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龍声1

 

 

 

 

 

 

 

 

龍声

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Lê Th Nhgĩa レ・ティ・ニア は想いだす。光の温度、ベトナム、その、熱を孕んだ、見上げられた雨空の下で、東京の雨が Nhgĩa だけを濡らした。

大津寄皇紀にだけ傘を差してやり、Nhgĩa は殆ど体中の全部を雨に濡らすのだが、見上げられた眼差しに雨粒が落ち、小さな、その無数の痛みとまで呼べない、しかし確実な痛点のざわめきが、眼の周りを埋め尽くす。

ときに部厚いはずの皮膚さえも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうした?と、皇紀は言ったに違いなかった。その無言の気配に、皇紀を振り返って、顔を拭った手のひらが散らせた水滴は、皇紀の眼の下、頬の上部に撥ねた。

皇紀は立ち止まりもせずに Nhgĩa に、その上目遣いのうちに微笑み、何かへの返答として、うなづいた Nhgĩa を見た。

6月の雨は降り止まなかった。

あと数日で7月が来る。そんな事は、日付を忘れない限り、誰もが知っている。季節も、日付もなにもかも、無意味にしてしまわずにはおかない、むしろ永遠に降り続く気さえする細かな雨が、かすかな冷たさをはらんで、この一週間、わずかな中断をだけはさんで降り続いた。

桜桃会の軍服を着た皇紀は美しい。

人種としての美の好みを超えて、たしかに、それを美しいという感性があるに違いないことを確信させる、明確な美の根拠を、皇紀は曝した。耳の中に騒音が在って、それは、雨の群れが執拗に周囲をたたき続ける、その、微細な暴力の無際限なまでの集積であるには違いない。

高尾山散策は、明日の自衛隊員との合同合宿下見を兼ねた。もっとも、公式な合同合宿などではない。自衛隊の中の、ごく特殊な、汪たちへの賛同者の数名が、桜桃会の合宿に参加するに過ぎない。

合宿は自衛隊本部に対してはもちろん絶対に秘密だったし、非公式のものに他ならない。とはいえ、本部の何人かが知っていることも、皇紀たちは知っている。黙認するどころか、非公式に推進させるそぶりさえあった。

これは、桜桃会の剣道大会を参観したある陸上幕僚部の人間が匂わせたことだった。汪はめいっぱい、その誰にも本名を名乗ろうとしなかった男に媚を売ったが、自衛隊にも、見せてやりたいくらいだ、と、その《ユキオ》は言った。「この、君たちの、本気の修行をね」声を立てて笑い、それが本気での言葉でないことなど誰にでもわかる。

かならずしも、剣道としては大したことが行われているわけではない。奇声を上げ竹刀を振り回したちゃんばらごっこに過ぎない。「もっとも、そんなことは絶対に、出来ませんが、ね?」念を押して目配せを、汪に、そして皇紀に流した、彼の真意は測りかねた。

知ってるんだな、と、それだけ皇紀は確信した。

雨が葉の群れをうち、樹木をうち、草をうち、土をうち、山の匂いと、雨の水それ自体の匂いとを、おもしろいように掻きたてる。

目の前で、大気は倦んでいた。樹木と、土と、水の、夥しい臭気の群れにむしろ埋没し、それらは沈殿するしかなかった。

Lê Th Nhgĩa、その、汪たちが Nhgĩa-義人と呼んでいたベトナム生まれの男は、相変わらず故国を愛していた。それは、強烈なまでの愛だった。すくなくとも、Nhgĩa-義人はそれを自覚していた。

日本に対する憧れがなかったといえば嘘になる。初めて成田の到着ロビーの床を踏んだときに、その、自分が踏みしめた一歩に、確実に到達した先進国の息吹を感じた。ささやくような日本語の高速度の音声の群れが周囲の低いところに漂って、端整で、独特のくせがある建築と照明が視界を埋めた。枯れたような、澄んだ匂いが空気にあった。海外旅行帰りの、いかにも高級品めいた女たちが、つま先だって歩くような早足で、標識に迷う Nhgĩa-義人を置き去りにしていった。

国の方針がそうだったから、と言えばそうであるには違いなかった。日本は、アジアの中で唯一まともな国であるべきだった。中華人民共和国と、その現在を名乗った国家は、何千年にもわたって、ただ緊張だけを故国に与えた。朝鮮半島は、半分は縁もゆかりもない外国に過ぎず、半分は、ふしだらでさえある軽蔑的な眼差しを曝した観光客たちの母国であるに過ぎない。

結局のところ、消去法で日本しか残らないだけ、と言えばそうとも言える。

いずれにしても、日本に留学して帰ってくれば、それ相応のチャンスに、故国でありつけるのはまったき事実だった。

小さな国だった。

巨大といえば巨大なビルが立ち並び、大きいといえば大きな車道が都市を分断するが、人々はその大きいはずの都市の中に、むしこ小作りに生活していた。

その日も、東京は雨に濡れていた。

いつも、雨の降る日に、Nhgĩa-義人は故国の熱を帯びた光を想いだす。東京の夏の日差しにもない、光それ自体の発熱を。ベトナム、それは留保なく美しい国だった。

茂った松の木の下に、皇紀は宿った。自分の軍服に散った水滴を撥ねるしぐさをし、Nhgĩa-義人を見て笑ったが、もはや吸えるだけ雨を吸ったNhgĩa-義人の軍服は黒ずんで、重量をただ、その身体に預けた。

向うに見える渓谷を、皇紀の指先は差していた。あそこだよ、と。明日、谷間にロープを張った、ロープ渡りの訓練をするのは。

雨。日本は、雨に濡れたときが一番美しい、と、Nhgĩa-義人は想う。細やかな雨も、霧のような雨も、大粒の雨も。むしろ、視界のすべてを白濁させてしまうほどの、土砂降りの中の風景を、Nhgĩa-義人は愛した。

樹木の下にあっても、傘を外さない Nhgĩa-義の、その手にさえ触れながら皇紀はそれを制して見せたが、どこかしらの遠くに、水流の音が立つのは、清水が立つからなのか。

探し回れば、岩を割った水源が、にごりようのない清水を曝していたかも知れない。

傘の水滴を掃っていれば、背後に、樹木の下に立った皇紀の、龍笛の鳴るのが聴こえた。空間を切り裂くような、細く鋭利な音響が、山間に木魂しを作って、それらは連鎖のうちに、それぞれに消滅しては、重なり合いながら生成した。

竹の笛は、湿った空気の中でこそ、よく鳴り響く。

それを、Nhgĩa-義人は確認した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桜桃会の日野市道場に帰って、濡れた体を洗い流す。寒気が、体の中のどこかに巣食う。雨に当たりすぎたかも知れない。Nhgĩa-義人は、脆弱な自分の肉体を、ただ、自分に恥じなければならない。

日野市の外れ、多摩川沿いの小柄な一棟ビルを借り切ったその道場の、食堂に下りるとラオスから来たサックが賄い飯の準備に追われる。

会員は、道場で思い思いの鍛錬に耽る。午後十八時、基本的には自由時間だが、なにか遊興に耽るには、時間が惜しい気がする。

Nhgĩa-義人は黙って、バーベルを上げた。

自衛隊員たち有志十一名の合流は、夜の九時のはずだった。まだ時間があった。それに、何かの期待をいだいているわけでもなかったが、彼らに顔を合わせる前に、もう一度自分の肉体を、限界まで苛め抜き、精魂尽き果てておきたい気がした。

自衛隊と言っても、所詮は飼いならされた日本人たちの一人に過ぎない。日本人に多い、いかにも温室で育ったひ弱さを、彼らも総じてさらしている気がした。

自室に篭ったきり、皇紀は姿を現さない。

笛の音さえ聴こえない。花でも活けているのかもしれない、と、Nhgĩa-義人は想った。そして、あの、実際には女性のものに過ぎない身体が、明日の合同訓練の中で、痛めつけられ、なんども悲鳴をあげるに違いないことは、すでに予測がついている。これまでいつもそうだった。いつだったか、崖に張った長いロープを上りながら、その中ほどで皇紀の肉体は汗に塗れた。苦し紛れにもがく四肢が、誰のものよりも激しくロープを揺らし、下から、無意味に突き出されて、無様にもだえる尻を見上げた。暴れるたびに細かいものも、それなりの大きさのものも、剥離した石片が転がって落ち、土が落ち、ほこりさえ舞う。乱れきった荒い息が、耳にまで聞こえる気がした。どうやっても、その頂まで這い上がることは不可能に違いなかった。

他の会員は次々に、それぞれの時間と、それぞれの体力を消耗させながら、崖を上がる。最早ぶら下がるようにしてロープをつかんだまま、身体全体を小刻みに痙攣させることしかできない皇紀は、一人、取り残される。一瞬ずり下がって、手を放しそうになって、再びつかむ。

そのとき立てた、苦し紛れの奇声が、力なく、それでも山を響かせた。あの日は晴れていた。午後の、容赦のない日照が、皇紀の体全体を灼いていた。

結局のところ、引き上げられるに違いない皇紀には、もちろん会則に基づく制裁が待っているのだし、それをするのは Nhgĩa-義人の仕事だった。

その、体罰は皇紀の消耗しきった肉体を、崩壊寸前にまで追い込むに違いなかった。

崖を上る Nhgĩa-義人が追い越しざまに眼差しをくれた皇紀は、もはや失神しそうになりながら、汗なのか、鼻水なのか、唾液なのか、とにかく膨大な、直射日光にさえ乾かない水を垂れ流して、黒眼の焦点を喪失させていた。

Nhgĩa-義人は自分の肉体をいたぶる。その自虐に容赦はない。あえて軽めのバーベルを、ゆっくりと、一秒に一ミリ程度の速度で、上げていった。筋肉は最初の一回の途中で、すでに、内側から発熱していた。

汗が皮膚をふやかせる。

慣れきっていたはずの自分の体臭が、汗に塗れてこれみよがしなほどに匂う。

もはや、精神そのものが、発狂精神疾患などではない、純粋で無慈悲な破壊そのもののすれすれで、ようやく持ち堪えていることを、Nhgĩa-義人は自覚している。

手放してしまえば。バーベルを、あるいは精神を。Nhgĩa-義人はすぐさま、破綻してしまうに違いなかった。無慈悲なまでに、取り返しようもなく。

筋肉、そして、骨格さえもが、そのやわらかい軟骨をも含めて、苦痛にわななく。

バーベルは持ち上がらない。

沈滞したその、震えながら、目を凝らせば確認できるに違いない上昇は、いつまで立っても達成されず、Nhgĩa-義人はむしろ、もっと、と想う。もっと、遅く。

時間を逆流するほどに、もっと遅く。

頭の中では、とっくに、叫び声があがりっぱなしになっている。骨を打ち砕こうとするかのような、それが。

 

4台のタクシーに分乗して到着した自衛隊員は、入り口で、わずかばかりに腕を濡らした水滴をはらった。雨はいよいよ、その勢いを増し、道場の中にさえ、その音響を響かせていた。

会員たちは一列敬礼で出迎え、それを隊員ははみかみながら大袈裟に謝した。

「心が洗われるな」

道場の正面壁に飾られた、《否定即肯定》《一殺多生》《破壊即慈悲》の書を左から順に眼で追い、真鍋英男は独り語散るようにつぶやき、その流された眼差しはNhgĩa-義人を捉え、一瞬のお互いの凝視を確認した後で、快活を装って、二人は笑った。

その書は、皇紀が、知り合いのつてを手繰って、ある盲目の書家に書かせたものだった。

白内障で視力を失ってから、六十年以上たつと言う、その八十を超えた書家は、岐阜の山村のアトリエの中で、それらの言葉を依頼されたときに、煙草をすい、吐き、加齢のためなのか、褐色の濁りさえ帯びた白い黒目をそのままむけたままで、煙草を灰皿に棄てようとして、畳ちかくの低空を、煙をたゆたわせながらさまよわせ、見つけられずに、探し当てられないのを手にとって、皇紀が導いてやったその数秒後に、「君たち、右翼?」

言った。笑うように、陽気に、「僕、右翼、嫌い。」

思わず、単身書家を尋ねた皇紀さえ、つられて笑って仕舞ったのだが、「だからね、書けない。帰って。」皇紀は懐の短刀を、書家の喉下に押し付けた。

その、もう少しだけ力を入れさえすれば、老いさらばえた皮膚なら血を流してしまうかも知れない、そのすれすれを維持し、「困ります。」皇紀は言った。

書家は息を止め、その見えない眼は皇紀を無言で凝視する。「書くか、首を掻かれるか、どちらですか?」

書家の、数本の鼻毛を曝した、鼻の穴が、息遣うたびにほんのかすかな開閉を見せていることに、皇紀は気付く。枯れた、書家の体臭が、匂う。

「書きますよ。あなたは」首から刃をそっと放しながら、皇紀はささやき、「間違いなく」あの

皇紀の、思いあぐねたようなその声を、書家も聴いたに違いない。「見えますか?」

「何が?」

「これ。あなたの」書家の目の前、こめかみすれすれにあわされた短刀の切っ先を、ゆっくりと、左眼の、白濁した黒眼にそらして、ん?書家は言った。

「ナイフ?」

「そう、小刀

「いい、ナイフ、ね。手入、完璧、ね。」見える?皇紀が、独り語散るようにつぶやくのを、書家は声を立てて笑って、「見えない。」けど、「わかる。なんとなく」

立ち上がると、一度、背伸びをして見せながら、奥に引き込んだ。ややあって、奥に控えていた介護士に手伝わせながら書家が持ってきたのは、墨さえ未だに生乾きの、その三点の書だった。

言った。「どう?」傑作でしょ。

皇紀は、声さえ立てずに、微笑みを返した。

蝉の声は盛大に連ら鳴っていた

 

サックが用意した食事が、道場に並んだ。手先の器用なサックは、新宿御苑近くの料理屋で、厨房係を勤めていたから、宴会の食事はいつも彼の仕事だった。

隊員に酌をしながら、中国から来た李浩然は敬礼して回った。受身の天才、と、Nhgĩa-義人は彼をそう呼んだ。綺麗な一本を決めかけても、畳にたたきつけられるどころか、彼の、水を流したような受身はすべての衝撃を流して、その痕跡をさえ身体に残していないはずだった。その代わりに、彼を投げた腕は絡みついた足に締め上げられ、指先から首にかけての筋はその全部が悲鳴を上げる。見事なものだった。

「重要なのはね、」と、加賀隆一郎が言った。「君たちが、ね、僕らの作法をどれだけ勉強してるかじゃないんだよ」道場にしつらえられた歓迎の宴は、「そんなのね、」静かな声がただ、とぐろを巻いて、「お勉強だから、ただのね。」それはNhgĩa-義人には心地よかった。「日本語のお勉強と一緒

お前が、天皇陛下のために死ねるかどうか、それだけ。そう、目の前の隆一郎は「腹切れるのか。作法としてじゃなくて、」若干の酒気を帯びたその息を「本気で、陛下の御為、それだけのため、」好き放題に吐きかける。「最後の一線を、喜んでNhgĩa-義人の顔に。「喜び勇んで、超えられるかと言うことなんだよ」

「精神の」しぇしんにょ「問題、ですね?」もんじゃいじぇっね Nhgĩa-義人の声に、うなづいて、「そう。」

傍らに、フィリピン人のジョセフは相槌を打ち、「わかる?俺の日本語、わかる?」不意に問うた隆一郎に答えた。えー「ええ、わかりまっ「わかります」

「御玉体ぬきの護国思想はね、まがい物だからね。」雨の音が、それらの「そんなものは単なる政治思想に過ぎんよ」話し声の低い連鎖の下に「まず、玉体、最後も、玉体」ざわめき続けていた。Nhgĩa-義人は「君たちのほうがよくわかるだろう?」その両方の音に「陛下に勤皇することの困難さが、だよ。」耳を澄まし、それらの耳の中の「日本人は、すぐに陛下は天孫にあらせられると、」奇妙な共存を楽しんだ。皇紀は「そう、すぐに勘違いするんだよ。」まだ、姿を現さない。「それは違う。」それは隊員たちに対する「断じて違う。」失礼には他ならないのだが、「陛下は人に過ぎない。」誰もが皇紀を特別扱いしていていたから、「神秘主義というかね、オカルトというかね、そんなものに、ね?」隊員たちすらもが、気が向いたらその「陛下を穢さしめるのは、断じていかん。」姿を現して見せるはずの「神は神、人は人、」皇紀を、待つでもなく「これは事実に過ぎないんであってね、」待たないでもなく、ただ、心のどこかで「にも拘らず、陛下は神にあらせられるんだよ。」その存在を意識しているだけだった。「御玉体、神にあらせられず。」隆一郎にもう一度、「そんなことは当たり前だし、」Nhgĩa-義人は酌をしてやり、空になっていた「誰も緒が知っているんだよ。」その杯を満たしてやれば、一滴さえ「君にとってもそうでしょう?」こぼさないように、かすかな揺らぎを「外国人でしょう?君たちは。」その表面の張力に危うく「君たちのほうがよくわかるでしょう?」震わせながら、やがて、「陛下は人に過ぎぬ。」唇に触れた杯は「故に神なり、というのかな、」一気に喉に酒を流した。Nhgĩa-義人は、微笑みつづけながら隆一郎を見、その傍らの吉沢家納を見、交互に見返し、彼らが結局は、自分たちが彼らの言っていることなど一切理解できてはいないことを、確信してさえいることには気付いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


龍声2

「大津寄を、呼んでまいります」不意に、おちゅきお Nhgĩa-義人は よんじぇまりまっ 言って、席を立った。いいよ、よせ、いいから、と派手に気兼ねして制する隆一郎たちに一度頭を下げ、最上階の、居住階に上がった。

そこは、元のビル・オーナーたち家族の住居だったに違いなかった。5階建ての、その5階と、たぶん違法に建て増しされた屋上の一部屋が、桜桃会の、合宿時の居住スペースだった。

もっとも、道場の畳の上に蒲団を敷いてねるのを好んだから、もっぱら、食事と汗を流す用に供するにすぎない。

一応は汪のための社長室があって、皇紀のための個室も確保されてはいた。

皇紀は、そこで寝泊りしたことはない。

道場で起き、道場で寝た。

階段しかない事が、このビルが、空いていた主な理由だったかも知れない。交通の便に優れず、人通りもなく、店舗にも不向きだった。そして、築は50年近かった。

薄汚い壁を、無数のクラックが這った。

皇紀は部屋の中にいた。花でも活けているのかと想っていた皇紀は、ただ、開け放った窓辺に立って、吹き込むかすかな風と、撥ねた水滴に、自分を曝していた。

振り向きもせずに、だれ?そう、皇紀が言った気がした。「Nhgĩa-義人です」

「義人?」

「はい」そう、と、皇紀の唇が、その音声をゆっくりと吐いて、皇紀は気付かないには違いないが、この部屋は明らかに、女の匂いを篭らせている。Nhgĩa-義人はそう想った。皇紀の身体が、女のそれに他ならないことは事実であって、入浴後の、短パンと シャツの皇紀の後姿は、皇紀が何と言おうが、たんなる美しい若い女のそれに過ぎない。

窓の外に、雨が匂った。

「雨がやまない」

皇紀がつぶやいた。

その、女声の、つややかな声が、Nhgĩa-義人の耳に匂う。あしたも、そう頭の中だけで言いかけて、Nhgĩa-義人は沈黙した。雨だろうがなんだろうが、明日、土砂降りの中であっても、いや、むしろ土砂降りの雨をさえ喜んで、訓練は実施されるに違いない。泥に塗れる。容赦なく、肉体を穢れた、細菌をめいっぱい繁殖させた泥に穢す。

濡れた土の匂いさえ、匂った気がした。

振り向いた皇紀が匂いを残しながらNhgĩa-義人の傍らを通り抜けて、使われたことのないベッドの上に放り投げられていた笛袋を取った。Nhgĩa-義人は胡坐をかいて座る。部屋の中には、見事に何もない。ただの部屋という空間であるに過ぎない。それが、ただ、それが部屋であるという事実だけを曝した。

「吹いてやる。聴け」皇紀が言った。

皇紀が吹いたのは、Nhgĩa-義人が何度も聞かされた、《蘭陵王》の《小乱声》だった。

狭い空間の中に、躯体を明らかに持て余した龍笛の響きが、四方にぶつかり合って、おもしろいように反響した。もはやそれは雑音そのものに過ぎない。

閉ざされた空間を嫌った音響が、のた打ち回って暴れる。耳を傷つけ、背後に降り止まない雨の湿気の気配の触感があった。

故国。そこは真新しい国家が統治していた。その国家を、人々は国体と信じて疑わず、ときに、現行政府への罵詈雑言が、酒宴において発された。

Nhgĩa-義人の祖父は戦争を語った。それは長い戦争だった。最初は日本兵との。そしてフランス軍との。やがてはアメリカとソビエトを、お互いの背後に睨んだ仲間撃ちが始まった。銃弾がベトナム人らしきもののお互いを射殺しあうが、それらはあくまでもアメリカ兵として存在し、あるいはソヴィエト兵として存在した。

お互いが、自分たちをベトナム人として語っていることは知っていた。もっとも、そのベトナムと言う国体の名前さえ、かつての名称を語った、とりあえずの名称に過ぎない。

いずれにせよ、どちらがどちらを敗走させ、どっちに勝利が転がり込んでも、それがベトナムの勝利であることには違いなかった。

中国が侵攻し、やがてカンボジアとの戦争が始まった。銃口が冷える間さえなかった。

多くの外国人たちが、自分のことのように、そのベトナムを語っていることさえ、彼らは知っていた。

カメラをぶら下げた外国人たちは、街中を徘徊し、吹き飛んだ死体と泣き叫ぶ子供たちにカメラを向けた。

いま、急激に解放された経済市場が、外国人たちに、もう一度その国を踏み荒らすことを許した。

美しい国です。Nhgĩa-義人は皇紀にそう言ったことがあった。一度、ベトナムに来てください。あなたに、美しいアオヤイをプレゼントします。言ったあとで、皇紀が男であることを想いだした。

龍笛が、上ずった音響を、耳の中にたてていた。

Nhgĩa-義人が桜桃会を知ったのは、日本語学校で知り合った台湾人の女が、生け花の教室に誘ったからだった。

受講料無料のその教室は、赤坂の氷川神社の一室を借りて行われていた。

講師は皇紀だった。着付けに身を包んで、女だ、と言っていた。事実、彼女は美しい女だった。

桜子、と言った。

何回か通って、正座に慣れてきた頃にころに、いいね。桜子は言った。あなたの花には、芯がある。

「芯、しん、シン、わかる?」

言った、至近距離の桜子の、着付けの絹が、衣擦れの音をかすかに立てながら、匂った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Nhgĩa-義人は、皆が寝静まった後に、道場を抜け出して、バイクに乗った。それはYAMAHAのスクーターに過ぎない。買い出し用に用意された、メーターが140キロまでしか刻まれていないものだった。故国に残したSUZUKIのバイクは、妹が、たぶん、乗り回しているに違いない。

いつでも40キロ以下の低速で。

野猿街道を走った。

疎らな車の群れを、おもしろいように追い越していく。100キロを超えてしまえば、それ以上など代わり映えのしない風景に過ぎない。エンジンが覚醒して、背後に騒音を消え去らせていく。戯れに対向車線にはみ出して、衝突すれすれ迂回する。クラクションがかき鳴らされるが、もはや手遅れに過ぎない。撚れたハンドルは車体をガードレールにぶつけそうになったに違いない。

十二時を回っていた。

街頭の群れが路面をオレンジがかって照らし出し、ヘッドライトが見向きもされないわずか前方を光に染めているには違いない。エンジンが落ちる堕ちる寸前のスピードを維持し、濡れた路面と戦う。

ハンドルと、タイヤがわずかに連動しない不意の瞬間が、車体に緊張を走らせた。感覚にすべてが速度に一致し、その一方で吹き荒れる風圧になぎ倒されそうになる車体と戦った。

眼の端に流れ去る流線型の、風景の残像がある。ブレもしない、そして永遠にたどり着けない正面の一点は揺るがない。

もっと。

Nhgĩa-義人はハンドルをまわす。

早く。もっと。その瞬間、ビニール袋らしい何かを巻き込んだ車輪が一瞬自由を失い、水を撥ねながらタイヤがすべる。もはや自由はない。固まったハンドルがNhgĩa-義人を拒絶し、Nhgĩa-義人は中に舞った。

 

雨が打ち付けていた。ガードレールにぶつかって、ガードレールごと大破したスクーターの前輪だけが、未だに惰性の回転をやめていないことには、気付いていた。背中に、そして肩に強烈な痛みがある。やがては、体中が、骨格さえも含めて、鮮明な苦痛に満たされていることに気付いた。

あの瞬間、最早運転を諦めたNhgĩa-義人はスクーターを蹴って、路面に受身を当てたのだった。一瞬の、わずかなぶれがあった。それには自覚があった。ともかく、Nhgĩa-義人の身体は綺麗に路面を転がってみせ、もちろん、体中に細かな傷をきざみつけながら、その速度と力を分散させた。

一瞬に過ぎなかったが、Nhgĩa-義人はそこに、すさまじい闘争の現実を実感した。路面に回転しながら、肉体は何かと戦っていた。一瞬たりとも気を抜けない、わずかな失敗がすべてを破壊するに違いない、その闘争を。

肉体は、やがて路面に静止した。

路面に転がって、Nhgĩa-義人は十秒以下の、数秒の間、息遣い、鼓動を確認し、整えようとし、やがて、四肢をゆっくりと伸ばした。仰向けの体中を雨に、曝した。

眼は開けなかった。

何キロだったろう?大した速度ではない。120キロか、それを、すこし上回ったくらいか。

雨のなかに、ガソリンの匂いをたてながら、スクーターがその残骸を曝す。

俺は生きている。Nhgĩa-義人は想った。俺の肉体を、壊すことは出来なかった。それに、Nhgĩa-義人は満足した。

向うから来た車が、ハンドルを切り損ねてガードレールにすれ、スクーターを蹴散らす。悲鳴のような叫び声を立てながら、男が飛び出してきた。死んだように目を閉じて、肉体の苦痛を、寧ろ快く味わっていた Nhgĩa-義人を、揺り起こしていいものかどうか、触れることさえためらいながら、彼は救急車を呼んだ。

慌てふためくその男を、この日本を占拠する、日本人という名のまがい物たちに共通の家畜根性だと、Nhgĩa-義人はその口元にちいさく罵った。

 

雨の中に行われた訓練は、Nhgĩa-義人が想ったとおり、皇紀を追い込むだけ追い込んでいた。

入院さえしなかった Nhgĩa-義人は、午前のうちに病院を出て高尾山に向かったが、軽傷の祝福をくれる会員たちの向うの木陰に、皇紀の残骸が、転がっていた。

失心しかかった皇紀を正気づかせるために、何度も水が掛けられたに違いなかった。バケツは皇紀の頭の先に転がって、雨をため始めていた。

皇紀は何かの発作を起こしたかのように荒く息遣いながら、仰向けで、雨に打たれるだけ打たれていた。

 

自衛隊員たちは、片言の日本語で会員たちと歓談し、午後の訓練に備えた。

制裁は、Nhgĩa-義人の仕事だった。失神と覚醒を繰返す皇紀を無理やり立たせて、濁った緑色の訓練着の上半身を剥く。隊員たちは見なかった振りをした。それはいつものことだった。皇紀の厳重なさらしが巻かれた素肌が雨にじかに濡れた。後頭部に、後ろ手に組んだ皇紀が、ふらつきながら一度 Nhgĩa-義人を見て、そのまま、背中を向けた。Nhgĩa-義人の木刀が、一振りごとに容赦なく皇紀の肉体をへし折って、泥水に投げつけた。肉体は悲鳴さえ立てない。Nhgĩa-義人の肉体には、まだ昨日の痛みが鮮明に宿る。顔まで泥につけた皇紀の髪をつかんで、立てあがらせ、倒れようとする瞬間に、次の一振りをくれる。息を詰めたまま、呼吸困難に陥って、皇紀の身体がえびぞりのまま痙攣を見せた。Nhgĩa-義人の肉体も、苦痛に塗れているのは事実だった。その一挙手、一投足のたびにティン・ニュンによって、もはや空中に投げだ捨てるようにして立ちあがらされた皇紀の、立ち上がれもしない身体を、上から打ちのめす。傷付いた筋肉が軋んだ。泥を喰った皇紀の喉が、泥水の中に咳き込んだ。会則どおりの、30振りの木刀を喰った皇紀の、突き上げられた尻が、泥のなかに痙攣した。腹を蹴り上げて仰向かせた皇紀の口が、泥水を吐いた。Nhgĩa-義人は皇紀を抱きかかえ、義人皇紀がつぶやいた気がした。「いま、わかったぞ」え?と、問い返す声をさえたてずに Nhgĩa-義人は聴いた。「殉死とは、生き残った恥ずべき人間が、あえて無駄死にを曝して、ふたたび、生き恥に塗れるということだ。」耳元に掛かる「その、鮮烈な死の瞬間の只中で」熱を帯び、舌をもつらせたささやき声を聞き、何を言っているのかはわからないままに、皇紀の頬に手を当てるが、その、Nhgĩa-義人を見上げた、上気した明らかに女の眼差しに、彼は眼をそらした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

氷川神社のあの広くはない一室に五人ばかりたむろした日本人の女たちのたてた匂いが篭った。体臭抑制のスプレーのけばけばしい乾いた芳香が、夏の汗の匂いに混ざり合って、台湾人の呉麗華は Nhgĩa-義人に目配せをくれた。微笑み返し、その眼差しの意味をは、Nhgĩa-義人にはわからなかった。

目の前で、桜子は花の向うに隠れて、彼女の手の上で花々はかたちを整えられた。

日本人女たちのひそめられた私語がNhgĩa-義人の耳に障り、桜子の着付けが匂いを立てていいた。静かな匂いだった。絹の、その否定し得ない存在だけをむしろ鮮やかに主張する、つつましさが、その匂いにはあった。

地味な、薄い青地に白を主体にした、あくまでもその存在を主張しきろうとはしない色彩が、ただ、華やぐわけでもなく戯れて、音を立てない桜子の身体に引きずられながら衣擦れの音を鳴らすのだが、そのたびに、色彩の、うつろう形態をただ、空間に遊ばせる。

それは単なる、子どもじみた戯れに見えた。そして、彩のない和室の地味な色彩の中で、着付けは一切の派手振りを否定して、眼差しの中に沈み込むように存在したが、見つめるNhgĩa-義人の視線は、いつか、そこに生き生きとした色彩の息吹を気付かずにはいられなかった。

着付けと、それをまとった女と、花と、それらが存在した空間が、いま、完全に戯れあいながら、そこに、自らの存在を主張することなく、むしろ沈黙のうちに、それぞれの存在を自覚していた。

日本人女たちの薬品くさい臭気の中に在ってさえ、それらはただ、美しかった。

桜子の手に触れた鋏が、花を、葉を、断っていった。そのたびに、そこに留保無き破壊と、死が、これ以上ない明確さで刻まれていくのを、Nhgĩa-義人の眼は確認した。

はさみの音が耳に残った。

女が持ったから、はさみは美しいのか。はさみを持ったから、女が美しいのか。それには答えようとする色気さえ持たずに、ただ、はさみは無慈悲なまでの殺戮を、そこに刻む。

桜子がはさみを置いて、ややあって、その花をこちらに向けたときに、そこには確かに美、そう呼ばざるを得ないものが、無造作に撃ち棄てられていた。

右側にだけ、乱れがあった。乱調に他ならないふてくされたような暴力が、白く小さい無数の花々を空間に散乱され、為すすべもない破綻の中に、それら、白と緑のグラデーションは沈黙した。むしろ、鮮やか過ぎる沈黙が、不愉快なまでの感興をそそるのだが、それが背後に流れていきながら、左側には凛として超絶した、緑と白百合の孤独が華やいだ。華やぎきったそのれらの色彩と形態の私語の群れは、何をも語りかけようとしないから、それはまさに、描かれた静寂に他ならなかった。

風景の向うに、女がいた。

桜子だった。

桜子は目を上げなかった。

蝉が鳴った。その音響が連なりあって、背後、神社の裏庭には、夏の昼下がりの日差しの白い反射光が、あふれかえっているに違いなかった。

あきらかに時間は停滞していた。

何のきっかけがあったと言うわけでもない。

ややあって、ようやく目を上げて、誰にと言うわけでもなく桜子が微笑んで見せたとき、日本人女たちは毛羽立った声を上げた。桜子を賞賛しいているに違いなかった。ささやきあうそれらの声の大音響は、Nhgĩa-義人には聞き取れなかった。

流された眼差しが、花の風景の向うで、Nhgĩa-義人の眼差しと触れ合ったときに、Nhgĩa-義人は、あふれそうになっていた涙が、ついにこぼれたのを自覚した。

その、いたたまれずにたてた瞬きの瞬間に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.06.18

Seno-Le Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


龍声


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