閉じる


シュニトケ、その色彩 1

 

 

 

 

 

 

 

 

シュニトケ、その色彩

三帖

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息が吐かれた。その音に気付いて、振り返ったとき、皇紀の頭が吹っ飛ぶ。逆光、色彩が飛び散る。眼差しが捉えたその、一瞬くらんだ空間を。赤。…それが、赤だということには気付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

色彩の名前は、赤。匂った。脳漿の匂い、あるいは空気を焦がした銃弾。腐った湿気と、灼けた匂いが同時に嗅がれた。バリケードを張られた壁の向こうに、怒り狂った、ささやき声の群れがあふれていた。彼らは、確実に私を殺そうとしていた。未だに信じられなかった。想い出す。私が、皇紀が吐いた息遣いに振り向いたというのは、嘘に違いない。明らかに。そんなものはもはや聴こえなかった。…怒号。私は振り向いたのだった。聴こえない。銃弾がガラスを突き破ったその音響に。怒号さえもが。人殺しの皇紀を、そして私を狙って。聴こえない。私に、まだ人権はあるのだろうか?

なぜ?

怒号さえ立てずに、自衛隊の精鋭部隊が、国会議事堂、その控え室のドア一枚隔てた向うでささやきあう。怒り狂っているに違いなかった。少女殺しのわたしたちを。

立てこもった国会議事堂の、二階のバリケードはすでに破られていた。彼女は堕ちて行った。Lê Th Nhgĩa、レ・ティ・ニア、あの純白の肌を持ったLê Th Nhgĩa義人も、国会議事堂の、中央玄関上部のベランダから。すでに殺されてしまったに違いない。身を投げるように。それとも彼女は確保されたのだろうか?最後に、何か言った。

彼らいわく、最後に、生き恥を曝して。振り向いて、皇紀がもしも、撃て、と、合図したその拘束されてひざまづくNhgĩa-義人をうなずきの見たなら、かすかな速やかにその自決を命じたに瞬間に。違いない。…何を?日本人として、恥を曝すな、と。

泣く、と言うのとは違う、叫ぶ、に似た、…悲しみ?…やわらかい無際限な痛みが、ささやき声になって、無言のままに、私の頭の中を満たしたのだった。

 

こいつら、まじ、豚。言ったのは皇紀だった。

衆院議会場に乱射される機関銃が、議員の

群れを吹き飛ばしていった。

こんなもん?…革命って。

 

後頭部を打ち抜かれた皇紀が、四肢を痙攣させ乍ら、

 

こんなもん?国家って。

 

いかにも穢らしい死にざまを曝していた。

なぜ?

 

女声議員に銃口を咥えさせて、泣きもしないで涙だけ垂れ流す

彼女の頭部を吹き飛ばす。笑う。

…くそだね。皇紀は言った。

 

なぜ、彼らはもう一発打たないのだろう。

 

吐き捨てるように。

 

割れたガラスの向うに、空中に静止したヘリコプターが横面を向けているのを、私は眺める。

発砲してくるのが当たり前のはずだった。彼らは、この期に及んで、未だに投降を呼びかけていた。もう、テロリストたちなど十人以上も殺してしまっていたに違いないのに。

おそらくは、私がその最後の一人だったかもしれないのに。

藤井加奈子は笑うだろうか?

あるいは、自衛隊の男たちを導きいれて、彼女の股を広げて見せるだろうか?

突っ込んで見せなさい、と。あなたたちの血に穢れた銃弾を。愛は、微笑んだように見えた。あの、少女は。ヘリコプターを見詰めた。それは、彼女が微笑んでいたことをは、中は見えなかった。かならずしも聴こえた。意味しない。確かに、聞こえ続けていた。時は、声。いまだ、と。投降を呼びかける、あなたが…声。引き金を引くべき時は、彼らの。いまをおいてほかにないのだと、撃てばいい。鈍い私を私も。諭すためだけに、いますぐに。最後のうなずきの瞬間に、両手をひろげてみせるのだった。微笑みながら。作られただけの、私は。微笑みの残骸に彼らに。過ぎなかったかもしれない。何を見てる?

悲しみ。それに、いまだに、満たされる。引き金さえ引かないで。悲しみ、の、ような、その、吐きそうになる、あの、茫然としているわけじゃない。…苛む。むしろ、かきむしる。殺意に、ひっかく。焼け付くような殺意にさかなでる。苛まれてさえい乍ら突き刺さる。なぜ、ささやきあい、無数に。そして、いくつも。見詰めているのか?瞬間、私を。…引き金を引いた瞬間、私を。その時には、聴こえる。すでに、騒音。私を満たしていたそのヘリコプターの感情が、三台の、まばたく。旋回する、わたしは、その、瞬き、ヘリコプターの、そして。羽根の。

 

愛が、ささやいた。

聞き取れなかった私が、「何?」

その言葉が終わる前にはすでに、この

十二歳の少女は噴き出してしまう。

その、幼いながらも、あるいは

幼く、かつ美しいものだけが持つ、どこかで決定的に

鋭利な美しさを

無残なほどに、その笑い顔が崩壊させて、「…なに?」

どうしたの?言った私に、彼女が

答えるはずもない。この

生体の機能を失った少女は。

9月。まだ、大気の夏の温度が巣食う。急速に

あと数日で、目覚めた

朝に、そんな温度など

もはやどこにも存在しないことに気付いて、夏の

終焉に私たちは気付くに

違いないのだが、

9月の正午。雨は

降ってはいない。

晴れているとはいえない、その

 

Trangチャンを、愛していたのかも知れなかった。あるいは、私は。彼女の、無残な、四肢の原形をとどめない死体を見たときに、私は、

 

光。…陽光。窓越しの、

それ。

 

想わず、意識が遠のくのに気付きながら、見る。泣いたほうがいいだろうか?私は、それとも彼女の泣かないほうが?そのままのかたちで、Trangは泣いた。すこしのかすり傷だけで僕が、現存していた、両親の死を知ったその、瞬間に、頭部を。想わず涙を…あ、こぼしたときに、と、泣いてはいけない、その、と、

なかないじぇくじゃさい。

どっちがいい?泣いて欲しい?泣かないでほしい?

Trangの口は、「…あ、」のかたちに開かれたままだった。ベトナムの病院の中で、もちろん、Trangはすでに生きてはいない。どこかのならず者が仕掛けた爆弾が吹き飛ばして、倒壊したビルが押しつぶした彼女の首から下は、もはや、単なる筋肉と皮膚の残存を、千切れないように、そこにつなげていただけに過ぎない。…しっかりして。

 

しっかりしてください。

 

聴く。しかるぃってくださぃ、声。しっかりしてください、と、それ。

髪の毛の匂いは?

無意味なほどに、無様なほどに生え茂った、あの、真っ黒い、美しい髪の毛は?うっとおしいほどに匂いたった、あの、その、あれ。

 

匂いは?

 

なかったことには気付いている。その匂いさえもが、あるいは、それ以外の匂いが、…例えば、血。腐りかけの。半日以上たって、すでに。あるいは、肉。

 

肉片。腐りかけの。半日以上たって、すでに。あるいは、髪の毛。

 

あの、うざったいほどに匂った、あの髪の匂いは、その、髪の毛に顔をうずめさえすれば、未だに、うざったいほどに、匂うのだろうか?例えそれが、干からびた血と肉片に穢されていたとしても。

 

未だに、と、「…しっかりしてください」その声が、しかるぃってくださぃ義人が背後からつぶやいたものだということに、そして、Nhgĩa-義人は私の肩を抱き、激しくゆすり乍ら叫んでいたのだった。「…しっかりしてください、しっかり、して、しっかり、して、ください」

私が振り向いたのをNhgĩa-義人は確認した。怒り狂ったような眼差しを、Nhgĩa-義人が曝して、私に叫んでいた。私は、自分が立ったまま気絶していたことに気付いた。

その死体が安置された病室の中で。

病室を出て、病院を出て、そして、Nhgĩa-義人は死体を自宅に運搬する手配に終われ、病院の前の、雑多な通りを、一本入った、さらに雑多な通りで、光。

 

差し込んでいた。

 

まばたく。

 

人ふたりがすれ違えるかどうかしかない、その

 

そうするしかないから。

 

狭苦しい通り、壁、住居の圧迫感、にも拘らず、ときに

 

私はまばたいて

 

とおるバイクのうざったい、そして

 

拭ってみる。

 

光。なにかの

 

汗。…顔の。

 

反射光が青いペンキを塗られた壁に

 

「忘れられましたか?」皇紀が顔を上げて言った。Nhgĩa-義人が私をつれて入った路地の喫茶店の中に、「…奥さん、…だっけ?」皇紀は、別れたときそのままの姿勢で、じっと座っていた。スマホが、病院に入るために席を立った私が、「…じゃ、あとで。」そう、声をかけたときのままに、そこに放置されたまま、安っぽい、木のテーブルを、氷だけ溶かしたコーヒーが、グラスの肌を汗だくにし乍ら、濡らした。

水溜りのようなものをさえ作って。

「がんばって」言った皇紀は、私を見上げて、微笑んだものだった。なにを、私は、頑張ってほしいの?微笑しかなく、なにを?Nhgĩa-義人が、どこかに連行するように、私の腕をつかんで、連れて行く。

お前だろう?私は想っていた。あの

病院へ、その後姿を、皇紀は

ビルに爆弾を仕掛けたのは。

見ていたに違いない。

一つの、まったき確信として。

なにを?皇紀は、なにを想って?一瞬、見ていたの?首を傾けて、君は、私を。「忘れられましたか?…もう。」もう一度私につぶやいた皇紀は、私が聞き取れなかったのだと想ったに違いない。

「何を?」微笑み。見た。皇紀の、その、「…忘れられたって、」あからさまに女の「何を?」微笑。

自分の表情はわからない。

「奥さんですよ。…見てきたんでしょ?」Trangの姿を想い出しそうになる。どっちの?「見てきたよ」生きていた頃の?それとも、あの「…どうして?」残骸を?子どもは、もはや「どうして、もう、」コンクリート・スラグの下に、その「俺が忘れたなんて、想ったの?」残骸さえ残ってはいなかった。「…ん?」いまは、「忘れてないんですか?」想い出したくない「まだ?」…え?どちらも。と、

生前の彼女も、言った。死後の彼女も。

そう、…と、その、何も。皇紀の声を聞いた。…何も。ささやきと、つぶやきの間の、小さな、声の断片。轟音が響く。

 

 

 


シュニトケ、その色彩 2

 

 

 

 

 

 

 

 

頭の中で、轟音が響く。

 

ヘリコプターの。そして、壁の向こうの、ささやき声の群れ。…いつ?

あなたたちが、俺を殺すのは、いつだ?

 

「一緒に、やります?」

「なにを?」

「革命ごっこです」

「…例の」

「そう。」

「首相官邸?」

「いや…」言って、長く伸ばし始めた

髪の毛を掻き上げて見せて、斜めにさした亜熱帯の

午後の光が皇紀の髪の毛に白い光沢を与え、舐めるように、そして崩れて、やがて、皇紀は一度、咳払いをして見せた。それが何かの意味を持った行為であるかのように、皇紀は自分の喉を撫ぜる。しかめられた顔の、その眉間に細かなしわが寄せられ、「柿本さんは、…」

なに?

「暇ですよね?」

…いま。…でしょ?違います?

私は笑っていた。Trangたちが死んで以降、私の生活のすべてはほぼ、寝て、起きて、寝るだけだった。

 

「なにも、やることないんでしょ?」

「ない、ね」

「生きていたい?」

「たい、ね」

「うそ。」

「なんで?」

「だって、それは、うそだよ」

「どうして、…ね」

「あきらかに、うそ。」

「俺だって、一応、」

「生きてたくないんだけど、」

「生きていたいよ、俺だって、やっぱ」

「死ぬ気にもならないっていう、」

「人間だから」

「…そういう感じ?」

「あいつらの分も」

「…じゃない?」

「なにが?」

言った私に、そして皇紀は不意に声を立てて笑う。その瞬間にとんだ唾が、私の左の頬にふれた。噴き出し、笑い転げるように、ダナン市の日本料理屋の中で、皇紀の背後の向うに座っていた、いい服を着たベトナム人の女が、振り向き、「…なにが?」

「だったら、死ねば?」笑顔をかみ殺し乍ら、皇紀は言った。私を見つめ、「死ねばいいのに。」その、「…え?」眼差し。「…ね。」彼女の眼差しの中で、どんな風に私が、「一緒に、」見えているのだろう?「…ね、」何かを「死にません?」見詰めた眼差しほど無表情な、「お前たちと?」無機的なものはない気がして、「他に…」いや、と。「他に誰か、います?」想いなおした私は、いつでも。「どう?」…いつでもそうだった。「便乗しません?」見詰められるとき。潤んだ、「革命ごっこ。」発情さえした眼差しであっても、「やだよ」それは無機物の、鈍い輝きだけを「…なんで?」曝した。いつも。「くだらないよ」なにもかも、「でも、さ。」拒絶し、「死ねるよ。」見下したかのような。「死にたいんでしょ?」

 

「らちが明かないって、顔、してるけど。」皇紀が笑った。

かしげた首が、細やかなしわを作った。そして、その影が。肌に。

 

その、首相であるには違いない、衣笠という、体ばかりが

大きな、鼻毛を二本だけのぞかせた男の額を

打ち抜いたのは、愛だった。「…ね、」…ね

と、耳元に声を弾ませた愛が、私の右手の拳銃に触れたときに、

「…なに?」

「ん?」

「どうした?」

くすっ、とだけ、鼻で笑って、ね?

「ばんって」

「ばん?」

私の手のひらごとつかまれた拳銃が火を噴いて、その男の左横を掠めた。その瞬間に

怯えた眼差しを、左右に震わせるしか出来なかったその

男は、叫んだ。衣笠は私を

睨みつけ、「殺すのか?

…お前、…お前たちは」

後ろ手に縛られたままで

「私を、お前たちは」

わめく。

「殺すのか?いい、」

わめくたびに

「い、」

声が熱を帯びて

「いー、」

自分では、最後の

「だろう、いいだろう、しかし」

名台詞を

「私を殺しても自由と」

吐いたつもりに違いない。

「民主主義は死なないぞ」 

その、あからさまなほどに決然とした、男の最後の決意が

その挙動不審に震える力強い眼差しが、愛を

微笑ませ、最後の

言葉を言い終わった瞬間に、愛は

声を立てて笑った。…ねぇ、「いい?」

耳打ちする愛に、私は

そして、愛の髪の毛の向こうで、男は

まだ何か叫んでいた。私は、何も

愛には、何も言わなかった。むしろ

「…なに?」

独りごとをつぶやいたように私の口からその

言葉がこぼれる前にすでに

愛は私から奪った改造拳銃を男にくわえさせ、振り向き見た

眼差しが私を捉える。

愛はまばたく。

私は、…

私も。

愛は引き金を引いた。

男に、見向きも

しないままで。

 

窓の向こうに旋回するヘリコプターの騒音が、しかし、私はそんなものに耳を貸しているわけではなかった。もはや、すでに。あるいは、それが鳴り響き始めたその最初の一瞬以外には。

 

衣笠の脳漿が、壁に作った血の

黒ずんだ赤の、…深紅の?その、

私は戦慄を、哄笑に近い笑い顔の下で、

私は感じていた。わからなかった。私にはなぜ

私が笑っているのか?

 

Trangが微笑むのを、私は見た。もはや、彼女は疑いもしなかった。私が彼女を愛していること、そして、いつか、その時が来ること。

 

愛が、つまらなそうな表情を曝した後で、

…なんで?言った。

なんで?

 

私が彼女を裏切る最後のときが。そして、彼女が泣き崩れ、なにもかも、心さえもが崩壊して、溢れ出す涙と共に、すべてが、あるいはその肉体さえもが、崩壊し、

 

「…何が?」

なんで、みんな、

「どうしたの?」

穢いの?こんなに、なんで

「…ね、…何が?」

 

Trangはもはや、なにも疑わない。彼女が確信していることのすべてを。私に抱きしめられるときにさえも。匂う。Trangの髪の毛の匂いに、私の鼻腔は侵されるだけ侵され、

 

 

銃口を自分の左のこめかみに当てて、…左利き?私を

見た愛が、左利きだったの?引き金を引く

まねさえせずに、いつから?ばーん、そう

言ったとき、背後で皇紀が

笑った。声を立てて。皇紀は窓越しに、上空の

離れたところを飛び交うヘリの、数台の群れを

見ているに違いなかった。私の

眼差しは、愛の背後の、壁の脳漿の

穢れを見詰めたまま、…おいで。

 

あなたはいつ棄てますか?わたしを、まーはいちゅすてまっかいつ、と、いつすてまっかときに、いつも、不意に思い出したように言ったときのいつか、掻きあげられたばかりの、耳に掛かった左の髪の毛が雪崩を起こす。

 

「こっちに。」…ね。悔恨の

涙?愛の両の目を流れ出す涙が、「…おいで」

許せなかった。抱きしめて「…ね。

いい子だから」あげるから。チキンどもが、…泣いては

いけない。騒いでるよ。君は、

と、皇紀は叫ぶように言って、手招く私に

すがるようにそれは、愛が

抱きついたとき誰に言ったのか。彼女の

足元に轟音が鳴る。取り落とされたヘリコプターの、

その。銃は

暴発する。

音響、その。

聴いた。そして、弾丸が

壁かなにかにぶつかって、跳ね返ったようだった。

見えはしない。

 

その、弾道など。

皇紀たちは許さなかった。逃げ惑う

議事堂の中で、議員に向けて乱射される、その弾道など。

彼らが逃げおおせてしまう

誰にも見えはしなかった。

ことなど。決して。徹底的な掃射がすべてを

無数の跳ね返り。聴く。音。

破壊する、

それらの。

 

衆院の破壊はNhgĩa-義人たち、第二班の担当だった。

皇紀たち第一班は衆院を担当した。まず

手当たり次第に投げ込まれたのは、手流弾だった。護衛官など

無力に過ぎない。ためらいのない留保無き暴力の前には。

 

叫び声と怒号と、あるいは悲鳴のようなもの。息遣う。

 

音響の群れ。

逃げ惑った。彼ら、国会議員たち。4トン・トラックで、国会議事堂に突っ込んだとき、Nhgĩa-義人は口笛を吹いた。私の向うの誰かに目配せした。ミャンマー人か、台湾人か、誰か。

一瞬だけ。

ひき殺した警備員は一人だけだった。怒号。トラックを飛び降りた皇紀が、叫び声さえあげずに駆ける。沈黙のままに。二十人の、桜桃会が、皇紀に続いた。機関銃を乱射し乍ら。

 

憎しみも何もないくせに、殺意だけが渦巻いた。その、トラックに揺られている間から、温度を持った感情。ずっと、発熱した、もう、その、すでに。焦燥に似た殺意。もっと。

 

まだ、一発の発砲さえしていないくせに、私は、もっと、と。焦がれた。もっと、大きな殺戮に。ねじ伏せ、叩き壊すような破壊に。飢えるしかない。

渇く。

魂が、燃え上がって、存在それ自体が渇く。

私の、この。

 

惨めで、むごたらしいほどに

ちいさな

 

轟音、…それが鳴り響いたことに気付いたのは、嘘のように建築途中のビルの躯体が倒壊した事実を、

 

議員の割れためがねが足元に

転がる

 

意識のどこかで確認した、その、数秒もたった後だった。

 

数年前に、テレビで討論をしていたのを見たことが

在る、名前など最初から覚えてもいなかった

議員が、罵るような声を上げてつっかかってきた。

まだ、若い。三十代の前半か、なにか。

女がなじるような、そんな微細な痙攣を、彼の

眉は曝し続けた。

「撃ってみろ」…撃てるものなら、と、彼は

言ったのだった。その前に。確かに、まだ、

私が彼を振り向き見る前に、背後で。

引き金を引いたとき、それが、私の初めての

発砲だったことに気づいた。無意味に、愛が

身をまげて、床に唾を吐いた。

弾は外れた。それた弾道が、向うで

一人の女性議員のわき腹を血に染めた。

愛が、喉を鳴らす。

女性議員が、無言のままに、びっくりした顔を

静止させて、私を通り過ぎた向うを、その

眼差しは見詰め続けた。

愛が、顔をしかめた。

喉に、魚の骨でもささったかのように。

 

何が、…と。

その轟音に地面が振り返った裂けたような、私は、それ。見る。地面さえ、揺れた。地震とは違う、かすかで、細やかな振動。何が?と。

 

あらかた殺戮を終えた皇紀は、中央玄関上部のベランダに

降り立って、旋回するヘリの群れを眺めやり、

「…どう?」言った。「心地よくない」快活に笑う。

 

倒壊したビルが、真っ白い砂煙の向うに、姿を隠す。その至近距離に、Trangもいたはずだった。子どもを抱いて。砂埃りの、巻き上がった白い粒子の無数の散乱が、どこに?

どこに?

視界の中に、見えるはずのないTrangを探し、大通りの向うの、建築途中だった、その、いまや崩れ去ったそれ。膨大な砂煙だけを舞わせたなにもない空間が、コンクリートと鉄筋を剥き出しで曝していた躯体が隠していた、見えるはずのない向うの風景を、恥ずかしげもなく曝しめる。

ヌック・ミア。大通りを渡った向うに見えた、サトウキビのフレッシュ・ジュースは、まだ私の手に渡っていなかった。サトウキビを搾りかけたまま、無骨な搾り機のローラーは回り続け、店員さえ自分の仕事を忘れていた。誰もが、いま、自分がしていることの継続を断ち切られ、見詰められたのは、ただ、その砂埃の穢らしい白さだった。

それは、明らかに空間を、穢していた。

大気を。

息が、出来るのだろうか?私は案じていた。あの、土ぼこりの下で。あんな、汚染された大気の下で。Trangと、ハナエ・ホアは。

あの子、ハナエ・ホアは。

はたして?

まばたく。

陽光、私の背後の頭の上から差す陽の光が、照らす。

何を?

惨状を?

何の?

コンクリートと、もつれ合った鉄筋の残骸の?

 

 

 


シュニトケ、その色彩 3

 

 

 

 

 

 

 

愛が、尻だけを突き出してうつぶせ、荒く

息をつきながら、もう聴く。助かるはずもないその死にかけの

痙攣するような議員の一人の肺の頭を

わざと…ノイズ。踏んでみせる。

壊れかけの、気付かない振りをして。その。

カンボジア人が射殺した死体だ。…たぶん。

愛の、その、どこかで無邪気な仕草と、振り向かれた

無意味な笑顔が一瞬、私を

笑わせた。背後に、皇紀の発砲する、機関銃の掃射の

音が響く。

ミシンを鳴らす音にどこか似ていて、確かに、それは

もうすこしヴォリュームを絞れば、

滑稽な音響でさえあったに違いない。

 

一瞬、逃げ出そうかと想った。

いまだに静まらない、瓦礫の山の、巻き上がった砂埃の、…どこへ?

後ろを向いて。

どこかへ。

一瞬だけ、逃げてしまおうかという逡巡が、そして、その一瞬が、矢継ぎ早に連鎖し、頭の中に充満して。痛みがある。頭の中に。眼球の奥に。そして、重さ。

何かの、鈍い重さが。

眠い。

むしろ、いま、すぐに、ここで。

眠ってしまえるなら、どんなに。

 

国会議事堂の中を、戯れるように、愛が、必要もなく身を

隠して見せながら、駆ける。

愛の笑い声が立って、

地味なスーツを着た死体が、あるいは

死にかけの破綻した身体が、呼吸を

困難にさせ乍ら、自分勝手に床の

上に散乱し、うめき、痙攣し、匂う。

火薬と、血と、肉の?

言ってみれば、生肉の匂い。血の

腐敗は、驚くほど早いのっだろうか?すでに、

腐り始めたような臭気が、空間に、斑に

点在していた。

 

大通に立ち止まったバイクの、夥しい群れが大通の交通を麻痺させる。5階建て分の高さくらいは建築されていた、その、砂煙をなかなか落ち着かせない跡地。数回も、バイクと車にに轢かれそうになりながら、渡った。

道を。

私は。

 

なぜ、言ったのだろう?

「いいよ」

顔を上げた皇紀は、

…ん?

 

お前だろう?爆破したのは。あの

ビルを

 

「いいんじゃない?」

なに?

 

お前たちが、あのビルを、そして

発破したんだろう?

 

「ぶっ殺そうぜ」

誰を?

 

狙った?Trangも巻添いにするために?

例えば

 

「血に染めてやろう」

私は言った。

 

景気づけの余興のようなものとして?

お前たちが

 

「世界を」

 

皇紀が、一瞬、何を言っているのかわからない顔をした。

 

その瞬間に、皇紀が、わたしを彼らの

新しいクーデター計画に誘ってから

十分と少したっていたことを想いだした。

 

私は見ていた。思いあぐねたような、皇紀の儚げな戸惑いの眼差しを。

 

一瞬の間があって、

その間、皇紀の眼差しは

かすかな黒眼の震えを、Trangのように

そこに一秒だけ刻んだのだが、

Trangが、ときに

「いいですね。」

不安げに、そうして見せたような

「やっと、」

空気が震えたような

「やる気、出てきました?」

 あの。

 

あるいは、

 その。

 

どこにいる。

Trangは。

探す。見つけ出す気もないくせに、実際には、すでに、諦めていたことを気付かない振りをして。

倒壊したビルの残骸の、砂煙の中を歩いた。

誰よりも、自分自身に隠そうとしていた気がする。諦めを。その理由などわからない。

煙にむせた。

興味もない。…廃墟。

 

目の前には、真新しい、出来立てほやほやの、廃墟。

 

…確かに、と。

そう想ったのだった。

一方的な皇紀の話し声に

聞きもしないで感覚的に

打った相槌がときに

タイミングを外しているのにも

私自身は気付いていた。

皇紀自身は、気付いていないにしても。

何を話していたのだろう?

 あのとき、

あの

皇紀は?

どこからどう見ても女にしか見えない

男装の皇紀は。

 

まばたく。

 

クーデターが失敗することなど、馬鹿でも

知っている。自衛隊が、議事堂の

あるいはそれは、成功していたのだった。すでに、

国会議事堂に突っ込んで

周囲を取り巻く。首相さえ

銃殺されたいま、彼らは何の

すべてを破壊して回り始めたときには、

すでに

権限を持って、国を守ろうとしているのだろう?あるいは、

誰の権限に於いて、発砲しようと

皇紀たちは勝利を収めていた。たとえ頭上で

核弾頭を

しているのだろう?文字通り、政府が存在しない

いま、彼ら自身も無政府ゲリラ以外の

吹っ飛ばされて、なにもかも吹き飛んでしまったとしても、

あるいは、(…むしろその瞬間にこそ?)

何者でもないはずだった。あるいは、不均衡な

武力バランスで勃発した、ゲリラ集団同士の内乱こそが、

その瞬間にはすでに、もう、なにもかもが手遅れの正確さで

皇紀たちは

私たちによって体験されていることの

実態なのだろうか?

勝利していた。いま、国家は完全に崩壊させられ

ただ

蝶を追うようなた易さで、皇紀が

死体の数を数えたが、三十七までで、飽きた。

曝されたのはその残骸に過ぎない。

彼女は中断した。

 

叫べばいいのか?と想った。人だかりを、半ば殴りつけながら侵入した廃墟の左端の、隣のビルの陰と陽だまりの、その、ちょど境界線にまたがった、Trangの頭部。

叫ぶ?…疑問だった。何を?この期に及んで。

何を叫べばいいのか?

自分が、意味不明な日本語でわめき散らし続けていることくらいは意識していた。すでに。何を言っているのかさえ、わからない。記憶する前に、いちども触れられることさえなく、忘れ去られて仕舞っていたのだった。それらの言葉は。私自身にさえ。

 

ギィさん、と、確か皇紀は呼んでいたミャンマー人の

頭部が、どこから侵入したのか誰も

気付かなかった銃弾によって、横殴りに

吹き飛ばされたとき、愛が大袈裟に驚いたのを、

この世界の終末が、いまさらに到来したことに恐れ

私は

おののいた眼差しで

うざったく感じた。次の瞬間、私の至近距離で

鼻をすすった愛を殴り飛ばして、息を詰まらせた

愛が一瞬、白目を剥いた。

 

「これは、革命じゃありません。」

髪の毛。確かに

「クーデターでも、ましてや」

皇紀のそれはTrangのそれとは

「テロでもない」

比べようもないほどに、鮮やかな

「それらは、政治でしょ」

光沢を湛えて美しい。たしかに

「単なる政治手段。暴力としての、ね?」

確実に、と

「我々がもくろむのは政治じゃない」

見惚れさえした。かならずしも

「だから、いかなる意味に於いても」

見詰めたわけではなかったが視界の

「我々の行為は、既存の…」

端に意識され続けたその

「…親父に似てきたね」

いきなり、そう言った私に、皇紀が戸惑った

眼差しをくれた。

「そっくりじゃない?

言ってること」

その瞬間、私の頬を殴りつけた皇紀の

こぶしは感じたに違いなかった。わたしの

奥歯の硬さを。

口の中を、破れた粘膜が

流した血の味が穢した。

鉛のような、その

味覚と

匂われさえしないにも拘らず

執拗に感じられた

自分の血の臭気。

 

何を、びっくりしてんだよ、と。

笑ってしまいそうだった。Trang、その、影と日差しに分断されている頭部の、見開かれた巨大な目と、そして、あ、のかたちで静止してしまった、その。

 

皇紀が、ヤバイね、

と、耳打ちしたときには、半数以上の会員は

銃殺されていた。投降を求める音声が、少なくとも

「…なにが?」

二箇所から、拡声器を使って投げつけられたが、今の

時代に、なぜ、こんなに声がわれる拡声器など

使ったのだろう?他の

「もう、もたないよ。そろそろ…」

選択はなかったのだろうか?皇紀は、一瞬だけ、微笑を

投げかけてくれたが、もはや、私の

姿など、その瞳がとられては

「…てか、腹なんか切ってる余裕ないだろうな。」

いないことなど気付いていた。もはや、彼女が

見ているのは、自分が見ている風景以外には

なかった。目に映るもの

「残念ながら、…ね。」

すべてに、自分の姿を無防備に曝し乍ら。

 

口。

唇。

わめき声。

それは私のものだ。Trangのものではない。ましてや、ハナエ・ホアのものであるわけが。

慎重に伸ばされた指先が、震えながら、Trangのそれに、触れる。

顔に刻まれた、日差しと影の境界をなぞった。

まだ、温度を持つ。

それに驚いた指先は、一瞬の硬直を見せた。

 

なんで、と、皇紀は言った。こんなこと、するんですか?

瑞希に用意させた銃器を使えるように手入しながら、その

慣れた手つきが、逆に、奇妙な滑稽さを

「なんで?」

感じさせたのは、彼らが

「…ん?」

私も含めて、戦争など

「あなたが誘ったからでしょ」

一度たちともしたことがないにも拘らず

「誘ったけど、誘いに乗ったのは、」

指先は、学ぶのだった。

「…なんで?」

勝手に、人間を

「断ればよかったのに」

破壊するためのそれらの

「断って欲しいの?」

整備の、合理的で

「…どう?」

正しいやり方を。

「何が?」

おもろいように、私の

「気分は、どうですか?」

指先さえもが

「…僕の?」

器用にオイルをなじませ、

「嫌われ者になる気分は」

解体された機関銃をャン、と

「たぶん、日本人だけじゃない、おそらくは」

確か皇紀が呼んでいるフィリピン人が

「世界中の良識ある人間が僕らを」

組み立てながら、義人に何か

「軽蔑せざるをえないわけでしょう?」

耳打ちする。義人が

「…たぶんね」

笑った、その笑い声は、なぜ

「どう?」

あんなにも見事に笑って見せるのだろう?この世界に何も

「気分は…」

苦痛など存在しないと、そんな

「世界中を敵に回す気分は?」と私が言ったとき、…んん、と

 

「世界中があなたの敵ですよ」

 

鼻先で小さな笑い声だけ立てて見せたものの、皇紀の

私を見詰めた眼差しが、震えもせずに

 

「世界中は、あなたを、世界最低のくそと見なします」

 

「いいんじゃない?」それはそれで、と

私は言う。いいよ。

 

「救いようがないよね」言って、皇紀は

 

それは、まぁ、それで。

 

いかにも快活に笑った。

まー。

 

 

 


シュニトケ、その色彩 4

 

 

 

 

 

 

 

まー、Ma…ま、まーMa,

Ma、…と、何度か意味もなく、口先に私の名前らしい音声を何度か刻んだ跡で、子どもを腕に抱えたまま、Trangは私の顔さえ見ない。

眼差しの先に、大通の、…その、主幹道路。

この町を貫く、数本のうちの一つ、滑走するバイクの群れ、とろくさい車。その音響。

「何?」

言った私に、答えもしなかった。建築途中のままに放置されている、…この、半年くらいの間。ずっと、その、コンクリートの地肌と鉄筋を空に向かって曝した、背後の、未完成のマンションの廃墟のようなたたずまい。日陰はそこにしかなく、Trangはその、日陰に逃げて行くに違いない。

子どもが、…どこからどう見ても、単なるベトナム人にしか見えない子ども。彼女は汗ばんでいるかも知れない。直射日光に背を向けた、Trangの体だけが、かろうじて遮ってやっていた。

 

サトウキビのジュースを。

私はそれを二つ買いに行くために、大通を渡る。

 

一階部分に突入したらしい、自衛隊の

人間たちの、気配が、物音以前に足元で

揺れる。振り向き見た

皇紀が、足元に散乱した空薬莢を蹴飛ばした。音が

しないように、繊細に。ほほえましくさえ

想う。皇紀の背後に、ヘリコプターが音を

立てる。窓の

向こう、割れたガラスの

向うに。

 

どうやって、埋葬してやればいいのだろう?

叫ぶように、涙さえ出さずに。声だけで泣きながら、私は、どうやって、彼らを。ここの埋葬の流儀など知らない。あれほど、多くの人間が死んだのに、私はそれを学ばなかった。

埋葬してやれるのは、いまや、私しか残されてはいなかった。

彼女たちには。

 

どうやって?

 

「…青い。なんで?」

不意に、皇紀が言った。

…なんで

ダナン市の海岸沿いにバイクをとめて、私は

皇紀のために何か飲み物を買ってやろうとし、

大気に温度がある。「なんで、」夏の

「青いんだろうね、」その。

「空って」

なんで、

…青さの意味って何?

青いんだろうね?

言うだけ言ったあと、皇紀は声を立てて笑い、自分勝手に

空って。

その会話を終わらせる。

 

議員たちを片っ端から、出来る限り

銃殺してやった後で、ベランダに

向かう。皇紀が何かの檄文を読み上げる

予定だったが、彼女が、何も用意さえしていないことは

知っている。そして、時間もなければ余裕もない。後ろ手に縛られ

拘束された、その、この国の

首相は義人に尻を蹴り上げられながら、階段を上がる。赤い

絨毯の。愛が、私の尻を

叩いて見せた。いそいで、

いそいで。かすかな

上気が、その、

幼さを残した

頬の

皮膚に

あった。

 

愛は、両手を広げて見せたのだった。議事堂の中央玄関上部のベランダ。もう、ヘリが無数に旋回を始めていた。愛が、息を吸い込み、吐く。肺の一番奥まで、その、深呼吸。

「…やったね。」皇紀が言った。

流れ込んだに違いなかった。空気は。

彼女の肺に。東京の、地上を見下ろす、空の一番低いところあたりの。

「とりあえず、日本、死んだね」笑う。

Minhミンが、負傷したDanャンを介抱した。大した傷ではなかった。手首を捻挫したに過ぎなかった。

息を荒らげて、その苦痛を表現する表情が、直射日光に差された。小さい、悲鳴以前のかすかな声が押し殺された気配に振り向いて、愛が、背後から皇紀に触れていた。皇紀は微笑みもせずに、ベランダの向こう、東京都の遠景を見た。彼女の背中を、撫ぜるように、その、愛の、奇妙なほどに大人びて見えた仕草が、私を微笑ませそうになったとき、私は聴く。ヘリの音響、そして、風にはためいた衣類の、私たちのそれらの、無数の、それ。表情以前の、海の向うに目を凝らしたような表情を曝したままに、愛が皇紀の腰の改造拳銃を手にしたとき、撃つだろう、と、私はただ、そう想っていた。

一度手に握られた拳銃が発砲されないわけがなかった。耳に、乱射された銃声の残響の名残があって、誰の耳をも重くしていたに違いない。

銃口は、やや、その前方に投げ捨てられたままに、殆ど茫然と、愛が引き金を引いたとき、床の上に撥ねた弾丸は、Minhを撃ち抜いた。なぜ、と。

目の前で起こったことを信じられないのではなく、ただ、思考は沈滞し、その隙間を行動が埋めた。すでに私は愛に駆け寄ろうとしていたし、Nhgĩa-義人はMinhの死体にひざまづいた。

器用に、顎から下が吹き飛んだそれを。

あきらかに、皇紀は愛を許していた。

その場にいた6、7人の会員たちは愛を見ていた。

何を?…いいよ、と。ただ、いいよ、と。

愛は私たちに交互に銃口を向け、唇が一度かすかなふるえを見せた。痙攣したような、その。荒れている。

すこしだけ、彼女の唇は。

どこか茫然としたままの皇紀は、やがて、泣き出しそうな眼差しを、立ち尽くしたまま愛にくれた。愛は、ベランダと空の境界線へ、背中を向けたまま後退した。意図したのか、そうでなかったのか、誰にもわからないままだった。私は、愛の数メートル前方に立ったまま、後退する愛を案じた。そのまま、一度も振り向き見もせずに、バルコニーの終わりが近づいていって、どちらが?

堕ちるのが先なのか、引かれた引き金に落とされたハンマーが、また誰かを、銃殺するか、少なくとも負傷させるのが先なのか。

あぶない、と、私の声が、喉の内側だけで何度も愛を諭すが、見る。その背後には青空が広がる。

わずかばかりの雲を引き裂くように散らし、青い。

こっちに、と、私は帰って来いと、それをどういう身振りで伝えればよかっただろう?

遠方のヘリが旋回する。

遠いそこでの、騒音の大音響の存在を推測させる。急速な回転。

回転するプロペラの。その。

バルコニーの行き止まりのすれすれで、愛が銃口を自分のこめかみに押し当てて見せたときに、Nhgĩa-義人に掃射された機関銃が、愛の腹部を破壊する。

吹きだされた夥しい血が、その触れたものすべてを穢す。

愛の、添えられた手のひらさえも。

首の皮膚が細かく痙攣しているのを見た。愛の。震えた。私のまぶたが、そして、振り向いた肩越しに、皇紀は長く、息を吐いた。

それは、何ら、明確な感情をは伝えない。

ベランダの手すりにもたれかかって、いっぱいに背をのけぞらせれば、傷付いた皮膚は内臓をこぼれさせたが、もはや出もしない声で、その時、愛は叫んでいたに違いなかった。

或いは、悲鳴だったのか。ひっくりかえるようにこぼれ堕ちて、愛の身体は墜落した。手すりに血痕だけを残した。名残のように。

 

考えてみれば、遠方のヘリは報道のそれに違いなく、一体何人の人間たちが、あの殺害を見たのだろう?

それに、やっと、十分後に気付いたとき、明らかに、目に映るものの風景の、その気配の差異の意味を知った。それらは、明らかに、今まで見たこともなかった気配の色彩を曝していた。わたしたちは、今、明らかに、日本中から、例外なく憎まれていた。

殺しても殺したりないほどの憎悪が、私たちの周囲にあふれかえっていることに気付いた。

その差異が、もはや、世界が曝した色彩それ自体として明らかだった。同じ青が、全く違う色彩を曝し、わたしたちを憎しみ、ただ、私たちの無残な破滅だけを心から祈っていた。

二度と、立ち直れはしない、無慈悲なまでの、無残さを。

ただ、わたしたちに。

バルコニーに身を乗り出して、議事堂の路面を確認したのは、一人、義人だけだった。

首を振った。

そんな事は誰もがわかっていた。

愛は死んだ。まだ自衛隊は総力攻撃をしかけない。

屋内に撤退したわたしたちは、皇紀にそれぞれの目配せをくれ、もはや、作戦などありえないことなど理解していた。

あとは、私たちの完全な、留保無き自由時間に他ならなかった。

後ろ手の男が、ベランデ、尻を上げたまま顔で這った。

Minhの死体は放置されていた。

Nhgĩa-義人は一階に降りて行く。実戦を再び交えるために。数人が後に続く。…こんにぁあんっ、と。

その声は皇紀の声だったが、「こんなのか、…」と。

そう言ったに違いない、表情を失って、うな垂れた皇紀の眼差しに、それが悔恨だったのか、納得だったのか、確認するすべはなかった。

 

                                                                                                   …どっちにしても

「…くそ、だね。」皇紀は言って、唾を吐いた。

 

後ろ手の男が這いながら、よじった眼差しに、胸焼けしそうなほどの殺意が、あるいは憎悪が、充満していた。

 

皇紀の体から、…硝煙の?煙った、鉄の酸化した臭気が

夥しく

 

その男が、一国の官房長官かなにかだったことに気付く。

名前は忘れた。

いまや、この国に政府など存在しない。

空を、明らかに強気なヘリが無数に飛び交い、拡声器が聞き取れない音声を木魂した。

無政府国家の、無政府軍隊が、いま、私たちに牙を向く。

 

朝、六時。

私を揺り起こした愛が、暇つぶしにつぶやく。柾也さんって…

「生まれ変わったら何になる?」

何って?…何?

 

生まれ変わったら、と、愛が言ったのは、その時、私たちを誰も相手にしている余裕がなかったからだった。会員たちは《維新》の準備に追われた。大量の火薬と火器をそのままトラックの毛布の上に積み、シートを掛け、こんなもんで大丈夫だよ。そう言ったのだった。皇紀は。日本でこれだけの火器がトラックで輸送されるとか、だれも考えてないから。

馬鹿だからね、政府も日本人も。

まったく、全部。…みんな、…ね?

「何に、なりたい?」

お前は?言った私に、「君は、何になるの?…生まれ変わったら。」

「愛?」

うなづきながら微笑む私に、「何にもならないよ」

「何で?」

「知ってるから。」…生まれ変わりなんて、存在しない事。

諭すように…愚かな、馬鹿な、愚鈍な、私を諭すように、愛は、その、聴く。

わたしは、彼女の声を。

聴いた。

 

寄せ集めの机ででたらめにバリケード化されたドアが、何かの爆弾で吹っ飛ばされる。

煙の向うから銃弾が飛んでくるのを待つ。背後、ヘリが窓の外、すれすれの至近距離に接近している。

待ちきれなかった。彼らの発砲など。

振り向いた私は、拾い上げた機関銃を向けて、乱射する。

ヘリに向かって。

その轟音と、空中に静止しした躯体の、かすかなブレの連続。

叫び声さえ立てない。

見た。感じられた反動。胸に。

背後で発砲される音響の、一斉の掃射を聴く。

 

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

愛は、いつも、ささやくように笑う。

どんなときも。あの、母親を殺して仕舞ったときですら、落ち着きを取り戻した後で、私に笑いかけて見せたその強がった笑顔から聴こえたその笑い声は、あの、ささやき声を乱して、重ねたような音色。

誰からもかわいげがないと言われたに違いない、ふてくされたような顔つきを、そのまま日差しに曝してまぶたを一瞬直射した、バイクの反射光に瞬く。見る。その、通り過ぎるバイクの、ミラーのきらめき。

声を立てて笑った私を咎めさえしない。

柿本さんはね、と、その頃はまだ、私のことを苗字で呼んでいた。出会ったばかりの。…死にかた、結構やばいよ。

 

…柿本さんは。聴く。…ね?その。

鼻にかかった笑い声。…その。…ね?

ん。…「本望だね。」私は言って、相手にしない。

「むしろ、…ね。」どうせ、死ぬなら。

未来が見えるんです、言った。いつだったか、会ってすぐ、愛は。深刻な顔をして、「頭、変?」言った私を、藤井加奈子は見向きもしないで、「なに?」

「未来見えるらしいじゃん」…あー、…ね。

それ。…ん、

って、…んー。

「何?」

加奈子の、堀が深いとはいえない顔にも、日差しは翳りを作った。

いつもだから。あの子。「ずっとそう、もう、ずっと、」と、ずぅー………っっと。うんざりしたような声を作りながら、加奈子は微笑む。「…何て?」

「何が?」

「なんて言った?」

「…え?」

「あんたの末路。」笑う。Trangの目の前で、故意にすれすれに「…何て?」接近された唇から、吐かれた「まんこやろうの末路は、」息に、かすかな「…どうだって?」匂いを感じさせる。「…んー」口臭と言ってしまえば、その繊細な、微妙な匂いに対して失礼な気さえする。匂う。かすむような、潤いのある、体臭とはまた違った、その。

「血まみれで吹き飛ぶって。」言った瞬間に笑った加奈子の、大袈裟な笑い声が、向うのNhgĩa-義人を振り向かせた。

…ん?

なに?

短パンだけで、日差しに肌を曝し、海岸。

ダナン市。都市の片面をすべて海に支配された観光都市。

光る。義人の病んだようにさえ見える純白の皮膚が、白い照り返しをさえ、まぶたに与えた気がする。

皇紀は、彼のいわゆる《非=工作員》の煽動のために、サイゴン経由で韓国に渡っていた。それは、Nhgĩa-義人が私に耳打ちした。

重大な秘密であるかのように。

「いいじゃん」…ね?

何が?「馬鹿、」…見たいの?俺が、血まみれで吹っ飛ぶの?

「いーよ、いい。それ、いいー…」自分勝手に独り語散る加奈子は、義人の肩傍らの、自分の娘を見る。

地元の人間たちは誰も水着など身につけず、短パンとTシャツでそのまま入ってしまうこの海で、いかにも外国人風に、水着を着せられた、その。愛。

藤井愛。

美しいとはいえない。鼻がひしゃげすぎている気がする。日差しの下で、光線を味方につけることさえ出来ないその素顔は、醜くはないが、明らかに不出来だった。

一瞬、猜疑心に駆られた眼差しを私と加奈子に交互にくれ、義人は愛に泳ぎを教えてやるはずだった。

水が怖くてしかたのない愛に。

顔を洗うのにさえ、時間が掛かる。

毎朝の営み。息を止め、決意する。おびえた眼差しが、何かを探してさまよう。何を探しているわけでもないことなど、本人が一番よく知っている。

恩寵を期待している。水に、顔をつけなくてすむ、その、意味不明な何かの恩寵を。そして、仕方なく、諦めのうちに、ややあって決断する。

待つ。

決断が実行される時の到来を。

苦しくなった息を継ぎ、蛇口をひねった水の流れ、その音響だけを聴く。

愛は耳を澄ませた。

感性をならし、どこかで麻痺させた後に、指先でその水流に触れた。

指先に触れる、水の流れがそこにある。

視界の端にだけ、その留保なき実在を確認した。

指先で、運ばれた水滴が、愛の唇を湿らせる。

…水を飲むときでさえ、目を閉じなければならないのに。

晴れた空の下に、海が広がっていた。

一思いに顔が水をかぶったとき、愛は凄惨な表情を曝して、荒らげながら、息を継いでいた。

空港に、おトモダチ的な子を迎えに行くの、と加奈子は言った。その、私がいないと駄目な子だから、と、私は気付いていた。加奈子が、何かの嘘をついていることには。明らかにその眼差しにはたくらみがあって、何も、大きな問題ではない。いつもの癖だった。他人を嘲笑って見せるような、いたずらな、そんな。

ダナン国際空港まで、早朝、迎えに行った加奈子はなかなか帰ってはこなかった。あるいは、すでに、わたしは彼女が迎えに行っていること自体を忘れていた。空港からホテルに「明日、あさ、」帰ってきたときに、「早いんだよ」思い出したのだった、私は「…なんで?」加奈子が「迎えにに行くから。」掛けてきた「…空港に」電話に「…来るんだよ」その、めずらしい「誰?」音声通話。何?「おトモダチ的な?そういう存在、みたいな…ね?」帰ってきた。…え?「なに、それ」だから、…さ。「あいつ、わたしが」空港から。「いないとだめだから。」ああ、と、私の「何にも出来ない。」想いだした?その「…自分のお尻もふけないんじゃない?」声を聴く。加奈子は、「…舐めてやらないと。…ね?」一瞬沈黙し、「猫ちゃんみたいに」…会う?「生まれたての、」いつ?「…ね。」いま。…なんで?「ずいぶん年増の子猫ちゃんだから、…」暇だから。それに、時間が「…ね、………ん。」もたないんだよね、この子と二人でいても。と、加奈子は言った。傍らの少女を顎でしゃくって見せて。

いかにも地味な少女だった。何歳?

14…だっけ?

「柿本さん、…」愛は、言った。愛って言うの、この子「柿本、…」愛?「まさや、さん…」そう。

愛する、の、愛。

「会ったこと、あった?」不意に振り向いて、愛を見やり、視線も外さないまま、不意に私は加奈子に言った。「…ん?」

「俺、この子と」

愛は微笑むのだった。やっと、私に会えたように。

ふたたび、ここ、日本を遠く離れた、異国の地で。やっと。「…ないない」未来が見えるんだよ、この子。

加奈子の笑い声を聴く。…あたるよ、結構。わざと立てられた加奈子のその「見てもらう?あんたも、」笑い声はいつも不快にさせる。「将来、どんなに」私を。「不幸な人間になるか?」

「ばか」

「絶対、そう」

「なんで?」

「だって、くずじゃん?…人間の。」愛は、表情さえ変えずに、私に上目越しの微笑をくれ続け、笑っていてさえも、この少女にはかわいらしさがなかった。「…でしょ?」いつも、下半身が重くて仕方がないと言いいたげに、左右にぐるぐると、尻を揺らしながら、歩いた。二本の足で立って、地面を這うように。

なにか、現地の食べ物、食べたいって。言った加奈子に従う。タクシーを捕まえて、Búnブンという現地食を食べに行くのだが、「ほんとの、現地食でいいの?」タクシーの外の風景に「いんじゃん?…喰わないのよ」一瞬たりとも視線を投げないまま、「空港でも、なにも」スマホのゲームが音を「…なーんにも、」鳴らす。「まともな料理、いっぱいあるのに。」…外人向けの、…ね。

Búnの中に入った、骨付きのまま砕かれた豚肉を口に含んだ瞬間に、愛は吐いた。

 

水着になった愛は、下半身にだけ肉をつけていた。豊満な、いかにも女じみた下半身の上に、痩せぎすの上半身が乗っていた。本人の趣味なのか、加奈子の趣味なのか、或いは邪気があるわけでもないいつもの嫌がらせなのか、真っ平らな胸のビキニに、あからさまなパットが、いびつな曲線を作り上げていた。

すがるような目を、Nhgĩa-義人にだけ投げた。愛はもはや、私を信用などしていなかった。何の事実があるわけでもなく。自分を助けてくれるはずがないことだけ、彼女ははっきりと確信していた。

現地の食べ物を口に入れるたびに吐き、ファーストフードには絶対に入らない。インスタントラーメンさえも。

三日もたてば、すでに、店に連れて入ることなどしなくなっていた。結果はわかっているから。

テイクアウトでホテルに持ち込んだそれらを口にし、何かの機会に、吐く。時にはトイレに間に合い、ときには駆け込もうとし乍ら、床に崩れるようにして倒れこみ、床を汚す。

からだをくの字に曲げて。きれいに、尻だけ突き出して。

胃液を吐く。黄色い、消化液の臭気を大量にまとわせた、それ。

愛の眼差しが、揺らぐ。

愛はその表情いっぱいに、ただ、純粋に恐怖をだけ曝していた。

心情は理解できるのだった。背中を向けた、その背後には海が広がっていた。膨大な量の水が、そこにあふれかえっていた。彼女にとって、それはどんな風景なのだろう?

すくなくとも、視界の中では、すぐに果て、尽きてしまい、空と触れ合って消滅する、惨めな、水溜りのようなこの、慣用句として母なる海、と呼ばれるその青い色彩、その匂いは。

囃し立てるように、義人が笑う。「お兄さんみたい…」加奈子が独り語散た。

 

 

 


シュニトケ、その色彩 5

 

 

 

 

 

 

 

…ねぇ。

加奈子が言う。

海にさえ、視線を投げることなく。指の先で自分の髪の毛をいじって。

その毛先が、いじられるままに、癖をもって行く。

なんか、話してよ。

何を?

なんでも。

どんな?

至近距離で、加奈子の息遣いが聴こえた。

声を重ねる。対話?もはや、そうではなくて。何もなかった気がする。語られるべきことなど何も。

日差しが砂を照りつけてきらめかせ、光。

反射光。

光。

それらの。

光、その、それら。

散乱する。

空をまっすぐに見上げたまま、義人に抱きかかえられて、愛は海に入って行くのだが、打ち寄せた波の水滴がそのつま先の周囲を濡らしたときに、聴こえないものの、彼女が声を立てたのが見えた。

海岸にざわめきがあって、無数の人々がそこを埋め尽くす。それらの物音の連なりの上に、波の音がかぶさって、その、リズムさえ刻まないでたらめな音響で耳の中を満たす。日本、どっち?皇紀が言ったことがあった。

海の向うをまっすぐ指して、私は言った。

あっち。

本当ですか?。

…たぶんね。その指先が、東のほうを向いていることは確かだった。

 

まるで、児童を虐待しているようにしか見えない。

愛は、身をこわばらせ、表情には、最早痙攣しかなかった。大量にいま、その耳の中を侵入した波の音が、彼女に膨大な水の生き生きとしたざわめきを実感させているの違いなかった。

青空に一直線に向かった眼差しは、一切のブレを見せない。その、あからさまに決意がある眼差しが、滑稽で、そして痛ましかった。泳ぐ、と。そう言ったのは、愛だった。

朝、寝起きの一番に、一瞬言いよどんだ後で、加奈子に言った。そう、加奈子は言った。

周囲の人間たちが、義人と愛とを避けて、自然に彼らのためのスペースが発生する。

Trangにも一緒に行こう、と言った。

加奈子からの誘いのLINEが入ってきたのは、正午を過ぎたばかりだった。駄目です。

Trangは言った。「陽に灼けます。」やめじぇっ、そう、…ひにじゃけまっ、じゃ、俺、ひとりで行ってくるよ。

やめじぇっ、あの女の人は変態ですから。Trangは言った。

見開かれた眼差しが、世界中の悲惨と、苦痛と、絶望のすべてをいま、まさに、たった一人で体験しているようだった。愛は、もはや、震えることも、痙攣することも出来ずに、完全に体を静止させて、腰まで水の中に沈む。持ち上げられ、胸に硬く押さえつけられた両手のこぶしだけが、力みすぎてふるえ、彼女にも同じように、時間が流れていることを照明していた。

波のたびに、義人の体が揺れ、愛の髪の毛が、ただ、無機的に揺らいだ。

「義人、そのまま、落としちゃえばいいのに。」加奈子は、微笑さえせずに、「…いや、ほんとに、」

そうしたら、泳ぐかも知れない。つぶやく。

すれ違いざまのベトナム人に甲高い声で話しかけられ、笑って、その不注意な一瞬を、背後から高い波が襲った。姿勢を持ち崩した義人が愛ごと海水に突っ込むが、腰程度の高さでしかない。背の低い愛でさえ、胸元までしかないはずだった。

義人が歓声を上げて、なにかののしり乍らたち上がり、周囲に笑い声がたつ。顔を手のひらで拭って、愛はいない。

一瞬、義人はたじろぎ乍ら、すぐに声を立てて笑う。沈んだ愛が、水死体のようにうつ伏せで浮かび、彼女は失心していた。

 

なぜか、陸に挙げた愛は、体中を真っ赤に充血させていた。

砂地にそのまま横たえて、その肌を直射した海辺の日差しは、急速に乾かせて行く。体を曲げて、わたしは愛の口元に頬を寄せた。水はもう、吐いた後だった。胃液と一緒に。胸に耳を当てる。鼓動は聞こえなかった。

生きているには違いなかった。

海水のそれに混ざった、人体の皮膚の強い匂いが、塩気にまみれて、鼻を差す。義人の笑い声はやまない。加奈子は、哀れむような眼差しを送るしかない。

 

「皇紀は、どこ行ったの」中国です、と義人は言った。次の日、…なんで?雨の日。「瑞希さんと」朝から、雨期でもないのこまかなに雨が降りしきって「買います。」

「…ん?」

「爆弾です。」爆弾?私は眉をひそめて、ホテルのロビーに、まだ人はいない。「練習します」フロントの人員以外は。朝の7時半。

「…何の?」

「爆弾の…」ビル、…ね、と、手のひらで爆発のジェスチャーをし、ゆっくりと振り下ろされていく両手は、倒壊して行くビルを表現したのかも知れない。

ばくだん、という発音が、外国人にとって非常に発音しやすい音声であることを、義人の正しい発音が証明していた。

「…ここで?」

うなづいた義人は微笑、いつでも、と、想う。この男には、悲しみを感じない。

自分が死んでしまうときにさえ、彼は微笑むだろうか?

たしかに、昨日の夕方、レンタル・バイクを飛ばして海岸まで来て、数分間の立ち話で分かれてから、だれも皇紀を見かけなかった。

Maさん、また、儲かります。」

「なんで?」

「…ビル、壊れますから」苦笑じみた笑い声を、私は立てる。

 

Trangと子どもは、家に置いてきた。

加奈子たちはまだ降りてこない。

開くエレベーターのドアはすべて、赤の他人を連れてくる。

何度かLineを鳴らしても、一向に出ようとしない。いつものことだった。

せかせておいては、時間に遅れ、呼び出しておいては、連絡不通になる。

部屋に迎えに行くほど、加奈子たちに飢えるているわけでもなかった。

コーヒーでも飲もう。わたしが言って、渋る義人を連れて、立ち去った。

クーラーの効き過ぎたホテルの、自動ドアが開いた瞬間に、湿った、肌寒い大気が、生暖かく肌に触れる。生き物に、不意に触れられたような錯角さえ起こし、不意に鼻で笑ってしまった私を、義人は不思議がりもしない。

義人が不機嫌なのは知っている。

昨日、加奈子が、彼をなじるだけなじったのだった。愛を殺すつもりだったのか?と、愛が、砂浜で意識を失い続けていた間中、完全な無表情を曝して、何も言わなかった、その存在感さえ消失していた加奈子は、愛が目覚めた瞬間に、抱きつきもせずに、ただ、…ん。

その、かすかな音声だけを漏らした。

かならずしも意味を持たない、しかし、そのとき、その瞬間に於いて、加奈子にとっては、まさにそれでこそなければならなかったそれ。

私はその音声に、むしろ、感情的な正確さを感じた。リアルに過ぎて、心臓の中を鋭利にえぐられたような感覚さえもがあった。

ん、と、その音声が、その音の質感の記憶を、私の耳にしばらく持続させ、頭が変です。義人が言った。

私にカフェのいすを引いてくれながら。加奈子さんは、頭が、悪いです。過奈子を、そして振り返った私の眼差しの中に、壊れています。義人は言う。

加奈子は、いきなり、涙を流した。

無表情なままで、前ぶりもなくにじみ始めた涙が両目を瞬間で充血させ、潤わせ、充満し、あ、と、こぼれると、想うまもなく、それは決壊する。

その瞬間、泣いてはいなかった。まだ。十秒とちょっと、その静かな洪水が続いた後で、加奈子が息をついた瞬間に、しゃくりあげ、無き崩れ、流された目がふるえ、もはや、おそらくは、すでにその視界はなにものをも捉ええてはいない。

為すすべもない。

かまわなくていいと、全身で訴えながら、一人で泣き続け、その同じ全身が、誰かの抱擁をさえ訴えていた。

すでに、私は眼をそらしていた。愛は目を開いたままで、焦点ゆっくりと合わせながら、意識ばかりか、人格を冴えゆっくりと取り戻されなけらばならなかったかのように、そして、ようやく開かれた唇が何かを言った。

聞き取れなかった。

読み取れもしない。

綺麗、と、きれー…、そう言った気がした。

あるいは、そう想いたかったのか。

たまりかねた義人が加奈子の肩を抱こうとした瞬間に、加奈子の平手がその頬を打つ。

義人は言葉もない。

私は気付かなかった振りをする。それが、礼儀で出もあるかのように感じられていた。愛は、もとから、何も理解してはいない。彼女の眼差しのすべてを、夕暮れかかった空の色彩が、占領しきっているに違いなかった。

顔だけ出しにきた皇紀はもう、帰っていた。

何をしに来たのだろう?バイクを飛ばして。暴力的なほどの運転に、数台の車とバイクにクラクションを鳴らされ乍ら。

頭がおかしいから、と、義人は左手に見えるホテルの入り口から目を離そうともしない。

駄々をこねるように、カフェに誘う私を拒絶したものだった。

数回の誘いに、ようやく乗った義人は、未だに納得できずに、いらだたしげに指と指とをこすりつけた。

何の意味があるのかは、わからない。「娘なの」

加奈子は言った。愛が身を起こそうとし始めるのと、同じだけの長い長い時間の後で、泣きやんだ加奈子は、「知ってた?」

「誰?」

「決まってる」

「誰?」

「愛」

「お前の」

「そう」

「…か。」…っか。…そっか。自分の頭の中に、それだけが、単なる響きとして連鎖していたのには気付いていた。

「…汪」

「…ん?」

「パパ、…ね。汪」

ああ、と、私は喉を鳴らす。「…たぶんね。」そう、…っか。にじゅうよんさいのときのね、そう、…なの。…あのこ、…なの。それら、「汪以外にいないんだよな。」加奈子の吐く音声の群れは、「インポの癖に」断片的に耳にふれて、もはや、海は暗い。

夜が、すでに訪れて、手の施しようもなく、夜が、ただ純粋に夜を曝す。

ダナン市。

亜熱帯の、そして海沿いの、かつ、(日本人にとっては)巨大な川の濁流に真っ二つに分断されたこの町は、夜になると、一気に肌寒い、生暖かなままの冷気に襲われる。

空は、地上が明るすぎるために暗く、寧ろ、地上の照明に彩色されて、ぼんやりと確認できる雲は、さまざまな着色を曝した。

一緒に食事に言ったときの義人は悲惨だった。

事あるごとに加奈子に罵られ、結局は何も言わずに、存在を消すことそれだけに専念し始めるのだった。

ただ、お手上げだ、と、このふしだらさを絵に描いたような、理不尽な女への苛立ちをかみ殺して、ときに、なんども私に流し目をよこす。

私は微笑むか、気付かなかった振りをするか、それ以外にはない。

 

昨日、Trangは言った。明日、どこへ行きますか?

明日?

うなずき、もはや、疑っているのでも責めているもでもなくて、単に確信を。

自分がいだききった確信を、彼女は、「明日?」

…俺?…わたし、ですか?言いなおす。教科書どおりに、そして、彼女が知っているはずの、その限りの日本語は、しかし、頭の中に羅列されるわけでもない、それら、語彙の群れ。

むしろ、塊りになって、結局は、私に口を開かせないで仕舞う、それらの。

夜、ベッドの上で、いつものようにTrangは私の服を脱がせた後で、それが、凄まじく苦痛を伴う行為であるかのように、吊り下げられた蚊帳の向うに、手を伸ばせば触れ獲るその距離、至近距離、と言っていいほどの、Trang、その身体。発熱体の存在。

自分の服を脱ぎ捨てると、疲れた息の音が、私は聴く。目を閉じたままで、その、彼女の存在が、立てる気配を感じるのだった。

子どもは寝ている。

もはや、死んでさえいるかのように、すぐそばのベッドの上のそれは、気配さえたてなかった。

苦痛と共に、供犠にふされるかのような。

重ったるい物腰のままに、蚊帳をあけて身を滑り込ませたTrangが、しがみつくように私の体の上、皮膚に、皮膚を重ねた。

息遣われる音を聞き、その音が、それと重なり合わないままに立てられ続けていた自分自身の呼吸音に気付かせる。

唐突に振り出した雨が、壁の向こうに鳴っていた。

光。通風孔、壁の、高いところに幾何学的に配置された開口。

差し込む、とは、最早いえないかすかな、おぼろげなその、光の群れ。開かれた眼は、しがみついたTrangの身体をは捉えない。

彼女も聴くのだろうか?

私の呼吸の音、そして、その向うに聞こえ始める、自分の、その。

音。

雨の。

屋根、その。トタンを打つしずかな音響が、樹木。

庭の樹木の群れは、いま、雨に濡れているに違いなかった。細い、霞むような静かな雨に。

 

かなこ、言った。ニア、よしと。ニア、…あした、行きます。

言った私の、それらの音声はもはや無視されて、知っていた。私は。彼女は、私がすべてを、やがて壊してしまうことを確信していた。

 

愛は?

どう言うだろう?

未来が見える、と言った、その、愛は。

 

Trangが匂いをかいだ音がした。

体臭。わたしの、その。彼女はにおいはしない。そこに、当然混ざっているはずの自分の体臭をは。

私と同じように。

誰もが。

指先が、彼女の背中をなぜ、指の腹が、つややかなその触感に、いつものように軽い驚きを感じた瞬間に、想いだす。

それが、まさに私の指先に他ならないことに。

息遣う彼女の腹部、そして、胸部の上下を、私は感じていた。

 

「どう?」

 

…どう?

振り向いた愛に。私が声をかける前に、振り向いた愛に、遅れて声をかけた私は、「ね。」

 

「…ん?」

片目だけ、わずかに吊り上げた愛の、鼻から立った音声を聴く。

「どう?」

「未来?」

私の微笑んだ顔を見向きもしないで、眼をそらしたままに、この十二歳の少女。

初めて知った。

加奈子に子どもがいたことを。

自分の母親の影に、身をすり寄せるようにして、世界の、そのすべてを、加害者だとして明らかに認定してしまっている眼差しを、いつも曝した。

海鮮飲み屋の中は、混んではいなかった。

疎らに席が、転々と埋まって、…雨。

古に違いなかった。

大量の雲に埋め尽くされた空が、かすかな白さを持って、ただ、暗かった。

何か言いかけたが、愛は口籠り、「…何?」

え?

問い返した私に、一瞬、眼差しを投げるが、「知りたい?」

「何を?」

「何か。」

「どんな?」…未来なんか見えません。ただ、「見えるの?」でも、…ね?「未来が。…」知ってるだけ。なんか、「って、…ね?」知ってるだけだから「どうやって?」だから、何か「見たりするの?」見たりとか、そういう「夢とかで?」ん、…ね?「…例えば、」…なの。

なんで…、と言った私に、「はかないですよ。」

「え?」

「吐かない。」はかない。

履かない…吐かない…儚い…掃かない、それら。「もう、…」

曖昧な、その発音的な差異を迂回した中間の音声が、一瞬だけ私を混乱させたが、なんで、吐いちゃうの?

たしかに、私が言おうとした言葉を、「大丈夫、」

 

もう、…「慣れなかったの?」

「何に?」

「ん、…」

「食べ物?」

「そう。…もう、」

母親の声とは似ても似つかない。顔も。確かに、汪に似ているといえば似ていた。

確信を持たせるほどの類似ではなくて。

Trangは、嫉妬か、あるいは崩壊の予感、その確信を、何度も噛み砕きながら味わっているのだろうか?

いま、あの、広い、私と、彼女と、その子どもと、数匹の猫しかいない家で。

「辛かった?」

「なに?」

「あわなかったんでしょ?」

「あう?」

「…食べ物。」

ん、と。愛はつぶやく。

曖昧なままに。

流れた目線が床に転がったビールの空き瓶に撥ね、不意に、彼女は天井を見やった。

 

コーヒーを飲み干しても、出てくる気配のないその親子を捨て置くことにした。

雨はやんでいた。或いは、その、小康状態を曝すのだった。

路面も、樹木も、街路樹、ココナッツ、それらの葉の群れが濡れて、鈍い光沢を持って、風。

ハン川の流域を、義人とバイクで走った。

湿気を含んだ風。

風が枝と葉をざわつかせて、振り落とされた水滴は、雨上がりの空間に、細やかな雨のようなものを、降らせてみせる。

遠くに、山が雲をかぶって、その形態を崩壊させながら、降っているだろうか?

雨は、その、山の樹木と雲が触れ合った、その接点で。

 

「ずっと吐いてた」

「誰?」

「愛」

「ずっと?」

「げーって、」げーげーって、もう、「その音でさ、」そればっか。「目、醒めたの」ずうっと、「今日」そう。「今朝、」もう、ほんとに、「こもりっぱなし」

「愛?」

「トイレに、朝から、…で、」

「…ん?」

「寝てる。いま、」吐きつかれて、と、加奈子は言う。私の耳元に唇を寄せて。

ホテルの前で、待ち合わせ、バイクで着いたとき、加奈子はすでに外に立っていた。

私を持っているそぶりさえなく。

そうでなければならない必然でもあるかのように、ホテルの前の果断の、紫の歯を指先にいじる。

何気なく見上げた先の、十階に、窓を開けた愛が手をふっていた。「起きたの?」

「誰?」

愛に気付かないままの加奈子は、私の言葉の意味を理解できない。…飛び降りなければ、と。

そこから飛び降りなければいいけど。

わたしは想う。確信のように、彼女が、次の瞬間、そこから飛び降りる姿を、目の前に見た気がした。

愛が微笑む。

そこで、手を振りながら。

鼻の周囲に、加奈子の髪の毛と、香水の匂いが混濁する。

暮れかかった空が、優しい光線と、けばけばしいまでの色彩を、ホテルの先端の向うに曝した。

 

…昨日、新しいプランがありますよ、と皇紀が言ったときにも。「…何の?」海辺に日が沈み始めていた。愛はまだ、失心したまま、目を覚まさない。

「ひどいな…」

大気の温度が沈静化し、肌寒ささえ感られ始めて、背後の、車道のバイクの音響の群れを聴く。

「忘れました?」

意識さえしないままに。

なに?「占拠しようかなって」

「選挙?」…出馬するの?と言った私を皇紀は笑い、国会議事堂、占領しようかなって。微笑み。皇紀の。

夕日に照らされ、彼女の白い肌は桃色に近い、暗く茶ばんだ色彩を、「結構、簡単にやれちゃう気がする…」空はまだくらまない。

かろうじて。

色彩だけが濃く、沈殿した。

青が。

青いまま、空が。

夕焼けが上空、果てたそこで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.06.06.-06.07.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について