閉じる


02 私小説

私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふいに、壁の向こうに土砂降りの雨が降る。猫に起こされる。その、ながくなめらかな鳴き声に。ベトナムの、ベトナム人の妻の家だった。5時半。まだ夜は明けない。眠った振りをする。かたわらに妻の体臭がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで、廃墟のような家だった。すくなくとも、一般的な日本人にとっては。1970年代の始めに立てられた、レンガブロックをコンクリートで固めて作った家。でたらめな電気配線が壁をはい、必要以上に広く間取られ、基本的に部屋と言う概念はない。一応の仕切りを兼ねた、壁だけはある。ガラス窓は一枚もない。飾り格子がはめ込まれた窓に、板で作った窓板が雨戸の用をたし、それを塗った青いペンキは剥げかかっていて、壁は一面、淡い緑色に塗られていた。床の緑の御影石は、いつもの午後に、日差しと、人々の影とを白く反射したものだ。どこかに、銃弾が数発くらい、残っていないものかと探したことがある。ここに来た当初に。そんなものはなかった。ここでは戦闘は行われなかったのかも知れないし、たまたま銃弾を食らわずに済んだだけなのかも知れないし、戦後、補修が行われただけなのかも知れない。

壁の向こうに雨が打ちつけ、撥ね、空間のすべてを片っ端から濡らし、音。遠く聞こえるそれが、その唯中では、もはや轟音にすぎないことには気付いている。家に住み着いている猫が子どもを5匹と、4匹生んで一ヶ月たった。母猫と、その子猫とが。どっちもメスだったから、同じ時期に二匹とも生んだ。

ながい鳴き声が、呼応し、連鎖する。それぞれの声に、それぞれの子猫が鳴き、何かを返し、返され、鳴かれ、鳴いて、更に答える。

なにを言っているのかはわからない。いずれにしても、猫が彼ら固有の言語を話すことだけはわかる。もう少し、夜が明ければ、彼らは一度、沈黙して仕舞うことも知っていた。いつものことだったから。…雨。

ベトナム中部のダナン市で、そこはいま、社会主義政府の方針によって、ベトナム中の資金をかき集めた観光地開発が同時多発的に進められて、うるさいほどだったが、ときに、不意打ちのように土砂降りの雨が降って、一気にやむ。その日は半日、曇っている。昼近くには、南部ほど鮮やかでは日照が、路面のすべてを干上がらせて仕舞うにもかかわらず。

老いさらばえた自分の皮膚を撫ぜる。顔の。醜く、美しさの残像さえも維持しないそれ。40歳を超えた、自分の体中が、淡い腐臭をさえたてていることを知っている。ベトナムでさえ、誰もがわたしに言った。…あなたは、とてもハンサムです。…ありがとう。答え、微笑み、その、恥ずかしげもなく潤んだ、生暖かい眼差しの群れ。

無数の、わたしを捉えようとする眼差し。わたしは美しい。彼ら、…彼女たちにとっては。

潤んで、瞳孔をやわらかく開かせた、女性特有の発情した眼差し。穢らしい、という概念に実態を与えたら、そうなるに違いない、無数のそれら。触れたものを陵辱するのではなくて、触れたみずからが陵辱されないではおかない、奇妙に自虐的な眼差し。わたしは醜い。老いさらばえ、生きている資格さえなく、死ぬ必然は奪われたままだ。

なぜ、女たちはみんな、愛するものを見つめるとき、まるで知性を感じさせない、痴呆的な目つきを曝すのだろう?あわれなほどに。

女たち。…あんなにも穢らしくて、よく生きていけるものだと、わたしはいつも、彼女たちの生き物としての倫理観を疑った。

 

…ほら。

水城(みずき)(あい)が言った。

…ね、…ね。

二十二歳のわたしは、彼女に揺り起こされて、思わず、匂いを嗅ぐ。目覚めかけながら、その寝起きの、汗ばんだ体と、覆いかぶさった髪の毛の、倦んだ匂いの氾濫を。

…見て、…ね。

真咲(まさき)、と、彼女が呼んだわたしの源氏名を、…息遣う。至近距離で息遣う愛の存在自体がうざったくて、わたしは眼を開けない。

…まぁくん、…ね。

愛が、手首を切ったに違いないことくらい、知っている。どうせ、死にはしない。死ねばいいのに。どうせ、と、…俺も?まともな人間じゃないんだから、俺も、か。…それって。と、不意に声を立てて笑って仕舞う。

…、、、、、

息遣う、やわらかく、ぐにゃぐにゃした生き物。自分が美しくないと生存できない、家畜のような暴君たち。女たち。眼を開き、目の前に押し付けられている愛の、瞳孔が開ききった眼差しを見る。白目さえもが、上気している。血の匂いを探す。裸の胸元に感じるかすかな湿気が、それに違いない。リスト・カットする前に、裸のまま寝て仕舞ったわたしの体を、愛は何度嘗め回すように見たのだろうか?いつものように。かすかに、ほんの微かに唇を開いて。わたしは愛を見詰めた。口付けた。その瞬間、彼女の瞳孔が縮まって、一瞬だけ。そして、予想だにしなかった、滂沱の涙があふれ落ちた。

1998年、渋谷。

あるいは、来年には、空から恐怖の大王が、こんにちは、と、世界に挨拶するかも知れなかった。

わたしは歌舞伎町のホストで、水商売の女や、風俗の女や、いわゆる常識人の振りをした頭のおかしな色情狂のメスたちに尻を振られていた。

 

寝苦しそうな寝息を立てて、添い寝するベトナム人の妻は熟睡している。壁の、高い位置にある通風窓から光が微かにさして、外はまだ明るくはない。決して、暗いとはいえない。

まばたく。猫が鳴く。

聞く。

彼らはいま、忙しい。彼らの会話が連鎖し、それは、音楽であることをやめてしまった音の群れのたてた音楽のように聞こえる。

意味がわからないこと言葉は、つねに音楽のように聞こえる。

 

初めて人の自殺するのを見たのは大学生のときだった。18歳だった。東京に出てきたばかりだった。その歳の11月に出会う、圭輔とはまだ出会ってはいなかった。雨上がりの、6月の、いつか。

覚えていた。大気の湿った、しかし、不快ではない気配。濡れた風。湿気た髪の毛。女たちが大気を罵り、わたしはいちいち彼女たちの髪の毛に見向きする趣味はなかった。

多摩市にある大学の校舎の、3号館と5号館と6号館が作った、谷間の薄暗い庭地を、水溜りを避けながら川村幸人と歩いた。幸人は、学年は同じだったが、2歳年上だった。なにを話していたのかなど、覚えていないどころか、その時でさえ、殆ど聞いていていないに等しかったが、わたしはその音声を耳にいれ、意味を聞き取る努力などすることさえなく、ただ、その甘ったれた音声を楽しんだ。不意に、女が小さく叫んだ。

危機感は感じさせなかった。コーフーカップを、ひっくり返してしまいそうになった、そんな声だったが、振り向くと6号館の前を、男がさかさまに落ちていた。空中に、暴れることさえなく、見た、と、そう想った瞬間には、男は頭をアスファルトに砕かせていた。

音がした。その一瞬。そして、一気に周囲は音響に包まれる。喚声が立って、誰かが駆け寄り、眼を逸らし、駆け寄りかけて立ち止まり、逃げ出し、誰かを呼びに行き、走り、騒ぎ、わめき、歩き、足を止め、言葉を失い、言葉を発し、罵るような声が立ち、悲鳴を上げた女が後を向いて眼を覆う。

砕けた頭の残骸と、血、脳漿。それが作った、黒ずんだ、しかし、その色彩がまぎれも無い赤だということを明示してしまう、それら。

しかるべき、人だかりさえ集められない。…それは、あまりにも穢く、残酷な肉体の残骸に過ぎなかったから。

弔いの言葉さえ、想いつきはしなかった。「…北島。…ねぇ、…ね。」声。その声が、自分を呼んでいることには気付いていた。それは幸人だった。

真っ青な顔をして、…本当に、比喩ではない青い色彩を顔にやや斑にさらして、「逃げよう。」北島は言った。

トイレの前で、幸人を待った。少し歩いただけで、何も言わずに走り出し、駆け込んだのだった。個室の中で何をしているのか、予想はついた。痛々しい、嘔吐するノイズが、そして吐寫物が便器を汚す音が、切れ切れに聞こえてきた。

時間を持て余す。トイレに入って、手を洗った。顔を洗ってみ、鏡を見る。濡れた、美しい男がいる。長く頬にかかった、やわらかすぎない髪の毛が、少しだけ濡れていた。洗面台に唾を吐いて、水を流し、老いさらばえた、鏡の中の美しい男。18歳の、老醜に塗れた穢らしい美青年。…うんざりする。

貧血気味の、個室から出てきたばかりの幸人が、ふらつきながらわたしに礼を言い、詫びを入れ、そして、「北島、ああいうの、平気なんだ…」言った。「ああいうの?」

「ああいうの。…そう、俺、駄目なんだよね。」

 

穢らしい、と、わたしは想った。二十代のころも、十代のころも、三十台のころも、いつも。

しなだれかかってくる発情した女たちという暖かな発熱体のおびただしい湿気が、ではなく、その髪の毛の発散する汗の匂いを、宇宙空間で醗酵させて、無機物にしてしまったような執拗な匂いが、ではなく、その本質的に病んでいる救いようのない矛盾した内面、…家畜的な女王様、みじめな生存様態が、ではなく、とにかく、わたし自身が。

わたしが美しいことは知っている。そして、わたしはわたしの救いようのない醜さが、もはや、我慢できない。重力に支配された、どうしようもない廃棄物のような、存在としての存在。

わたしは腐っている。わたしは壊れ物で、失敗作で、でたらめで、ぶさいくな、成れの果てだ。

わたしは、先天的に穢い。他人のことは知ったことではない。

19歳の大津寄圭輔が、わたしの乳首を口に含んで、舌の先で一瞬もてあそんだあと、(…その息。そのかすかに口で笑ったような、)前歯の先で、(息がかかって、わたしは)

…痛い。

そう、彼が咬む前につぶやいてしまう。

圭輔が、わたしの乳首をやさしく咬んだ。そして、鼻にたった笑いの息が、ふたたび、わたしの胸の皮膚にふれ、…気持ちいい?そう、彼が言おうとしていることは知っている。

知っている。なにもかも。ぜんぶ、知っていた。

温度。圭輔の。

なにもかも、わたしにはわかった。圭輔もまた、なにもかも、わかっているに違いなかった。なにも、わかりはしないのだが、それにもかかわらず、もはやなにも、謎めいた暗さなどどこにもないことを。すべてが見えていて、そして、すべてが明るく、清潔でさえあった。…感じるのだった。

圭輔の皮膚の、温度。そして、その触感。ふれあう、ということ。匂う。嗅ぐ。体の匂い。太ももに圭輔の《それ》の触感がある。温度とともに。

わたしの体中は感じようとした。彼の、骨格を。筋肉の微かな動きを。産毛の気配を。それら、すべてを。

休日の陽光。カーテンの向こうに。わたしと圭輔の裸の部分に、光が、ときに、じかにふれる。光。温度を伴って。19歳になったばかりの、わたしの《それ》はもう、完全に充血して、なにかの刺激を与えられることだけを求めていた。

殺しちゃいたい時がある。圭輔はそう言ってわたしを振り向き見た。微笑みながら。眼に触れるものすべてをいつくしむような、その眼差しで。八月の松涛公園。樹木が匂った。

舐めた。ときに扇情的な上目遣いをくれながら、圭輔は、からかうように乳首を舐め続け、固まって行く乳首を、わたしは一瞬、無意味に恥じた。

…お前を。まじ。…ときどき。…ぜんぶ、ぶっ壊れちゃわないかなって。

乳首に、圭輔の唾液で濡れた、その感覚があって、…匂い。唾液の匂い。鼻を近付ければ、その匂いさえするに違いない。

お前だけじゃなくって、もう、全部。ぜんぶの、世界の、せかいの、全部。…

圭輔の匂い。圭輔に穢される。わたしは穢い。もっと、と想った。もっと、穢してごらん。…ねぇ。もっと。

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ねぇ、お前、壊す側? 守る側? 言った圭輔に、あのとき、意味わかんないよ、お前。そう言って笑い、わたしは、背後の子供連れのお金持ちたちに、わざと見せびらかすように、彼を抱きしめた。30半ばくらいの女は、単純に、戸惑って、眼を逸らすしかなかった。子どもに不機嫌な声を、無意味に立てて。

はやく。と想う。もっと、はやく。わざと圭輔がじらすたびに。さっさと射精してしまいたかった。一度射精さえしてしまえば、何に突き動かされるわけでもなく、いつまでも、ささやきあい、息遣い、見つめあい、じゃれあう細やかな時間だけが経過していけるのに。…ねぇ、と、わたしがなにを求めているか、圭輔だって気付いているに違いなかった。

《常用薬》のおかげで、圭輔は長い。普通ではないから。

腕の中で、夏の、汗ばんだ圭輔の体臭を吸い込んだ。松涛公園の桜の木は、いうまでもなく、緑の大木として、その荒くれた無骨な樹肌を日差しに曝した。

《それ》の先端と、《それ》の先端を、かすかに、いたずらをするようにこすりつけ、お互いの《それ》で、お互いの《それ》を感じあう。いちばん敏感な部分で。粘った体液に濡らされ、ときに、指先も触れて仕舞う。見つめ合ったまま、唇を合わせる。唇。圭輔のそれ。やわらかく、押しつぶされて、舌が、舌にふれた。舌がこんなに湿っているものだったことに、驚く。最初から我慢する気など何もなかったわたしが、ほんのささいな刺激に射精して仕舞ったときに、圭輔は鼻から、いつくしむような笑い声を立てて、それでも唇を離そうとはしない。

圭輔の指先をも、わたしは穢した。

 

愛は水商売の女だったし、その当時の用語でいわゆる《太客》、少数の富裕層の、いくばくかの固定客をしか持たない、そして実際にはからだを彼らに与えている、ようするに水商売という名の娼婦、だったので、給料以外のお小遣いで生計を立てていたし、店に出勤する以外のプライベートの《顧客フォロー》、ようするにホテル通いに忙しかった。

顧客たちにとっては、ときに手首を切って仕舞うあやうさが、愛の固有の魅力だったのかも知れない。自分の娘だったら嘆かわしく、自分の妻だったら持て余してしまう彼女の悪癖は、子飼いの娼婦としてなら、またとない媚態をかたちづくる。わたしは、彼女がそのことをさえ、ちゃんと意識していることに気付いていた。

だれも、そして自分自身さえも、愛を《娼婦》としてはみなさなかった。とはいえ、やっていることは《娼婦》そのものだということは、誰もが知っていた。彼女の周囲の女たちは、彼女のことを誰とでも寝る女だと言い、客にやらせて金を取っている穢い女だと言ったが、わたしには、それは倒錯的な批判にしか聞こえなかった。

《娼婦》が、誰とでも寝ることなど、当たり前だろう? そして、金を取ることも。

実質的には、わたしも、ホストだった限りにおいて、同じ人種に過ぎなかった。「解像数、ちょういいの、…これ。」鈴木保奈美、と名乗ったその40を少し超えた女が言った。その偽名しか、女は名乗ろうとしなかった。その、元になった女優とは、もちろん似ても似つかなかった。

わたしの《それ》を、当時最先端の最新機種の携帯電話でなんども撮影した。「真咲のって、ちょう綺麗。…」…男娼。ようするに、男娼。「…好き?」

「ちょう好き。」…ねぇ、つかんでみて。《保奈美》が言った。「自分でするみたいに。…」痩せぎすの、拒食症の「オナニーするみたいに、」《保奈美》。グッチと、「…ね?」エルメスと、シャネルと、時々ヴィトン。

わたしはホテルの部屋の壁際に立って、ベッドライトだけに照らされた空間の中で、全裸を曝す。《保奈美》は執拗なほど、自分のからだを見せたがらない。着衣のままで、ひざまづいて、自分の鼻の先に曝された《それ》に、ときに息をさえ吹きかけてみせながら、わざと恥らいながら笑い、「…ね?」…なに?

写真を撮り、撮った写真をときに見せ、○○にも見せていい? 店によくつれてくる、彼女の下僕のような女友達の名前を出して、…あいつ、妬いちゃうかな?

「好き?」…いっつも、妬くの。あいつ。「好きなの?」

「なにが?」彼女はそのわたしの声を聞き、耳に確認し、見詰め、言った。

「わたしのこと。…好き?」…ほしいんでしょ?

嘘、つかなくていいよ。

声を立てて、《保奈美》は笑った。自分が吐いた言葉に笑ったのだ。自分が、いま、していることの、どうしようもない、救いようの無い滑稽さに。「《奈美》が、じゃないの?…《奈美》自身が、ほしがってんじゃない?」

「…知ってた?」笑う。わたしは、いま、とても優しい目で、彼女を見ている。そんな事は、知っている。「…舐めたげる。」

まるで、アダルト・ビデオの女優たちのように、舌を出し、這わせ、唇を擦り付けて、唾液をたらし、咥え、口のかたちを変形させながら、鼻からあえぎ声のようなものをわざと立て、頬ずりし、上目遣いに見詰め、…ねぇ、好き? 言った。「フェラ、好き?」

「好きだよ」

「誰の?」…みんなにやらせてるんでしょ? …こういうこと。

「《奈美》の。」

「《奈美》のだけ?」

「《奈美》のだけ」

「…だけ?」

「だけ。」

「いきそう?」

「やばいよ」

「いって」…ねぇ、いっていいよ。知っているはずなのに。わたしが、彼女では射精できないことなど。でたらめな言い訳さえつけずに、適当に、いつも途中でやめてしまうことなど。

金だけがとりえの、見苦しい女。

その金だって、どこでどうして作ったのかも知れず、いつまで続くかわかりはしない。

…圭輔も抱かれているだろうか? 今夜、誰かに。そう想った。さびしくはない。悲しくも。

それはそれでよかった。たいしたことではない。美しいものは、触れられなければならない。人々は、触れずには、おけないのだから。たとえ、穢らしい舌と口蓋でであっても。…圭輔の体に、いま、誰かの唾液が、匂いをつけただろうか?

「もう、我慢できない?」…ね?、我慢できないの? 涙ぐんだように潤んだ瞳孔をひらきっぱなにした《保奈美》が早口に、(ひと)語散(ごち)るような疑問形をつぶやき続ける。

自分のスカーフでわたしに目隠しして、ベッドの上、仰向けのわたしの上で腰を使う。髪の毛の、色気づいたプラスティック製品のような匂いがする。声をたてる。わざとなのか、本当なのかわからない。あーあーい、あーい、いーあーあーんーん。…ばか、もう、ばか、と、わたしか、自分か、だれか、それとも単なる口癖なのか、罵り声を繰りかえす。

射精しないわたしの《それ》を、彼女の体液だけが穢す。

 

なぜ、彼女と結婚したのだろう?

ベトナムで、ベトナム人の彼女と?… Đh TH Trang ドー・ティ・チャン この褐色の彼女と?

褐色の肌の30歳になったばかりの女は、わたしのからだに絡みつくように腕と、足を乗せ、寝息を立て、夜が、壁の向こうで静かに崩壊して行く。知ってる。あざやかな、朝焼けさえその片隅に広げて、全体としては、いつの間にか黒は青に侵食され、白み、内側から崩壊して行くように、青に敗北して行く。

音もなく。

壁の向こうで。

Trang が寝返りを打つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

10歳のとき、ふいに、自分の口臭が感じられたときに、わたしはわたしの恐ろしいほどの穢さに気付いた。

おとなたちはわたしを特別扱いした。早めにお祓いに行ったほうがいい。叔母が言った。この子は早死にするに違いない。…美しすぎる。普通ではない。

母親はあとで、さんざん陰口を言った。ののしり、罵倒し、縁起でもない、と。二週間後、わたしは近所の神社でお祓いを受けていた。

 

覚醒剤でパクられて、2年の刑期を終えて出てきた25歳の圭輔は、まるで別人のようだった。刑務所の中で、老いさらばえてしまったような気がした。とはいえ、わたしはそのやつれた醜さを、愛した。

美しかった、のだろうか? …その、言葉の意味を、わたしはまだ知らないのかも知れなかった。圭輔はうす穢れ、疲れ果て、燃えつくし、もはや、何も残っていなかった。

生きてさえいない、わたしはそう想った。

「…よかった。」わたしが部屋のドアを開いて、渋谷の、わたしが借りていたマンションに入れてやった時、圭輔は、崩れ落ちそうに脱力して、笑い、彼は安堵していた。「会えて、よかった。」

夕方の5時を過ぎていた。わたしはもうホストではなかったし、建設会社で働いていたし、設計士だった。日曜日だった。窓の外の夕焼けて行く空の色彩が、わたしの背後に見えているはずだった。

「アドレス、変えてなくて、よかったよ。」わたしは言った。わたしは微笑んでいた。その眼差しを、いつくしむような、と、圭輔は想ったに違いない。

圭輔と連絡など取ってはいなかった。取る気もなかった。三年前? …四年前? 圭輔がパクられたことは、七斗(ななと)から聞いた。水商売の女二人と、覚醒剤を《キメ》て、セックス、あるいは交尾、…獣じみた、そして獣が絶対にすることは無いヒト固有の交尾、を楽しんでいるときに、踏み込まれたのだ、と言った。なぜ、あんなことをしたのだろう。女など、愛せもしないくせに。もっとも、週に何日も、そのご乱交を繰り返しながら、彼が楽しんでいたのは、クスリ以外のなにものでもなかったには違いない。

それに、女にからだを与えてやるのが、わたしたちの仕事でもあった。

圭輔に未来があるとは想えなかった。売人や、入手ルートや、他に回してやった友人や、そういった、繋がりのすべてに関して、洗いざらい口を割ってしまった圭輔には。

警察にとっては上客だったに違いない。

そして、警察も裁判所も、その後の生活の面倒を見てくれるわけではない。圭輔は捨て、捨てられ、いま、目の前にいた。

圭輔からのi-mailなど、無視してもよかった。《ひさしぶり。》午前十時。《…出てきた。》わたしは部屋にいた。《いろいろ、迷惑かけたけど…》眺めがよかった。《会える?》まばたく。《…無理かな?》窓越しの、午前の光。

そのとき、ブルーノ・マデルナを聞いていた。後期の、フルートのための協奏曲の、どれか。あのころ、好きだった。

 

終わったの?

なにが?

刑期。…お前の。

…ん、…うん。

終わったんだ。

終わった。今日、出て来た。

なにも、責めはしない。わたしは、なにも、心配してやりもしない。終わった。おれたちは、もう終わった。もう、そしてシャワーのお湯を出して、圭輔のからだを洗ってやる。抱きついてくる圭輔の、《それ》がわたしの《それ》とかさなり、《それら》。

《それら》が不器用に重なり合って、お互いに、お互いの存在にびっくりしあっているような、そんなきまづい時間が《それ》に漂って仕舞うとき、わたしはいつも声を立てて笑いそうになる。

圭輔は、わたしを求めていた。

終わっている。お前は、もう、終わってる。おれも、もう、終わってる。…知ってた?もう、終わりだよ。それら、声の無意味な断片が、わたしの頭の中にだけつぶやかれ、からだを清潔なバス・タオルで拭いてやったあと、わたしは圭輔を、ベッドの上に四つんばいにさせた。駄目だよ、…駄目だって。圭輔の声を聞く。恥らって、そしてわたしたちは微笑みあう。

圭輔の尻に頬ずりする。わたしは彼の肛門に舌を這わせた。まだ、水滴に濡れていた。

 

幸人の近親相姦。幸子という妹との。

それを告白されたのは、幸人と会って半年ばかりしたとき、幸子の誕生日のホームパーティに呼ばれたときのことだった。「…気持ち悪いでしょ?」わたしを自分の部屋に上げ、二人だけになって、ことの詳細を、実は、…と、彼は語り出す。いつも、誰でもそうだ。秘密を語るときには。実は、…お前だけには、言っとく、…自虐的な、嗜虐的な、露悪的な。わざと、幸人が穢らしく物語を装飾しているのには、すぐに気付いた。

「…穢いよね。…おれたち。」そう言った。

理由はわかる気がする。幸子はなんども、わたしをはにかみながら盗み見していた。妹のそんな眼差しを見ることは初めてだったのかも知れず、いつもそうで、いつもこの告白は繰り返され続けてきたのかも知れない。無数の、《お前だけには、》の《お前》たちに。

彼の妹を守るために。

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪子、と、ときに名前の漢字変換を間違えてしまいそうなほど、色の白い、いかにもはかなげな女だった。綺麗な女とも、顔立ちが整っているとも、ましてや魅力的ともいえなかったが、悪く言う気にはなれない女だった。

そして、わたしは、大学の友人たちの中で、何人もが幸子を抱いたことを知っている。

サークルで、飲み会で、なにで、かにで。

「…穢いよね?…ごめん。でも、これがほんとのおれなんだ。」幸人が言った。「…おれたち、でも、…ある。」

「気にすんなよ。…いいやつだぜ、」…お前は。と、わたしは言った。

 

…ね、これなに?

愛は、いつも、ささやくように話した。

なに、これ

ちんちん。言って、わたしは笑った。愛も笑った。わたしは飽きていた。なんに?

やば。…ちんちん?

勃起しないままのわたしの《それ》を両手にもてあそんでみせ、すがりつくように添い寝し、行き場所のない女。

家出を繰り返し、そして両親は彼女を探し続けていた。

ちんちん、やばいね。

「店に来たよ。」麻由香が言った。愛の、同じ店の。いつだったか、雨の日に。愛の姉貴分だったが、「パパのほうが。…一人で。」声を立てて笑い、声をひそめ、耳打ちする。からだごと押し付けて、…もうやめてぇって。わたしに。…かんべんしてぇって。息がかかる。…みせなんかこさせないでぇって。「キスしたいの?お前。」わたしは言った。

…したくないから。愛が笑った。

ちんちんに、キスしたいんじゃないの? わたしは知っている。愛がフェラチオを決してしようとしないのを。かたくななまでに。

ささやくような笑い声がたち続けた。

大人になったら、どうするのだろう?

ちんちん、すきだろ? わたしは言って、愛は声を立てて笑い、好きくないから…大人になったら。

20歳の愛は、40歳になったら、どうなっているのだろう?

今のまま甘ったれているのだろうか? からだを譲り渡していない殆どすべての人間に、持て余され、軽蔑され、疎まれ、…その

肉体が、欲望の用をさえたさなくなったら?

だれの?

愛は言った。これは、だれのちんちんですか?

…お前のだよ?

わたしの?

この、きちゃないの、わたしのなの?

やーだ。わたしのなの? これ。ねー、

…ね?

老いさらばえる前に、死んだほうがいい。

どうせ、生きてはいけないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナム。ホー・チ・ミン市に来たとき、はじめてここが、あの《サイゴン》だということを知った。

所属している建築会社が、ここに支社をたちあげたときに。必ずしも意味があるビジネス展開だとは想えなかった。とはいえ、彼らは、…わたしたちは、増殖し続けなければ生きていけなかった。わたしたちは増殖し、他なる増殖を阻止しようとし、ときに成功し、ときに失敗する。

わたしたちは増殖する。Lê Đng Cnh レ・ダン・カン という名のベトナム人側の責任者が、そして彼は文法的には流暢な日本語を話したが、発音がめちゃくちゃだった。

ぞこにーきたいでゅえすか?

どこに?

そうでゅえす。

…さいごん?

さいごん?

さいごーん。さーごん。さいごんぐ…「あー、」Cnhは顔をほころばせ、なぜ、ヒトはやっと何かを了解したとき、一瞬、相手をあざけるような顔つきをしてしまうのだろう?人種を問わず。   - Sài Gòn…

彼はその都市の本当の発音をしてみせ、床をつま先で二三度蹴り、「ここでゅえす」言った。ここが、その、サイゴンですよ。旧名、サイゴン。…ね?

わたしは40歳になっていた。ちょうど、来月、サイゴン解放の40周年記念日で、ここら辺はパーティです、と Cnh は言った。

 

十代の頃の、圭輔のあの滑らかな背中の匂いを、わたしは何度嗅いだだろう?

微かに汗ばんだ匂い、若干の獣臭さ。体液を一度あわ立ててから、発行させて、砂糖を振ったような匂い。二十歳になる前の日に、わたしは彼を四つんばいにさせ、一瞬、見惚れた。

朝の、日差しがカーテン越しに差す。やわらかな色彩に満たされる。朝。…まだ何にも穢されていない、色彩の息吹がある。

それが見せかけのものに過ぎないことなど知っている。まだ、シャワーさえ浴びていない、起きぬけのわたしたちのからだは汗ばみ、昨日の夜の、…数時間ほど前の、行為の残骸をへばりつかせ、匂う。

たぶん。わたしも匂う。自分の匂いに麻痺した嗅覚がついに嗅ぎ出さない、わたしの臭気。

ときに、女たちが息をひそめて、わたしに気付かれないように嗅ぎ取って行くもの。発情装置たち。美しく、でたらめな、哺乳類たちの発情様式。

たわむれに、Tシャツで腕を、後ろ手に縛ってみる。見詰め合って、わたしたちは笑う。こういうの好きなの?

…かもね。無意味な行為で、時間の隙間を埋めようとする。わたしたちは愛し合っていたが、愛するという行為が、つまりはどうな行為で、なにをすればいいのか、わたしたちは、まだ、知らない。

膣口と陰茎の卵子細胞覚醒のための行為に逃げることは出来ない。どこにも、卵子など形さえなく、生命、…愛の結晶としてお茶を濁したあの生産物を生み出しえる可能性は一瞬たりともない。

たんぱく質たちの戯れ。

…見た。白い反射光が、圭輔が息遣うたびにその皮膚を舐め、流れ、くずれる。

わたしは耳を澄ます。その、二つの息遣い、そしてこっちを向いた圭輔の眼差しに、…見ないで。

穢いよ。

つぶやいて仕舞いそうになる。

指を立てた。

左手の、薬指。

舐める。

指を伸ばし、その指の腹が、ゆっくりと圭輔の肌を撫ぜる。湿気た触感。潤った、それ。すこしだけべたついていて、皮膚。

つきだされた尻のカーブをなぞる。太ももに落ち、もう一度上がって、…くすぐったいって。

きれい。…すげぇ、綺麗。

見詰め合って交わされる、重ならない会話。睾丸のかたちをなぞる。陰毛の毛羽立ちに触れて、一瞬、指先は戸惑った。

わたしたちはまだ、何も知らない。愛するということが、どういう行為を言うのか?

無慈悲なまでに、…そして、ん、と圭輔が言った、鼻でだけ。わたしの指先が、前触れもなく肛門に侵入したときに。

体内の体温。

指先の触感。

…すき?

わたしは言い、圭輔は答えないままに、抜き出した指先に付着した匂いを嗅ぐ。

 

老いさらばえた腐臭さえ漂う。

熱帯の日差しがアスファルトに反射する。

わたしは息遣う。ベトナム人たちが、わたしを目で追った。わたしは美しい。そんな事は知っている。

わたしが立ち寄ったあらゆる場所で、人々が、男たちさえ、現地の言葉で、露骨にわたしの噂をしているのは、すぐに察知された。

日本よりあけすけな眼差しがわたしを捉え、…ハンサム、と、カフェの美しくはない女が必死に媚を作って、一言だけ言って、わたしにコーヒーを提供した。

眼差し。…見ればいい。もっと。

もっと、もっと、見ればいい。あなたたちの視線の前で、わたしは腐り堕ちて行く。腐臭さえたてながら。わたしは穢い。

もっと近くで。至近距離で。鼻さえ、触れそうなほどの。

…なんだったら、オナニーでも?

どう?

 

35歳になった愛が、どこかの風俗店に働いているらしいのは、フェイス・ブックで知った。

突然来た友達申請の、ポートレートは花の画像だった。記憶にない名前。聞いたことの無い名前。

杉原美香。

開くと、つぶやくような短文の、《しんじられるかしんじられないかわかんねーから しんじてやってるだけなのに って、おもった。》意味不明な文字しかない記事の群れの中に、《あんたのことがすきなんか どうかなんか わかるわけねーじゃんすきなんだから》見たこともない老けた40女の写真が数枚だけ確認できた。

あきらかに個室風俗の個室の中で、《はつねつしそうで こわいから ねる。》ある老いさらばえた女が、めがめをかけた丸顔の男と二人でピースをして、《きょうははれた。あしたはあめだ。あいたい。しにたい。》笑っていた。男は、まるで外国人のように見えた。日本人に違いないのだが、《しあわせになるくすりはかれしのえがおなんだなってゆうじじつにきづいてしまった》妙な違和感ばかりを感じさせる顔立ちだった。

理由はわからない。

女の眼差しは、うつろだった。《すきすきこうせんでてるけーおんなうざころす》光の加減でそう見えただけだったのかも知れない。口元には、《きてきてきって きてきてきって》あきらかな生気がみなぎっていた。

薄暗い写真だった。

暗い照明の中で、《くらくてごめんな やみちゅうごめんな しんでくれるから やんでてごめんな》無理やりとったポートレート。

《今日も、出勤だよ!》キャプションはそれだけ。めずらしく、日本語の意味がわかる文章だった。

良識を疑う。見せていいものと悪いものがあるだろう、と。

風俗の個室の中の、ポートレート。フェイス・ブックはなにを検閲しているのだろう?

何もしないでフェイスブックを閉じたあと、それが愛だったことに気付いた。

愛の本名など知らなかったし、二十年近く、連絡など取っていなかった。愛の本名が、美香だったことを、20年近くたって、知ったことになる。何の感慨もない。もっとも、それも源氏名なのかもしれない。

あのめがねの男は、愛=美香のリスト・カットの始末を、喜んでしてくれるのだろうか?

血を拭き取り、病院に連れて行くか、手当てをしてやるか。

そして抱きしめてやるか、これ見よがしな虐待を加えてやるのか。

不意に、胸が苦しく、いますぐに自分の心臓を取り出して、握りつぶして仕舞いたくなる。

穢らしい。

世界。…この、あまりにも穢らしい、増殖する細胞と分子の集合体たちの、穢れた世界。

 

 

 

 

 

 


私小説 01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしと Cnh が同い歳だったことを知った。それは9月の、二人だけの飲み会だった。もちろん、日本料理屋。日本人街のレタントン通りの、日本人資本の、従業員に日本語が通じる、日本国内と同じ料金を取る店。Cnh の好みだった。

もちろん、現地の貨幣価値から言えば、一握りの富裕層しか通えない、非現実的な店舗に過ぎない。

そのわりには、客の半数以上を、現地の人間が占めていたので、それが、社会主義国家、あるいは、アジアの国家、の当然の姿なのかも知れない。店内はざわめく。歓談する人々の声。

たんよううぃでしょ。

…なに?

たんようび。「…ありがと」わたしは Cnh にお礼を言い、彼にだけ、自分の誕生日を教えていたことを思い出した。「北島さん、誕生日パーティ、するなって言うから…」

「…だって、めんどくさいもん」

「だめよ。…」じゃんとたんよううぅわいわあないちょ。「…そうだね。ベトナムでは、みんな、誕生日は、ちゃんと祝うの?」

「もちろん」Cnh がうなずき、わたしは瓶のサッポロ・ビールを Cnh についでやった。「盛大だよ。」

…そう。いいね。

「むかし、わたしが子どもの頃は、すごく貧しかった。…ベトナムはね、とても貧しくて。」なひぃもーりませんでゅえった「何もありませんでした。でも、…」微笑みながら、わたしは Cnh の話を聞く。「でもね、誕生日だけは、みんなでお祝いする。」相槌を打ち、目線が合う。「これ、いいことです。…ね?」向こうの席に座った女。「…でも、日本は、あんまりそうじゃないね。もっとも、」ベトナム人の、やや肥満した「日本は日本だからね。」あきらかな富裕層の中年女。「…先進国でしょ?」目の前の男は「むかし、わたしたちの、…なに?」主人に違いない。「わたしたちの、」女がわたしを見る。「同じ歳の、」覗き見するように「同じ、…」

「…世代。」わたしが言うと、陽気な Cnh は指を鳴らす。

「そう、世代。わたしたちの世代は貧しくて、建築の勉強なんて、本を読むだけ。」椅子に深くもたれ、わたしは「教科書だけ、…ね?」Cnh の左耳の向こうの「先生は黒板に書いて、」女を見詰めた。「この機械はこうやって、」女はあきらかに戸惑い、「…あの機械は…、」惑って、「ほら、」女は「なにも物はないから、」眼を伏せるしかない。「ぜんぶ説明だけ。」何回も、伺うように「ロシアとか、中国とか、」覗き見しながら。「外国に留学して、」はゆぃめてぇほおんぐものおきかい、「はじめて本物の機械、見ました。…ね?」見ろ、もっと。「でも、いま、ね、」見たいんだろう?「Lap Top, …Smart phone, …mobile, …ね。」従業員が新しい皿を提供し「だんだんと、ね、」うざったいほどの「better, better, better, もっとね、」媚態を作る。その「better に。ね。…もっと、」顔に、「もっと better. 」体中に「将来は、ね。」媚態を。「日本、来たから。」征服は浴衣。「ベトナムに。」安っぽい、「タイランドとか、」水色の「マレイシアとか、」薄手の。「日本来たら、」…腐る。「よくなるから。」視線の中で、「…ね。もっと、」公然と、「もっと、ね」

「…おれ、会社、辞めようかな、って。」…え?と、あっけに取られた Cnh が、かすかに目を剥いて、わたしを見ていた。ぢょずぃたんでゅえしか「…どうしたんですか?」

「ここで、暮らすよ。」

「ここ?」…そう、と、わたしはうなづき、ややあって、一瞬、声を立てて笑った。

わたしは腐って行く。

公共の視線の中で。しずかに。美しいわたしは、穢らしく、腐り堕ちていく。

眼差しが、わたしの穢れた自己崩壊を見つめて、媚を売る。

わたしは本気だった。とっさに口走っただけに過ぎなかったものの。

生活に困ることなどありえない。わたしは知っている。人間は必ず、美しいものに対しては本質的無力で、そして、自分だけを愛するものに対して、女は絶対的に無力だ。

まるで奴隷のように。最上位の女王様はつねに、最下層の奴隷だ。

まるで、隷従するためだけに生まれてきたかのように。

 

34歳の幸人が父親を殺したことを知ったのは、警察を通してだった。なにを裏付けなければならないのかは知らない。いずれにしても、彼らはわたしの証言をほしがった。

大学を出てから、まったく交流はなかった。32歳のわたしが、34歳の父親殺しの犯罪者と、大学時代に交友関係があったことをすぐさま照会してしまえる警察に、一瞬に、苦い恐怖感のようなものを感じた。

要するに、彼らが聞きたかったのは、幸人と幸子の関係の裏づけと、事実関係の照会、らしかった。

誰も彼もが、根も葉もない勝手なことばっかり言うので、もう、収拾がつかないんですよ、と、50代の小柄な警官が言った。

二人組みの、もう一人の方は長身で、若い。絵に描いたような、コンビのように想えた。

一瞬あって、わたしは不意に声を立てて笑いそうになった。ちょっとまって。…そうだったら、なぜ、あなたはわたしだけが、根も葉もある言葉を吐く、と知っているんですか? もしそうでないとしたら、あなたはみずから進んで更に新しい根も葉もない言葉を無意味に収集しようとしているにすぎない。…わかりますか?

わたしは微笑んで、大変ですね。そう言った。

わたしは彼らを部屋に上げて、そしてコーヒーを入れようとしたが、たかが一杯のコーヒーをかたくなに断った。

水だけを差し出したが、手にも触れようとはしない。

かりに、彼らの母親くらいの年配の女が、そんな流儀は日本人の礼儀にもとる、と、言い出したらどうするのだろう? 出されたものくらいちゃんといただけ、と。

幸人の母親はもう死んでいたらしかった。彼が二十五歳のときに。祖母はまだ存命だが、老人介護施設に入っている。祖父は数年前に癌で死んだ。父親は幸人が殺した。妹は幸人が逮捕拘留された日に、部屋で首を吊って死んでいた。参考尋問の出頭の時刻に現れなかったので、不審に想った警官が発見した。

父親の死体は悲惨だった。言い争ったあと、殴り合い、柱に頭をぶつけて、しゃがみこんだ父親の頭に、椅子を何度も打ちつけたらしかった。木製の椅子の残骸が血まみれで転がり、脳漿交じりの血は部屋中に飛散した。

頭部はもはや、残骸しか残ってはいなかった。

どんな表情をして、彼はそれをやったのか、あたりまえだが、警官は何も言わなかった。終わったあと、どんな表情をしたのか? それを聞いてみたかった。

きっかけは、30過ぎても結婚しない、彼ら二人をなじったことだった。彼らが、そういう関係であることは、父親も知っていた。その2月、犯行の半年前、結婚の承認をもとられてもいた。もちろん、父親は、自分の承認以前に、法律の承認さえ取れないじゃないかと、一蹴した。

父親の死を幸子は見ていた。

彼女が、どんなふうに、それを見ていたのか、警察は、もちろん語って聞かせてはくれない。

事が終わったあと、隣のうちに幸子は行って、兄が、父を殺してしまいました。通報してくださいますか? …そう言った。

なぜ、自分でしないのか、その久田扶美香という名の、二十八歳の奥さんは訝った。旦那のほうは、まだ帰ってきていなかった。7月7日。夕方6時53分。あと7分で、7が三つ揃った。

「幸人くんに、関係を告白されたことはあります。」

「…なんと?」

「愛し合っている、と。」

「どんな風に。」

「穢れた関係だと。彼と妹は、ね。…それだけ。」

「それだけ。」

「そう、それだけ。」

「それ以外には?」

「あとは、わたしの推測にしかなりませんよ。」

「いいですよ。参考までに」

「…ひっくり返しちゃうようですけど、」

「…ええ。」

「プラトニックだったんじゃないですか?」

「プラトニック?」

「そう。…純潔を守った、関係。…肉体関係は、なし。」

「どうして?」

「いや。推測ですよ。さっき言ったように。感覚的に、としか言えない。けど、肉体関係があるとは思えなかった。」

「そう…」

「おれには、ですよ。わたしには、…ね。」

「そう…。でも、失礼ですが、…あなた様の経歴、ですけどね」年上の警官が、わたしに気を使いながら言う。「5年くらい、ホスト? されてますね。歌舞伎町。大学生のとき、…ね? 大学を出てからも、一年くらい。就職浪人してたから、…ですか?」

「…ええ。よくご存知ですね。」

「少しだけ、耳にしたので…」全部吐いちまえよ、知ってることを、と、その胸倉をつかんで、壁に頭をたたきつけてやりたくなった。

警官は、必死に、わたしに気を使っていた。「そういう経験の、カン、ですか?」

「…ええ。そうかもしれませんね。ただ、…どっちにしても、彼らはそんな深い関係じゃないと想う。…ぼくは、ね。あくまでも。妹っ子っていうんですか? シスコンっていうか、そういう義人が、過保護にかわいがってただけ、なんじゃないですか? …そんな気さえ、しますね。基本的にはただの仲良し兄妹だった、と。たとえ、それが、ぼくらみたいな他人の眼にどう見えたかはともかく。義人君自体が、何でか知らないけど、それらしいことを匂わしたりしてたことも、事実には違いないんだけれども。彼ら、そうじゃないよ。デキてないですよ。」それは嘘だった。

招待された幸子の誕生日パーティで、幸子はあきらかに女だった。幸人に、まるで自分の夫であるかのような、必要以上にか弱く、わがままな目線を送った。あなたは永遠にわたしの幸せのために生きなければならない。なぜなら、わたしがあなたの幸せのために生きてあげるのだから、と、あたりまえのように永遠の義務を確信された容赦のない眼差し。

ときに、わたしに執拗に色目を使いながら、幸子は、彼女が幸人のものであることを、隠そうともしていなかった。その眼差し、仕草さ、話しかける言葉遣いに、ほんの少しの、身体的な距離感に。

娘の誕生日のホームパーティを、友人たちを招待して開くくらいなのだから、幸人たちの父親は資産家だったに違いない。世田谷の戸建て住宅も広々とした、いかにも金の掛かっていそうな住居だった。

犬を飼っていた。レトリバー。世慣れした、礼儀正しく、やさしげな父親だった。母親は若干の陰のある人だったが、おとなしく無口なタイプの人間が一様に感じさせる類のそれ、にすぎない。

あんな家庭で、どうして、と、不思議な違和感さえ感じた。

色気づいた、あの兄妹のほうが、むしろ、いびつだった。

水。…ふいに、わたしは口走った。「水、飲まないんですか?」

警官は一瞬、いぶかしげな顔をし、わたしを見た。

自分のくちばしった言葉の無意味さに、ふと、わたしは微笑んだ。

 

寝返りを打った妻の腕がわたしの胸元に覆いかぶさって、耳元に寝息がかかり、想い出した。わたしは、夢を見ていた。いまさっきまで。大陸のどこかで、誰かがクーデターを起こした。爆弾が飛び交って、さまざまなヒトの、さまざまな肉体の断片が、血を撒き散らしながら散乱した。

匂い。空爆の匂い。戦争。たぶん、きっと、おそらくは、戦争が起こるに違いないのかもしれないわけにはいかないわけでもない、…そうかもしれない。

戦場に雪が降っている。降り積もることの無い雪。

降っても、降っても、地に触れた瞬間に溶ける。視界の向こうまで、真っ白い降雪がすきまないほど、埋め尽くしているというのに。

その瞬間、気付いた。これは、雪ではない、と。なにか、もっと別のもの。ヒトたちが、滅びて仕舞ったことを知らせるために降っているに過ぎない、と。

…弔う気さえ、ないくせいに。

わたしたちは、再び殺しあうかもしれない。あるいは、わたしたいがヒトで、ヒトであるわたしたちなのだとしたら、わたしたちはヒトとして既に、もう、戦争を続けている。この地球上の数箇所で。さまざまな紛争地帯。暴動。ときに、空爆。わたしたちは、戦争をするだろう。そう想った。夢の中で。わたしたちは、わたしたちが滅びて仕舞うまで殺しあうだろう。

いつか、と、目覚めたまどろみの中で、空を巨大な爆弾が焼き尽くすだろう。わたしは目を開く。その、焦げた匂いが、あきらかな現実としてわたしの鼻をくすぐった。見つめる。わたしたちは絶滅していた。すでに。

…無慈悲なまでに、繁殖をやめないわたしたちは。

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.04.30.-05.01

Seno-Lê Ma