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熱帯の町に、雪が降ったら。

 

 

 

 

 

 

 

 

4月30日は、いわゆる《サイゴン陥落》の日だった。

 

1974年生まれ、というわたしが世代論的に言うと、歴史の教科書の最後のページが、この《サイゴン陥落》、つまりベトナム戦争終結だったので、嫌でも知っている。

 

時系列を書くと、こうなる。

1973年1月23日、当時のいわゆる《北ベトナム》の、特別顧問レ・ドゥク・トと、キッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印がされる。

 

同年、1月27日、《パリ協定》正式調印。

 

同年、1月29日、ニクソン大統領はベトナム戦争終結を宣言。

以上で、いわゆる北ベトナム軍と南ベトナム軍の休戦が一応成立する。もちろん、このまま放っておけば、今の北朝鮮と韓国のようになっていた、可能性もないでもない。

 

この功績によって、上記レ・ドゥク・トとキッシンジャーにはノーベル平和賞が授与される。

しかし、レ・ドゥク・トは、ベトナムにまだ真の平和は訪れていないということを理由に、受賞を拒否する。多くの人々は、そのストイックさに共感した。

とはいえ、これはある意味で正論である。一方的に軍事介入してきたアメリカが、もう戦争やめる、と言っただけで、実質、南ベトナムと北ベトナムの戦争が終わったわけではない。統一されたわけでもない。二つの《国》が、お互いに国家承認しあい、共存共生を誓ったわけでもない。いまだに、南ベトナムとは、実質アメリカの傀儡政権に過ぎないのだ。

あるいは、これはあくまで私見だが、レ・ドゥク・トは、最初から、こんな調印、まともに守るつもりなど無かった、のかもしれない。だったら、もらえるわけがない。

休戦?形だけだよ、と。おれたちは、統一するまで、戦うよ、アメリカに一時、手を引かせたいだけだ、と。

是非はともかく、いずれにせよ、彼らの決断こそが、ベトナムが第二の朝鮮半島にならないですんだ理由である、とも、言えなくもない。

 

その後、1974年、年頭、北ベトナム側がなし崩し的に戦争を再開する。

同年、ウォーターゲート事件でニクソン失脚。アメリカ側、戦闘再開にほぼ手出しせず。南ベトナム、…《サイゴン政府》は、その後ろ盾に見放されたことになる。

 

南ベトナム側は、防戦一方。

 

1975年3月、北ベトナム軍の総攻撃開始。ちなみに、これを《ホー・チ・ミン》作戦、と言う。

 

同年、4月20日あたりには、南ベトナム首都《サイゴン》を北ベトナムが包囲。

 

同年、4月30日、南べトナム高官および、残りの米軍兵士、軍高官等の一斉撤退が始まる。

このときの完全撤退のシグナルは、米兵用ラジオ・チャンネルから流れる、《ホワイト・クリスマス》だった、らしい。

ビング・クロスビーの歌ったものだ。

格好つけていえば、4月、熱帯の町《サイゴン》に、雪が降った、と言うことになる。

撤退開始の通知を受けた北ベトナム軍は、その完全終了まで待機。撤退終了後、北ベトナム軍、サイゴン突入。

米軍は、海に軍用ヘリや武器を投げ捨てて、海の向こうに帰って行った。

ここに、サイゴン政府は崩壊し、旧都《サイゴン》は、現在の《ホー・チ・ミン》市へと、名前を変えることになる。

 

この日のことを、アメリカ人は Fall of Saigon と呼び、日本人はその直訳で、《サイゴン陥落》と言い、ベトナム人はもちろん、《南部解放 Gii phòng Min Nam 》あるいは、《サイゴン解放 Gii phòng Sài Gòn 》と讃える。

南部発音だと、ヤイフォンミェンナム、ヤイフォンサィゴーン…と言う感じの発音。北部だと、ザイフォンミェンナム、ザイフォンサィゴーン、だ。…と想う。

北部言葉は、実は、あまりよく知らない。

南部、中部では、どちらかというと、《南部解放》と呼ぶのが一般的だ。

 

ベトナムに来た当初、どこに行きたい?そうベトナム人スタッフに問われて、是非、サイゴンに行きたい、と言った。

会社はホー・チ・ミン市にあった。ここが、その《サイゴン》であることを、わたしは、知らなかったのだ。

…ここですよ。

当然だが、スタッフはそう言った。

「ここが?」

「そう。」

「そうか。」

「ええ。」それだけ。ココナッツの街路樹が、風に揺れる。

 

小学生の頃だ。若い、30代の男の先生が、かなり気合を入れて、《サイゴン陥落》のことを教えてくれた。それもそのはずだ。彼にとっては、ちょうど多感な十代の頃に起きた、記憶にも鮮明な大事件だったのだから。

 

4月30日、サイゴン政府及び米軍の、撤退のシグナルは、米軍用ラジオ・チャンネルから流れる、ビング・クロスビーの《ホワイト・クリスマス》だったという。

その日、一日中、熱帯の町に、その曲は流れ続けた。

春、4月、熱帯の町、灼熱の《サイゴン》に、雪が降る。

それは、幼いわたしにとって、鮮烈過ぎるイメージだった。この地上のどこか、熱帯雨林の林の向こうに、幻と消えてしまった町、《サイゴン》に、いまもずっと、人知れず雪が降り続けている、そんな映像が、頭の中から離れなかった。

 

だから、《サイゴン》と言い、《サイゴン陥落》と言えば、わたしにとって、まっさきに想い浮かぶのは、見渡す限り一面の、雪化粧、である。

 

 

 

* *

 

 

南部の町のカフェに行くと、ハンモックを吊り下げている店が多い。安っぽい、ほこりっぽい店に限って、だ。家族だけで運営されているような、すぐ横の席でその家の子どもが宿題をやっているような、そういう店である。

 

ホテルの近所にあった、そんな店で、昼下がり、ハンモックに寝転がっていると、いつの間にか寝てしまう。

休日だった。

心地よい。眠りは浅いが、ちょうどよい。日陰の風の中で、うとうとするくらいが、ちょうど気持ちいいのだ。

 

なんとなく人の気配がして、眼を開けると、覗き込むようにしてわたしを見ている顔があった。女の子だ。十五、六歳なのではないか。うつくしいとも、かわいいともいえない。とはいえ、醜いともいえない。よくもわるくも、個性的な、といってお茶を濁すしかない、そんな、ありふれた顔立ちの少女だった。

 

この店の女の子であることは知っている。

何度か、顔を合わせたことがあった。カフェは、ホテルのすぐ向かいだったから、わたしは、ほぼ毎日のように、ここに来ていたのだった。

 

微笑みながら、くるくるした眼差しで、隣のハンモックに腰掛けたまま、かぶさるようにして、わたしを見つめていた。

髪の毛が、わたしの首筋に触れそうになる。

 

わたしは、微笑むしかない。

彼女が、なにを想っているのか、もちろん、わたしだって感づいていた。

…恋、というもの。

万葉集に、《孤悲》と書いて《恋》と読ませる当て字があるが、それほど想いつめた感じではない。

もっとあけすけで、あ、この子、おれのこと好きなんだな、と、想わず笑い出してしまいそうな、そんな、明るくて、素直な表情だ。

 

とはいえ、笑ってばかりもいられない。

そこには今、彼女のほかには、父親と母親と、歳のはなれた弟なのだろう、十歳くらいの少年と、そして、何人かの客がいた。もちろん、みんなベトナム人だったが、…どうだろう?

 

彼女は明らかに未成年なのだし、わたしの立場としては、どうだろう?

 

周りの人間が、彼女のそのむちゃくちゃな積極性に、なにも言わないのが、不思議だった。

 

それから、店に行くたびに、彼女の強烈な眼差しを、かならず意識しないではいられなくなった。

 

スタッフに言ったら、なにをいまさら、という顔をされた。最初に一緒に行きましたよね、あなたをホテルに連れて行ったときに。あの時からですよ。

…そうか、と、つぶやくしかない。気付かなかっただけ、らしい。

「で、どうしたんですか?」

「どうって?」

「恋人にしましたか?」

「…まさか。」

言葉が通じないのだから、身振り手振りのやりとりの中で、わたしのコーヒーを一杯くれ、のジャスチャーが、わたしの妻になってくれ、のジャエスチャーとして解釈されない可能性も、ないわけでもないかもしれない。なら、それは、わたしの責任でもあるのだろうか?

 

さすがに、誤解を解くなり、彼女に遠まわしに断るなり、なにかしないと、いくらなんでも無責任だ、という気がした。

スタッフはなかなか取り合ってくれなかったが、面倒くさがる彼を無理やり引き連れて、カフェに行った。

 

わたしはあなたの恋人になることはできません。いつ、日本に帰らなければならないか、わからないのだから、と、婉曲に断るよう、スタッフに頼んだ。

二人は、わたしの目の前で、ニヤニヤしながら、なかなか話し終わらない。ときに、意味ありげな流し目をわたしにくれながら。

やがて、スタッフは声を立てて笑い、わたしに言った。

「無理ですね。彼女、結婚したいと言ってます。」

 

そこを何とか説得するのがお前の仕事だ、と言ったが、スタッフは肩をすくめ、「いつ恋人になってくれるんだ、と言っていますよ」そう答える。

When pigs will fly… 豚が空を飛んだらね。その言葉をもじって、わたしは彼に言った。

「サイゴンに雪が降ったら。」スタッフは笑う。…いいね、それ。いい。とてもいい、すてきな振り方です。

 

… When snow will fall in Sai Gon.

そう、ここが、雪に埋もれる日に、わたしたちは恋人同士になれる。美しいイメージだ、と想った。

幻の、《サイゴン》に降る雪の、純白のイメージを想起する。…熱帯の雪。

 

スタッフに言われて、少女は、声を立てて笑った。わたしを振り向く。そして、これまで以上ににこにこ微笑み、わたしに親指を立てた。

 

…Good !、あるいは、O.K. ! だろうか?

 

一瞬、意味がわからなかった。

 

カフェを出た後、スタッフに言った。

「なんて、言ってた?彼女。」…うーん、と唸って、「たぶんね、彼女、結婚の約束をしてくれた、と想ったみたい。」

「なんで?」

「だって、言ったじゃないですか。サイゴンに雪が降ったら、結婚してあげるって。」…ね?と、スタッフは肩をすくめて、「…だから、それは、結婚の約束をした、ということでもあります…」

 

この町の、永遠の夏の日差しが直射して、アスファルトの路上をきらきら、きらきら、白くきらめかせる。砂埃が舞い上がり、こまかく光る。熱気を孕んだ風が吹く。…雪。

北海道にも夏があるのだ。この熱帯の町にだって、雪が降る日が、いつか、来るかも知れないではないか。そんな気がした。世界が、終わるまでの長い長い、途方もなく長い、永遠に近い時間の中の、いつか。一日くらいは。

だとしたら、ほぼ、永遠に近い長い時間をかけた約束を、わたしは彼女にしたことになる。

「…そっか。」

わたしは独り語散るようにつぶやき、理解した。彼女が、たしかに、永遠を手にしたことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


未完成の断片。

 

 

 

 

 

 

 

色彩と形態の中に

In a landscape

 

 

 

 

 

 

 

 

 

In a landscape

息遣う。

覚えている。

そっと、

いまだに。(…誰を?)僕が壊して仕舞った女のことを。

破壊した?あるいは、破綻させた、…どうやって?(なぜ?)

呼吸した。

あんなことを、…なぜ、と想いながら、(覚えている。)なんども、あるいは、なんどか、(いまだに、)考える。…誰を?

気付かれないように。

彼女。笑って。理沙という、…ね?僕が(破壊した?)愛した、(あるいは)…かもしれない、…ね?(破綻させた)その。

気付かないように。

…どうやって?怖くないから。ただ、ひたすら…ね?(なぜ?)傷つけあうことによって。(なぜ、…)

君を、

24歳の僕は、笑って。(なぜ?)微笑んで。体を売っていた。(あんなことを、)実質的は。笑って。要するに、(あんなことたちを、)微笑んで。つまりは。

起こして仕舞わないように

(あんなことらを、)ホストだったから。(あんなこと[複数形]を)僕は、夜の歌舞伎町で生活していた。

僕は、手を

90年代の、(…なぜ、)ビルが火災になる前に。(と想いながら、)町はまだ死んでいなかった。覚えている。見て。

伸ばす。

まだ、君のすべてを。(なんども)見て。町には君のすべてを。自由があった。見て。(あるいは、)君のすべてを。穢い人間の穢いくずが(なんどか)汚物を見て。すすりながら

光に。…月の?

生きていけるだけの、ありのままの。なんとか、(いまだに)かろうじて確保された、見て。それ。(考える。)笑って。町であった、僕に

窓からの、

(…誰を?)壊された女、出来るなら。(彼女。)笑って。…理沙。

褐色の、理沙。

 

色彩と

かたち

形態

色彩の

かたちづくられた、

色彩

形態の

形態と色彩

かたちづくられた色

色の

かたちづくった

形態

かたちづくられた色のかたちづくった形態

形態と色彩

色彩に

形態と色彩に。

どこに?

形態と

色彩の

中に

色彩と形態の中に、

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふいに、壁の向こうに土砂降りの雨が降る。猫に起こされる。その、ながくなめらかな鳴き声に。ベトナムの、ベトナム人の妻の家だった。5時半。まだ夜は明けない。眠った振りをする。かたわらに妻の体臭がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで、廃墟のような家だった。すくなくとも、一般的な日本人にとっては。1970年代の始めに立てられた、レンガブロックをコンクリートで固めて作った家。でたらめな電気配線が壁をはい、必要以上に広く間取られ、基本的に部屋と言う概念はない。一応の仕切りを兼ねた、壁だけはある。ガラス窓は一枚もない。飾り格子がはめ込まれた窓に、板で作った窓板が雨戸の用をたし、それを塗った青いペンキは剥げかかっていて、壁は一面、淡い緑色に塗られていた。床の緑の御影石は、いつもの午後に、日差しと、人々の影とを白く反射したものだ。どこかに、銃弾が数発くらい、残っていないものかと探したことがある。ここに来た当初に。そんなものはなかった。ここでは戦闘は行われなかったのかも知れないし、たまたま銃弾を食らわずに済んだだけなのかも知れないし、戦後、補修が行われただけなのかも知れない。

壁の向こうに雨が打ちつけ、撥ね、空間のすべてを片っ端から濡らし、音。遠く聞こえるそれが、その唯中では、もはや轟音にすぎないことには気付いている。家に住み着いている猫が子どもを5匹と、4匹生んで一ヶ月たった。母猫と、その子猫とが。どっちもメスだったから、同じ時期に二匹とも生んだ。

ながい鳴き声が、呼応し、連鎖する。それぞれの声に、それぞれの子猫が鳴き、何かを返し、返され、鳴かれ、鳴いて、更に答える。

なにを言っているのかはわからない。いずれにしても、猫が彼ら固有の言語を話すことだけはわかる。もう少し、夜が明ければ、彼らは一度、沈黙して仕舞うことも知っていた。いつものことだったから。…雨。

ベトナム中部のダナン市で、そこはいま、社会主義政府の方針によって、ベトナム中の資金をかき集めた観光地開発が同時多発的に進められて、うるさいほどだったが、ときに、不意打ちのように土砂降りの雨が降って、一気にやむ。その日は半日、曇っている。昼近くには、南部ほど鮮やかでは日照が、路面のすべてを干上がらせて仕舞うにもかかわらず。

老いさらばえた自分の皮膚を撫ぜる。顔の。醜く、美しさの残像さえも維持しないそれ。40歳を超えた、自分の体中が、淡い腐臭をさえたてていることを知っている。ベトナムでさえ、誰もがわたしに言った。…あなたは、とてもハンサムです。…ありがとう。答え、微笑み、その、恥ずかしげもなく潤んだ、生暖かい眼差しの群れ。

無数の、わたしを捉えようとする眼差し。わたしは美しい。彼ら、…彼女たちにとっては。

潤んで、瞳孔をやわらかく開かせた、女性特有の発情した眼差し。穢らしい、という概念に実態を与えたら、そうなるに違いない、無数のそれら。触れたものを陵辱するのではなくて、触れたみずからが陵辱されないではおかない、奇妙に自虐的な眼差し。わたしは醜い。老いさらばえ、生きている資格さえなく、死ぬ必然は奪われたままだ。

なぜ、女たちはみんな、愛するものを見つめるとき、まるで知性を感じさせない、痴呆的な目つきを曝すのだろう?あわれなほどに。

女たち。…あんなにも穢らしくて、よく生きていけるものだと、わたしはいつも、彼女たちの生き物としての倫理観を疑った。

 

…ほら。

水城(みずき)(あい)が言った。

…ね、…ね。

二十二歳のわたしは、彼女に揺り起こされて、思わず、匂いを嗅ぐ。目覚めかけながら、その寝起きの、汗ばんだ体と、覆いかぶさった髪の毛の、倦んだ匂いの氾濫を。

…見て、…ね。

真咲(まさき)、と、彼女が呼んだわたしの源氏名を、…息遣う。至近距離で息遣う愛の存在自体がうざったくて、わたしは眼を開けない。

…まぁくん、…ね。

愛が、手首を切ったに違いないことくらい、知っている。どうせ、死にはしない。死ねばいいのに。どうせ、と、…俺も?まともな人間じゃないんだから、俺も、か。…それって。と、不意に声を立てて笑って仕舞う。

…、、、、、

息遣う、やわらかく、ぐにゃぐにゃした生き物。自分が美しくないと生存できない、家畜のような暴君たち。女たち。眼を開き、目の前に押し付けられている愛の、瞳孔が開ききった眼差しを見る。白目さえもが、上気している。血の匂いを探す。裸の胸元に感じるかすかな湿気が、それに違いない。リスト・カットする前に、裸のまま寝て仕舞ったわたしの体を、愛は何度嘗め回すように見たのだろうか?いつものように。かすかに、ほんの微かに唇を開いて。わたしは愛を見詰めた。口付けた。その瞬間、彼女の瞳孔が縮まって、一瞬だけ。そして、予想だにしなかった、滂沱の涙があふれ落ちた。

1998年、渋谷。

あるいは、来年には、空から恐怖の大王が、こんにちは、と、世界に挨拶するかも知れなかった。

わたしは歌舞伎町のホストで、水商売の女や、風俗の女や、いわゆる常識人の振りをした頭のおかしな色情狂のメスたちに尻を振られていた。

 

寝苦しそうな寝息を立てて、添い寝するベトナム人の妻は熟睡している。壁の、高い位置にある通風窓から光が微かにさして、外はまだ明るくはない。決して、暗いとはいえない。

まばたく。猫が鳴く。

聞く。

彼らはいま、忙しい。彼らの会話が連鎖し、それは、音楽であることをやめてしまった音の群れのたてた音楽のように聞こえる。

意味がわからないこと言葉は、つねに音楽のように聞こえる。

 

初めて人の自殺するのを見たのは大学生のときだった。18歳だった。東京に出てきたばかりだった。その歳の11月に出会う、圭輔とはまだ出会ってはいなかった。雨上がりの、6月の、いつか。

覚えていた。大気の湿った、しかし、不快ではない気配。濡れた風。湿気た髪の毛。女たちが大気を罵り、わたしはいちいち彼女たちの髪の毛に見向きする趣味はなかった。

多摩市にある大学の校舎の、3号館と5号館と6号館が作った、谷間の薄暗い庭地を、水溜りを避けながら川村幸人と歩いた。幸人は、学年は同じだったが、2歳年上だった。なにを話していたのかなど、覚えていないどころか、その時でさえ、殆ど聞いていていないに等しかったが、わたしはその音声を耳にいれ、意味を聞き取る努力などすることさえなく、ただ、その甘ったれた音声を楽しんだ。不意に、女が小さく叫んだ。

危機感は感じさせなかった。コーフーカップを、ひっくり返してしまいそうになった、そんな声だったが、振り向くと6号館の前を、男がさかさまに落ちていた。空中に、暴れることさえなく、見た、と、そう想った瞬間には、男は頭をアスファルトに砕かせていた。

音がした。その一瞬。そして、一気に周囲は音響に包まれる。喚声が立って、誰かが駆け寄り、眼を逸らし、駆け寄りかけて立ち止まり、逃げ出し、誰かを呼びに行き、走り、騒ぎ、わめき、歩き、足を止め、言葉を失い、言葉を発し、罵るような声が立ち、悲鳴を上げた女が後を向いて眼を覆う。

砕けた頭の残骸と、血、脳漿。それが作った、黒ずんだ、しかし、その色彩がまぎれも無い赤だということを明示してしまう、それら。

しかるべき、人だかりさえ集められない。…それは、あまりにも穢く、残酷な肉体の残骸に過ぎなかったから。

弔いの言葉さえ、想いつきはしなかった。「…北島。…ねぇ、…ね。」声。その声が、自分を呼んでいることには気付いていた。それは幸人だった。

真っ青な顔をして、…本当に、比喩ではない青い色彩を顔にやや斑にさらして、「逃げよう。」北島は言った。

トイレの前で、幸人を待った。少し歩いただけで、何も言わずに走り出し、駆け込んだのだった。個室の中で何をしているのか、予想はついた。痛々しい、嘔吐するノイズが、そして吐寫物が便器を汚す音が、切れ切れに聞こえてきた。

時間を持て余す。トイレに入って、手を洗った。顔を洗ってみ、鏡を見る。濡れた、美しい男がいる。長く頬にかかった、やわらかすぎない髪の毛が、少しだけ濡れていた。洗面台に唾を吐いて、水を流し、老いさらばえた、鏡の中の美しい男。18歳の、老醜に塗れた穢らしい美青年。…うんざりする。

貧血気味の、個室から出てきたばかりの幸人が、ふらつきながらわたしに礼を言い、詫びを入れ、そして、「北島、ああいうの、平気なんだ…」言った。「ああいうの?」

「ああいうの。…そう、俺、駄目なんだよね。」

 

穢らしい、と、わたしは想った。二十代のころも、十代のころも、三十台のころも、いつも。

しなだれかかってくる発情した女たちという暖かな発熱体のおびただしい湿気が、ではなく、その髪の毛の発散する汗の匂いを、宇宙空間で醗酵させて、無機物にしてしまったような執拗な匂いが、ではなく、その本質的に病んでいる救いようのない矛盾した内面、…家畜的な女王様、みじめな生存様態が、ではなく、とにかく、わたし自身が。

わたしが美しいことは知っている。そして、わたしはわたしの救いようのない醜さが、もはや、我慢できない。重力に支配された、どうしようもない廃棄物のような、存在としての存在。

わたしは腐っている。わたしは壊れ物で、失敗作で、でたらめで、ぶさいくな、成れの果てだ。

わたしは、先天的に穢い。他人のことは知ったことではない。

19歳の大津寄圭輔が、わたしの乳首を口に含んで、舌の先で一瞬もてあそんだあと、(…その息。そのかすかに口で笑ったような、)前歯の先で、(息がかかって、わたしは)

…痛い。

そう、彼が咬む前につぶやいてしまう。

圭輔が、わたしの乳首をやさしく咬んだ。そして、鼻にたった笑いの息が、ふたたび、わたしの胸の皮膚にふれ、…気持ちいい?そう、彼が言おうとしていることは知っている。

知っている。なにもかも。ぜんぶ、知っていた。

温度。圭輔の。

なにもかも、わたしにはわかった。圭輔もまた、なにもかも、わかっているに違いなかった。なにも、わかりはしないのだが、それにもかかわらず、もはやなにも、謎めいた暗さなどどこにもないことを。すべてが見えていて、そして、すべてが明るく、清潔でさえあった。…感じるのだった。

圭輔の皮膚の、温度。そして、その触感。ふれあう、ということ。匂う。嗅ぐ。体の匂い。太ももに圭輔の《それ》の触感がある。温度とともに。

わたしの体中は感じようとした。彼の、骨格を。筋肉の微かな動きを。産毛の気配を。それら、すべてを。

休日の陽光。カーテンの向こうに。わたしと圭輔の裸の部分に、光が、ときに、じかにふれる。光。温度を伴って。19歳になったばかりの、わたしの《それ》はもう、完全に充血して、なにかの刺激を与えられることだけを求めていた。

殺しちゃいたい時がある。圭輔はそう言ってわたしを振り向き見た。微笑みながら。眼に触れるものすべてをいつくしむような、その眼差しで。八月の松涛公園。樹木が匂った。

舐めた。ときに扇情的な上目遣いをくれながら、圭輔は、からかうように乳首を舐め続け、固まって行く乳首を、わたしは一瞬、無意味に恥じた。

…お前を。まじ。…ときどき。…ぜんぶ、ぶっ壊れちゃわないかなって。

乳首に、圭輔の唾液で濡れた、その感覚があって、…匂い。唾液の匂い。鼻を近付ければ、その匂いさえするに違いない。

お前だけじゃなくって、もう、全部。ぜんぶの、世界の、せかいの、全部。…

圭輔の匂い。圭輔に穢される。わたしは穢い。もっと、と想った。もっと、穢してごらん。…ねぇ。もっと。

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ねぇ、お前、壊す側? 守る側? 言った圭輔に、あのとき、意味わかんないよ、お前。そう言って笑い、わたしは、背後の子供連れのお金持ちたちに、わざと見せびらかすように、彼を抱きしめた。30半ばくらいの女は、単純に、戸惑って、眼を逸らすしかなかった。子どもに不機嫌な声を、無意味に立てて。

はやく。と想う。もっと、はやく。わざと圭輔がじらすたびに。さっさと射精してしまいたかった。一度射精さえしてしまえば、何に突き動かされるわけでもなく、いつまでも、ささやきあい、息遣い、見つめあい、じゃれあう細やかな時間だけが経過していけるのに。…ねぇ、と、わたしがなにを求めているか、圭輔だって気付いているに違いなかった。

《常用薬》のおかげで、圭輔は長い。普通ではないから。

腕の中で、夏の、汗ばんだ圭輔の体臭を吸い込んだ。松涛公園の桜の木は、いうまでもなく、緑の大木として、その荒くれた無骨な樹肌を日差しに曝した。

《それ》の先端と、《それ》の先端を、かすかに、いたずらをするようにこすりつけ、お互いの《それ》で、お互いの《それ》を感じあう。いちばん敏感な部分で。粘った体液に濡らされ、ときに、指先も触れて仕舞う。見つめ合ったまま、唇を合わせる。唇。圭輔のそれ。やわらかく、押しつぶされて、舌が、舌にふれた。舌がこんなに湿っているものだったことに、驚く。最初から我慢する気など何もなかったわたしが、ほんのささいな刺激に射精して仕舞ったときに、圭輔は鼻から、いつくしむような笑い声を立てて、それでも唇を離そうとはしない。

圭輔の指先をも、わたしは穢した。

 

愛は水商売の女だったし、その当時の用語でいわゆる《太客》、少数の富裕層の、いくばくかの固定客をしか持たない、そして実際にはからだを彼らに与えている、ようするに水商売という名の娼婦、だったので、給料以外のお小遣いで生計を立てていたし、店に出勤する以外のプライベートの《顧客フォロー》、ようするにホテル通いに忙しかった。

顧客たちにとっては、ときに手首を切って仕舞うあやうさが、愛の固有の魅力だったのかも知れない。自分の娘だったら嘆かわしく、自分の妻だったら持て余してしまう彼女の悪癖は、子飼いの娼婦としてなら、またとない媚態をかたちづくる。わたしは、彼女がそのことをさえ、ちゃんと意識していることに気付いていた。

だれも、そして自分自身さえも、愛を《娼婦》としてはみなさなかった。とはいえ、やっていることは《娼婦》そのものだということは、誰もが知っていた。彼女の周囲の女たちは、彼女のことを誰とでも寝る女だと言い、客にやらせて金を取っている穢い女だと言ったが、わたしには、それは倒錯的な批判にしか聞こえなかった。

《娼婦》が、誰とでも寝ることなど、当たり前だろう? そして、金を取ることも。

実質的には、わたしも、ホストだった限りにおいて、同じ人種に過ぎなかった。「解像数、ちょういいの、…これ。」鈴木保奈美、と名乗ったその40を少し超えた女が言った。その偽名しか、女は名乗ろうとしなかった。その、元になった女優とは、もちろん似ても似つかなかった。

わたしの《それ》を、当時最先端の最新機種の携帯電話でなんども撮影した。「真咲のって、ちょう綺麗。…」…男娼。ようするに、男娼。「…好き?」

「ちょう好き。」…ねぇ、つかんでみて。《保奈美》が言った。「自分でするみたいに。…」痩せぎすの、拒食症の「オナニーするみたいに、」《保奈美》。グッチと、「…ね?」エルメスと、シャネルと、時々ヴィトン。

わたしはホテルの部屋の壁際に立って、ベッドライトだけに照らされた空間の中で、全裸を曝す。《保奈美》は執拗なほど、自分のからだを見せたがらない。着衣のままで、ひざまづいて、自分の鼻の先に曝された《それ》に、ときに息をさえ吹きかけてみせながら、わざと恥らいながら笑い、「…ね?」…なに?

写真を撮り、撮った写真をときに見せ、○○にも見せていい? 店によくつれてくる、彼女の下僕のような女友達の名前を出して、…あいつ、妬いちゃうかな?

「好き?」…いっつも、妬くの。あいつ。「好きなの?」

「なにが?」彼女はそのわたしの声を聞き、耳に確認し、見詰め、言った。

「わたしのこと。…好き?」…ほしいんでしょ?

嘘、つかなくていいよ。

声を立てて、《保奈美》は笑った。自分が吐いた言葉に笑ったのだ。自分が、いま、していることの、どうしようもない、救いようの無い滑稽さに。「《奈美》が、じゃないの?…《奈美》自身が、ほしがってんじゃない?」

「…知ってた?」笑う。わたしは、いま、とても優しい目で、彼女を見ている。そんな事は、知っている。「…舐めたげる。」

まるで、アダルト・ビデオの女優たちのように、舌を出し、這わせ、唇を擦り付けて、唾液をたらし、咥え、口のかたちを変形させながら、鼻からあえぎ声のようなものをわざと立て、頬ずりし、上目遣いに見詰め、…ねぇ、好き? 言った。「フェラ、好き?」

「好きだよ」

「誰の?」…みんなにやらせてるんでしょ? …こういうこと。

「《奈美》の。」

「《奈美》のだけ?」

「《奈美》のだけ」

「…だけ?」

「だけ。」

「いきそう?」

「やばいよ」

「いって」…ねぇ、いっていいよ。知っているはずなのに。わたしが、彼女では射精できないことなど。でたらめな言い訳さえつけずに、適当に、いつも途中でやめてしまうことなど。

金だけがとりえの、見苦しい女。

その金だって、どこでどうして作ったのかも知れず、いつまで続くかわかりはしない。

…圭輔も抱かれているだろうか? 今夜、誰かに。そう想った。さびしくはない。悲しくも。

それはそれでよかった。たいしたことではない。美しいものは、触れられなければならない。人々は、触れずには、おけないのだから。たとえ、穢らしい舌と口蓋でであっても。…圭輔の体に、いま、誰かの唾液が、匂いをつけただろうか?

「もう、我慢できない?」…ね?、我慢できないの? 涙ぐんだように潤んだ瞳孔をひらきっぱなにした《保奈美》が早口に、(ひと)語散(ごち)るような疑問形をつぶやき続ける。

自分のスカーフでわたしに目隠しして、ベッドの上、仰向けのわたしの上で腰を使う。髪の毛の、色気づいたプラスティック製品のような匂いがする。声をたてる。わざとなのか、本当なのかわからない。あーあーい、あーい、いーあーあーんーん。…ばか、もう、ばか、と、わたしか、自分か、だれか、それとも単なる口癖なのか、罵り声を繰りかえす。

射精しないわたしの《それ》を、彼女の体液だけが穢す。

 

なぜ、彼女と結婚したのだろう?

ベトナムで、ベトナム人の彼女と?… Đh TH Trang ドー・ティ・チャン この褐色の彼女と?

褐色の肌の30歳になったばかりの女は、わたしのからだに絡みつくように腕と、足を乗せ、寝息を立て、夜が、壁の向こうで静かに崩壊して行く。知ってる。あざやかな、朝焼けさえその片隅に広げて、全体としては、いつの間にか黒は青に侵食され、白み、内側から崩壊して行くように、青に敗北して行く。

音もなく。

壁の向こうで。

Trang が寝返りを打つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

10歳のとき、ふいに、自分の口臭が感じられたときに、わたしはわたしの恐ろしいほどの穢さに気付いた。

おとなたちはわたしを特別扱いした。早めにお祓いに行ったほうがいい。叔母が言った。この子は早死にするに違いない。…美しすぎる。普通ではない。

母親はあとで、さんざん陰口を言った。ののしり、罵倒し、縁起でもない、と。二週間後、わたしは近所の神社でお祓いを受けていた。

 

覚醒剤でパクられて、2年の刑期を終えて出てきた25歳の圭輔は、まるで別人のようだった。刑務所の中で、老いさらばえてしまったような気がした。とはいえ、わたしはそのやつれた醜さを、愛した。

美しかった、のだろうか? …その、言葉の意味を、わたしはまだ知らないのかも知れなかった。圭輔はうす穢れ、疲れ果て、燃えつくし、もはや、何も残っていなかった。

生きてさえいない、わたしはそう想った。

「…よかった。」わたしが部屋のドアを開いて、渋谷の、わたしが借りていたマンションに入れてやった時、圭輔は、崩れ落ちそうに脱力して、笑い、彼は安堵していた。「会えて、よかった。」

夕方の5時を過ぎていた。わたしはもうホストではなかったし、建設会社で働いていたし、設計士だった。日曜日だった。窓の外の夕焼けて行く空の色彩が、わたしの背後に見えているはずだった。

「アドレス、変えてなくて、よかったよ。」わたしは言った。わたしは微笑んでいた。その眼差しを、いつくしむような、と、圭輔は想ったに違いない。

圭輔と連絡など取ってはいなかった。取る気もなかった。三年前? …四年前? 圭輔がパクられたことは、七斗(ななと)から聞いた。水商売の女二人と、覚醒剤を《キメ》て、セックス、あるいは交尾、…獣じみた、そして獣が絶対にすることは無いヒト固有の交尾、を楽しんでいるときに、踏み込まれたのだ、と言った。なぜ、あんなことをしたのだろう。女など、愛せもしないくせに。もっとも、週に何日も、そのご乱交を繰り返しながら、彼が楽しんでいたのは、クスリ以外のなにものでもなかったには違いない。

それに、女にからだを与えてやるのが、わたしたちの仕事でもあった。

圭輔に未来があるとは想えなかった。売人や、入手ルートや、他に回してやった友人や、そういった、繋がりのすべてに関して、洗いざらい口を割ってしまった圭輔には。

警察にとっては上客だったに違いない。

そして、警察も裁判所も、その後の生活の面倒を見てくれるわけではない。圭輔は捨て、捨てられ、いま、目の前にいた。

圭輔からのi-mailなど、無視してもよかった。《ひさしぶり。》午前十時。《…出てきた。》わたしは部屋にいた。《いろいろ、迷惑かけたけど…》眺めがよかった。《会える?》まばたく。《…無理かな?》窓越しの、午前の光。

そのとき、ブルーノ・マデルナを聞いていた。後期の、フルートのための協奏曲の、どれか。あのころ、好きだった。

 

終わったの?

なにが?

刑期。…お前の。

…ん、…うん。

終わったんだ。

終わった。今日、出て来た。

なにも、責めはしない。わたしは、なにも、心配してやりもしない。終わった。おれたちは、もう終わった。もう、そしてシャワーのお湯を出して、圭輔のからだを洗ってやる。抱きついてくる圭輔の、《それ》がわたしの《それ》とかさなり、《それら》。

《それら》が不器用に重なり合って、お互いに、お互いの存在にびっくりしあっているような、そんなきまづい時間が《それ》に漂って仕舞うとき、わたしはいつも声を立てて笑いそうになる。

圭輔は、わたしを求めていた。

終わっている。お前は、もう、終わってる。おれも、もう、終わってる。…知ってた?もう、終わりだよ。それら、声の無意味な断片が、わたしの頭の中にだけつぶやかれ、からだを清潔なバス・タオルで拭いてやったあと、わたしは圭輔を、ベッドの上に四つんばいにさせた。駄目だよ、…駄目だって。圭輔の声を聞く。恥らって、そしてわたしたちは微笑みあう。

圭輔の尻に頬ずりする。わたしは彼の肛門に舌を這わせた。まだ、水滴に濡れていた。

 

幸人の近親相姦。幸子という妹との。

それを告白されたのは、幸人と会って半年ばかりしたとき、幸子の誕生日のホームパーティに呼ばれたときのことだった。「…気持ち悪いでしょ?」わたしを自分の部屋に上げ、二人だけになって、ことの詳細を、実は、…と、彼は語り出す。いつも、誰でもそうだ。秘密を語るときには。実は、…お前だけには、言っとく、…自虐的な、嗜虐的な、露悪的な。わざと、幸人が穢らしく物語を装飾しているのには、すぐに気付いた。

「…穢いよね。…おれたち。」そう言った。

理由はわかる気がする。幸子はなんども、わたしをはにかみながら盗み見していた。妹のそんな眼差しを見ることは初めてだったのかも知れず、いつもそうで、いつもこの告白は繰り返され続けてきたのかも知れない。無数の、《お前だけには、》の《お前》たちに。

彼の妹を守るために。

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪子、と、ときに名前の漢字変換を間違えてしまいそうなほど、色の白い、いかにもはかなげな女だった。綺麗な女とも、顔立ちが整っているとも、ましてや魅力的ともいえなかったが、悪く言う気にはなれない女だった。

そして、わたしは、大学の友人たちの中で、何人もが幸子を抱いたことを知っている。

サークルで、飲み会で、なにで、かにで。

「…穢いよね?…ごめん。でも、これがほんとのおれなんだ。」幸人が言った。「…おれたち、でも、…ある。」

「気にすんなよ。…いいやつだぜ、」…お前は。と、わたしは言った。

 

…ね、これなに?

愛は、いつも、ささやくように話した。

なに、これ

ちんちん。言って、わたしは笑った。愛も笑った。わたしは飽きていた。なんに?

やば。…ちんちん?

勃起しないままのわたしの《それ》を両手にもてあそんでみせ、すがりつくように添い寝し、行き場所のない女。

家出を繰り返し、そして両親は彼女を探し続けていた。

ちんちん、やばいね。

「店に来たよ。」麻由香が言った。愛の、同じ店の。いつだったか、雨の日に。愛の姉貴分だったが、「パパのほうが。…一人で。」声を立てて笑い、声をひそめ、耳打ちする。からだごと押し付けて、…もうやめてぇって。わたしに。…かんべんしてぇって。息がかかる。…みせなんかこさせないでぇって。「キスしたいの?お前。」わたしは言った。

…したくないから。愛が笑った。

ちんちんに、キスしたいんじゃないの? わたしは知っている。愛がフェラチオを決してしようとしないのを。かたくななまでに。

ささやくような笑い声がたち続けた。

大人になったら、どうするのだろう?

ちんちん、すきだろ? わたしは言って、愛は声を立てて笑い、好きくないから…大人になったら。

20歳の愛は、40歳になったら、どうなっているのだろう?

今のまま甘ったれているのだろうか? からだを譲り渡していない殆どすべての人間に、持て余され、軽蔑され、疎まれ、…その

肉体が、欲望の用をさえたさなくなったら?

だれの?

愛は言った。これは、だれのちんちんですか?

…お前のだよ?

わたしの?

この、きちゃないの、わたしのなの?

やーだ。わたしのなの? これ。ねー、

…ね?

老いさらばえる前に、死んだほうがいい。

どうせ、生きてはいけないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナム。ホー・チ・ミン市に来たとき、はじめてここが、あの《サイゴン》だということを知った。

所属している建築会社が、ここに支社をたちあげたときに。必ずしも意味があるビジネス展開だとは想えなかった。とはいえ、彼らは、…わたしたちは、増殖し続けなければ生きていけなかった。わたしたちは増殖し、他なる増殖を阻止しようとし、ときに成功し、ときに失敗する。

わたしたちは増殖する。Lê Đng Cnh レ・ダン・カン という名のベトナム人側の責任者が、そして彼は文法的には流暢な日本語を話したが、発音がめちゃくちゃだった。

ぞこにーきたいでゅえすか?

どこに?

そうでゅえす。

…さいごん?

さいごん?

さいごーん。さーごん。さいごんぐ…「あー、」Cnhは顔をほころばせ、なぜ、ヒトはやっと何かを了解したとき、一瞬、相手をあざけるような顔つきをしてしまうのだろう?人種を問わず。   - Sài Gòn…

彼はその都市の本当の発音をしてみせ、床をつま先で二三度蹴り、「ここでゅえす」言った。ここが、その、サイゴンですよ。旧名、サイゴン。…ね?

わたしは40歳になっていた。ちょうど、来月、サイゴン解放の40周年記念日で、ここら辺はパーティです、と Cnh は言った。

 

十代の頃の、圭輔のあの滑らかな背中の匂いを、わたしは何度嗅いだだろう?

微かに汗ばんだ匂い、若干の獣臭さ。体液を一度あわ立ててから、発行させて、砂糖を振ったような匂い。二十歳になる前の日に、わたしは彼を四つんばいにさせ、一瞬、見惚れた。

朝の、日差しがカーテン越しに差す。やわらかな色彩に満たされる。朝。…まだ何にも穢されていない、色彩の息吹がある。

それが見せかけのものに過ぎないことなど知っている。まだ、シャワーさえ浴びていない、起きぬけのわたしたちのからだは汗ばみ、昨日の夜の、…数時間ほど前の、行為の残骸をへばりつかせ、匂う。

たぶん。わたしも匂う。自分の匂いに麻痺した嗅覚がついに嗅ぎ出さない、わたしの臭気。

ときに、女たちが息をひそめて、わたしに気付かれないように嗅ぎ取って行くもの。発情装置たち。美しく、でたらめな、哺乳類たちの発情様式。

たわむれに、Tシャツで腕を、後ろ手に縛ってみる。見詰め合って、わたしたちは笑う。こういうの好きなの?

…かもね。無意味な行為で、時間の隙間を埋めようとする。わたしたちは愛し合っていたが、愛するという行為が、つまりはどうな行為で、なにをすればいいのか、わたしたちは、まだ、知らない。

膣口と陰茎の卵子細胞覚醒のための行為に逃げることは出来ない。どこにも、卵子など形さえなく、生命、…愛の結晶としてお茶を濁したあの生産物を生み出しえる可能性は一瞬たりともない。

たんぱく質たちの戯れ。

…見た。白い反射光が、圭輔が息遣うたびにその皮膚を舐め、流れ、くずれる。

わたしは耳を澄ます。その、二つの息遣い、そしてこっちを向いた圭輔の眼差しに、…見ないで。

穢いよ。

つぶやいて仕舞いそうになる。

指を立てた。

左手の、薬指。

舐める。

指を伸ばし、その指の腹が、ゆっくりと圭輔の肌を撫ぜる。湿気た触感。潤った、それ。すこしだけべたついていて、皮膚。

つきだされた尻のカーブをなぞる。太ももに落ち、もう一度上がって、…くすぐったいって。

きれい。…すげぇ、綺麗。

見詰め合って交わされる、重ならない会話。睾丸のかたちをなぞる。陰毛の毛羽立ちに触れて、一瞬、指先は戸惑った。

わたしたちはまだ、何も知らない。愛するということが、どういう行為を言うのか?

無慈悲なまでに、…そして、ん、と圭輔が言った、鼻でだけ。わたしの指先が、前触れもなく肛門に侵入したときに。

体内の体温。

指先の触感。

…すき?

わたしは言い、圭輔は答えないままに、抜き出した指先に付着した匂いを嗅ぐ。

 

老いさらばえた腐臭さえ漂う。

熱帯の日差しがアスファルトに反射する。

わたしは息遣う。ベトナム人たちが、わたしを目で追った。わたしは美しい。そんな事は知っている。

わたしが立ち寄ったあらゆる場所で、人々が、男たちさえ、現地の言葉で、露骨にわたしの噂をしているのは、すぐに察知された。

日本よりあけすけな眼差しがわたしを捉え、…ハンサム、と、カフェの美しくはない女が必死に媚を作って、一言だけ言って、わたしにコーヒーを提供した。

眼差し。…見ればいい。もっと。

もっと、もっと、見ればいい。あなたたちの視線の前で、わたしは腐り堕ちて行く。腐臭さえたてながら。わたしは穢い。

もっと近くで。至近距離で。鼻さえ、触れそうなほどの。

…なんだったら、オナニーでも?

どう?

 

35歳になった愛が、どこかの風俗店に働いているらしいのは、フェイス・ブックで知った。

突然来た友達申請の、ポートレートは花の画像だった。記憶にない名前。聞いたことの無い名前。

杉原美香。

開くと、つぶやくような短文の、《しんじられるかしんじられないかわかんねーから しんじてやってるだけなのに って、おもった。》意味不明な文字しかない記事の群れの中に、《あんたのことがすきなんか どうかなんか わかるわけねーじゃんすきなんだから》見たこともない老けた40女の写真が数枚だけ確認できた。

あきらかに個室風俗の個室の中で、《はつねつしそうで こわいから ねる。》ある老いさらばえた女が、めがめをかけた丸顔の男と二人でピースをして、《きょうははれた。あしたはあめだ。あいたい。しにたい。》笑っていた。男は、まるで外国人のように見えた。日本人に違いないのだが、《しあわせになるくすりはかれしのえがおなんだなってゆうじじつにきづいてしまった》妙な違和感ばかりを感じさせる顔立ちだった。

理由はわからない。

女の眼差しは、うつろだった。《すきすきこうせんでてるけーおんなうざころす》光の加減でそう見えただけだったのかも知れない。口元には、《きてきてきって きてきてきって》あきらかな生気がみなぎっていた。

薄暗い写真だった。

暗い照明の中で、《くらくてごめんな やみちゅうごめんな しんでくれるから やんでてごめんな》無理やりとったポートレート。

《今日も、出勤だよ!》キャプションはそれだけ。めずらしく、日本語の意味がわかる文章だった。

良識を疑う。見せていいものと悪いものがあるだろう、と。

風俗の個室の中の、ポートレート。フェイス・ブックはなにを検閲しているのだろう?

何もしないでフェイスブックを閉じたあと、それが愛だったことに気付いた。

愛の本名など知らなかったし、二十年近く、連絡など取っていなかった。愛の本名が、美香だったことを、20年近くたって、知ったことになる。何の感慨もない。もっとも、それも源氏名なのかもしれない。

あのめがねの男は、愛=美香のリスト・カットの始末を、喜んでしてくれるのだろうか?

血を拭き取り、病院に連れて行くか、手当てをしてやるか。

そして抱きしめてやるか、これ見よがしな虐待を加えてやるのか。

不意に、胸が苦しく、いますぐに自分の心臓を取り出して、握りつぶして仕舞いたくなる。

穢らしい。

世界。…この、あまりにも穢らしい、増殖する細胞と分子の集合体たちの、穢れた世界。

 

 

 

 

 

 



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