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(2)昇進-3

 僕は保土ヶ谷さんに礼を言ってパソコンを返した。ようやく起動した自分のパソコンで僕はもう一度じっくりと社内連絡の内容を確認した。丸尾の奴さては何か悪さをしでかしたのだろうか? しかし僕の心配は結果として杞憂に終わった。九時からの社内放送で次のことが告げられたからだ。
 それはつまり、丸尾を代表取締役つまり社長に大抜擢するという連絡だった。

 今の時刻は九時半だが社内放送はまだ続いている。スピーカから執行役員と称する初老の男性の声が響いている。僕の周辺の社員は身近な丸尾課長の異例の二階級特進どころか最上級特進ということもあって、神妙な面持ちでその声に耳を傾けている。
「……、というわけです。我々は今回の大不況により会社創立来の未曾有の危機を迎えております。そこで我々は大きな決断を下すことにいたしました」
 熱く語る執行役員の言葉に僕は改めて自分の会社の酷い状況を思い知らされた。
「この非常事態の打開策について役員会は三日三晩激論を交わしました。その結果、今日のこの人事異動発令に至ったのです。この後、臨時株主総会を開き今回の人事案について株主の皆様にご承認頂く予定です」
 どうやら今回の抜擢は本当らしい。そして社内放送はなおも続く。
「私は思います、これほどのドラスティックな環境変化の中において老兵を選んでいてはとても我が社を存続させる事は困難であると! 先日逝去された先代の社長もこのようにおっしゃっておられました。『今後はもっと若い人を選ぶべきだ』と!」
 僕は執行役員の言葉を聞くまで、先代の社長が亡くなっていることすら知らなかった。
「我々は若手の中から『反骨精神旺盛』で『なにくそ!』という気概を持ってこの困難な現状を打破できる人物を選抜しました! それが、この丸尾君……いや丸尾社長なのです! 丸尾社長、さあこっちに来て挨拶をしてください!」
『ゴソゴソッ』とマイクを丸尾に向ける音が聞こえた。
「ええ、俺、いや私が丸尾琢巳です」
 丸尾自身困惑している感が否めない。
「このたび社長に就任することになりました。ええっと……元々の部署は……」
 しどろもどろになりながらも丸尾は自己紹介を続ける。そして元の部署について触れた時、僕を含む部署のみんなが一斉に息をのんだ。しかし……。
「丸尾社長ありがとうございました!」
 その執行役員は丸尾の二の言葉を許さなかった。そしてどうやら既にマイクは執行役員へと切り替わってしまったらしい。これでは、僕達の部署が全社的に紹介されることもない。僕を含む部署のみんなはがっかりした。
「今回の人事異動発令は内示もかねております。従いまして丸尾社長はすみやかに課長職の引き継ぎを終えるようお願いします。以上です」

(2)昇進-4

 社内放送は無事終了してしまった。これではまるで社長が役員に命令されているようだ。妙な違和感を感じたのは僕だけではないだろう。 丸尾は午前中本社で社長職の説明を受けているらしく、部署には戻ってこなかった。
 そういうわけで、僕は保土ヶ谷さんに自分の業務を引き継いで貰った。僕は午後になって引き継ぎに一段落付いたところを見計らい、たばこ部屋へ向かった。相変わらずたばこ部屋は閑散としていた。今日は丸尾の異動があったために部署自体慌ただしい。
 そこへ再び神木がやってきた。
「吉沢さん、改めておめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
「これからは吉沢課長ですね!」
「ははは、今まで通りの吉沢さんでいいよ」
 神木は順当に引き継ぎが完了すれば僕の部下になるだろう。
「それにしても突然でしたよね」
 無論神木の言っていることは僕のことではない。
「そうだね、まさかいきなり社長とは……」
「本当ですよね」
「実を言うと僕は自分のことより丸尾の異動にビックリしているんだよ」
「確かに異例の大抜擢ですからね」
「僕はあいつと先週の金曜日に一緒に飲みに行ったばかりなんだよ。だけどそんな素振りは微塵も見せなかったけれどなぁ……」
「そうですか……」
 神木は何かに納得したようにこう言った。
「丸尾さんは社長ですよ。おいそれとそんな情報を飲み屋では話せなかったのでは?」
 確かに神木の意見にも一理ある。
「そうなのかなぁ」
「きっとそうですよ」
 神木は僕を励ますようにそう言った。
「それにしても社長と飲み会ですよ。貴重な経験だと思います。今後は丸尾さんも『雲の上の人』ですからね」
「うーん、そうかもしれないね」
 確かに神木の言うとおりかもしれない。
 この際率直にこの自分の疑問を神木にぶつけることにした。
「ところでさ、神木に聞きたいことがあるんだよ」
「なんでしょうか?」
 神木は二本目のたばこを取り出そうとしている。

(2)昇進-5

「僕はさ、一般的な人事異動の場合発令の前には内示があると思うんだよ。でも今回の件について言えば一切無かったよね」
「吉沢さん、今回は通常の人事異動ではありませんよ」
 神木は僕を諭すように言った。
「これは未曾有の大不況を乗り切るべく会社の取った最後の手段なのです。通常のやり方ではこの異常な不況は乗り切れません」
 それだけではどうにも僕は納得できない。
「まあ、それはそうかもしれないけどさ」
 確かに僕にも今回の異動が普通ではないことくらい理解できる。しかしあまりに異常だ。異常すぎる。
「いいかい、僕に対しても課長昇進の内示はなかったんだよ?」
「そこから芋づる式に丸尾社長の件がメディアに知られることを警戒したのではないでしょうか?」
 僕のような平社員が課長になる程度で丸尾の大抜擢が果たして漏れるものだろうか? し難しい顔をしている僕をしげしげとみつめながら神木は一服してこう言った。
「良いじゃないですか、吉沢さんは『課長』ですよ」
「まあ、そうかもしれないけれど……」
「素直に喜びましょうよ、吉沢課長」
 たしかに神木の言うとおり今回の課長昇進は僕にとって『棚ぼた』だ。しかし同期の丸尾が社長に大抜擢されて一方の自分は課長では少々納得いかない。
「なんだかあまり嬉しそうではないですね?」
「うーん、僕も出来れば『雲の上の人』になりたかったよ」
 無論課長の丸尾が社長に抜擢されるより普通の平社員が社長に抜擢される方が遙かにあり得ない。分ってはいるけれど、同期の出世という者はねたましいものだ。そんな狭量な僕に神木はこう諭してくれた。
「そうですか? 僕は『社長』なんてまっぴらゴメンですよ」
「どうしてだい?」
「酷く大変そうじゃないですか?」
「僕はやりがいがあると思うけれどね」
 実際は肩書きが羨ましいだけだ。
「僕ごときには社長の大変さなど到底理解できませんよ、そもそも『社長』が一体どんな仕事をするのか見当も付きません」
「僕だって知らないさ」
 どうせソリティアでもして遊んでいるのだろう。そんな邪推をしていると神木の視線が僕のネクタイに止った。

(2)昇進-6

「お、吉沢さんネクタイ曲がってますよ」
「ん? そうか」
 僕は自分の身だしなみに無頓着なので、服装コーディネイトはすべて嫁の聡美に任せている。今朝は本当に遅刻間際だったので、適当にネクタイを首に巻き付けて出社した。
 神木は僕のネクタイを訂正してくれた。
「すまないね、気を遣って貰って」
「いえ、気になさらないでください。そういえば……」
 神木はジャケットからネクタイピンを取り出して僕のネクタイがゆがまないように留めてくれた。
「ええ、これで大丈夫です。吉沢さん」
「このネクタイピンは?」
「ええ、それはただのもらい物です」
「それにしては随分高級な代物っぽいけれど」
 僕は自分の胸元にしっかりと止められた銀色のネクタイピンについて神木に尋ねた。
すると神木はアッサリとこういった。
「よろしければ、貰って頂けませんか?」
「ん? どうしたの、これ?」
 神木は少し困った顔になる。
「実は少し前に彼女に貰ったモノでしたが、別れてしまいまして。捨てようかとも思ったのですが、結構高価なモノらしいので捨てるに捨てられず難儀していたのです」
「モノを大事にするという心がけは立派だと思うよ」
「ありがとうございます。もらい物で恐縮ですが、それは私からのお祝いとして受け取って頂けませんか?」
 後輩の神木がせっかくくれるというのなら僕にそれを拒む理由もない。それにこのネクタイピンはいぶし銀の渋い感じが非常にかっこいい。
「ありがとう、遠慮無く使わせてもらうよ」
「嬉しいです、ありがとうございます」
 僕としては後輩に神木のような好青年が付いてくれるというだけで十分だ。
「吉沢課長はこれから大変ですよ」
「そうだね、まずは丸尾元課長の仕事の引き継ぎからだね」
 そうだ、僕は今後課長として頑張っていかねばならない。
「ええ。丸尾課長は大型案件を三つも抱えてましたから、普通の人には難しいですよ」
「へぇ、あいつそんなに仕事の出来る男だったんだ」
 これは本当に意外だ。本当に仕事をしていたんだ。
「ええ。僕は尊敬していますよ、丸尾社長を!」

(2)昇進-7

 神木は本当に丸尾を好いていたんだなぁ。
「ところでそんな仕事をたった半日で引き継げるものなのかなぁ?」
 いきなり、無茶な仕事を押しつけられてもやっていける自信が僕にはない。僕は急に不安に襲われた。
「大丈夫ですよ。きっと吉沢課長なら無難に成し遂げますよ」
「だといいけれどね」
「僕も精一杯お手伝いさせて頂きます」
「よろしくお願いするよ」
 結局僕はタバコを三本吸って、神木と一緒にタバコ部屋を後にした。

 タバコ部屋から自分のデスクに戻ると周囲の雰囲気がピリピリしているように感じられた。何事かと思えば、僕の席にはくたびれた顔の丸尾が座っていた。
 本来大抜擢を受けた『時の人』だからこそ、周囲に人が群がっても良さそうなものだが、丸尾は見るからに疲労困憊している。あからさまに不機嫌オーラを発している。そうはいっても、丸尾が座っている席は僕の席なのだ。僕は丸尾に声を掛けざるをえない。
 職場の連中は自分の業務に集中しているフリをしながら固唾をのんで僕と丸尾の様子を見守っているようだ。
「ま、丸尾社長。戻っていらっしゃったのですね」
 いかにも今気がついたかのような素振りで僕は丸尾に声を掛ける。
 もちろん、丸尾の肩書きが大きく変わったという事で僕も自然と敬語で話しかけざるを得ない。しかし丸尾はそんな事には一向に関心がないようだった。
「ああ、今さっき記者会見から戻ってきたばかりだ」
 丸尾は席から立ち上がるとそう言った。どうやら丸尾はあの社内放送の後、メディア向けへの記者会見にも出席したらしい。
「僕にご用ですか?」
「ああ、俺はお前を待っていた」
 おそらく課長職の引き継ぎだろう。
「吉沢、ちょっと会議室……、いや一階の応接室に来てくれるか?」
 僕も聞きたいことが腐るほどある。
「畏まりました」
 僕の返事を待って丸尾は歩き始めた。僕もその後を追う。エレベータ前まで来て気づいたが、丸尾の三歩後ろには今まで見たこともない黒いスーツを着た男が三人付いている。必然的にエレベータの籠には僕と丸尾の他にその三人も入る。
「どなたですか。この方々は?」



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