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まえがき

 このご教話をまとめながら、よくぞ早くも第七巻まで書き上げたものだと感慨に浸っている。

 私の解説と並行するのが、このご教話の特徴である。

 本部の修行会に出席して、私の講習を受けた人には懐かしい話も多いかもしれない。

 実際、講習のテープの売れ行きは、教主の小松風先生がトップというのは仕方ないにはせよ、二位は父と私だった。

 私の講習の特徴は、どこまで分かりやすく噛み砕いて話すかである。

 当たり前のことが当たり前でない。なぜこうなのかという素朴な疑問が、私の一つの課題として残る限り、人には説明出来ないと考えたからである。

 こうして素朴な疑問を解き続け、人に納得するように説明出来る。

 私はそういう意味では、徹底的に解明する方だ。

 だから、普通の人と視点すら違う。

 もう一つは、霊的な体質にある。この体質を使い霊的な面から、教義を紐解くことに集中する。

 だから理屈としての教学ではなく、むしろ現実性を帯びた教学に近づけてゆける。

 私は霊感として教義を解明するのではなく、むしろ直感としてひらめくものを優先する。

 これが悟りに、近いと今では思っている。

 私の願いは教祖さまのご教話と、そして解説を付加することにより、多くの人が教学を深く理解出来るようになってほしいということである。

 皆さん方の教えの手掛かりとなり、大和山の信仰の励みとなってもらえたら、望外の喜びである。

 九州で春を迎え、そして初の夏は猛暑であると思うが、どうにか乗り越えたいと思う。

 両親を亡くし、自分も五十二歳。そんな歳になったが、今でも亡き両親を想い、大和山のお道を伝えて行きたいと思っている。


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妾狂い

 中野(仮名)さんという信徒の女性がおりますが、この旦那というのが妾狂いなのだそうであります。

 その女性に対してのお悟しという点について、お話したいと思います。

 そもそもこの夫婦は仲が良く、苦労しながらもどうにか暮らしておりました。

 そして、仕事も順調になり、さあこれから幸せになれるという矢先、旦那が狐に憑かれておかしくなりました。

 正気には戻りましたが、以後妾を持つように一変してしまった。色情狂いというものです。

 奥さんは旦那が、精神病になったものとあきらめておりましたが、心のなかでは相手の女を恨んだり、若い時からこれほど苦労してきたのに、今更女を作るなんてヒドイなどと考えてきた。

 そんな思いを、ずっと続けていました。これでは、良くはありません。

 そんななかでも心を乱すことなく、心を静めて後は一切神さまにお任せします、という心境にならなければなりません。なかなか我々凡人には難しいことですが……。

 そういう心境で、神さまに祈ることです。そうすると、初めて神さまが助けてくれるものであります。

 要するにこの一点の心境になり、神さまを迎えなければならないのです。

 それに気付かないまま二年間、毎日ベソベソ泣いてばかりいました。

 体重も、どんどん減っていきます。挙句の果ては、父と母の板ばさみになった息子も、心労の末心臓が悪くなり、本人の健康状態も悪くなってしまった。

 だが、ただ願うことばかりで、神さまに尽くすことを知らない祈りではどうにもなりません。

 自分が食べる一杯のご飯の半分を、神さまに捧げることが如何に大事かということを、人は知らないのです。

 これは人に対する神さまからの例えでありますが、だが神さまがそう教えているからには、半分は神さまに捧げなければなりません。

 半分を神さまに捧げる心境になると、神さまも黙ってはいません。

 その人の真心を汲み、そして何十倍にもして返してくれるものです。

 神さまのお恵みというのは、こういうものです。

 こうして生かされているのも神さまのお陰、ああありがたいと心ばかりのものを上げて、お礼しようという心境になれば、その祈りは必ずや何十倍にもなるものです。

 ただ頼む、頼むという一方的な信仰の人が如何に多いことか。自分の都合だけです。

 祈るなかにも、こういう神さまに捧げる信仰になってほしいものです。

 神さまに捧げるものは、どんなものでも構いません。

 そこにその人の真心があれば、神さまは汲んでくれるものです。

 あれもこれもとただ頼むだけの信仰では、身欲の信仰です。

 そんな祈りでは、神さまに届かないものです。

 私はそう中野さんからの相談の手紙に、書いておきました。

 以来、中野さんは自分のただ頼む頼むだけの祈りから、神さまに感謝を捧げる祈りに変えて、祈り続けました。

 その結果、旦那の妾狂いも次第に収まり、やっと幸せな日々を迎えるようになり、息子さんも健康を取り戻し、中野さんの体調が元に戻った、という報告がありました。

 信仰で大事なことは、神さまに捧げる祈りのなかに感謝の気持ちを持つことです。

 ああ、今日も無事に過ごさせて頂きました。本当にありがとうございます。

 何かあったとしても、ああこの程度で済んでありがとうございます。

 全て感謝のなかで暮らせる人ほど、神さまの恵みは豊かになるものです。

 感謝の祈りを捧げることが出来るか、出来ないかで神さまの恵みを受け取れるかどうか決まる、ということになるのです。

 感謝を忘れた信仰は、ただのご都合主義のご利益信仰でしかありません。

 ただ拝めばいい、祝詞を上げればいい。そんな信仰は、形式だけの信仰にしか過ぎません。

 礼拝と拝跪のみの信仰は、神さまに届かないものです。

 形ばかりに囚われている信仰は、単なる形式だけなのです。

 形式だけでは、心を伴いません。神さまはその人の心を、見ているのです。

 そこに果たして真心があるかどうか。その一つでしかないのです。

 自分の行いで出来る程度で、真心を神さまに捧げるだけで結構です。

自分が神さまに尽くしたものは、やがて神さまのお仕事に役立ちます。

その誠の塊が、やがて大きな光を出すものです。神さまは、誠を尊びます。

さて、誠というのはどういうものかということですが、どんな境遇にあっても神さまに捧げる心、神に尽くす心、それがあるかどうかです。

その誠の心があれば、神さまは必ずや応えてくれるものです。

誠とは、そういうものなのです。

神さまはその人に、それをしなさい。それは罪だからよくないと、罪であると無理に強いるものではありません。

神さまというのは、そんな強要をしないものです。

 むしろ、神さまはそれぞれの人に自ら出せ、出させようと強要するものではありません。

 そういう強要は、信仰と呼ぶものではありません。

 むしろ、何と言っても自分から、本当にそうでございます、ありがとうございますという心境になり、神さまに差し出すようにならなければなりません。

 神さまに対して、自然にそういう心境になることが大事なのです。

 そうなってこそ、初めて神さまからのお救いが得られるものです。

 神さまを忘れ、教祖を忘れるような信仰では、結果が良くないものです。

 揃って信仰の家となれば、それに対して相応の恵みがあります。

 一家揃っての信仰というのは、言ってみると家族の誰もが足並みが揃っていると、その家は雨漏りのする隙もないということです。

 そういう信仰になると、神さまのみ守りも深くなるものです。

 ただお札、お守りだけあれば、それで守られていると思っている人は、真の神というものへの信仰が、段々薄らいでしまうものです。

 お札、お守りに頼っている信仰というものは、兎角形だけの信仰に陥りやすいものです。

 神さまを信じるというよりお札やお守りが神さまだ、と信じて肝腎の心の方に目が向かなくなるものです。これでは困ります。

 神さまは、その人の心のなかにいらっしゃいます。

 神さまはその人の心を、見ておられます。神さまに通じるのは、誠という真心しかないのです。

 お札、お守りさえあれば守られると思い込み、逆に自分のあり方を省みないようになります。そんな信仰は、迷信にしか過ぎないのであります。

 教祖から貰ったお守りを持っているから、これで大丈夫だと考えている人は、神さまを軽く見ていることになります。

 実際、戦地に行く人は、教祖から祈願符をもらうために、必死になって参山したものですが、無事に帰還したら感謝するどころか、お礼のお参りにすら来ない人が多過ぎます。

 救われたなら、ありがとうございます、とお礼するのが常識です。

 目に見えない神さまであるからして、逆に軽んずる人が多いものです。

 それが目に付くようになりこの度、昨年辺りから代講を出すようにしましたが、代講の人にお札お守りは一切出さないように申し渡しました。

 むしろ、そういう物を持たせるとお守り、お札さえあればいいという考えになり勝ちです。確かに古い信者さんは持っているでしょうが、大和山を幾ら信じていても、教祖の言うことをきかない人を神さまは認めません。

 ただ仕事が忙しいから、と信仰する気持ちをなおざりにすると、神さまのお恵みはもらえません。神さまの目から見てもよくありません。

目に見えざる神を心から信仰しなさい。これが本当の信仰であります

 そういう本当の信仰の人には、神さまのみ力を見せるのであります。

 教祖を信じない人に与えたお札は、もう単なる紙でしかありません。

教祖の言うこと理解しているうちは、力が出るでしょうが、教祖を信じないと、お守りから魂が抜けてしまいます。そうなると、ただの紙切れでしかありません。

 教祖の言うことを聞かない人は、神の言うことを聞かないのと同じです。

 教祖の権限で、力を発揮するのがお守りです。

教祖の言うことを聞かなければ、もはや信じていないと同じです。

 お守りを持っている人は教祖の今言ったことを、よく肝に銘じて頂きたいものです。

 今はともかく、お守りを持たせるべき時期でありません。

そういう訳で、今後はお守りお札を出すのは中止になりました。たとえ、その人が神のみ心に副っていても、今後は差し上げません。そういう具合に決めました。

 貰わなかった人も、大分居るでしょうが、今、全員に上げるとなるととてもお守りの数も足りないでしょうし、もう以後は差し上げません。

 それに幾ら入信して年数が古くても、さっぱり信仰の足取りが進んでいない人がいます。

 信仰の足取りが着実に進んでいればいいのですが、進んでいない人も意外に多いものです。

 では、果たしてどういうふうに、信仰の足取りを進めればよろしいのでしょうか。

 たとえ、人がどこに居ても救えるために、神は出張所を作っております。

 それが大和山という出張所であります。信仰人はその大和山という出張所を、必ず通らなければなりません。

神さまを信じる人は、当然大和山の門を通らなければなりません。参山するというのは、それなりの意味があるのです。

門は神さまが作っており、それの管理が大和山本部の役割であります。

 その証拠に、大和山本部に参山した人が、多くのお告げを聞いています。

 大和山本部とは、そういう意義ある所なのです。

この本部に参山して救われた人は、どれほどあるか分かりません。

救われたいと思う人は、まず教祖の言うことを素直に聞く、耳を傾けるしかないのです。

 神さまが幾ら人に教えを説こうにも、霊なる神ですから聞かせようとしても、聞かせることは出来ません。

 その代わりに、神さまは教祖を通じて、教えを説いているのです。

教祖の教えを聞いて、初めて神の教えは伝わるものです。

 信仰する人は、常に神さまや教祖を忘れないようにしなければなりません。

 苦しい時だけ、ただ頼む頼むでいざ苦しくなくなると兎角人というのは、神を忘れ勝ちなものです。

 どんな時でも常に神を思い、そして大和山のことを思う、そんな気持ちが大事です。

そして、信仰して幾らかでも余裕が出来たら、神さまのため大和山のためにああしてあげたい、こうしてあげたいという気持ちを表す。そんな信仰でありたいものです。

 例え、僅かな額の紙幣一枚でも二枚でも神に捧げたい。大和山に献金したい。そんな気持ちに、ならなければいけません。

 それは言って見ると、親が子を案じて、子のために尽くす。子はその親の恩を返すため、自分のものを分けてあげる。親の方でもそんな子の姿に、あれこれと考えてくれる。

 親である神が、子である我々を案じない訳はありません。

 苦しい時でも楽な時でも、親である神を信じて行く。それこそが信仰人の持つべき姿勢なのです。

 神を本当に信じている人は大和山を忘れず、教祖を忘れないようにして下さい。

 事実、予期しない時に願いが叶ったり、次第に良くなって行くものです。

 信者の懐具合によって献金があり、その結果としてこういう建物が建つようになります。私たちも出来るだけの範囲内で、献金でもやりませんか。

 親である神を、立てなければいけません。

 多くの人は目前の幸福をのみを考えているだけで、行く末永く先のことを考えようとはしません。信仰は人生一生の道しるべなのです。終わりはないのです。

 やはり大和山大神を信じて、これ以上の神はないと信じて信仰を続けることが大事です。

そして、神さまに認められるような人になり、末永く幸福を得るように努めることです。

そういう信仰を続けた人は、死の際には大往生を遂げます。

そういう信仰を続けた人はどの人も例外なく潔く、珍しいと言われるような往生を遂げます。

大和山大神を最後まで信じた人は、みんな良い往生を遂げています。

これ一つでも、大和山を信じた甲斐があると、誰もが納得するでしょう。

目の前だけのご利益ばかりを考えない。大往生を遂げるには、別に形式は要りません。心の底から神を信じることです。

そして、神の感謝を忘れない。そして、神に好まれる人になる。

今は幸せに暮らしていても、死ぬ時には裸一貫であの世に行くものです。

死んで三途の川を渡るための船賃が必要だと、世間では言っていますが、そんなものは要りません。無論何事もなく、長い間幸せに暮らすというのは、必要なことです。

しかし、たとえどんなに不幸せな境遇であった人でも、最後まで神を信じ抜いた人は、死の間際に立派な幸せを得れば、それでよいのであります。

それが、大往生を遂げる、大事な意義であります。

神は一切を、ご存知であります。

ですから、どんなに不幸な人でも、死んでからは今までの扱いが代わり、それ相応の扱いに変わって来るのであります。

短い期間の信仰であっても、その人が神さまを正しく信じていれば、死に際に安楽に亡くなれるならば、その人は死後の世界において、幸福が約束されているのです。

死に際しての大往生とは、そういう信仰の証が現れてくるものなのです。

大往生を遂げた人は死んでから極楽浄土に行くのが約束されています。

大往生を遂げたければ、普段から神さまを正しく信じて、そして神さまに好まれるような人にならなければいけません。

だからと言って、決して難しく考えなくても結構です。

まず、その日その日、一日を正しく生きてゆくことが大事であります。

そして、今年、来年の短い期間だけを目標にして、どういう信仰をしてゆけばいいのか考えていればいい。長い一生の信仰計画は必要ありません。

遠い先のことを考えるのではなく、今一瞬一刻を大事に生き、信仰を続けていくことが、意義あることなのです。その積み重ねです。人生、何が起こるか分かりません。

来世のことを考える人は、普段からの信仰が違うものであります。それは普段の信仰を見ていて、良く分かります。

ただ信者になって、普段からの自分の信仰態度をよく振りかえていない人であっても、神さまは遠い将来のことを考えてその人、その人を諭されるものであります。

神は人を使って、諭されることもあります。

これは神のみ心にそぐわない人には、時には他の人を使っても諭されます。

神さまには、口がありません。神さまは人の口を使って、諭される訳です。

神さまは人それぞれを使い、色々な方法でその人を諭されます。

ある時は人を使ってその人に気付くように、歩かせたり、手を使って教えようとされるものなのです。

その人が神さまから、ああこれは神さまが私に諭しておられるのだなあ、と気が付くようになるとそれが土台となり、幸福をもらうことが出来るようになるのです。

多くの人は末永い目標を立てていますが、その割に目前の幸福ばかりを考えています。

目前の幸福とは、単なる身欲にしか過ぎません。

そんな信仰では、神さまが幾ら諭しても気が付くものではありません。

多くの人々は、そういう信仰ぶりであります。

神さまからのお諭しというものを、各自がもっと真剣に考えてほしいものです。

お諭しというのは、即ち大和山で説くところの「悟り」です。

この「悟り」があって人々は初めて、信仰というものが何であるのか気が付くようなものです。

悟れるか悟れないかが、大和山の信仰では大事なのです。

みなさんも真剣に悟れるような、信仰であってほしいものです。

この悟りに気が付くようになると、信仰の足取りが変わってきます。

神さまが益々身近に感じられるようになり、信仰の足取りが軽くなります。

悟りが身近になると、神さまと共にいるという実感が強くなります。

悟りを持つ信仰になると、信仰することが楽しくなってきます。

ああ、神さまは私のことを、案じて下さっているんだなあ。

そういう心境になると、信仰する姿勢まで変わってきます。

そういう人は、既に神さまと共にいるものです。

信仰することに生きがいと、喜びが湧いてきます。

神さまのために、神さまの喜ばれるような人になりたい。

その喜びに包まれた人だけが、信仰の山坂を登ってゆけるのです。

どうか、そういう信仰になってほしいものです。


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神について

神というものはどういうものであるのか。

確かに、神というものは霊なる存在であり、人間のような身体を持っているものではありません。

霊なる神であります。神と言っても、下の位の神が神であるのではなく、高い位の偉い魂であるものが、即ち神であります。

大和山は、その真理を説く最後の宗教です。

神にも種類があり、三派に分かれています。

正神、賎神、邪神の三派ですが、正神というのはこれらの神のなかでも足のつま先から、頭のテッペンまで悪という物が全くない。

逆に邪神というものは、十本の指先、全て足の先から手の先十本まで悪に染まっています。

賎神とは半分が正しく白であり、残り半分が黒い、つまり悪です。正神が悪一つすらないのに反して、邪神は悪一色です。

それほど正神と邪神は、両極端に違う神なのであります。

それと異なり、半分は白で半分は黒という形になるのが、賎神なのです。

つまり半分良くて半分悪い。正しい神のように見せているが、悪いこともするのが、実は賎神なのです。

言ってみるというと、賎神とはヤクザのような神でありますが、お告げを当てることも出来ます。そして、賎神は立派な神のように病気も治しますが、或いは良くないことも教え、悪いこともする神です。つまりそれが賎神であります。

賎神は幾ら人が信じていようが、気にいらないことがあるとゴロツキのような真似をすることもある、神なのであります。

天界では邪神は既に封じてあります。だが邪神の子分の魔が、地上にはびこっています。

神の数とは正神、邪神共に八百八十万、賎神は四百四十万となっております。

この数は神が教えない限り、分かるものではありません。

魔は九十万からある。どこにいるかというと人間の身体におります。

魔というものは息のようなもので、色々な種類があります。

学者にも、憑いています。老若男女、学識、職業共関係ありません。

悪の憑いている者と交際しているだけで、その人に「クモリ」が生まれます。

言ってみると、人が息を吹きかけるとガラスが曇るようなものです。

ですから、魔が憑いている人と付き合うだけで、その人の心も魔に犯されてしまうものです。

ですから、人の多い所に出入りするなというのは、人の多く集まる場所に魔が多く集まるから、近づいてはならないという意味です。

そういう場所に好んで出入りするだけで、知らず知らずのうちに魔に犯されてゆくのです。

むやみに人の多く集まる場所には、近づいてはならないという意味です。

ですから、人の多く集まる場所を避ける。そうすると魔が離れる。それを言ってみると、魔が離れて治るというと、ガラスの曇りが取れるようなものです。

世の中が悪くなるというのは、魔が憑いているからであります。

では魔に憑かれないようにするにはどうするか。

それは心のなかに、一瞬の油断を作らないようにすることです。

魔というものは、心の油断から入って来ます。

慢心、自高心も即ち魔が入るがために、起こるものなのです。

常日頃から心の窓を閉めて、魔が入らないように入らないようにと、するしかありません。

人というのは愚かなもので、人からおだてられたり、ほめられたりするとすぐにその気になります。

例えていうと、人は良い足場に乗せられると、すぐそれに乗ってゆくようなものであります。

慢心、傲慢、馬鹿のうちとよく言いますが、それはその意味で大事なことです。自戒は大切なことです。

ほめられたりすることは、逆に魔が入りやすいということをよく肝に銘じてほしいものです。

そこで我々のいう仏という問題ですが、本当の仏と言うのは仏神であり、阿弥陀如来が本当の神であります。

一般に人の身体から離れた魂を、仏と言います。

即ち、人間の霊でありまして、つまり魂と言うものは死後、肉体から離れた後、西の方に行くことになっております。

俗にいう西方浄土であります。

そして、霊界の八岐(やちまた)の方角に行きます。ここで多くの魂は裁きを受けることになるのです。

それは魂の生まれた本家に、集まって行くようなものです。

この中分界には優しい、立派な神がおられます。

それが嗅鼻菩薩、聞耳菩薩、見目菩薩の三柱の神であります。

この菩薩の前で、人は極楽に行くか、地獄に行くかの審判を受けることになるのです。その裁判は人の裁判と違って、一切の間違いはありません。

むしろ、本当に公平で寸分の狂いもありません。

審判の結果に異の申し立てなんぞは、出来る訳はありません。

紫蓮界と呼ばれる仏界に、三十三万三千三百三十三仏がいます。

悪い心で正しい神を信じても、悪い神しか来ません。

教祖を信じることは、正しい神に通じることになります。

慎ましいへり下った心で神を拝むと、必ず正しい神に通じることになります。

皆が仏を救おうと慰霊に励むことは、つまり世界を清めることにも通ずるのです。


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