閉じる


<<最初から読む

19 / 44ページ

(3)課長-3

「ありがとう。本当に助かったよ」
 僕は素直に礼を言った。すると神木は僕に向かって改めて挨拶をした。今度は朝の挨拶ではない。
「いえ、これからはご指導、ご鞭撻の程よろしくお願いいたします」
 新しい部下としての挨拶だった。
「こちらこそよろしく頼むよ」
 僕は改めて気を引き締めた。

 たばこ部屋を出た後、取り急ぎ丸尾の残していった残作業の整理に着手した。しかし着手したまでは良かったが、丸尾の業務は殆どが資料として残されておらず結果として大いに神木の助力に頼ることになった。
 そして丸尾が手を出していた業務の範囲は想像以上に広く深かった。このペースで行くと僕がある程度業務をこなせるようになるにはまだしばらく時間を要しそうだ。僕は業務に一区切り付いたところで再びたばこ部屋へ向かった。
 タバコ部屋で僕は背筋を伸ばす。
「うーん、疲れた」
「ご苦労様です」
 別に誘ったわけでもないのに、何気なく僕の一服に神木も付き合ってくれた。本当にこいつは心底頼りになる部下だ。
「いや、今日は神木君のおかげで随分助かったよ」
 僕は素直に神木に礼を言った。
「いえ、滅相もありません」
 神木はあたかもそれが当然の事であるかのようにそう言って微笑んだ。
 それにしても丸尾の奴はどうやってこれほどハードな業務をこなしていたのだろう。
「うーん」
「どうされたのですか?」
 神木になら言っても構わないだろう。
「少し自信がなくなってきたんだよ」
「どうしてですか?」
 神木は不思議そうに小首をかしげた。
「前任者の丸尾程僕は仕事をこなせるのかなってさ……」
「大丈夫ですよ、初めはみんなゆっくりです。間違い有りません」
 部下に慰められてしまった。
 思わず僕は苦笑。


(3)課長-4

「それにしても丸尾は凄いよ、あいつの立場になって再認識したよ」
「全くです。僕は丸尾先輩にだけは頭が上がりません」
 そんな僕は神木に頭が上がらない。それにしても丸尾と比較されたらどうしようか。僕にはまるで勝てる要素が無さそうだ。
 しかし僕の不安は杞憂に終わった。神木は話題をがらりと変えてきたからだ。
「ところで吉沢さん、昨日僕が差し上げたネクタイピンはお気に召しませんでしたか?」
「え?」
 僕自身、神木に指摘されるまで貰ったネクタイピンを付けていないことに気づかなかった。そういえば今朝聡美はネクタイピンを用意してくれていなかったように思う。どうしてだろう? ひょっとして聡美は気に入らなかったのだろうか。僕はさし当たって神木が気を悪くしないように適当に言い訳をしておくことにした。
「ああ、申し訳ない。今朝はあたふたしていて忘れていたよ」
 今日家に帰ったら聡美に確認しておこう。神木には今後も世話になるのだからこんな詰まらない事で関係を悪くしたくはない。
「本当に申し訳ないね」
「いえ、お気になさらないでください。ただお似合いでしたので……」
 神木が残念そうにそう言った。
「そう言って貰うと益々申し訳ないね。高そうなモノだし何なら返そうか?」
「いえ、一度差し上げた物ですので、吉沢さんのお好きなようになさってください」
 神木は別段気を悪くした様子もなくそう言って微笑んだ。
 結局僕はこの後たばこ部屋を出て終電になるまで働いた。帰った頃には既に聡美は休んでいた。ネクタイピンの件は翌朝確認する事にして、僕も休んだ。

 翌朝、聡美に起こされても僕は目が覚めなかった。そのくらい一日目の業務で疲れていたのだろう。三回起こされてようやく重たい目を開いた僕はパジャマのままでダイニングへ向かった。
「おはよう、やっと起きてくれたわね」
「すまない。昨日遅かったからね。疲れていたんだよ」
「いいのよ。課長様だものね」
「はは……」
 そう言われると悪い気はしない。
「昨日は聞きそびれちゃったけど、課長になった気分はどう?」


(3)課長-5

「そうだね、はっきり言って疲れたよ」
「でも、丸尾君の仕事を引き継いだだけよね?」
 聡美のこの言葉にさすがに僕も少しイラッとした。聡美は僕の仕事の一体何を知っているというのだろう? 僕がどれだけ苦労しているのかも知らずに……。
 僕がムスッとした顔でテーブルに置かれた牛乳で焼きたてのトーストを胃袋に流し込む。
 僕の気分を知って知らずか聡美は僕のワイシャツを用意をしながらこんなことを尋ねてきた。
「初めて出来た部下はどうなの?」
 最初に出来た部下は神木か。
 神木といえばネクタイピンのことを忘れるところだった。朝食を食べ終えた僕はスーツに着替えながら神木からの小粋なプレゼントについて聡美に尋ねる。
「なぁ、聡美」
「なぁに?」
 僕の脱いだパジャマをたたむ聡美。
「一昨日ネクタイピン付けて帰ってきたと思うんだけど、それ、知らないかい?」
 僕の質問に聡美は一瞬ぴくりと反応したが、あっさりこう返事した。
「えっと、アレ捨てちゃった」
「ええ?」
 驚くほか無い。
 神木からの贈り物なのに、あんまりだ。
「うん、捨てちゃったのよ」
 聡美はもう一度同じ事を繰り返した。
 さすがの僕も黙っていられない。
「あれ、もらい物だぞ! 大切な後輩からの!」
「だから捨てちゃったのよ、ゴメンね」
 聡美は同じセリフを繰り返し、簡単に謝った。本音を言えばもっと聡美を怒鳴りつけてやりたいところだが、僕は聡美に頭が上がらない。これ以上この件について聡美を責めてもナンセンスだ。僕は渋々ネクタイピンを諦めることにした。
「まあ、仕方ないな。やっちゃったモノは……」
「本当にゴメンね」
 申し訳なさそうに聡美は謝った。
 僕はそんな聡美が愛おしくて仕方がない。惚れた者負けと言うことだろう。
「いや、もういいよ」
 僕はそう言ってこの話をお終いにした。


(3)課長-6

「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい!」
 仲直りの意味もかねて軽く頬にキスをしてもらい、僕は出勤した。
 この件については神木に黙っておいた方が良いだろう。しかし出社した後、神木がネクタイピンについて尋ねてくることはなかった。気を悪くしていなければよいけれど。

 課長になった火曜日から週末の金曜日までの間僕は多忙を極めた。入社してこれほど多忙な経験をしたことはない。出来ることなら丸尾に訊きたい事が山積しているが、さすがに社長へ課長業務の質問をする事は憚られた。
 もっとも実際のところ課の業務の大半は神木がこなしているようだった。神木の有能さについては部署のお墨付き、というより社長の丸尾が認めている以上、会社のお墨付きだ。神木は嫌な顔一つ見せず、まさに忠犬のように課のために、つまり僕のために尽くしてくれた。僕の中では神木の好感度は最大値だ。
 金曜日の夕方にもなるとさすがに僕も仕事の内容をおおよそ把握する事が出来た。僕はある程度キリが良い頃だと判断して丸尾の携帯電話にメールを打つことにした。
 もちろん相手は同期といえど社長なので、返信の期待はしていない。だからメールの本文は次のような簡単な内容にした。
・タイトル『どうですか?』
・本文『無事に社長業務をこなせていますか? 暇が出来たら飲みに行きましょう。では』
 うん、我ながら無難なメールだ。
「送信っと」
 僕は『送信完了』の表示を確認して家路についた。

 丁度僕がアパートの玄関前に辿り着いた時、僕の携帯電話が鳴った。モニタを確認すると『非通知』と表示されている。僕の知り合いに非通知設定で電話を掛けてくる奴はいない。
 結局あまりにしつこいので電話に出てやることにした。
「もしもし?」
「丸尾だ。お前は吉沢か?」
 発信者は丸尾だった。さっきメールしたばかりで早くも連絡をくれるなんてなかなか友達甲斐のある奴だ。僕は丸尾を見直した。
「ああ、そうだよ。一週間ぶりだね」
「頼むぜ、直ぐに出てくれよ」
「非通知で掛かってきたから、怪しい人からの電話かと思ったんだよ」
「それはすまなかったな」


(3)課長-7

 どうも丸尾らしくない返事だ。いつもなら豪快に「がはは」とか笑って返すはずなのに少々様子がおかしい。 
「ところで、君は元気に社長業務やってるのかい?」
「まぁ、な。多分」
 どうにもはっきりしない口ぶりだ。
「吉沢、そっちはどうなんだ?」
「どうにか今週を乗り切ることが出来たって感じかな」
「そうか、そいつは良かった」
 やはり丸尾らしくない。
「ところで丸尾は一体どんな社長業務をこなしているんだい? まさか本当にソリティアに励んでいる訳じゃないよね?」
「悪い。守秘義務だから言えないんだ、マジですまん」
「守秘義務?」
 僕は守秘義務というキーワードを聞いて、辺りを見回した。うん、特に誰もいない。
「大丈夫だよ、丸尾。周りには誰もいない」
「そうか、なら良いんだ」
「というか、僕との会話でそんな大それた話しないだろ?」
「いいか、吉沢。たとえば社長様のたわいない一言が株価に影響を与えるんだ。だから原則一切合切が守秘義務の対象となっているんだよ」
 なるほど、らしくない口ぶりの原因はそれか。
「まあ何にしても丸尾社長も色々大変なんだなぁ」
「いや、正直うちの会社の社長職は大変なんてものじゃない。ヤバイ」
「へぇ、激務なんだ」
「まあ、そう言えるかもしれない」
 相変わらず歯切れは良くないが、『雲の上の人』の感想なんてそうそう聞けるモノじゃない。
「ところで丸尾は今も本社なのかい?」
「いいや。違う、うーん、言っても良いのか。俺は今は熊本辺りだ」
 丸尾の言葉に反応するかのように『サーザー』と携帯電話に耳障りなノイズが乗った。
「すまんな、今社長専用の携帯電話使っているんだ。少し旧式らしくてノイズが乗るらしい」
「そうなんだ。大丈夫だよ、声は届いてるから」
「そうか、なら良いんだ」
 丸尾は心配そうにそう呟いた。



読者登録

由納言さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について