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大立替とは

 この世の中に、賎神が二千居ります。魔は「九千九百万」がこの世に存在しましたが、そのうち一千万が何らかの方法で今までに潰されました。

昭和二十二年以降、世界規模の大立替になるといよいよ大和民族の出番となります。

その時期が来るまで、日本人たる者は大和心に磨きをかけなければなりません。

大和心とは強きをくじき、弱きを助く、正義を愛する心です。

大和民族は、言霊力を先天的に授かっている民族であります。

しかし、人々は残念ながらこの言霊力を磨き抜こうとせず、曇る方にばかり傾いています。それも時代の風潮に流され、安きについているからです。

正しい神の時代になると、松風の音に桜の花が咲くようになります。

それに先立って現われるのが、大立替の世であります。それに備える使命を、教祖は背負っているのであります。

それでもご指示がなければ、教祖は世に出られないのであります。

例えて言うと国からの命令で、封鎖された封鎖貯金と同じであります。

金はあるけれど、時期が来なければ下ろせないようなものです。

如何に正しい神であっても、「天の時、地の利」がなければ神さまも勝手に動けないのです。

まあ、歌に「花は桜木、人は武士。大和魂を見せるぞよ」とありますが、そのようなものです。

この神さまを信じた者、今まで神さまから下されたご神示を絶対に信じてきた者は、神さまを恐れるものであります。


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神の御用

 まず、神の教えを行うために、何十年先の事ばかり考えているより、たった今から始めることです。ただし目先のことばかりに走る人は、心が磨かれていないので、人を見て法を説く事も出来ません。

神さまから見て御用のある人は、神さまがいざという時に使うのですから、そんな人は大事にして怪我をさせたくない、と世の中から隠してくれているのです。

やはり、神さまからみて御用のある人は、神さまに仕えなければなりません。

それぞれの役目により、神さまが使われるものなのです。

ですから、その時期に備えて役目のある人は、それ相応に修養を積まなければなりません。

心掛けの第一は、まず心を練らなければなりません。心を練るためには、教祖の云うことをきかなければなりません。

教祖は神の使い人なので、誰もが納得するだけの力が備わっています。

教祖は今この山奥でじっとしておりますが、時期が来ると世の人々がいやでも押し上げてくれますから、自分からは何も言う必要がありません。

逆にまだ心を磨けないで心が軽い人ほど、ぺらぺらと表に出て喋りたがるものです。

大立替の時期が迫ると、さまざまな人が現れてきます。そういう時期に備えて多くの人に接し、多くの体験を積んで、心を常に磨かなければなりません。 

さて、大立替が差し迫ると、第二のキリスト(救世主)が現れます。

終末になるというと、世の中にある宗教の多くは力がなくなり、今まで世に出ていた宗教が役に立たなくなります。そうなりますと第三の宗教が必要となるのです。

それで、大本の開祖「出口直」が降ろした大本神諭には、誠の神の教えが出現するという事が、書いてあります。

本当の神が現れても、それぞれの人の悪が強ければ、神の願いに叶わなくなると唱えたのです。開祖出口直は「大本には大本だけの使命がある」と宣伝して、国から弾圧を受けても止めなかった。そして、大本の王仁三郎が二代目を継ぐと、「神は一神しかいない。そして、その神が立場・職場によって色々と神の名前が変わっているだけである」と説明しましたが、これは現代の世相に合わせて説明したのです。

そして、王仁三郎は自分の事を「天にある神が、この世に降ったのである。我は神なり」と言って、盛んに宣伝したのです。王仁三郎は生き神さまとして、かなりの評判を呼びました。

そう言うことで、大層大本には人々が集まり学問のある人も多く集まったのですが、その殆どの人は雀・烏の類が集まっているのと同じでした。

昔、青森の幼稚園園長で今きよという大本の信徒がおりましたが、やはり同じようなものでした。例えば、「吾神が力を授けてやるぞよ」と人に力を授けても、その力を使う方法はそれぞれ悟る人によって、異なるというものです。

それで、それだけ心が磨かれていない人は、その力を使ってはならないと言い聞かせて、その都度止めさせたのです。結局、誰も神力を使えませんでした。

力が授かってもそれでは、なんにもなりません。本当に授かっているのかも分かりません。

また止めなさいと言われた以上、自分の我を通して力を使うことはどうかと思います。

やはり、神の御用をする人は、一を聞いて十を悟るような気持ちでなければ、神もその人を使えるものではありません。

そして我々は天なる八百万の神々に、一切を任せるようにならなければいけません。

人でも生計を委ねて任すべき人がいるように、神に対して全面的に任せるような心がなければなりません。

そうすることによって、天にある神と地にいる人が、合致するようになるのです。

天の理想を具現するのが、人の使命だと我々は知らなければなりません。

王仁三郎は、七十七歳で昇天しました。

彼は最後まで、神は立替をして世の立直しをすると言いましたが、どういう時が神の世であるかとか、何年何月何日と云う事は明言しませんでした。

例えば、ここにバクチ打ちがいるとしましょう。バクチ打ちがバクチをやっている時に、警察からこのままでは捕まえるぞと電話が入ります。

いついつ捕まるなあと相手も解り、悪に盛んだった者でも陰りが見えてくるものです。

それと同じように我々の世界でも、神界の写りが見えます。

そうなると神界で起こった事が我々の世界に、例えて云うと人の歩いた後ろに、影法師がついて来るように現れるのです。

そういう時期が来ると、北に真の神がおわしますとある。神さまは必ず出現する時が来ます。

その時期がくるまで、心静かに神さまの前に手を合わせ、無事に身を備えて待っていればいいのです。

神は電気のように、見えないものです。

電気が流れるように、それに反応して神憑かりは神憑りとして、神さまの御用をなしているのです。

そういう時期が来ると神は然るべき方法によって、人々に知らせるものであります。

では、そのような時期に備えて、我々信徒はどうして臨めばいいのであろうかというと、やはり大神條をよく読んで、皆修養に務めるように心掛けなければなりません。

それでは、大神條の解釈をいたしましょう。

第一条『上は定めて守るべし。この上を守らなければ、これ何事も出来ず。この上は上と上なり』。

この「上は定めて守るべし」とは、一番重い言葉です。これを忘れては、何をやってもダメであります。

要するに「誰が一番頂上であるか」という事を云うのであり、必ずこの言葉を忘れてはなりません。

では、大和山を信ずるには、一体誰を信じればいいのかという事ですが、大和山の場合には、まず一番上におられる天皇さま、そして教祖を信じなければなりません。

教祖に何を言いつけられても信じぬき、その人は教祖の全てを守らなければなりません。

教祖の言う事を守らなければ、何をしても駄目です。

第二条『心清く磨くべし、この心を磨かざれば何事も出来ず。この磨きは足を元とせよ』

この心を磨く事が出来なければ、役には立ちません。まず、その第一歩は足元からです。

自分の座っている畳の縁を踏まないように、足元から気をつけるよう心掛けなければなりません。

まずは土台です。その基本から、心掛けなければなりません。

第三条『悟心を開くべし。この悟りを開かずして、これ何事も出来ず。この悟りは善意にて』

この悟りというのは、何も学問でいう難しいものではありません。

お釈迦さまのように、一生懸命水行したり修行して悟るという、難しいものではありません。

「悟った。悟った」と言っても、ドンと何かに当たって行き詰まった時にこそ心の暗雲を払い、心を清くするようにして悟らなければなりません。

耳を引っ張られたら、それは「よく聴け。そっちに行くな」と神が仰っているのだと、悟らなければならないものです。

そして、自分を磨きあげるように、向上するようにと悟らなければなりません。

しかし、「自分をよく磨け」と言われて、逆にタンパラ(津軽弁で短気の意)だと、刀を持って相手をたたっ斬ってしまうような気持ちになる。それは良くありません

自分の悟りが至らない。まだ足りないと反省しなければなりません。

そういう時こそ、心のなかに鋏を持たなければいけない。

この鋏というのは、魔の首をはさみ、それを切るという事です。

一般に大立替になると、どうなるのだろうと心配する人も多いでしょうが、経綸の奥には奥の奥があるのです。我々が計り知ることは出来ません。

まず、枝は枝らしく、葉は葉らしく、自分の分というものを知って、自分を磨かなければならないのです。

なかには自分がそういう力があるからと言って、高慢になる人もありましょうが、そうなるとダメです。

天に向かってアシゲ(逆らうの意)するより、天に唾を吐くよりも、まず神が最も嫌うのは自高心です。

これがあると、なんにもなりません。人間の弱いところは、うぬぼれと慢心をしやすいことです。

魔は一瞬の油断から、人の心に入り込みます。くれぐれも注意して下さい。

まず神の役に立つ者は心を磨き、それぞれがその人の分、立場によって物事をなさなければなりません。

自分に出来ることがあったら、それで神さまのお役に立とう、持てる能力を十分に発揮しよう、と思わなければなりません。

松の世、神の世になると、人々は皇室が神の一族である、現人神であるという事を認めます。

これで松の世、神の世は完成し、大立替は終わるのです。

本当に神がこの世に現れるという事を、総ての人が認めればそれでよろしい。

時が到れば、それで全ては現実のものとなります。

そうなると神さまは、ちゃんと地ならしをしているものです。たとえ、障害があってもその障害を突き破れるだけの、地ならしが出来ています。

そうなりますと言うと、それ以上磨かなくとも、身から光が出るものであります。

かように、神さまは裏をかえして教えて下さるものです。

神さまは神経のおかしくなった人にも、教えるものであります。

だが、なかには自分の知識だけが先に立って、自分が先走りしていても気付かず、その結果怪我をしてしまいます。

ですから、手順として、まず山から木を伐り出し、枝を落とし、製材し、荒かんなをかけてからやるような手順で、基礎から始めなければなりません。

大立替という大へんな出来事のなかで、我々大和山の信徒たる者は身欲の信仰を捨てて、前に進むように心がけなければなりません。

神と共にある人は、決して困るものではない。神がちゃんと護るはずです。

世の中には、やれ戦争だ、内乱だと世を騒がしている人がおります。

そんな人でも世の中を救うことが出来ればまだ良いのに、ただ騒がせてばかりでは困ります。

自分の欲のみを考えている人には、肝心の事は全く聞こえないで、ただ恐ろしいものばかり見たり聞いたりしているものです。

大立替をただ恐ろしい、やれ大変だと言っている人もありましょうが、大立替になり神が出るという事は、子供の世界に親が出てくるようなものです。

我々神を信ずる者には嬉しい、喜ばしいことと思わなくてはなりません。

大立替というのは、魔の攻撃から救ってくれるものであります。

愈々そういう神が出て来られますと、神は魔を一人残らずやっつけてしまうのです。

そうなった時、みなさんが命を失ってはどうにもなりません。

なかには大立替で巻き添えに遭い、罪がなくとも命を落とす人もあります。そういう気の毒な人たちは、霊界で救われます。

死は人にとって辛いことですが、肉体という古い衣を脱ぎ捨て、新たな世界に旅立つことなのです。

罪なき人は、必ずや霊界の救いに浴するのです。

人に憑く魔を潰すためには、世の大変事により魔の憑いた人々と共に潰さなければならないため、嫌でも善人であろうと巻き添えに遭います。

神も辛いと思いながら、泣く泣くやっておられるのです。

魔を一掃しなければ悪人が益々世にはびこるだけで、いつまで経っても正しい世の中にはなりません。

大立替はそういう過程で起こる、大峠なのです。多くの尊い命が犠牲になるのは、神さまにとっても辛いことなのです。神さまですら断腸の想いでなされることなのです。

魔の憑いていない、亡くなられた老若男女(ろうにゃくなんにょ)は、必ずや霊界で救われるのです。

大立替の後、国境は撤廃され世界は一つになります。世界連邦共和国のようなものが誕生します。

大立替の後、日本は平和の象徴、つまり争いのない世界の模範国となります。

多くの国々が、日本に加えてくれと言うようになります。

それも、日本は世界の神々の大本であるから、その資格があるのであります。

ですから、その時期に備えて我々神の教えを信ずる者は、『心の眼をねむらせてはいけないよ。心の朝起きをせよ』と言って、信仰に励まなければならないのであります。

果たして、教祖がこう言ったああ言った、本当だろうかと疑う人もありましょうが、教祖の言った言葉は、実現するようになっています。

それは言霊の自由と言って、徳の高い人が発した言葉というものは、必ずや実現するのであります。 


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