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まえがき

  

 現在、あふれかえるほどの本が出版されています。ドキュメンタリー・小説・随筆・伝記などジャンルはさまざまです。また、日本人が出版したもの、外国人がその母国語で出版したもの、また、つい最近刊行されたもの、書かれて1千年以上が経過するものなどいろいろです。 

ところで、芥川賞・直木賞などを受賞した作品には、何百万部も売れ、ベストセラーにもなるものもあります。現代の日本のこれらの作品を読み感動することはすばらしいことだと思います。一方、長い時代をとおして人々に読まれ続けてきた「世界の名著」と呼ばれるものを手に取り読むこともまた大事なことだと思います。「世界の名著」といえば、学生時代に世界史や倫理の授業で著者と作品名を覚えたことを思いだす人もいらっしゃることでしょう。例えば、ダンテの『神曲』、ボッカチオの『デカメロン』やギリシャ思想のところでは、プラトンの『ソクラテスの弁明』や『饗宴』などがそうです。しかし、これらの本を実際に読んだことのある人はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。今でも著者とタイトルは覚えているが、その内容は全然分からないという人がほとんどではないでしょうか。無理もないことだと思います。仮に書店の訳本コーナーでそれを見つけて、ページをめくってみても、その内容が分かりにくく面白く読み進んでいけないからです。翻訳者が原文に忠実に翻訳しようとして、訳本の内容をかえって複雑にしてしまったり、専門的訳語を使うことにこだわったりするために、一般の読者が読むにはあまりにも難解な訳本に仕上がってしまっているからです。語学に習熟して原文を直接読める人は、原文では理解できるのに訳本となるとかえって分かりづらくなるという話を聞いたことがあります。 

 そこで私は、著者の本の内容をできる限り変えずかつ大胆に、われわれが通常耳にする日本語を使い、簡単に読める内容に改めました。完訳本を読んだと同じぐらいの理解と満足感を短時間で得られるように努めました。通勤・通学の電車の中でも気楽に読め、頭に入るものをめざして書きあげました。まずは、読むことによって、過去の偉大な思想家の著書に直接ふれてそのすばらしさを味わっていただきたいと思います。-誰でも読めるシリーズ-として順次刊行していきますので、どうぞ手に取ってお楽しみいただければ幸いです。  

 

 

 

 


 アテネのみなさん、この私に対する訴えを聞いてどのように思われましたか。彼らの語り口はとてもかろやかで、私さえも我を忘れて引き込まれるほどでした。しかし、惑わされてはいけませんよ。その話の中身はすべて嘘です。私が「雄弁家」であると言ったかと思えば、人をだますような人間だとも言っています。これらのことは、全く根拠のないもので真実ではありません。第一、今私の話を聞いていて、私が「雄弁家」だと思った人が一人でもいらっしゃいますか。もっとも、彼らが真実を語る者を「雄弁家」と言っているのなら、私は真実のみを語るので、「雄弁家」といわれるのも間違いではないかも知れません。何しろ今年私は70才を越えましたが、法廷に出てしゃべるのは、今回が初めてです。この場で使うべき言葉も知らず、普段の言葉でしゃべることしかできません。どうか判決は、私の話が真実かどうかだけで下してください。
 それでは私は今からこれらの私への訴えに対する弁明を行います。私に対する訴えには昔からずっと私に投げかけられてきた訴えと、最近新たに付け加えられた新しいものとの二つがあります。まず、前者の訴えに対する弁明から行います。その訴えの内容とは、「ソクラテスは、悪いことをねじ曲げて善いことだと言っている」とか「ソクラテスは、神を信じない者だ」というものです。私は、この訴えに対してすごく恐れを感じています。それというのもあなたがたの多くが年少であった頃から言い続けられてきたことだからです。あなたがたが影響を受けやすい幼いころから何度も何度も聞かされ続けてきて、あなたがたはそれに洗脳されているのではないかと心配するからです。そのうえさらにこのことは、誰がどんな根拠で言い出したことか分からず、誤解をはらすのに私には手の打ちようがないからです。それはともかくとしてまず、この訴えを記した訴状の代表的な部分を読み上げてみましょう。「ソクラテスは不正を行い、無益なことを行う。彼はいろいろなことを探究するが、悪いことを善いことだと意図的にねじまげて人々に教えている」。このように書かれています。ところで、アリステファネスという喜劇作家は、ソクラテスを「空を飛べると自分で豪語する嘘ばかり言う人間」のように描写しています。創作上のことであり、その文芸性を批判するつもりは全くありませんが、それが真実としてこの訴状にさらに記してあることには誠に驚かされます。私がそのような人間でないことは、私と実際に接し、話をした人なら当然のこととして分かるはずです。それが嘘のうわさにすぎないことを、どうぞ真実を知っている人がいるのならみなさんに話してあげて下さい。また、私が謝礼をもらって人々に教えまわっているというのも全く事実無根です。なにも私はほかの人が、謝礼をもらって人々に教育を施すことを否定しているわけではありません。事実、そういう人の中に立派な方もたくさんいます。しかし私は、自分は謝礼をもらってまで人に教えることのできるほどの力は持ち合わせていないと思っていますから、謝礼を要求したことなど一度もありません。それなら、みなさんの中には、「いったい、ソクラテスはどんな仕事をして生計を立てているのか。あなたのこの悪い評判はどこから起こったのか。もし、ソクラテスが普通の生活をしていたらこんな訴えなんて起こるはずがない。どうかちゃんと説明してくれ」という人も多くいるではないでしょうか。その疑問についてお答えしましょう。今からお話しすることは、ひょっとしたらみなさんの大きな反発をかうかも知れませんが、どうか最後まで静かに聞いてください。

 

 


 みなさんの疑問に対する答えとは、一言で言えば、私が人間的にひじょうに賢いがゆえに生じたということなのです。このことは、デルフォイの神の神託であるので間違いなどではありません。私の友人がデルフォイの神殿の巫女に「この世にソクラテス以上の賢者はいるのか」と尋ねたそうです。するとその巫女は「ソクラテス以上の賢者はこの世にいない」と返答したとのことでした。これは真実です。そしてこのことを証明する人間は、ほかにもいますので間違いありません。私は、彼からそのことを聞いて考えました。全くと言っていいほど賢くもない私を、なぜ神は最高の賢者であると言ったのであろうかと。しかし、神が嘘を言われるはずがないので私は最高の賢者なのであることは間違いありません。そこで私は次のような方法を思いつき、この神託が真実であるかどうかを証明することにしました。その方法とは、世間で賢者と呼ばれている人のところを訪ね、自分より賢いかどうか確認することです。まず私は、賢者との評判の高い政治家のもとを訪れました。彼と対話してみると、なるほど多くの人が賢者と評するだけのことはあって、彼は多くの知識を持っていたし、彼自身も自分を賢者と確信しているようでした。しかし、私は彼に対して賢者であるというような印象は持ちませんでした。そこで私は彼に「あなたは決して賢者ではないですよ」と告げました。すると、彼とそこにいた同席者たちは一斉に私に対して憎悪の念を向けました。しかし、私は本当のことを率直に述べただけなのです。それでは、私はなぜそのように考えたのでしょうか。その答えは次のとおりです。私も彼も善とか美については何も知らない。しかし、彼はこれらについて知っていると思っていた。ところが私はこれらについて何も知らないことをしっかりと自覚している。つまり、私は自分が何も知らないということを知っている分だけ彼よりも知恵があると言えるのではないかということです。それに気がついていない分だけ彼は、私より賢くないのです。それからというもの私は、この政治家以外にも多くの人が賢者とあがめる人々のもとをいろいろと訪れました。しかし、その結果はすべてこれと同じでした。そのようなことを繰り返したがために、私はさらに多くの人々の憎悪をかったものと思われます。それでも私は歩みをとめず、さらに多くの識者・賢者といわれる人のもとを訪れました。どこへ行っても同じ事を言わざるを得ず、さらに多くの人々の憎悪をかうことになったのです。それから私は名工と名高い手工業者のもとも訪れましたが、やはり結果は同じでした。彼らはすべてがみな、その道では他に例をみないほど秀でていました。それゆえに、彼らは自分がすべてにおいてすぐれて知恵があると誤解していたのです。私は彼らのようになりたくありません。自分の無知を自覚している謙虚な人間であり続けたいと思いました。
 このようなことを続けた結果、確かにソクラテスは賢者であるという評判が広まりましたが、同時に私を誹謗する多くの敵も生み出したのです。そのような状況になったのも、私が彼らの無知を指摘するとき、自分が知者であると言わざるをえなかったことが傍聴者の反感をかったからであろうと思います。ただ、自分が知者であると言ったのはあくまでたとえ話であり、人間の中に知者などいるはずがないことは私もよく分かっています。神のみが知恵を持っているのであってわれわれ人間の持っている知識などはそれに比べればなきに等しいものです。神はそのことを私をたとえにとって「人間における知者とは、自分が無知であると悟っているソクラテスのような人である」と言いたかったのではないかと思います。私はこの神の神託を受けてしまったがゆえに、賢者といわれている人を見つければ彼らと論議し、彼らが誤った認識にあると分かれば、容赦なく彼らを正していかなければならない使命を負ったのです。このような活動をすることが神から神託を受けた者である私の責任だと考えています。それゆえ、私は仕事をすることもできずこのような貧しい生活を続けているのです。
 ところで、暇をもてあましている裕福な市民の息子たちが私のこの行動を見聞きし、私をまねて知者と呼ばれる人々をつかまえては試問するようになったそうですね。彼らはそのことを通して、自分ではなんでも知っていると思いながら真実については何も知らない人たちがいかに多いかを知るようになったのです。とてもいいことだと思います。ところが、そこで若者たちの試問にあった人々は恥をかかせられたとして、そのはらいせを「ソクラテスは青年たちを腐敗させている」と私にぶつけるようになったのです。所詮その訴えには、何の根拠もありません。そこで彼らは、哲学者に対する一般的な非難である「ソクラテスは神を信じてはならないと言い、善いことをまげて悪いことだと言う」という新たな訴えを持ち出したのです。彼らは自分達の無知が暴かれたことを隠したいし、そのことに対して何らかの仕返しをしたいのです。そしてこのような人々がどんどん多くなってきたのです。今ここにいる3人の告発者もそういう人々なのです。彼らは賢者と言われるような著名な方々です。以上がこのたびの私に対する告訴が生じたいきさつです。この状況をご理解いただくことが、私の弁明となるはずです。これこそが隠すことのない真実そのものです。これ以上申し上げることはありません。
 次にもう一つの最近の告発に関しての弁明に移りましょう。その訴えとは次のようなものです。「ソクラテスは青年を腐敗させ、国家が信ずるべきとした神ではなく、全く違う新しい神をつくりあげ、それを信ずるよう仕向けた」というものです。このことについては、ここに訴えた人を呼んできて、いろいろと質問してみようと思います。それでは始めます。

 

(ソクラテス):

「私を訴えたメレトス君、ここに出てきなさい。君が私を訴えたことについて、今から議論しよう。それでは聞いてみるが、君が最も大事だと考えることは、青年が善良な人間となることだね」
(メレトス) :

「その通りだ」
(ソクラテス):

「それでは、若者を善い方向へと導く指導者とは誰なのか答えなさい」
(メレトス) :

「国の法律だ」
(ソクラテス):

「それではその国の法律を熟知し、若者を善良に導くのは誰なのか」 
(メレトス) :

「今ここにいる裁判官たちだ」
(ソクラテス):

「裁判官全員がそうなのか」
(メレトス) :

「もちろんそのとおりだ」
(ソクラテス):

「それならここにいる聴衆はどうなのか」
(メレトス) :

「彼らもそうだ。若者を善に導く」
(ソクラテス):

「それなら政治にたずさわる人間はどうなのか」
(メレトス) :

「彼らも当然、若者を善い方向に導く」
(ソクラテス):

「国会議員もそうなのか」
(メレトス) :

「そうだ」
(ソクラテス):

「ということは、君はアテネのすべての人は若者を善良に導くが、私ソクラテスだけが彼らを腐敗させているというのかい」
(メレトス) :

「そのとおりだ」
(ソクラテス):

「君の言うところによれば、私はほんとうにみじめな人間なんだな。しかし考えてみてくれよ。馬をしつけることのできる人間はわずかで、ほとんどの人ができない。多くの人が馬をしつけることができて、ただ一人の人間だけができないというようなことがあるであろうか。確かに、青年を腐敗させる者がただ一人で、あとのすべての人間は青年を善に導くならこんなに良いことはない。しかしそんなことがあるはずがないではないか。さらに君に聞いてみよう。一緒に住むなら善事をもたらす善人と、悪事をもたらす悪人のどちらがいいかい」
(メレトス) :

「わかりきっている。善人だ」   
(ソクラテス):

「まわりから益よりも、害がもたらされることを欲する者がいるだろうか」
(メレトス) :

「いないに決まっている」
(ソクラテス):

「ところで君は、私が青年を故意に悪に導いているとして訴えているのか、それともそのつもりはないが知らないうちに悪に導いているというのか」
(メレトス) :

「私は故意だと主張する」
(ソクラテス):

「驚いたね。わたしが隣人に悪をおよぼせば、悪でもって返されることを知らないとでもいうのかい。私がそんな愚かなことをするはずがない。君は私がそれを故意にしているとまで言っている。少なくとも私は、故意に若者を腐敗させていないことはここで誓って言える。もし私の行為が私の意に反して若者を悪に導いているとしたら、私にそのように告げれば素直に改めたはずである。なぜわざわざここに呼び出し、処罰を与えようとしなければならないのか、私にはその意図が理解できない。さらに君は、私がわが国の認める神を認めないで、他の新しい神を信ずるように若者に諭し、彼らを惑わせているとも言っているのだね」 
(メレトス) :

「そのとおりだ」
(ソクラテス):

「それなら君に聞くが、君は私が神は信じているが、わが国が信ずるとした神以外を信じるよう若者に説いているというのかい。あるいは、私は全くの無神論者であり、かつこの国家が信ずるとした神以外を信じるよう若者に説いているというのかい。いったいどちらなのだ。」
(メレトス) :

「後者だ」
(ソクラテス):

「君は私がわが国の神を信じていないとでもいうのかい」
(メレトス) :

「あなたはわが国の神を石や土と変わらないと思っているし、そのように言っている」
(ソクラテス):

「神に誓ってそう断言するのか」
(メレトス) :

「神に誓ってソクラテスは神を信じない人間だと断言する」
(ソクラテス):

「みなさん、彼の言っていることは全くの自己矛盾であることに気づいてください。まさに彼は、私ソクラテスは神を信じ、神を信じないがゆえに罪があるのだと言っているのと同じことなのですよ。たとえば、この世に馬に関することの存在は信じるが、馬の存在は信じないという人がいるでしょうか。また、笛をふく術が存在することを信じているが、笛吹きの存在を信じない人がいるでしょうか。いるはずはありません。同じように神のはたらきは信ずるが神は信じないというような人がいるでしょうか。メレトス君、答えてみたまえ」
(メレトス) :

「そんな人は、一人たりともいない」
(ソクラテス):

「たしか君は私が神のはたらきを信じ、それを若者に教えていると訴状に書いているね。私が神のはたらきを信じるなら、神を信じるということになるのではないかな」
(メレトス) :

「そのとうりだ」
(ソクラテス):

「私自身が神の存在を信じているということを認めているのにこんな訴状を書くなんて、意図的に私を陥れようとしているとしか考えられないよ」

 

 アテネのみなさん、私になんら罪状がないことがお分かりいただけたであろうと思います。しかし、私に対する敵意が人々の間にいまだ渦巻いているのもまた事実であります。もし私が滅ぼされるとしたら、過去の多くの善人がそうであったように、訴え者ではなく皆さん大衆の誹謗や猜疑です。みなさんは、なぜソクラテスはそこまでして、人々に無知を気づかせようとするのかと問われるかも知れません。しかし、その答えは次のとおりです。昔から、英雄と呼ばれてきた人々は、自分の死も恐れず正義を貫いてきました。私もこれが正しい行いであるからこそ、自分の危険をかえりみずにそれを行うのです。私は恥辱にまみれて生きるぐらいなら、死んだほうがましだと考えます。私が今この場を死の恐怖のゆえに逃げ出したとしたら、それは滑稽なことであろうと思います。もし、そのような行動を私がしたとしたらどうぞ私をこの法廷で、賢人面した死を恐れ、神や神託を信じないものとして裁いてくださって結構です。そもそも死とはそれほど恐れるものでしょうか。死については誰もどのようなものであるか知らないはずです。それをあたかも知っているかのように恐れるのは、まさにそれこそ賢人でもないのに賢人ぶっていることと同じではないかと思います。
 ところで、もし仮に今回、あなたがたが私を無罪放免したとしても、私は決してこれからも人々に人間の無知を知らしめるという神から与えられたこの仕事をやめることはありませんよ。私は自分の命の続く限りあなたがたへの忠告をやめることはないでしょう。「名誉や財産を得ることだけを追い求め、知恵や真理に向かって自分の魂を磨くことを怠っていることを恥だとは思わないのですか」と私はみなさんに言い続けます。たとえ、分かっていると主張しても私はあなたがたを離さず徹底的に問いただしていきます。そしてその結果、その人が賢者ではないと分かったら、あなたは善きものを価値なしとし、価値のないものを高く評価する間違った人間であるとして徹底的に非難します。誰に対しても私はこの態度を貫きます。しかしそのことは、あなたがたにとって自分が賢くないことを悟るということで、実は幸福になることなのです。ともかく私がみなさんに言いたいことは、富ではなく精神を最高の状況にすることに気を使うこと、また富から徳が生ずるのではなく、徳から富が生まれるということをしっかりと肝に銘じるべきだということです。あなたがたが私をどう裁こうとかまいません。ただ私は、たとえどのような裁きを受けようとも、自分が行うべきと考えることは続けていきます。
 さらに、もう少し言いたいことがあります。反感を持たれるかも知れませんがどうか騒がすに最後まで聞いてください。私を死刑に処するということは、あなたがたが自分自身を害することになることを忘れないで下さい。正義に反して私のような善なる人間を死刑に処することは、あなたがたに多いなる災いを招くことになると思います。私がこの場で弁明するのは自分の命ごいのためではありません。あなたがたが、神から与えられたソクラテスという宝物を死刑に処するような過ちを犯さないためなのです。私を死刑にしたら、あなた方を目覚めさせるような立派な人間を再び見つけ出すことは困難になると思います。あなたがたは、私を大事にし、かつ愛さねばならないのです。なぜなら、私は神から使わされた人間だからです。
 ところで、そこまで人々を善い方向に向かわせたいのなら、なぜお前は政治の場に出て、この国およびその民に尽くそうとしないのかと言われるかも知れません。しかし、それには理由があります。もし私が若くして政治に携わっていたとしたらもはや私は生きてはいないと思います。国家に対して行われる不正や不法に対して対抗しようとするものは、この国では生き続けていくことはできないのです。本当に正義のために戦おうとする者は、私人でなければならず、公人となって生きてその職務をまっとうすることは、きわめて困難なのです。このことに関して私は、あなたがたに証拠を示すことができます。実は私はかつて一度、参議院議員になったことがあります。その時私はある事件に遭遇しました。議員のほとんどの人間が違法な決議に賛成をする中で、私は国法と正義に従うべきだと訴え反対をしました。その時は、幸運にも何もなく済みましたが、もしこのようなことがもう一度あったら、私は命を失っていたであろうと思います。みなさん、私が政治に携わった身のままで、今のように正義を貫いた生き方をしてこのように生きながらえているということは、ありえないことなのです。公職につくということは、そういうことを意味するのです。
 私は今まで、正義を貫くことに関しては誰に対しても譲歩したことはありません。また、いまだかつて私は誰の師にもなったことはありません。私の話を聞きたい人には誰にでも話をしてきました。また、そのことで私は報酬を受け取ったことは一度もありません。私は人に頼まれてこれらのことを行っているわけではありません。自分の意思で、いや神の意思で行っているのです。そのような活動によって今まで、賢者でもないのに賢者ぶっている人の多くが私に無知の正体をあばかれてきました。彼らのほかにも、私に若いときからいろいろな教説をうけた人間は多くいます。彼らのほとんどは、今壮年になっているはずです。もしそれらの人々が当時の私の行動や教えに対して不満や怒りを覚えるなら、彼らは今ここに来て私を訴えているはずです。違いますか。仮に彼ら自身が訴えなくても、彼らの親族・友人が訴えるのではないかと思います。しかし、今ここにいらっしゃるこのような人々で誰一人として私を訴えようとする人はいません。それどころか逆に私を応援しようとしていると聞きます。彼らの態度こそが、私に対して感謝の意を持ち、そのことをありがたく受け取っている証明ではありませんか。
 私の弁明はこれぐらいにしておきます。あなたがたは、私よりはるかに軽い罪の人間が人々の同情をひくために、この場で涙を流し懇願するのを何度も目にしたことがあることと思います。ところが、私の態度にそのようなものはみじんもなく、あなたがたにとって私はふてぶてしく見えて不愉快ささえ感じるかも知れません。もしかしたら、あなたがたの中には私に自尊心を傷つけられた人もいるかもしれません。しかし、その憤りにより投票しないでほしいのです。私とて三人の子供のいる父親です。もちろん、その子供たちをここに連れてきてみなさんの同情を引こうとは一切思ってはいません。しかし、誤解しないで下さい。それは私が決して高慢な人間であるからではありません。それは、知恵あるものとしとてそれなりの評価を得ているソクラテスという人間が、ただ死を恐れて正義をねじまげたとなればこんな恥ずかしいことはないからなのです。今まで私は、相当に名声のある人がここに立つやいなや自説をまげ、ただひたすら命乞いをする姿を幾度も見てきました。しかし、私はいやしくもいかばかりかの名声を博した人間です。そのようなことはすべきではないと考えます。もし、そのような芝居じみたことを私がここでしたとしたら、どうぞ厳罰に処してください。ともかく私は、裁判官の情に訴えて刑を軽くしてもらおうとすることは誤りであると考え、そのようなことをする気持ちは全くありません。みなさんどうぞ公正に判断してください。賢明なみなさんにすべてをゆだねます。

 あなたがたが私を有罪にしたことに対して、私は驚いてなどいません。むしろ、有罪と無罪の票差がこんなにも小さかったことに驚いているくらいです。訴えた人々は私に死刑を求めていますが、私は刑など受けるべきではなく、むしろ感謝されるべきなのです。たとえば食事によってもてなされることなどが適しているのではないでしょうか。このようなことを言っていると、あなたがたは私がまたもや傲慢な人間だと思われるかも知れません。しかし、私は決してそのような人間ではありません。じっくりと話し合う時間が持てれば、私という人間を分かってもらえるはずだと思います。しかし、残念ながらこの裁判は短時間で結論を出さなければならないことになっています。あなたがたは、このうるさい私を国外に追放しようと思っているのかも知れません。しかしそのようなことをしたなら、アテネの人々さえ嫌がっていることを全く他国の人々が被らなければならないことになるのではありませんか。ただ、私としては、また新しい地で方々を歩き回り、そこで若者をつかまえては教説できるので、追放の罪もけっして悪くはないかなと思います。あなたがたの中には、ソクラテスよ、もうここらへんで退いて静かに暮らしたらどうかと言いたい人もいるかも知れません。しかし、わたしのこの活動は、神から与えられた命令ですので続けなければならないのです。それと、仮に罰金を科せられても私には支払うお金がないことはここで申し上げておきます。みなさんは辛抱がたりないなと思います。あえて今ここで私を死刑にしなくても、この老いぼれはまもなくすれば死んでいくのです。私に死刑の表決をした人は、お前は死刑を免れるためにもっといろいろなことを言えばよかったのではないかと思っているのかもしれません。私に足らなかったものは、泣きわめいて許しを懇願する姿だったのでしょうか。いいえ、私にはそんなことをする気は毛頭ありません。戦場であろうと法廷であろうと死を免れようとすれば、ぶざまではあるがその方法はいくらでもあるのは分かっています。死を免れることは簡単ですが、悪を脱することは困難です。私は潔く死の判決を受けます。
 私を有罪としたみなさんに今後のことを予言しておきましょう。特に死期のせまった私の予言には重みがあるはずだと思います。私を死刑に処すれば、もうあなたがたを問責する人間はいなくなるとでも思っているのでしょうか。いや違います。問責者はさらに増えていきます。実は、今まで私が彼らの動きを抑えていたのです。あなたがたは自分に対する非難から逃れるのではなく、進んで自分を改めるようにしなければならないのです。
 私に無罪の投票をしてくれた人たちにも、今ここでお話をしておきたいと思います。実は私の身にはこのところ不思議なことが起こっていたのです。それは神からの警告のことなのです。神からの警告は、私がなにか良くないことをしようとした時、いつも私に聞こえてくるものです。ところが、私が死を宣告されたというこの時であるのにもかかわらず、神からのお告げは今のところ何一つありません。ということは、私にとってこのことは良いことなのだという意味に違いありません。つまり、死とは人間にとって幸福なことであるということなのに違いありません。仮に死が全くの無であるとしたら、まさに何の夢も見ない熟睡であり、これほどすばらしいものはないと考えます。永遠といえども一夜とそんなに変わるものでもないと思います。また仮に死が、次のステージへのステップならこれもまたすばらしいものであると思えます。あの世で多くの過去の偉人に出会えるでしょう。そして、そこでも多くの人々に無知を悟らせる活動ができるでしょう。多くの人々に試問ができることが楽しみです。そしてそのうえそこは、もはや不死の世界であるので、二度と死刑に処せられることもないであろうと思われます。私に対するこの死刑判決は、たぶん死んで困苦から逃れなさいという意味であろうと考えます。それゆえに神は私に何のいさめもしなかったのだと思います。
 最期にみなさんにお願いがあります。私の息子たちが成人して、徳よりも名声や金に念頭をおくような生活をしていたら是非いさめてください。それでこそ、私と息子たちは、あなたがたから正当な取り扱いを受けたことになります。私にはもう去るべきときがきました。
                                          

 

 

 

 


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