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04 私小説

私小説 02

 

 

 

 

 

 

 

 

私小説

                                                                            

 

 

 

 

 

 

 

クアラルンプールから経由した羽田行きの飛行機に乗った瞬間にうんざりする。機内中を埋め尽くした日本人たちの群れは、どこまでも、無慈悲なまでに日本人たちにすぎない。舌の上に高速でささやくような日本語がしずかな機内に、時に文字通りささやかれ、それらは、ただ、彼らが日本人である証拠だけを明示した。あと何時間この空間を共有していなければならないのだろう、と、わたし自身があくまでも彼らの一部に過ぎないにもかかわらず、なにか惨めな腹立たしさにいたたまれなくさせられる。自分たちが知っている日本と言う彼ら固有の概念らしきものに、がんじがらめにされた自分たち自身の奴隷たち。インド人らしい目鼻立ちのくっきりとした、もう若くはない男たちの4人くらいが群れて、機内の隅で、彼らの全体を伺うように、そして目を逸らす。彼らにとって、さまざま人種とさまざま国籍とさまざまな言語種が入り乱れた空港のロビーや、他の外国以上に、あからさにこの機内の中は異国の地に他ならないはずだった。5年ぶりで羽田に下りると、周辺の空港の機材の釘一本の表情さえもが、完全に日本人のように見えて、いますぐに、どこでもいいから《外国》に逃げ出したい気がする。目を逸らしたいほど無残な懐かしさ、というのだろうか。Sim カードは意味不明に高額で、WiFiはつながりにくい。日本人たちにとっては、全く問題ないことなど知っている。彼らはそんなものは使いはしないから。持っていても意味のないスマホをそれでも取り出すが、時間を確認するくらいの用しか成さない。出迎えロビーで一瞬立ちずさむと、彼女の姿はすぐに目に留まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから、たしかに、すこし歳を取った。とはいえ、大人になった、というくらいなのだろうか。うっとうしいほどに潤んだ黒目がちな眼差しが、すぐにわたしを捉えて、彼女に近づいくわたしの表情に浮かんだ笑顔を、彼女はどんな風に見たのだろうか?屈託のない笑顔だったのか、疲れた笑顔だったのか、悲しげな笑顔だったのか、無理に作った笑顔だったのか。彼女と会うのも当然、5年ぶりだったが、そんな気もしない。30を超えてから、一年も二年も、気が付けば経って仕舞っているので、それは彼女のせいではなくて、単に、自分の時間の感覚のせいだったのかも知れなかったし、あ、

と、その、ふいに口先で呟かれた、彼女のそれは、わたしは彼女のその声が聞こえた気がした。音声は聞こえなかった。その唇の先だけの、確かに、それはささやかれたのだった。空港の、ささやきと呟きの無数に連なった騒音の騒然としたふしだらな散乱の中に。そのくちびると眼差しはまだ近くはない距離に隔たっていたものの、それは、そしてそれが私のすぐ近くで。

その一瞬に、その音声の、彼女の体臭さえもがにおわれた気がした。小柄な彼女の、わたしを捉えた眼差しが、開かれた瞳孔のうちに、わたしを捉えながら通り過ぎてしまって、向こうのほうを、にも拘らず何か見えていたわけではなくて、そんな、立ったままの彼女の、まぶたも閉ざされないまま失心したような表情は、ただ、彼女に顔の上にだけ固定されていた。やがて、わざと、意図的にすれすれの距離に近づいたわたしの「何?」彼女は、「どうしたの?」その久しぶりに聞いたはずのわたしの肉声を聞いていたには違いないが、答えもないままに、彼女の名前は波奈子(はなこ)といった。そのまま、わたしを上目遣いに見つめた無言の、そしてややあって、「お久しぶりです。」その瞬間に、正気づいた彼女の眼差しに、わたしはふたたび捕らえられたのだった。「元気でした?」

わたしは四十歳を超えていた。ほんの子供のころに老けて見えた類の人間の常で、いまや、年齢不詳の人間だった。若々しく、無国籍風の端整ささえあって、深いほりの影に、甘い憂いがさすときに、人は既に魅了されている自分に逆らえはしない。誰がわたしを美しいと、諦めたように言った。十五歳のころから、身長も体重も含めて、ほとんど変わっていないわたしは、明らかに出来損ないの冗談のような子供だった。夢見られた夢の溜息に命を与えたような、そんな男らしく美しい顔だちの十二歳児に、美しさのかけらをさえ認める馬鹿はいない。見世物のような、滑稽な奇形児に過ぎなかった。いずれにせよ、いま、歳を言えば、例外なく驚かれた。賛嘆の眼差しと共に。ちょうど十二歳年下の彼女と並んで立っても、誰の目にも怪しまれるべき必然はなかった。頭一つ分身長の低い彼女は、ちょうどいいくらいの、年上の彼氏を出迎えた女に、波奈子は見えたにちがいない。彼女と並んで立つとき、なにか、どうしようもなく惨めな気分をぬぐえない。いつも。自分が、自分の部屋の中で、独りだけでいつくしみ、愛でて、秘密にしていた宝物を、たとえば小学校のホームルームでいきなり友達の皆の前に開陳されたような。頬を赤らめた友達の、優しい共感のこもった、わかるよ、うん、わかる、そうだよね、という同意の声が、むしろ無数の針のようにわたしのやわらかい羞恥心を攻め立てる。波奈子は、そんな、恥ずかしい《夢の女》だった。つややかな髪の毛が何の混じりけもなくすっと伸び、小作りな頭部に、端整な、整いすぎた気がするほどに整った顔がある。おおきな、夢見るような目は、いつもその潤いの気配を失うことなく、憂いをさえ帯びているが、裏切りか偽りのように活気のある、黒目がちな目がまっすぐに、既に自分をみつめ続けていたのに気づく。いいんだよ。そのままで、いいんだよ。そんな、やさしく理不尽な許しとともに。下唇だけが、上唇に比べて倍ちかく肉付いて、ふっくらと、その重量感が、唐突に、無意味な物思いにふけらせた。目に付くのは肌の色は黒さ。日に灼けた、というよりも、生まれつきの褐色だと言うことが、すぐにわかる、はっきりと深く定着した、はりのある色彩だった。いろぐろ、という言葉のいびつな響きを思い出す。ほそく、ながく、華奢な首筋から、繊細な鎖骨のくぼみは、痛々しくはないかすかな、やさしい肉の隆起を、そして、その、しまった、やわらかな二の腕に挟まれて、直視すること自体を恥じなければならない気がしたほどに豊満な胸のふくらみが突然、現れる。美しく、贅沢な。くびれすぎない優しい、しかし急激な曲線を腹部から下腹部、そして腰の周りが描いて、大きすぎないものの、たっぷりした厚みの臀部がその上半身を見事に支えた。そこから、ふとももにかけての単純な線が、どこまで、正確な曲線を描き、描かれた、美しいその明晰さは、足首の嘘のような細さにいたって、彼女は、まるで中国の古い帝国の男たちが纏足の女たちに夢見たような、鳩か、それでなければ妊婦を思わせる歩き方をした。小柄なだけに、ひれふすような、圧倒する美しさではなくて、いじましく、ひっそりと愛好され、愛玩される慰みもののようなかわいらしさ。夢の、あるいは、正確に言ってしまえば、いじましい自慰の道具のような女。ふたたび、顔に視線を戻すと、見られることに慣れ、そして、盗み見られることにはさらに慣れきっている彼女の、見つめる視線を留保なく許し、見つめたことにいかなる咎をも課さない、単純な微笑みに、目線は絡み合うのだった。そのときには、その鼻梁のちょうど真ん中、つまり、顔の真ん中に刻印された目立つほくろという、あるいは、このものの美しさの端整さそのものを大きく損なっているのかも知れない大きな傷も、この、愛玩人形の、特異な個性に過ぎなくされる。その《いろぐろ》も。美しさの破綻、ではなく、破綻した美しさ、ではなく、何かを意図的に乱す技術によってのみ、初めて完全に描き出され獲る類の美しさ。ほくろは、その位置のせいで、何かの象徴なのか、兆しなのか、聞き取れない言葉、読み取れない記号として、何かを予感させようとしているように見えた。それを何人の男たちが、彼女が少女だったころから、その意味を見出そうとして、彼女に見つめられ、許されながら、それを見つめ、盗み見てきたのだろう。同姓に毛嫌いされる類の女には違いないが、頭の切れる彼女が、彼女たちに嫉妬させる隙を与えなかった。同性たちは周囲に群れていた。彼女は男には興味がないと言い、言われ、実際、そうだった。美の濫費。美の、らんぴ?例えば、人類が滅んだ後に、崩壊したルーブルの廃墟の、打ち破れた天井から漏れさす光に照らさせて、ミロのヴィーナスが、やわらかい日差しの中に、誰のためにでもなくその美しい半裸体を曝し続けるとしたら、それは、地球が崩壊するまでの、あるいは、ほんの一瞬なのかも知れない永劫に近い時間の中で、泣き伏さねばならないほどの孤独な美しさに違い。美の濫費、それは、そのような美しさに与えられるもので、もちろん、手淫かたてに男たちが夢見た発情の対象に対して与えられるべきものではない。みじめな愛玩動物の波奈子のような。発情的、ということ。女性美の起源であって、そしてその根拠をなしながら、美、と呼ばれた瞬間に、半ばつばを吐きながら穢れものとして捨象され、辱められてしまうもの。周囲の人々の、眼差しを一瞬気にしてしまうのは、彼女の、その無数の手淫の気配を、わたしが恥じたからに違いない。あるいは、わたしを見つめる彼女の眼差しの表情に、五年間の時間の経過が一切感じられなかったからなのか。単に、久しぶりに帰ってきた日本に関して、当然感じざるを獲ない既視感に、いまだになれないままだったからなのか。同国人に他ならない日本人たちは、わたしの目に、はじめて見る外国人たちのように見え、当たり前だが、彼らのことなど昔からよく知っているので、この、見慣れない既視感というべき、錯乱した感覚が拭えなかった。その錯乱は、波奈子に対してさえ、何かの印象をわたしに与えていたに違いなかった。わたしは彼女に対する裏切り者だった、とは言えた。彼女にまもともな別れも告げずに、ベトナムに行って、仕事とはいえ、多忙を都合に五年間も帰ってこずに、挙句の果てには、そこで出会った現地の女性と結婚さえしてしまったのだから。それを彼女に対する裏切りであるという認識にも、どうしようもない錯乱感が付きまとう。眼鏡を外した乱視の視力が捉えた視界のような。なんども彼女はわたしに抱かれたが、彼女がわたしの、彼女はわたしの、女だったことが一度もなかった。体だけの、あるいは金銭だけの、ともいえない。そこまで、すっきりと合理的で、綺麗な関係ではなかった。心の柔らかい部分に寄生して、小さく噛み付いて、かすかに、内側にだけ出血させて、そして、ゆっくりと、いつのまにか、執拗な甘い臭気を立てながら腐っていく、そんな、他人にとっては、そして、自分たちにとっても、どうしようもなく不愉快なはずの、希薄な、執拗な関係。

ホテル、行きますか?と言った。あの、あ、という声から、そしてその後の一瞬の、気まずい沈黙の2秒の、それは、やがては、彼女のその声にによって断ち切られのだった。ホテル?と、わたしは、彼女に自分が宿泊する用のホテルを頼んでおいたことにさえ気付かないまま、抱きますか?と耳元にささやかれたような気がした。単純な、鼻にかかった笑い声をたてて、わたしを先導する彼女にやや遅れて従い、始めて会ったとき、彼女は22歳だったから、もう十年近い時間がたったことになる。その十年近い時間を、あるいは、やがては彼女が、一生の中で最も美しかったといわれることになるのかもしれない期間のほとんどすべてを、わたしは彼女に濫費させてしまったのだった。女を口説くのは、趣味のようなものだった。狩猟本能、とはいえない。それは、飢えて、生きるためにするものだから。あるいは、鼠を狩る猫のようなもの、ではあるのかもしれない。すぐにかみ殺しさえせずゆっくりと、咬んでいること、いま、口の中に一個の、さまざまな事情と、さまざま意味と、さまざまな関係性を、それ自身に固有のそれらをいっぱいに抱えた小さな生命が、そのすべての権限を奪われ、捧げさせられて、ほそく血を掃きさえしながら首と両手足を伸ばしたままに、表情の一切を失った、透明な絶望にだけ染め上げられた黒目で何かを見つめていた、それがいま自分の口の中にあること、そのどうしようもない快感に恍惚とした、美しく、瀟洒にして、地上のあらゆる生命の中で、もっとも繊細な生き物の一つ。美しい猫たち。初めて抱いたとき、それは、彼女の、《夢のような》気配が想像させたような、まさに《夢の》行為で、逆に、ゆえに、予測済みの既視感にさいなまれる退屈さとすれすれのものだったが、「わたし、」と、行為の後で「彼女ですか?」水を飲みに立ち上がったわたしに言った。わたしにだって返す言葉の用意はあった。振り向いて、すぐに言いかけたわたしの口を、まるで手で塞いだかのように、「じゃ、ないですよね?」ベッドの上で仰向けのまま、放心したように、わざと両手足を投げ出したままの彼女の皮膚が、暗い空間の中で、いよいよ黒く灼けて見えた。太陽に、というよりは、夜の黒さそのものを簒奪してしまったように。「ですよね?」彼女は、そして「怒ってる?」そのわたしの声を、横向きの眼差しに捉え続けたまま、ややって、首を振った。微笑みもせず。無表情なとは決していえない、なにかの兆しをだけ、数えられない複数、明示しながら。「悲しい?」

「ぜんぜん」

「うれしい?」

「ぜんぜん」

「嫌?」

「まさか」

「じゃ、」と、わたしの「何?」声に、彼女はふいに一度だけまばたいたが、「好き。」と言った。いいね、と、鼻の浅いところでわたしが立てたその優しい笑い声を、わたしも、彼女も、聞き逃しはしなかった。「きれいな答え。」美しい、と、言って笑ったわたしを、そして彼女は目を閉じた。意外だったは、彼女が初めてだったことだった。男好きのする女。例えば十代のうちだけにでも、あの、盛りの付いた、どれだけの眼差しに見つめられ、盗み見られて、それらの眼差しが、彼女を裸に剥いて、夢見て、あるいは、穢して仕舞ったのだろう?言葉は途切れたまま、水を飲むきっかけも失って、ただ、壁にもたれたまま彼女を見つめたわたしに、やがて、彼女は言った。「初めてじゃないですよ。わたし」くすくすと、いたずらの結果を見て噴き出したような音を立てて笑うのを、「ひでぇな。だましたの?」戯れに笑いながらわたしが言ったのを、彼女は聞いたのだろうか?「嘘じゃないですよ。初めてじゃないですよ」目を閉たまま、そのとき、幼児のように身を丸めて寝転がった彼女の横向きの、わたしは髪の毛をかき上げてやった。「ひどいじゃん。おれ以外のやつに抱かれてやったの?」わたしの戯れの誹謗の「いつ?」ささやかれた音声を彼女は聞く。「12歳。」そう言ったとき、目を開いて、その言葉をわたしに眼差し越しに焼き付けようと望んだのか、彼女は最早、視線を揺らがせさえしなかった。

なぜ、そんな嘘を言ったのか、気になった。あるいは、本当なのかも知れない。何か、暗い過去なのかも知れない。とはいえ、わたしには、それらは興味のないことだった。彼女が話し出せば聞いてやるかもしれない。話されない今、それは、存在しない通り過ぎた、いつか誰かが見たかもしれない、忘れられたことだけが知られている風景に過ぎない。

 

 

 

 

 


私小説 02

 

 

 

 

大学を卒業して、ある大手の広告代理店に就職していた彼女が、営業に来た、それが出会いだった。ビジネス・スーツは、彼女に着られると、悪趣味で扇情的なショーのコスチュームにさえ見えた。そんなくだらないショーに何の悪気もなく出てしまった、純粋で、無垢な少女。それは、わたしが友人とやっていたカフェの中だった。「あなた、成績いいでしょ?」わたしは顔を合わせて、一分後に、冗談めかして言っていた。まぁ、おやじたちが放っておかないよね?天井の扇風機が回った。ゆっくりと、そして真顔で否定するものの、もし、おれが、と思った。彼女だったら、どうだろう?目に付く男の片っ端を、自分のためにこき使ってやるな、と。クレバーな計算と、節度さえあれば、十分に可能だった。それは二十代の頃、ずっとホストだった頃の感覚の名残かも知れなかった。実際に、波奈子は社内で何度も表彰対象になるほどに、成績は優秀だった。そのころ、始まったばかりのフェイスブックで、なんどかタグ付けされたそれらしい他人の記事を見かけた。彼女が、わたしを本気で愛していることには気付いていた。それは、眼差しや、表情や、言葉遣いや、しぐさや、誰も錯誤でず、誰も無視できない、犬が匂い付けして回るような明らかな表示だった。とはいえ、何かを積極的に求めるわけでもない。彼女は、自分が何を求めているのか自分自身にさえわかっていないのではないか、そんな気がした。彼女はわたしの女ではなかった。忘れた頃に、求められるままに体をささげ、忘れた頃に、連絡されるたびに会いに来て、むしろ自分からは何の要求も言わなかった。何の連絡さえも。それでいて、彼女はわたし以外に、彼女の男を作りはしなかった。いかなる意味であっても。もはや、孤独になれて、慣れきった人間が、孤独であることにさえ気付かなくなった、そんな、少しだけやわらかい狂気に近い何かを感じさせる危うさへの親しさを、わたしはやがて感じ始めたのだった。例えば、彼女がふいに切ってしまったわたしの指先に、痛い、と声にならない声帯の振動の波紋をだけ、どこかにならした、その一瞬の表情の、眉の付け根の辺りに。かすかな。微妙な。孤独、と、その概念を彼女が知っているとしたら、それさえもが驚きだったはずだった。常に、人々に噂され、眼差しに捉えられ、夢見られさえしたかも知れない、みじめで派手な存在であるのには違いないのだから。

ホテルに着いて、わたしがベッドに身を投げ出すと、「疲れました?」彼女は「よね?」まるで、いままでご主人様に手を付けられたことなどない純朴なメイドのような、いつものあの清楚なたたずまいのうちに、「変わんないね。」私の声を「ぜんぜん」聞く。「そう、ですか?」

「びっくりするくらい」

「そう、ですね」

「ぜんぶ」髪の毛のつやも、肌のつやも、と、「その瞳の輝き、」わたしは言う、「そのかわいいほくろ、」と、彼女の微笑みが、ただ優しく注がれた。昨日別れた人と、いつもどおり会った、慣れきった、「どうしようか?これから。」

「食べます?なにか」

「どっち?ごはんを?波奈子を?」

「どっちでもいいですよ」彼女の鼻から漏れた笑い声に、その瞬間だけ彼女は、いま、初めて男の抱かれるような、何かを決意したことを伝えようとする表情を、「どっちに、しますか?」なぜ、彼女はそんな表情を浮かべ続けるのだろう?あまりにも慣れきって。狂ってるぜ、と、わたしは思った。微笑み、指先で、彼女のくちびるに、そして迷いなく、飢えたように胸をわしづかんで、その瞬間の、彼女の生きたまま食い散らされつつある草食動物のような表情を見逃さない。狂ってるよ。優しく、かわいく、ちょっとだけ切なく、繊細で、みじめで、いい感じに、わかる?狂ってるぜ。狂ってない?狂ってんじゃん。誰が?波奈子を、彼女を、あるいは彼女たちを、抱いたときにそれらの眼差しがわたしの体の下で見せた、その同じ視線を捉えているまさにこのときに、うるんで、受け入れようとして開かれきった瞳孔の先に、どうしようもなくそのいくつもの眼差しはわたしを必ず通過して、結局は何も見ていない気がした。空っぽで、無機的なままに。彼女がわたしを見ているのは知っていた。その視覚が、わたしの形姿を、そして、それ以上の何かを、捉えていたことは。その、何をも捉えきれずに通過するしかなかった眼差しのうちにだけ。あの、不愉快な、かすかで執拗な恐怖感のようなもの。恐れと戦きの、否定できない壊れそうな兆し。聞き取れないほどの息遣い。ふいに顔を挙げ、いつか、捉えられた、鏡に映ったわたし自身の眼差しを見出したとき、たしかに、わたし自身の、恋に飢えたように見えるその潤んだ眼差しは、彼女たちのそれに限りなく近いものだったことを、それを見てしまった一瞬に、これは、誰を抱いていたときの一瞬だっただろう?いつの?わたしが鮮明に感じた、手に触れられず、必ず、わたしに触れようともしないそばにあるだけの恐怖感は、思えば、たとえば、晴れた日の外出先で、ふと、視界の中のすべての人々が仮面をかぶっていたことに気付いたときに、恐怖して叫び声が立てられる前に、振り向いたそこにあった姿見に映った自分の頭部に既に、その同じ仮面がかぶられていたことを見出した、その瞬間の。あるは、外出先で、ふと、視界の中のすべての人々の顔が、滑らかなのっぺらぼうで、とはいえ、いずれにしても、あなたは私に触れたことなどなかったのだ、と、触れようとしたことさえも。なによりもわたしに触れることを望みながら?「なに、見てるの?」そのわたしの声を伏目のうちに聞き流しながら、波奈子は言う、え?と、その、かすかな、幸福な、ついに思いが遂げられた、その充足感をひそめて湛えた、「え?」その声を「見てませんよ」聞く。「何も。」

「見てよ」

「何で?」わたしの声が、どこか誘惑を含んで、笑ってさえいたのは知っていた。「見たいんでしょ?」

「何を?」

「触りたい?」

「何で?」

「キスしたいんでしょ?」え、そのくちびるが息と共にかたちを崩し、確かに、扇情的なくちびる。あくまでも愛玩用の、「したくないですよ。」

「嘘。」

「したくないから」小声で笑って、見上げられた眼差しの潤いの、その黒目の、盲目的な、無根拠な、無機物の空白。「嘘」

「なんで?」彼女の立てられた、媚びた笑い声を聞き、「我慢できないんだろ、」ひざまづいて、伸ばされた指さきで、「もう。」触れようとして空間をだけなぞったわたしの数本の指先の、自分の顔の曲線に従った動きを、視界からわざと外して見せながら、彼女が、例えばその皮膚で、それを見ているのは知っている。「いますぐ、おれの体にさわりたいんでしょ。キスして、匂い嗅ぎたい?したいんでしょ。してほしい?」

「違う」

「毎日俺のこと思ってたんだろ?ずっと」

だから、」

「されたい?」わたしをだけ見つめ、微笑みながら、わたしは彼女に、後で、ね?、言って笑った。「めっちゃくっちゃに。」

波奈子は会社を辞めて、いま、歌を歌っていた。自分で曲を書いて、ライブをセッティングし、セッティングされ、確かに、彼女の、他人にとっては無根拠な不意の転身は、会社の中でスキャンダルだったに違いなかった。記録的に優秀な成績を収めていた、いわば社内の勝利者だったのだから。会社を辞めてから作曲の勉強をした、と言った。コードもほとんど知らず、ギターにも触ったことが無かった。ピアノには、子供のころ、友達の家のそれと音楽室のそれに、何度か触ったことがあった。友人たちは彼女を応援する言葉を投げたが、不安な疑いだけは、どうしても残りつづけた。正当化され獲る理由が無かったから。転身は、いまのところ必ずしも成功しているとはいえないのかもしれないし、そもそも、二十世紀的なレコード産業のビジネスモデルが、どこでもかしこでも破綻したばかりの世界の中で、結局、何を持って成功したといえるのか、わたしにも、彼女にも、その周辺で、彼女を庇護しようとした人々の心配そうな眼差しの中にも、明確な答えなどなかった。ベートーヴェンが成功者だったのは、彼の百年後の人間たちにとっての必然に過ぎない。かれの曲は、レコードとして大量に売れたから。かれ自身の時代において、彼が失敗ではなかったと言い獲るのは、かれが単に飢えて死ななかったからに過ぎない。だとしたら、かわいそうなシューベルトは?ブルーノ・ワルターとウィーン・フィルとコロンビア・レーベルの成功であって、シューベルトは単に失敗しただけだったに違いない。何度か、彼女のライブに言ったことがあった。それでも、そんな彼女のファンたちはそれなりの数がいて、その若くは無い男性たちのやさしい眼差しを浴びながら、かならずしもわたしの好みではない種類の歌を歌う彼女の、どこか恍惚とした表情は、多くの、シンガーと呼ばれる人間たちが一般的にステージの上で見せる表情の紋切型のヴァリエーションには違いなかった。歌われた《あなた》にささげられたのかも知れない、(それはわたしだったかもしれない、と、わたしが、そして、同時にわたし以外の多くの彼らが、そう、錯覚したように思った、それらの)彼女の言葉が、そのくちびるから発されるとき既に、その眼差しは見出したかも知れない《あなた》の姿を追ったのかもしれないが、(追ったその目線と追われたかもしれなかったそれらの目線の、あやうく交差しない、お互いの向こうの方で、そして)彼女の見ている風景自体は、(すぐそこの、)ステージの逆行の中の黒に他ならないことは、(その、)誰もが知っていた。何を見ているのか、たぶん、その本人にさえ判断できない行方不明の、そして、むしろ、見ている彼らの眼差しに、触れすぎて通過してしまったような近さの錯覚の中で、わたしたちは、そのとき、彼女に触れた気がしたのだった。耐えられない、どうしようもない、錯乱していることさえ既に気付かれていた近さ。だれか、彼女の声を聞いていたものがいたのだろうか?彼女に、自分の声を聞かせ、彼女の声を聞かされるばかりではなく?

とりあえずシャワーだけを浴びて、出てくると、ベッドの一番端に腰掛けたまま待っていた彼女はスマホをいじっていた。ホテルのカフェへ食事に行き、人々の群れ。ここが日本だということを、どうしようもなく気付かされる、それらの人々の群れ。音声と、その仕草の。外国で会った彼らに、日本語で話しかけると、日本語、上手ね、と、あきらかに優秀な下位者を賞賛しながら見下げたまなざしを向けて、「日本語、上手だね」疑うように言ったすぐあとに、え?と彼らは言い、「あ、」日本人ですか?「あの、あ、え?」ひょっとして、と、そう言ったが、今、彼らの視線には、わたしは単なる日に灼けた日本人男性以外ではないのかも知れない。あるいは、波奈子をふくめて、アジアのどこからか来た、一般的な日本人のように良心的で優秀な外国人だと、彼らは思ったのかもしれない。どっちだったろう?波奈子の肌は黒い。褐色の、むしろ、南のどこかの島の風景を、予感させた。スマホで、いつだったか、実家に帰ったときの写真を見せられたときに、その家族写真に写っていたのは、まるで、明らかに仲のよさそうな父、母、娘、息子の家に独りでホームステイした外国人留学生の女の子だった。波奈子は、誰にも似ていなかった。独りだけ、目が覚めるようにくっきりとした目鼻立ちで、そして、日差しの匂いさえ感じられる、褐色の鮮やかな肌を持っていた。整形したのか、どうなのか、そのとき、そう疑い、そして、彼女のためにそれを口に出さなかったのは、彼女の出生をまだ知らないままに、どうしようもない痛ましさを感じたからだった。彼女の顔が整形されていたとしたら、彼女は、手の施しようの無いコンプレックスと、ナルシズムに何重にもない交ぜになった、残酷で、悲惨なほどの複雑なペルソナにすぎなかった。ペルソナ、未完成の、描かれ続けたモナリザがペルソナだとしたら、その、ペルソナ。あのパリの美術館の中の隔離された空間で、見るものをどこからでも片っ端から同時に見つめ続けるペルソナ。怖くはない。書かれたものに過ぎない。家族たちの顔のヴァリエーションの一つから、波奈子の顔を作り出すためには、何回の執刀が必要だろう。どれほどの最先端技術が。メイクの能力を加味しても、それはおそろしい努力だったに違いなかった。その写真をわたしに見せて、彼女が語った、父への言葉、母への、妹への、兄への、それらの、それらを叙述し、描写する、無数の親密な、やさしく、選ばれさえせずに朴訥とした、とぎれとぎれに発された、それらの発話の群れに、わたしは感じたのだった。明らかな、狂気の発熱、その温度を。精神疾患とはっきりと呼ばれ獲る以前の、かすかで混じりけの無いそれ。もはや自分の親とさえ呼べないほどに隔たってしまった両親、あるいは兄弟に対する、語られたやさしさといとおしさの、それが嘘ではないが故にもつ、無慈悲までの違和感。いたたまれない、何も痛くない悲痛な痛さとして、彼女の言葉は、わたしに聞かれるしかなかった。やっぱ、と、顔を上げた波奈子が言った。「いい。」

 

 

 

 

 


私小説 02

 

 

 

 

その、不意の声は、ただ、確信に満ちていた。

一瞬、たじろいで、「なにが?」と、その、まっすぐわたしを見つめた眼差しを、わたしは、

「潤さん、いい。すごい、いい。」小さく笑い、「すっごく。」その笑い声を鼻に連鎖させて、彼女がその瞬間打ち切ってしまった会話の中で、自分が何をしゃべっていたのかさえ、既に忘れられていた。

日本に帰ってきた理由は、ただ、両親の埋葬のためだった。事故死だった。脳梗塞で、半身が不自由になった父を、車に乗せて、ショート・ステイ先の病院に連れて行こうとした母が、対向車線の貨物トラックと正面からぶつかったのだった。福山という広島県の小さな町で、交通量も少なく、見通しのよい道路だった。向こうから来た白い軽自動車が、急に、旋回するように突っ込んできて、何もできなかった、と、被害者のようにそのトラックの運転手は語った。らしかった。母の弟、つまりは叔父の妻が、そう言っていた。らしかった。人を轢いておいて、まるで轢かれたみたいに言っていた、と。なぜ、そんな事が起こったのか、誰にもわからなかった。居眠り運転として処理された。同時に二人の人間が、すぐに眠ってしまえるものなのだろうか?波奈子を東京に残して、新幹線で実家に帰る間中、新幹線のなかの外国人をさえ含んだ人々の風景が、その外国人たちさえ巻き込んで、ここがどうしようもなく日本であることを明示し続けていた。眩暈がするほど、何もかもうんざりだった。喫煙室の中の、ほんのささやかな、ん?と、と。あ、その、ああ、。あー、あ。ええ。それらの、その、言葉でさえない日本語の、気遣いの細かな音声さえもが。

父親の会社が倒産したのは、わたしが22歳のときだった。倒産と言う事態が、あそこまで重大なものだということも、初めて知った。生き残っていた父親の母親は彼の妹が引き取ったし、かろうじて生き残っていた母親の母親は、彼女の弟が引き取っていった。父親のほうは両方死んでいたから、どうでもいい。一人息子は、つまり、わたしだが、東京に出て行ったきり、帰って来そうもなかったし、帰ってきたとしても、彼に何ができるわけでもないことくらいは、彼らも、一人息子自身さえもよく知っていた。彼は、東京で水商売をしているような、どうしようもない人間だったから。大学まで行かせたのに、と思っていることは知っていた。大学に籍があった頃から。もはや、何の文句さえ言わなかったものの。高校の頃に頃に比べれば、それでも、まともになったには違いないから。子供の頃は天使のような子供だった。絵を見ることが好きだった。描くことさえも。音楽が好きだった。弾くことさえも。そして、本を読むことが好きだった。書くことさえも。小学校の頃には、文庫本で、自分たちは読んだこともない、名前だけ知っている本を、息子の彼が読んでいた。母親の弟に引き継がれた、優秀な血統が、流れているのだ、と彼は言われたものだった。彼の叔父は東京大学の卒業生だった。いまや、電源開発の企業の重役だった。たたき上げのエリートだった。縁故も無いところから這い上がったのだった。本物のエリートだった。原発事故が起こるまでは。もっとも、どうでもいいことだった。あと数年で、定年になるという頃の事故だったから。彼を苦しませるためには、それは、遅すぎた。彼に完全に意識されないですまされるには、少しだけ早すぎた。いずれにしても、彼は成功したのだった。幸福に、生きぬくことに。わたしはといえば、破綻が熟成されていく、十代の前半にあった不審ななにかが、いつのまにか、やがては芽吹いていて、彼らが気付いたときにはもう手遅れだった。まともな意味でのまともな人間にはなりようが無い、単なる奇形の人間に過ぎなかった。たとえ、歳を取るに従って、彼がとても知性的で、基本的に美しく、媚態を含んで、ときに、さまざまな人間たちを魅了したことさえあったとしても、故にこそ。彼の未来は、ただ、暗かった。彼らは、彼が、自分たちの骨さえ拾いはしない可能性さえ秘めた人間に過ぎないことにさえ、気付きながらも見なかったことにした。彼らは既に、すべてを失ってしまっていた。田舎の、くだらない、取るに足りないものに過ぎなかったにしても、彼らの社会的地位も、財産も、かつて彼らに群がっていた親族も、息子の、そして息子との未来さえも奪われ、破綻し、崩壊し、無慈悲なほどに単に絶望的なだけで救いようが無い風景が広がってしまったのを見出した、その瞬間に、喧嘩ばかりだった彼らは、おしどり夫婦になった。東京に出てから数年後、ふたたび出会った彼らは、ときに、息子の私にさえ立ち入る隙を与えない完璧に満ち足りた関係性の中に憩う、かならずしも幸福とはいえない、完璧に幸せな人間に他ならなかった。長い、とてつもなく長い時間をかけてつかれた嘘を、いま、ばらされたような、自分の人生のすべてを台無しにされたような気がした。かれらの、幸せな微笑の空間に身を寄せるときには。子供の頃、何度、彼らのいさかいの、暴力的な音響と、気配と、予兆に怯えてきたのだろう?ののしりあい、わめき散らしあい、肉体と肉体がぶつかりあって。目の前であらゆるものが崩壊していくような。見えているほのかな優しさが、危うい均衡の上にだけ成り立ったあやうい風景にすぎないことを、いやほど教え抜かれ続けるような。いずれにせよ、二人いっしょに死んだ。乱脈な、乱れることでしか生きていけなくなった知的で優秀な息子は、女たちの、男たちの、気が向いた腹の上で目覚め、何もかも、濫費に濫費を重ねなければ気がすまなかった。それを教え、そそのかしたのが、隣の少し悪いお兄さんではなくて、例えばレオナルドダヴィンチだったのだから、そもそも、たちが悪かった。更正のめどなどありはしない。叔父は言ったらしかった。生きる資格の無い人間だ、と。母に。あなたの補助はするが、あの子の面倒はみない。理性的で正しい意見だと、わたしはいつだったか思った。両親の死は、叔父の妻が教えてくれた。雨期の終わったベトナムである日、その昼下がりのいつもの熱気の中で、ふいに、フェイスブックに見たこともない三十代前半の女性からの友だち申請があった。名前には見覚えがあった。叔父の娘に違いなかった。不吉な予感がした。何かが起こる、或いは、何かが起こった。予想は違わなかった。連絡先を知らずに途方にくれていた叔母に、娘がした入れ知恵だった。叔母は、わたしがいま、ベトナムにいることさえ知らなかった。

泣いたの?そのときに。泣いた?泣かなかった?なぜ?泣けなかった?たぶん。泣きはしなかった。彼らの死を告げられたときに。あるいは、読んだときに。《お久しぶりです。お兄ちゃんですか?》その文を。どうして?その問いは愚かだ。彼らは既に死んでいた気さえした。《久しぶり。元気?》ずっと前に。ときにインターネット回線上で交わされた彼らとの無料通話の会話のさなかにさえ、《ありがと!元気。》それは最早思い出された思い出のようでさえあった。《いま、時間、いいですか?》面影はあった気がした、子供のころの《もちろん。忙しくても、あとで読みますよ笑い。》、たぶん、十歳くらいの頃の、名前は?《いま、元気ですか?気持ち、しっかりしてますか?》なんだったろう?彼女の名前は?とはいえ、その画像にあった、《どうしたの?》歳を取りかけた《おにいちゃん、久しぶりに会って、いろいろ、思い出とかも話したくて。なんですけど、ちょっと、言わなきゃいけないことがあって。》年齢的なかげりが既に見えなくも無い彼女は、子供と老いの中間を全く知らないわたしにとっては、しかし、もはや《おにいちゃん、大丈夫ですか?》美しいとはいえないだろう、《いいよ。なに?》誰にとっても《本当?》そして《逆に心配になってきた。笑》本当に子供だったころしか《言います。美恵子叔母さんと、武雄叔父さんが、なくなりました。交通事故です。即死です。苦しまなかったと思います。9月23日です》知らない《R.I.P.》わたしにとっては、《そっか。ありがと。教えてくれて。》彼女に美しい時期があったのか、それさえ、《葬式とかは、父と母がします。いま、福山に来ています》知らなかった。三人姉妹だった。男の子はついに生まれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

波奈子を抱いてやるべきだったかも知れなかった。本当に、飢えていたように抱きしめて、好きだ、と何度も呟き、自分勝手に、引き裂くように服を脱がせ、ベッドに押し倒して、自分勝手に射精して。何をやってもどうしても満たされなかった、しかし、ついにいま、すべては満たされた。と。目の前で風景が疾走し、あなたじゃなきゃ、駄目なんだ、と。窓の向こうに、そんなふりをしたら、彼女はどうしただろう?線形の残像になって、とっくに、上品な嘘だとわかっていながら。消えていく。見つめられ続けながら。疾走していくしかない、新幹線の中の風景。同じように、フェイスブックのメッセンジャーで、波奈子とはすぐに連絡がついた。とっさに、日本にいる、5年間のブランクがあっても意にも介せず、すぐさま、わたしの為に尽くすだろう存在として、真っ先に、あるいは、唯一思いついたのは、彼女しかいなかった。判断に間違いは無かった。彼女は単なる従順な下僕に過ぎなかった。食事の後、無意味に部屋にまでついて来て、何の話をするわけでもなく、やがて遅ればせにわたしの顔色を伺って見乍ら、小声で告げた、短いお悔やみの言葉を、言い終わらない瞬間に泣き出したのは、それは彼女のほうだった。どうしたの?と、お前が泣くところじゃないだろ?笑ってわたしは言い、首を振りながら、それは激しく、そして彼女は答えたのだった。「わたし、お母さんにも、お父さんにも、会えなかった。」見つめるが、彼女の視線は、伏目に、ただ、涙に濡れて、見上げられることは無い。交錯しない視線の中で、無距離に触れ合う。ごめんね。言ったわたしに、もう一度首を、強く振って、「わるくない」何度も、時に激しくさえ、確認するように「わるくないです」振られる、「潤さんは。」その首に、「なんにも」そのときできることは、ホテルの窓からこの、不快な気の狂った女を放り出して始末してしまうか、かすかな空気の実在と同じように、かすかに狂ったバグの一つとして無視してしまうか、あるいは、やさしく彼女を抱きしめるかの三つしかない。この、停滞した何も動かない夜景の中で。わたしは、後者を選んだ。腕の中に彼女を抱いたとき、衣服のせいで、瞬間、それを感じることはできなかったが、わたしは彼女の体温を思い出していた。やがて感じられはじめたその体温に、記憶は、それらは互いに重なり合って、単純な温度の高さにすぎず、固有性など一切ありえないにも拘らず、いつか、それぞれに特異だった固有の暖かさとして錯覚されてしまうもの

彼女の、あの写真の家族の中の父親とはいかなる遺伝情報の共有もないことは、今では知っている。わたしがまだ東京に住んでいた最後の時期に、波奈子の母親から聞いたのだった。彼女にとっては、わたしは娘の婚約者だった。一種の比喩として。永遠に守られること無く、既に破棄されていた、永遠の約束の恋人。誘われていっしょ緒に食事をすることになった、その日に彼女は遅刻しなければならなかった。急に入った、自主制作盤の打ち合わせのために。彼女の母と、私だけでいっしょにすることになった食事の間に、何を聞かれたわけでも無く、不意に彼女は言ったのだった。実は、と、言って話し出す彼女は、若かった頃の高飛車な感じを、どこかに名残らせていた。彼女の名前は奈菜子(ななこ)と言った。もう独りの娘は陽奈子(ひなこ)だ。短く揃えられた髪を揺らし、老いがしずかに彼女の皮膚から鮮度を奪い、しわの中に、身体の形態をやわらかく包み始めていた。死へのゆっくりとした準備をさとし、うながし続けるように。波奈子は、彼女が80年代の後半にフィリピンにボランティアで言ったときに、「授かったんですね、あのときに、」と、彼女は言った。波奈子は、彼女が現地の数名の人間に強姦されてできた子供らしかった。当時、未婚だった父親も現地にいて、彼は病院と警察所の中で、事の次第のすべてを聞くことになった。福井で大量に生まれた原発成金たちのうちの一人に他ならなかった、勝ち組の彼らの善意の旅行は、一瞬で悲劇的な色彩に包まれた。彼は、彼女と結婚した。妊娠が発覚したとき、確かに迷ったが、奪胎は違う、と思った、と、彼女はわたしに言った。彼も承認した。人は、悪くないんです。悪いのは、人じゃないの。ね?、ええ。ねぇ。海辺の町だった。独りで、散策に出た帰りだった。暗かった。数人の、匂いのきつい(薬物のせいだったかもしれない)男たちにバッグを奪われたことから始まった。もとをただせば日本製のその薬物に蝕まれた彼らの体臭。俊敏な、複数の肉体。奪い返そうとした彼女と、男たちの、暴力的な身体接触はやがて、性的な接触に変わって行った。気付いたときに遅かった。浜辺のくぼんだ場所の、野の花が赤く咲いていた、そこの木製の船の陰で、意識を失いそうになりながら、何度も彼らの声と、息遣いと、自分のそれと、悲鳴と、喚声?車の、バイクの通り過ぎる音響さえ含めて、それら、彼女にはあまりにも悲痛に聞こえたノイズの向こうに、波の音が聞こえているのを彼女は知っていた。確かに、それは聞こえていた。ずっと前から。名前はどうする?夫は言った。あなたつけて。ねぇ、。ね?彼女は言った。やがて紙に書かれた、いくつもの候補を、そして、彼女はそれらを見もしないで、言った。はなこ。は、な、こ。波、奈、子。それが彼女の名前だった。「後悔してますか?」

「何に、でしょう?」生んだこと?行ったこと?育てたこと?何に?質問をした自分でさえ、それはわからず、わたしはむしろ沈黙するしかないまま、「後悔して、」言いかけて、でも、ね。ねぇ、ほら「遅すぎるでしょう?」ふたたび、当たり前のことに気付いたように彼女は言った。諦め、とは違う、明確で、確信に満ちたものだった。

彼女が愛されているのは知っていた。彼らに。彼らが、彼らにとっては愉快とは言えないわたしとの付き合いを、それでも許容し続けるのは、彼女が自分たちの子供としてみなされていなかったからではない。とはいえ、彼女は、必ずしも、彼女たちの、自分たちの子供ではなかった。彼女たちにとって、彼女に対して、なにか、埋めようも無い優しい距離感が存在していた。その距離感だけが、彼女に、優しい自由を許させていたのかもしれなかった。始めて会ったとき、この、彼女たちの優しさが、不思議だった。なぜ、彼らはわたしを受け入れるのだろう?単純に言ってしまえば、彼らの娘を慰み者にしているに過ぎない、その意味では彼女の未来を奪って、その限りにおいて彼女の現在をさえ奪い果ててしまっている、あきらかな加害者に他ならないわたしを。あの子がいつもお世話になって、と奈々子は言った。丁寧に頭を下げて、そして慰めるように、いたわりさえするように、その眼差しはただ、優しさだけを語るに過ぎなかった。不意に舞い散った小鳥の柔らかい羽根に、頬を後ろからくすぐられたような。いつでも、彼女は特別な子だったのだろう。その、いつか出来上がっていた特別さが、彼らの優しさを特別に生み出してしまったに違いなかった。もちろん、二人に共有された海辺の苦痛は、癒されえない苦痛として目覚め続け、放置され続けなければならなかったままに。その妹に、もしもわたしが同じことをしたら、同じような鳥の羽の優しさは舞い降りてきたのだろうか?うしろから、そっと風に触れられたように。波奈子の兄は、東京の企業を経由して、彼女たちの地元の福井県の実験炉の管理部で働いていたが、彼はいつだったか言ったものだった。でも、いや、失礼ですがそして不意に笑って、なんで、あんなのがいいんですか? いつからなのだろう?わたしが彼らのとって、彼女の夫になってしまっていたのは?いつも思うんですよ。もっと、あんなのより、いいのがいっぱいいたでしょう? 波奈子がそう言ったのかもしれない。あるいは、彼女のその思いが、いつの間にか、彼女の周囲にその状況を作ってしまったのかも知れない。ほら、潤さん、いけめんじゃん?まじで。いや。本人が気付く前に。そして、むしろ、彼女はその周囲に、わたしが彼女の生涯の人間だと教わりさえしたのかもしれなかった。いつの間にか。そして、窓越しにいつの間にか、雪が降っていて、福井のほうも、雪が降るんですか?東京みたいに。その、まるで日本地図を知らない外国人のような、そして、日本人の大多数にとっての当たり前の質問をすると、奈菜子は笑いもせずに、うなづいて、綺麗ですよ、それは。とだけ言った。「女として、どうなのって。あいつ、がさつでしょ。」兄の名前は、確か、修一と言ったはずだった。わたしより年下だが、同い年か、むしろわたしのほうが下に見え、「かわいけりゃいいけど」言って、思い出したように笑い、ん、でも、まあね、と、「ぶっちゃけ、パーツは悪くないんですよ、でも、トータルで、どうなのって?思いません?いや、」わたしが渋谷と原宿の間でやっていたバーの中だった。「でも、せっかくなんで。やっぱそうですね、おれ、やっぱ、やめますって言われたら、ほら、あいつに怒られるんですけど」わたしが彼女と出会ったときには、水商売のころのホスト仲間の一人と、客だった女と、バーを始めていた。次にドッグ・カフェを。次に、同じようなカフェ。次に、そして5店舗できた頃には、その生活にも飽きていた。成功者とも、実業家ともいえなかった。失敗しているわけではさらさら無かった。単に、目に映るものすべてに、飽きた。

修一が来たのは波奈子の紹介だった。東京の会社の、要するに震災前の東電での本社研修に呼ばれたのだった。大学時代の同級生との飲み会のあとの何次会かで、三人できた。話し方も、顔つきも、物腰も、まったく妹とは似ていない。「いや、今まで見た最高の女性ですよ。波奈ちゃんって」と笑いながら言い、彼の言うとおりかも知れない。彼女の《夢の女》の夢のもろもろは、一般的に、どうしようもう無く過剰で、いびつにさえ見えるかも知れない。美しいばかりか、むしろ、見苦しい女でこそあったかもしれない。

「言わないでくださいね」奈々子は言った。「秘密にしている、って。そういうわけじゃないんですけど。ただ、もう、」一つ一つの言葉を「言わなくてもいいんじゃないですか?遅すぎるというか。もう」わざわざ区切りながら言う彼女の口調に「必要ないんじゃ。て。卑怯なのかも知れませんが。」たとえばわたしが言えと命令しても、そんなことするはずも無い、当たり前の既に下された決断があった。「あの子だけが、知らないんですか?みんな知らないんですか?」

「主人とわたし以外には。」あの子見てると、と健一が言った。それは共同経営者だった。「なんか、できの悪い子だなって気がする。」波奈子が店に来て、そして帰って言った後で。その後姿が見えなくなったあとに、そのとき、もう、わたしの手は付いていた。健一との付き合いは、ホスト時代の最初からだったので、彼ならすぐに気付いてしまうことを知っていたわたしは、ことのあらましは何も話さないままだった。「やったんでしょ?もう。なんかね、見ればわかるけどさ、匂いで、ね。体臭、変わったよ。あの子。」笑う。「かわいいんだけどね。なんか、でき悪くない?」

「そう?」

「なんか、根本的に間違っちゃってない?。生き物として、なんかね。なんか、こう、作るのへたで、がんばったけど結局失敗しちゃってごめん的な、残念感、はんぱないよね、」笑うわたしの頬に、両手のひらを触れて、まあ、と、好きだからね、お前。食い散らすのが。(ひと)語散(ごち)て健一は、殺されちゃうよ。最期は。言って、わたしはそれを聞きながら、声を立てて笑った。

健一には、帰国の連絡さえしていなかった。なぜだろう?単純に、最も、何の混じりけなく愛していたのは、いるのは?ずっと、この美しい男でこそあったはずなのに?

新幹線を降りた福山駅は、ただ、閑散としている。そこが実家だった。容赦なく寒いが、東京ほどではない。両親が死んで何日たったのか?ふと、本当に指折り数えてみると、まだ四日しかたっていなかった。明日が、火葬の日のはずだった。(ひな)とは焼き場で待ち合わせていた。(まゆ)(ひな)優奈(ゆな)の叔父の三姉妹の、繭はいま、カリフォルニアの白人と結婚して、帰ってこない。優奈は、パリだったかどこだったかに留学して、バイオリンをやっている。うまいのかどうか、有名なのかどうかも知らない。雛と、その母と、父とが、福山に来ているはずだった。借家の処分から、荷物の整理から、結果的に彼らにお願いしてしまった仕事の量は膨大だった。わたしが叔父だったら、わたしを殴って、蹴り、蹴り上げて殴りつけ、血まみれになって、わたしは生きていることそれ自体を謝罪し、わたしが生まれてきたことそれ自体を後悔したとしても、わたしは、決してわたしを許しはしないだろう。彼は、どうするだろう?暇つぶしに入った喫茶店の中で読んだのは、森鴎外の『舞姫』だった。

石炭をば早積みはてつ。いまなら、どうだろう?充電もうなくなりそう。だろうか。飛行機や新幹線の長い閉ざされた時間の中で暇つぶしに何百回も読んだということをもって愛読書と呼んでいいなら、それは間違いなくわたしの愛読書だった。すべては自分の責任に他ならないものの、罪持つものは自分自身以外にはいなかったものの、目覚めたときにはすべてが、何も知らないまま、何も体験されなかったままに、勝手に終わってしまっていた男の滑稽な惨劇。一歩を踏み出しさえしなかったのに、もう後戻りができなくなっていた男の、残酷で陰惨なショー。外国語の影響を受けながら、日本語以外ではなく、既存の日本語でもない、いびつに異種交配された日本語によって仮構された美文らしきもので埋め尽くした、カタカナ書きの外国語だらけの小さなハリボテ。問題は、エリスの子供がどんな大人になって、どんな人生を過ごして、どんな風に死んでいったのかではなくて、これから、明日の朝までの時間だった。生まれて、育ったという以外の関係の一切をなくしてしまった町に、人間関係上も、法律上の所有権上も、もはや、わたしの公式の居場所はどこにもなかった。父方の墓参りにだけ行こうと決めたのは、『舞姫』の、露西亜に行くために、余が少しの荷物を小「カバン」に入れた瞬間だった。

 

 

 

 

 


私小説 02

 

 

 

 

20年以上ぶりになる生まれた育った町を、ただ、窓越しの風景としてだけタクシーで通り抜け、それでも悔恨のようななつかしさにだけ苛まれるのが、ただ、不快だった。そうなるのは既にわかっていた。せめて誰とも会わないですむように願った。墓地は荒れてはいなかった。誰かが手を入れていたのかもしれなかった。父親の妹だろうか?彼女の子供たちの数も三人だった。その長女も三人子供がいたはずだった。3、さん、三。何でも三だった。線香さえ用意しなかったので、ただ、立ち尽くすしかないが、物思いにふけるほどの記憶の喚起力さえも、それらの墓石は既にわたしに対して失っていた。胸倉をつかんで、聞き取れない何かを耳元にささやかれたような、不審で、無意味な懐かしさが、ただ、どうしようもない残骸として広がった。こどもの笑い声がした気がして右を見ると、背の低い、細い枝の複雑な群れのいっぱいの葉の茂みの先端に、白い小さな花々を、無数に散らせた、花、その木が、枝が、それらの群れの茂みが、それらが、立てた音声だった気がした。ねぇ、

え?と、ささやかれたわたしは、我に帰って、その茂みの向こうに、悲惨なほど老いぼれた女が立っているのを認めた。その女には見覚えがあった。わたしと同じくらいの年齢の、そして、無残なほどに、もう若くは無い加齢だけを繁茂させていた。その体中の周辺にまでも。ふとしたしぐさにさえも。「ひさしぶり。帰ってきたの」小声で叫ばれたような音声を、それは、幼馴染の、千恵子と言う名の女だった。

千恵子は既に人手にわたったもとの実家の、すぐ近くに住んでいた、あるいは、住んでいる、女だった。かわいい少女だったが、いま、目の前の彼女は、大柄で、骨ばかりが太った、丸太のような女になっていた。何も答えることができなかったのは何故だろう?ただ、微笑んで見つめるしかなかったわたしを、彼女はやがて、あの時、と、この人、自殺しに帰ってきたのかって思った、と笑いながら言うにしても、《そんな風にしか、見えなかったよ》わたしはややあって、「久しぶり」言った。《まさか。まだ、死なないよ》帰ってきたの?いつ?という彼女の微笑を、《だよね。知ってる。けどさ》何を言えば言いのだろう?時間の経過を、そのすべてを、わたしは《心配?》彼女に伝えるすべが無いままに、今日、《ううん、そうじゃなくて》と、さっき、着いた。そう言って、笑う意外に何ができたのか?

わんさかとふってわいて、だだっと堕ちてきたような笑い声と言葉の快活さと共に、強奪されたように千恵子に通された彼女の家には、確かに、記憶があった。鮮明な記憶、とはいえない。目にふれた何かが、何かの予兆として、鮮明に何かを語るのだった。それが、意識の錯乱のせいだと既に知りながら(じじつ、20年以上、ひょうっとしら30年近く立ち入らなかった住居の庭に、かつてと同じものなどほとんど何も無かったはずだった、そう思った瞬間に)いつか見たもの、いつか触れたそれとして語りかけられていた気がした、わたしの、ひょっとしたら、(確かに、建て替えられてはいないその柱は、まさか入れ替えられはし無かっただろう土も、石も、)悲しいほどに陽気な千恵子の顔を、その、明らかな老いは(確かに、わたしがかつて見た同じものに過ぎないのだった。)誰もいなかった。彼女以外には。にも拘らず(そんなことに、やがてわたしは気付いたのだった。)凝ったセイロンティーを、凝ったお茶器で、凝ったカップに入れながら、千恵子はもともと饒舌だった。たとえ、千恵子を含めた誰もが、最早千恵子の話など聴いてはいないことに気付いていたとしても、彼女は話し始めたら止まらなかったし、それを、わたしは黙って笑いながら聞き続けるしかなかったのだった。いつも、いつかも、昔も、あのころも。ほんの小さい子どものころ以外、それほど頻繁に行き来があったわけでもなく、仲が特にいいわけでも、悪いわけでもなかった。それらの実際的な関係の希薄さの事実を、二十年以上と言う、人間種にとっては長すぎる時間は、単なる空っぽの饒舌さのうちにたやすく忘却して仕舞うのだった。むしろ、とてつもなく多くの長い長い時間を、彼女と共有していた気さえした。そんな事は無い、と、あとですぐに気付き続けながら。「まだなの、わたし」と言って、結婚はしていなかった。「ごめん、それってさ」若い頃にアルコール中毒になったことがある、と言った。「何?」マジ?とわたしは言って、マジ。「一度も?」答える彼女に、「ごめんね」笑って、「わたし、モテないからさ。」笑われた声に、さらに笑わされる。頭が悪いが、性格はよくて、能天気な少女だった、と、誰もが回想するに違いなかった千恵子の、彼女は、やがて深刻な悩みと言う名の障害に打ちのめされたのかも知れなかった。あるいは、単なるアルコールの快感が、彼女を打ちのめすことによって、彼女に初めて苦痛を与えたのかも知れなかった。いずれにしても、彼女は苦しみ、傷つき、恢復した(と少なくともいま、彼女はそう思っていた)のだった。まだ、怖い、と言った。やがて、笑い声が収まった、しずかな、居心地のいい空間をお互いに作ろうとした退屈さの中で、「何が?」

「お酒」

「大丈夫だよ」

「そっか?」一度、と、わたしは言った、地獄を見てきたやつは、もう二度と、危ない場所に堕ちることなんか無い。地獄の深さも、つまらなさも、知っちゃったから。

嘘だ。そんな事は、だれでも知っている。そんなに、た易いのなら、誰も死にはしなかった。誰も駄目になりはしなかった。ホストのときに、覚せい剤で自殺した、レイトを思い出した。漢字は忘れた。どうせ麗人だか黎人だかに決まっている。一度パクられたときに、やめればよかったのに。調子に乗ってはじけたときに、自分の体に火をつけて焼いた。バイクが好きだった。女の部屋だった。人体もろとも燃えた部屋を損害賠償する彼の両親。そんなに悲しいなら、意味もなく悔しいのなら、我慢がならないのなら、と、わたしは思った、狂ってしまえばいいのに。どうしたの?涙ぐんでいたわたしの目に、訝るような千恵子の声がかかって、「どうしたの?」なんでもない、と、わたしは言うのか?いま、嗚咽さえ既に漏らしてしまいながら。わたしは泣いていた。彼女に教えられるまでも無く。もうだれもいない。居場所などどこにもない、隠喩でも暗喩でも比喩でもない。尋ね獲る場所はいくつかある。だが、この国の領土の中からはもはや、わたしの居場所など現実として喪失していた。千恵子は抱きかかえるようにして、わたしは泣きながら、千恵子に謝り続けるわたしを千恵子は抱きしめた。千恵子しかいないらしかった。妹はすでに結婚していたし、母親はどこに言ったのだろう?祖父と祖母は、介護施設にでも入ったのだろうか?父親は働いているのだろうか?定年を過ぎてはいるはずだったが。聞いてしかるべきものの一切を聞かず、話してしかるべきものの一切を話さないばかりか、お母さんはお元気?そう言った彼女に、確かに、母とも、もう、わたしと会っていなかったのと同じくらいの時間以上に、彼女は会っていなかったのだった。「元気だよ」わたしは嘘をついた。話が長くなるからだった。それは、長い、長い、長い、話だ。短くすることもできる。一人息子に裏切られた、無残な人生を幸せに生きた女は、4日前に自分で死んだ、と。それが事実かも知れなかった。それを認めない、かたくななわがままが、確実にわたしの口から虚偽報告をさせた。何の、メリットも、デメリットも無い、単なる嘘に過ぎないもの。それを言ってしまえば、突き通すしかなくなる、そして、暴かれてしまえば、いかなる意味ででも正当化などできない嘘。「結婚するの」彼女はやがて、笑って言った。実は、という言葉を先行させ、わずかの沈黙と、泳いだ眼差しの後で、ややあって。マジで?わたしは、すごいじゃん、と、「いつ?」

「この、12月」声を立てて笑った彼女の「迷惑だよね」声を、「一番忙しいときに。」空間は反響させた。「誰と?」

「もといた会社の取引先の、でもね、そういうつながりじゃなくて、偶然、出会って。子供も、もういるの。いや、旦那のだよ。奥さん、亡くなられてて。乳がん。大変だったんでしょう?ね、けど、まあ、うん。」わたしは彼女の、その表情の、さまざまな、刹那的な、複雑なそれらの推移をただ見つめるのだった。「縁だよね、って。」

次の日、火葬場の前で、入りきれずに立ちずさんだまま、指定された待ち合わせ時間は過ぎていた。とっくに、火葬さえすんでいたかも知れなかった。何台かの霊柩車と、同行の車の難題かがが入って行ったのは知っていた。立っているだけの1時間半の間に、出ていった車はまだ無かった。美しい、簡素な火葬場だった。昔、渋谷区で部屋を探したときに、驚くほど安い物件があった。不動産屋が、顔色を伺うように、さんざん物件を賛美した後で、火葬場の正面にある物件なんです、と言った。水商売をやっていたころだったから、借りられる物件など、そんな傷のある物件くらいしかないのだった。ある意味において、差別されることが社会的に公認され、被差別者側においてさえ、ある種の奢りと共に承認されている、公然とした被差別人種のお仲間ではあった。差別は、自分たちのようには生きられない灰色の人間たちが与えた、むしろ勲章だったに過ぎない。彼らがその職種である限りに於いて、そして、職種の問題だけではなく、異端視されることを許容せざるを獲ない、自分に火をつけるような危うさを、自分自身も抱えていることくらいは知っていた。「でも、大丈夫です」彼女は言った。「火葬場に恨みを持って死んでく人、いないですから。」笑って、その女は、わたしの職種を聞いた瞬間に、まだたいて《すごい》まだ若かった。「殺されても、自殺しても、ですね」彼女の《初めてなんです。わたし》くりくりした目が「火葬場では、もう、綺麗な仏様ですから」微笑んで崩れ、《ホストの人の本物、この目で見るの。》言った。たしかに、綺麗な場所なのかも知れなかった。《なんか、すごい》事実、その周辺は、借景ですらあって、《なんか、いま、キャーキャー言っちゃいそうで、》ひたすら美しく《やだ。ちょっと、》整然とした近代的な建築の周りを木立が清楚に彩った、《やばいです。》悲しいほどに端整な環境だった。周りの人間の住居たちの生活臭の立ちこめたたたずまいが、むしろ穢れて見えるほどに。そこは、穢れ獲ない、美しく清楚でしかない空間に他ならなかった。焼かれてしまった灰の美しさなのか。体中が痛かった。昨日、鉄橋の下で、ひざを抱えてうずくまったまま、寝つきもせずにすごしたのだった。中学生のときにさえ、そんな事はしたことがなかった。ホテルにくらい、止まればよかったのに。痕跡を残したくなかった。いかなる意味でも。自分がここに滞在している、滞在していた、痕跡をなどは。人目を気にしながら飲食店をはしごして、時間を潰し、夜の十二時を回ったころには行き場所などなくなる。川べりにまで歩いて、土手を降り、両足の筋肉は既に硬直して、どこでもいいから座ってしまえとつぶやいてやまない。夜の空間に光が穏やかに点在し、川の水をきらめかせたが、美しくもなければ醜くもない。死んでしまおうか、とさえ思う。死ねないことなど知っている。死んでしま獲るだけの死への切迫などどこにもない。何も、美しくない。何も、醜くない。それが最早、許せない。美しくなどあり獲ないなら、せめて醜悪であってくれ。二目と眼にできないほどに。ふたたび眼を開けた瞬間に、失心してしまうほどに。目の前の木立の中に入って、朝の日差しが、見飽きてもなおも降り注いだ。背後の火葬場の焼却炉の中で、両親は焼かれているのだろうか?煙を探す気にもならない。風が木の葉を揺らしていく音だけを聞き、背後に、不意に、自分の名前を呼ばれても、最早それに驚きさえしなかった。雛だった。すぐにわかった。「入らないんですか?」振り向いて、首を振るわたしの顔を見て、わたしは泣いていたわけではない。むしろ、淡々とした表情しかしていなかったはずだった。いかなる感情も、浮かべようにも浮かばなかった。「待ってる?」

「いえ、あの、」口ごもって、むしろ泣きそうなのは彼女のほうだった。「ごめんなさい。もう、

「そう」

「あの、」

「なに?」いえ、と、ふたたび、うつむくのだが、思い出す。わたしは、彼女達の初恋の男だった。彼女たちの母親が、いつか言っていた。あのころ、確かに、剥き出しの扇情的な媚が、まだ乳臭い三人の少女たちの眼差しに、恥じらいの一切さえなく浮かんでいた。「ありがとう」言ったわたしの言葉を、彼女は口の中で反芻して、飲み込んで、ややあって、ようやく消化したその5音の言葉を、さらに反芻して、しかし、何も言わなかった。「いろいろと、ごめんね。喜んでいると思います。母も」わたしがそう言った瞬間に泣き出した彼女は、何が悲しかったのだろう。思い出された記憶が、なのか、いまの目の前の現実が、なのか。来なければよかった。こんなところに。そう思って、今この瞬間に、自分の姿のすべてを、痕跡さえ残さずに消してしまえれば。おにいちゃん、と言ってじゃれ付いてきた小さな、幼かった彼女は、その子供の小さな視界の中で、小さな彼女の世界の中の一番の存在を恋していたに違いない。彼女の世界は広がって、わたしなどよりはるかに美しく、有為にして優位な男たちを見ることになるのだが、記憶はその世界そのものの正当なる差異を破壊してしまう。彼女は一番の存在のわたししか見なかった。わたしが一番の存在などではないことなど、既に知っていたとしても。どうすればいい?どうやってあがなえばいい?残酷すぎて、言葉も無い。一度髪をかき上げた後に、ややあって、わたしにできたのは、そこを立ち去ることでしかなかった。もはや、振り返って見てもやらずに、そして、舌を這わす。そっと、這わされた舌の進行にしたがって、皮膚の上に、唾液の匂いの痕がついていく。鼻に、その匂いは混入して、いま、彼女のその汗ばんだ皮膚の匂いが、わたしの唾液の匂いを付着させたことに、否応無く気づいてしまう。くちびるに一度軽く上唇を触れれば、思い出したようにふたたび開かれて、その、離されてしまった唇をおくれて、あくまで受け止めきろうとする。舌が唇の上部にふれると、かすかに傾けられた頭部が、舌を押し返すほどに唇を押し付けたのを、逃げ去るようにした舌に、波奈子は息を、意識しないままに、自分の呼吸を吹きかけるしかなかい。東京に帰って、ふたたび呼び出された波奈子は、《どうでした?》彼女の唇に、《悲しかった》言って、笑った。触れた唇を、彼女は優しく咥えようとした。開かれた瞳孔を、さらに開ききらせて、唇、その柔らかい先端だけで。やがて離された唇には、見向きもしないで、わたしを、波奈子はただ、見つめた。ホテルの部屋は、薄暗かった。ベッドメイキングは完璧だった。脱ぎ捨てられたわたしのコートだけがそれを汚していた。それは、波奈子が買って用意したものだった。頼んでもいないのに。寒そうだから、と。確かに寒い。明日発つのだから、もういらない。ホテル代も、彼女が出すのだろうとわたしは思っていた。そういう女だった。あるいは、そもそも、わたしは女に金銭を要求されることがあまり無かった。わたしのせいなのか、彼女たちのせいなのか、わたしにはわからない。女たちは、わたしを養おうとした。拘束という言葉のもっとも優しい翻訳。慰みもののような顔つき。波奈子。その体臭。身体。恥ずかしい《夢》。なんか、汚いよ、と健一は言った。なんか、臭そう。と、笑って、いろんなとこが。かわいいけどね。勝手にわたしは服を脱いでいき、床に放り投げられる衣服を、拾って歩きさえしないで、波奈子は、しだいに現れていくわたしの身体をさえ見ずに、ただ、わたしを見つめたままだった。したい?わたしは言った。舐めたい?

どう?舐めたい?

答えな。

舐めたい?

言いなよ。舐めたいって。

舐めたい?

言えよ。ほら。と、彼女は、「舐めたい、です」そう言った自分の声を聞いた。欲しい?「欲しい。」やりたい?「やりたい、です。」めちゃくちゃにして欲しい?「欲しいです。」めちゃくちゃに?「はい」めちゃくちゃに?「めちゃくちゃです」ぐちゃぐちゃに?「ぐちゃぐちゃです」ぎたぎたに「ぎたぎたです」びちゃびちゃに?「びちゃびちゃです」でろでろに?言葉を待たずに、彼女を腕に抱いて、わざとわたしがベッドに放り投げたとき、その、すがるような目線を、わたしは声を立てて笑い、避妊具の用意は無かった。かまいはしないだろう。知ったことではないだろう。

 

はやく。もっと早く。

早く、今すぐに。もっと。すぐに、いま。出国手続きの間中、波奈子は、連れ添った貞淑な妻のように、傍らで、ただ、心配そうな顔をしていた。「一人で行けますか?」

「なんで?」笑ったわたしの表情さえみずに、彼女はわたしを見つめたまま、何も言わない。日本人たちの群れ。彼らの生存領域から脱出するのは、もうすぐだった。何をしにここに帰ってきたのか、最早その必然性さえわからない。ホテル代は波奈子、帰りの飛行機代も波奈子。新幹線代も、飲食代も、手の届く範囲の金銭はすべて。何故?夫だから?そうなのかも知れない。出国ロビーに入っていこうとするわたしの背中で、あ、と、波奈子は不意に言って、え?、わたしは振り向くが、ううん、と、その声は、一瞬そらされた彼女の眼差しに振り捨てられたように、周囲の雑音の群れにかき消された。わたしの耳には残った。「どうしたの?」あの、。何?たぶん、と彼女は言いかけ、ふいに声を立てて笑って、彼女はわたしに抱きついていた。背伸びして、耳元に、「こども、できた」え?と、小さな、そのわたしの声を、「きのう。たぶん」わたしは笑って、微笑む。あの、気付いたの。わたし。「え?」あの、空港で、会ったとき、あのとき、あ、と、不意に言ったのだった、彼女は。あの時に。「何に?」

「あ、できる、って。」笑っていた。それは、満ち足りた笑顔で、いま、目の前で何が起こっても、彼女の幸福を壊してしまうには値しない、そんな気がした。漏らしちゃったの。あの時。ちょっとだけ。「ん?」

わたし、あ、って。あの、わかります?

何を?

わかったんです。わたし。こども、できたって。「昨日?」

「そう。わたし、きのう、できちゃった。」わたしは彼女の頬に口付け、そっと、その腹部に触れた。たしかに、わたしと彼女の、たった一人の子供の生気の、その芽生えに、指先は気付きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.12.16.-18.

Seno-Lê Ma