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はじめに

 今回のご教話でしみじみ思ったのは、まず教祖さまの悟り、神に馴れてはいけないという説明であるが、これを解くためには永遠の燈火昭和十一年度の「大和山神諭」を読まなければならないということだ。

 さとりとは何かが、この神諭を読むことにより一層理解が深まると感じたからである。

 幸い本部に在職中に多くの神諭はデータ化していたが、ソフトの関係からルビは最初から打ち直してようやく完成するに至った。

 また、十一年度版は解説を踏まえて、どう神諭を読めばいいかをまとめていたファイルが残っていた。

 この二つを併読すれば、大和山神諭の読み方が分かって来るので神諭の読み方が分からない人は一読を勧める。

 意外に知られていないのは、初期の永遠の燈火に掲載されている神諭は、降下された大和山神諭の抜粋である。

 だから最後まで掲載されていないため、ある意味では尻切れの形で終わっているものすらある。

 途中から、永遠の燈火用に独自に神諭が降下されるに至った。

 つまり、信徒の方々のために、わざわざ降下されるようになったという経緯がある。

 わたしはデーター化する過程で気が付いたのは、この神諭は最初から信徒の理解が深まるにつれて、段階を経てレベルアップさせるように仕組まれていた。

 だから、降下された年代順に読んだ方が、学ぶ人には理解度が深まるということだ。

 本来なら、昭和八年度から随時刊行したかったのだが、何しろ作業するのは私一人のため、時間と暇がないのが現状だ。

 それでも合間合間の作業の結果、やっと十一年度版は完成に到達した。

 後は暇を見つけて随時刊行してゆく予定である。

 教えから離れた信仰は、根無し草でしかない。

 一人でも多くの信徒方が、真の信仰は何かに気が付ければと、日夜作業を続けている。

 教祖ご教話も父のノートは、後一巻で終わりだろう。テープからの原稿起こしをすれば数冊で終わりである。

 今後も皆さん方の応援に支えられながら、出来るだけ大和山関係の刊行物を発表してゆく覚悟だ。


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信仰は慣れてはならない

教組の話を幾ら聞いても、信仰をしていても救い、お恵みに預からない人がいます。

そういう人は幾ら教えを聞いても心がけ、考え方が間違っているからそういうことになるのであります。

 ただ教祖の話を、上の空で聞いている。それで自分の心、行ないと照らし合わせて考えようとはしないものです。

 それはその人の教えに対する考え方が、間違っているからであります。

 幾らこちらが真っ直ぐに教えても、聞く方が真っ直ぐに聞かなければ、信仰していてもいずれは、曲津神に犯されてしまいます。

 要は拝む者の、心次第であります。ただ、教えを一心に信じて、信仰に励むしかありません。

 神というものは一心に願い、教えに照らし合わせていかないと、その人のために働いてくれないものです。

私は毎日、お参りを欠かしません、だから私にお恵みがあるはずだ、と思っている人もありましょう。だから儲かるはずだと思っても、それは無理な話です。

たとえば一方では働くとしても、朝二、三時から起きて豆腐を作っても、神の力と自分の力が合わなければ儲からない。思うような救いに預かることはないのです。

 ただ働くだけでは、神は動いてくれないものです。

 まずは自分の力と、神の力を合わせるようにすることです。

 そのためには、教えに沿って自分の心を直して行く。

 いつまでも自分の心を直さないでいると、今度は神の方で、お前は知らないに違いない。それではお前の心を直してやろう。そういって生活のなかで、タワシをもってゴシゴシこすってくれます。これでもか、これでもかと、その人の寝ぼけている心に活を入れてくれます。

 これが神がその人に与える、悟りであります。

そうして、神が幾らタワシでこすっても、気が付かないでいると、最後は地塀にぶつけてしまいます。

悟ることが出来なければ、こういう具合になる。

それでそういう人は驚いて、本当に自分の信仰が間違っていたと悟ればよろしい。

そういう人の信仰というのは、恵比須、大黒さまの形のあるものを信仰している場合が多い。

皆さんのなかで、家にそういう物を祀っている人はなど、なるべく早く本部に納めて下さい。

本部では、年に一回お焚き上げで処分しています。

そういう具合にすると、家に病人がいる人は治ってしまいます。

それではどういう人が、教祖の話を上の空に聞いているか。

それは、欲を持った信仰者です。欲のある信仰というのは、なかなか自分の心を直せない。

悟ることすら出来ません。本当の信仰にたどり着くには、まず欲を捨てることです。

そして、自分の心を直してゆくことです。

それぞれ人の信仰の在り方に従い、神の判断によりそれなりの試練を与えられるものです。

それは、先祖代々の罪もありましょう。

試練という形で、先祖の罪を清算させる場合もあります。

我々が神には見えないように思える不幸もまた、神の目から見れば意に沿っていないからです。それぞれの罪が、深いためであります。

自分の心の力でそういう不幸を、試練として乗り越えるしかありません。

最初信仰に入る人には、まず神があるという現実を見せなければなりません。

そのため入信した時は、神の力が動き神の実在を見せます。
しかし、ある程度のご利益を頂くと、今度はそれ以上の救いを頂くためにはどうするか。

自分の心を磨く。つまり悟るようにならなければいけません。   

 現在の大和山に居る本部員は、病気になると医者や薬を用いるようになっていますが、大概は悟りです。

 本部員になったばかりの人は最初、緊張しています。そのうちはまだよろしい。

 だが、だんだん慣れてくると我儘になり、神に馴れて馴れて手が付けられなくなるものです。

 反省するように注意したところで、言う事を聞きません。

 神さまの言う事すら、きくものではありません。

 そういう場合でも、神は黙って見ています。

 そして、あるだけのゴミを出させ、一回でゴツンとやるのが神のやり方であります。

 そういう時に病気という形で、現れるものであります。

 それが大和山でいう、悟りであります。

 なぜそういう形を神が取るかというと、なるべく自分の心で自分の間違った心を直させるためです。

その人がここが悪かったと悟り、改めようと反省すれば病気は治るものです。

悟れれば、即座に治るものです。病気は神さまからのご注意と思い、それに気が付き改めようとすれば、それはそれでよろしいのです。

私は本部員が風邪などで寝込んでいる聞きますと、こういう時に反省する良い機会だと寝床に行き、色々と注意します。

なかにはそういう時、こんなに苦しんでいるのに何と言うことを言うんだと思う人もありましょうが、その後不思議と早く治るものです。

悟りは、最高の妙薬なのであります。

我々大和山信徒は、常に悟るということを心掛けなければなりません。

悟ることが、大和山では精進道に当たります。

精進を促すため、神は悟りを示してその人の心を磨かせます。

さて、正しい神がなぜ縦横に守ってくれないのか、と思う方もいましょう。

それはまず、信じる人の心が曇っているからです。曇っているから守ってくれないのです。

大和山では心が曇っているうちは、まだ悟れません。

例えば十の心の段階のうち、五の段階の人がいたとしましょう。

五の段階の人というのは、心を磨いて、つまり悟りに徹してゆけば神の気に入られるような人になり、それ相応の結果が上がってくるものです。

最初の入信の段階では、神さまの方で救ってくれますが、本当の信仰というのは悟りにあります。

大和山の教えの目標は悟りにあります。悟りを得ないと、本当の信仰にたどり着けないものです。

悟りのない信仰は、大和山信仰で言うと、ご利益信仰でしかありません。

お札やお守りを持てば、これさえあれば大丈夫だ。そういう考えを持っている人がいますが、本質を信じなければ本当の信仰というのは、出来ないものです。

確かに、お守りで救われた方もあります。

しかし、そういう苦しみに人は遭わなければ、神を信じないものです。

だが、そういう病気によって神に救われたとすれば、その病気が本当に神と出会うための手段であり、神が自分を救ってくれたものなのです。

つまり、その病気が自分をこの神に導き、救ってくれたという気持ちにならなければなりません。

ただ単に病気が治ったから、それでいいという気持ちに、なってはいけません。

だから、神諭のなかに「苦しみは自分を導く光りなりき」とあるのは、苦しまなければ神は分からない、と言う意味なのです。

ですから、不幸になっても悲観しないで、これは神の試練だと悟りが本当に信仰の道を、進んでゆかなければならないのです。

だからと言って神一筋に進もうとしても、なかなか出来るものではありません。

神を絶えず祈っても、幾ら自分に信念があっても、家族の心がそこに一緒にいなければいけません。

家族の心が全て揃って、信仰というのは強固なものになるのです。

家族挙げての信仰、これがあって全てが可能となるのです。

大和山の信仰というのは神中心の信仰で、全て医者に頼るというものではありません。

それが自他力本願であり、自力の縦の力と横の他力が一カ所で重なった時、大きな力を発揮するのです。

霊の障害というのは、我々人間という弱者にとって、とても解決出来るものではありません。

力のある偉大な神によって、解決してゆくしかありません。

霊の障害というのは、我々先祖の業、罪によるものが殆どです。

我々に業を及ぼす仏は、慰霊によって慰めるしかありません。

地獄で苦しむ仏が、太い糸で我々を引っ張っているようもなのが霊障なのです。

慰霊するというのは言って見ると、大へんおいしい「お薬」をあげるようなものです。

慰霊することによって、地獄で苦しむ仏の傷が癒えるのです。

それで仏に薬を塗ると、たちまち治った。

慰霊することによって、神仏がその仏の罪を取ってくれるものです。

慰霊することによって、神仏が丁度良い具合に仏の手当をしてくれるものです。

そういう偉大な力が、大和山にはあるのです。

それでもまだ、世には知られていません。

果たして大和山が宗教界の横綱となるか、一平幕で終わるかは時代が進んでみなければ分かりません。

どんな時代になっても、人にとって信仰は欠かせないものです。

宗教不在の国は、滅びます。人間にとって信仰は、切っても切り離せないものです。

だが、今真の神の力は、表れていません。

というのも、世の中が変わって来なければ、真の神というものは出ないことになっています。

真の神が現れないと、苦しむ人を救うことは出来ません。

多くの人々を苦しめている、霊の障りというものは否定出来ません。

それほどに霊の障りというものは、多数あります。

そういう霊の障りで苦しむ人に、時々神はその力を出すことがありますが、そういう人は神の守護の厚い人です。

霊の障りなかには無論、先祖の業で苦しむ人もありますが、もう一つ魔霊の仕業があります。生霊、死霊の修祓札というのは、総て魔の仕業であります。

人が相手を憎み、殺してやると思う。

そういう心が魔の心で、悪の心であり、それを祓うというのは生半可なものではありません。

魔の憑いている者が、相手を苦しめるのです。

こういう魔霊を、修祓札によって封じて行く。

こういう札を出すことによって、何時の時代でも自分の一代で子孫にこれを残さないように、しなければなりません。

昔から化け物屋敷と呼ばれる建物、屋敷がありますが、これは俗に魔が棲んでいるからであります。

幽霊というものも、魔の仕業です。

人の魂とは、この世に死後留まるものではありません。

死後は霊界に、直行することになっています。

この世に何時までも、留まって居れないようになっています。

死後、魂は一旦中迷界に、行きます。そして、次に中分界で裁きを受け、極楽、地獄行きが決まります。

だが、生前悪いことをした魂は、まっすぐ中分界に行けない。なぜなら、自分の裁きがどうなるか、恐れているからです。

だから、なかなか決心がつかないでいる。

そうして長く留まって居ても、それもまた罪として加算されるので、最後は行くしかありません。

そういう、霊界の決まりになっています。

ですから、我々は、罪を作ってはならないのです。ですが、一般の人はそうは思わない。

地獄があるというのは、分かっているかも知れませんが、本当には信じていないものです。

罪を作らないようにするには、まず神の気に入る信仰をすればそれはそれで、易々と出来るようなものです。

ですから、信じる人が神に気に入られるように心掛け、罪を作らないように心掛けてゆくのが大事です。

そうするには、そういう魔霊に憑かれるのも自分に油断があり、罪を作ったと悟り信仰することによって、その罪を消して行くことに努めるしかありません。

これが神に認められるというと、その罪は消えて行きます。

なかには修祓札が出ても、そのままにしてロクに拝みもしない人がいます。

何の障りがある。霊の障りは本人のせいという、自覚を持たなければいけません。

自分の魂にハエがついており、それを祓ってくれる。

そんな良いものだという考え方に、ならなければならない。

そういう具合に考えないで、ただ汚らしいと考えている人もいます。

そういう札が出たら、まず自分の罪は自分のものであると納得して、自分で解決してゆくしかありません。

そして神の力を借りて、解決してゆくのです。

修祓札というものは、言って見ると神さまのホウキのようなもので、自分の罪をきれいにしてくれるから、大へん良いものです。

喜んで拝む気持ちに、ならなければなりません。

幾ら神さまを信じる心が強くても、こういう霊障というのは、人間の力で祓えるものではありません。

西の方から女の霊が来たとして、修祓札という物を出して神さまがホウキを貸してやるから、それで清めて来いと言うようものです。

そういう霊障を、大和山で教えてくれるものです。

祓って、今まで溜まっているゴミを返してやっているようなものです。

それを信徒は素直に信じて何かあったらお伺いを出して、神が教えてくれなくても自らが進んでお伺いをするような気持ちにならなければなりません。

しっかり祓われるものでしょうか、お伺いをして下さいという人もいますが、それはその人の心次第であります。

幾ら慰霊書でお伺いを出しても、ゴミは出るものです。その人の信仰の程度によって、何度でも祓いきれないゴミというものは出るものです。

祓いきれず残ったゴミというのは、又修祓札を出してもらい、何度でも続けてきれいにするしかないのです。

神というものは、我々の誠というものを素直に受け止めて下さるものです。

それでも幾らお伺いを出しても、神は罪の深い人に対しなかなかお許しがなく、それにどうしたら良いか、教えてくれないものです。

言って見ると、神の信用というお金がなければ、物が買えません。

神から愛されるような信仰をして、初めて神の信用が得られ、教えてくれるものなのです。

言って見ると普段からの信仰が、どれだけ進んだかによるものです。

ただ、その人がお伺いばかりに頼り、一向に自分の行ないを改めようとしないのは困ります。

その間は幾らお伺いしても、その人に課された霊障というものは、本人が苦しむ罪としてある。

心を改めそして信仰に励んでこそ、初めて課した罪というものは許され、神が導いてくれるのです。

ただ神はお祓いのホウキを貸してくれるのではなく、その人の信仰の段階によって教えてくれるものだ、ということを考えなければなりません。

単にお伺いだけの信仰では、意味がないのです。

そのためには精進する。奉仕する。そういう信仰の積み重ねによって、神に近づいてゆくことが可能になるのです。

罪が深い人は、どうしたらよろしいのでしょうか。

まずは、善事を積むことです。その積み重ねによって、その人の罪は消滅することになっています。

でもいくら善事を積んだから、どうか許して下さいとお願いしても、決めるのは神で当の本人にはそんな力がありません。

ではどうするか。神に認められた教祖が、その人に変わってお願いして上げます。

そうやって、罪の深い人は善事を積んで行くしかありません。

そうして善事を積んでも、生きている間に罪の決済が出来なければ、死後に償うしかありません。

親の罪は、子孫に及びます。子孫の幸せを願う以上は、その罪を清算していかなければなりません。

死後、西の方にある霊界で審判が下されます。罪のある霊であっても、子孫が自分の手足のようなものです。ありがたいことに、その子孫が自分の罪を償ってくれます。

妊娠している人は幸いです。自分の子が、自分の罪を償ってくれるからです。

子がないというのも、また一つの罪です。

子孫がいて、自分の罪を償ってくれるからです。子孫がいるというのは、その意味では大へん幸せなことです。

仏教では前世の罪故に、この世に来ると説いていますが、大和山ではそういうことはありません。

霊界に行った者は、原則としてもうこの世に戻らないことになっています。

人は死後、魂となり元々生まれてきた八街に帰って行きます。

そして、三仏神の裁きを受けることになっています。

この三仏神は俗に、閻魔さまと呼ばれているのがそうです。

嗅ぐ鼻菩薩、聞く耳菩薩、見る目菩薩が三仏神です。

この三仏神が世の中でいう、陪席判事のようなものです。

そして、それぞれ魂の生前の悪と、善の軽重によって地獄か極楽かの判決を下します。

刑期の長い仏では、三千年も地獄にいる仏もいます。

これ以上罪の深い仏は、無限不浄界に行くことになっている。

殺されるのではありません。魂というのは、どうやっても殺せないことになっています。

ただ何億年経っても、出てこれない世界です。

どんな仏がこの世界に行くかというと、殺人、自殺者が行くことになっている。

この世で生きているのが辛いからと、むやみに命を絶つのは最大の罪です。

それ以外の単に地獄に行った仏は、刑期を終えると極楽に行きます。

それぞれ割り当てられた村に行き、そこで休むようになっている。

極楽にもまた、段階があります。上に行けば行くほど、楽しい世界になって行きます。

地獄もまたある程度の数を作ってあるので、三千年は作るのを休んでも大丈夫です。

まだ地獄を作る空間は残っています。地獄というのは伸縮自在で、まだまだ地獄で苦しんでいる仏は沢山います。

霊界では三千年経つと、生まれ変わることもあります。

それより早い期間でこの世に生まれ変わってくるのは、神の魂であります。

人間の魂というのは、三千年経たないと生まれ変わって来ないことになっています。

では地獄の仏も三千年経つと生まれ変われるのかというと、地獄にいる間は絶対生まれ変わることは出来ません。

ですから生まれ変わってくる魂に、前世の罪はないことになっている。

地獄の罪を、全て清算しているからです。

夫婦になるということは、罪を分担しているようなものです。夫婦互いに、因縁を背負い合うようになっているのです。

死ぬと魂は肉体から離れ、霊の国にゆきます。ですから、肉体は単なる抜け殻、骸です。

土葬にしようが、火葬にしようが、一向に関係ありません。

それから神仏に響くものは、誠のみです。誠の心で祈れば、それは神仏に届きます。

仏教の葬儀でどれだけ金をかけたか。どれだけの戒名をもらったとかしても、仏の供養には何の関係もありません。

それは物、金だけでの葬儀だけで、形式にしか過ぎないからです。

仏や天に通じるのは、誠の心、清浄の心で祈ったものだけしか天に届きません。

祝詞一つにも誠があるか、ないかを問われます。

ですから大和山は形式を要せずと、形式信仰の打破を掲げているのです。

なにも疑わず、誠一筋で進むしかないのです。

ご神歌に「鈴振りて 鳴らすその手の打つ音に まことのあらば天にひびくぞ」とあるのは、まこと以外、天には届かないという意味なのです。

子供が病弱というのは、夫婦両方充実した愛を持って作らないからそうなるのです。

子供を作るためには、単に色欲で作るのではなく真剣になって作らないといけない。

作りながら脇見をしているのは、一つの罪であります。

真剣に子供がほしいと願いながら、子作りをしないととんだ結果になるものであります。

よくあの人は美人だと申しますが、どんな美人でも死んで一握の灰にしてしまうと、美も醜もありません。

美人だからいい、という考え方は捨ててほしいものです。

妻を選ぶなら、性格のいい人を選ぶことです。顔で選ぶととんだ結果になります。

性格の悪い人を、妻にもらったとしましょう。

妻は自分の心が悪いため、夫を苦しめるようだとそれは罪であります。

そのため夫が、非常に苦しむようになる。とんでもないことです。

我が心によって、夫を悩ませる、妻を悩ませるようなことがあってはなりません。

お互いにこういう心にならないように自覚して各自が心を修め、認め合うようにするのが第一であります。

一旦信徒になりこの神を信じた以上、それは神に選ばれた信徒であります。

そういう信徒はこの世の中を、極楽のような世の中にしていく使命があります。

我々は微力ながら、自分の持てる金、力、物を神に捧げて神業を全う出来るように、我々はその土台を作りのお手伝いをする。

そのためには各自が応分の力、本分、蓄えた力を発揮することです。

自分は用のないネジが付いているようなもので、そんなに大してお手伝い出来ないと思う人もあるかもしれませんが、それは違います。

どんな人でも神業を案ずる心があれば、自然に神が守ってくれるものです。

神業達成のお手伝いをしたい。こんな微力な自分でも、どんなことが出来るだろうか。

そういう気持ちになることが大事です。

それだけの心になる人だけが、何十倍かの報いがあるものなのです。

一旦、信徒になった以上、神に認められるような信徒になり、この神業に参加してほしいものです。

大和山の神というのは、世界のあらゆる人を救う神であります。

どんな差別があろうとも、総ての人を救う神であります。どんなみすぼらしい人、貧乏な人であっても一切を救うことになっています。

大和山出現の時には、そういう力を見せることになっています。

そういう時になると、大和山に及ぶ神はないと誰もが認めるようになります。

大和山大神というのは、広く世を救う本当の神であります。

本当にそういう神であるという力を、まだ見せていません。ですから、まだ世の中は言ってみると、暗いものであります。

いよいよ出現すると言うと、神はこの世を明るくしてくれます。

個人を救う神でもありますが、世界に対してその力を見せるようになる。

我神は幾億年、自分の力がどの位強いか試したことがない。しかし、一度試したならば後に退かない。

殆ど世の大立替について、地球を手玉に取ってマリのように投げる。

例えばそういう、並み大抵ではない力がある。いい加減なことを言うのではありません。

神の教えには、そう書いてあります。ですから、必ずそういう時期が来ます。

そういう時期になると、予想だにしないことが起きることになっています。

その時、神は本気で断行すると言われています。

世界を手玉に取る神であるからこそ、世の大立替は難しくありません。

神は何時何時になるまでは、この世に出られないと決めておられます。

だが、世界で何が起きているかは、一切ご照覧なされています。

その証拠に、以前寝ていると、「先生。お休みなさい」そういう霊示がありました。

その時は先生という声だったのですが。

つまり、今はまだお前の出番はないよ。出番が来るまでは、どういうことがあっても動くんじゃないよ。用事があれば、先生、必ず起こすからとこう悟っておりました。

そう思っていたら、それから四十日ばかりして朝鮮戦争が始まりました。

私の「お休みなさい」が、信徒の方にも霊示で出る場合があります。

言って見ると、早く教祖へ送れというという具合に、小間使いに使われているようなものです。

時々、信徒には訳が分からないまま、そういう霊示を受ける場合もあります。

言って見ると、私にしか分からない電報を受け取るようなものです。

なかには思いもよらない霊示が、ひょっと信徒に入ってくる場合もあります。

木村武一さんが、二、三カ月前に霊示がありました。

――恐るるは米の大切。二と六の 五月の月の二と七なる――

そう武一さんは、教祖に報告してきた。

教組はその報告を聞いて、直感的に分かっていました。

しかし、どれがこうであるというのは答えませんでした。

ただ、武一さんの受けた霊示には、もうすぐ実現するものがある。分かるかな。この事は他言してはいけないよ。こう念を押しておきました。

向こうでも、霊示の意味が分かりません。単に受けただけですから。

まあ、本年の七月を見ておきなさい、とだけは言っておきました。

そうしている内に、遂に朝鮮戦争が始まった。

今、米国が介入して停戦協定を提案して来ました。

その猶予は後、四日、五日しかありません。

私は恐らく、七月一日に決まるのではないかと悟ったのです。

どうなるのでしょうか。それはその時が来たら分かります。


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