目次

閉じる


 中学の入学式の翌日、菫は一人家へと急いでいた。帰ってもだれもいないマンションだが、学校での緊張を制服と一緒に早く脱ぎ捨てたかった。

  これから通学路になる道の両側には、古いけれどよく手入れされた家が並んでいる。その一軒の前で、菫はふと足を止めた。門の前に置かれた木のプランターの中で、薄紫の小さな花がそっと咲いていたのだ。よく見かける花なのに、なぜか気になって見つめていた。 

 すると、帽子をかぶり手袋をはめた小柄なおばあさんが、門を開けて出てきた。

「おじょうさん、お花がお好き?」

 そう言われた菫は、真っ赤になって駆けだしてしまった。

 翌日、菫は、気づくとまたその花の前で立ち止まっていた。地味な雑草のような花なのに目がいってしまうのだ。庭にはおばあさんがいたようだけれど、声はかけてこなかった。

 その日も、菫が足を止めていると、おばあさんがちょうど帰ってきたところだった。

「このお花、タチツボスミレっていうのよ」

 日傘をすぼめながら、そっと言った。

 思わず菫は、うつむいていた顔をあげた。

「よかったら、どうぞ」

 門を開けて先に通してくれた。おずおずと庭に入った菫は、目を見張った。色とりどりの花が咲き、テラスにはおもちゃのような小さな木のテーブルと椅子が置かれていた。菫は、そこに浅く腰掛けると、なんとか声をだした。

「なんか、あのう、そのう、私、菫って名前で」

「まあ!なんてすてき。だからこの花を見つめてらしたのね」

「いえ、どうしてだか、ちょっと」

「私は百合恵っていうの。スミレとユリで仲良くしてね。あー、こんなばあさんじゃお嫌よね」

「あっ、いえ、そんな」

「私、花が好きでね、あれこれ世話してると時間を忘れるの。よかったら見てらしてね」

 そう言われて菫は、庭をゆっくり眺めた。どの花もそれぞれの場所で慎ましく咲いている。百合恵さんが、いそいそとお茶を運んできた。真っ白な髪にピンクの花柄のエプロンがよく似合っていた。

「これ、いかが?」

 小さな薄紫のお菓子をさし出されて、菫はこわごわちょっと口に入れた。

「甘い、おいしい」

「これね、あのスミレの花の砂糖漬け」

 そう言うと、目じりのしわを深くしてやわらかく笑った。

 ハーブティーを飲みながら、百合恵さんは途切れることなく話した。今七十七歳であること、ご主人が五年前に亡くなったこと、まだ独身の息子は、仕事が忙しいとちっとも帰ってこないことなど。でも、ほとんど目の前の花の話しだった。

「この子」

「あの子」

 などと言いいながら、花を指さすのがほほえましかった。そして、菫のことを何も訊ねようとしないことが、居心地よく、ゆるやかに時間が過ぎていった。

「ごめんなさいね、私のおしゃべりに付き合っていただいて。お母さまが心配なさるわね、電話してね」

 そう言って携帯電話を差し出した。

「あっ、スマホ持ってます」

 そう言った菫だったが、両親とも遅いので、連絡する必要はなかった。

「私の家ベランダ狭いし、花育てたことなくて。小学校一年のとき、アサガオ枯らして有名になりました」

 菫は初めて口元をほころばせた。切れ長の目が普段きつい印象を与えるのだが、笑うと愛らしい。そして今、喉に引っかからずに声が出た自分に驚いていた。

 そんなことがあってから、学校帰りに友里恵さんの庭に、ちょっと立ち寄るようになった。いろんな種類のスミレたちを見るのが楽しみだった。

 六月初めの土曜日、百合恵さんと菫は汗ばみながら、夢中でスミレのタネを集めていた。花弁を落とした実がぐんと伸びて上向いている。硬い殻が三つに分かれていて、その中にはたくさんのタネがびっしりとくっついている。その殻がそれぞれ細くなると、ぎゅっと押し付けられてタネが遠くに飛び出すのだ。長い時間見つめていた菫は、小さなスミレの大きな力に圧倒されてしまった。

「すごいなあ、スミレたち」

 思わずつぶやいた菫に百合恵さんは、小さな白い袋を渡した。

「これ?」

「お茶パックよ。ほら麦茶とか沸かすときに使うもの。ポリ袋だとタネが息できないでしょう」

 きょとんとしている菫にそう言いながら、やってみせた。

「ほんと遠くへ飛ぶの。だから拾うのが大変でしょ。このお茶パックを被せておくと、ここにたまるのよ」

「うわー、すごいアイデア」

 菫は勢いよくどの実にもパックを被せて止めていった。

「スミレは見かけによらずたくましいのよ。花言葉は誠実とか謙虚ですって。菫さんにぴったりね」

 菫はびっくりして百合恵さんをみつめた。今まで勉強もスポーツも得意なものは何もなく、友達もいない自分にうんざりしていたのだ。土に触れていると、とても心地がいい。ずっと一人でスマホゲームすること以外楽しいことはないと思っていた。ここでの時間がとても大切になってきたのだ。

「私ね、四歳くらいだったかな、戦争の空襲でみんな焼けてしまった町でね、がれきばかりの道に、薄紫の花が咲いてたの。きれいなものなんか何もなかった時のその花は、本当に夢みたいだった。母にスミレだと教わってからずっとずっとこの花が好きなの」

 友里恵さんは手は休めずに、そんなことをまるで独り言のように話してくれた。

「お手伝い、本当にありがとう。またいつでもいらしてね」

 そう言って、帰る菫にお茶パックにたまったタネを渡してくれた。

 夏休みもよく百合恵さんの家に行った。キッチンでお料理の手伝いもするようになり、宿題をすることまであった。

 

 それは九月のまだ日差しが強い夕方だった。

「あー!」

 悲鳴とドーンという重い音が同時に聞こえた。菫があわてて庭に出てみると、百合恵さんが横向きに倒れていた。

「きゃー、百合恵さん!百合恵さん!」

 そう叫んだけれど、友里恵さんのうめき声が庭にひびいた。菫は隣の家に駆け込み、インターホンも押さずにドアを叩いた。

「助けて下さい!百合恵さんが!助けて!」

 どこにそんな大きな声が隠れていたのかと思うほど、夢中で叫んだ。救急車が走り去った後も、菫は実際に起こったこととは思えず、ぼーっと座り込んでいた。

「お孫さん?違うんですか?ではご家族の連絡先は?」

 そう救急隊の人に聞かれて、百合恵さんの携帯を出したことは、かすかに覚えている。息子さんの電話番号があったはずだ。隣のおばさんが、救急車に乗って付いて行ってくれた。

 菫は、心臓がこのまま凍り付いてしまうのではないかと思った。ずいぶん時間がたって、のろのろと立ち上がった。百合恵さんが倒れていたのは階段の下。その横の花壇のレンガに血がついている。それをハンカチでこすり続けていると、涙がぼろぼろとこぼれた。

 それから、学校の行き帰り、菫は百合恵さんの庭を覗きこむのが癖になっていた。でも、いつもしーんとして、花だけが淋しそうに風にゆれていた。

 

 二学期が終わり、雪まじりの風が吹いた夕暮れ、庭で男の人が家を見上げていた。がっしりとした体格だったが、日焼けした顔が百合恵さんとそっくりだった。ふと、こちらを向くと、声をかけてきた。

「あの、失礼ですが、菫ちゃん?」

「は、はい」

「お袋がお世話になりました。ずっと菫ちゃんのことっていうか、自慢ばかり聞かされてました。いろいろありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をして、息子さんは話してくれた。百合恵さんはひどい骨折で歩けなくなってしまったこと、車椅子での暮らしはこの家では無理なので、年が明けると高齢者の施設に入ることを決めたこと、この家は更地にして売りに出すことなど、まるで大人にするように丁寧に話してくれた。

「僕が火山観測の仕事やってるもんで、ちっとも帰ってやれないのがいけないんですよ。親不孝者です。あんなに前向きだったお袋が、気力が萎えてしまってね、リハビリにも力が入らないのがねえ」

 そう言って庭を眺めて眉を寄せた。菫は、心配していた以上のことに打ちのめされた。

 

 冬休みの最後の日、菫は、電車とバスを乗り継いで、もらったメモを頼りに百合恵さんの暮らす施設に向かった。百合恵さんの個室に案内してもらった菫は、息が止まりそうだった。

 あの百合恵さんが小さくしぼんだようになって、車椅子に座っていた。

「まあ菫ちゃん、ありがとう。ご心配かけたわね。あー、もうこんなことになってしまってねえ」

 そう言って百合恵さんは、無理に笑おうとしたけれど、顔は堅いお面を被ったようだった。菫は話題を見つけることもできず、すぐ部屋を出た。

「どうしたら元気を出してもらえるんだろう?」

 それから、菫は真剣にスマホで検索し始めた。入学以来初めて図書室に入り、本も調べた。でも、土が大事、ということが分かったけれど、スミレの育て方はよく分からなかった。

 職員室の前で、菫は深呼吸をした。園芸部顧問の田渕先生の机は入口から遠い。もうやめようかと思ったけれど、あの百合恵さんの表情を思い出して、力をふりしぼってドアを開けた。

「あ、あ、あのう、一年三組の前田です。あ、あのう」

 田渕先生の机の横で、ぼそぼそと声を出した。

「お、前田、めずらしいのが来たな。どした?」

「あのう、スミレの」

「前田菫だよな、そのスミレがどした?」

 田渕先生は,大きな体をゆすってのそりと立ち上がると、

「向こうで話聞こうか」

 そう言って職員室から出ると、中庭に向かった。花壇の側で菫がつっかえながらも話しをすると

「そうか、大変だったな。しかし、それはいいことだなあ、がんばれ。スミレは見かけとちがって根性のある花だぞ、先生も応援するぞ」

 田淵先生のゆれる二重顎を見ていると、菫の心もゆるんだ。

「植木鉢の号数とか肥料とかメモしておくぞ。植物を育てることは土や生きものの声を聴くことだ。できるか?」

 田渕先生は、そう言いながら土をポリ袋に入れた。

「これも持って帰れ。放課後はたいてい園芸部の生徒とここにいるから、なんでも聞きに来いよ」

 土曜日になるのを待ちかねて、菫は、お小遣いで深い植木鉢などを買って来た。それからタネをまき、ベランダで毎日毎日ドキドキしながら見つめていた。

 ときどき園芸部の様子をそっと見に行ったりした。今まで気が付かなかったけれど、花壇にはスミレも植えられていて、葉を地面にくっつけるように寒さに耐えていた。

「がんばれ!」

 菫はおもわず心の中で応援した。

 

 温かくなってベランダのスミレにつぼみがついたときは、体が熱くなって思わず叫んだ。

「やったあ!バンザーイ!」

 

 二年生になった菫は、また百合恵さんの施設に向かった。植木鉢を抱きしめて。

「百合恵さん、私が育てたの。あのときのタネで」

 そう言って、車椅子の百合恵さんの前にそっとその植木鉢を置いた。すると、不思議そうにじっと見つめていた百合恵さんの顔から堅いお面が少しづつはがれていった。

「菫さん、そう、あなたが一人で。そう、育てたのね」

 かがむと、薄紫の花びらをそっとなでた。

「そうね、スミレはあの庭でなくても育てられるわ。私もこのベランダでやってみる!それにはリハビリよね。まず立たなきゃ!」

 以前の百合恵さんにちょっともどったような気がして、菫は百合恵さんの車椅子の後ろで、ガッツポーズをしてしまった。

「今度一緒にタネ取りしてください。また来ます」

 

 そろそろ梅雨入りと思われる頃、学校の中庭が賑やかだった。

「えー、前田、お前、すごくね?こんなお茶パックでタネ集めるってスゲエ」

 一人の男子が大声を出している横で、一年生が

「アリが行列作ってタネ運んでるよ、こんなの食べるの?」

 不思議そうに言った。

「あっ、それね、エライオソームっていって」

 そこまで言った菫は、急に恥ずかしくなって田渕先生を見た。

「おっ、前田よく知ってるな。タネにアリの好物がくっついてるんだぞ、それで、運んでもらうんだ。アリは用のなくなったタネを捨てる。そこで根を下ろして命をつなぐんだなあ。それから花を咲かせずにタネだけを作り続けるんだ。冬の寒さをひたすら耐える。ちっぽけなスミレだけど、もう感動だなあ」

 田渕先生は、まるで舞台俳優のように腕を天にむけた。

「菫はスミレのことなんでも知ってるんだよね」

 同じクラスの子にそう言われて、ますます小さくなった菫だけれど、勢いよくタネを集めていった。

「せんぱーい!こっち来て教えて下さい」

 向こうの花壇で、一年生が呼んでいる。

「はあい!」

 元気な声で向こうの花壇に駆けて行く菫のおかっぱが、はずんでいた。


この本の内容は以上です。


読者登録

かよりんさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について