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目次

<目次>

 

 (1) 足して二で割って手を打つ生き方

 

 (2) カンタベリーの釣り師

 

 (3) スパイダーマンの糸

 


(1) 足して二で割って手を打つ生き方

 

 英雄の生き方っていうのは、当然、後世の誰かが、ある種の意図を持って作り上げたものだというのは疑いのないことです。

 

 一つの信念を貫き、正々堂々と生きたと言われる人ほど、実は、そうではないことが多いのではないかと密かに思っているのです。

 その歴史物語が作られた時代に、都合のいいように、歴史はアレンジされていると。

 

 いや、それが悪いというのではないのです。

 

 ちょっとは歴史に関心があるなら、それが書かれた時代の背景を心に入れて、読むべきだと言っているだけなのです。

 

 <忠臣蔵>……よくもまぁ、こんな素晴らしい言葉を思いついたものです。

 江戸の芝居小屋の主人か、はたまた、一発当てようと歌舞伎の役者か誰か知りませんが、これぞ、「ウケる物語」だと踏んだにちがいないのです。

 

 大石蔵之助だって、主君の仇を打った四十六人たちだって、後世、自分たちが喝采を浴びるなんて、きっと、想像さえしていなかったでしょうに。

 

 江戸市民の、権力に対する批判、そこまで言葉を強くしなくても、いたずらっぽい揶揄ほど喝采を浴びるものはないのです。

 

 でも、あの時代に、めちゃくちゃにされた吉良邸、転がる惨殺体を垣間見て、ひどいことをするもんだと思った人もいたはずです。

 しかし、時代は、その思いを取らずに、主君に忠実にして、本懐を遂げたあの侍に重きをおき、何年も何十年も何百年も先に、それが連綿と伝えられていくのです。

 

 信長だって、もし、桶狭間で今川の返り討ちにあっていれば、あんなちっぽけないくさなど、歴史の年表にも乗らなかったはずです。

 あの猛烈な雨の降る日、弱小にして、うつけの殿様が大大名今川の餌食になったなど歴史の表舞台に出てこなかったはずです。

 

 しかし、信長は、一か八かの賭けに出た……、はて、そうだろうかと思うのです。

 もしかしたら、自棄のやんぱちではなかったか。

 今川の大軍勢が、刻々と迫ってくる。迫ってくれば、諸手を挙げて降参するか、死にものぐるいで刀を振り回すしかありません。

 その結果、信長は後者を選び、死にものぐるいでいくさ場に馬を進めたのではないか。

 

 歴史は、信長を称賛します。

 人間五十年の覚悟があったとか、相手が巨人でも何者も恐れない狂気に近い迫力があったとか、勝者に対する賛辞を述べるのです。

 

 信長に限らず、人間生きていれば、多かれ少なかれ、人生の岐路に立つことが一度はあるはずです。

 でも、その時、人間は、さほどの決断はしないのではないかと思うのです。

 ある程度のところで、手を打って、うまくおさめているのではないかということです。

 

 心の中に、確固としてある、自分の弱さにそっぽを向き、脳は己の行いを正当化し、今ある自分を正義の存在であると認識するのです。

 だとするなら、信長だって、さほどの決断はしていなかったのではないかと結論づけられるのです。

 

 ほとんどの人が、信長も含めて、あの大石だって、きっと、足して二で割って手を打っていたに違いないと思っているのです。

 

 世の中、喧嘩して、得する人はいません。

 殴られれば痛いし、殴った方も、精神的にはもっと痛い思いをするものです。

 だったら、一歩下がって、そこそこで手を打つというのが利口者の落ち着く先です。

 

 あのアメリカ大統領だって、足して二で割って手を打つ政治を選びました。

 あの中国の主席だって、これまでの強引なやり方ではどうもうまくないと踏んだようで、ちょっと風向きを変えています。

 だから、盧溝橋での記念行事には今年出なかったようです。

 明らかに、日本に対しておもねりを見せているのです。これだって、足して二で割って手を打つ生き方です。

 今の両大国といわれる国のトップだって、そうなんですから、一般の私たちが、本当に小さな岐路に立った時に、切った張ったなど大げさに考える必要などこれっぽちもないのです。

 

 そんなこと思うと、歴史小説などというのは、人間が道を踏み誤らせる元凶だと思ってしまうのです。

 だから、私、歴史小説を読むときは、話半分にして読むようにしているんです。

 そのようにして、読んでいくと、これが結構面白いんです。

 歴史小説に描かれた主人公と、それを書く作家のこれまでの生き方も同時に堪能するのです。

 

 ぜひ、一度試してみてください。

 一冊の本で、二度楽しめます。

 

 さて、土曜の午後、劣等感の塊のような作家松本清張の『古代史疑』を持って、港に行き、船の上で、波に揺られながら、あの斜に構えた歴史観でも堪能しようと思っているのです。

 


(2) カンタベリーの釣り師

 

 優柔不断というのは実に困りものです。

 

 結局は買うのに、それまでにかなりの時間を要するのです。

 例えば、MacBook Proが古くなったので新しいのを買わなくてはいけないのですが、それをなんどもなんどもAppleのサイトを訪問して、わかっているのに性能を確認したり、これを手にしたらこのようなことをするんだと念押しの一覧表を作ったりするのです。

 そんなことする時間があったら、新しいMacBook Proを早くに手に入れて、サクサクと仕事をした方が良いに決まっているんです。

 

 でも、優柔不断な性格が面倒くさい手続きを私に要求するのですから困ったものです。

 

 イギリス滞在の折、数日滞在しただけの街なのですが、そこでもいかんなく私の優柔不断な性格が発揮されたのです。横道に入った駐車場からメインストリートに出ますと、前方に、明らかに古臭い石造りの塔が見えて来ます。

 

 これがカンタベリー大聖堂に通じるウエストゲートというものです。

 

 おそらく、ロンドンから多くの巡礼者がこのゲートをくぐり、大聖堂にお参りをしたのでしょうが、いまは、車道になっていて、人間はその横を通るようになっています。

 『カンタベリー物語』を書いたチョーサが見たら、きっと驚くだろうし、また、現代にチョーサが生きていれば、車優先に対しては不快の念を抱き、大げさな話を作り上げるのではないかと想像するのです。

 

 そのウエストゲートの横道を歩いていると下に流れる川があることに気づきました。

 

 イギリスはどこでも川を綺麗にしています。

 ここも、手入れが行き届いています。きっと、この川から観光を楽しむのでしょういくつかのロングボートが係留されていました。

 と、そこに、一人の年配の男が竿を持って、あっちに行ったり、そっちに行ったりして、糸を投げているのを私発見したのです。

 

 釣りをしている。

 何を釣っているんだろう。

 どんな釣り方をしているんだろう。

 興味は尽きません。

 

 私、川べりに降りて行って、その男に尋ねました。

 男は、常に、ニコニコして、私の質問に答えてくれます。日本の釣り人と同じです。

 「何のルアーを使っているのですか」

 イギリス人は生き餌などは使わないと思っていましたから、ルアーという言葉を使ったのですが、男は、私に、そっと、手のひらで隠し持っていた針先を見せたのです。

 

 そこには、一匹の太いミミズが刺さっていました。

 

 男は、ウインクして、針を持った手を顔の前で、人差し指を立てて、横に数度振ったのです。

 「言っちゃいけないよ。おいらはお前さんも釣り好きだと思うから、そっと秘密を打ち明けるんだ。」

 そんな風に私にはその動作が見えたのでした。

 

 イギリスでは、生き餌を使って釣りをしてはいけないのかどうか、私にはわかりません。

 でも、イギリスでは、釣り人の中で、川での釣りはフライかルアーで行い、取った魚はリリーするという暗黙の取り決めがあることは知っています。

 ミミズを使って魚を取る人は、きっと、リリースせずに、夕餉のオカズにそれを持って帰る人なのかも知れない、そんな風に考えたのです。

 

 私は釣りは魚を取り、それを食べるためと定義していますから、釣りをしていて、ルアー釣り師が釣った大きなスズキをリリースしている姿を目にすると、カチンとくるのです。

 もったいない。脂が乗って美味しいのにって。

 

 そんな釣り師との時間を経て、私はあの大聖堂の前にやってきました。何やら工事をしていて、足場が組まれています。

 なんだか、随分高い入場料がかかるようです。

 それだったら、この辺りの店を冷やかす方がいいやと私、門前町を散策し始めたのです。

 

 浅草と同じです。観音様より、揚げパンにだんごです。

 

 一件の骨董品、それも、海や川に関するものばかりを集めた店です。

 私が最も好きな店の類です。

 そして、見つけました。

 コンパクトに収納できる釣竿です。

 これなら、旅行鞄に入れて飛行機で持ち運べるし、旅先でもリュックにさして持ち、川や浜で釣りができると思ったのです。

 

 さて、それからが大変です。

 骨董品屋ですから、まず、この竿が機能するのか主人に尋ねます。

 主人は、それを手に取り、金属製の筒の中から、竿を取り出し、あっという間に組み立て、いつでもどこでも釣りは可能だと言うのです。

 問題は値段です。

 日本円で5万はくだりません。

 

 困りました。買うべきか、買わざるべきか、私の優柔不断の心が否応なく首をもたげてきたのです。

 

 これを買って、骨董品として保管するのか、はたまた、こうして旅先に持って行って釣りをするのか、でも、そうそう釣りをするような旅はしまい、仮に、旅先で釣りをするときは、その釣り場にあった竿や仕掛けが供されるはずだ。

 だから、ここで大枚をはたいても、この竿は実用には使えない、だったら、買う必要はない。

 でもまてよ、カンタベリーで買ったこの骨董的釣竿、財産にはならないだろうか。

 

 そんな利害損得の思いが店の中で私の脳裏で巡らされたのです。さらに、外に出て、店の外で、今度はそこが私の思案を巡らす舞台となったのです。

 

 そこへ、先ほどの釣り師が歩いてきました。 

 手には、袋が握られています。

 私は、その袋を指差して、そして、次に親指を立てました。

 ミミズでそっと釣りをしていた釣り師です。釣れたのかなんて言ったら礼を失することになります。釣り師は、にこりと微笑み、親指を立てました。

 

 私は、その釣り師に、この店にこう言う竿があるのだか旅先で使いたいのだが、どうだろうと問うたのです。

 

 即座に答が返ってきました。

 It's useless, that's same as fry fishing and spin fishing and isn't the tool which fishes fish.(ダメだよ、それはフライ釣りやルアー釣りと同じで、魚を釣る道具ではない。)

 

 目の前が明るくなりました。

 そうだよ、私は、魚を釣って、それを食べる釣り師なんだ。

 だから、この竿は、私にとって無用な竿なんだと。

 

 きっと優柔不断というのは、目的を逸することで、心に生じる迷いなんだと私気が付いたのでした。

 


(3) スパイダーマンの糸

 

 芥川の『蜘蛛の糸』は、印象深い作品でした。

 

 子ども心にも、人間の心の醜さを、この作品で知ったという記憶があるのです。

 他人を蹴落としてまでも、お釈迦様が垂らした一本の蜘蛛の糸にすがろうとする人間の心の醜さです。

 

 お釈迦様が散歩していました。

 そこにあった蓮池から地獄が見えます。多くの罪人たちが苦しんでいます。

 その中の一人に、人殺しや放火をした悪い奴がいましたが、お釈迦様は、この男が一度だけ善行を積んだことを思い出します。

 その善行というのは、一匹の蜘蛛を見つけて、それを踏みつけることなく、通り過ぎたというものです。

 

 だから、お釈迦様は一本の蜘蛛の糸を下ろして、この男の前に垂らしたのです。

 男は、これに登れば、この地獄から抜け出ることができると、しゃにむに登ります。途中で下をみると、多くの罪人が自分の後を追って、蜘蛛の糸を登ってくるではないですか。

 男は、これは俺の蜘蛛の糸だ、来るな、降りろと声をあげたのです。

 

 その瞬間、蜘蛛の糸はプツンと切れて、男も罪人たちも地獄に後戻りした、そんな話です。

 

 子ども心に、もし、この男がついてきた罪人たちをも、さぁ、一緒に行こう、この糸をたどっていけば、この苦しい地獄から抜け出すことができるぞ。

 こんなにたくさんの人間が登ってきたら、もしかしたら、この糸は切れるかもしれない、でも、苦しい地獄で一縷の光明を、たとえ一瞬だけでも目指していけたら本望だと思ったら、どうなったのかしらと考えたことも、まだ、私の記憶の中に刻み込まれています。

 

 きっと、お釈迦様は、この男の心の広さを称え、ついてきた罪人たちさえも許したに違いないとも思ったのです。

 

 まさか、この男だけ、蓮池から救い出し、そのほかの者たちが掴んでいる蜘蛛の糸をそこで切り落とすことはしないだろう。

 お釈迦様はそのような心の狭いお方ではない、そんな子ども心であったと思います。

 

 「物語」の素晴らしさは、子どもの心に、一定の心持ちを植え付けることであると思います。

 

 ですから、この歳になっても、私は<蜘蛛>を殺すことができないのです。

 私の大切にしているバルコニーの朝顔棚に蜘蛛が巣を張り巡らします。その巣は払い落とします。手入れをする私の顔をあの巣の糸が絡んで来るからです。

 でも、蜘蛛は殺しません。

 ですから、蜘蛛も、私の顔に引っかからないところに巣を作るのですからえらいものです。

 

 そして、蜘蛛を殺さないという「善行」は、蜘蛛ばかりではなく、ほかの虫にも適用されているのです。

 きっと、子ども心に命の大切さと善いことを行うということを、芥川の本から学んだのだ思います。

 

 で、なんで、今頃、『蜘蛛の糸』など思い出したのかと言いますと、それにはれっきとした理由があるのです。

 

 ラインから、あのGOKUがけたたましい声で叫び声をあげます。

 日本に来ることがよほど嬉しいらしく、買ってほしいものがあると叫んでいるのです。

 スパイダーマンの何かがほしいというのです。

 

 幼稚園に行く時、GOKUはスパーダーマンの衣装で行きます。娘が撮って送ってくれた写真を見ても、かなり、浮き上がっていることがわかります。

 ほかの誰も、そんな姿格好の子どもはいません。

 でも、GOKUだけは、あの赤と青のコスチュームに身を包んで、時折、あの指から糸を出す仕草を真似ているのです。

 よほど、好きに違いありません。

 

 きっと、『正義』なるものを、あのスパイダーマンから学んでいるのだと思うのです。

 世の中には、少なからず『悪』がある。

 だったら、その『悪』を『正義』がやっつけなくてはいけない。

 それを、スパイダーマンがGOKUに教えているのです。

 

 さて、スパイダーマンの何か、ですが、スレッドと言っていると娘が言うのです。

 『糸』、『クモの糸』がほしい!

 はて、日本の私のところに行けば、なんでもあると信じているGOKUは、あのスパイダーマンが手からサッとだす糸がほしいようです。

 

 困りました。

 私はお釈迦様ではないし、蜘蛛の糸を作り出すことはできません。

 でも、GOKUが熱望するのですから、なんとか考えなくては行けません。

 まさか、タンパク質から、液体状のものを作り、瞬時に、繊維状態にする技術をバルコニーの私を気遣う蜘蛛から聞くことは非現実的です。

 鉄よりも強く、ナイロンよりも伸縮性のある化学繊維を我が宅で作り出すことも到底叶いません。

 

 子どもだましではありますが、歌舞伎で使う「クモの糸」でも探すかと思案しているところなのです。

 

 


奥付



スパイダーマンの糸


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著者 : nkgwhiro
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/nkgwhiro/profile


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