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まえがき

 父のノートによっていよいよ教祖さまのご教話は復元可能になりました。

 これも今まで応援してくれた人たちのお蔭と、感謝申し上げる次第です。

 この書が今後、教祖さま研究の貴重な資料となると私は信じています。

教組さまにお会い出来なかった方も、このご教話から教祖さまの立教の精神を感じ取っていただければ望外の喜びです。

後二、三集までは復元出来ると思うので、以後はテープの残りの編集に移りたいと思います。

父の生原稿もどういう形で刊行すればいいか、多くの課題が残されていますが、可能な範囲で編集し刊行してゆきたいと思います。

教組さまを追慕することこそ、我々の信仰の一助となると信じて疑いありません。

原点を探求し、そしてそこから信仰の源泉を求めなければ、信仰は確立しないと私は信じています。

 今後ともよろしく、ご声援のほどお願い申し上げます。


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霊界とは

神典に霊界というものは人間の立ち入るのを許さじ、とあり私たちが立ち入れない世界であると記されています。ですから、人間が霊界についてあれこれと論議しても、本当のことは分かるものではありません。

一般に世間の人というのは、神というものは病気を治してくれる、ただそれが神であると言っております。そう思っているだけで、それ以上の事は分からないし、また分かろうともしません。

また世間では神というものは仮説であって、実際はいないのだろうと疑いながらも、人間の説は幾つも作られ宗教も無数にあります。

我々が生きている以上、人間の仮説は無数にあります。人智で考えるだけに様々な憶測、説が無数にあります。

しかし、神というものを本当に説いた教えは、たった一つを除きこの世にはありません。

大和山だけに、真実の教えが降下されているのです。

大和山では、神は天にまします神であるとあります。そして、霊である魂というものは三段の区別があると説いています。

まず最高の魂というのは神であり、次の中段は人間、そして最後の下段は獣の魂となっております。

最高の神の魂が正神であり、正神の最下位が稲荷の霊であります。

 狐は獣ではないか、どうして正神になるのだ、おかしいではないかと思う方もございましょう。

稲荷というのは漢字で書く通り、稲を荷うと書きます。

 昔、日本に米が伝わった時、人がこれを食べるようにと神が稲穂を背負わせて運ばせた動物が、狐なのです。

 このように人のために働く獣として、稲荷と呼ばれるようになったのであります。

 神界には獣が頭となり、治める界があります。

獣にも、神格を持つものがあります。無論、獣が頭の神界は、獣を従えております。

各村々で祀っている稲荷神社というのは、殆どが悪い狐です。善いことも悪いこともするだから、賤神系統の稲荷です。

つまり、大半が悪い稲荷と思ってよろしい。正しい稲荷というのは二、三割もこの世に出ていないものです。

賤神というのは上に行くほど善が強くなり、最下位になれば悪が強くなる構造になっています。

賤神系統の稲荷は最下位に属しますから、無論悪が強くなる。ですから、賤神系統の稲荷は善いこともするが、悪いこともする訳であります。

賤神界の最下位に属するこの稲荷の障りがひどいのも、悪が強いからです。

上の神のご命令によって、この世は治められています。

天なる神が一切を支配しているし、また全てを神がご照覧なされている。

全智全能なる神に、知らぬことはありません。

それならば時には伺え、御祈願すればいいのではないかと、むやみやたらにするのは危険であります。

普段から正しい神を信ずる者は、伺ったりしなくても守護を受けております。

あの神さまは当たるからと言って神様屋に伺ったりすると、逆に恐怖心や不安を与えるようなお伺いの答えを出されることもあります。

そういう低俗な所に出入りすると、それだけでその人の心のなかに魔が入ってきます。

悪にならなくても少しずつ染まっていき、最後は神でなければ、悪魔を祓うことが出来なくなります。だから、当たるからといって、そういう神様屋に伺うなんてのは以ての外です。

大和山の慰霊というのは、地獄で浮かばれない仏を救うことです。

我々は先祖から受けた恩を、慰霊という形で返す。それが大事であります。

慰霊を執り行うに当たり、中間に立つ人が神の認めている人でなければならない。

教祖は霊界を救う慰霊の権限を一任されているので、大和山で慰霊することにより、神は仏を救うべき道を通しております。慰霊することによって、仏が喜びます。

だから、慰霊した人の病気が治ったりすることがしばしばございます。

病気が治ったと言うことは、仏が良かったと言っているわけで、単にその人に仏が祟っていた訳ではもちろんありません。

霊障のある仏と言うのは、その人に因縁がある。そして、その仏は今生きている子孫が、慰霊して差し上げる責任があるのです。

言ってみると、我々は先祖の血を受け継いできた親に世話になった訳で、先祖である仏が早く慰霊をしてほしいと、願って知らせようとしているのです。

霊障というものは、全て神か魔のどちらかしかない。仏の霊障というのは慰霊でしか解決出来ない。

霊障というのは人魂、つまり人の魂がやっているものではありません。仏の霊障というのは神が全て考えて、その人ならば解けるであろうと率直に示しているものなのです。

そういう霊障を取り除くという点では、素直に信じる人には誰もが神というものはあるのだ、と認めるのが大和山なのであります。

大和山を信じる人の心次第で、神がその人の真心を認め恵みを垂れ給う宗教なのです。

神に願ったり、神に好まれるように努めることが大事です。

何か苦しいことに直面したりすると、途端に神を疑うような心ではいけません。

どんな時にでも神を信じ、そして神に気に入られるような心でなければなりません。

神は、将来を見透しておられます。地獄で苦しむ仏のことを、ご存知ない訳はありません。

ですから、大和山を信仰し慰霊をするようになると、慰霊してほしい仏がその人に現れるようになるのです。

それを聞くと、気持ち悪い。ああじゃあ、大和山を信仰するのを止めたと思う方もいましょう。

そうではありません。仏がその人に、慰霊してほしいと寄ってくるのではないのです。

そういう仏は、その人に因縁があります。その因縁のために、慰霊しなければならないのです。

その因縁を教え諭すため、偉大なる神はその人に因縁があるから慰霊しなさい、と霊障という形で教えているのです。

単なる霊障ではないのです。その人に因縁のある浮かばれない仏を、神が霊障という形でお示し下さっておられる。慰霊しなさいと。

逆にありがたいなあ、こうやってお示し下さることによって、浮かばれない仏を慰霊出来るんだと思わなければなりません。

その人に因縁ある仏を慰霊という信仰の徳によって、ああ気の毒だと慰霊してあげることが自分の善徳を積むことになるのです。

近頃、自分の病気をお祓いしたら、かえって病気が悪くなった。魔をつけてしまった。

 そういう報告を寄せた信者がありました。しかし、絶対そんなことはありません。

神というものは人の病気を治したからとて、魔に憑かれることを許すものではありません。

それは無限不浄界の仏の仕業です。地獄の最下位にある無限不浄界にいる仏は、幾ら慰霊しても出ることは出来ません。

言ってみると、人間界では無期懲役のようなものです。

霊界では自殺をするのと、人を殺すのは一番重い罪になっています。世の中が苦しくなれば、自殺する人が多いものです。一度この地獄に入ると、ズーッと苦しむしかない。

そういう苦界にいる仏にすれば、慰霊してもらえるだけでその時だけでも苦しみから逃れられる。

だから血縁の人に、必死になって慰霊を訴えているものなのです。

そういう仏の慰霊をせよということで、霊障という形で現れるものです。

ですから、病気をしてなかなか治らないという時は、無限不浄界に仏がいるというと霊障が現れることがあります。

慰霊をするのも大事ですが、特に我々信徒は迷信信仰の打破、お守り信仰を打破しなければなりません。今後はお守りお札は差し止め、撤廃します。

ただ神さまに頼るだけの信仰ではいけません。

お守りを止めて、心に信念のお守りをかけるようにしなければなりません。

見える形のお守りという形式の信仰をやめて、真の信仰に就かなければなりません。

お守りだけの信仰は、とかく教えを聞きません。というより、全く神の教えを聞こうとしません。

教えに従わないから、一向に信仰というものが何か分かりません。

お守りだけあれば大丈夫だ。これさえあればいい。後はもう怖くない。

こんな心根でどうして、本当の信仰にたどり着けましょうか。

それは形で言ってみると、影物であります。本物ではありません。

偶像崇拝、木偶の坊、写真のような物で、神を表面的に見せているのに過ぎないものです。

それだけに囚われてしまっては、神というものが天にましまして、清く正しいものということを全く知らない。形があるものだけを、神と思ってしまう。

この弊害を打破するため、お守り信仰を撤廃するものであります。

お守りだけの信仰というのは、欲のようなものです。

欲と言えば商売している人は、ただ儲ける儲けるという具合になり勝ちです。そりゃあ誰でも、皆儲けたいものです。

しかし、儲けたい、儲けたいでは欲の塊であり、それは即ち悪の思うツボであります。

その欲の祈りに、悪霊が入ってしまうものです。

形や何か見える物を拝んでいても、心が悪だと悪霊の宗教になってしまいます。

悪霊に憑かれないためには、まず正しい神を信じる。しかし、そういう祈りを捧げても日々過ごすうちは、正しい心と欲望の願いが入り混じっています。

そして、祈っている物のなかに知らず知らずのうちに、悪心が混じってしまう場合があります。

ある信者がそれに気付いて、今まで祈っていた掛け軸を下げると、病気がたちまち治ってしまった、という報告があります。

それほど欲というものは、自分が知らないうちに悪心が混じってしまうものなのです。

この世を極楽にするか地獄にするかは、その人の心の有りよう一つに懸かっているのです。

 

神に恵まれ神に認められる人となるように、みなさん方は信仰をするのであります。

大和山というのは、末法の世を救う最後の宗教である。

ですから人の神へ尽くす心は、全てご照覧されています。

そのためには、まず神が気に入られる信仰をする。神に好まれる人にならなければなりません。

どんな不幸があろうとも悲観せず、信仰に進まなければなりません。

ただ苦しんでいるのではなく、昨日のことは悲観しない。クヨクヨしてもどうにもなりません。

まだ救われる時ではないから、神が助けてくれない。

もっと真剣に自分の信仰の在り方を考えて、進もうと思わなければいけません。

とにかく、神に守られたいという心になればいいのです。

そういう気持ちが自分の大きな力となり、信仰に力が入ります。

慰霊で大事なのは、我々が慰霊しなければならない先祖というのは、少し遡ると少なくとも一万二千とか、多い人では三万五千という具合にいる訳であります。

実際、我々は自分の身内の三十三回忌とか、法事を執り行います。

一般に三十年以上経たなければ、生まれ変わらないと信じられています。

我々が慰霊しなければならない仏は、何人もあります。

お前はこれだけの慰霊をすれば良いとお伺いで出た以上、それは神さまを信じてやるより他ありません。多い人では一万六千体以上、生涯に慰霊しなければならない。

一人の人に必ず二人の親があります。そういう繋がりというのは、何年経っても切れるものではありません。親から生まれた以上、血の繋がりというものはいつまで経っても続くものなのです。

これこれの先祖のなかで、これこれの仏を慰霊しなさいと大和山では、お伺いの度毎にお示し下さいます。

まず先祖関係の仏、祖父の母の兄弟何人の仏。祖母に兄弟何人の仏という具合に、慰霊をしなければなりません。

続いてお祖父さんの兄弟の子供の仏という具合に、お祖父さんの一族関係を隈なく慰霊しなければなりません。

自分が真心で本気でやってお願いすると、その仏の業を清め、仏を慰めることが出来ます。

この真心を持って慰霊することが出来れば、そんなに年数をかけないでも出来るものです。

五、六日前に津軽の信徒さんで、真佐子さんというお嫁さんの体験報告が寄せられました。

最近ご飯を食べない。腹が減らない。一向に食欲が湧かない。お菓子すら食わない。胃が悪いのかと思って医者に診てもらったが、そうでもない。

親もどうしたらいいものかと、随分心配したそうです。

そんなある日のこと、親が悟れという霊感が嫁にあった。

それでその霊感を親に話したところ、親も色々と考えた。

すると、思い当たるのは最近、慰霊をしていないなあ。一年前から、さっぱり慰霊をしていない。

そう悟って慰霊書を出したところ、慰霊書が本部に着いた頃から不思議なことに嫁さんに食欲が湧き、ご飯を食べるようになったとのことです。

大和山で仏の慰霊をしてほしいと、仏たちが嫁さんの腹を抑えて慰霊を願っていたのではと、親の方では思っているとのことでした。

本当を言うと、それは仏の方で嫁さんに食わせないのでなく、神の方で自分から進んで慰霊をやらなければならないということを教えるために、そういう具合にしているものなのです。

慰霊というのは仏に頼まれたからするのではなく、自分から進んで慰霊をするのが本当なのであります。そういう心がけが、普段から大事なのです。

慰霊を出すのもまた一度、二度、三度、四度とやることによって、自分の徳を積んでいくのであります。

貯金があるからと言って、怠けてはいけません。そういう時でも、仏を慰霊しなければなりません。

確かにそれをやらないでいると、慰霊を出すと代々二十何人、関係の四十何人と私の方で慰霊すべき仏を示して、慰霊させる時が来ているのであります。

そういう関係の仏を慰霊すると、今まで治らなかった病気がすぐ治ってゆきます。

幾ら慰霊を出しても、慰霊書が本部に届くのは毎日朝十時くらいです。

慰霊を出す度に、それご飯だと仏に食わせてあげるようなものです。

これで五通目だと、ご飯で言うと五杯目だと慰霊書を出した人を褒めてあげます。

そして、慰霊簿に書いて教祖がお願いする。信者の心が進んだ時、また気付いた時は慰霊をした方がよろしい。

今度はまた、慰霊をしなければなりません。こういう点を見れば、実に不思議だと言わざるを得ない。

しかし、真心を込めて慰霊書を出せば、慰霊を終えるまでには何万円もかかる訳じゃありません。

一回、真心を込めて慰霊を出すというのは、仏を病人に例えると、病人を裸にして一日中、医者が診てくれているのです。

真心のこもった慰霊は、教祖からみると丁寧だと言って褒めているようなものです。

教祖がさっさと悪い患部を切ってあげますから、病人もすぐに治るようなものです。

真心を込めた慰霊というものは、ご飯もサッと出して上げますと、仏が食べてみましたら、これはご馳走だと沢山食べられるようなもので、仏からすれば大そうありがたいことです。慰霊と言うものはそういうものです。

慰霊もただ形を見るのではなく、目に見えない浄めを信ずることです。人は形に囚われてはいけません。これだけの法要をしたから成仏したとか、高い位の坊さんにお経を上げてもらったから、これで浮かばれたと思い込むのは間違いです。

本当に大和山の慰霊は素晴らしい、本物だと信じなければ困難なときにも気概が出ないし、慰霊にも力が入りません。

疑わず真心で、大和山慰霊の功徳を信じる人が神の救いに預かります。

そういう気持ちで、真心を込めて真剣に慰霊して頂きたいものです。

さて本年、大和山としてはめでたい物があります。何れも粗末な物ですが、春から全部で十二軒ばかり建てた。便所、東屋、その他全部で十二軒建てました。

その十二軒のなかで朝起きて顔を洗う霊泉に建てた上屋は、一番めでたいものであります。

一番粗末な木材で建てたものですが、六本の柱のうち三本の柱はヒノキを使っていますから、ヒノキなら粗末な物でもよいと思いました。

鳳龍の館と書いた板に押印していたのですが、そのかには達磨が現れました。これもご守護だとこう考えています。

鳳龍の館を建てた時、不思議なものが続々出てきていますが、一人で感心しています。

鳳は生きた鳥ではない。神さまの使いの鳥であります。龍も生きたものが、世の中にあるものではありません。

世の中には鳳、龍などああいう風に、絵に描いたものではありません。

どうしてそんな風に描いたものかというと、誰かが見たものを描いたのが、今に伝わっていると思われます。

鳳にしても龍にしましても、みな霊の物で現実の生き物ではありません。

鳳は霊的に見ますと、金色のお姿をしており、偉大なる宗教が現れる前兆として見えるものであります。

作った当の本人が、非常に不思議だと思っています。常に指示して作らせましたが、まさかあんな形に仕上がるとは思ってもみませんでした。

結局、あの建物は私の建てた物ですが、後からこっちに付けなさい、ここはこれを付けなさいと命じて、ただその通り作らせましたところ、鳳の形に出来てしまった。

鳳の形に注文したように出来上がってしまった。

自分では鳳凰の形に作るとは、更々思っていませんでした。ただ出来上がって、これは神さまから賜った物だと悟ったのです。

そういう具合に、知らず知らずのうちに出来てしまったのです。

鳳の出現は大和山にとって、重要な意味があります。

今、大和山の宗教は、大海の粟粒にしか過ぎません。よその国から見れば、大和山というものはその程度のものでありますが、やがて世界に広まる時が来る。

必ず大きな神さまが世に現れて、必ず神の力が発揮される時が来ます。

鳳の出現の時を、私は今まで静かに待っていました。今年かな来年かなと思ってたら、なかなか出てこない。そう思っていると、とうとう鳳が出ないうちに、日本は戦争に負けてしまった。

後から考え伺ってみますと、未だ時期が早かったのです。

戦争が終わり、五年間暮らしていよいよその力が、段々に現れる時が来たのです。

このまま行ったら日本も世界も近くになりまして、段々後になるというと衝突寸前の状況まできてしまう。つまり地殻変動です。

そうなると、大立替の到来です。

神にこのことを報告しますというと、相当な覚悟で時に備えて置くこと。皆さんは神に認められ、好まれる人とならなければならない。

そうなると危い時においても、神が出でて皆を救うことになっております。

大立替になると、魔が修祓されることになっております。

どういう形で神がその時現れるかというと、こんな思い出があります。

かつて製材所があった祖霊殿の付近にすももの木という所があり、四、五軒の店が並んでありました。私がこの外童子に入山した頃、昼間にその辺りで火の玉が飛び交ったことがありました。

後で神さまに伺ったところ、教祖が入山するに当たり魔を払うために、その辺りを祓うために飛ばした、というお示しが千田きよのを通じてありました。

四、五年前に松ノ木の古老が子供の時、やはりそのような火の玉が外童子山に飛んでいくのを見たというのです。

今思えば私が、この地に神さまのお道を開くことに決まっていたんだなあ、ということだったのでしょう。私は見えない力に導かれ、この地にやって来たのです。

神さまはこのように火の玉を飛ばし、自在な動きを見せるものです。

もはや大和山から火の玉が出る前兆であり、非常に悦ばしいことです。

火事でもなく、みんなの目に火の玉が見えただけです。そういうことがありました。

そして、今回の鳳龍の館の完成といい、非常にめでたいことであります。

我が目先の欲を捨てる。大いなる神の存在ということが分かったならば我らにとって、こんな幸福なことはありません。

暮らしてみれば、何れ皆さん方にもお山がどんな所か分かると思います。

大立替は、今や目前まで迫っています。もうそれまで余り長い時間ではないようです。

大立替が来たらどうしたらいいのかと、先のことばかり考えないでほしいものです。

さて、大立替が終わり、平和な世の中が来れば、日本という国に生まれたことの意味が良く分かるようになります。

そういう松の世、神の世になると、我々は皇国(すめらみ)の民草の幸と、日本に生まれてありがたいと感ずる時が来るようになります。

大和山は、神の出張所であります。神の力が出るようになることを考えますと、我々は心を引き締めなければなりません。

心に楔(くさび)を打ち、正に大災害という時にも守られるような人に、ならなければいけません。

いつまでも豊作だとばかり考えないで、正しい道を歩む。そんな信仰をしなければなりません。

信徒へのお告げでは、大立替の山にかかると、作柄が案じられるということでした。

信仰の篤いものは守って下さる。本年或る人に戒めてそうなった時のことを見せております。

 大立替で生き残る方法とは、神の力に頼る他はありません。

その方法を何故教える事が出来ないかというと、やはり心の清い者、篤信の方々に、その方法を教えてやりたいものですが、最良の方法は一家揃っての信仰をする以外、救われる方法はないのです。信仰を守りぬく以外に、道はありません。


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解説

慰霊の教化について、済度経典では次のように述べている。

 

 一家に一人の僧たるべき時、その族、天に仏と化す。そは然り。清くしてそれ菩提を弔へば、即ちその徳自ずとその罪悪を補う。

清く正しく且つ誠なる世界の人となれば、死したる人は皆安らけくその罪悪を補ひ得ん。

 例えば僧ともならずとも、子は親を思ひて死後、誠を持って弔えば、その親その心安からん。

                       (済度教典十二巻・二十四頁)

 

 慰霊の功徳というのは、僧によって菩提を弔うだけが慰霊ではない。

 誠をもって子が親の菩提を弔えば、それが大和山で説く慰霊に通じるということである。

 前集でも人はこの世に肉体を伴って生まれた以上、魂魄を伴い生きなければならないと触れた。

 魄とは即ち肉体に付随する霊であり、魂だけの純粋な善の霊とは異なる。

 魄とは七魄あり、この世で肉体を伴う以上、発する欲望を意味する。

 食欲、性欲、怒り、憎しみ、未練という肉体に付随する欲望が、全ての悪の根源を生む。

 人はこの世に肉体を伴って生きる以上、この七魄と共に生きるしかない。

 七魄は肉体から発する欲望であるため、必然的に霊的ものは別の感情を伴う。

 だから、本来人間の魂は善なのだが肉体を伴った以上、悪心も入ると済度教典で説くのはここに理由がある。

 神界に肉体のまま出入りし、神界の玄学を持ち出した宮地水位は善欲は三魂しかないと、肉体から発する七魄の方が、はるかに影響を及ぼすと説く。

 引用した済度教典の一節に人は死後「清く正しく且つ誠なる世界の人」とあるのは、この善欲の三魂の状態に立ち返ることを意味している。

 済度教典によると、良心は悪心に押されても立ち消えることはない、と心のどこかにあることを示唆している。良心は悪心の勢力が強まると、心の片隅に追いやられるという意味だ。

 肉体に比重を置き過ぎると、必然的に精神的な面が弱まる。

 そのため、多くの修行僧が断食をしたり、苦行に明け暮れるのは精神的な面に比重を持たせるために、必要なことであった。

 肉体の欲を取り去ることが、修行には必要なのだ。

 七魄ほど死後も、この世に留まるものはない。

 教祖さまは大往生を遂げるには、この世に対する未練を捨てなさいと説かれている。

 その意味はこの世に未練を残すと、それが七魄として留まりやすいということだ。

 七魄と三魂の違いが今一つ分かりにくいと思う方もおられるので、補足を加えたい。

 七魄とは肉体の魂、三魂というのは単なる魂としよう。

 七魄とは、死後も生前同様の姿でこの世に留まる。

 俗に、幽霊というのがそれだ。教祖さまは幽霊は魔の仕業であると仰られた。

 つまり、魂の抜け殻の七魄に未練、執着が強ければその入れ物に魔が入ると、幽霊として動き回るということになる。

 この七魄がこの世に留まり災いを続ければ、即ち霊界に仏が行ったところで、その仏の罪となってしまうということになる。

 だから、教祖さまがこの世に対する未練を捨てなさいと言われた意味は、死後も罪を作らないように、と解釈すれば分かりやすい。

 幽霊と違う意味の件が、済度教典に出ている。

 この世で亡くなった人が、夢や現実に見える場合がある。しかしそれは現界に現れたのではなく、霊界から影法師のように見えるのが、幽霊のように見える場合があると説く。

 一番論議になるのが、水子の霊の存在である。ある霊能者は水子の霊はある、いや、ないと言う人に分かれる。

 教祖さまは人間が生まれる時、初めて魂が授けられるもので、水子の段階ではまだ卵のようなもので、慰霊の必要はないと水子の慰霊は許されなかった。

 私自身も水子で思い当たるのが、大学院時代盛岡の友人が出入りしていた女の霊能者の所に、連れて行かれたことがある。

 その霊能者は私の下に、妹に当たる水子がいると言った。

 初耳だったが、家に戻り母にその件を尋ねると、私の後に身籠った子がいたが、自分の家だけ三人目を生むのかと嫌味を言われるのを避け、堕胎したという。

 またこんな体験もある。

 ある霊能者で一時期、私の所に参山して来た人間がいたが、その時女の子を連れていた。

 その子の足の爪を見ると、妙に黒く栄養不良になっていた。

 彼が語るにはこの子は養女で、養家では流産したためこの子をもらい受けたという。

 だが、その水子がこの子の幸せを呪い、足にしがみついているというのだ。

 その水子を祓うため、深夜不動滝に出かけて、彼は水行した。

 その時、私は車で同行し、車のライトで不動滝を照らし、彼の動向を見守っていた。

 一瞬、彼の頭上の木の枝に、何やらおかっぱの女の子の顔が見えた。

 水行が終わり、女の子の寝ている部屋に戻ると、彼が水行していた時間、その子は自分の足元に女の子が手を伸ばしている姿が見え、それが吸い込まれるように消えて行ったという。

 以後、この子の足の爪は健康色に戻り、何事もなく暮らしている。

 この体験から考えると、彼がやった水行は慰霊と言うより、むしろ修祓に近い。

 ということから水子というのは、慰霊の対象にはならないのではと思えるのである。

 本来なら生まれるべきものが、流産という形でこの世に生まれることが出来ず、その魄の執念が成長して霊の働きのように、映っていたというのが本当かもしれない。

 だから私の見た女の子の顔は、三歳位のイメージだった。

 その水子も時間をかけて、魄として成長していたのだ。水子ほどこの世にも生まれられなかったという未練は強い。魄となりこの世に留まり、成長していたのだろう。

 現在の大和山では水子の慰霊を認めているが、本来は教祖さまの言われた水子の霊というのは、この魄が強くなり、霊のように見えているのが真相かも知れないのである。

 無限不浄界は自殺者、殺人者が行くとある。この苦界に堕ちた仏は生涯浮かび上がることはないとあるが、これには私も同様な体験がある。

 それは松影祖父の代の話であるが、聖路叔父が幼い頃風邪がなかなか治らず、伺いをしたところ、七代前タマの仏とあった。

 松影祖父が調べたところ、確かに七代前にタマという仏がいた。

 大そうきれいな人で、余り美人だったために、逆になかなか縁付かず、最後はヤクザのような男と一緒になり、何度か実家に逃げてきたが、その都度連れ戻され、最後は水車小屋で首を吊って死んだという話。

 その仏は最近お伺いはしていないが、以前はお伺いの度によく出てきた。

 今も慰霊供養の祝詞をあげる時は、欠かさずみ名を唱えるようにしている。

 自殺者の仏と言うのは、一生浮かび上がれないと感じている。

 さて、皆さん方が素朴な疑問に思われているのが、特攻隊、武士が自決するというのは果たして自殺と同じで、無限不浄界に行ってしまうのかというものである。

 私が松風塾生の時、舎監が教祖さまに特攻隊は自殺として扱われるのか、という質問をしたことがあった。

 教祖さまは特攻隊の人たちは国のために殉じたのだから、自殺とは扱われないと明確に答えられた。

 神典には国のために殉ずる者の扱いは、公のために死んだので自殺とは異なるとある。

 人のすべき正しき道は、国、君への忠であり、そして親への孝であると説く。

 この二つは両輪のようなもので、どちらを欠いてもならないとある。

 忠、孝こそが人の道として守るべき基本だとある。

 道徳心は現代より、中世の人々の方が遥かに優れていたという。

 それは戦記などで国のため、君のために尽くして死んだ人の姿は万人の胸を打ち、そして涙なしでは読むことが出来ない。そんな姿こそ最高の生き方であり、人の最高の道徳であると賞している。だから国に対して殉じる心は、最高の徳目であると讃えている。

 忠孝こそ最大の徳目であるから、自決する人のその潔い生き方は辛いことであるが、神とて素晴らしいものであるという。忠孝とはどちらを欠いても意味をなさず、二つを一組として働くことが最高の力を発揮するという。親への孝行はそのまま突き詰めると、君への忠へと発達してゆくものだという。

 済度教典には大君の命を狙うものは、一命を賭しても断固排除せよとある。

 そして、その命が草の露と消え、そして屍を人知れず野に晒したとしても、その気持ちを誰が知るか。その気持ちを神は知っている。

 そして、仏が死の際に救いの御船で出迎えるとしたら、神はその魂を神自ら抱きて、救いの国に導かんとある。

 公のために死ぬというのは、私のために死ぬ自殺とは全く意味が違う。

 公のために死すというのは大義のために殉ずることであり、私を超越した次元の世界なのである。

(わたくし)とは所詮欲である。欲の世界に、神は棲まない。

 私を超えた次元が、即ち神の属する世界なのだ。

 現在の人たちは、中世の人より遥かに道徳心としては劣り、その数は極めて少ないと神は嘆く。

 何故か、それは知識、学識が進んだ分、理屈だけが先行し、純粋に国や君のために殉ずる心が失われてしまったという。

 大和山で紋章に掲げる殉道の記章は、私を捨て公、神に殉ずる道と説く。その意味は大きい。

 今一度、信徒としてこの殉道の意義、意味を改めて考える必要があると思う。

 さて、慰霊で大事なのは回数ではなく、仏に捧げる真心だと教祖さまは説かれる。

 真心さえあれば、そんなに沢山の慰霊を出さなくても救われるというのである。

 教祖さまが説かれる慰霊を出す時の心構えは、ゴミや穢れたものを捨てるような、片づけるような気持ではいけないと言われる。

 実際、私も小学校の頃慰霊を書く時は億劫と言うか、面倒くさいという気持ちが先に走ったものだ。

 確かに小学校から、優等生の慰霊書の書き方をしていたら一寸恐い。

 今は面倒くさいという気持ではなく、物故者のことを思い起こし、成仏祈願祝詞を上げている。

いやむしろ上げさせてもらうのが、ありがたいことだと思っている。

 物故者のみ名を唱えながら、この人はどうしているかと追慕するようになった。

 唱え方一つで、心構えも変わるものである。

 さて、慰霊で思い起こすのは、青森出張所の昱子叔母から大学の進学のため上京するとき、こんな話を聞かされたことがある。

 「向こうに行けば、下宿で色んな仏の霊障に遭うよ」

 こんなことを聞かされ、私自身狼狽したものだ。

 要するに、大和山の慰霊の信仰をしていると、色々な仏が枕元に立つようになるよ、ということだ。

 実際、何度か下宿を変えたが、その度に金縛りは付きまとった。

 本当にお山を信仰していると、浮かばれない仏が私に付きまとうということをつくづく感じた。

 お山の慰霊の功徳の素晴らしさは、こんな形で表れていると思うのだが何しろあの頃は若過ぎた。とても慰霊する気持ちにはならなかったが、今では素直に慰霊する気持ちになれる。

 実際、浮かばれない仏には大和山の慰霊というものは、ワラにも縋る思いで頼ってくるのだろう。

 もう大和山の信仰を止めてしまった方だが、その人は信仰熱心で一年間毎日慰霊書を出していたが、感心と思うより話を聞くと、単に行として続けていたと言うが、果たして出した慰霊のうちどれだけが仏に届いたかを考えてると疑問である。

 時間と金のムダ遣いだと思うのだが、結局仏には届いていなかったと思われる。

 バブルの時、土地を売りその金で株に手を染めたが、バブル崩壊と共に資産は底を尽きた。

 今はかつての神業仲間と神業に明け暮れているが、神業というのはそれ相応の因縁がある人以外出来ないことになっている。

 実際、神業関係の人は因縁の深い場合が多い。

 因縁のない人が手を染めても、逆に要らない因縁まで背負う人が多い。

 神業という経綸の芝居の役者というのは、それ相応の因縁がないと出来ないことになっていると思う。

 神業という芝居の台本に登場しない役者というのは、それ相応の矛盾を背負う結果になるから好んで神業に入る必要がない。

 神業とはその場面、場面で必要な役者であり、その人が主役だとは記されていない。

 だが、神も巧妙だと思うのは、その人間が主役だよと騙さないと動かない人が多い。

 過去、多くの神業関係者を見て来たが、大半は自分が主役だと思って役所を演じてきた人ばかりだ。

私はそんな弊害を見て来たために、自分から好んで神業に参加するのを止めた。

 神業も大事だろうが、自分の信仰を磨く方が大事だと思ったからだ。

 多くの神業関係者は、神業すらやればそれでいいという人が大半だ。

 教祖さまはその点、限られた神業以外は人生の大半を信仰の確立に費やされた。

 その点では、悟心を磨くのに徹しておられた。

 だからこそ、我々信徒には信仰者としての鑑であり、我々の道しるべなのだ。

 信仰をすることにより、信仰の確立に努力する。そして、業の清算が慰霊でもあったのだ。

 田沢家を見ると、本当に業は深いと思う。

 その業の深さを教祖さまは一代で田沢の業を清算してきた。

 だから田沢の本家は全て血筋が途絶えながらも、教祖さまの家系は血筋が存続出来た。

 元来、そういう因縁の深い家系だからこそ宗教に開眼出来たのかも知れないが、今でも田沢家の血筋に業の深さを見る時がある。

 私は白川家の血が濃くて良かったと思う。白川家は家系的に人のいい人が多い。

 これも父のお蔭と感謝している。兄を見ると変に優秀だが、この田沢の血を深く受け継いでいる。

 同じ兄弟でも、かなり大きな性格の差があらわれるのだから、改めて先祖の因縁の深さを知り、慰霊に励まなければならない。

だから、真面目に慰霊書を出さなければと思う。

 最近亡くなった父母が、夢に現れるようになった。

 生前、こんなことはなかった。亡くなっても私のことを、霊界から案じてくれているのだなあとしみじみ痛感する。慰霊とは仏と自分をつなぐ一つの架け橋だと思うと、物故者のみ名を唱える自分はしあわせだなあと思えるようになった。

 前はただ慰霊を出せばいいんだという義務感が先に立っていたが、今では慰霊をさせてもらえる自分にしみじみと、ありがたさを感じるようになった。

 やはり慰霊を出す時の心境如何で、仏に届くか届かないかを感じ取れるものだ。

 要は慰霊に対する心構え一つだ。

 皆さんも心の底から物故者を思い起こし、そして書く幸せに浸るようになった時、その慰霊は仏に必ず届いていると感じてほしい。

 それが教祖さまの説かれる、真心だと私は信じている。

 さて、仏像のような偶像崇拝を教祖さまは否定されているが、それは一面にしか過ぎない。

 というのは仏像に向かって拝む時、その微笑の姿に清浄の気を起こせば、それはその時だけの一瞬の清浄でもよい。その清浄の状態を如何にしてなすかが、善に通じて行くのだと仏神教にある。

 神社に行って拝んだ所で、その場所に神が居られる訳ではない。

 その時、清浄の祈りを捧げた時、天にある神がそこに来るのだとある。

 要はそういう清浄の祈りを捧げる人が百万人いれば、悪に満ちたこの世は一瞬でも浄化することが出来るとある。

 一瞬の祈りであっても、天に捧げることにより、世の浄化となる。

 祈りはちっぽけなものかも知れないが、多くの人が清浄の祈りを捧げることにより、大きな浄めとなるのだ。

 祈りのなかに欲があってはいけないというが、多くの人はこの欲の祈りから抜けられないものだ。

 私がよく祈る祈りと言うのは、欲が出ないような祈り方に徹している。

 たとえ自分の願い事を祈ったとしても、最後にどうか神さまのみ心のままにお任せしますと結ぶのである。

 こうすることによって、自分の欲が消えてゆく。そうしないと、神さまに届かないと思っている。

 人と言うものはどうしても欲、つまり我が先に走る。無欲の神の前にそんな祈りを捧げたら、届くものも届かない。だから、私は一切を神に委ね文句は言いませんと結ぶのである。

 これなら教祖さまの言われる頼む、頼むの祈りから抜け出せる。

 私は神に一切を委ねる祈りに徹して、なるべく自分の欲が湧かないように努めている。

 祈り方一つで、祈りの質もまた変わってゆく。

 信仰の質と言うのは、要領さえつかめばそんな難しくない。みなさんも信仰の本質をつかんで、自分の信仰を伸ばしてほしい。

 教祖さま時代の慰霊通信というのは、一日二十通から多くても三十通程度だった。

 だからこそ、教祖さま自ら一人一人の慰霊書を丹念に伺われ、先祖関係何体の仏とそれぞれの慰霊書に書かれて、そして慰霊して下さったものだ。

 だが、現在では慰霊通信の数は多くなり、一時多い時では五百通を超えることもあった。

 それは父の書いた「慰霊供養の話」の書によって、慰霊に対する理解が信徒間に普及したせいもあるが、今では二百通にまで激減した。

 そして、もうこれだけの数の慰霊通信となると、一いち一人ずつ伺うような余裕はない。

 そのため、省略した形で何体の関係の慰霊の数を記した慰霊書が、返信されるようになった。

 現在の記されている慰霊関係の仏の数は、教祖さま時代の名残りを留めているだけにしか過ぎない。

実際は、そういう霊能者を何人も神務室に置いて、伺わせて関係の仏の数を記して上げると、本当の意味の慰霊になると思うのだが、現在の本部の現状では無理であろう。

 またそういう霊能者を認めようとしない本部の体質を見ると、歯がゆい思いがする。

 大和山の素晴らしさは、必要があればそういう霊能者を自在に授けるという力があるのだが、まるで霊能力を特定の人だけに集中させ、神格化させ自分たちの専売職にしてしまっているのには情けない気がする。

 かつての本部は、そういう点の融通が遥かにあった。

 霊能者「角田きさ」「吉田りゆ」のお伺いで出した仏、修祓札すら慰霊書に記すと、本部では抵抗もなく出してくれたものである。

 今はそんな融通は残っているのだろうか、霊能力を自分たち以外認めないようでは、大和山の将来、発展は望むべくもない。

 これも経綸の一環だとしたら、仕方がないと思うが、一番気の毒なのは地獄で苦しむ仏ではないだろうか。慰霊を出せ出せと言っても、時間と金がかかる。

 それに慰霊書の数が激減したことは、本部そのものの経営基盤を危うくしている。

 年一千万から二千万円の赤字だという。

 それに教祖さまの説かれた慰霊は、一カ月に一度で良いというご教話は我々に何を訴えているかを知らなければならない。

 教祖さま自らそれぞれの慰霊書に、何体の先祖関係の仏と記して下さっていた状態に戻れとは言われない。教祖さまのような霊能者がいない以上、今更無理というものである。

 我々はむしろ、一人一人の仏に対して真心を込めて、慰霊書を書くことが望ましいということを知らなければならない。

 問題は慰霊書を書く心構えが、ちゃんとしていれば量より質である。

 少ない回数で間違いなく、仏に届くということを教祖さまは訴えているのだ。

 書けばそれでいい、という慰霊だけはやめてほしいものだ。

 一体、一体の仏を思い出しながら慰霊書に書き記すことが最高の功徳であり、天に届くということを知ってもらいたい。その方が仏は喜んでくれると教祖さまは言われたのだ。

 返信される慰霊書のなかに同封されている遍照の鈴のお札の意味を意外に知らない人もいるので、改めて記しておきたい。

 遍照の鈴のお札は原則として、慰霊は本人が参山して出すのが本当なのだが、それを本部があなたに代わって、慰霊して上げましたよ、という控えが遍照の鈴のお札の意味なのだ。

 言ってみると、宅急便で荷物を出すと、その控えが手元に残る。そういう類だと思った方が分かりやすい。

 そして、そのお札が手元に残り、参山した時窓口に納め正式に慰霊祭に出て初めて、全ての手続きが完了するという意味だ。

 原則は参山慰霊にある、ということを改めて知ってもらいたい。

 さて、仏神教では坊主が死ぬと真っ先に地獄に行くとあるが、なぜこれほど仏教界の堕落を神は嘆かれているのだろうか。

 それは葬式専門の仏教になったことにあるという。

 言ってみると、形骸化したためでもあるが、昔の仏教は人を救うだけの力があったが今はないという。なぜか? それは平和の時代が、長く続き過ぎたためだ。

 例えば兵士は戦争をするために、剣を帯刀するのを怠らない。

 だが、平和の世の中が長く続くと、遂には剣を携帯することすら忘れてしまう。

 剣を持っていなければ戦争にも負ける。それと同じで、日に日に不安と戦乱の状況にあれば常に仏の加護と救いを僧は忘れない。

 だが平和が長く続くようになると、僧は仏の加護と救いをとかく忘れ勝ちになる。

 それが仏教の堕落へ通じていると、仏神教は説く。

 平和が長く続いたため経を唱える時ですら、仏の守護を願わず別のことを考えている。

 葬式の度に、金が入ることばかり考えている。そして、その金を貯え、そして自分の地位が高くなるために費やす。

 それか妾を囲うようになる。酒は飲む。タバコも吸う。肉も食らう。もはや戒律を守る僧は殆どいない。居たとしても、山に隠れ貧しく暮らしている僧くらいだ。

 願わくば僧よ。仏像に向かい礼拝する時だけでも、仏のことを思い経を唱えよ。

 仏神は切実に、僧にそう訴えている。

 本来の仏教は民衆を救うために存在したのだが、今や金儲けのことしか考えていない。

 つまり民衆から遊離した宗教に、成り下がってしまった。

 ではなぜ、仏教と神道の二つが日本に存在しているのか。

 それは神道で救われない人は仏教により救われ、仏教で救われない人のために神道があるのだと説く。

 どちらの教えも必要なためにこの世に遣わしたのであり、両者が自分の方が正しいと争うのを仏神は嘆いておられる。

 私は家の都合で、国学院大学の神道学科に進学した。

 私は歴史が好きだったから、本当は史学科に進みたかったし、幼い頃から寺や仏像を拝観するのが好きだった。仏像を眺めているだけで、妙に清々しい気持ちになったものだ。

 嫌々親の命令で神道学科に進んだが、今ではそれも良かったと思っている。

 神社も寺もどちらも好きだし、大学の友人の大半は社家の出身で、神社の子弟ばかりだ。

 概して、社家の友人たちは性格がいい。やっぱり神仕えの身だから育ちもいい。

 ただ頭は、一概にいいとは思えない。やはり優秀なのは寺出身の人間の方が優秀だ。

 学問と言う点では、仏教関係の方が優れており神道系は敵わない。

 それでも性格面では、社家の人間が遥かにいい。それだけでも良しとするべきだろう。

 唯一、大学の友人で優秀だったのは、開成高校から神道学科に入った友人位だろう。

 彼もまた家の事情で、神道学科に進学するしかなかった。

 現在は神田明神の神主をしているが、現在はテレビにも時折でて解説する位だから、優秀なのだろう。彼に大和山の宗教を問われた時、礼拝と拝跪のみの信仰はと説明した途端、彼は即座にそれは神社のことだろうと瞬時に看破した。

 神社神道の限界を彼は彼なりに知っていたのだろう。

 何しろ、神社神道と言うのは教義がない。

 あったとしても、赤き、清き、直き心という程度で、大和山のような教義体系はない。

 それが神社神道の最大の悩みというか、課題だ。

 大和山の教義を体系付ければ、私は世界に通ずる宗教になると信じている。

 神典を読む度に、唸ることがしばしばだ。

 私は大和山が世界に出て行くためには、この膨大な教典を整備するのが急務だと痛感する。

 だが、父亡き後、大和山の教義を整備できる人は、残念ながら大和山にはいない。

 学ぶ機会もなければ、そんな必要すら感じていない人が多い。

 膨大な神典を紐解く気概があれば、大和山は世に出現出来るのだが、そんな気は更々ないようだ。

 知識として大和山の教義を整備したとしても、霊的な側面で教義を見つめて行かなければ、片手落ちになる。

 私の願うところは、誰もが納得出来る教義体系の整備だ。

 知識だけの教義体系ならば、それ以上の進展は見られない。

 私がこの解説で手掛けようとしているのは、単なる知識としての教義体系ではなく、むしろ万人が納得出来るような霊的な素地を含んだ教義体系なのだ。

 なぜ、特攻隊で死んだ人は単なる自殺とは違うという点も、そう神典に書いているだけでは、誰もが納得しない。それを補足してこそ、大和山の教義の素晴らしさが分かるというものだ。

 大和山の素晴らしさは、神が自ら降下した神典にある。

 これは、人智の及ぶ世界ではない。

 キリスト教の教義体系は、人間が考え出したもので神の意志とは全く違う。

 キリスト教の持つ限界がこれだ。

 私の手元に「極めよ信仰 行けよ道」という教祖さま自らが浄書して、父が入門の時に渡されたノートがある。現在、こつこつとタイプして皆さん方に配布する予定でいるが、この神が下した詩というものは、とても我々人間が書けるようなものではない。

 格調があり、犯し難い威厳がある。やはり神が降下された物だと納得出来る。

 こんな素晴らしい教えがありながら、本部は至って無関心である。

「楽園歌」は短歌形式で、将来の大和山から立替に至るまで書かれている。一種の預言詩である。

これを解読してゆくだけでも、布教面でも大きな助けになる。

大和山の信仰は大まかに分けると、ご利益信仰と人格の向上を目指す二つに分かれると思う。

人格向上を目指す人には、やはり渇望して止まないのは教えであろう。

教えを研鑽し自己の向上を高めるためには、より以上の教えの探求しかない。

ある信徒の方が大和山の教えは最高信徒は最低と酷評したが、ご利益以外求めようとしない信徒が如何に多いかを嘆いているのだ。

私は大和山の教えは最高のものだと信じているし、この教えを如何に世の中に広めたらいいかと考えている。

大和山の教えを単なる知識ではなく、知恵として生活の糧に実践出来るようなレベルにすれば、誰でも無駄なく信仰道の精進に進めると思う。

だが、まだその時期ではないのだろう。神にも時ありとある通り、世界に広めるタイミングを神は待っているかも知れない。

実際、梅の高天原と称される大本の出現により、大本は全国各地に爆発的な勢いで広まった。

戦前は創価学会より、遥かに信徒数が多かった。だが、大本の出現は時期が早すぎたのだろう。

済度教典には、梅にウグイスが止まっていれば理想なのだが、スズメ、カラスしか止まっていないとある。そして、大本のシンボルは白梅が理想なのだが、今の大本は紅梅であると述べる。

事実、大本二代目教主輔出口王仁三郎もまた、大本は紅梅のため三代で役目は終わる、と予言している。

事実、現在の大本には戦前のような勢いはない。ひっそりと静まり返り、大和山と信徒数は並ぶか並ばないかまで、激減してしまった。

大本が経綸上、日本に出現した意味はどこにあったのだろうか。

これを解かない限り、大和山出現の意義も価値も分からない。

私はこれを、大本は経綸を重視したのが、大きな役割と理解している。

王仁三郎は側近に、「大本は宗教団体やない。神業団体や。この意味が分かるか」と漏らしていた。

つまり、大本の役割は経綸の予告をすべ、日本に出現したということになる。

世界の雛形として、日本に世界の型を示す基盤を築く。

この霊的磁場によって、後を引き継いだ大和山がそれを再編成して再び実演する。

だから大本では聖典と称する物は、「大本神諭」と「霊界物語」しかない。

大和山は逆に三光の教典「仏神教」「済度教典」「外国治教」、五光の神諭として「大和山神諭」「楽園歌」の二つを加えている。

これは大和山の教典としては極一部になる。その他降下されたご神歌集を加えるとその数は膨大となる。

これだけの膨大な神典の数は、明らかに民衆教化としての役割の側面を、強く持つことを意味している。

教祖さまは経綸も重視されていたが、松の世、神の世の到来の後、大和山が世界宗教の一翼を担うと確信しておられた。

大本はつまり経綸上の役目を、強く担って出現したと捉えた方が分かりやすい。

王仁三郎は、自分の役目を認識していた。

政治家、床波竹次郎の弟、真広に宛てた王仁三郎の遺言状に謎の一節がある。

「いま、大本にあらわれし変性女子(へんしょうにょし)はニセモノじゃ、誠の女子が現れて、やがて尻尾が見えてくるだろう。女子の身魂を立て直し、根本改造しなくては、誠の道は何時までもひらくよしなし。さればとて此れに勝りし候補者を、物色しても見当たらぬ。時節を待ちていたならば、何れあらわれ来るだろう。尾張か美濃の国の中、実の女子が知れたなら、もう大本は終わりだろう。(以下略)」

 つまり男の身体で女の神の身魂が入っているという変性女子である王仁三郎は、自らの神格を否定しているのである。

 そして、この遺言状から大本系教団が美濃の国に当たる岐阜県に神殿を構え、そして自分の教団が正当であると主張するに至るほど、この遺言状が教団内外に与えた波紋は大きかった。

 だが、実はこの「尾張か美濃の国の中」という一節が曲者なのだ。

 この二つの国に挟まれたように、北伊勢という国がある。

 この北伊勢で大本裏神業を大本第二次弾圧直前、王仁三郎から託された側近がいる。

 北伊勢の大地主で大本の教えに共鳴し、全財産を大本に寄進して大本教団に入った辻正道(雅号天水)である。

 弾圧直前、王仁三郎から自分が刑務所に入ったら神業が出来ないから、代わりに裏神業をやってほしいと天水は託された。事実、献上した財産は全て天水の名義に戻されていたというから、王仁三郎に裏神業を託されたという話は荒唐無稽な話ではあるまい。

 通称、錦之宮として裏神業を始めた天水であったが、神業というものはやはり芝居のような側面を強く帯びる。

 ここに出入りした神業関係者に、大和山と後に関わる富士宮瓊光(ふじのみやたまみつ)もいた(『松風の翁』第三十巻、百五十七頁参照)。

 錦之宮では神業では様々な異象を見せるなど、瓊光の霊能力は異彩を放っていたが、何しろ素行が悪かった。女性関係では、色々と問題を起こす人物だった。

 教祖さまは瓊光を一目見るなりこの男の信仰に陰りありと、色情関係で問題を起こしていることを看破された。それがその年の年頭のご神示の鏡餅をかじるネズミの絵なのだが、その意味では確かに瓊光は、大和山を食い物にしようと目論んでやってきたのだ。

 色々な神業関係者が出入りしていた錦之宮ではあったが、特筆すべき点は大立替の到来の時に起こる天象を前に、神業をやっている点である。

 つまり、大本経綸というのは日本という雛形に、世界経綸という神業を敢行することにあった。

 済度教典十巻には、経綸について次のように述べている。

「経綸とは神界では風となり、現界では影として現れる」と云う。

 経綸とは神界、現界表裏一体になっているのが分かる。

 それが教祖さまは神業というのは、神界の現象が現界に影法師となって現われると言われた理由はここにある。

 後に、「日月神示」で有名な岡本天明がこの地を訪れこの地の霊的磁場に驚嘆し、晩年はこの地で余生を送るようになる。

 「日月神示」を世に出そうとする天明と、天水の立場が明らかに異なっていた。

 天水は影に徹して世に出て、錦之宮の意義を問うことはなかった。

 天明は「日月神示」を世に出し、世間に評価を仰ごうとしたのだ。

 天水の生き方は教祖さまの時が来るまで、世に出るのを拒まれた生き方に通じるものがある。

 錦之宮に降りた神示のなかに「松風の翁」という物語形式のものがある。

 「松風の翁」を主人公にしている神示だが、教祖さまを暗示させているような気がしないでもない。

 機会があれば、「松風の翁」だけでも刊行したいと思っている。

 だが、錦之宮もまた王仁三郎のニセモノという件と、同じことをやっている。

 天水は生涯子供に恵まれなかった。錦之宮で後に神示を取り次ぐようになった冨美子氏と、子を授かるという神業を実演し、実際に子供が授かった天水は自分の子供として可愛がったが、子が幼少のうちに天水自身は他界する。

 実はこの子が遺伝子鑑定の結果、天水の子ではないと判明した。そして冨美子氏の記憶が定かでないのを利用し、それを暴いた女性が冨美子氏の養女となり、錦之宮の後継者となった。

 王仁三郎と同様、ニセモノの型を出し、錦之宮は全く別の人間が居座る羽目となった。

 往時の錦之宮は影も形もない。

 どこかの教団と似ていない訳でもないが、錦之宮は先駆けとしての型を出したとすれば納得出来ないこともない。

 教祖さまも本物の前に、ニセモノが現れると予言している。

 ユダヤ記の預言、偽メシア出現の件を思わせるような話であるが、日本の型ではオウム真理教が偽メシアの型になるであろうか。他にも偽教団は多い。

 とすると、今度は世界に偽メシアが現れるということになろう。

 経綸というのは、神界の雛形として核が先駆けの型として始まり、次に日本、世界へと三段移写という形で、移行するという現象になっている。

 経綸を理解するためには、この原則を頭にしっかり入れて頂きたいものである。

 最近のニュースで今まで日本では、滅多にないと思われた竜巻の被害が大きく報道されるようになった。

 教祖さまは大立替になると、地震雷雨嵐なんでもありと言われた。

 もうそういう時代に突入したとは言え、ニュースを見る度複雑な心境になる。

 ヨーロッパの不景気は、そのまま世界経済にも大きな波紋を投げかけた。

 父は「済度教典」を研鑽した結果、済度教典に「大立替は風によってなす」とあり、風の正体は金だと言い切った。

 現在の日本、世界の情勢を見ると、景気不調により経済は低迷し、元気な国はインド、中国という有様と化した。

 その意味では、父が大立替は金だと見抜いたのは脱帽の至りである。

 こういう状況下では、神の意図とする大立替は着実に進んでいるのかと考える。

 こういう状況下でも富が特定の階級にしか集中出来ないなら、貧富の格差は格段に開いていくだけである。

 大立替の波は経済、自然、社会そのものに、今や怒涛の如く押し寄せている。

 十年前はとても考えの及ばぬことである。

 安いエネルギーを求めれば、即ち原子力に依存しなければ企業の経営、我々の生活を圧迫する。

 だが、原子力に頼ると一歩間違うと環境破壊。つまり我々の住めない世界が生まれてしまう。

 どちらも欲しいが、環境破壊はいやだ。こんな虫のいい話はない。

 例えて言えば、我々の両手は片方を捨てなければもう一方の物は取ることが出来ないようになっている。

 環境を取るか、楽な暮らしを取るか。原子力に依り破滅の道を進むのが良いのか、もう人間はその究極の選択を迫られていると言っていいだろう。

 原子力発電の地元住民は、原子力反対とは素直に叫べない。原子力の稼働が停まると、地元に金が落ちてこないからだ。我々は身勝手だと言えばそれまでだが、原子力のエルネギー政策もまた、大きな転換期を迫られているのは確かだ。

 電気がなければ、工場は稼働しない。その上、アメリカのイラン制裁で、原油の輸入はストップした。原油は値上がり、肝腎の原子力は使えない。

 負い目祟り目というが、日本はそういう重大な岐路に差し掛かっている。

 矛盾のようだが、景気低迷で一つだけメリットがある。

 消費経済の低迷である。消費経済が緩やかになると、なるほど環境破壊の進行が遅れるということである。

 原子力のウラン鉱脈をアメリカの先住民たちが、聖なる土地として守り続けた話は前にも触れた。

 先住民はウランが人手に渡ることを恐れて、これまで死守していたのだ。

 つまりウランの恐るべき威力を、神から聞かされ知っていたのだ。

 ウランほど厄介なものはない。原子力の燃料として使うと、核融合の結果、プルトニウムという猛毒の元素に生まれ変わる。

 こうなってしまうと、この地上に置くだけで猛毒の脅威に我々は晒されることになる。

 以前、ウラン、プルトニウムの元素番号(ウラン929×2183×618・プルトニウム94 9×36)はミロクの数字を含んでいると書いた。

 ミロクの世とは我々にとって地上楽園というイメージを持つが、その過程を経るには通り抜けなければならない、大峠、即ち大立替があるのだ。

 原子力は我々に多大な恩恵をもたらした。だが、使い方を誤ると、祟り神。つまり艮の金神としての性格を、強く帯びてくる。

 原子爆弾の登場により、戦後の戦争兵器な意味は大きく変貌した。

 相手の国を殺傷出来るだけの兵器の登場により、原子力を持つ国は対戦国が同じ核兵器を保有している場合、共倒れになる危険性を秘めているのだ。

 下手に使えば自らも滅ぶ。こんな殺傷兵器の登場により、使いたくても使えない。

 そんな戦後の世界構造が生まれてしまった。だから、第三次世界大戦が起こらないまま現在に至ったのもまた、この核の持つ殺傷能力に外ならない。

 戦後の世界構造は、この祟り神の支配のもとに続いているのだ。

 平和裏に利用すれば問題はないだろうと、今度は原子力政策にエネルギーを転換させても、艮の金神はまた刃を向けてくる。

 核、エネルギーのどちらに方針を変換しても、裏側から人間に睨みを利かせる金神は、脅威以外の何物でもない。

 人間の英知を結集したところで神の前に我々は無力であると、骨の髄まで思い知らされているのだ。

 自然から遊離した文明ほど、大自然の前に無力なものはない。

 だから、神諭では「自然は神なり」と説くのである。自然から神の摂理を学ばなければ、我々の文明は歪を来たし、挙句の果てには滅亡しかない。

 自然と共存してゆく文明が今、世界で脚光を浴びている。

 自然に優しいエネルギー、つまり自然と一体化した技術がいま世界に求められているのだ。

 例えば、最新の新幹線の最高速度を上げるために導入された技術が、新幹線の先端部分の妙な尖がり部分である。

 これはカワセミが空気抵抗を最小限度にして、獲物を取る口ばしを参考にして作られたものである。

 そして、ビルの外壁掃除に塗られた塗料はカタツムリの粘膜構造を参考に作られ、活用されている。

カタツムリが通った後の葉の表面に、水が付かないという発想から生み出された塗料である。

 だから、この粘膜構造から作られた塗料を使ってビルを一度掃除するだけできれいになるという。

 いま人類は自然のなかから、来るべき科学を模倣している。

 自然に根差した科学という発想に、ようやくたどり着いたのだ。

 燃料問題もまたこの自然から学んだ結果、特殊な藻を繁殖させ、それを石油に変える資源に活用する実験が、実用出来るかどうか、という段階まで来ている。

 開発者の夢は琵琶湖の表面積の水面があれば、将来産油国として原油を世界に供給出来るというのが目標だという。

 この開発者は外国メジャーが技術の買い取りに来たが、日本の国益を考えて断ったという。

 日本人は自然から、神の摂理を学んでいるのだ。

 まだまだ快挙は続く。蚊の針構造を分析し、刺す時痛くない注射針まで開発段階にあるという。

 日本人は自然を大事にし、自然と共に歩み続けている。

 正に「日の本の民」である。

 日本人ほど、自然を大事にしてきた国民はない。

 現在、日本に残る森林は人工林も含めて、国土の七割を占めている。

 かたや、ヨーロッパは三割しか林はない。かつて森の都と讃えられたドイツですらそんな有様だ。森や自然から離れて暮らす現代人に、未来はあるのだろうか。

 最近、そんなことばかり考えるようになった。

 大立替が到来し、ミロクの世、松の世、神の世到来までには何十年もかかるだろうと思うが、「済度教典」第十一巻には神の世の到来は、数年で完成するとある。

 我々凡人はどんな裏ワザを使い、神がこの偉業を成し遂げるのか想像もつかない。

 神の威力というのは食指を動かすだけで、瞬時に天地をひっくり返すだけの力を持つとある。

 だが、その力をまだ神は使っていない。

 大立替の究極の選択は、魔の滅亡にある。宇宙開闢以来、神の誕生と共に魔も発生した。

 この魔の数は総数八百万の神の十二倍もあるという。そして、現在は一割の魔を滅ぼし、十一倍まで減じた。だが、数からすればとてもまだまだ膨大な数である。

 この魔の殲滅が神の究極の願いであるというから、大立替の壮絶さは容易に我々でも想像出来る。

その惨状はとても常人には、目を開けてみていられないとある。

 さて、魔の頭の神邪神はどこに棲むか。これは北に位置する。

 だから、大国常立大神が三千年前に東北の方角に隠遁したというのも、邪神界に睨みを利かせるためであった。

 だから「大本神諭」には「艮の金神は影から守護してありたぞよ」とあるのは、隠遁しても邪神から、大国常立大神が我々人間を守っているということが分かる。

 我々の時間で云う三千年というのは、人間の感覚での三千年であり、神界の三千年の時間の感覚とは違い、遥かに短いという。

 時間という感覚で思い出すのは、果たしてタイムマシーンというのが果たして可能かというのだが、アメリカの国防省が密かにこの機械の開発に成功したという話がある。

 その真偽のほどは不明だが、この実験には興味深い報告がある。

 過去に行く分には、人体に支障は出ないが、未来に行くと、例えば百年後に行くと、人体は急激に歳を取ってしまい。未来では長く生きられないという。

 この話で思い出すのは、浦島太郎の伝説である。

 大和山では古来から因縁の深い神で、大和山は太古の神の復活であると述べた物部氏がある。

 この物部氏が始祖と仰ぐ火明命を祀る丹後の国の一の宮とする籠神社の海の奥宮が男嶋、女島である。この嶋に最初、火明命が降臨したという伝承がある。

 この嶋に艮の金神が隠遁していると、嶋開きをしたのが大本開祖出口直である。

 この嶋もまた竜宮城の伝説があり、養老時代に竜宮城に行った男の記録があり、玉手箱を開けたところ、たちまち歳を取ったという。

 国史に記されるほどの事件だったのは確かだ。

 未来に行くと、たちまち歳を取るという話からしても、あながちアメリカでタイムマシーンを開発したというのも、嘘の話のようには思えない。

 未来に行くとたちまち歳をとるというのは、実際にあった事件ではないかと思われる。

 結局、今もアメリカでこの実験が続けられているかどうかは不明だが、人間の科学がいくら発達しても、人智を超えることに限界があるのは確かだろう。

 時間という概念は全て神が掌握している。だから、過去、現在、未来の時間すら全て一切、神はお見透しなのだ。

 よくお伺いで過去のことをお示し下さると、その通りだったという話は過去という時間も消えることなく、次元を超えて存在していることを意味する。

 ということは未来も全て、神は見透されている。未来の時間もそのまま存在しているということになる。

 だから未来という時間すら掌握している神だからこそ、今後起こり得るのは必然的過程なのだ。

 八百万の神を総て掌握しているのが、天空三三三大神。即ち、御三体大神と称する造化の三神、そして国産をされた伊弉諾、伊弉美の大神の五代の神は八百万の神と全く別で、その神の数に含まれないとある。

 この五代の神は宇宙創造神、地球の生命誕生の祖神と言ってもいい。

 まず、宇宙を誕生させたのがミロク神であり、そして地球という星に生命を誕生させたのが、伊弉諾、伊弉美である。つまり、陰陽の働きで我々を誕生させた。

 だから、生命の根源はこのミロク神から発しているという。我々の命の根源は、全てミロク大神の意志によるものなのだ。

 八百万の神すら神の神と認めるのが、このミロク大神であり、宇宙最高神である。

 我々の世界が神界と表裏一体になっているのは、神界のなかでミロク大神に次いで神と崇めるのが、天照皇大御神であり、それが現界で見える形では大君、即ち天皇を型として現している。

 そして八百万の神が現界で相当するのが、他ならぬ我々人間なのだと、「済度教典」十一巻にある。つまり、神界も現界も同時進行で誕生したことに他ならない。

 大和山神諭に「神の理想具現すべく精進す。これぞ信仰の骨髄なり」とあるのは、現界もまた神界の写りとして誕生した、ということを意味している。

 だから、大立替というプロセスを経て、我々の世界を神の理想郷とするのは、顕幽(けんゆう)一致という過程では必然な結果だからだ。

 我々は神の神聖を帯びている。だから、神のみ子であり神を親として崇めるのは、単に人間が霊長類の頭として君臨しているのではなく、神の身魂の一部を帯びる故に、地上に神の理想郷を再現しなければならないという、使命が課せられているからだ。

 その意味で、この神諭の一節は軽々しく見過ごしてはならない。

 陰としての神界があり、陽としての我々現界が並立して存在する理由はここにある。

 一方だけが、存在すること自体無理なのだ。

 霊の世界としての神界、物質としての世界の我々が住む現界、どちらを欠いても存在しないのだ。

 我々の世界が物質文明に主力を置く観点から、精神世界に方向転換を迫られるのが、大立替というプロセスなのだ。

 「済度教典」「仏神教」が人間の持つ欲というものを、神がひたすら嘆かれるのは、物質文明に依存すればするほど欲を持ち、その欲に魔が付随するからだ。

 松の世、神の世というのは精神世界を重視した価値観が現れる世界の出現である。

 我々が大立替を乗り越える過程において、即ち精神文化に移行するために避けて通れない関門なのだ。

 魔について、済度教典は次のように述べる。

「邪神多く地に有る者に有らず。常に陰険なる手段を設けて人及び神に対して害毒を流す者なり。

其の指下の者其は魔なり。魔は邪の小成るを云へり。又成れば邪神の列に加えざる耶。其は邪は悪の化身なり。魔は曇の化身なり。(十一巻、二十四頁)」

 つまり、邪神は悪そのものであり、魔は曇の現れという意味だ。

 教祖さまが魔は言ってみると、ガラスが曇るようなものであり、魔の近くにいると、悪い影響を受けやすいと言われたのは、この一節に基づいていると分かりやすい。

 魔は言ってみると、邪気の塊と考えたほうがいいだろう。

 「邪が悪の化身なり」というのは、頭の天辺から足の爪先まで悪一色であるという記述もあるから、簡単に言えば悪そのものだと捉えた方が分かりやすい。

 宇宙開闢とともに発生したプラスのエネルギーが正神であり、邪神はマイナスに位置するエネルギーのため、互いに両極に位置する。神々の数は同数に近く実は邪神は八十万ほど数は多い。だから、悪の方が強いのはこのためである。

 教祖さまが言われたことによると、邪神の最高の頭の神は正神と同様の力を発揮するという。

この両極に位置する神だから、それだけの力を持つと考えた方が理解しやすい。

 さて、その中間に位置する不完全なエネルギー体が、賤神なのである。だから、神々の数は半分の四百四十万の数になるのはそのためである。では賤神はどういう記述で現されているか。

「又賤神の頭成る者は、七三の神なり」とあり、賤神は七が善で悪は三の比率になる。

 だが、下の位になればなるほど、逆に悪が強くなる。所詮、不完全に分離したエネルギー体のため、このような比率が生まれるのだ。

 賤神の配下の神を次のように述べる。

「其れ僕べ成る者は、実に陋劣(ろうれつ)窮まり無し」とあり、下にゆけば行くほど悪そのものになってしまうとあるのも、その理由からである。

 これが済度教典に記された神の種類であるが、神界では確かに天の岩戸閉めの段は実際にあったというが、それは神界の不祥事、恥として神々の記憶に今も残っているという。

 だがその真相について「済度教典」は沈黙を守る。

 その事実を裏付けるように、この天の岩戸閉めの時に功績のあった国津神が天津神となり、大山祇大神と名乗るようになったとある。

 この不祥事が大立替の時、もう一度起こるという。

 つまり天の岩戸閉めが、もう一度起こるというのだ。

ただ神界でも不祥事とあることから、余り好ましい事態でなかったのは事実だ。

 それが教祖さまの節分の由来だ。大国常立大神の三千年前の隠遁劇と深く関わっていることから、神界をも襲った大異変だったことは確かだ。

 これらの事実から想像の域を出ないが、恐らく神界、現界に及ぼす地殻大変動になることは確かだ。

 大立替を告げる前兆として、我々の脳裏にとどめておきたいものである。


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