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(2)昇進-10

「俺さ、明日から『社長業務』が始めるんだぜ。昨日まで『課長』だった俺がだぜ?」
 僕は丸尾に向かってこう言い返してやった。
「僕は明日から『前課長の残業務』が始まるんだよ。昨日まで『平社員』だった僕がだよ」
「おい。吉沢よぅ、茶化すな」
 拗ねたように丸尾は応えたが、さすがにいい年したおっさんなので可愛くもない。
「僕は別に茶化していないよ、事実を述べたまでだ」
「ところで、先週僕と二人で一緒に飲んだときに今回の昇進の件は聞いていたのかい?」
 ずっと気になっていた事だ。
「いや、これっぽちも聞いてない」
「じゃあ、いつ聞いたんだい?」
「日曜の、だから昨日の夜八時頃だな、正直最初は悪戯電話だと思ったよ」
「それはそうだろうね」
 仮に僕が丸尾の立場だったとしても、突然そんな連絡があれば悪戯を疑うだろう。
「じゃあ、どうして信用したんだい?」
「相手が俺の社員番号からやってる業務内容まですべて把握していたからさ」
 なるほど、それは信じざるを得ないな。
「なら、社長を引き受けた理由は?」
「ん?」
「お前社長職に否定的だったじゃないか?」
「そりゃお前、会社の決めた事には逆らえないのさ」
「ふーん、そういうモノなのか」
 僕はてっきり丸尾なら断りかねないと思っていたけれど。
「ところでよ、吉沢は俺がどんな仕事すると思う?」
「ええ? 丸尾、君はあの執行役員から何も聞いてないのかい?」
 僕は丸尾の質問に少々驚いた。
「ああ、何にも聞いてない。ちなみにあの執行役員の名前は『神木』さんなんだぜ」
「ひょっとして丸尾の部下の……いや元部下の神木君のお父さんかい?」
「残念! 俺もそう思ったんだけど、赤の他人だ。そもそも漢字が違うしな。それに神木執行役員は独身だそうだ」
「いやぁ、分からないよ。騙されてるんじゃないの?」
「いやいや、顔も全然似てないから間違いない。血統書付きの他人だぜ」
 まあ同じ読み方の姓を持つ人間なんて日本中腐るほどいるだろう。
「ふーん、まあいいや。それにしても神木執行役員はまるで声優さんのように良い声をしてるね」

(2)昇進-11

「ああ、実際かなりダンディな紳士だった。あれなら役者やっても大成すると思うぜ」
「で、丸尾が明日何をするかだよね?」
「ああ、一体何するんだろうな? 社長の俺は?」
「うーん、ふんぞり返って新聞でも読んでればいいんじゃないの?」
 僕は社長の仕事に興味などない。
「吉沢もやっぱりそう思うのか?」
 丸尾は僕の適当な応えに対して不服そうだ。
「僕はそう思うけど?」
「だと良いけどよ」
「何か心配事でもあるのかい」
「前の社長は死んでるんだぜ?」
 そういえばそうだった。だからといって社長になれば死ぬと決まったわけではない。
「俺は普通に働きたいぜ。目標はそうだな、あの神木くらいかな」
「執行役員の神木さんかい?」
「違うぞ、元部下の神木の方だ。あいつなら社長と同じだけ給料を貰っても良いと俺は思ってるけどな」
「神木君はそんなに優秀なんだね」
「ああ、あいつが側にいれば安泰だ。俺が課長になれたのもあいつが下に付いてくれたおかげだ。あいつをお前の側に残してやる俺に感謝しろよ」
「そうだね。感謝するよ」
「いずれにせよ、明日以降だな」
 丸尾は携帯電話で時刻を確認した。
「おっと、そろそろ本社に戻る時刻だ」
「そうか、社長は忙しいんだな」
「引き継ぎらしい引き継ぎが出来なくて申し訳なかったな、吉沢」
「僕は丸尾に携帯メールで連絡しても大丈夫なのかい?」
「おう、全然してくれ。また飲みに行こうぜ……、もっとも明日以降の業務次第だけどな」
 社長になっても変わらない丸尾に僕は少しホッとした。
「それを聞いて安心したよ。丸尾社長さん」
 僕の言葉に丸尾は気さくに笑って返した。

(3)課長-1

 僕はこの日定時に退社した。結局業務の引き継ぎらしい引き継ぎは一切して貰えなかったが、神木が事実上仕事を担ってくれているという話を聞けた事は唯一にして最大の収穫だった。
 昇進の喜びと僅かながらに感じる丸尾への嫉妬。
 僕は相反するこの二つの感情を複雑に感じながら帰宅した。
 僕がアパートのドアを開けた。
「!」
 すると唐突に嫁の聡美が抱きついてきた。
「おめでとう! 伸ちゃん」
「ありがとう、ってどうして知ってるんだよ?」
 吉沢はまだ昇進の件を聡美に報告していなかった。
「会社からもお祝いの電話があったのよ」
 僕の首に手を回したまま聡美は耳元でそう囁いた。
 しかしふと疑問が生じた。わざわざ会社が昇進の連絡をだろうか。
 僕は率直にその疑問を口にする。
「どうして会社がそんな連絡してくるんだ?」
「さぁ? 丸尾君がそういう指示でも出したんじゃないかしら」
「へぇ、じゃあ聡美は丸尾の昇進の件も知ってるんだね?」
「ええ、もちろんよ」
 同期の丸尾が社長へ出世して自分は課長では僕としても立つ瀬がない。そんな僕の切ない気持ちを知ってか知らずか、聡美はこう言った。
「本当にラッキーよね」
「ラッキー?」
「そうよ、あなたはラッキーなのよ」
 聡美は丸尾の出世を単なる幸運だと考えているらしい。実際のところ僕も聡美の考えと同じだ。そもそも同期入社の人間の実力にそれ程大きな差があるとは思えない。
「まぁ、そうだね」
 僕は素直にそう答えた
「あなたは自分がどれほど幸運の持ち主なのか理解していないのよ」
「どういうことだよ?」
 聡美は諭すようにこう言った。
「だって友達が社長って事はあなたの昇進は確実じゃないの!」
 なるほど、そういう解釈もあるのかと僕は思った。事実丸尾から副社長ポストの話を聞かされている。僕自身は話半分に聞いていたが、案外聡美の言うように世の中捨てたモノではないのかもしれない。

(3)課長-2

 僕は優しく聡美の腕をほどいて「だといいけどね」とだけ言い残してリビングへ向かった。過剰な期待をさせても可哀想だ。
 そして当の聡美は鼻歌交じりで台所へ戻っていく。振り返って微笑みながらこう言った。
「今夜はお祝いね」

 翌日、僕はいつもより少し早めに出勤した。
 どうしてかと言われれば理由はない。
 課長に昇進したから何となく気合いが入ったのだろう。自分の事ながら他人事のようだが。
 時間を少しずらすだけで随分と電車の中は空いていた。無論座れるほどではないが、押しくら饅頭するほどではない。
 僕は会社のビルに辿り着くといつものように警備員に挨拶する。
「おはよう」
「おはようございます!」
 警備員の態度は明確に違った。
 さては昨日丸尾と一緒にいるところを目撃したのかもしれない。現金なものだ。僕にこびたところで何のメリットもないというのに。
 僕は昨日と同様にエレベータに乗り七階のボタンを押す。
 これまた昨日と違って、時間をずらしただけで随分と人が少ない。なるほど早起きは三文の得とはよく言ったものだ。明日以降もこの時間帯に出社するように心がけよう。
 七階でエレベータを降りると、僕は真っ直ぐに自分のデスクへ向かった。
 しかし、自分のデスクの前で呆然としてしまった。
 昨日まで自分のデスクのあった場所にはプリンターが置かれていたからだ。誰かの嫌がらせだろうか? 周囲を見渡すと僕の机の上にあった私物はすべて隣の課の丸尾のデスクの上に移動されていた。誰の指示だろう?
「おはようございます」
 朝から困った顔をしているであろう僕に背後から誰かが声を掛けてきた。僕は振り返ってその人物を確認する。
「ああ、神木君か」
 神木は今朝もさわやかな笑顔で僕を迎えてくれた。僕は神木にこのデスクの引っ越しを尋ねる事にした。
「これは、誰がやったのかな?」
「大変失礼しました。僕の独断で今朝、荷物を移動させて頂きました」
 今朝ということは僕が来るよりもずっと早い時間に出社してこんなくだらない作業をしてくれたということか。丸尾の言った以上にこの青年は優秀なのかもしれない。


(3)課長-3

「ありがとう。本当に助かったよ」
 僕は素直に礼を言った。すると神木は僕に向かって改めて挨拶をした。今度は朝の挨拶ではない。
「いえ、これからはご指導、ご鞭撻の程よろしくお願いいたします」
 新しい部下としての挨拶だった。
「こちらこそよろしく頼むよ」
 僕は改めて気を引き締めた。

 たばこ部屋を出た後、取り急ぎ丸尾の残していった残作業の整理に着手した。しかし着手したまでは良かったが、丸尾の業務は殆どが資料として残されておらず結果として大いに神木の助力に頼ることになった。
 そして丸尾が手を出していた業務の範囲は想像以上に広く深かった。このペースで行くと僕がある程度業務をこなせるようになるにはまだしばらく時間を要しそうだ。僕は業務に一区切り付いたところで再びたばこ部屋へ向かった。
 タバコ部屋で僕は背筋を伸ばす。
「うーん、疲れた」
「ご苦労様です」
 別に誘ったわけでもないのに、何気なく僕の一服に神木も付き合ってくれた。本当にこいつは心底頼りになる部下だ。
「いや、今日は神木君のおかげで随分助かったよ」
 僕は素直に神木に礼を言った。
「いえ、滅相もありません」
 神木はあたかもそれが当然の事であるかのようにそう言って微笑んだ。
 それにしても丸尾の奴はどうやってこれほどハードな業務をこなしていたのだろう。
「うーん」
「どうされたのですか?」
 神木になら言っても構わないだろう。
「少し自信がなくなってきたんだよ」
「どうしてですか?」
 神木は不思議そうに小首をかしげた。
「前任者の丸尾程僕は仕事をこなせるのかなってさ……」
「大丈夫ですよ、初めはみんなゆっくりです。間違い有りません」
 部下に慰められてしまった。
 思わず僕は苦笑。



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