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『仏蘭西学研究』第43号 目 次

 

[論 文]

 ポール・クローデルと元老  ………………………………………………………… 学谷 亮… 3

 

 フランス側史料にみるフランス傷病兵日本後送の経緯 ………………… 原野 昇… 4

 

 19世紀におけるフランス人宣教師の琉球滞在について ―宣教活動と語学学習

 を中心に― ……………………………………………………………………………… 宮里厚子… 7 

 

 「Choix de lectures françaisesシリーズ」における地方主義の描写

  ……………………………………………………………………………………………… 中村能盛… 8

 

 中村光夫の青春とフランス体験 -1930年代から『戦争まで』及び1940年代へ

 - …………………………………………………………………………………………… 浜田 泉… 9

 

[講 演]

 ギヨーム・クールテ -日本に初めて来航したフランス人- ………… 市川慎一… 10

 

[書 評]

 片桐一男著『江戸時代の通訳官 -阿蘭陀通詞の語学と実務』- …… 岡田和子… 14

 

学会記録 …………………………………………………………………………………………(省略)

 

<註:無断転載を禁じます。>


TABLE DES MATIÈRES

 

 ARTICLES

 Paul Claudel et les Genrô ………………………………… Ryô GAKUTANI…3

 

 Témoignages français sur les circonstances de l’évacuation des  

 blessés de guerre au Japon ………………………… Noboru HARANO… 4

 

 Les séjours des missionnaires français dans le royaume des

 Ryûkyû au XIXe siècle : activités missionnaires et études

 linguistiques ……………………………………………… Atsuko MIYAZATO… 7

 

 Représentation du régionalisme dans la collection « Choix de

 lectures françaises » …………………………… Yoshimori NAKAMURA… 8

 

 La jeunesse de Mitsuo NAKAMURA et son expérience en

 France : des années 1930 Jusqu’à la guerre (Sensô-made), puis

 jusqu’aux années 1940 …………………………………… Izumi HAMADA… 9

 

CONFÉRENCE

 Conférence organisée le 10 octobre 2012 par la Maison

 franco-japonaise : sur « Guillaume Courtet, le premier Français

  à être venu au Japon » …………………………… Shin-ichi ICHIKAWA… 10

 

COMPTE RENDU DE LECTURE

 Kazuo KATAGIRI, Les interprètes à l’époque d’Edo : Langues et

 Pratiques des interprètes hollandais ……………… Kazuko OKADA… 14

 

ACTIVITÉS DE LA SOCIÉTÉ ……………………………… [omission]

 


ポール・クローデルと元老

 

 

 

<執筆者の希望により割愛>


フランス側史料にみるフランス傷病兵日本後送の経緯

 

原 野  昇

 

 

 

はじめに

 このたびフランス側の史料の中から、どのような経緯でフランスの傷病兵を日本の広島へ後送することになったかの一端を明らかにするものが見つかったのでここで紹介したい。これまで扱った史・資料は、日本側でフランス傷病兵を受け入れることになった経緯を明らかにするものであったが、今回の史料は、フランス側で治療を日本に依頼することに至った経緯を明らかにするものである。

 1900年(明治33)に中国で義和団の乱鎮圧(1)にあたったフランス軍の傷病兵120余名が広島の陸軍病院に搬送され治療が施された件に関しては、本学会においてこれまで6回報告させていただき、『仏蘭西学研究』にも掲載していただいた。本稿に関連の深いものとしては以下のようなものがある。

日本側史料

・病院船「博愛丸」派遣に関連する史・資料—「負傷フランス兵広島で治療の経緯」、『仏蘭西学研究』35号(2007年)、pp.37-49.

・ フランス兵の待遇に関連する史・資料—「広島における負傷フランス兵の待遇」、『仏蘭西学研究』36号(2010年)、pp.3-15.

・ 広島で死亡した兵士の葬儀の様子—「広島のフランス人墓地」、『仏蘭西学研究』28号、pp.30-39.

フランス側史料

・ 病院での待遇に関連する史・資料—「1900年に広島で治療を受けたフランス人兵士」、『仏蘭西学研究』35号、pp.10-25.

 

1.史料について

 当該史料というのは、フランス国防史料館Service historique de la Défense(2)所蔵の「渤海湾(1900年6-8月)における軍事行動中の保健部隊の医療業務報告抜粋Extrait d'un rapport médico-chirurgical sur le Service de Santé pendant les opérations militaires dans le Petchili (Juin-Août 1900)」という報告書である。史料名および分類番号は、分類記号「GR11H27」、「中国派遣軍関係/書類番号27/ファイル番号5/文書番号6」(Expédition de Chine/Dossier 27/Chemise 5/No 6)である。

 同報告書は、第1部「負傷者日本へ後送の経緯Io Renseignements sur l'évacuation des bléssés au Japon(pp.1〜7)」と第2部「銃弾および砲弾による負傷の状況IIo Renseignements sur les blessures produites par les balles et les obus(pp.8〜11)」の2部からなっている。第2部は主として医学的見地からの兵士たちの負った傷の状況と、それから分析した敵の武器弾薬およびその破片などに関するものである。ここでは第1部のみを紹介する。

 

2.報告書の日本語訳

渤海湾(1900年6-8月)における軍事行動中の保健部隊の医療業務報告抜粋

第1部 負傷者日本へ後送の経緯

 負傷者後送の可能性に関しては、近隣に領土を有している他のほとんどの列強国に比べて、我が国は明らかに不利な立場にある。ロシア人には、旅順港、長崎の病院(3)、ウラジオストックがあるし、ドイツ人には、膠州湾租借地の青島があり、イギリス人には、威海衛や少し先の香港がある。本国から目と鼻の先の日本人については言うに及ばない。それに反し我が国の唯一の方策はインドシナしかない。何と離れた場所だろうか!衛生状況が最悪のこの国で激しい戦闘の末に負傷した我が国の兵たちがそこに辿り着くまでにどうなるであろうか。特に疲労と出血で瀕死の状態にある重傷患者にとっては、一年のこの時節(7・8月)、死の宣告にも等しいものではなかろうか。私がサイゴンへの後送を断念したのは、重傷患者にとっては死刑宣告にも等しいと確信した結果の最終的な決断であった。そこに到着する兵士たちの疲れきった惨めな姿を容易に予想できた。彼らは出発前から負傷したり罹患しているので、そこに到着する前に命を落とす者が出るであろう。結果として、コーチシナは病院まで動員したと言われても仕方なかろう。彼らを移送する艦船は、途中のトゥーラン市(4)や香港で何人かずつを下船させながら、サイゴンまで運ぶのは20〜30人ということになろう。無事到着できた者の内の多くは数日ももたないであろう。コーチシナを利用しようと思った矢先、幸運にもそれが不可能となった。というのも、(少なくとも当初は)移送手段が極めて不十分だったからである。

 同じことはメークル医師が指揮していた横浜の病院(5)への後送についても言えた。作戦基地から離れ過ぎている横浜は、そもそも50人くらいしか受け入れる余地が無かった。

 太沽の近くの烟台にはフランス人シスターが運営する病院があったが、状況の悪化にともない、当時ほとんどの外国人は日本へ避難していた。ちょっとした民衆の蜂起によって無防備のまま虐殺される可能性のある病院へ、どうして負傷者を送ることができようか。

 フランス本国への直接後送はと言えば、考慮にさえ入れるべきではないだろう。我々はそのような特殊目的のために整備された艦船を保持していないのだから。その上、重傷患者に、1年のうちでも特にこの時期は煮えたぎる大釜とも言われるインド洋や紅海を通過しての長い航海を強いることは大きな罪を犯すことになろう。

 こうして問題解決の糸口が見つからないように思えていたとき、7月6日か7日に日本赤十字社の病院船「博愛丸」が太沽港に着港し、すべての国籍の病人を受け入れる用意があると言ってきたのである。補足しておくが、他の列強の病院船もそのとき(またそれ以降も)太沽港に到着していたが、それらは厳格に自国の病人に限定されていた。日本人のみが国籍を区別することなくすべての病人に治療を提供することを申し出ていた。かくして一番最後に近代文明の仲間入りをした彼らが博愛精神の手本を示したのである。ヨーロッパこそが博愛精神の唯一の手本であると自認していたが、それは間違っていたのである。

 負傷者の問題に当然のことながら大いに意を払っていた海軍司令長官が私を「博愛丸」に派遣したので、私は細心の注意を払って同艦を検分した。同艦自体の詳細はここでは問題外なので省くが、近代的病院としての衛生面に関しては申し分のない装備であったことだけを指摘しておく。特に清潔さに関しては、すべての場所の隅々にいたるまで非の打ちどころがなかった。治療は通常医療部門と外科部門に分かれていた。後者には広大な手術室があり、換気や照明も非常に良く、器具類もすべて揃っており、近代病院のそれにひけを取らないものであった。医師は4人おり、33人の看護士と11人の看護婦がいた。私は彼ら全員と会ったが、全員よく教育されており、最良の印象をもった。付属設備(浴槽、洗濯場、製氷機、等々)もすばらしいものが整っていた。食事は、希望によって、和食でも洋食でもよかった。同艦は200人の患者を受け入れることが可能であった。その内訳は、1室に2段ベッドが1つの将校用の部屋24人分。その部屋は、必要な場合にはベッドとして使用できるソファが備えられているのでさらに12人の将校を受け入れることができる。下士官14人分、そして最後に一般兵卒114人を収容できる2段ベッドが並べられた、天井が高く換気のよく効いた広大な1室である。これらの部屋から離れた場所に42台のベッドを備えた伝染病(赤痢、腸チフス、等々)患者用の隔離病室があった。そこは必要な場合には、さらに厳重な隔離が可能であった。

 「博愛丸」はじゅうぶんな数の患者を収容すると直ちに彼らを広島の病院に運ぶことになっていた。入れ代わりに同型の病院船「弘済丸」が太沽港に入港することになっていた。そして両艦の頻繁な交互輸送は必要な限り続くことになっていた。

 「博愛丸」を検分した結果、我が国の傷病兵たちは最良の条件下で治療を受けることができると確信した。しかしながら我が軍は、特に病人輸送のために、太沽に駐留することになってはいなかったので、日本当局の事前の了承を得ておく必要があった。そこで司令長官は私に紹介状を持たせて、「常磐」艦上にある日本の常備艦隊司令長官・東郷提督のもとに派遣した。同艦においても私は「博愛丸」のときと同様、非常に丁重な歓待を受けた。彼らは私の要求を満たすために最善を尽くしてくれた。彼らは我が国の傷病兵を日本の病院へ受け入れることを保証してくれただけでなく、私が望むだけの人数を送るようにと非常に親切に勧めてくれた。彼らはどこの病院がいいか私に選ぶようにと言ってくれた。私は広島の病院を望んだ。なぜならば、広島が日本赤十字社の病院船の最終到着地であり、一番便利が良かったからである。その上私は、広島の病院は非の打ちどころのない設備を備えていることを知っていた。私が「常磐」を訪問した翌日東郷司令長官は私のもとに一人の将校を派遣し、日本政府が喜んで我が国の傷病者を受け入れ、彼らが快適に治療が受けられるために最善を尽くすと改めて保証してくれた。(6)日本が西洋列強諸国の大部分が所有するものよりもはるかに優れた病院船2隻をかくも速やかに派遣したことを誇りに思って当然だと、私は以前から確信していた。フランスは真っ先に彼らに傷病兵を委ねたことによって、彼らに最大の称賛と敬意を示したことになる。私は先立っての滞日経験において、日本人医師の技術水準の高さから言って、彼らによる治療はヨーロッパの優秀な病院のそれと比べて遜色がないということを知っていた。したがって司令長官は私に、我々がすでに収容している患者およびこれから収容するであろう患者を広島に移送することを躊躇することなく許可した。

 解決すべき問題がもう一つ残っていた。同病院船の医師たちは彼らの母語以外に英語しか喋れなかった。患者たちに同道して同艦に行ったとき、私は患者の病状をできるだけ多く英語で書き記し、さらに口頭でも伝えた。しかし航海中においても通訳は不可欠であった。さらに、我が国の領事がいない広島に患者たちを放っておくわけにもいかなかった。非常に幸運なことに艦隊には、英語のみでなく日本語も喋れる一人の将校、マルチニー大尉がいた。司令長官は彼を患者輸送の第1便に同道させ、広島に残るように命じた。彼はそこでそれ以来非常に大きな役割を果たした。—第2便では、ちょうど同便で患者として後送されていたフランスの天津駐在武官、ヴィダル中隊長が通訳の役を自ら買って出た。—第3便には、「ダントルカストゥ号」乗り組みの海軍士官学校2年生を乗船させた。最終の第4便では5人の患者しか後送されておらず、概して病状は軽く、僅か3日の航海なので通訳は必ずしも必須ではなかった。もっともその頃には必要な英語が喋れる将校はいなかったというのも事実であるが。

 我が国の患者の待遇に関して信頼できる筋からの報告によると、私の多少楽観的過ぎるきらいのある指摘をはるかに越えたものであった。ヴィダル中隊長の証言によると、広島病院の設備は病院として理想的なものであり、徐々に我が国の傷病者専用になっていったとのことである。帝国政府はその病院に、ドイツの大病院で教育を受けた最良の外科医を派遣した。(7)食事に対する細やかな配慮も忘れられてはならない。そこには東京の一流ホテルのシェフが派遣されていた。我が国の傷病者は到着直後から、天皇の侍従武官、皇后の高級女官をはじめ、日本赤十字社の代表、地元県市のほとんどすべての代表の見舞いを受け、各方面から見舞いの贈答品をもらった。これは日本人が客人を歓待するときの習慣である。永眠した者の葬儀は誠に荘厳で、あらゆる市民が参列した。ごく最近も、快癒した我が将兵が帰国するに際し、皇后陛下が彼らを暫し引き留め、彼らに義肢を贈られた。私はあえて意図的にこれらの詳細に触れたが、それはこれらの事実は語られて然るべきだと思うし、一般の人に広く知られることはさらに良いことだと思うからであり、我が傷病兵たちが日本の為政者および全国民をあげて心を込めて懇切に待遇されたということは、フランスにおいて知られるべきことだと思うからである。我が将兵たちは、天津の戦場において、日本人医師や将校が日本人将兵たちに対するのと同様に、我が将兵たちに対しても献身的に振る舞ったということを、彼らの立場から証言するであろうことを私は確信している。実際、我が近代文明が誇りとする人類愛に基づく連帯の精神を、日本人ほど忠実に実行に移した国民はヨーロッパにはない。

 

3.この報告書から明らかになったこと

(1)広島の陸軍病院を選択するまでの経緯

   日本側史料に、「病院船博愛丸の派遣と同時に海軍大臣は在太沽艦隊司令長官をして同船には各國傷病者をも搭載すべき旨を在太沽各國海軍指揮官に通報せしめしに佛國海軍少将クールジョールは我艦隊司令官に對し同國患者を博愛丸に収容せんことを依頼せり」(8)とあるが、今回の史料はそれ以前にフランス側で種々の可能性について検討した結果日本に依頼するのがベストであるという結論を得たものであることが詳細に記述されている。

(2)病院船「博愛丸」の実地検分

   日本に依頼するのがベストであるという最終結論を出す前に、フランス傷病兵たちが収容され治療を受けるであろう当該病院船「博愛丸」の実地検分を行い、その施設・設備等を入念に検証している。その日本側の受け入れ体制および「博愛丸」の施設・設備等を含む医療環境について非常に高い評価を下している。

(3)病院船「博愛丸」の構造・施設・設備

   「博愛丸」の構造・施設・設備についての日本側の史料は未見である。それゆえ今回の史料に記載されていることはすべて初めて明らかになったことである。(9)それによると、

   ・同艦は200人の患者を受け入れることが可能、その内訳は、1室に2段ベッドが1つの将校用の部屋24人分(=12室)。その各室にソファベッドがあるのでさらに12人受け入れ可能(=計36人)。下士官14人分(=7室?)、一般兵卒用の天井が高く換気のよく効いた広大な1室、2段ベッドが並べられており、114人を収容可能(=57台の2段ベッド)。これらの部屋から離れた場所に42台のベッドを備えた伝染病患者用の隔離病室。

   ・治療は通常医療部門と外科部門に分かれている。後者には広大な手術室があり、換気や照明も非常に良く、器具類もすべて揃っている。すべての場所の隅々にいたるまで清潔で、非の打ちどころがない。

   ・医師4人、看護士33人、看護婦11人、全員よく教育されている。

   ・付属設備(浴槽、洗濯場、製氷機、等々)もすばらしいものが整っている。

   ・食事は、希望によって、和食でも洋食でもよい。

(4)通訳の配慮

   傷病フランス兵の広島への輸送が第1便から第4便までであったこと、(10)それぞれの便に患者と日本人医師・看護師との意思疎通のために通訳の配慮をしたことが詳述されている。

(5)広島の病院の様子

   本報告書の最後の段落より前の部分は、主としてフランス傷病兵を日本(広島)へ後送することに至るまでの経緯が述べられているが、最後の段落は、実際に傷病兵を広島に後送した結果、彼らがどのように遇されたかについて、第2便で患者として後送されたフランスの天津駐在武官・ヴィダル中隊長の証言という形で報告されている。具体的には、広島の病院の設備の立派さ、優れた医師陣、食事に対する細やかな配慮、皇室をはじめとする各界からの慰問および贈答品、葬儀の荘厳さおよび葬列への市民の参列、帰国兵に対して皇后陛下から義肢の贈与があったことなどである。これらのうちの大部分は、これまで筆者が紹介してきた日本側史・資料でも言及されている事柄であるが、(11)食事に対する細やかな配慮の例として、「東京の一流ホテルのシェフが派遣されていた」のような記述は初見である。

(6)日本の人道主義の評価

   これまで筆者が紹介してきた日本側史・資料によって、日本の当時の指導者たちが欧米先進国から日本が彼らの国に引けを取らない国と認められようと最善の努力をしていた様子は明らかになっている。なかでもそれら先進国の間で重んじられている国際的人道主義の精神を日本も尊重していることを目に見える形で表すのに、フランス傷病兵の受け入れは良い機会ととらえられ、受け入れや治療の責任体制が当初の民間団体・日本赤十字社から政府自身(具体的には陸軍医務部所属の陸軍病院)へと閣議を経て変更され、種々の細かな配慮がなされたことが明らかになっていた。(12)

   そのような日本側の配慮が、当の先進国側からどのようにみられていたか、具体的に言えば、広島の病院でのフランス傷病兵の待遇がフランス側からどのように評価されていたかは十分には明らかになっていなかった。自身が広島の病院で70日間の入院生活を送りフランスに帰国した兵士アントナン・ジャックマンAntonin Jacquemanの私信(13)や、治癒後帰国する兵士の送別会における兵士代表の謝辞の新聞記事(14)などを通して、治療を受けた当事者たちが上記のような日本側の配慮を好意的に評価していた様子は伺うことができていた。しかしフランスの責任者たちの直接的な評価の言葉などは未見であった。本報告書では、「我が傷病兵たちが日本の為政者および全国民をあげて心を込めて懇切に待遇されたということ」、「日本人医師や将校が日本人将兵たちに対するのと同様に、我が将兵たちに対しても献身的に振る舞ったということ」を強調し、「かくして一番最後に近代文明の仲間入りをした彼らが博愛精神の手本を示したのである」と述べ、最後に「実際、我が近代文明の誇りとする人類愛に基づく連帯の精神を、日本人ほど忠実に実行に移した国民はヨーロッパにはない」と最大級の賛辞で報告書を締めくくっている。

 

4.報告書の執筆者について

 本報告書には、文書の宛先、作成者名(執筆者名)、文書作成年月日の記載が無い。表紙に手書きのタイトル「渤海湾(1900年6-8月)における軍事行動中の保健部隊の医療業務報告抜粋Extrait d'un rapport médico-chirurgical sur le Service de Santé pendant les opérations militaires dans le Petchili (Juin-Août 1900)」が記されており、それが四角い枠で囲まれている。(図版1参照)その枠内に丸いゴム印が押されており、円形に沿って「国防省MINISTERE DE LA GUERRE/陸軍参謀本部ETAT MAJOR DE L’ARMEE」の文字、その内側に「古文書部ARCHIVES/HISTORIQUES」という2行にわたる文字が読める。また、左下には四角いゴム印が押されており、4行にわたって文書のジャンル、分類番号が記されている。それぞれ数字(「27」、「5」、「6」)の部分は手書きの書き込みである。

「中国派遣軍関係Expédition de Chine」

「書類番号Dossier 27」

「ファイル番号Chemise 5」

「文書番号No 6」

本報告書は他の数10点の史料と一緒に1つの箱の中に収められており、その箱には「GR11H27」というフランス国防史料館の分類記号・番号が付されている。

 タイトル「報告抜粋Extrait d'un rapport …」から判断すれば、誰かが誰かに宛てた報告書の抜粋であるが、抜粋でないより詳しい報告書が別に存在するのか否かは不明である。宛先はゴム印に「陸軍参謀本部」とあるので、陸軍参謀本部長か国防大臣ではないかと推測される。

 肝心の執筆者についてであるが、執筆者の立場・身分を推測させるいくつかの文章が報告書の本文内にみられる。たとえば、

・ 「私がサイゴンへの後送を断念したのは、重傷患者にとっては死刑宣告にも等しいと確信した結果の最終的な決断であった。」(後送先を決める最終責任者)

・ 「海軍司令長官Amiralが私を「博愛丸」に派遣したので、私は細心の注意を払って同艦を検分した。」(司令長官の部下)

・「司令長官は私に紹介状を持たせて、「常磐」艦上にある日本の常備艦隊司令長官・東郷提督のもとに派遣した。」(司令長官の部下)

・「彼らは我が国の傷病兵を日本の病院へ受け入れることを保証してくれただけでなく、私が望むだけの人数を送るようにと非常に親切に勧めてくれた。彼らはどこの病院がいいか私に選ぶようにと言ってくれた。私は広島の病院を望んだ。」(日本側からみてフランス側のかなりの責任者)

・「私が「常磐」を訪問した翌日東郷司令長官は私のもとに一人の将校を派遣し、日本政府が喜んで我が国の傷病者を受け入れ、彼らが快適に治療が受けられるために最善を尽くすと改めて保証してくれた。」(日本側からみてフランス側のかなりの責任者)

・ 「私は先立っての滞日経験において、日本人医師の技術水準の高さから言って、彼らによる治療はヨーロッパの優秀な病院のそれと比べて遜色がないということを知っていた。したがって司令長官は私に、我々がすでに収容している患者およびこれから収容するであろう患者を広島に移送することを躊躇することなく許可した。」(滞日経験者、司令長官の部下)

などである。

 日本側の史料に、「佛國海軍少将クールジョールハ我が艦隊司令官ニ對シ同國患者ヲ博愛丸ニ収容センコトヲ依頼セリ」(15)とあるので、フランス側の最高責任者は海軍少将クールジョールCourrejollesであった。本報告書中で「海軍司令長官Amiral」と呼ばれている人物も、文脈から判断すれば、フランス側の現地最高責任者だと思われるので、名前は明記されていないが、クールジョールのことだと考えてよかろう。(16)

 したがって本報告書の執筆者は「クールジョールの直近の部下」とみて間違いなかろう。上に引用した文章のなかには、後送先決定の最終責任者ととれるものもあるが(たとえば最初の引用文)、その私の最終的な判断を最終的責任者である司令長官が採用してフランスの最終結論とした、と解釈することは不可能ではないと思われる。執筆者と推定される「クールジョールの直近の部下」の氏名は今のところ詳らかにしないが、フランス側の史料を調査すれば自ずから明らかになるであろう。

 

 

(注)

(1)日本では北清事変と呼ばれている。

(2)パリのChâteau de VincennesにあるService historique de la Défense(略称SHD)の日   本語訳としては、「フランス防衛省国防史編纂部」(中津匡哉訳)、「国防史編纂部 (フランス軍)」(Wikipedia)などがある。「Service」の訳し方であるが、実態が古文書館的なものであるので「資料館」と訳しておく。(なお、大使館広報部に問い合わせたところ、定訳は無いが「フランス国防史料館」でよかろう、という返事をもら   った。2016.1.22)

(3)長崎の稲佐の「ロシア村」にあった病院のこと。

(4)現ダナン市

(5)横浜にあったフランス海軍病院。日本における諸外国の海軍病院のなかでも最も早く開設されたフランス海軍病院は1864年6月に建設が開始されている。

(6)日本側の受け入れ責任体制が、閣議決定により、民間の日本赤十字社から日本政府に変更されことを通知したものと思われる。原野昇「負傷フランス兵広島で治療の経緯」、『仏蘭西学研究』35号(2007年)、p.43.

(7)陸軍軍医学校教官三等軍医正・芳賀榮次郎のこと。前掲論文、p.43.

(8)「明治三十三年 清国事變史附録第三 人馬衛生業務」。原野昇「負傷フランス兵広島で治療の経緯」、『仏蘭西学研究』35号(2007)、pp.42-43参照。

(9)「博愛丸」に関する史料を博捜すれば、その構造・施設・設備についての記録も見つかるであろう。

(10)「北清事変と広島病院(1)」によると、7月21日から9月7日(いずれも広島、宇品港到着日)の間に5回にわたり、博愛丸と弘済丸が交互にフランス兵合計122名(内2名はオーストリア兵)を広島まで輸送したことが記されている。「7月21日には博愛丸が37名、8月6日には弘済丸が21名、11日に博愛丸で57名、20日に弘済丸   が2名、9月7日に弘済丸が5名の合計122名(内2名はオーストリー兵)を宇品に輸送しました。」

「彰古館往来」、陸自三宿駐屯地・衛生学校<シリーズ78>、「自衛隊ニュース」2008 年8月15日号(http://www.boueinews.com/news/2008/20080815_9.html)。

本資料との間に1回分のずれがある。

(11)本稿冒頭に掲示した諸拙稿参照。

(12)同上。

(13)原野昇「1900年に広島で治療を受けたフランス人兵士」、『仏蘭西学研究』35号、(2007年)pp.10-25.

(14)原野昇「広島における負傷フランス兵の待遇」、『仏蘭西学研究』36号(2010年)、pp.3-15.

(15)原野昇「負傷フランス兵広島で治療の経緯」、『仏蘭西学研究』35号(2007年)、pp.42-43.

(16)クールジョールの肩書きとして日本側史料(戦史)では「海軍少将」となっているが、Amiralがそう訳されたものと思われる。いずれにしても将官であり、フランス側の現地最高責任者はAmiral Charles Louis Théobald COURREJOLLES(1842-1903)であった。http://www.comitequartiersaintpierreamiens.fr/543+amiral-courrejolles.html参照。

 


図版1

(図版1)表紙ページ



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