閉じる


<<最初から読む

3 / 44ページ

(1)愚痴-2

「何のことだよ?」
 タレで汚れた口をフキンで拭いながら丸尾は僕に訊く。
「そんなに手羽先が欲しかったのかよ?」
「そうじゃないさ。僕が言っているのは人生についてだよ」
 僕はおちょこに日本酒を注ぎながら応えた。
「人生だぁ? 聡美をゲットしておいてまだ人生に不満があるのかよ」
「聡美かぁ、はは。お前にしてみればそうかもな」
「マジでむかつくぜ」
 聡美は僕の妻だ。そして彼女は大学時代に学内のミスコンで優勝を飾った華々しい経歴を持つ。丸尾は何気に聡美に執心だったのだ。しかしそんな彼女は何故か僕と一緒になった。結局聡美とは大学卒業後すぐ結婚した。とはいえ丸尾も既婚者だ。
「なんで聡美がお前の嫁なんだよ!」
「僕に言うなよ、文句があるなら聡美に直接言ってくれ」
「本人の前で言える訳無いだろう! お前も聡美に余計な事を言うなよ」
「ははは、分かってるよ」
 というのは嘘で丸尾の言った事は僕を通してすべて聡美に筒抜けだったりする。
 悪いな、丸尾。
「今度バーベキューパーティでもするかい? 大学の頃みたいにさ」
「けっ、そんな気分の悪いイベントに参加するか!」
「あはは、冗談だよ」
 軽く丸尾をからかう。
「ちぇっ」と舌打ちして丸尾はビールを飲み干す。
「でも、実際問題さ、男の人生は経済力だと僕は思うよ」
 僕はおちょこを口にしながら話題を変えた。
「ああっ? 経済力? どういう事だよ」
「つまりさ、たとえ同じ会社にいたとしても僕みたいに薄給だといつ嫁に愛想を尽かされても不思議じゃないって事さ」
「ん? いやいや、俺だって年俸制だから来年の今頃はどうなっているか分からんぜ」
 丸尾はテカった顔をタレで汚れたフキンでぬぐう。
 焼き鳥のタレで余計に顔がテカっているような気もしないではないが、敢えて触れないでおこう。
「課長様ともあろう方が何をご冗談を」
「バカだな、管理職は労働組合員じゃないからいつ肩たたきにあってもおかしくないんだぞ。しかもこの不景気だしな」

(1)愚痴-3

「へぇ、そういうものなのか」
 それは知らなかった。エライ奴にはエライ奴なりの苦労があるって事か……。でも、やっぱり僕は課長の丸尾が羨ましい。
「それにしても、こんな世知辛い会社に誰がしたんだろうなぁ」
「そりゃ、社長様に決まってるじゃないか」
 僕は迷わずそう答えた。
「やっぱり、そうなのかなぁ」
「社長が働かないから僕達は苦労するんだよ。何せ僕は社長の顔を見た事ないくらいだし」
「がっはっは! そういやうちの社長は社員に顔を見せた事無いもんな」
「そうだよ、僕達の入社式の時も体調不良だとかいって顔見せ無かったしさ」
「ああ、あったなぁ! そんなこと」
「この前のリコール問題の時も顔出さなかったじゃないか?」
「がっはっは、そういやそうだ!」
「だからさ、やっぱり重要なのは説明責任だと思うんだよ。きちんと顔見せて説明して欲しいんだよ」
「吉沢の言う事ももっともだ! ん?」
 丸尾は串の盛り合わせを一人でぱくつきながらふと何かを思い出したらしい。
「そういや、つい最近俺たちの社長変わらなかったっけ?」
「ええっ? 僕は知らないけど。もっとも社長なんて誰がなってもかわらないよ、普段一緒に仕事するわけじゃないしね」
「まあ、そりゃそうだわな」
 丸尾は最後の串を豪快にビールで流し込むと、店員を呼ぶためにブザーを押しながら面白くもなさそうにこう言った。
「そもそも平社員とそんなお偉いさんが一緒に働いてたら可笑しいぜ」
「それはそうかもね」
 僕はおちょこに残った酒を飲み干した。
「それにしてもさ、会社の社長は代わるし、ボーナスはカットされるし、僕達の会社もいよいよ負け組の仲間入りかな……」
 思わず僕の口からため息がこぼれた。
「負け組って……そりゃ言い過ぎだろう、吉沢」
「無駄にでかい本社ビルを持つならせめてその分を僕達下っ端に還元して欲しいよ!」
「残念だけど、そりゃ無理だ」
 僕の愚痴に丸尾が真顔でそう答えた。
「どうしてだよ?」

(1)愚痴-4

「あの本社は借り物だからな」
「ええっ! 冗談だろ」
「大マジさ。あれは聞くところによれば四井銀行の持ち物だぜ」
「どうも信じがたいなぁ。じゃあ、最上階直通エレベータ前の前にあるレッドカーペットも全部借り物なのかい?」
「そういうこった」
「冗談は勘弁して欲しいよ。興ざめだも良いところだよ」
「まあ、事実だから仕方ないぜ」
「じゃあ、社長はその借り物のビルの最上階でふんぞり返っているって事かい?」
「まあ、そういうことになるかな……」
 だとすれば社長には少し身の程をわきまえて欲しいものだ。
 丸尾は注文のタイミングを伺っているが、忘年会シーズンのこの時期に男二人でしっぽり飲んでいる僕達に注意を払う店員がいるはずもない。丸尾は諦めてこっちを向いた。
「ところで吉沢、お前はどう思うよ? 社長は普段何をしていると思う?」
「さあ、見当もつかないよ。ああ、あれだよ!」
 僕はとっさの思いつきでこう答えた。
「きっと本社の屋上にある販促用の気球でも動かしているんじゃないかい?」
「あの気球か?」
 本社の高層ビルの屋上には一体どんな経済効果があるのか不明だが販促用の馬鹿でかい気球が常時浮いている。
「そうだよ、きっとあの気球に乗ってフラフラ漂っているんだよ、屋上をね」
「がっはっは! そりゃ面白い! まさに『雲の上の人』だな」
 僕と丸尾は揃って大笑いした。そして僕はこう言った。
「それでも僕は『雲の上の人』が羨ましいけどね」
「確かにな」
 その後、僕達は揃って大きなため息を吐いた。

(2)昇進-1

 月曜日の朝、僕はいつも通り満員電車に揺られている。それにしても一体どこからこれだけの人間が沸いてくるのだろう。
 前の禿げたおっさんが鬱陶しい。
 斜め前のOLが色っぽい。
 そんな意味のないことを考えているうちにいつの間にか僕は会社まで辿り着く。これが僕の毎日の日課だ。
 会社といっても僕は本社勤務のエリート様ではないので、本社から二駅ほど離れたところにある雑居ビルに勤務している。僕は毎朝の日課のようにビルの警備員に挨拶をする。
「おはよう!」
「……」
 僕のフレンドリーな挨拶を無言で返す警備員。これと言って代わり映えのないいつものコミュニケーションだ。
 僕はこれまた同じ時間帯に出社する死んだ魚の目をした人の群で満員になったエレベータの籠に入り七階のボタンを押した。
 ふぅ、それにしても冬だと言うのに暑苦しい……。
 それにしても二階や三階で降りる奴は階段を使えよ。
 僕が遅刻したら責任取ってくれよ、全く。
 程なく籠は七階で停まり、僕はむさっ苦しさから解放された。どうやら今日も何とか定時ぎりぎりの出社に成功したようだ。
 僕は自分のデスクに辿り着くと、床に鞄を置いて安っぽい椅子に座る。周囲の人間は既にパソコンを立ち上げて何やら社内連絡のホームページに見入っている。
「さてと……」
 態とらしく声に出しながら、僕も遅ればせながら型落ちしたパソコンの電源を入れた。そしてせっかく座ったのにも関わらず一旦席を立つ。どうせパソコンが起動するまでしばらく時間が掛かる。僕は毎朝の習慣でたばこ部屋へ向かった。

 それほど大きいわけでもないたばこ部屋は珍しく閑散としていた。いつもならもっと人がいても良さそうなものだけれど。僕が一服していると、後輩の神木が入ってきた。
「吉沢さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
 この神木という青年は僕より数年後輩なのにバリバリのやり手だ。それでいて誰にでも人なつっこいところが魅力だろう。ちなみに丸尾の部下でもある。
「吉沢さん、昇進ですね」
「何のことだい?」


(2)昇進-2

「社内連絡をまだご覧になっていないのですか?」
「ああ、うん……」
 僕はしどろもどろになってしまった。さすがに後輩の手前遅刻間際に出社したことは言い出しづらい。
「もし良かったら掻い摘んで教えてくれないかな」
「はは、構いませんよ。吉沢さんは、僕達の課の課長に昇進されました。おめでとうございます」
「はぁ?」
 僕は神木の言葉の意味を理解出来ない。
 そもそも今は異動の時期ではないし、仮に僕が昇進したとしても係長だ。係長をすっ飛ばして課長になった奴の話しなんて聞いたことがない。
「それは本当なのかい?」
「ええ、本当ですよ。ご自分の目で確認して頂ければすぐに分かる事です」

 僕はすぐにたばこ部屋を飛び出した。そして自分のデスクに向かう。僕のパソコンはまだ起動していなかった。
 待っていられない。
 僕は隣席の先輩保土ヶ谷さんにパソコンを貸してくれるよう頼んだ。
「よ、吉沢君……、か、構わないよ」
 保土ヶ谷さんはしどろもどろになりながら僕に席を譲ってくれた。
「では、お借りします」
 僕は社内連絡を食い入るように見つめる。
 そこにはこう記載されていた。『以下の者を○○部XX課の課長職に任命する。 吉沢伸介』
 神木の言っていたことは事実だった。
 僕は喜びよりもこの突発的な異動に困惑した。通常の人事異動は事前に内示が行われる。従って今回の内示すらない人事異動の発令は部署の異例と言わざるをえない。
 何気に僕に対して周囲の視線は集中していることに気づいたが、敢えてそれを無視して社内連絡に注意を戻す。何でも九時から全社一斉放送で重大な発表があるらしい。
 僕の昇進より大きな発表なのだろうか? そもそも僕が○○部XX課の課長に昇進したら丸尾の居場所が無くなってしまう。それでいて丸尾に関する異動の情報はどこにも記載されていなかった。
「保土ヶ谷さんありがとうございました」
「い、いえ」



読者登録

由納言さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について