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(3)課長-5

「そうだね、はっきり言って疲れたよ」
「でも、丸尾君の仕事を引き継いだだけよね?」
 聡美のこの言葉にさすがに僕も少しイラッとした。聡美は僕の仕事の一体何を知っているというのだろう? 僕がどれだけ苦労しているのかも知らずに……。
 僕がムスッとした顔でテーブルに置かれた牛乳で焼きたてのトーストを胃袋に流し込む。
 僕の気分を知って知らずか聡美は僕のワイシャツを用意をしながらこんなことを尋ねてきた。
「初めて出来た部下はどうなの?」
 最初に出来た部下は神木か。
 神木といえばネクタイピンのことを忘れるところだった。朝食を食べ終えた僕はスーツに着替えながら神木からの小粋なプレゼントについて聡美に尋ねる。
「なぁ、聡美」
「なぁに?」
 僕の脱いだパジャマをたたむ聡美。
「一昨日ネクタイピン付けて帰ってきたと思うんだけど、それ、知らないかい?」
 僕の質問に聡美は一瞬ぴくりと反応したが、あっさりこう返事した。
「えっと、アレ捨てちゃった」
「ええ?」
 驚くほか無い。
 神木からの贈り物なのに、あんまりだ。
「うん、捨てちゃったのよ」
 聡美はもう一度同じ事を繰り返した。
 さすがの僕も黙っていられない。
「あれ、もらい物だぞ! 大切な後輩からの!」
「だから捨てちゃったのよ、ゴメンね」
 聡美は同じセリフを繰り返し、簡単に謝った。本音を言えばもっと聡美を怒鳴りつけてやりたいところだが、僕は聡美に頭が上がらない。これ以上この件について聡美を責めてもナンセンスだ。僕は渋々ネクタイピンを諦めることにした。
「まあ、仕方ないな。やっちゃったモノは……」
「本当にゴメンね」
 申し訳なさそうに聡美は謝った。
 僕はそんな聡美が愛おしくて仕方がない。惚れた者負けと言うことだろう。
「いや、もういいよ」
 僕はそう言ってこの話をお終いにした。


(3)課長-6

「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい!」
 仲直りの意味もかねて軽く頬にキスをしてもらい、僕は出勤した。
 この件については神木に黙っておいた方が良いだろう。しかし出社した後、神木がネクタイピンについて尋ねてくることはなかった。気を悪くしていなければよいけれど。

 課長になった火曜日から週末の金曜日までの間僕は多忙を極めた。入社してこれほど多忙な経験をしたことはない。出来ることなら丸尾に訊きたい事が山積しているが、さすがに社長へ課長業務の質問をする事は憚られた。
 もっとも実際のところ課の業務の大半は神木がこなしているようだった。神木の有能さについては部署のお墨付き、というより社長の丸尾が認めている以上、会社のお墨付きだ。神木は嫌な顔一つ見せず、まさに忠犬のように課のために、つまり僕のために尽くしてくれた。僕の中では神木の好感度は最大値だ。
 金曜日の夕方にもなるとさすがに僕も仕事の内容をおおよそ把握する事が出来た。僕はある程度キリが良い頃だと判断して丸尾の携帯電話にメールを打つことにした。
 もちろん相手は同期といえど社長なので、返信の期待はしていない。だからメールの本文は次のような簡単な内容にした。
・タイトル『どうですか?』
・本文『無事に社長業務をこなせていますか? 暇が出来たら飲みに行きましょう。では』
 うん、我ながら無難なメールだ。
「送信っと」
 僕は『送信完了』の表示を確認して家路についた。

 丁度僕がアパートの玄関前に辿り着いた時、僕の携帯電話が鳴った。モニタを確認すると『非通知』と表示されている。僕の知り合いに非通知設定で電話を掛けてくる奴はいない。
 結局あまりにしつこいので電話に出てやることにした。
「もしもし?」
「丸尾だ。お前は吉沢か?」
 発信者は丸尾だった。さっきメールしたばかりで早くも連絡をくれるなんてなかなか友達甲斐のある奴だ。僕は丸尾を見直した。
「ああ、そうだよ。一週間ぶりだね」
「頼むぜ、直ぐに出てくれよ」
「非通知で掛かってきたから、怪しい人からの電話かと思ったんだよ」
「それはすまなかったな」


(3)課長-7

 どうも丸尾らしくない返事だ。いつもなら豪快に「がはは」とか笑って返すはずなのに少々様子がおかしい。 
「ところで、君は元気に社長業務やってるのかい?」
「まぁ、な。多分」
 どうにもはっきりしない口ぶりだ。
「吉沢、そっちはどうなんだ?」
「どうにか今週を乗り切ることが出来たって感じかな」
「そうか、そいつは良かった」
 やはり丸尾らしくない。
「ところで丸尾は一体どんな社長業務をこなしているんだい? まさか本当にソリティアに励んでいる訳じゃないよね?」
「悪い。守秘義務だから言えないんだ、マジですまん」
「守秘義務?」
 僕は守秘義務というキーワードを聞いて、辺りを見回した。うん、特に誰もいない。
「大丈夫だよ、丸尾。周りには誰もいない」
「そうか、なら良いんだ」
「というか、僕との会話でそんな大それた話しないだろ?」
「いいか、吉沢。たとえば社長様のたわいない一言が株価に影響を与えるんだ。だから原則一切合切が守秘義務の対象となっているんだよ」
 なるほど、らしくない口ぶりの原因はそれか。
「まあ何にしても丸尾社長も色々大変なんだなぁ」
「いや、正直うちの会社の社長職は大変なんてものじゃない。ヤバイ」
「へぇ、激務なんだ」
「まあ、そう言えるかもしれない」
 相変わらず歯切れは良くないが、『雲の上の人』の感想なんてそうそう聞けるモノじゃない。
「ところで丸尾は今も本社なのかい?」
「いいや。違う、うーん、言っても良いのか。俺は今は熊本辺りだ」
 丸尾の言葉に反応するかのように『サーザー』と携帯電話に耳障りなノイズが乗った。
「すまんな、今社長専用の携帯電話使っているんだ。少し旧式らしくてノイズが乗るらしい」
「そうなんだ。大丈夫だよ、声は届いてるから」
「そうか、なら良いんだ」
 丸尾は心配そうにそう呟いた。


(3)課長-8

「でも暖かいところで羨ましいねぇ、こっちは相変わらず真冬だよ」
「暖かいどころか……ザーザー」
 再びノイズが乗る。そのノイズを合図にしたかのように丸尾はこう言いだした。
「吉沢、お前にお願いがあるんだ」
「なんだい? 社長様の命令とあればなんなりと」
「茶化さないで聞いて欲しい……ガーガー」
 丸尾の言葉に反応するかのように再び音声に強いノイズが乗った。きっと丸尾のいる場所は電波の掴みが良くない所なのだろう。
「まぁ、なんだかよく分からないけれど力になるよ。友達だしね」
「そうか。じゃあ、--」

 プツリッ!

 突然丸尾の携帯電話は唐突に切れた。そしてそれっきりだった。
 リダイアルしようにも非通知なので相手の発信元番号は不明だ。
仕方なく僕は私用携帯の方へメールで『また連絡をください』と送った。僕はしばらくの間アパートの前で携帯電話とにらめっこをしていた。しかし一〇分待っても何の応答も無いので諦めて携帯を鞄にしまった。そして普段通り聡美の待つアパートの扉を開けた。


(4)コンタクト-1

 僕が課長に昇進して二週間が経ったある日の午後、ビルの受付から僕宛に連絡があった。
「吉沢課長ですか?」
「ええ」
「受付ですが、吉沢さんに面会したいという方がいらしています」
 今日はそんな約束をしていない。そもそも会社の人間であれば普通に通せば良いだけの話だ。どうしてワザワザ僕に連絡をして確認する必要があるのだろう。僕は尋ねる。
「どなたですか?」
 しどろもどろになりながら警備員は応えた。
「えっと……」
 僕にとってそれは意外な人物だった。僕は直ぐさま受付にその人物を応接室へ通すよう指示した。

 僕はネクタイを締め直して応接室へ向かうと、既にその来訪者はソファにどしりと座りくつろいでいた。その来訪者は僕にとっては初対面の人間だった。だが知らない人間ではない。いや、それどころかよく知っている人物だった。
 応接室には僕と来訪者の二人きりだ。
 来訪者は僕が部屋へ入るのを見計らってこう言った。
「取り敢えず座りたまえ」
「はい」
 僕は軽く一礼してその人物の真正面に腰を下ろした。
「君が吉沢伸介君だね」
 来訪者は改めて僕の氏名を確認した。
「え、ええ、そうです」
 僕はしどろもどろになりながら何とか回答した。
 すると、来訪者は自らの名前を改めて僕に告げた。
「私の名前は神木だ」
「ええ、お名前は良く存知上げております」
「それは光栄だ。ご存知のとおり私は一応会社から執行役員という肩書きを借りている」
 神木執行役員は校内放送で聞いたとおりのよく通る良い声をしていた。神木は十分な量の白髪に柔和な笑顔がよく似合うナイスミドルだった。
 しかし、僕には神木がどんな要件でわざわざ本社からこの雑居ビルまで足を伸ばしたのか皆目見当も付かなかった。そんな僕の腹の内を見透かしたかのように神木はこう言った。
「今日私は君に伝えなければならないことがあって、ここに来た次第だ」
「はぁ」
「実は次の社長は君に決まった」


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