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(5)社長就任-5

 しばらく無言の時間が続く。僕から話しかけた方が良いのだろうか? それとも相手が話し出すのを待った方が良いのだろうか? しばし逡巡する。
 すると綺麗な女性がノックをして入ってきた。ショートカットの綺麗な女性だった。その女性は僕と神木の前にホットコーヒーを神木を置くと一礼して出て行った。神木はコーヒーに口を付けると、おもむろに話し始めた。
「さて吉沢さん」
 先日あった際には確か『吉沢君』だったはずだ。つまり『君』付けから『さん』付けへと昇格したらしい。僕の心臓はバクバク言っている。課長になった時より遙かに大きな緊張感だ。
 神木は足下に置いてあった鞄から分厚い書類を取り出した。
「どうぞ、ご確認ください」
 僕は書類を受け取る。そして受け取った資料をパラパラめくるが字が小さい上にみっちり記載されていて要点すらくみ取れない。仕方なく僕は神木に内容を尋ねる。
「これは何でしょうか?」
「あなたと会社の特別機密保持契約書です。これを読んで頂いた上で契約を結んで頂かなくては話も先に進みません」
 そう言われて改めて資料を眺めては見たものの、とても全てに目を通す事は不可能な分量だった。そもそも僕はこの手の資料を大の苦手としている。僕はさっさと諦めた。
「どうすれば良いかだけ教えてください」
「よろしいのですか、目を通しておかなくても?」
 僕を射貫くような瞳で神木は尋ねる。
「はは、これだけの分量です。どうせ全部に目を通すなんて不可能でしょう?」
 僕の少々投げやりな答えにも神木は別段に腹を立てた様子はない。
「では、最終ページに押印をお願いします。判子がなければ、血判でも構いません」
「け、血判ですか?」
「軽い冗談ですよ、吉沢さん」
 神木は軽く微笑んだ。冗談を言って僕を和ませようとしてくれたらしいが、今の僕にはちっとも笑えない冗談だ。
「さぁ、では署名と押印をお願いします」
「分かりました」
 と言いながら僕は一瞬本当にこの書類に署名しても大丈夫なものか迷った。
「どうされました?」
 やはり神木には僕の顔が不安そうに見えたのだろうか。
「いえ、何でもありません。少し緊張して喉が渇いただけです」
 僕はコーヒーを口に含んだ。口の中の乾きが少し和らいだ。

(5)社長就任-6

 そして僕はえいやと指定された箇所に署名と押印した。すると神木はさっさと僕の署名が入った書類を引き取った。そして満足そうに書類を眺めてこう言った。
「ふむ、これで私の任務概ね終了です」
「もう終わりですか? 柏木さんからは神木さんに説明を受けるように伺っているのですが……」
「私が説明すべき内容は、この書類にすべて記載済みです」
 神木は書類をぽんと軽く叩いて見せた。
「ええっ?」
「吉沢さんはすべてご納得の上で判子を押されたのでしょう?」
「そ、そんな……」
 そう言われては反論も出来ない。
「後は隣の部屋の副社長室で副社長から内示を受けて頂くだけです」
 神木はにっこり微笑んだ。
「はぁ」
 やはり署名するべきではなかったのかもしれない。
「では吉沢さん、参りましょう」
 神木は立ち上がった。
「あの、どちらへですか?」
「無論、隣の副社長室に決まっているではありませんか」
「そ、そうですか」
 僕も立ち上がって、神木の後ろに続いた。

 僕は神木に連れられて、隣の副社長室に向かった。
 神木が軽くノックをして副社長室への入室の許可を求める。すると部屋の中から副社長とおぼしき声が返ってきた。
「吉沢君かね、入りたまえ」
 神木は僕が入室しやすいようにドアの横に立ってこう言った。
「私は外でお待ちしております」
「分かりました」
 僕は意を決して副社長室のドアを開いた。
 副社長室に待っていた人物は恰幅の良い温厚そうな初老の男性だった。恥ずかしながら、僕は自分の会社の副社長をこれまで見た事がなかった。
「君が吉沢君かね」
「はい、そうです」

(5)社長就任-7

「私は副社長の山田だ、よろしく頼むよ」
 恰幅の良い男は自己紹介した。
「君のような若手が丸尾君に引き続き我が社を背負って立ってくれることを私は嬉しく思うよ」
「いえ、ありがとうございます」
 副社長から言われているのに今ひとつ実感に乏しい。丸尾もこんな感じだったのだろうか。僕はこの場にふさわしい言葉を適当に選んで回答した。
「誠心誠意努力いたします」
「ああ、頑張ってくれたまえ。これで晴れて君は『雲の上の人』だ」
「いえ、滅相もないです」
 これは丸尾が失踪したおかげで手に入れたポジションだ。だから『雲の上の人』どころか『棚ぼたの人』だ。
「いやいや、君は人もうらやむ『雲の上の人』社長だよ。しかし体にだけは気を付けてくれたまえ。体調管理は自己責任だ」
「ありがとうございます。肝に銘じます」
「丸尾君の件も踏まえて君に対する人事異動の発令は一週間後だよ。後は神木執行役員にお任せする」
「かしこまりました」
 僕は一週間後に社長になるのだろうか?

 部屋を出ると入室前同様に神木は待ってくれていた。
「吉沢さん、内示は終わりましたか?」
 神木はにこやかに微笑みながら僕にそう訊いた。
「ええ、何とか無事終わりました」
 神木はそれに満足したらしい。
「さて吉沢さん、いや吉沢社長」
「えっと、神木さん。まだ少し早いですよ」
 照れくさくて頬が熱くなった。
「良いではありませんか、こういう呼ばれ方には早いうちから慣れておいた方がよろしいですよ」
「はぁ、そうですか」
 頭をぽりぽりとかきながら僕は神木のおべっかに応えた。
「さて、吉沢社長。この先にある階段は見えますか?」
 神木の指さす方向に目をこらすと確かにそこには非常用階段があった。
「ええ、見えます」

(5)社長就任-8

「あの階段を上ったところにあなた専用の部屋をご用意しております」
 ここは確か最上階だったはずだ。最上階より上と言うことは屋上だろうか?
「この上ですか?」
 僕の不安げな口調を察してか、神木は僕を安心させるようにこう言った。
「大丈夫です、吉沢社長。先代の丸尾社長もご利用されていた場所なのです」
 まあ、あの丸尾が使っていた部屋であれば大丈夫だろう。
「そうですか……。分かりました」
「上にSPが三人待機しています、詳細は彼らにお訪ねください」 やはり社長ともなるとSPが付くと言うことか。ようやく社長になったという実感が沸いてきた。
「分かりました」
 僕がそう返事をすると、神木は最後にこう締めくくった
「私が付き添えるのはここまでです。では、ご武運をお祈りしております」
「ありがとうございます」
 僕は神木に礼を言ってSPの待つという屋上へ通じる非常階段へ向かった。

 非常階段から屋上まで一段一段階段を踏みしめながら僕は階段を上った。
 僕は屋上へ通じる扉を開いた。

 思いの外風はなかったが、そこは一二月の寒空。恐ろしいほどの寒さだった。僕は小脇に抱えていたコートの袖に手を通した。
「吉沢さんでいらっしゃいますね?」
「?」
 振り返るとそこには三人の黒服の男性が立っていた。
 いや、待てよ。こいつらはどこかで見覚えがある。そうか、丸尾に付いていた三人のSPじゃないぁ。こいつらは丸尾が失踪した時、何をしていたのだろう。
「そうだ。僕が吉沢だ」
「先日はどうも……、吉沢社長」
 リーダー格とおぼしき目の窪んだ男が僕に向かってうやうやしくお辞儀をする。
「挨拶はいいよ、僕を社長室へ案内してくれ」
 三人のSPは顔を見合わせてクスクスと笑い始めた。
 不愉快な連中だ。
「吉沢社長、あれが見えないのですか?」
「あれ?」
 屋上には部屋らしきモノはない。あるのは販促用の気球くらいだ。しかし黒服のリーダー格はその販促用の気球を指さした。

(5)社長就任-9

「吉沢社長、あれがあなたの専用の部屋、社長室です」
 何を言っているんだ、こいつらは。こんな失礼な連中は至急解雇だ。
「悪いけれど、僕はこんなくだらない冗談に付き合っている暇はないんだ」
 僕は踵を返し屋上から撤収しようとする。すると、二人のSPが僕の両脇にがっちりと腕を絡めた。
「何をするんだ!」
「我々はあなたに社長室を案内する義務があるのです」
「何が社長室だ! あんなものただの気球じゃないか!」
 リーダー格の男が他の二人のSPに向かって命令を出す。
「吉沢社長を部屋の前までご案内しろ!」
「了解」
「離せ!」
 暴れる僕を力でねじ伏せて強引に気球の前まで連れて行こうとする。
「何だよ? お前ら、冗談のつもりか! 物事には限度があるんだぞ!」
「我々は『神木執行役員』から指示を受けております」
 このあり得ない非日常的現実はあっさりとSPによって肯定されてしまった。
 僕は引きずられながら必死で尋ねる。
「気球じゃないのか! あれは」
「正確にはロジェ気球と呼ばれるモノです」
 無論、気球のタイプを訊いているわけではない。
「僕に一体どうしろというんだ!」
 僕を気球の前まで連れていくとリーダー格の男は僕に向かって一言命令した。
「乗れ」
 これは既に社長に対する態度じゃない。
 力ではとてもかなわない僕は必死で最後の説得を試みる。
「僕は気球の乗り方なんて知らない!」
「これを読め」
 リーダー格の男は無愛想に分厚い何かの資料を投げてよこした。僕はそれを腹で受け止めた。軽い苦痛に顔をゆがめる。資料は僕の腹から落ちて地面に散らばる。
「両腕を離してやれ」
 その言葉に従い、僕は二人のSPから両腕を解放された。
 僕は屈んで地面に落ちた資料を拾い上げては内容を確認する。SPが投げてよこしたモノはどうやら英語でかかれた分厚いマニュアルと一〇ページほどに纏められた日本語で書かれた気球の簡易操作マニュアルだった。
「僕は英語なんて出来ない! というか僕が操作するのか?!」


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