が落ち、薄汚れているせいか、顔色もあまり良くないように見えた。
 体付きと言えば、枯れた木立のように痩せ、とても「福の神」という言葉からから掛離れた姿だった。
(貧相で小汚い……)
 福住が思わず胸の裡でそう呟くのも無理はなかったが、次の瞬間、自称「福の神」は眉間に深いシワを寄せ、手にしていた釣竿を真一文字に素早く振り抜いた。
ヒュン! バシッ!
「ぐはっ!」
 今度は横面を思いっ切り張られた福住は、崩れるようにその場に倒れ込んだ。
 届くはずのない小さな釣竿で、どうして殴ることができるのか、福住は張られた頬に手を当てて身を崩したまま、目を丸くした。
「貧相で小汚いとは、失礼な奴じゃ! 神様をなんと思っておる!」
 自称「福の神」は目を大きく見開いて、福住を一喝した。

 福住と福々しい白猫のミィーちゃん、そして自称「福の神」は、以前「あけぼの食堂」と呼ばれた店の奥の部屋に居た。
 東京のとある下町の川沿いにある「あけぼの食堂」は、福住の亡き祖父母が切り盛りしていた。
 川を挟んだ向う岸には、大きな桜の木が食堂を見守るように、今も立っている。
 祖父の幸造が出す料理は大衆食堂では、よく目にするものばかりであったが、それに一手間を加え、ただの家庭料理を誰もが唸る逸品に変えた。そんな料理を誰にでも手が届く、お手頃価格で提供する地元に愛された名店であった。
 しかし、祖父・幸造が心不全で突然この世を去ると、祖母の寿賀子もその後を追うように亡くなり、食堂は閉じられた。
 閉店から二十年近くも経つと、人々の記憶の中からも次第にその姿は薄まり、降ろされたシャッターには、サビが浮き上がるほど古びてしまった。
 そして今、かつて名店と呼ばれた「あけぼの食堂」のなれの果ての奥の部屋で、居住まいを正した福住の目の前に、畳の上であぐら掻いた自称「福の神」の小言の嵐が吹き荒れていた。
「春とはいえ、まだ三月じゃ。夜は冷え込む。にも関わらず、冷酒あおって酔い潰れたあげく、薄汚れたジャンバー姿のままで寝入るとは……」
 自称「福の神」は頭を振りながら深い溜息を吐くと、顔を上げてきつい目で見据えた。
「まったく、だらしがない! 朝の九時も回っておるのにピクリともしない。お前、今自分がどんな顔になっているのか、わかっておるのか?」
 そう言って、自称「福の神」は張り倒した頬と反対の方を釣竿で指した。
 言われるままに福住が手で頬を触ると、いつもとは違う感じに違和感を覚えた。
(あれ? なんだ、妙にザラ付いた感じがする……)
 戸惑う福住を見て自称「福の神」は、また吐息を漏らした。
「畳の跡じゃ。畳の跡が付くほど、お前は惰眠を貪ったということじゃ」
 自称「福の神」はそんな福住を睨み付けながら、さらに耳をつんざく爆音並みの小言を炸裂させた。
「四十も越えた男が、そんなことでどうする! 心の乱れは、即、生活態度に表れる。憶えておけ!」
 そのミニサイズの身体から、どうやったらそんな大音量の声が出せるのか。軽く目眩を覚えるながら、福住は改めて居住まいを正し、恐る恐る訊ねた。
「あっ、あの、いいですか?」
「なんじゃ」と、小言が言い足りない自称「福の神」は眉を寄せたままだ。
「どうして、その小さな釣竿で殴れるんですか? 全然、届かないと思うんですが……」
「んっ? これか。小さく見えるが、まぁ、お前ら人の目では、こいつの本当の大きさなど測りようもない」
 自称「福の神」はそう言うと、釣竿を軽く振りながら、涼しい顔で言い放った。
「まあ、ワシが本気で振れば、ひと一人消し飛ばすくらい、雑作も無いことじゃ」
(しゃ、しゃれにならない! とっ、とりあえず、この場は仲良くしておこう……)
 強大な力を持った得体の知れないものと対峙しているような錯覚に執われた福住が思わずそう思うと、自称「福の神」はニンマリした。
「うん、その通り! 神様とは仲良くするものだ」
「えっ! どっ、どうしてわかったんですか! さっきも貧相で小汚いと思った途端、殴られましたが?」
 何を言っているのかまったく理解できず、目をパチクリさせる福住に、自称「福の神」はアゴを上げて得意げに言った。
「神仏は人の心の声を聞くことができる」
「はぁ?」
 これまた何を言っているのか理解できない福住に、やれやれといった顔で自称「福の神」は続けた。
「当り前じゃろ。人は誰も神仏の前では黙って手を合わせているが、毎日、毎日、入れ替わり立ち替わりやって来ては、胸の裡であれこれと頼みごとばかりを言う」
 ここで自称「福の神」は「ふんっ」と鼻で一息吐くと、豪快に言い切った。
「これでは、嫌でも心の声が聞えるように、なってしまうわ!」
 そして、改めて福住を見据えて、こう締め括った。
「福の神、なめんな!」
 叫ぶと同時に釣竿の柄でドン!と強く畳に突いた。
(決まった! 今、ワシは最高にイケてるに違いない。これで奴も、ワシを福の神だと認めざるを得ないじゃろう)
 ドヤ顔の自称「福の神」に、ドン引きする福住は苦慮していた。
(どっ、どうしたらいいんだ。変なことを考えただけで、あの危険な竿が飛んでくるし……。かと言って、このまま居座られても……)
 目の前で起こっている現実にどう対処していいのやら、答えを見出せない福住はオロオロするばかりだった。
 福住の煮え切らない様子が、癇に障った自称「福の神」は「チッ!」と舌打ちすると、例の釣竿の先を福住に突き付けた。
「なんなら、もう一発お見舞いしようか? あんっ!」
 とても神様とは思えない乱暴な物言いに、恐れを感じた福住はとりあえず「すみません」と頭を下げて、貧相で小汚い小人を「福の神」として認めることにした。
「やっと納得したようじゃな。ちなみに、ワシの姿はお前と、あの福々しい白猫にしか見えん」
 満足気に話す自称「福の神」は、部屋の隅で身構えているミィーちゃんを指差した。
 これを見た福住は瞬時にミィーちゃんとアイ・コンタクトを交わし、「ミィーちゃん!」と低く叫んだ。
 確かに竿で引っ叩かれたが、そもそもこの自称「福の神」に実体があるのか? 竿で殴られたのも、ひょっとしたら寝ぼけてどこかにぶつけたのかもしれない。まずはそれを確かめなければならない。
 飼主の意図をすぐに感じ取ったミィーちゃんは「ミャ!」と、短く鳴くと素早く、自称「福の神」の元に駆け寄った。
「んっ、ミィーちゃんというのか。あんな奴には、もったいないくらい福々しいのお」
 目を細めてミィーちゃんを見上げる自称「福の神」に、ミィーちゃんは容赦のない猫パンチで張り倒した。
ブン! ボコッ!
「ゲボッ!」
 まさかの一撃に面食らった自称「福の神」が思わず叫んだ。
「なっ、なにするんじゃ! いきなり殴るとは! 神様を何だと思っておる! 猫でも容赦せんぞ!」
 猫に不覚を取ってしまったことが余程悔しいのか、自称「福の神」は泪目になりながら、ミィーちゃんに怒りをあらわにした。
 そんなやり取りを福住が凝視していた。
 その視線に気が付いた自称「福の神」は(はっ! やられた!)という顔を福住に向けて吠えた。
「猫を使って確かめるな!」
 ここに至って福住はようやく、貧相で小汚い「福の神」の存在を認めた。


二.ダメ男の言い分

 住居兼店舗である「あけぼの食堂」は、店舗の奥に八畳二間と六畳一間が有り、それに台所と風呂、トイレが付いたシンプルな、昭和の香が漂う平屋作りであった。
 現在、福住は店舗側に近い八畳間で寝起きしている。
 その八畳間では、福の神が小ぶりな丸いちゃぶ台の上で、偉そうにあぐらを掻き、福住はその前で、スッキリと背の高い身体を縮込ませて正座をしていた。
(なぜ、ここに現れたんだ? どこから来たんだ?)
 とりあえず、「福の神」と認めてみたものの、福住の頭の中では、今も様々な疑問が泡沫のように浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。
「その様子だと、まだ納得しとらんようじゃな」
 福の神が不満げに訊くと、福住は素直に頷いた。
「はい、おっしゃる通りです。まったく訳が分かりません。いったい、どこから来たんですか?」
「あそこじゃ」
 福の神は事も無げに、テーブル席側の壁の上方に掛けられている台座に鎮座したホコリまみれの小さな神棚を釣竿で指した。
「あっ、確かあれは、おじいちゃんとおばあちゃんが毎日、手を合わせていた神棚……」
「そうじゃ。お前の爺さんと婆さんが毎日、心込めて掃除し、手を合わせていた神棚じゃ」
 福住は亡き祖父母が毎日、朝夕に手を合わせていた姿を思い出し、自分も子供の頃は、無邪気に祖父母のマネをして手を合わせていたことを思い出していた。
「あの……、やっぱり、おじいちゃんとおばあちゃんも、金儲けさせて下さいとか、もっと店を繁盛させて下さいとか、頼んでたんですか?」
 いきなり間抜けなことを口走る福住に、福の神は目を丸くした。
「お前、本当にあの二人の孫なのか?」
「へっ?」
「いいか、あの二人は朝には、『今日も一日、しっかりと働らかせていただきます』と、そして仕事を終えた夕には『今日も、一日しっかりと働き切ることができました。ありがとうこさいました』と、この二つしか聞かなんだわ」
 福の神は顔を顰めてそう言うと、改めて福住に聞き返した。
「おい、本当にあの二人と血が繋がっておるのか?」
「はぁ一応」と、自信なさげに答える福住を見て、福の神は吐息を漏らしながら訊いた。
「なぁ……お前、今までどんな暮らしをしてきたんじゃ? こんな古ぼけた店で酔い潰れるまで飲んだくれるには、それなりの訳があるんじゃろう」
「はい……」
 福住はポツリポツリと、ここに至るまでのことを話し始めた。
 幼い頃に福住は交通事故で両親を失っていた。
 不憫に思った祖父母である幸造と寿賀子は福住を引取り、老体に鞭打って大学を出るまでに育て上げた。
 卒業後、福住は店を継がずに会社勤めをするようになった。
 初めのうちは、福住はそれなりに働いたが、上司や同僚に恵まれていないとか、正当に評価されていないとか、勤め先で何かあると、なんのかんのと言っては、職を転々とした。
(ふむっ。どうやら、爺さんと婆さんの情が徒になってしまたようじゃな。二親を亡くした哀れな孫を、ついつい甘やかして育て上げてしまった。まぁ、無理もないことか……)
 福の神はそう読んでいたが、その通りだった。
 幼少期に我慢というものを学ばなかったため、この時期に福住のダメ男としての素地が作られた。
 学生時代も部活やバイトも長続きせず、社会人になっても、腰の落着かない生活が続いた。
 事の重大さに祖父母が気付いたときには、福住は口先ばかりの立派なダメ男になっていた。
 しかし、そんなダメ男にも転機が訪れる。
 それは、看護士・幸との結婚そして、長男・博樹の誕生だった。
 周囲の誰もが、福住が心を入替え、腰の座った生活を送るだろうと期待したが、ただ期待しただけに終わった。
 相変わらず、福住は失敗したり、辛いことがあると、周囲のせいにしては、決して己の非は認めない、プライドだけは高いダメ男のままであった。
 そして、ついに嫁に見放され、家からも追い出された。
 行き場を失った福住は、実家であるこの古ぼけた食堂に戻り、今は幼馴染が店長を務めるスーパー・トリイでバイトをしながら、細々と暮らしていた。
 一通り福住が話し終えると、福の神は蔑んだ眼差しを向け「ふんっ!」と鼻を鳴らした。
「自業自得じゃ」
「えっ!」
「つまらんプライドにしがみ付いて、自分に言い訳ばかりする逃げの人生を送ってきた結果だ」
「いっ、いや、しかし、自分なりに懸命にやってきたんですが、結果が伴わないというか、その何というか……」
「どこへ行っても、結果が出ないということは、お前の考え方や、やり方が間違っていたということだろう」
「いやっ、ですが……」
 尚も、自分を庇うように言い訳を並べる福住に、福の神は「はあ~~っ……」と大きく吐息を漏らし、ミィーちゃんは「また、始まった……」という顔をして、大あくびした。
「それだけ自分のダメぷっりを語れるということは、おまえ自身、自分がダメなことがわかっているんじゃろう。違うか?」
「うっ……」
「しかし、それを認めたくない。取るに足らんプライドとやらのせいでな」
「ちっ、違います! 私は決して……」
 食い下がるように福住が言い訳しようとすると、福の神は顔色ひとつ変えずにムチのようにしなる釣竿の一撃を食らわせた。
 ヒュン! ビシッ!
「痛っ!」
 頭を抑えて泪目になりながら、福住は居住まいを正した。
 そして、福の神は大きく胸を反らせて、力強く言い放った。
「大丈夫じゃ!」
「えっ! お金でも貰えるんですか!」
 福の神の言葉に目を輝かせた福住は、思わず大きく身を乗り出して福の神に顔を近づけた。
 その顔に、福の神は目をしばたたかせて大いに呆れた。
「馬鹿か、お前は。お金は自分で稼ぐものであって、神様から貰うものではない」
 どこまでも他人の金を当てにする、ダメ男の福住は両手を畳に着いて、大きく肩を落とした。
(こんな貧相で小汚い福の神に、少しでもご利益を期待した俺が馬鹿だった……)
「なんじゃと。もう一ぺん言ってみろ」
 どんなに貧相で小汚くても、福の神は福の神。人の心の声を聞くことができる。
 それを思い出した福住は、目を泳がせて否定した。
「いっ、いや。貧相で小汚い神様にご利益なんて、これっぽっちも期待していません!」
「お前、今、さらっと悪口言っただろう」
 不機嫌な福の神を見て、福住は慌てて話題を変えた。
「言ってません。それより、打出の小槌を振ったら、パーッと札束が降って来るとか、そんな凄いアイテムはないんですか?」
「打出の小槌だと? あっ、それは大黒天で、ワシは恵比寿天じゃ」
「へっ?」
 福住が意味不明な声を上げると、福の神はうんざりした。
「お前、七福神も知らんのか?」
「七福神……? ああっ、あの宝マークが帆に付いた、めでたい感じがする船に乗った七人の神様のことですか?」
「そうじゃ、その七人の神様の一人が、恵比寿天であるワシじゃ」
「では、打出の小槌を持っている神様は?」
「それは、大黒天で大地を掌握する農業の神様であり、財宝や福徳開運の神様として崇められておる」
「で、あなたは何の神様なんですか?」
「ワシか、ワシは漁業の神様で、特に商売繁昌の神様としても信仰を集めておる」
 福の神は自慢げに話したが、福住は少し残念な顔をした。
 どうせ出てきてくれるなら、手っ取り早くご利益に預かれそうな大黒天の方がよかったと思ったが、すぐに頭を振ってそれを打ち消した。そうしなければ、あの釣竿が唸りを上げて飛んでくる。
 そんなダメ男には構わず、福の神は一段と大きく胸を反らした。
「さっき、ワシが『大丈夫じゃ』と言ったのは、『ワシの言う通りにすれば、大丈夫じゃ』という意味だ」
 これを聞いた福住は、またしても大きく肩を落とした。
「なんじゃ、その、あからさまに残念といった態度は。何かあったのか?」
 福住には今すぐにでも、まとまった金が必要だった。
 それは、滞っている息子・博樹の養育費の支払を嫁・幸から迫られていたからだ。
 しかし、バイト暮らしの福住には、到底払えるものではなかった。
 それでも嫁は払えないなら、この食堂を売り払てでも、その金を作れと強く迫ていた。
 福住は息子のためにも養育費を何とか工面したかったが、亡き祖父母が大切にしてきた食堂や、子供の頃の思い出が詰ったこの場所は手放したくはなかった。
 話を聞き終えた福の神は口を半分開いて唖然としていた。
「どうして、そんな大事なことを、もっと早く言わん。お前、底抜けのアホだな」
 福の神に殴られっ放し、言われっ放しの福住は、うな垂れながらも、あることに気が付いていた。
 それは本来、恵比寿天にあるべき必須アイテムであった。
(何か足りないような気がする……?)
福住はそーっと顔を上げると、改めてちゃぶ台の上であぐらを掻いている福の神をジッと見た。
「なんじゃ。なんか文句でもあるのか?」
 ご機嫌斜めな福の神に、福住はおずおずと訊いた。
「あっ、あのーっ、いつも左の脇に抱えているものは、どうしたんですか?」
「いつも左の脇に抱えたものだと?」
「そうです。なんか赤ぽいやつです」
「ああっ、鯛のことか」
「今日は持ってないんですか?」
「うむっ、邪魔だからな。あそこに置いてきた」
 福の神は釣竿でホコリまみれの神棚を指しながら、事も無げに答えた。


三.一に掃除、二に信心

 翌日の朝九時、福住は福の神の命令で買ってきた掃除道具一式と共にあけぼの食堂の客席側にいた。
 食堂の店内は、出入口から左手に八人ほど腰掛けられる逆L字のカウンター席と、右手に四人掛けのテーブル席が四つほど並んだ、小ぢんまりとした作りになっている。
 シャッターが閉じられた店内を、時代を感じさせる電灯がぼんやりと照らしていた。
 そんな店の中で福住はチープなパイプ椅子に掛けてテーブルに片肘付きながら、カウンターに置いてある掃除道具一式と、それを物珍しそうに嗅いでいるミィーちゃんの姿をぼんやり眺めていた。
(なんで、福の神の口車に乗ってしまったのだろう……)
 なぜ、福住がこう胸の裡でほやくのか。それは昨日の福の神との出会いにさかのぼる。

 福住を散々やり込めた後、福の神はちゃぶ台の上から、息子の養育費を捻出するために、あることを勧めた。
「お前、この食堂を再開させる気はないか?」
「えっ?」
「調理道具も一通り揃っておるし、冷蔵庫などの設備も手入れすれば十分使える。何より、家賃を払う必要がない」
「むっ、無理です。調理師免許はもちろん、料理の経験もほぼゼロですから」
 福住は両手を前に出し、頭を振って思いっきり拒んだ。
 食堂を営んでいた祖父母の孫にも関わらず、もっぱら食うだけのダメ男である福住にとって、料理は自分で作るものではなかった。
「飲食業をやるのに、別に調理師免許は必要ない。食品衛生責任者になればいいだけじゃ」
「食品衛生責任者?」
 調理師免許を持っていなくても、飲食店は開ける。
 また、調理師免許を持っている料理人を雇う必要もない。特別な資格がなくても、仕事として調理をすることはできる。
 しかし、必ず必要となるのが、福の神の言った「食品衛生責任者」である。
「食品衛生責任者」とは、食品衛生上の管理運営に当ることを職務とし、飲食店を営業する場合には、必ず店に一人置かなければならない。
 また、飲食店の開業時には、保険所に「食品衛生責任者」の届出が必要になる。「食品衛生責任者」になるには、各都道府県で実施している講習会を受けるなければならない。受講料は一万円程度で、講習期間は通常一日である。
「どうじゃ。そう難しい話ではないだろう」
 福の神はそう言って、アゴヒゲを撫でた。
「でも例え、食品衛生責任者のなったとしても、肝心の料理はどうするんですか? さっきも言いましたが。俺、こう見えても作ったことありませんから」
 福住はどこか偉そうにキッパリと言ったが、ただ単に面倒なことから逃げたいだけだった。
 人間誰しも、やったことのないことや、よく知らないことには尻込みするものだが、ダメ男の場合、なんのかんのと言って、見苦しいまでに逃れようとする。
 そんな福住を気にも留めずに、福の神は続けた。
「大丈夫じゃ。お前のようなへタレでも作れるものがある」
「えっ? そんな都合のいいものが、あるんですか?」
「ああっ、ある」
「なんですか、それは! ぜひ、教えてください!」
 先ほどまでの及び腰とは打って変わって、福住は福の神の言葉に飛びついた。
 ダメ男は常に損得勘定で動く。この節操の無さによって、自分に有利だと分かると、すぐに手の平を返す。
「うむっ。それは、『ねこまんま』じゃ!」
 福住は自分の耳を疑った。そして、固まった。
(ねっ、ねこまんまてっ……。貧相な神様らしい提案だが……)
 満を持して言い放った福の神は、この心の声を聞いてムッとした。
「貧相な神様らしい提案だと。お前、ねこまんま馬鹿にしとるじゃろう」
―ねこまんま―
 一昔前なら、とても料理と呼ぶには憚られる、別名「ぶっかけはん」のことである。
 しかし、その登場は古く、戦国時代にまで遡る。
 関東を治めていた時の戦国大名・北条氏康は、嫡男である氏政が飯に汁を二回掛けるのを見て「飯に掛ける汁の量すら、わからないとは、北条氏もこれまでか」と吐息を漏らして嘆いたという逸話が残っているぐらい古い。
 福の神はそんなことも知らない福住を、小馬鹿にするような目で見ていた。
「お前、今のねこまんまを知らんから、そんな風に思うんじゃ」
「えっ?」
「いいか、元々、手軽で簡単に誰にでもできる上に、ちょっとした工夫一つで、無限の広がる品数の楽しさも味わえる。こんな料理、そうはないぞ」
 福の神の言う通り、今やねこまんまは、料理の一つのジャンルとして確立してる。
 ネットでは、レシピサイトが一項目として掲載し、多くの人が利用している上に、削り節派・味噌汁派の対立が話題になっているとか。
 だが、福住には想像できなかった。ダメ男の頭の中には、残り物やみそ汁をぶっかけた貧相なイメージしかなかった。
「でも、所詮、ねこまんまでしょ。そんなもんで食堂を開くなんて、無茶です」
「根性も技量もないお前にでも、できる料理じゃ。それにできるものが他にあるのか?」
「うっ……」
 何も言い返せない自分が情けなくなった福住は、そのまま黙り込んでしまった。
「ドイツの詩人、ゲーテはこう言っている。『見解が違う主張や、よく知らない意見に対して、自分のイメージする鋳型にはめ込んで、劣悪なものする悪習は、誰しも陥りがちな罠である』と」
 唐突に現れたゲーテの名言に目をしばたたせる福住に、福の神はこう付け加えた。
「要は、余計な思い込みを捨てて、ありのまま受け入れろということじゃ」
「しかし、ねこまんまだけの食堂なんて、やはり、無茶というか、無謀というか……」
「では、聞くが、どうやって嫁に迫られている息子の養育費を用立てるんじゃ? 他に何か手立てがあるのか?」
 往生際の悪いダメ男に福の神は問いただしたが、今の福住には、この食堂以外に何もなかった。
 強いてあるといえば、嫁に家から追い出されたときに、付いて来てくれた福々しい白猫のミィーちゃん一匹だけだった。
 煮え切らない主の姿を見ていたミィーちゃんもちゃぶ台に上り、福の神の隣に腰を降ろして「ミャーン!」と鳴いた。
「ほれ、ミィーちゃんも勧めているぞ」
 情けない主に付いて来てくれた心優しいミィーちゃんの姿を見ている内に、福住は改めてこれまでのことを思い返していた。
 自業自得とはいえ、腰の落着かない生き方に、嫁からは愛想を尽かされ、家からも叩き出された。今や、幼馴染が店長を勤めているスーパーのバイトで細々と食い繋ぐ日々。
(もう、落ちる所まで落ちたんだ。後は上がるだけだ……)
 そう開き直った福住は居住まいを正すと、畳に両手を着いて福の神を見詰た。
「飯の炊き方一つ知りませんが、よろしくおねが致します!」
「えっ! そこからなのか?」
 畳に額を着けて教えを乞う福住に呆れながらも、福の神は満足そうに頬を緩めた。
「まぁいい。謙虚に教えを乞うことは、いいことじゃ。では、掃除から始めるから、明日の朝までに掃除道具一式買って待っておけ」
「はいっ、わかりました。掃除から……?」
 顔を上げて聞き返す福住の額には、またも畳の跡が付いていた。

 そして今、朝から福住は買ってきた掃除道具一式と共に福の神を待っていた。
(確かに、おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってから、ちゃんと掃除もしていなかったな……)
 福住はお盆と暮れ、そして春・秋のお彼岸には、テキトーに墓参りを済ませた後、食堂に立ち寄り、仏壇とその周りもテキトーに掃除をしていた。つまり、手を抜いていたということである。
「待たせたな。ちゃんと買ってきたか?」
 その声に福住が振り返ると、軍手をはめて、顔の半分を覆った大きなマスクを付けた福の神が竿を片手に奥の部屋で立っていた。
(なんか、違和感がある。軍手とマスクもそうだが、なぜ、今日も鯛を持っていないんだ?)
「お前、鯛にこだわるなぁーっ。あんなもの、ただの象徴じゃ。実用性はない。だから神棚に置いてきた」
「えっ? 実用性がないからって、え――っ!」
あんたがそれを言うのかい! それ言っちゃダメでしょう! その象徴あってこその恵比寿天じゃないのか! その鯛を抱える姿にこそ、人々はありがたみを感じるんでしょう! 第一に、あんた自身が象徴でしょうが!
 と、福住は次々に心の中で突込み倒した。
 しかし、「それを言っちゃ、お終いよ」的なことを口にしても、平然としている福の神を見て、福住は日本全国いる恵比寿天信者たちのためにも、聞かなかったことにした。
「何ブツブツ言っとる。早くせんと、日が暮れるぞ」
「早くせんと、と言っても厨房と客席に、あとトイレぐらいでしょ」
「馬鹿なのか。そんなこと当り前じゃ。ワシが言っとるのは、店舗部分も含めた、この家全体の掃除ことだ。それも徹底的にな!」
「えっ? 俺一人で全部やるんですか! 無理! 無理! 無理です! 神様は手伝ってくれないんですか!」
 目を剥いて猛反発する福住に、福の神は顔色一つ変えず手にしていた釣竿を下から上へと、軽く振り抜くと、
シュ! ビシッ!
「あがっ!」
 見事に福住のアゴを打ち抜いた。
「神様に掃除を手伝わせるとは、不謹慎にも程がある!」
 打ち抜かれたアゴに手をやりながら、福住は泪目で訴えた。
「じゃ、なんで軍手をはめて、マスクを付けてんるんですか!」
「んっ? それは掃除をすれば、当然ホコリぽくなる。だからマスクは必要じゃ。軍手は……」
 福の神はアゴヒゲを撫でながら、少し間を置いた。
「そじゃな、気分だ。雰囲気作りと言ってもいい。『これから掃除するぞーっ!』的な」
 神々しさなど微塵も感じられない物言いに色を失う福住を気にも留めずに、福の神は何か思い出したように一言付け加えた。
「あっ、そうそう。神棚は特に念入りにな」
 そう言うと、福の神は釣竿を振りかざしながら吠えた。
「それ、まずは便所からじゃ! 掛かれ!」
(マッ、マジで、全部やるのか! これじゃ、年末の大掃除と変らん! えらいことになってきた……)
 年末の大掃除など、いつも嫁任せにしてきた福住も、「ねこまんま」専門とはいえ、飲食店をやるのだから、清掃は必要だと思っていたが、せいぜい厨房とカウンター、客席にトイレぐらいで十分だと考えていた。
 しかし、何事に対しても手を抜こうとするダメ男の甘い考えを、福の神は粉砕した。
 福住はテーブル席の奥にある店舗用のトイレのドアを開けると、薄っすらと蓋にホコリが被った洋式便器があった。
 そんなことにはお構いなしに、福住は蓋と便座を上げてトイレ用の洗剤を便器に勢い良くぶちまけ、百均で買った新品のブラシで擦ろうとした。
 ヒュン! バシッ!
「痛っ!」
 頭を抱えて福住が目をつり上げて振り返ると、そこにはあぐらを掻いた福の神が宙にふわりと浮いていた。
(うっ、浮いている……?)
 顔を強張らせて大きく目を見開いている福住など、お構いなしに福の神が訊いた。
「お前、なぜしばかれたのか、分かるか?」
 福住にしても、いきなり目の前で浮かんでいる福の神に驚くのはもちろん、なぜ、自分が叩かれたのか、まったく分からなかった。
「物事には手順というものがある」
福の神は落着いた口振りでそう言うと、
「いきなり、便器を擦るやつがあるか。便器に洗剤を掛けたら、そのままにして、まずはドア・ノブを拭く」
 福の神に曰く、便所掃除にも、ちゃんと手順がある。
 予め、汚れても構わない布や雑巾を二・三枚と水の入ったバケツを用意しておく。代用品としてトイレシートでもよい。
 ドアノブとドアを拭き、そのまま床に移る。手前の床から奥へと拭き進み元に戻る。
 そして、よいよ便器本体の掃除へ移る。
 洗剤の付けている部分を丁寧にブラシで擦る。汚れがひどい所は、クレンザー系の洗剤を使えば、頑固な汚れも落しやすくなる。便器の中を掃除したら、外側を丁寧に拭いていく。最後に壁を拭いて掃除を終える。
 便所掃除一つ疎かにしない、そんな福の神の重厚な語りに、福住は神妙な顔付きで聞き入った。
「お前、今まで便所掃除一つまともにやったこともないんじゃろう。さぁ、言われた通り、さっさとやれ!」
 言われるままに、福住は百均で購入したトイレシートでドア・ノブとドアを拭き、ビザを着いて床に移った。
「心を込めて丁寧にな。んっ、そうじゃ」
 頭の上から福の神の声がする度に、福住の心はザワついた。
(少しでも手を抜いたら、必ずあの釣竿が飛んでくる……)
「その通りじゃ。手を抜くなよ」
「はっ、はい……」
 妙な緊張感の中で、なんとか便所掃除を終えた福住は、「ふーっ」と大きく息を吐いた。
「おっ、終わりました」
「どれどれ」
 フワフワと浮かびながら、掃除のチェックをする福の神の口元が緩んだ。
「んっ、初めてにしては上々じゃ。次は厨房じゃ」
「へっ? 少し休ませてください。便所掃除で腰や膝が悲鳴を上げてるんで」
 背が高く痩身の福住は腰に手を当てて伸ばしながら、苦笑いを浮かべて福の神に頼んだ。
「んっ? なんか言ったか」と、福の神は無表情なまま釣竿の先を福住に突き付けた。
「いえっ、なんでもありません……。すぐに取り掛かります……」
 福住は力なく答え、新品のバケツと布巾、それにゴミ用の大きなポリ袋を持って、トボトボと厨房に向った。
 厨房にあるグリルやシンクなどには、祖父母が亡くなった後、福住がホコリが被らないように白い大きな晒しを掛けていた。
 あまりホコリが立たないように、慎重に晒しを取ると、そこには二十年近くの月日が経ってるとはいえ、手入れが十分に行届いていた厨房機器がその姿を現した。
 それを福住は、まるでそこに在りし日の祖父母・幸造と寿賀子が居るかのようにジィと見詰ていた。
「お前の爺さんが毎日、心を込めて手入れしとったからな」
 振り返ると、あぐらを掻いて宙に浮いた福の神が、懐かしそうに語りながら福住のすぐ後にいた。
「さっきの便所もそうだが、お前の爺さんと婆さんが毎日、しっかりと掃除しとったから、あの程度の掃除でも見違えるようになる」
 そう言われた福住は、さっきの便所掃除を思い返していた。
(確かに、そんなにひどい黄ばみや黒ずみはなかったな。普通にホコリを拭いて、便器の中をブラシで擦るだけで済んだ……)
「まぁ、亡くなった爺さんと婆さんに感謝することだな」
 そう言うと、福の神は再び釣竿を振り上げて吠えた。
「頑固な油汚れや食べカスもないようじゃし、さっさと、ここも片付けてしまえ!」
 福住はバケツに水を張ると中に洗剤を注ぎ、真新しい布巾を浸けた。
 そして、固く絞った布巾で厨房の中にある機器と調理道具をすべて丁寧に拭き上げ、床も新品の箒で綺麗に掃き上げた。
 それを頭の上から、満足気に見ていた福の神は大きく頷いた。
「うむっ。やれば、できるではないか! その調子で今度は客席側じゃ!」
「はい!」
 勢い良く返事をした福住は、その勢いそのままにカウンターを拭き上げると、踵を返して獲物を狙うような目付きでテーブル席側の掃除に取り掛かった。
 福住はカウンターの真上の小さな壁に貼ってあるお品書きを、軽やかな手付きですべて引き剥がし、テーブル席側の壁に貼ってあったお品書きもすべて剥がした。
 薄っすらと変色したそれらをポリ袋へ投げ入れると、固く絞った別の布巾で天井から電灯、壁へスムーズに移りながら、手を抜くことなく丹念に拭き上げた。
 福住の無駄のない動きに、宙を舞う福の神は目を細めて、釣竿を振り回しながら、大いに煽った。
「おお……っ。見事、見事! さすがじゃ!」
 近くで主を見守っていたミィーちゃんは、宙に舞う福の神を目で追いながら、しきりに手を出そうとしている。
「ミャーーン!」
「んっ? ミィーちゃんか。後で遊んでやるから、今しばらく待ってくれ」
 そんな他愛もない神様と猫のやり取りなどそっち退けで、福住は四つテーブル席すべてを拭き上げ、床も隅々まで掃き上げた。
 そして、最後にテーブル席側の壁の上方にある台座に鎮座した小さな神棚を念入りに拭き上げた。
 店舗部の掃除を終えた福住の額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。それを手で拭いだ福住は、コンビニで買った五〇〇mlペットボトルの水を一気に半分まで飲み干した。
(ふーっ。んっ、水って、こんなに美味かったけ?)
「どうじゃ。掃除の後の水は格別じゃろう。違うか?」
 相変わらず、宙に浮いたままの福の神がニヤニヤしながら近寄ってきたが、今の福住はそんなことなど気にすることもなく、グッとアゴを引いた。
「さあ、一息吐いたら残り半分! 住居部の掃除じゃ! 掛かれ!」
「はい!」
 掃除道具を手に、福住は勢い良く店舗奥の住居部へ向った。
(あれっ? 俺、なんか乗せられている……? まあっ、いいかっ。今いい感じできてるし……)
 ダメ男は調子に乗りやすい。そして、あまり深く物事を考えない。
 しかし、今回は福の神が、いい方に転がしたようである。
 いつの間にか、福住は時間が経つのも忘れて、一心不乱に住居部の掃除していた。風呂、トイレに台所はもちろん、八畳二間と六畳一間、そして、亡き祖父母を奉った仏壇と、脇目も振らずに掃除に集中した。
 すでに夕方の六時も過ぎ、外はすっかり日も落ち、夜の暗がりがすぐそこまで来ていた。
 店舗部のすぐ奥にある八畳間で、最後の一拭きを終えた福住は、額の汗を拭うと、つい先ほどまで掃除をしていた厨房や客席に眼をやった。
(なっ、なんだ、この清々しさは! 身体はクタクタなのに、気持が軽くなったというか、心が落着く……)
 二十年近くもの間、薄っすらホコリを被って眠っていた食堂は、かつての侘しさが消え、経年劣化は否めないが、どこか柔らかな空気に包まれていた。
 幼い頃から見慣れていた光景のはずなのに、つい見入ってしまう。
そんな今まで味わったことのない、妙な感動を憶える福住の元に、マスクと軍手を外した福の神がミィ―ちゃんの背に乗って現れた。
 その姿に、福住は目を疑った。
 ミィーちゃんはとても警戒心の強く、家族以外には容易に懐かない。そんなミィ―ちゃんを福の神は一日たらずで背に乗せるにまで手懐けていた。
(ふっ、福の神、恐るべし!)
 この心の叫びを耳にした福の神は、勝ち誇ったように福住を見上げた。
「ふふんっ。ワシとミィーちゃんは、もう仲良しじゃ」
福の神が鼻を鳴らしてそう言うと、手にしていた釣竿の先を福住にピッ!向けて言い放った。
「福の神、なめんな!」
 ミィ―ちゃんが福住の前で腰を降ろすと、福の神は後ろ向きで滑り台を滑るように、ミィ―ちゃんの背から滑り降りた。
 トン!と軽く音を立てて畳に着いた福の神は「ご苦労さん」と、相好を崩してミィ―ちゃんを優しく撫でた。
 福の神は改めて、掃除具合をチェックした。
「うむっ、ようやった。どうじゃ、掃除はいいじゃろう」
「あのーっ、さっきみたいに宙に浮かないんですか?」
 中に浮いたり、猫の背に乗ったりと、今まで見たこともない光景に福住は目を丸くしていた。
「ああっ、あれか。あれは、結構骨が折れるんでな、ミィーちゃんに乗せてもらった」
「…………」
「そんなことより、掃除をすると、スーッと心が和むじゃろう」
「ええっ、なんか気持が晴れるというか、軽くなりますね」
「お前は知らんじゃろうが、仏教には『一に掃除、二に信心』という教えがある」
「えっ? なんで神様が仏教の教えを知ってるんですか?」
「うるさい! 細かいことは気にするな! 黙って聞け!」
―仏の教えを語る福の神―
 この一風変わった組合せに、少し違和感を憶えながらも、福住はとりあえず耳を傾けることにした。
「まぁ、仏教と言えば、まず仏像を拝んだり、お経を唱えたりすることが頭に浮かぶが、この『一に掃除、二に信心』という教えは、それよりも『まずは掃除をして、身を清めることから始めなさい』と、教えておるんじゃ」
「身を清める?」
「そうじゃ、掃除というものは結構奥深いものでな、日々の暮らしの中で、色んなものにまみれて、重たくなってしまった心を軽くしてくれる」
「そっ、掃除が?」
 まさか、掃除にそんな効能があるとは、思いもしなかった福住に、福の神は静かに語った。
「心を軽くする、言い換えれば、鈍くなった感性を、今一度磨き上げて、真っ白にするということじゃ。そうすれば、今まで感じ得なかったことにも、素直に感じることができるようになる。掃除には、それくらいの力があるんじゃ」
 福の神はそう言いながら、釣竿で店舗部を指した。
「お前もさっき、この光景を見て感動していただろう。それだけ感性が鋭くなって、ありのままを素直に受けいることができるようになったんじゃ」
 福住は福の神の釣竿が指す店舗部見て、先ほど感じた妙な感動を思い返した。
(そう言えば、さっきなんか不思議な感じがしたな。何か呼び覚まされたみたいな……)
「掃除というのは、それくらい人の心の有り様を変える力があるんじゃ。美しいものに出会っても、心が重たいままなら、何も感じることができずに、見過ごしてしまうだろう」
「…………」
「だから、まず掃除をするんじゃ、毎日な」
「えっ! これ、毎日やるんですか!」
「そうじゃ。嫌なら、これじゃ」
 そう言うと、福の神はニヤリと口元を緩めながら、底意地の悪そうな目付きと共に、釣竿の先を福住にピッ!突き付けた。
(うわっ、出た! 最終兵器!)
 これまで散々、引っ叩かれてきたせいか、その竿を向けられると思わず、圧倒されてしまう福住であった。
「わっ、わかりました! 毎日やりますよ!」
 福住は半ばヤケグソ気味に返事をしたが、これも「掃除の効能」なのだろうか。福の神のある小さな変化に気付いた福住は、首を傾げていた。
(あれっ? なんか違う。少し小マシになったというか……?)
 よく見ると、福の神の薄汚れていた装束がほんの少しだけ元の色を取り戻し、ほころびが少なくなっている。風折烏帽子の崩れも、初めほど酷くはない。何より、顔色が明るくなった。
 そんな福住の視線が気になったのか、福の神は眉を寄せた。
「なに、ジロジロ見とるんじゃ」
「いやっ、気のせいか、服が少しだけ綺麗になってませんか? 顔色も良くなったというか……」
「なんだ、そんなことか。ワシはあの神棚と繋がっとるんじゃ」
 涼しい顔で福の神は、福住が念入りに掃除をした神棚を釣竿で指した。


四.初めての『ねこまんま』 其の壱

 三月も半ばを迎えると、対岸の大きな桜の蕾もほころびだし、食堂の周りにも、次第に春らしい空気が漂い始めていた。
 昨日の朝と同様、福住はテーブル席にいた。
(福の神の言う通り、掃除は毎日やるもんだな……)
 そうしみじみ思いながら、掃除の行届いた店内を満足げに眺めていた。
 古ぼけてはいるが、どこか懐かしい柔らかな雰囲気に包まれた店内のカウンターには、昨日の掃除道具一式とは違い、今日は五キロの米袋と出汁用の削り節と味噌、豆腐、乾燥わかめ、長ねぎ、それに塩、醤油などの調味料とキッチンペーパーが置かれていた。
「おいっ、米と味噌の用意はできておるのか?」
 例のしわ枯れた声のする方に振り返ると、店舗のすぐ奥にある住居の八畳間に、ミィ―ちゃんの背に跨った福の神がいた。
 慌てて席を立った福住は、カウンターに置かれた米と味噌一式を指差した。
「ちゃんと買って、あそこに用意してあります」
「うむっ、そうか。ふむふむ。言い付け通り、掃除も手を抜かずに、できてるようじゃな」
(やってなきゃ、あのムチのような釣竿でしばかれるからな……)
 変な緊張感に晒される福住をよそに、福の神はミィ―ちゃんに乗りながら悠然と店内を回って、掃除具合をチェックしていた。
 一通り、掃除具合をチェックし終えた福の神が「ご苦労さん」とミィ―ちゃんに声を掛けると、今度はフワフワと宙に浮き始めると、
そのまま米袋の置いてあるカウンターに、音も立てずに降りた。
 福の神を送り届けたミィーちゃんは、テーブル席のパイプ椅子にヒョイと飛び乗ると、そこで毛づくろいを始めた。
 カウンターで用意された食材を眺めながら福の神は改めて訊いた。
「では、米の炊き方だが、お前本当にやったことがないのか? ここは食堂だったんだぞ」
「はい! まったくやったことがありません!」
 悪びれることもなく元気良く返事をする福住に、呆れる福の神は五キロの米袋を持って厨房に入るよう促した。
 あけぼの食堂では、二升用の業務用ガス炊はん器を使っていた。
 福住が炊飯器から黒々と使い込まれた釜を取り出すと、
「よし、まず米の量り方だが、米一合は約一五〇グラム、一升は十合じゃから約一・五キログラムになる。憶えておけ」
「はい! えーっと、書くものはと……」
 メモを取ろうと辺りを探す福住の頭の上に、釣竿が容赦なく飛んで来た。
 ヒュン! ビシッ!
「痛っ! なっ、何するんですか! せっかくメモを取ろうとしてんのに!」
「そんなもの要るか! 胸に刻め!」
「…………」
 目を剥いて怒鳴る福の神に、福住は沈黙するしかなった。
「この程度のことで、いちいちメモなど取るな。時間の無駄じゃ!さっさっと、そこの計量カップで二升ほど量れ!」
 いきなり出鼻を挫かれて「はい……」と元気なく答える福住は、米袋を開けて二升の米、約三キログラムを量り、それを炊はん器の釜の移した。
「次に洗米じゃ。近頃の精米技術は向上しておるから『米を研ぐ』というよりは『米を洗う』という感じでやればよい。まずは水を多めに入れて軽く洗うんじゃ」
 言われた通りに福住は、釜に多めの水を入れ、無造作にその中に手を入れた。
「冷たっ!」
 慌てて手を引いて、フーフーと温かな息を吹き掛ける福住向って、福の神が平然と言った。
「春とはいえ、まだ三月。水がまだ冷たいのは当り前だが、米を炊くには好都合じゃ」
「えっ? そうなんですか?」
「昔から『米は冷たい水で炊くと美味くなる』と言ってな、冷たい水でじっくりと炊き上げると、甘みが増す」
 福住は深呼吸すると、改めて掻き混ぜるように米を洗い、「うんっ!」と気合いを入れれて、米と水でさらに重くなった釜を抱えてすぐに水を捨てた。
「うん、そうじゃ。糠臭い水が米に染み込んでは台無しじゃ。あとは三、四回水を取り替えながら洗えばいい」
 なんとか、二升の米を洗い終えた福住が、額に滲む汗を拭きながら訊いた。
「水が透明になるまで洗わなくていいんですか?」
「少し濁っているくらいが丁度いい。あとザル上げはやるな」
「ザル上げ?」
「ザル上げを必要とするのは、大量に米を研ぐ必要がある店や、土鍋を使うために水加減を正確に量りたい場合とか、とにかく使い所が限られている。普通の家庭はもちろん、こんな小さな食堂には必要ない」
「へぇーっ」と感心する福住に、福の神は「お前、『ザル上げ』も知らんのか?」と訊くと、「今、初めて聞きました……」と、頭を掻きながら福住はバツが悪そうに答えた。
「ふっ、まぁよい。次は水加減じゃ。米の重さの一・二倍の水を加えてやる。まぁ今回は二升だから、三六〇〇ミリリットルぐらいでいいじゃろう」
 初めての洗米に滲む汗を拭きながら、福住が一〇〇〇ミリリットルの計量カップで量った水を釜に入れると、福の神は次の指示を出した。
「しばらくそのまま、浸漬しておけ」
「『しんせき』? 何でいきなり親戚が出てくるんですか?」
「アホか、米を水に浸すことだ。冬場なら一時間から二時間、夏場なら三十分から一時間ほど水に漬けてるんじゃ。今は春先じゃから、そうじゃな、四十五分といったところかな」
「えっ! そんなに漬けるんですか?」
「水に浸しておくと、米の芯までたっぷりと水が行渡る。水を含んだ米は炊き増えし、ふっくらとした炊き上がりになるんじゃ」
 米など、まともに炊いたこともない福住は、目を白黒させていた。
「さっき言った水加減にしても、米の重さの一・二倍はあくまでも一つの目安じゃ。米の種類や古米・新米で微妙に違う。まあ、ここら辺りは身体で覚えるんじゃな」
「米一つ炊くにも、とても手間が掛かるんですね……」
 福住が水に浸した米を感心しながら見詰めて言うと、福の神は遠い目をしていた。
「そうじゃな、お前の爺さんと婆さんは、こういうことを文句一つ言わずに毎日、淡々とやっとがな」
 福住は申し訳なさそうに、頭を掻いて「はあ……」と目を伏せた。
 そんな福住の姿を、福の神は横目でチラリと見た。
「米を炊くまで少し時間があるから、お前の知らない爺さんと婆さんの姿を教えてやろう」
「えっ? おじいちゃんとおばあちゃんのことですか? 俺のしらない?」
「そうじゃ、二人の生き方と言ってもいい」
 福の神はさらに遠くを見るような目付きになると、静かに話し始めた。
「二人の生き方の基本は、『知足』じゃった」
「『ちそく』? なんですか、それ?」
「お前、本当にものを知らんな。仏教の教えの一つでな、『知足』とは、『足るを知る』ということじゃ」
 目を大きく見開き、呆れ顔で福住を見ていた福の神は、「ふっ」と、鼻から小さな吐息を漏らすと、改めて二人のことを語り出した。
 福住の祖父・幸造は、若き日に赤坂にある名の通った料亭で研鑚を積み、そこの板長にまで上り詰めた。
 しかし、客の顔が見えない板場で作る料理に、言葉では表せない違和感も持ち続けていた。
 確かに女将さんや仲居さん達が「とても、喜んでらっしゃいましたよ」と、笑顔で空になった器を返しに来るが、それを見るたびに幸造の侘しさは募るばかりだった。
 時折、客間に呼ばれて「板長、今日は楽しませて貰いましたよ」と、お大尽から笑顔で声を掛けられるが、(俺が見たい笑顔じゃねぇ……)と、心を曇らせた。
 ある日、幸造は妻・寿賀子に「客の喜ぶ顔を見ながら、料理が作りたい。それも小じゃれた店じゃなく、誰でも気軽に出入できる大衆食堂がやりたい」と、今まで胸の中でモヤモヤと溜まっていたものを明かした。
 寿賀子はこれを快く承知し、「子供も独り立ちしたし、残りの人生あんたの好きなようにやれば」と、夫の背中を押した。
 そして、幸造と寿賀子は、とある下町の、対岸に大きな桜の木が見える場所に「あけぼの食堂」出した。
 食堂の切り盛りは、一流料亭のそれとはまるで違っていた。
 料亭にいた頃は旬の高級食材が当り前のように手に入ったが、市井の大衆食堂では、そうはいかない。
 初めは戸惑っていた幸造も次第に慣れてくるようになると、大衆食堂の親父の身の丈に合った食材に、一手間加えた料理を作るようになった。
 無いなら、無いで構わない。手に入らないものを無闇に求めて心を尖らせることもなく、手に入ったものに感謝し、それに己が今まで培った技量と経験を注ぎ込む。
 ありきたりの品ばかりではあったが、そうした想いで出された料理に客は「んっ!」と、唸って美味そうに頬張った。
 幸造は、そんな客の姿に目を細め、寿賀子もそんな夫を頼もしく感じていた。
 二人の暮らしは決して裕福なものではなかったが、「もっと、もっと」と悪戯に求めて苦悩を背負い込むようなことはしなかった。
 目の前にある日々の暮らしをありのままに受け入れ、「これで十分」と感謝する。まさに「足るを知る」を地で行くように、心穏やかに食堂を営んでいた。
「それが、二人の暮らしの根だった」
 そう言うと、福の神は遠くを見る目のまま話を終えた。
―知らなかった……。
 おじいちゃんとおばあちゃんがそんな想いで、食堂をやっていたなんて、知らなかった。少しも……。
 小さい頃から毎日顔を合わしていたのに、どうして気付かなかったんだ……。
 俺は一体、何を見ていたんだ……―
 初めて聞かされる亡き祖父母の姿。福住は自分の鈍感さに嫌気がさしていた。
 そんな主の気持ち知ってか知らでか、毛づくろいを終えたミィーちゃんは、パイプ椅子でまったりと箱座りしていた。
 少し重くなった空気を察したのか、福の神は軽い口調で話し掛けた。
「しかし、なんだな、これだけ立派な心構えで日々送っていても、いざ、身内のこと、孫のこととなると、つい甘やかしてしまう。人とは分からんもんじゃな」
「…………」
 福の神に話し掛けられても、返事ができないほど、福住は落ち込んだままになっていた。
「おい、今さら、どうこうできる話しではないだろう。それより、米もたっぷりと水を含んだようじゃし、炊き上げろ」
「はい……」と、力なく答えた福住は俯いたまま、米と水で満たされた重い釜を炊はん器にセットし、スイッチを入れた。
 炊飯器のスイッチを入れて戻って来た福住は、福の神がいるステンレス製の作業台の横にあった丸椅子に腰を降ろした。
 背中を丸めて暗い目付きで炊飯器をジッと見詰ている福住に、傍らにいた福の神が眉を寄せていた。
「おい、いい加減にしろよ」
 思わず福住は福の神に目を移した。
「反省はいい。今をより良く生きていきためには、必要なことじゃ。しかし、後悔はいかん。過去への執着に繋がる。すると、前に進めなくなる」
「でも、なぜ、もっと早く気付けなかったんだと思うと……」
 福住は暗く沈んだ目のまま福の神を見ていた。
「過ぎたことなど、どうすることもできん。じゃが、今お前は己のアホさ加減に、ほんの少しだけ気が付いた。だったら、それを今に活かせ」
「今に活かす……?」
「そうじゃ。今まで自分のことだけしか考えなかったお前が、少しは爺さんと婆さんのことを考えるようになった。これを徐々に周りに広げていけばいい」
 今まで「何かに感謝する」などとは、真逆の生き方をしかしてこなかったダメ男・福住は自信なさげに足元に目を落とした。
「俺なんかにできるでしょうか……」
「あのな、さっきは変えようもない過去にしがみ付くことの愚かさ言ったが、未来についても同じじゃ。先案じして、未来に思いを馳せて、あれこれ不安がっても仕方がなかろう」
 この言葉に、うな垂れていた福住が顔を上げた。
「極端な例えだが、朝起きて飯を済ませて、仕事に出た途端、車に撥ねられて死ぬこともある。要は、本当に来るかどうかもわからない先のことを考えたところで、正解など見つかるはずもない」
 そう言って、福の神は一息入れると、福住を見据えて吠えた。
「だからこそ、今をしっかりと生き切る! これの積み重ねが、明日を作っていくんじゃ!」
(今を生き切る……)
この言葉を、福住は神妙な面持ちで何度も心の裡で繰り返していた。
―今まで自分のことだけに執われ、腰の落着かない人生を送ってきた。
 そんな自分に、果してできるのだろうか。
 もし、できたなら、自分は変れるかもしれない。
 いやっ、変りたい! でも……―
 様々な思いを福住が頭の中で巡らしている内に、上げていた顔が
再び足元に戻った。
 良いにしろ、悪いにしろ、福の神は人の心の声が聞える。
「あ――っ、面倒臭い奴だな!」
 側の作業台にいた福の神が、また吠えた。
「えっ!」と、驚いて顔を上げた福住の鼻先に、例の釣竿がピッ!と突き付けられていた。
「いいか、今お前は嫁から愛想を尽かされ、家を叩き出された上に、養育費を迫られている。できなければ、この食堂を売れとまで言われている」
 目の前の変えようもない現実に「うっ……」と、福住が言葉に詰まると、福の神は遠慮なしに畳掛けた。
「今のお前に、この状況を変えるほどの力があるのか?」
「…………」
「また、『養育費は待ってあげるわよ』なんて、向うが勝手に変ってくれることがあるのか?」
 この問い掛けに、福住はちょっと嫁の顔を想像したが、すぐに頭を振って目を伏せてしまった。
「いえっ、ありません……。二〇〇パーーッ! ありません……」
「だったら、お前が変るしかなかろう――――っ!!」
 わずか身の丈一〇センチほどの身体から、拡声器並みの大声が店中に響き渡ると、パイプ椅子でまったりとしていたミィーちゃんは驚いて奥の部屋に逃げ込み、福住は丸椅子に腰を掛けたまま魂が抜けたように固まった。


この本の内容は以上です。


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