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 小説「救い」

                           篠田将巳

 

 

 

たしか2016年8月に私は、

治療薬剤抵抗性統合失調症と診断された。

いつからかと言えば、

それより遥か以前からだと思う。

さまざまな薬などを使っても、

私の病状は長期間停滞したままだった。

ちょっと検索したら、

実に的を射た病名だなと思い当たった。

停滞。

あるいは長期低迷。

ひきこもり。

私の病状はまさにそうだった。

 

何十年にもわたって私は、

そのような状況から抜けなかった。

なぜ「抜けられなかった」ではないかと言えば、

それはむしろ、

私自身も望んでそうしていたようにも思えるからだ。

 

 

 

 

      1

 

 「魂の存在を信じればいいんですよ」その青年はさらりと言ってのけた。

「終わりって何なんだろうね?」と私が言っていたときだ。

「だって、死んだらそれを自分は認識できないわけでしょ?」それに対する答だ。

「うん。確かにそれはそれでわかるんだけどね。いまひとつ、何と言うか信じきれないと言うか。。」

私はぐだぐだ言っていた。

たしかに和尚も言っていた。つまり輪廻転生だが、現世で悟った者は二度と生まれ変わらない。

もうこの世に戻って苦しむことから解放されるのだと。

 そして私は、信じると言う言葉にこだわりがあった。これも和尚が言っていたことだが、理解すれば信じる必要がない。信仰することの愚かさを彼は説いていたし、それは私も納得していた

 「うーん。信じるかどうかはともかく、そう考えればいいのか。さすが東大、いいこと言うなあ

。なるほど」

私はその青年の言うことに妙に納得した。

「安心してもらえました?」

「まあ半分くらいね」

もしかしたらそれも私にとっての救いのうちのひとつかもしれなかった。

 

         *

 

 

「あらゆるものごとは起こる。

あなたはただ起こるのを許せばいいだけだ。

 決してやり手にならないように。

 あなたはただ見守る。

 起こったこと、  起きていること、

 これから起こることはすべて自然なことだ。

 なぜならこの世界では自然なことしか起こり得ないからだ」

 

それが和尚の口癖だったと私は記憶している。

 すべては運命のように決まっていること。

 そう考えると生きることが少しは楽になる。

 運命に逆らうのもまた運命だ。

 何をするにしてもしないにしても、  私がそれを許せばいいだけのこと。

 すべてが自然に起こるように、

 まるで川に浮いているかのようにすべてを流れに身を任せている。

 その素晴らしい感覚。

 何故なら私はすべてを「全体」のせいに出来るからだ。

 どちらにしようかと迷ったら、

 風に揺れる木の葉のようになって自分の気分に聞いてみる。

 「全体」の意向を聴いてみる。

 そして川の流れを、風向きを読んでみる。

 「全体」の意向ももちろんだが、  自分の気分も川の流れも風向きも、  自分の行く先を暗示している。

 気分が向いたほうへ行ってみる。

 流されてみる。

 右へ行くのも左へ行くのもすべてを流れにまかせることで、  私は自然になり、

 あらゆる責任を「全体」に負わせることが出来る。

 そう。

 すべては宿命であるかのように。

 

 

 

そしておそらく、

 川は大海へと続いている。

 私と全体が溶ける真実の大海へ。

 

 

あるいは、

 そのように母なる真実の海へと溶けて消えることが、  私にとっての救いなのかもしれない。

 人によってはそれは真実を知ることであり、  神と溶け合うことであろう。

 

 

 

             *

 

いったいいつ退院できるのかなあ?

でも俺、行くとこないんだよねえ。

ぼくだって同じですよ。もう親も死ぬし妹も病気だし。ひとりなんですよ。

皆そうなんだよ。同じ。

俺だってお袋は小さいときに死んでるし親父も十数年前に死んでるし。

皆似たようなものだ。いやほんとに、皆そうなんだよね。

で、帰るとこないって言っても、帰るとこは出来るもんだよ。何かしら縁があって、縁もなければ出来て、そこから帰るとこが出来るんだよね。

ああそうだね、まったく。

あの最後の坊さん二人の話は面白かったよ。

篠田さん、悟ってるよ。

いやあ。。まだまだ。

 

 

 

 

 

 

 

                  

    2

 

 

 

 

 

 

子供の頃から家の中でじっとしていて心身ともに虚弱な少年だった。

小中学校の勉強の成績は上の上で、親も驚くほど優秀であったが、

逆な言い方をすれば、体力も付けてほしいという親の願いには添えなかった。

また私自身も、子供心にも自分の将来が心配だった。

「将来働いて食べていけるのか?」

 私のその頃の心配事はつまりそういうことだった。

中学高校時代、体育の時間は何をやってもビリであった。高校の入学式で数十分くらい立たされて行われたため、私は貧血のように途中で座り込んでしまい、それから連続四日間くらい学校を休んだ。

東大病院で、内科系を一通り調べてもらったが、特に悪いところがなく、医師はふつうと逆の意味で困った顔をした。

後から考えたら、その頃から私は精神病だったのかもしれない。

 少なくとも自律神経失調だっただろう。

某大学入試を体調不良で途中棄権して帰宅して自室で、生まれて初めて、今から思うとパニック発作を経験した。何かの病気かもしれないと思ったが、大学の入学式であった精神科の医師によるガイダンスの心理テストで、これはいよいよ何らかの精神疾患に当てはまるなと思い、大学の診療所の精神衛生相談に行った。

その時は初めは薬は不要ということだった。ただ数種類の本を読むように勧められた。

 学業のほうは何とか2年間は大学へ通っていたが、1年の時か2年の時か忘れたが、ある時急に具合が悪くなって、ある都立の病院へ行って、救急で薬をもらい、それが年末だったので、また年明けに大学の診療所へ通ったが、では薬を飲むかということで通院を続けた。

しかしまたある時急に病状が悪くなって、病院へ行って、そこは外来のみだったので、緊急に初めてA精神病院の閉鎖病棟に入院した。

その後数年間にわたり、いろいろ都合があっていくつかの病院へ通院したり入院した。

  20数年前に患者同士で結婚生活を2年経験した。離婚原因はまあ当人にしか分らないかもしれないが、病人同士だということもあり、お互いに無理があったのだろうと思う。離婚して暫らくしてから彼女から病院へ電話がかかってきて、彼女は精神病は治ったと言っていた。やはり結婚時代には私は彼女の病気を苦しめていたのだと私は思った。

  そして私は、約20年前に退院して自宅療養していた。

  それはある意味では平穏な療養生活だったかもしれないが、あるいは私は家族に相当な苦痛を与えていたのかとも思う。

 2012年に、私は父に暴力を振るってしまい、措置入院となり、3ヶ月入院した。

あれが本当の最後の入院となることを望む。

 

それでも、数十年前に、私が精神病のため大学を退学の挨拶に、教授に謙遜のつもりで「ぼくが悪いのですが」と言ったら、その教授から「それはそうだ」と当たり前のように言われたことは一生忘れないだろう。

病気になったのは自分が悪いのか?

 

           *

 3.11福島第一原発事故の翌年の秋、私はラジオやインターネットで放射能についての情報に怯えつつ、35年来の統合失調症で自宅療養で自室にこもり、ただコーラと薬を飲んで暮らしていた。 

そしてその年の10月22日に私は、明らかに精神病である父親にすぐに精神病院へ入院するよう恫喝して、父にそのつもりがないので、殴る蹴るの暴力を振るった。私は茶の間で殺意を持って殴り、家の外へ逃げる父を蹴り、彼の持ち出した携帯電話機を奪おうとしたが、父は携帯電話機を必死で守った。

 父は近所の人や通りがかりの人に向かって「110番してくださいよ」と叫んでいた。私は家の中に戻って、玄関に内側から鍵をかけ、その後自室にこもった。

 しばらくして、警察官らしき数人がやって来て同行を求められ、私は「令状はあるのか?」とドア越しに話したが、「無い」と言うので出なかった。しばらくしてまた警察が来たので、渋々応じた。と言うより事実上の保護だった。 署に着いて、小さな部屋へ連れて行かれた私は、自分から障害者手帳を見せた。

写真を撮られた。

何だかんだ夜になりクルマで連れて行かれたのは、豊島病院の個室だった。ひと通りの健康診断を受けた。

 翌朝2人の医者の面会を受けた。女性のほうの医者に、こうなったことについての感想を訊かれた私はごく冷静に、「世の中には仕方がないこともあると思います」と答えた。彼女は「仕方がないこともある」と、繰り返しつぶやきながら何かを考えていた。そして私への措置入院が決まり両手両足を拘束され、救急車で足立区の或る精神病院に強制的に移送され入院させられた。

 何のせいか分らないが、私は救急車の中で、ほとんど意識を失っていた。

 救急車で運ばれた病院では5点拘束(両手首、両足首、腹)という形で拘束され、何もかも身ぐるみ剥がされて数本の管だけが身に着けるもののすべてだった。そしてそこは鍵のかかった保護室( 個室)だった。時計もカレンダーもなく、今日が何月何日で、昼なのか夜なのかすら判然としなかった。

とにかく時間が長かった。

定期的に看護師が入ってきて、点滴の様子を見たり代えたりして行った。

  私は最初からずっと、抵抗などいっさいしなかった。どうなるかは大体分っていたし、抵抗などするだけ無駄だとも分っていた。

  さまざまな妄想を体験した(そのうちの多くは妄想的な夢だった)。たとえば私は、天井のエアコンディショナーのパネルをコンピュータシステムだとずっと思っていた。

そして私は、自分の頭の中で現実の自分のwindows ID宛にシグナルを発信しているような、そんな妄想。

  そのような妄想は、一般病室に移る頃には自然と消えていった。

  私は、その状態が二週間ほど経ったと思った頃に、看護師から、まだ一週間だったことを告げられ、身体的拘束は解かれた。

  小さなメモ帳と腕時計やラジオを私の元に戻されたのはその頃だった。確か十月も終わりだったと思う。看護師との雑談で、石原東京都知事が辞任して今度選挙が行われることも知った。石原都知事の「最後の仕事」が、この自分の状態か、と冗談交じりに私は看護師と話した。

  そしてまもなく私は、保護室から一般病室へと移った。

  最初の保護室での一週間からすると、その後の医師の判断は早かった。 

  一階病棟の4人部屋に移った病室には、もちろん鍵はかかっていなかった。

  その4人部屋で隣のベッドのH氏が、クリシュナムルティに惚れ込んでいて、私も同じだったので、話が弾んだ。もっともH氏はOshoのことは知らず、彼の質問に私はいろいろと答えた。

  一階病棟の職員の中で、私がファンだったのが、ヘルパーのT.悠理さんだった。

ショートヘアがとても似合っていた。

本人に訊いたら29歳とのこと。独身か既婚かまでは訊けなかった。

  あと余談として、一階病棟には「オネエ」の職員さんが1人が居た。

  そしてまた暫らくして私は、それまでの男女混合の一階病棟から、男性患者のみの2階病棟へ移った。そこはとにかく殺伐とした、一部の看護師以外はすべて男性のみの病棟だった。刑務所に入ったことのあると言う人も多かった。

 毎日何が面白くないのか知らないが、男性患者の怒鳴り声が聞こえ、病棟中に飛び交った。

 私はただ震えていた。震えること、それだけが自分に与えられた仕事のような気がしていた。

 そして絶対数が足りていない看護師はひとりひとりの患者の声に耳を貸している暇もなかった

 私は入院前に、一本の短編小説を書き、某新人賞に応募していた。もちろん自信はまったく

無く、とにかくその結果が出るのが翌年の秋だったが、いずれにしても体力的にも、公の場には出られないなあなどと考えていた。

 私の担当医はまだ20代にすら見える若い男性だったのだが、その彼が、措置入院から任意入院に切り替わったと、任意入院の同意書を持ってきて、私は署名した。

 つまりその日から、少なくとも都知事の命令による強制入院ではなくなり、しかし同時に、入院費公費持ちから自分持ちとなった。11月の下旬だったと思う。

 そして私が四階の開放病棟に移ったのが12月だったと思う。

開放病棟は男女混合の、症状が軽い人ばかりのところなので、雰囲気は断然良かった。看護師も女性が多く、若くてきれいな人も多かった。その中でも一番はS.晶子さんという看護師さんだったが、20代前半だと思ったのだが、あとで聞いた話によると、彼女は既婚で子供も居るということだった。

 それはともかく4階は、何より看護師の絶対数が多かった。開放病棟だったからもちろん出入りは自由だった。エレベーターで1階に降りて、院内の喫茶店で私はコーヒーを飲んだり、カレーライスを食べたりした。

 ipod touchを持ち込んで、かろうじて入る近所のwi-fiを無断借用したりもした。

 しかし、基本自分で出来ることは自分でするということが、却って私にはつらい面もあった。

 たとえば洗濯も自分で(コインランドリーだが)やらなければならず、シーツ交換も同様で、それらが虚弱な私にはつらかった。

 2階病棟時から、自宅への外泊を始めていた私は、開放病棟へ移ってからも、積極的に外泊もした。

 

 そしてついに、2013年1月下旬に父が交渉してくれて、その日のうちに私は退院出来たのだ。

3か月の入院生活が終わった。

 

 

 

 

       3

           

 常に死ぬ時期を考えている。  と言ってもいわゆる「死にたい」という自殺願望は私にはほとんどない。ただ自分の身に自然と死がやってくるのを受け身で待っているという心持ちだ。別に悟っているわけではない。ただ先日夜に体調が悪くなって、具体的には心臓のあたりが苦しくなって救急車を呼び搬送されたと

きに、たまたま連休の夜中で元々医者などろくに居ない病院で、まだ半分学生のような当直医が一通り私を診ながら「休みですから検査機器も動かせないんですよねえ」などと言っていたので思わず私は「先生。心理的なものですよね」と、まるで病人が未熟な医者に助け船を出すようなことを言い、それで帰宅したことがあって私は「二度と救急車など呼ぶまい」と思ったのである

 

 私は元より体力も精神力も無くて長時間待つような昼間の医者にもかかれない。したがって救急車も呼ばないとなると、私はあとはただ自宅で文字通り余生をつまり死ぬ時期を待つのみなのである。

 

  9年ほど前、同い年の古い病友の男が、またひとり⾃殺した。しかし私は最近になって「いい歳をして⾃殺??まさか」と思う。でも、若くして⾃殺していった過去の何⼈かの病友の気持ちはもちろん分かる気がする。「もう⾃分には選択肢なんか無いんだ」彼らはそう考えて、「⼀線」を越えてしまったのかもしれないと思う。私にも「選択肢」なんてない。しかし私は思うのだ。

⽣きるって、⽣きているってそういうことなんじゃあないかなと。

 

  選択肢があるのは若いうちだけだ。年齢を重ねてくると選択肢はどんどんなくなり、終いにはただ余⽣を⽣き、「死期」を待ちながら時を過ごすだけになる。そのように⼈は⽣きて毎⽇を暮らす。それでいいのだと今になって私は思う。

 

 「選択肢なんてもう無い」。私には、死んでいった友⼈たちの気持ちを否定するつもりはまったくないが、それでも私は、53歳の⾃分としては少なくとも「いい歳をして」とも思うのだ。もちろん世間体を気にしての思いではない。死ぬのに世間体もくそもない。⾃殺とは何か?なんて私には分からないし、死とは何かなんて分るはずもなく、そしてたぶん誰からどう⾒ても、私の⼈⽣は決して幸せではないが。

 

 私が死んでいったかつての病友たちを否定する気にはなれないのはある意味当然かもしれない。しかしくどいが、私は少なくとも今は死ぬ気にはなれない。⾃然死か不慮の死以外には。。。。

 

 もしかして昔より病状が良くなったのでは?と⾔う⼈も居るかもしれないが、そうではないと思う。おそらく私の場合、「病像」が変化してきたのかもしれない。でも決して⽣きる気⼒なんかはない。不思議と思われるだろうか、こういう⼼境は。

 

 

 

 そう。⼈の⼼境なんて、所詮不思議なものかもしれない。

 

 

         *

 

 1987年、私が富⼠⾒病院へ転院してすぐくらいに、同じ開放病棟の個室に綾⼦ちゃんという20代半ばのはじめの頃は躁状態の⼥の⼦が⼊院してきた。彼⼥の「悪⾏」の数々は、すぐに公然の秘密として病棟中の噂となっていた。特に⼈々の関⼼を引いたのはもちろん彼⼥の男性遍歴や現に病棟内で「起きている」彼⼥の「男遊び」の類の話である。

 変わり者の私は、特別な感情はなかったが逆に⾔えばそう⾔った噂の類には興味もなく、ただ彼⼥の明るく次から次へとほとんどひとり語りのいろいろな話を聴くのが好きで、彼⼥の病室に出⼊りしていた。

「ねえねえ篠⽥さん。私の部屋へ来て」

「ああいいよ」

 

「これね。酒⽥さんにプレゼントするの。誕⽣⽇に」彼⼥は何やら⽑⽷で⼿編み物をしながらそう嬉しそうに⾔った。

「綾ちゃん、酒⽥のことが好きなんだね」

「うんそう、好き。酒⽥さんてね、優しいのよ」

「ふーん」

 

  かと思うと彼⼥は編み物を置いて、今度は誰か⾒知らぬ外国⼈らしき⼈物の映った写真を私に

⾒せた。

 

 「これ⾒て。シンガポールの偉い⼈よ。私が通訳のお仕事をしたの」

「ふーん。君すごいんだねえ」

「別にそうでもないけど」彼⼥は愛らしく微笑んだ。

「それでねえ、これがその⼈からの⼿紙」何やら英⽂のタイプの紙を⾒せた。

「へええ。ほんとに?」

「ここにほら。Dear,Miss Ayako って。分る?」

「そうだね。あとは分んないけど。⼤したもんだね」「べつに私が有名⼈ってわけじゃあないけど、この⼈は偉い⼈よ」

「うん」

 

 そう⾔われれば彼⼥の個室には英⽂のタイプライターが置いてあった。

「ねえ、打てるわけでしょ?これで」

「そりゃそうよ。⼤したことじゃないわ」

「ぼくには出来ない。通訳もタイプもね」

「あらそんなの、篠⽥さんだって練習すれば出来るわよ」「あらそんなの、篠⽥さんだって練習すれば出来るわよ」

「ところで篠田さん機械に強いでしょ。これちょっと見てくれる?故障したみたいなの、カセットデッキ」

「綾ちゃんこれはデッキじゃなくてラジカセって言うんだよ。」

「ふーん、そうなんだ」

 「どうもACアダプタがイカれているようだね。探してきてあげるよ」

「悪いわね。」

 

 私は自転車で病院の近所を片っ端から当たったがちょうどいいものは見つからなかった。病院に帰ってきて綾ちゃんを探したが、彼女はもう「カセットデッキ」の故障などどうでもいいらしかった。

そんな入院生活を送っていた。

 そして私たちは三⼈ともまだ20代だった。

 

 私はもちろん、彼⼥のそれまでの⼈⽣を否定などしないし、むしろ通訳などをしながら有名⼈などとも国内外を⾶び回っていたという彼⼥の話を興味深く、しかしあくまでも聴き⼿として聴いていただけだった。すぐに彼⼥と恋に落ちた酒⽥という私と同い年の男はしかし、具体的には⾒たことはないが、彼⼥の男遊びの数々を責めたこともあったらしく、⼀時は彼⼥から「この病院で信じられるのは酒⽥さんと篠⽥さんだけ」と慕われた彼と彼⼥も⼤喧嘩になったらしかった。酒⽥はすぐに彼⼥に謝ったのだが彼⼥は彼からそしりを受けた⼼の痛⼿から⽴ち直れず、要するに今で⾔う双極性だったのだが、気分的に⼀気に落ち込んで個室病室にすっかりこもってしまっていた。

 私に⾔わせれば綾ちゃんは天使のように純真で、恋愛感情こそ持たなかったが、それは別に親友であった酒⽥に遠慮していたわけでもなかったのである。なぜか私は彼⼥とただ⼀⼈の⼈間と

⼈間として素直に向き合えたのである。

 しかし躁状態が「落ち着いた」ようにも⾒えた彼⼥はそのまま故郷の広島へ帰ってしまった。 そして結果的には1988年の夏に、同じ病棟内で知り合い婚約が決まったばかりの美佳⼦と私は、酒⽥から綾ちゃんが広島で⾃殺してしまったことを知らされたのである。彼⼥の兄という⼈が知らせてくれたらしい。私と美佳⼦は病院の中庭の隅に花を⼀輪⼿向けた。美佳⼦は涙を流した。いずれにしても天使のようだった綾ちゃんはもう戻ってこなかった。私と酒⽥とそして美佳⼦とその悲しみを分かち合ったつもりだったが、私と美佳⼦に⽐べれば、綾ちゃんと恋愛関係にあった酒⽥にとってはその悲しみや苦しみは想像を絶するものだったろうと思う。

 

 

 

 ⼀度だけ酒⽥に訊いたことがあった。

「酒⽥。ひとつだけ訊いていいか?」

「何だ?」

「彼⼥と、つまり⾝体の関係はあったのか?」

「あった」彼はきっぱりと答えた。

「そうか」

 

 そして彼と私はふたたび黙った。

 

 それ以来私と酒田は「どっちが長生きするか競争だな」満更冗談でもなくそう言って笑って話していたそして2004年の1月にその酒⽥もみずから命を絶ってしまったのである。綾ちゃんが死んでから16年後のことだった。もちろん理由は分らない。⼈の⾃殺の理由なんて分らない。

 

 

 

いずれにしても「競争」は酒田の負けだった。ひとはいつでも賢い者が喜んで負けることを知っていると誰かが言っていた事を私は思い出した。

 

 勝ちたい奴には用は無い。

私は勝ちたい奴には用は無い。

ぜひとも負ける用意のある奴と友達になりたいものだ。

まあこう言うと、

それは単なる負け惜しみだと言う方も多いだろう。

そうかもしれない。

でもそれでも私はいいのだ。

負けるが勝ちというつもりもない。

 私は元々勝ち負けということが好きじゃあない。

勝ち負け、成功失敗に拘泥する人には興味が無い。 

勝つことしか頭にない人が好きになれない。

よく「生存競争はそんなに甘くない」と言う人がいる。

そしてずるく計算高く立ち回る人がいる。

詭弁で負け惜しみだと言われるかもしれないが、しかしこう考えることができる要するに成功失敗にこだわる人は生きるということをなめているのだ。

彼の言っていることは逆なのだ。

そういう人は「全体」に甘えて生きているのだ。

正直で誠実な人に甘えて生きているのである。

愛とは心を開くことである。

負けを認めることである。

失敗することである。

本当に純粋な人は喜んで負けることを知っている。

彼は喜んで損をすることを知っている。

そういう純粋な人に向かって「そんなきれいごとを言っていては生存競争に生き残れないぞ」と言う人はその純粋な人に甘えているのだ。

正直者は馬鹿を見るのが正しいあり方だ。

喜んで馬鹿になろう。

純粋な人はそれを喜んで受け入れる。

負けることの何が悪い?失敗することの何が悪い?

結局のところ誠実に生きている人ほど本当の生きる喜びを知るのである。

真実を知ることができるのは純粋な人のみである。

愛を知ることができるのは純粋な人のみである。

当然と言えば当然だが。。。

そしてそれは勝ち負けや成功失敗には関係ないことだ。

勝とうが負けようが、

成功しようが失敗しようが。。。。。

勝ちたい人は、

 負ける用意の出来ていない人は、

ある意味では欲望におぼれている人だ。

慢心している人だ。

彼は得をしたいのだ。そういう人は決して真実を知ることがないと思う。

真実を知るということは負けを認めることだからだ。

 全体は大きくて強い。

「あなたは私より大きくて強い」素直にそう言える人のみが真実を知ることができるかもしれない。

 

             *

 

でも要するに真実を知りたいんだろう?と言うことは勝ちたいんだろう?もちろん今の私にも欲望がある。

しかしおそらくもっと偉い人はそういう欲望もないのだろう。

つまり、そんなことはどうでもいいのだ。

真実だろうが何だろうが、

 分っても分らなくてもどちらでもいい。

勝とうが負けようがそんなことは知ったこっちゃない。

分るときが来れば自ずと分るだろう。

 それまで生きているかどうか知らないがどっちでもいい。

あるいは分るときは永遠に来ないかもしれない。

同じことだ。

風は吹くかもしれないし吹かないかもしれない。

あるいは真実などというものは

そもそもどこにもないかもしれない。

どっちでもいい。

ましてや勝とうが負けようが

 そんなことはどちらでもいいのだ。

 

 結局のところ⼈が⼈を救うということは出来ないのかもしれないが、酒⽥にしろ、そして天使のようだった綾ちゃんにしろ、彼らのと⾔うよりも、⽣き残った者みずから⾃⾝の悲しみや苦しみを抱えることになるのだし、それを共有あるいは分かち合う誰かを探すしかないのかもしれない。

 当たり前かもしれないが、それがつまり⽣きるということなのだろう。

 

  私と美佳⼦が正式に離婚したのは、結婚からちょうど⼆年経ってからだった。

 他⼈からすれば「何が原因だったのか」ということになるのだろうが、結局のところ私たちは互いを⽀え切れなかった。つまりはそれが原因だろうと思う。

 離婚して少し経って私は美佳⼦とある喫茶店で逢っていた。その席の会話で私が気づいたこ

とは、要するにこの女はずっと私の話を何も聴いていなかったのだということだった。結婚していた時に私たちはいろいろなことを話した。まあもっぱら話し⼿は私で、聴き⼿は彼⼥の⽅だ

った。しかし彼⼥は私の話など何も聴いていなかった。そのことに、離婚してから私は気づいたのである。そして私は学んだ。⼈は⼈の話なんか何も聴いていないのだということを。

 たとえば私と美佳⼦は互いの苦しみや悲しみを分かち合ってなどいなかったということだ。

 何も私たちは⾃分のつらいことばかりを話していたのではない。喜びや楽しいことももちろん話した。

 しかし私たちは互いの話など聴いていなかった。

 ⼈は⾃分の⾔い分を聴いてもらおうと、⾃分の話したいことばかりを考えていて相⼿の話など聴いていない。だから分りあえるはずもない。⼈と⼈とが理解し合うということは⾮常に困難なことなのだ。もっと⾔えば、他⼈に⾃分の⾔い分を分ってもらおうなどというのは、ある意味傲慢なことなのかもしれない。⼈は⾃分に興味があるばかりで、他者のことなどには興味がないのである。

 極論かもしれないが、それゆえ⼈は⾃殺ということを考えるのではないだろうか。

 

 そしてやはり後に亡くなってしまったk子さんは、既婚だったが、同じ病棟に入院していて、美佳子に言わせると私に想いを寄せているとのことだった。私も、美佳子と別れてから、そうかもしれないと思ったが、私のほうは、k子さんを異性と意識することはなかった。ただ一度、上野の東京文化会館へ二人でクラシック音楽の生演奏を聴きに行ったことがあるったの。

「今日はねえ、主人には不倫して来るって言ってきたの」彼女は明るく笑った。

そしてまた、私が読んでいた和尚の講話集に彼女が興味を示したので、一緒に勉強会のようなことをしばらくしていた。   また私は病棟へギターを持ち込んでいて既成の歌を弾き語りするのを趣味にしていたが、彼女はその私の下手くそな歌の聴衆だった。

 しかし彼女もまた退院してから、みずから命を絶ってしまったのだ。

 

 

 ⽣きるということは孤独であるということである。

 ⼈は孤独のうちに⽣まれ孤独とともにその⼀⽣を終えるが、⽣きる過程においてもまた孤独だ。たとえ誰かといっしょに時を過ごしたとしても、あるいは助けてもらったとしても、たとえば「群衆の中の孤独」という⾔葉もある通り、⼈は⼼の深いところでは⾃分がひとりきりであることを知っているし、それを感じた時には⾃分の存在をどうやって確認あるいは証明すればいいのか⼾惑うものだと思う。

 そしてそこにはとても耐えられないような恐怖があり、時に⼈はその恐怖をごまかすためにアルコールにおぼれたり、あるいはギャンブルに依存したり、あるいはまたさまざまな労働にいそしんだりしていずれにしてもその恐怖を⾒ないように努⼒するのかもしれない。

 しかしまた⼈間は同時に恐怖の中にみずからを置こうとする存在でもある。たとえば性はその代表的な⾏為である。性⾏為は快楽を追求すると同時にすさまじい恐怖の中にみずから⾶び込んでゆく体験である。性の絶頂において私たちが観るものは⾃⼰の消滅であり、ある意味宇宙の終わりである。ふたりの⼈間がひとつに溶ける瞬間においてわれわれが⾒るものは恐怖の極限であり、同時にそれは⾄福であり、そして新しいものの誕⽣である。私たちはなぜか本能的に知っている。恐怖の中に真実があるということを。

 私たちはいったい何を求めているのだろうか?ある⼈は国家の安全だと⾔い、ある⼈はもっとささやかな幸福であると⾔い、たとえばあるときにはあるいはある⼈は政治について学び考え主張する。たとえばは、もちろん⾔葉の⽭盾なわけだが、精神が⾃由であるためにはまず「⽐較せず選ばない」という実に中⽴的な⽴場が必要なのだ。そしてその⽐較せず選ばないということによる気づきこそが「最後の⾃由」であるのだと私は理解している。

 たとえば⾃由(freedom)と勝⼿(liberty)は違うと⾔うが、何が違うのか?それはおそらく勝⼿は⾃我にしがみつくことであり、⾃由は選ばないということではないか?たとえば政治的に⾔えば、右翼であってもいいし左翼であってもいいということだ。そんなものは本質的には何の違いもないからである。

 思考は、つまり⾃我は常に選びたがる。どちらかでないと嫌なのだ。⾃由はどっちでもいい。どちらでもかまわないのだ。つまり、⾃由とは選り好みをしないということだ。好き嫌いを⾔わないということだ。逆説的だが、よく考えるとそういうことになる。つまり、選り好みあるいは好き嫌いを⾔って「選んでいる」⼈は、⾃⾝の欲望に束縛されているということだ。

「思考はわれわれの問題を解決することができるだろうか」とクリシュナムルティは洞察する。真に⾃由な精神は常に⾃由である。これは嫌だあれは嫌だとは⾔わない。それがつまり選ばないという選択肢であり、私たちに残された最後の⾃由ではないだろうか。つまりそれが気づきであり、精神が⾃由であるということなのだ。クリシュナムルティはそう⾔っているように私には読めた。そして⽐較することが⽌んだ時、選ぶことが⽌んだ時私たちは、はじめから⾃由であったことに気づくのかもしれない。

 

  私たちに残された最後の選択肢は選ばないということかもしれない。 J.クリシュナムルティの「⾃我の終焉(the first and last freedom)」は⼀九⼋〇年代に読んだ本であるが、私の精神性に⼤きな影響を与えた。たとえば「無選択の気づき」というキーワードは⾮常に重要な⾔葉である。

そしてこの本の原題である"the first and last freedom"。

 つまり彼は強調する。「私たちが⾃由になるためには、まず最初に⾃由でなければならない」。ものごとに優劣をつけたり好き嫌いを⾔うのは実に安直なことだが、真の⾃由とは相対的価値観からの⾃由であり、選り好みをせずに超然としているということだ。つまりそれこそが、「無選択の気づき」であろう。

 これは良いあれは悪いとか、こちらの⽅があちらより優れている、あるいは、われわれが正義であちらが悪だというような、⽐較に基づく視野の狭い価値観をたとえば私なら「相対的価値観

」と呼ぶ。

 自我にとって、思考にとって、比較しないことは極めて難しい。と言うより比較することもまた自我の本質的な性質である。そして何でも比較してより良いものに対する欲望が生まれるというわけだ。

 

  クリシュナムルティの言葉は思想ですらない。哲学ですらない。宗教でもない。

 彼は思考するという宿命にある自我というものを脇に置いておくことができる稀有な人物だ。

 彼によると(私には分からないが)、自分の心を観察していると(それは「非難も正当化もせずに」だ)、思考と思考の間に「空」があるのが分かってくると言う。そして、その「空」こそが、別の言葉で言えば「無我」あるいは「無」こそが真実であるらしい。

 一言で言えば、我々の思考つまり自我は堂々巡りをしているだけであり、常に何かにとらわれ不自由である。クリシュナムルティにとっては、その空こそが自由である。

 つまり彼が「自我は我々の問題を解決できない」と言うとき、それはつまり、自我は本質的に不自由であるから、本質的に何も問題を解決できないのだ、と言っているのである。

 それはもちろん、彼の思考の結果ではなく自由である「空」の洞察であろうと思う。

 彼は言う「我々が自由を発見するためには、まずはじめに自由でなければならない」

 繰り返しになるが、こういったことは理論ではなく彼の洞察であろうと思う。

 

「思考はわれわれの問題を解決できるだろうか」-J.krishunamuruti

 

  人は死に、そして至福とともに生まれ変わる。たとえばそれはイエスの復活という寓話として人類に伝えられてきたが、それらさまざまな体験が去ったときに私はしかし、再び自分が孤独であることを知るのである。

 その孤独に耐える力を人は果たして持つことができるのであろうか?時にそれは悟りと呼ばれ、あるいは復活と呼ばれるが、それが真に実現したとき、あるいはそれこそが救いなのかもしれない。

 そして人はウソをつく。方便と呼ばれるウソを。「明けない夜は無い」とか、「希望を持って生きろ」とか。それらはすべてウソだ。明けない夜だってあるし、希望など持てない人もいる。そして時に人はみずから死を選ぶ。残念ながらそれが真実だ。それ以上何もない。ただ永遠の闇があるのみだ。

 

  私がはじめて「この⼈は本物だ」というような⼈に出会ったのは、⼀九⼋〇年頃のことである。正確に⾔えばその⼈の講話録の本に出会ったのだが、それはある意味運命でもあったし、偶然でもあった。上智⼤学の裏の本屋で私は、ある仏教経典の本を探していてやけに分厚い本を⾒つけた。その著者の名前は聞いたこともなかったが、ぱらぱらと⾴をめくって少し⽴ち読みして、そこに私はそれまで聞いたこともない類の声明に出会ったのである。その著者の名前は、バグ

ワン·シュリ·ラジニーシであり、書名は「般若⼼経」とだけあった。しかしそんなことはどうでもよかった。

 

 

 

「あなたの内なるブッダにごあいさつします」

 

 

 

と彼は話していた。私はショックを受けた。少し読んで、買って家に帰ってから私は夢中に読んでいた。「こいつは本物だ」と私は理屈抜きに直感した。彼の講話集を何冊か読みながら私は「この⼈は悟っている」と確信したのである。別に信じたのではなく、私には彼の⾔うことが真実だとただ「分かった」のである。もちろんそんな体験は⽣まれてはじめてだったし、私はそのことを誰にも⾔うまいと思った。ラジニーシはある講話でこう⾔っていた。「あらゆる努⼒は必ず破綻する定めにある。明け渡すことだ」

 

 

 

またある講話では彼は次のような物語を語った(禅にある、有名な話だ)。私は実に美しい物語だと感じた。

 

 

 

「昔のある村で修⾏していた⼆⼈の僧が、

また遠い別の村の寺で修⾏を積むため旅に出ることになった。

⼀⼈は⻑年の修⾏をすでに積んでいる年配の僧で、もう⼀⼈はまだ修⾏が浅い若い僧であった。

旅に出るにあたり、

年配の僧が若い僧にひとつの戒律を教えてやろうと思った。

「若い⼥には決して触れてはならないぞ」そのひとつの戒律だけを若い僧に教え、

⼆⼈はいよいよ、そろって⻑い旅を歩き始めた。かなり歩いたところで⼆⼈の僧は上流で増⽔し、橋が流されてしまった川の岸へたどりついた。

まあそれでも、男ならば⽔を歩いて渡れるだろうと判断した。

そこへある村娘が近づいてきて、⼆⼈にこう⾔った。

「偉いお坊様⽅、実は川の向こう岸に住んでいる私の親が危篤ということで、私は急いでおりますが、⼥⼀⼈ではこの川を渡れず困っております。

どうか助けてくださいませ」

 

 近くには他に誰もいなかった。

年配の僧は、「すまぬが厳しい戒律で私は⼥性に触れるわけには参りません」そう⾔って丁重に断った。

と思うと、若い⽅の僧が黙って娘を肩に担ぎあげて、さっさと川を渡ってしまった。

年配の僧も黙って続いた。

娘は丁寧に礼を⾔って、⾃分の親の住む⽅へ去って⾏った。

⼆⼈の僧はまた黙って⽬的地へ向かって歩き出した。

しかし、黙々と歩きながらも、年配の僧は内⼼穏やかでなかった。

「こいつはあれほど⾔ったのに戒律を破った。そのうち厳しく叱ってやろう」そう⼼の中で思い続けて、しかし黙って歩き続けた。

またかなり歩いたところで、⼆⼈はひと休みすることにした。

年配の僧はとうとう切り出した。

「あれほど⾔ったのにお前は戒律をやぶったな」すると若い僧は静かに⾔った。

「あなたはまだあの娘を背負っているのですか。私はあの川岸に下ろしてきました」

 

 

 

 そしてラジニーシは彼の著書の中でしばしば、J.クリシュナムルティという⼈の⾔葉をひいていたので、私はある書店で「⾃我の終焉」というクリシュナムルティの著書も⼊⼿して「こいつも本物だ」と直感したのである。

  クリシュナムルティは⾔っている。「思考は私たちの問題を解決することが出来るだろうか」。

そして私がクリシュナムルティから学んだことのすべては(⾃⾝の内⾯やものごとを)「⾮難も正当化もしないで」観るということに尽きる。

  結論だけ⾔ってしまえば、ラジニーシもJ.クリシュナムルティもまったく同じことを⾔っている。

それはつまり、もし私たちが⾃⾝の内⾯を静かに観ていれば、思考という雲と雲の間にだんだん隙間がやってくる。しまいには隙間ばかりになり雲のことは問題でなくなるということだ。雲とはつまり思考のことだ。そして空(そら)という⾃由だけが⾒え、つまり真実が⾒えるだろうということだ。それがつまり悟りである。

  私にとって後にも先にも「本物」はこの⼆⼈だけである。そして特にラジニーシによって紹介される仏陀やイエスや⽼⼦なども読むことになる。たとえば私はこの⾔葉が好きだ。「春が来れば草はひとりでに⽣える」。

 

     

 

 しかし結局のところ私には悟りきることが出来なかった。そして次第に、悟ろうとか悟らなくてはという観念から遠ざかっていった。と⾔うより、ほとんど意識しなくなっていった。元はと⾔えば病気の苦しみから逃れたくてそれらの世界に⼊って⾏ったのだから、それも当然だと思う。彼らの⾔葉は⼼の財産として憶えているものは憶えているが、特に著書を開くことはなくっなっていく。たぶん⾃然なことだと思う。そして私は凡⼈として⽣き、そして死んでゆくだろうと思う。それ以上努⼒したいともしようとも思わない。結局のところそういう意味では、私には救いはないのかもしれないが、しかしそんなことはどうでもいいような気がする。逆に私は死のうとも思わないし、⽣きたいとも思わない。こだわらない。時が経てば、私という⼈間がこの世に存在したことなど、誰も知らなくなるだろう。おそらく数⼗年も待つまでもなくー。

 

 

 

                            

 

 

 

              ー了ー

 

参考文献

 

「般若心経」和尚著 めるくまーる社

「存在の詩」和尚著 めるくまーる社

「マイウェイ」和尚著 めるくまーる社

「自我の終焉」J.クリシュナムルティ著 篠崎書林

 

 

 

 


奥付


小説「救い」


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著者 : 篠田 將巳(shinodamasami)
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最終更新日 : 2018-09-15 13:39:48

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