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引ける

勤務時間が終了した。同僚たちが、次々に席を立ち、「お先に失礼します」と言っては退社していった。

私は静かに皆が退社するのを待った。ようやく最後の一人が立ち上がり、お辞儀をして出て行った。

私は窓から、外を見下ろした。会社から出て行く人々が、それぞれの家に向かい、歩いていく。

今朝は雨が降っていたから、傘を持っている人が多い。

傘を持っていない人は、鞄の中に折りたたみ傘を入れているか、会社のロッカーに、置き傘でもしているのだろう。

私は自分の持ってきた、新しい傘のことを想った。

宇宙の絵が描いてある傘で、ちょっと恥ずかしくて、会社に着く少し手前で、傘を畳み、走ってきてしまった。そのおかげで、少しスーツが濡れたので、今日はじめじめした中で過ごした。

私は最後にオフィスを出て行った男が、信号を渡って駅の方角へ向かうのを確認した。

よし。

 

これから、私の時間だ。

 

私は、自分の席へもどると、自分のデスクと、隣の席の課長のデスクを移動させ、向かい合わせにした。そしてその隙間から中へもぐりこむと、隙間を閉じた。

中は、カプセルのようになった。私はそこに寝そべった。

じめじめしたスーツが、心地よかった。湿度も適温だ。

私は足を伸ばして目を閉じた。この空間は、こんなに広かっただろうか。足を伸ばせるほど。

けれども私は足を伸ばした。そこは、私の傘の中だった。

ここは、絶対安全な場所なのだ。

なにがあっても安全な場所は、地球上でここしかない。ということを、私は知っていた。

ここは、地震や台風といった、天災から守られるだけでなく、戦争や、原発事故といった人災からも守られる。それだけでなく、心の安全も保たれる。誰も私のことを傷つけないし、自分も私を傷つけることはない。

私は不安から解き放たれた。

ささくれだった心が、なだらかになって、とても低い丘のようになっていくのを感じた。その緑の丘を、少女が走り抜けていた。それは、何かから逃げているのではなく、自分の想いを振り切るために走っていた。

やがて女の子はたちどまり、地平線をながめた。そんなことは無意味だと、私が教えたからだ。ただ遠くをみつめればいい。ただ、遠くを。

 

そろそろ守衛さんが見回りにくる時間になった。私はデスクの下からのそのそと這い出た。

ここに長くいてはいけない。生きる力がなくなってしまうからだ。けれどたまにここに来なければ、生き続けられないことも、知っていた。

私は明日も、ここにもぐるだろう。一番安全な場所に。

 

会社から出ると、雨が降っていた。

皆が帰る時は降っていなかったのに。と、思いながらも、私はあの新しい傘を広げ、堂々と帰っていった。

 

 


ブリーチ

「お部屋の片づけをしましょう」と、家庭教師の先生が言った。

家庭教師の先生は、私のことなどおかまいなしに、さっさと地域指定のゴミ袋を自分のバッグから取り出すと、それを広げた。そのゴミ袋には、40ℓと書かれていた。普段家で使っているのは20ℓだから、先生は、かなりやる気だ。と私は感づいた。

「あ、あの、勉強の方は良いんですか?」

私は先生のやる気を目の前にして、無駄だと知りながらも、こう質問した。

「あなた、成績が下がっていますね。なぜだかわかりますか?」

「は、はい。それは、社会の年表が覚えられなくて……」

「語呂合わせですね?」

「はい」

「では、こうしてみましょう。今から、このゴミ袋に、何かが入る度、あなたの脳に隙間ができます。その隙間ができた瞬間に、語呂合わせを一つスッと入れるのです」

「はぁ、そんなにうまくいくものでしょうか」

「行きます。実証済みです。」

「誰で実証済みなんですか?」

先生は、その質問には答えず、まず床に落ちていた、ちびた鉛筆を拾い上げた。

「これは、捨ててもいいですね?」

すると私はびっくりして答えた。

「え、だめです。まだ書けます」

「このように短くなってしまっては、持ちにくいし、書きにくいでしょう。ある程度まで短くなったら、捨ててもいいのですよ。」

「でも、だって、もったいないし」

「では、あなたは、どのような状態になったら、鉛筆を捨てるのですか?」

私は生まれてからこれまでの記憶をたどってみた。そういえば、私は一度も鉛筆を捨てた記憶がなかったのだった。それどころか、限界まで使った記憶もないのだった。いつも、ある程度まで短くなったら、それを放っておいて、新しい鉛筆に乗り換えていた。

「ええと、捨てたことありません」

「では、このような短くて、使えなくなった鉛筆が、この家のどこかに、いくつもあるということですね」

「はい。そうなりますね」

「では、この一本ぐらい、なくなってもいいでしょう。どうせ床に転がっているくらいなのですから」

それでも私は忍びなくて、その鉛筆を先生の手からもぎ取った。

「あの、でも、あれがあるんです。鉛筆を長くできる道具が」

私は、ぐちゃぐちゃの引き出しの中から、その道具を取り出した。鉛筆を、筒状のものにはめて、ネジをしめると、鉛筆の柄が長くなった。

「これで、もうしばらく使えますから」

「そうですか」先生は冷たく言い放った。

「じゃあ、これはどうです?これは捨ててもいいでしょう」

それは、しわくちゃになってちぎれたメモ帳のかけらだった。

「ちょっと見せてください」

私はそれをまた先生の手から奪いとると、じっとそのメモの破片に目を傾けた。そこには、ゲームの攻略法が書かれていた。

「あ、これはだめなやつです。ここに、重要事項が書かれています」

「あなたそれを、ここに放っておいたのですか?今拾わなければ、もう一生見ることはなかったでしょう」

「いや、でもいつかまた、必要になる時が来るんです。お正月休みとか」

「そうですか」ため息をつきながら、先生は、次のものを拾おうとした。

「あ、それはだめです」

先生が拾うより先に、私は先生の足元にあった針金を拾った。

「こんなものあったら、あぶないでしょうよ」と先生は言った。

「これは、ちょっとこれから作るものの材料なんです。これをどうするか悩んでいたら、昨日寝ちゃって」

「それならそれで、テーブルの上にあげるとか」

「はい、すみません」

私は、それを机の上にあげた。ノートの上に置かれた針金は、もさもさっと揺れた。

「じゃあ、これは」すかさず先生が手にしたのは、噛んだガムを包んだ紙屑だった。

「それは、いいです」

「ようやく一つ見つけたわ」

先生はそう言うと、40ℓのゴミ袋に、それをさっと投げ入れた。

「さあ、今よ、今、あなたの脳みそに、容量があいたわ」

「は、はい!」

私は社会のノートを見直そうと、机に向かった。しかしそこには、さっきおいたばかりの針金が、堂々と横たわっていた。うっ!と私は思った。

「ああ!もうだめだわ!」と先生はがっくりと肩を落とした。

「どうしてなんですか?」

「今、せっかく空いたスペースに、あなたは針金を入れてしまった。」

「そうなんですか?」

「そうよ。だから、もう一回やりなおしよ!」

「はい、先生!」

 

 このようなスパルタ式のやりとりのあと、コンコンと、ノックの音が聞こえた。

「先生、休憩でも」

母が、リンゴケーキをお盆に乗せて、ガチャリとドアを開けた。

「あら、あら、ずいぶん部屋がきれいになったぢゃないの」

そう言いながら、母は床に落ちていた丸めたルーズリーフを足で避けた。

「いえ、片付いたように見えるだけで、ただ物を端に寄せただけなのです」そういいながら、先生はそのルーズリーフを、サッとごみ袋の中に入れた。

先生のゴミ袋の中には、まだ、さっき入れたガムのくずと、そのルーズリーフしか入っていなかった。

「あらー、ほんとに申し訳ないですわ。こんなことまで指導してもらって」

そう言いながら、母はリンゴケーキを先生の前に置いた。

「それぢゃ、よろしくお願いしますね」

そういうと、母は出て行った。

「先生、一休みしましょう。このままでは、明日までに終わりませんよ」

「明日までやるつもりですか?私の勤務時間は、あと一時間です」

「あ、そうでしたね」

そう言って、私たちはリンゴケーキをおいしく食べた。

すると先生は、突然、大きなくしゃみをした。「ぶえっっくしょい」

「せんせ、せんせ、はい、テッシュ」

「あびばぼうぼばいばぶ」

先生は、チーンと鼻をかんだ。「燃やせるゴミのゴミ箱は、どこですか」と先生はティッシュを丸めながら言った。「あ、はい、これですけど」

けれど私の視線は、じーっと先生の40ℓのゴミ袋に注がれていた。「それに入れればいいんじゃないですか?」

「あ、そうね、そうね、うっかりしてたわ」先生は、ティッシュをゴミ袋にシュッと入れた。

その時、私は大きな声でこう言った。

「ハットトリック薬子の変!」

「それは、なんですか?」

「語呂合わせです。」と、私は言った。


奥付

 

【2018-09-16】指さし小説 第30話


http://p.booklog.jp/book/123785


著者 : かっこ
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/resipi77/profile
 
今回は、「引ける」が、テーマでした。最初に、会社から、どんどん人が帰って行く様子が目に浮かんで、その時の静かな感じをベースに作ろうと思い立ちました。
私も、不安になると、無性にテーブルの下にもぐりたくなり、実際にもぐることがあります。なぜか落ち着きます。皆さんも、試してみてね。
 
~お詫び~
第31話は、10月16日に配信の予定でしたが、大幅に遅れ10月21日になってしまいました。
申し訳ありません。忙しさにかまけ、気づけば日付が過ぎてしまっていました。すみません。
30話にくっつける形での配信となってしまいますことを、重ねてお詫び申し上げます。
 
第31話のテーマは、「ブリーチ」でした。脱色どころか、髪を染めることすらやったことがない私にとって、ちょっと難題かと思われましたが、漂白という意味があるらしく、何かの色に染める前に、色を抜くということで、何かを得るためには、何かを失わなければならないというようなことをテーマにしたらできるんじゃないかなと思って考えました。久々に、高校の時の社会科の資料集など取り出してみましたが、現在では薬子の変も、違う呼び方で紹介してる教科書もあるとか。時代の移り変わりが激しいですね。そして、私たちにとっては最近のニュースと思えることでも、今の子どもたちには歴史として学ばれているんだなーというのを感じました。

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