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目次

<目次>

 

 (1) 一万年の憂愁

 

 (2) 思いは巡るあの日にその日に

 

 (3) 色気たっぷりのメス蚊の奴め

 

 (4) そこには過去と未来が混在していた

 


(1) 一万年の憂愁

 

 漱石先生と鴎外は、ともに同時代を生きた作家です。

 

 生年も四、五年しか変わらないはずですから、まさに同年代人というわけですが、どういうわけか、二人の接点を見出すことができないのです。

 

 一方は、年齢を偽って帝大医学部に、はたまた一方は、同じ東大でも英文学を専攻し、留学先も、留学にあたっての事情も違う、何より、その後の職業を見てみれば、かたや日本陸軍軍医、かたや一介の教師では、接点の持ちようもないかと納得するのです。

 

 同じ時代だからと言って、人間というのはそうそう接点があるとは限らないのです。

 

 先だって、美術雑誌を読んでいましたら、ルネサンスの時代の二人の巨匠、ラファエッロとミケランジェロの話に出くわしました。

 

 両人とも、今でこそ、ルネサンスの偉大な芸術家として、私たちは二人を同列に扱っていますが、当時の人々はそうではなかったというのです。

 「ラフェエッロの作品は、着想、色彩、表現力とも卓越しているが、ミケランジェロのそれは素描以外に讃えるものがない」

 そんな意見が当時あったというのです。

 あるいはまた、「素描に関しては、両者互角、彩色に関してはラフェエッロが群を抜く」なんて言葉もあります。

 つまり、私を含めて、きっと、ミケランジェロの方がどこかその名に偉大性を見出すのですが、彼らが生きた時代には、そうではなかったのだという発見に、面白さを感じるのです。

 

 いや、だからと言って、漱石先生と鴎外を比べてやろうなんて話ではないのです。

 

 当代、評価があまり芳しくなかったミケランジェロですが、彼自筆の推薦状が残っていて、そこには、自分は軍事技術者としていかに優れているかって書いてあるんです。

 この推薦状はミラノ公宛に書かれたものですから、彼が就職しようと思った先は、ミラノ公が支配する地域のいわば公務員のようなものであったのでしょう。

 ですから、当時、最も肝要なこととして、ミラノを外敵から守るための策をどれだけ持っているかが採用される条件であったに違いないということです。

 

 そんなことを読むと、中国の諸子百家と違わないと、なんだか西洋の有り様に親近感を持つのです。

 

 現代の私たちだって、履歴書を書くとき、相手の企業に対して、自分が何ができるのかを綿々と書き綴るわけですから、いつの時代も変わらないと思ったのです。

 

 しかし、軍事でいかなる算段を持つかをしたためた後に、若きミケランジェロは、ミラノ公に対して、平時であれば、自分は建築にも才能があり、かつ、水利事業にも力を尽くせると、そのほか、大理石を使っての彫像づくり、さらには絵画にも長けていると自己アッピールをしているのです。

 

 ルネサンスの巨匠の名をほしいままにする若き日の彼の、必死の売り込みの様が見えてとても愉快です。

 それに、最も自分が得意とする彫刻や絵画を一番最後に提示するなど、苦心の跡が伺えて実に興味深いことであると思ったのです。

 

 今、日本では、仕事改革という珍妙な動きが大手を振って進められています。

 

 五十を過ぎたら、副業ならぬ「複業」をせよなどという意見が大ぴらに書かれています。

 21世紀の日本に暮らす働き盛りの人たちが、余計な圧迫を受けずに仕事をし、それでいて、豊かな生活を得るという理想に近い生活レベルへと近づきつつあると喜ぶのです。

 

 私たち、それに私の父や祖父の時代と比べれば、いい時代ではあります。

 

 祖父や父の代は、有無も言わせず、兵隊に引っ立てられ、命をはって行かなくてはいけない時代でした。

 私の代は、朝から夜まで24時間働けますかと標語を示されたモーレツなる時代でした。

 それらの時代が良いわけが、当然ではありますが、ありません。ですから、良い時代が来たと内心は喜んでいるのです。

 

 そんなことを考えれば、私以上の世代は、いうならば、縄文的狩猟採取の時代にあったのではないかと思うのです。

 相手企業から契約を取るには、正攻法ではダメだ、風下から、こちらの思惑を察知されないように近づき、相手の企業の担当者を丸め込む。

 それしかないのだと、夜遅くまで、あちらのクラブ、こちらのスナック、日曜はゴルフにと、これが仕事かと思われるようなことまでやったのを、ご同輩なら覚えがあるはずです。

 

 ところが、今、時代は弥生式稲作時代に変わったのです。

 皆が、協調して、一つの仕事を分担してやり、共同体意識を持って、出しゃばることもなく、目標を達成して行くのです。

 働き過ぎやパワハラは決して認めない、しかし、複業は認めようと、皆がその方向に向かっているのです。

 

 でも、考えてみると、弥生的稲作時代は、せいぜい五千年くらいしかないのです。

 これからまだ続くから、あと五千年持つかもしれませんが、縄文的狩猟採取時代は寸分の狂いもなく、この日本列島で一万年にわたり続いて来たのです。

 それを駆逐したのは他ならぬ弥生文化なのですが、そんなことを思うと、私、今の弥生的稲作時代の人間的な協調の時代にちょっと不安を持ってしまうのです。

 

 生きるのに必死であったと思われるあの縄文的狩猟採取時代の面影を残す、私たちと私の父や祖父の時代の方が、個人も国も幸福でなかったのかなって、そう思って、バルコニーで幾分涼しさを見せる雲の流れを目で追うのです。

 


(2) 思いは巡るあの日にその日に

 

 それは、オックスフォード滞在中のある日の休日の出来事でした。

 

 私は、宿泊している寮から、公衆電話でタクシーを呼び、オックスフォード駅まで行きました。そして、そこから、8時1分発のパティンドン行きの列車に乗り込んだのです。

 休日をロンドンの街でぶらぶらしたくて、あちらこちらを巡って見たいと思ったのです。

 そして、この日、唯一の目的地である地下鉄ジュビリー線のセント・ジョンズ・ウッド駅にたどり着いたのは午後の早い時間帯でした。

 

 地上の出口に出ると、イギリスの地下鉄にはおきまりの駅売店があります。

 「あの四人」が売店のガラスの入り口から顔を出して微笑んでします。

 さて、アビーロードはどこかしらと、道の左右を見回します。

 あてずっぽうに、私は右の方角に歩み始めました。

 確かに、そんな匂いがしたのです。

 

 歩いている途中、向こうからやってくるひとりの青年に出くわしました。

 

 お互い、意を同じくするという雰囲気を感じ、目で挨拶をします。

 この青年は、ブラジルからやって来た建築家を名乗る若者でした。

 「アビーロードは、すぐそこだよ。」

 「そうかい、ありがとう。どうだった。」

 「感激したよ。」

 そんな会話をしたことを、まだ私は記憶の中に残しているのです。

 

 そして、私は「あの横断歩道」を何度も往来したのです。

 

 横断歩道を渡って、右手に折れて、道を歩んで行くと、すぐに、スタジオがあります。

 なぜ、わかるのかって、そりゃ、壁という壁に、世界中からやって来た人々が一言を書いて去って行っているからにほかなりません。

 しばし、感慨にふけって、私はこの横断歩道にしばしたたずんだのでした。

 

 <LMW 28IF>という符号が私の頭にのぼって来ました。

 

 あの横断歩道で撮影された世界一有名なレコードジャケットに写り込んでいたフォルクワーゲン・タイプ1のナンバーです。

 

 ポールは左利き、にも関わらず、右手にタバコを持っています。しかも、目は閉じられ、裸足です。

 白いスーツ姿のジョンは司祭、黒いスーツのリンゴは葬儀社の人間、そして、ラフな姿のジョージは墓堀人。

 そして、<28IF>は、『もし、生きていれば、ポールは28歳』という暗号だというのです。

 

 そんな神秘的な筋書きを思いついた誰かさんに敬意を表しつつ、私は、その物語を楽しんでいたのです。

 あれから何年が経ったのでしょうか、そのフォルクスワーゲンが「ビートル」の生産を打ち切ることを知ったのです。

 

 私はまた、ワーゲンのビートルをこよなく愛したひとりでありました。

 

 世界に1000台、日本に100台しか輸入しない限定車であった黄色の太いラインが二本入ったビートルが、私にとって最後のビートルになりました。

 宅で仕事をすることになり、車に乗る必要が減じたからです。

 三年前、切ない気持ちと、そして、感謝とともに、私は最後のビートルが我が宅を去って行くのを見送ったのでした。

 

 そんな切ない気持ちを、今また味わうとは、と思うとさらに切ないことと感じるのです。

 

 いつだったか、我が宅のガレージに、EVのエネルギー供給源を設置し、ワーゲン社が企画する新しい車の最初の乗り手になって欲しいと言われ、大いに賛同し、その気になっていたのですが、その方向に遅れが出てしまったようで、その話はそれきりになってしまっていました。

 

 時代の変遷というのは、そのさなかに自分をおくと切ないものです。

 

 でも、私は常に希望を持っていたいのです。

 だって、<28IF>と囁かれたマッカートニーは、76歳の今でも、その声を響かせているではないですか。

 そして、私は、まもなく、その彼の4度目になるコンサートを見に行くのです。

 

 ですから、きっと、ワーゲンもまた、EV車として、ビートルを復活させると信じているのです。いや、もしかしたら、それは空を飛ぶビートルになっているかもしれません。

 

 カブトムシのように、小さな羽をさっと広げて、飛ぶ車です。

 

 そんなことを考えると、切なさもほどほどになり、反対に、心地よい夢のような爽やかな気持ちの中に私はおかれるのです。

 


(3) 色気たっぷりのメス蚊の奴め

 

 今年は蚊の羽音に眠りを妨害されることもなく過ごしてきたのですが、オーストラリアからやってきたGOKUがしきりにかゆいかゆいと騒ぎ出すのです。

 

 まさか、我が宅に居を定めるメスの蚊の奴、主人である私の血は美味しくないと、このひと夏そっぽを向き続け、そして、あまりに若い幼な子の生き生きとしたGOKUがやってきて、舌舐めずりしながら、その柔肌にしがみついて、針を突き立てたのかと、ちょっとしゃくに触ったのでした。

 

 梅雨の始まる頃に買ってきた、いろいろの香りを放つ蚊取り線香をあちらこちらにともして、その色気たっぷりのメス蚊の奴を退治しています。

 

 そんなことをしていたら、あの『源氏』の、教材で教えた一節が脳裏に浮かび上がってきたのでした。

 

 おこり病にかかった光源氏が、北山の僧都の元に祈祷を受けに行き、やがてヒロインとなる、まだ幼な子の、のちに「紫の上」と呼ばれる少女を垣間見るあの場面です。

 

 おこり病とは、蚊を介在したマラリアのことです。

 教師であったとき、平安の時代にも、マラリアなどという病気があったんだと、ちょっと奇異に感じたことがありました。

 だって、マラリアというのは、南方に派遣された日本兵が、蚊に刺されて、発熱にうなされる病気だと思っていたからです。

 

 湿気に満ちたジャングルの中で、衛生状態のすこぶる悪い中で、兵士たちは銃を手にして横たわるだけです。食べるものもなく、じっと息をひそめるのが精一杯の状態です。

 ですから、きっと、南方の蒸し暑い中、色気などすっかり失せた横暴なだけのメスの蚊の餌食になったに違いないのです。

 

 そんなイメージであったものですから、平安の時代に、しかも、最高レベルの貴族である光源氏がおこり病になるなんてと奇異に感じたのです。

 

 南方に散った日本軍の兵士とは言わないまでも、光源氏のような高貴な方が住まう寝殿造の館にも、多くの蚊が生息したのだと思うと、あの敷地にあったという鴨川からひかれて水をたたえ、優雅な船を浮かべていた池に、蚊は住まっていたに違いないと勝手に思っていたりしていたのです。

 もちろん、これは、私の勝手な推測ですから、生徒に授業で講義をしたわけではありません。

 

 さらに、私はGOKUの蚊に刺された足に薬を塗って、思い出すことがありました。

 

 私の子供の頃でした。

 夕方早く、家族が寝る六畳の部屋の四隅に据えたれた釣金具に引っ掛けて、敷き詰められた布団全体を囲う「蚊帳(かや)」というもののことです。

 布団に入るときは、その「蚊帳」の裾を両の手でつかみ、さっさと振って、勢いよく入り込むのです。

 

 そうしないと、蚊が入るだろうと叱られるのです。

 

 もし、蚊帳の中に蚊が入っていることがわかると、一家総出で一匹の蚊の退治に取りかからなくてはなりません。

 父も母も、両手を目の前にして、蚊を見つけるその姿を、子供の私は覚えているのです。

 

 長じて、北京の紫竹院公演近くの「民族飯店」に宿泊したとき、そのベットを覆う蚊帳を見つけたときは、なんだか嬉しかったことを覚えています。

 そのとき、我が宅には、いや、日本の多くの家庭では、蚊帳を吊って寝る習慣は消えていたからです。

 

 思えば、私たち日本人の生活環境は随分と変容してきました。

 下水の普及は、蚊の発育環境を大幅に減少するものでした。閉めるのも開けるのも難儀した木製の雨戸に変わり、サッシ窓の普及はその機密性から、それでも生き残った蚊の侵入を完全に防いだのでした。

 毎夕、蚊帳を釣るのは大仕事ですが、それも網戸の普及で必要なくなりました。

 日本人の生活環境は、有史以来、最高のレベルに達しているのです。

 

 その中にあって、GOKUは色気たっぷりのメス蚊に刺されたのです。

 

 きっと、ウッドデッキに置いてある睡蓮鉢の中でほそぼそと生き続けてきた奴に違いありません。

 GOKUが、この色気たっぷりのめす蚊に刺され続けて、「おこり病」になったらえらいことだと思い、私は、その鉢をすっかり開けて、天日干しにしたのです。

 

 でも、空になった陶器の器を見て、私、なんだか、ちょっと寂しい気になったのです。

 

 このつくばの、一角に住まう我が宅の、それも、ウッドデッキの片隅の、本当に小さな世界、そこに住まって、子孫を営々と残してきた「色気たっぷり一族」を殲滅してしまったという後ろめたさが急に押し寄せてきたのです。

 

 害虫を駆除しただけなのに、何ゆえ、そのような思いになったのかしらと、GOKUを膝に乗せて、ウッドデッキに置かれたベンチの上で、空っぽになった陶器の器を眺めているのです。

 


(4) そこには過去と未来が混在していた

 

 8月も終わり、数日経った頃、カレンダーを9月のページにすげ替えました。

 なんとも呑気なことです。

 家で仕事をしていると、そんなこともできなくなるんだと、いや、それは尋常でない暑さのせいであって、精神的な緩慢さが因ではないと自己弁護したりしているのです。

 

 家中のカレンダーをすべて9月にしたとき、いつだったか、そう、まだパソコンがさほどに社会に浸透していない頃でした。

 取手の学校での同僚で、イギリスからやってきた英語教師が、どこを探しても、9月始まりの手帳が日本では売られていないとぼやいていたことを思い出したのです。

 

 9月始まりのそんな手帳などあるわけないだろうと一笑に付したのですが、彼曰く、イギリスでは9月に新学期が始まるから、普通に9月始まりの手帳が売られているというのです。

 

 日本は4月に学校が始まるが、4月始まりの手帳など聞いたことがない。手帳はいつだって、その年の始まり、1月1日から始まるのが普通だと偉そうに、私、彼にのたまっていたのです。

 

 ところが、最近は、4月始まりの手帳も、9月始まりの手帳も売っているというのをちょっと小耳に挟んだのです。

 システム手帳ではなく、一冊のれっきとして手帳としてです。

 

 現代社会では、スケジュール管理は重要な項目です。

 特に、働き盛りの人間、多くの人を対象に仕事をしている人たちは、このスケジュール管理ができないといっぱしのビジネスマンとは認められません。

 

 秘書さんがいるようなご身分になれば、その必要もないでしょうが、多数の人たちは、自らでスケジュール管理をして仕事をこなしているのです。

 スケジュール管理は、自己管理にも通じます。

 ですから、いろいろな月日で始まる手帳があってしかるべきであると思ったのです。

 

 人と多く会っていれば、良いことばかりではありません。

 時には、嫌なこともあります。

 そんな時、手帳に、不平や不満、もっと的確に言えば、悪口雑言を書き連ね、それで溜飲を下げることも可能です。

 仕事の進み具合を記録したり、敬愛すべき人物に出会った時の印象を記したり、そんな時にも手帳は大きな役目を果たすのです。

 つまり、手帳は「日記」にもなるというわけです。

 

 日記とは、その多くの記事が過去の出来事になります。

 こんなことがあった、こういう人がいたと書いて行くものです。

 ところが、スケジュール管理は、未来の出来事になります。

 夕方は取引相手と食事、三日後は、契約の書類を用意、一ヶ月後にはなになにと未来のことが綴られます。

 

 これって、ちょっと面白いことだと、私思ったのです。

 

 一冊の手帳に、過去と未来が混在しているんですから、それも、あやふやな過去や未来ではなく、おおよそは、良くも悪くも自らの体験であり、近々確実に実行される出来事なのですから。

 さらに、もっと、突きつめて行くと、会社なり学校なり、公のスケジュールの中に、私的なものも書き込まれて行くのですから、その人の歴史そのものがこの手帳には記載されて行くことになります。

 

 そう思うと、一冊の手帳にこだわることがいかに重要であるかがわかるのです。

 

 今頃になって、カレンダーのページをめくる作業をしながら、9月始まりの手帳を探すエピソードを思い出し、その重要性に気づくのですからおかしなもんです。

 

 そんなことを思っていると、私、その過去と未来の混在を、複数の仕方で行っていたことに気づくのです。

 私は今、仕事も、個人の管理も、ほとんどをデジタルで処理しています。

 ですから、スケージュール管理は、Macの「カレンダー」と「リマインダー」というソフトで行っていますし、日々の記録も、Macの「メモ」を使っています。

 教員時代は、アナログの手帳も併用して、場に応じて、使い分けていました。

 でも、今、家で仕事をするようになって、アナログの手帳は机の引き出しの中で余生を送るという具合になってしまいました。

 

 複雑なことをしなくても、自分のスケジュールが管理でき、さほど多くの人とも会うことがなくなり、随分とスッキリしましたから、それで十分なのです。

 

 さて、人から圧力も受けずに、のんびりと日々を送り、自らに課した仕事を果たしているのですから、当然、よそ様の悪口雑言もそこにはなく、スケジュールといえば、一週間後に、GOKUがオーストラリアから成田にくるから、迎えに行ってやり、40日の孫たちとの慌ただしい生活を送り、あそこに行って、ここに行ってと、「リマインダー」には記載されています。

 

 おや、GOKUらが帰った後には、マッカートニーのコンサートも入っている。

 カヤックのことを調べるためのとある業者との面会も入っている。

 

 私の未来、今までになく、充実した内容であることに、私は密かに満足するのです。

 私の過去の記録、ここにもまた、誹謗中傷の一つのかけらもなく、これまた満足しているのです。



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