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算命学余話 #R73 (page 1)

 ロシア文学が誇るドストエフスキーの遺作『カラマーゾフの兄弟』に今も議論の的となっている「大審問官」問題というのがあることを、以前の記事にも書きました。ごく端折って言うと、人間は自由とか尊厳とかよりも腹いっぱい食べられて快適な生活が保障される方を望むのだから、いっそ自由や自己決定権といった煩わしい権利は放棄し、万事うまくやってくれる王様なり将軍様なりに献上して差し支えない、実際そういう国や社会はいつの時代も存在しているではないか、という「人類ガッカリさん」説です。どうですか、皆さんはガッカリすると感じましたか、それとも「それの何が悪いの」と何かを食べ続けながらスルーしましたか。

 

 私は算命学の立場から、一日の起きている時間の大半を食べているか食べ物のことを考えるかして生きている人の人生を、寿(算命学で寿は「食」とも言います)の異常偏重と見做し、対極にある印(知性)を著しく欠いた低級人間だとバッサリ斬り捨てておりますが、残念ながら寿に心地よく束縛される人々は物質的に豊かな社会ほど多く存在し、世の関心事は食べ物に尽きるとばかり食い物の話題が横溢する現代社会は、「大審問官」の人類ガッカリ説を裏付ける見本市といったところです。

 私などは、日常会話に食べ物の話しか出て来ない人をもうはっきりと軽蔑していますし、そういう基準で人をランク付けすることを躊躇しません。そうしないとストレスになるからです。彼らの話に相槌を打つことすらもう我慢できないくらい、ウンザリしているしガッカリしている。

 

 もちろん食事は大事です。食べずに人は生きられない。でもそれは他の五徳も同じです。人間は福寿禄官印という五種類の本質のうち、どれを欠いても人間ではいられないのです。寿と印は「水火の激突」により特に激しく対立する五徳ではありますが、どちらにも偏らずにバランスのとれた者が人間と呼ばれるのです。

 残りの福・禄・官も同じで、どれかに偏った人間は人として奇形であるか、そもそも一人前の人間扱いすべきでない。算命学による運勢鑑定では、これくらいの気概でアドバイスする姿勢を鑑定者に求めたいものです。でないとこの世にガッカリさんが充満して、陰陽五行のバランスが取れない人類を自然がさっさと淘汰してしまうでしょう。

 

 このように食べ物で頭がいっぱいな人たちの非難は判りやすいのでちょいちょいやっておりますが、昨今は自由や自己決定権を放棄したがる人たちも目につくようになりました。私に運勢鑑定を依頼してくる人の中にも、以前はいなかったタイプが最近多い。その人たちの特徴は、おかしな依頼文を寄越すことです。

 どうおかしいかというと、自分の命式を鑑定するよう依頼しているはずなのに、「よかったら鑑定お願いします」と鑑定する決定権をこちらに放り投げてしまう文言が並んでいるからです。もちろん鑑定には料金がかかるので、支払うのは依頼人の方です。私は鑑定という技術を駆使した作業をする代わりに報酬をもらう側です。

 

 私はこの作業を天職だと思っているのでイヤイヤ鑑定しているわけではありませんが、正直言って、見ず知らずの赤の他人の命式に対する興味はほとんどありません。人生にお困りの人が、料金を払ってでもアドバイスが欲しいというので、それはお気の毒だと思って料金分の鑑定をしているに過ぎないのです。でもそもそもが知らない人なので、その人の人生に積極的に係わろうという意欲はもとよりなく、よほど特異な経歴の人でもない限り命式に興味は湧きません。

 そういう人たちが「よかったら鑑定してくれ」と言ってきても、興味はないから鑑定したくない、する必要がない、というのがこちらの本音です。嘘を並べても役に立たないので本音を述べますが、自身の命式に興味があるのは依頼人本人のはずです。鑑定者ではありません。だから依頼をしたいのなら「これこれこういう事情なので是非鑑定してくれ」と頼むべきなのです。そのための料金だって自分が払うのだから、料金に見合った作業をしてくれと、対等な立場で取引を打診するべきなのです。

 

 それを「よかったら」とはどういう了見なのか。自分がお金を払うのに? 払った後で「やっぱりやりたくないので鑑定しません」と言われても構わないということですか。日本語がヘタとかいう問題ではないです。上述した「自己決定権」もしくは人としての尊厳を放棄している以外の何ものでもありません。五徳で言えば、福と官と印の欠如です。五つのうち三つもなくしてしまっては、人として淘汰寸前の末期症状と言わざるを得ません。

 こういう文章を寄越す人はもうすみからすみまで判断力が利かなくなって、「俎板の上に寝そべるから煮るなり焼くなりご自由に」という気分になっているわけでしょうか。そんな人に与える有効なアドバイスなど見つかるのでしょうか。あ、もしかして、この人自殺したい人なのかしら。死ねって言われたら、言う通りに死ぬ人なのかしら。やあねえ、死にたいなら勝手に死になさいよ。他人に決めさせて、自殺も他人のせいにしようって魂胆ですか。いやらしい。どこまで責任放棄すれば気が済むのだ。今すぐ人間やめちまえ。

 

 私はこんな風に考える鑑定者ですから、依頼人の皆様にはくれぐれも軽蔑されないよう配慮した依頼文を書くことをお勧めします。難しいことではないはずです。年齢に見合った分別ある大人でありさえすればいいのです。アンチエイジングとかに血眼になっている幼稚な人には難しいかもしれませんが。

 余談まで、最近『発達障害と言いたがる人たち』という本が出て、中身を読んではいませんがタイトルを見てにやけました。内容も何となく判ります。まさにこういう依頼人も増えていて、面倒臭い人たちだなと辟易していたところです。発達障害と診断されることが人生の免罪符になるとでも考えているのでしょうか。精神障害と診断された殺人犯が無罪になるのと同じように。

 彼らには是非この本を手に取って読んでもらって、宿命や成育環境や病気(そもそも発達障害とは病気なのでしょうか。医者が金儲けのために勝手につけたネーミングに過ぎないのでは)に原因を見出すよりまず自分自身の生き方、具体的には、悪いことは全部他者が引き起こしたことで、自分に責任はないという間違った姿勢から改善することをお勧めしたい。PTSDだって自己克服できる人とできない人がいますが、その明暗を分けるのは結局のところ、その人の生き方・考え方なのです。

 他者に責任を押し付けようとする人に開運の見込みはありません。この点を算命学は譲りません。自分の人生は自分で責任を持って下さい。他者に預けたり、自分は悪くないと責任逃れするのはやめましょう。大人げなく、みっともない行為です。(大人げない行為は印=知性の欠如、みっともない行為は官=名誉の欠如です。参考まで。)

 

 さて長口上になりましたが、今回の余話のテーマは上述の話に関連して、思い込みや責任転嫁について考えてみます。人間には自己決定権があり、それを行使せず放棄する人は責任逃れを望んでいる人なのですが、例えば独立独歩を旨とする貫索星から見れば、こうした無責任で他人任せな人間はヘドが出るほど耐えがたいし、そもそも理解できないでしょう。貫索星だって本質からいえば思い込みの激しい人ですが、そこには自分の意志を貫こうとする姿勢が必ずありますから、他人任せでよいという考えにはなりません。

 では石門星はどうでしょう。石門星は柳のように柔軟で、強い意志を前面に出して突き進むタイプではないところが貫索星との差異ですが、その実、右に左にしなりながら自分の目的を最終的に完遂させようとする本能はあります。但し、最終的な目的をただ「生き残る」ことに定めた場合には、自己決定権を強者に委譲して放棄し、集団に紛れることで責任逃れをしようという考えに至ることもあります。

 しかし今回はそうした石門星なり特定の星についてではなく、星並びから見た思考傾向について考えてみます。


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最終更新日 : 2018-09-09 13:28:53

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